第2回 国道16号と私――あるいは『国道16号線スタディーズ』の私的企画意図

西田善行(法政大学社会学部非常勤講師。共編著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕ほか)

 国道16号線(以下、16号と略記)についての編著を書くと周囲に漏らすと、意外なほどその沿線に住んでいる、あるいは住んでいた人が多いことに気がつく。それもそのはずで、都心から30キロを環状につないでいる16号沿線には、850万人を超える人々が住んでいるのだ(1)。これは千葉県や埼玉県の人口を上回り、神奈川県の人口に迫る規模である。こうした人々のなかには16号を頻繁に利用していた人もいれば、単に横切っていたにすぎない人、まったく利用した記憶がない人もいる。そもそも日常的に16号を利用している人でさえ、自分が普段利用している道が「16号」だと必ずしも認識していないのかもしれない。
 郊外論は自らの郊外体験に多くをよっているという指摘があるが(2)、本書でいえば16号をめぐる個人的体験の差異や、より広く国道とどのような付き合い方をしてきたのか、その国道をめぐる個人史が16号の見方を左右するとも考えられる。そもそもなぜこの『国道16号線スタディーズ』という企画を進めたのかという私的動機には、16号をめぐる私の個人史が関わっている。そのため、ここでは私の個人的な16号との関わりについてふれておきたい。

幼少期の私と16号――市原市

 私は16号沿線地域の、千葉県市原市の出身である。幼いころは京葉工業地域にある企業で働く父に連れられ、何度となく16号を行き来していた。多くのトラックやタンクローリーが往来する産業道路としての16号は、私にとって父の職場を連想する空間であり、田畑と住宅が混在するスプロール的郊外住宅地だった自宅周辺や、家族で買い物に出たときによく通った、イトーヨーカ堂(スーパーマーケット)やすかいらーく(ファミリーレストラン)、ラオックス(家電量販店)、ケーヨーホーム(ホームセンター)、ロッテリア(ファストフード)などが並ぶ駅の近くの県道とは異なる外部空間だった。また、家族で車に乗って千葉市へと出るときにも16号を利用していたため、「外へ出る」ための道路でもあった。16号沿いにあるロコボウル(ボウリング場)やステーキハウスなどにも何度か足を運んでいたが、そこに向かう際には往来が激しい16号を避けて「手前(16号より内陸側)」の道を利用するのが常だった。

国道16号から見た京葉工業地域(2016年3月7日撮影)

高校時代の私と16号――木更津市

 高校時代は木更津市にある公立高校に通っていて、その近くを16号のバイパスが通っていた。駅までの通学ルートとは反対だったため毎日通っていたわけではなかったが、近くに持ち込みができる行きつけのカラオケボックスがあったので、バイパス沿いにあったマクドナルドでセットを買って夕方までカラオケをすることもよくあった。ただし16号は横切ったり、バイパスの下を通ったりしただけで、道路として利用することはなかった。
 私が高校生として木更津に通っていた1990年代前半、木更津の駅前にはそごうをはじめとする大型ショッピングビルが立ち並び、街として活気があったが、その後そごうをはじめ多くの商業施設が駅前から撤退し、16号などのロードサイドのチェーンストアが活況を呈していった(これについては本書で詳述する)。

大学時代の私と16号――相模原市

 大学に入り神奈川県の相模原市で一人暮らしをするようになっても近くに16号が通っていて、初めて16号が首都圏を環状に走っていることに気づいた。また引っ越しの際、当時親戚が住んでいた相模大野まで16号を移動し、チェーン系のレストランなどが密集するロードサイドの景観に、工場が並ぶ市原の16号との違いを感じたことを覚えている。大学にはスクーターで通っていたが、朝夕に渋滞してひどく時間がかかる16号を極力避けて裏道を使うまでに1週間とかからなかった。また、一度16号を使って横浜までスクーターで行こうとしたことがあったが、トラックにあおられて怖い思いをし、疲れて町田で引き返してしまった。

相模原の16号沿いにあるニトリモール(2016年3月6日撮影)

 こうして16号との関わりを振り返ってみると、少なくとも大学を出るまでの二十数年間、16号の近くに住んでいたものの、私にとって16号は少なくとも親しみがもてる対象ではなかったことがわかる。徒歩や自転車、あるいはスクーターで移動する私にとって、16号は外的な存在だったのだ。それはたとえ父が運転する自動車に乗っても同じことであり、自分の意思でそこを通ることができない場として16号を経験していたのである。
 このような16号をめぐる経験は、16号に広がるロードサイドへの否定的感覚へとどこかつながっているのかもしれない。ただその一方で、特に何もないと思っていた16号という1本の国道が、父をはじめとする家族の記憶や高校・大学時代の個人史を想起させたことは意外な収穫だった。歴史性をもたない16号や、あるいは別の国道であっても、そこを生活のなかで利用した経験は、それぞれのライフストーリーのなかに想起可能なかたちで根づいているのではないか。「16号と私」を振り返って改めてそのように思う。


