柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
山下智久は〈弱さ〉を演じるのがよく似合う。それも特別なものでなく、誰のなかにもごく当たり前にある弱み。山Pはそんな〈弱い人間〉をテレビドラマ、とりわけラブストーリーのなかで印象深く表現してきた。
彼が出演したドラマのジャンルはさまざまだが、なかでも前回取り上げた『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』の救命医の藍沢先生や、『インハンド』の微生物学者・紐倉博士、あるいは『アルジャーノンに花束を』の高知能を得る咲人といった「天才」を多く好演してきた。その一方で、普通の「凡」な青年、そこにある小さな苦悩や葛藤を描く作品でも、彼の芝居は光ってきた。その最たるひとつが『プロポーズ大作戦』(フジテレビ系、2007年)だ。
山P初の月9作品であるこの作品は、ラブストーリーの金字塔として、往年の名作ドラマを振り返るバラエティー番組の特集などで、必ず上位にランクインして評価が高い。山Pのラブストーリーの代表作という印象をもつ人も多いだろう。そんなこの作品の真の魅力は、名作が往々にしてそうであるように、恋(の展開)自体ではなく、そこからみえる「人間」にこそある。
――あらすじは、幼なじみの礼(長澤まさみ)に想いを告げられずにきたケンゾーこと岩瀬健(山下智久)が、素直になれなかった過去を悔やみながら彼女の結婚式に出席する。そこに教会に住む妖精(三上博史)が現れ、哀れな彼にスライドショーの写真に写った時間に戻って、過去をやり直すチャンスを与える。そのタイムスリップを繰り返しながら、なんとか礼との運命を変えるべく奮闘する。でも過去に行っても、そう簡単に勇気ある行動がかなうはずもなく、運命も変わらない。そんな主人公が悲嘆に暮れながらも、恋心を抱えて懸命にもがく姿が切ない青春ラブコメだ。
山Pのラブストーリーの鉄板
山Pのラブストーリー作品を見渡してみると、ひとつの型(方程式)のようなものが存在することがわかる。現実のアイドルとしての山Pは、外見も内面も申し分なく整った「完璧な存在」として人々はイメージする。そのもとで、彼の配役はこんな構図が大半だ。
《現実の山下智久 + ひとつの弱点・欠点 = ドラマのなかの山P》
たとえば、『ブザービート』のプロバスケット選手の直輝は、肝心の局面で自分の本領を発揮できない。『SUMMER NUDE』の朝日は、3年前にいなくなった元カノをずっと忘れられず前へ進めない。そして『プロポーズ大作戦』のケンゾーも、礼に「好き」を伝えられないまま彼女が別の男性と結ばれる結婚式まで来てしまった。
外見は抜群のルックスで、性格も明るく謙虚さもある。現実の山Pから抱くイメージも相まって、これらの人物は一見パーフェクトに近くも映る。でも彼らはみな、ある一点の弱さを抱えていて、それがネックになって夢や幸せをつかめずにいる。それは「あとひと踏ん張り」ができない、「もう一歩の勇気」をもてない、そんな人間誰もがもつ〈普遍的な弱さ〉だ。意気地がない、根性がないという言い方もできなくないが、彼らはとことん「不器用」というのが正確だ。どこか完全な印象が漂う人間ほど、抱えた〈小さな弱さ〉はより際立ち、その人物の人間味も深くなる。そうした役回りを与えられたときの山Pの力は、ピカイチなのだ。
ケンゾーは何度過去に戻っても、絶好のタイミングで告白の言葉が出ない、女心がわからず相手をいつも怒らせてしまう、大事な場面で恋より友情を優先してしまう……、とにかく恋に不器用だ。でもそれは、彼が人一倍優しくピュアなため。その人間らしさが憎めない魅力を放つ。だがそう感じられるのは、演じ手が山Pだからというところが大きい。
ひたすら過去を後悔し、タイムスリップしても「自分は何をしてるんだろう」と煮え切らない言動をとってばかりの自分を嘆く。その心境も表情も、くよくよしてネガティブ極まりない。でもケンゾーからは不思議と、「男のくせに」という気持ちにさせる湿っぽさや軟弱さをあまり感じない。むしろ強く印象に残るのは、どこまでもひたむきで、一途な想いを寄せる。それしかできない〈純な人間〉のイメージだ。もっとこう行動したらいいのに……そういうもどかしさは随所にあるが、彼の後悔や苦悩は「男のもの」ながら、性別を超えた「人間的なもの」としてしっかり際立つ。だからこそ、強い感情移入を誘い、万人の心に響く。
現在のジェンダー観が恋愛ドラマに反映してくるのはもっと先のことだが、山Pの役作りと演技は、どこか時代を先取りさえするように、人間普遍の「ピュアな心情」を引き出してフォーカスする力に長けていた。
人間としての告白劇
