余白と作品――『児童虐待と動物虐待』を書いて

三島亜紀子

  まったくの雑談ではじめたいが、昔、この題にある「原稿の余白」の実物が好きだった。教科書や授業で配られるプリントに残された空白の白い部分が、なんだか好きだった。さて、何を書こうか、創造的な気分にさせる。嬉々として絵や文字で埋め尽くした。中学時代の英語の教科書のそれは、立派な「作品」となり、捨てるには忍びなくていまも保管してある。
  そんな私だったが、なかなか手が出せない部分があった。表紙だ。ツルツルして書きにくい。ところが、今回出版の運びとなった拙稿『児童虐待と動物虐待』には、すでに「作品」が存在している。同書の裏表紙には、編者として尽力してくださった、矢野未知生氏の「作品」が印字されているのだ。
  これをはじめて目にしたとき、なんとなく、自分のものでない居心地の悪さを感じた。虫歯を治療したあとに残る違和感のようなものである。   これには、裏話がある。矢野氏が書いてくださった草稿を書き替える機会が与えられていたものの、ボヤッとしていて私が原稿をメールで送付したのは、印刷に回したあとのことだったらしい。次の原稿がお蔵入りとなった。

幻のカバー裏原稿
「核家族化や都市化の進行によって急増している」とされる児童虐待を発見・予防するために、法整備や社会制度の設計が推進されている。この社会政策は、人々の<自由>を引き換えにしながら、私たちの社会を変容させつつある。それを、児童虐待や動物虐待の歴史的背景、「世代間で繰り返される虐待」「児童虐待や少年犯罪にリンクする動物虐待」などの語られ方、虐待と母性愛神話の関連性などから析出する。児童虐待/動物虐待とソーシャルワーカーの関係を考察して、現在のケアのあり方や、専門家によるリスクコントロールを称揚する現代社会の心性を解読する。

  あまり変わらないが、本の裏表紙と比べると、微妙に違うことにお気づきかと思う。矢野氏の文章を尊重しながら、私の考えを入れたつもりだった。違和感があった一方で、矢野氏が私の文を読み込んでくださり、彼なりの理解をしてくださっていることに対してありがたいとも思っていた。だから、この原稿がカバー裏に載らないことがわかったときも、あーあ、と思ったぐらいだった。
  それより、カバーの裏側にある文章とカバーの内側にある活字の集積に違いが存在することに対して、ある種のおもしろさを感じた。そういえば、これまで、私あるいは私が書き出したものについての「作品」を目にすることがなかった。そして、私と私が書き出したものに関する「作品」の間に少し違いがある。母が私をモデルに(似ていない)人物画を描き、それが作品展で展示されるさまを眺めていたときのことが思い浮かんだ。
  受け入れられるにしろ受け入れられないにしろ、私の手を離れ、私の知らないところで、いろんなふうに理解される。それが流通するということなのかな、ともぼんやりと考えた。
  でも、「余白」とはいえ、しつこくお蔵入り原稿を載せているのは、やはり気がかりだからだろう。というのも、「はじめに」にも書いたように、題名そのものが誤解を招く恐れがあるからだ。単なる興味本位なんじゃないかと。そして、その立場も、あいまいと受け止める人もいるだろうなという懸念もあった。また「社会福祉学の人間」か、それとも「社会学の人間」か、というような不毛な所在に関する名乗りが要求されるだろうなという予想もあった。
  エクリチュールうんぬんの話じゃないが、書かれたものと現実との間にはずれがある。また書く人は読む人が自分なりに解釈するだろうことを折り込んで書く。これを言い換えると、書かれたものを読む人には、自分なりに解釈する自由があるといえるのかもしれない。ああ、私はプラトンのように潔くハラをすえられるのだろうかと。
  今日は、最後の校正原稿をファクスで出版社に送った日だ。その仕事自体、それほど時間はかからなかったが、それ以外に何をする気にもならず、前に読んだことのあるマンガを読んで無駄に過ごした。そしておもむろに本稿を書き始めたのだが、ひとしきり書き終えてみると、この「余白」には、不安な気持ちが吐露されている。これが出版日を前にした私の気持ちなのだろう。もちろん、そこには、一仕事終えた喜びもあるが。