(1)総務省統計局によると、2010年の16号沿線市区町村の人口は852万人となっている。16号沿線地域の統計的基本情報については書籍でふれる。
(2)西田亮介「郊外と郊外論を問い直す」、宇野常寛編『PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて』所収、宇野常寛、2009年

 

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第1回 「国境」としての国道16号線

塚田修一(東京都市大学、大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』〔青弓社〕ほか)

 国道16号線(以下、16号と略記)が都心/郊外の「境界」としての性質を有していることは、しばしば指摘される。その16号が文字どおりの「国境(Border)」になっている個所がある。それがここ、福生である。
 16号の向こう側は、アメリカ空軍横田基地である。許可なしに入ることは許されない、アメリカ合衆国なのだ。

2016年9月27日撮影

にじみ出ていたアメリカ

 かつては、この横田基地から「国境」を超えてにじみ出すアメリカンな文化や雰囲気を求めて、多くの若者やアーティストが福生に集まった。
 例えば、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(講談社、1976年)は、この福生が舞台である。また、1973年にここに移り住んだ大瀧詠一は次のように語っていた。

「福生のよさ?そりゃ住んでいる仲間たちが素晴らしいということだね。ここには、朝8時半から夕方の5時まで働くような、スクウエアな人種はいないんだ。みんな金はないけど、ミュージシャンになろうとか、絵描きになろうとか、そういう目的をちゃんと持ってる。つまり、みんなビビットに生きているのさ。それが素晴らしいんだヨ」
この福生から、深夜放送『ゴーゴー・ナイアガラ』のワンマンDJを流している大瀧詠一クン(27)は、“わが街”のよさを語る(1)。

 ――だが、現在の福生の16号沿いを「歩いて」みて感じるのは、こうしたかつての「アメリカンな匂い」の希薄化である。
 確かに、16号沿いには多少「アメリカン」な店舗が並んでいるし、16号と沿うように走るJR八高線やわらつけ街道沿いには、古びた米軍ハウスが現在も点在している。だが、現在の福生では、何よりも「基地の街」としてのリアリティーが希薄化しているように思えるのである。

「聖地巡礼」の頓挫

 映画『シュガー&スパイス 風味絶佳』(監督:中江功、2006年)は、「基地の街・東京―福生(ルビ:ふっさ)。アメリカの香り漂う街角で、少年ははじめて“本当の恋”を知る」と銘打っていたように、ここ福生の「アメリカンな香り」を存分に演出した、ほろ苦いラブストーリーである(原作は、山田詠美の短篇小説『風味絶佳』〔文藝春秋、2005年〕)。
 しかしながら、福生でこの映画の「聖地巡礼」を試みるならば、早々に頓挫するだろう。
 JR福生駅前や横田基地のフェンスなど、確かに福生でロケーションがおこなわれた場面もあるが、この物語中で「福生のアメリカの香り」を演出している肝心な個所であるガソリンスタンド――グランマ(夏木マリ)風にいえば、「ガスステイション」――や、主人公2人(柳楽優弥と沢尻エリカ)が同棲する米軍ハウスを、ここ福生で探そうとしても無駄である。実は「ガスステイション」(原作では立川にある設定になっている)は木更津に作られたセットであり(2)、2人が暮らす米軍ハウスは埼玉県入間市の「ジョンソンタウン」――狭山にあったアメリカ空軍ジョンソン基地の跡を利用して、「ハウス」と街並みを保存している地域――で撮影がおこなわれているのである。木更津も入間も「16号つながり」であるのはただの偶然だろうが。
 ここで、ただ「アメリカ文化が廃れている」ことを指摘したいわけではない。
「基地の街としての福生らしさ」を「福生以外の場所」によって演出しなければならないほどに、「基地」の存在が日常に溶解してしまっていること――すなわち、福生の街と「基地」とが、象徴的な意味で「地続き」になってしまっている、ということが言いたいのである。
 その意味で、もはや福生は「基地の街」らしくない。
 では、「国境」としての16号のリアリティーも考え直さなければならないのだろうか。

「国境」が無効になる日に

 いや、そういえば1年に1度だけ、ここ福生がまぎれもなく「基地の街」であることを強く意識せざるをえない日がある。
 毎年横田基地で開催されている、「日米友好祭」である。この日は横田基地が開放され、基地内のアメリカンな匂いを思う存分味わうことができるため、非常に大勢の人がこの基地を目指して福生を訪れ、16号を横断していく。福生がまぎれもなく「基地の街」として意識される日である。
「国境」が物理的に無効になる日に、「基地」の存在が強く意識されるとは、なんとも逆説的な話だが。


(1)「FUSSA=若き芸術家たちの限りなく透明なブルーの世界」「女性自身」1976年7月29日号、光文社、51ページ
(2)宮崎祐治『東京映画地図』キネマ旬報社、2016年、240ページ

 

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