最も象徴的なのは、最終回だ。ケンゾーはついぞ果たせなかった告白を、結婚スピーチを通して実現する。その姿は潔く勇敢だ。それは「男をみせた」瞬間にちがいないが、そのクライマックスは「強くたくましい男」になったとか、「男らしい」終着をみせた――そういうラブストーリーが強調しがちな光景とは少々違った趣だ。
大好きな相手を強引に奪い去るのでもなければ、恋心を隠したまま身を引くのでもない。彼がみせたのは、必死に涙をこらえながら、正直にまっすぐ彼女への想いを伝える。その一点に全身全霊をささげようとする純粋な姿だ(実際、そこではラブストーリーお決まりのキスやハグは一切なく、ひたすら彼の告白だけを徹底して描いたのも特徴的だ)。それは恋とか男女を突き抜け、人間として「大切な人へ大切な想いを伝える」誠実さにあふれ――その重要さを激しく突きつけながら、悔いなく生きようとする健気な身ぶりだった。
そこで怒濤のように押し寄せる感動、いや感銘は、ケンゾーが「男として」というよりは、ひとりの「人間として」素晴らしかったためだ。だからこそ、彼の言葉ひとつひとつが、また頬を伝う涙が、とびきり尊く美しく映った。
事実、視聴者が劇中のケンゾーにもっぱら向けたのは、「男らしい」言動や勇気への期待ではなく、純粋な「がんばれ」というエールだった。そして彼がもがき苦しみながら「一歩踏み出す」ためトライを続ける姿が、恋愛ごとを超えて、観る者それぞれの“生き方”へつながり重なる、普遍的なものとして受け止められた。それはケンゾーに「人間」をみていたためにほかならない。
ニュートラルな役作り
いうまでもなく現実の山下智久は、メンズビジュアルとしてのカッコよさは抜群だ。それはケンゾーにも反映していて、立派な二枚目だ。だがここが重要なのだが、山Pの役作りは、不思議と「男くさく」なりすぎない。これは俳優・山下智久を評価するとき、見逃してはならない特質のひとつだ。
顔立ちが整ったイケメンながら、同時にずば抜けたキュートさもあわせもつ。その絶妙なブレンドで成り立つ山Pが放つオーラは、屈強でワイルドというのとは違って、どこかマイルドでソフトな質感を強く含んでいる。そんな彼の素材の長所がうまく注がれることで、人間味あふれるケンゾーは生まれ、王道のラブストーリーながら「男の物語」に染まらない「人間劇」が実現した。
このころの山Pは人気急上昇の最中で、“ザ・アイドル”というイメージが強く、女性からの人気が圧倒的な主軸だった。そんななかで(『野ブタ。をプロデュース』の彰に続くようにして)このニュートラルな役のこなしが、彼のドラマ作品に高い好感度をもたらし、性別を問わず広く受け入れられていくひとつの重要な基点にもなった。
スター性の脱色
役作りでいうと、キラキラしたスターながら「大衆」感、具体的にいえば「等身大の青年」を醸し出す点でも、この時期(20代)の山Pは秀逸だった。ケンゾーの特長は何といっても、妙に親近感を覚えさせるところにある。それは彼の性格や言動によるだけでなく、たたずまいから感じる部分も大きい。その美貌、つまり美男子という点では世間離れした部分も確かにある。だがそのなかにも、絶妙な素人っぽさを伴う「リアルな若者」感がしっかり立ち上がる。
物語の外ではアイドルとして輝く山Pだが、ひとたび劇中の人物になると、スターの影や色をナチュラルに中和してみせる。遠く離れた手の届かない人物から、身近に感じられる人間へ。山下智久は「アイドル」を柔軟自在に脱着することができる。そうした点でも、彼の役者力は優秀だ。
男くささの抑制、そして輝きの脱色。こうした持ち前の「オーラのコントロール力」に長けているのが、山下智久の凄みだ。そしてそれが、この作品で肝となる〈弱さ〉の説得力――つまり強靭な男でもなければ、ひどく現実離れした王子でもない、限りなく「大衆的な青年」に近い人間だからこそもちうる〈弱さ〉を、手応えあるかたちで表現するのに貢献してうまい。ケンゾーのピュアな心も、その好感度の高さも、そのために視聴者が経験する没入度の質と度合いの深さも、山Pの身体を通してこそ可能になった成果というべきだ。
「男」になりすぎず、キラキラ感を主張しすぎず、普通の人間っぽさをじんわり醸し出す。それを役作りで巧みにやってのけ、多くの人に響く「大衆性」を作品とキャラに持ち込む山P。そこには、俳優として天性のものがある。
「弱い人間」を見つめ、描き切ったエンディング
物語ラストでケンゾーがたどり着いたのは、弱い自分をさらけだし、弱い人間なりの精いっぱいを体当たりでぶつけることだった。弱くても現実へ懸命に立ち向かおうと必死にもがいて告白した。そのスピーチのあと、教会でひとりむせび泣く姿も含めて、彼に突出していたのは、一歩踏み出せた強さというよりも、その勇姿に「弱い部分」を隠さず、「弱さ」があふれていたところ。そこに(魅)力があった。
――その一端としてぜひ注目してほしいのは(これは筆者が山Pのラジオ番組『山下智久 Cross Space』〔TOKYO FM系〕に出演したときに話した大学での考察のひとつだが)、スピーチのときの手だ。「好きでした」と告げるとき、ケンゾーの両手はポケットにキザな感じでかかっている。第1話の最初のスピーチのときはないが、スピーチをやり直して告白する最終回では、手が印象的に映る。そこには、彼が懸命に「弱さ」と闘って“強がる”ことで、ようやく果たす告白の状況がよく現れている。彼は弱さを克服してその場に毅然と立っているのではなく、最後まで「弱い人間」だった。その象徴ともいえる手は、台本に基づく意図的なものでなく、無意識に演じたと山Pは語った。それはケンゾーの弱さ、もっといえば人間の弱さというものを深く理解してこそ可能な、心が通った繊細で卓抜した演技だ。
最終的に作品が届けるのは、普段強くある人間がのぞかせる弱さではない。もともと弱い人間が全力で強くあろうとして、それでも、そのために、どうしようもなくこぼれてしまう弱さ。それを露呈する姿、最後の最後まで「弱さ」を生きる光景が、どこかに必ず同じ弱さを抱えて生きるぼくらの胸を、必然的に激しく揺さぶった。
「強くなった人間」ではなく、とことんまで「弱い人間」を演じて、役者・山下智久は見事だった。
〈弱さ〉を生きるアイドル
こうした人間的な弱さ、不器用さにふれるとき、演じ手本人である山下智久のあるエピソードを想起せずにはいられない。それはソロになって初のライブツアー『エロP』(2012年)での「山下智久へ」と名づけられた自分への手紙だ。スクリーンに映る手書き文字を朗読するかたちで披露された内容は、前年のNEWS脱退にふれた熱いメッセージだった。そこで山Pは、3年以上迷い続けてソロの道を歩むという答えを出すまでの葛藤を、ファンへの想いとともに赤裸々に語った。
お前がもっと6人をまとめる力があれば、みんなを引っぱる力があれば、ファンをもっと喜ばすことも出来たし、お前がNEWSを脱退するということにならなかったかもしれない。(略)お前が器用だったら一人の仕事もできたし、こんな気持ちにならずにすんだはずだ。(略)普通の人が出来ることでも、お前は出来なかった。グループと個人の仕事をバランスよくすることができなかった。
グループを離れるという苦渋の選択をしてよかったと言ってもらえるためにも、がんばらないといけない。そのために「口べたで不器用なお前が一言だけ、言うんだ」と締めくくって、マイクスピーチへ続く。そして「これからもどうぞ応援よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げた。
ファンにまっすぐ向き合って自分の言葉で説明するその実直な姿は、鳥肌が立つほどに素晴らしい。それは、たとえファンでなくても、彼の経歴を十分知らなくても、胸に迫る。
なぜなら、傍点をつけたように、ここでの山Pは惜しみもなく自分自身の「不器用」さ、つまり完璧では決してない「弱い人間」をさらけだして語っているからだ。プロのアイドルとしてファンに向けた責任感によるものとはいえ、簡単には語りにくい脱退について、ここまで身を張って想いを伝えるのは相当に勇気がいる。そしてこの手紙は、己の力不足はもとより、グループを辞めたことでいろいろ感じた人々に「謝りたかったけれど言う場もなく、時が過ぎ」ていった、さまざまな後悔に押されたものでもあった。それに一区切りをつけ、後ろを振り返らず、どんなに困難でもひとり前へ進んでいく。一度しかない人生に、悔いを残さないように。その姿勢と想いには、どこかケンゾーと重なるものがあった。
もちろんこれは作品とは直接関係しない。だが、不器用で弱い、そのことに誰より自覚的で、だからこそもちうるかぎりの力とやり方でもって、それを露呈してでも素直な想いを自分の言葉で届けたい。そんな人間味あふれる生き方を実践する山Pであればこそ、『プロポーズ大作戦』とケンゾーの役も成立したように思えてならない。
大切なバイブルとして……
ぼくだけではないだろうが、『プロポーズ大作戦』は一定の間隔で無性に観たくなる作品のひとつだ。そのたびごとに、若い山Pが届ける「弱い人間」の姿に、人間が生きていくために大切なさまざまな学びや気づきを新鮮なかたちで得る。それはまるで人生のバイブルのようだ。そして、この作品はラブストーリーという以上に、立派で上質なヒューマンドラマであって、何よりその点で優れているのだと毎回強く思う。ケンゾーに、それを演じる山下智久に、ぼくらは〈人間〉を学ぶ。
そんな大切な場=時間として『プロポーズ大作戦』は生き続けている。
筆者X:https://x.com/prince9093
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