早川洋行『流言の社会学――形式社会学からの接近』マージナルな社会学者

 最近、わが家の連れ合いと子どもたちは「犬夜叉」というテレビアニメにはまっている。これは、犬夜叉という半妖(妖怪と人間の合いの子)と日暮かごめという女子中学生が「四魂の玉」を求めて旅をする高橋留美子の作品である。
 犬夜叉は、外見上は犬の耳をもつということ以外、なんら人間と変わらないのだが、メチャクチャ強い。妖怪や悪い人間を次々と倒してしまう。おそらく妖怪退治にかけては「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)と並ぶ日本のヒーローだろう。そういえば、ゲゲゲの鬼太郎も、人間でも妖怪でもない幽霊族という設定だった。マージナル(境界的)なものがいちばん強い、という命題は普遍的なものだと思う。
 最近、社会学の世界は専門分化が進み、それは研究者世界のタコツボ化、研究者のおたく化を生んでいる。一般人ばかりでなく同じ社会学者であっても分野が違うと言葉が通じないのである。これではいけないという危機感が、最近の、学会における社会学教育への関心の高まりにも表れている。
 もちろん、スタンダードな教科書を作ったりカリキュラムを組んだりして、社会学教育体制を確立することは重要なことである。しかし、なにより大切なのは研究者一人ひとりが、みずからの研究を誰にでもわかる言葉で語ることだろう。私が本書で心がけたのもそのことである。
 アカデミズムの世界と一般人の世界、そのどちらにも安住しないで橋渡しをするような存在、私はそういうマージナルな社会学者でありたいと思っているし、そういう思いから、本書は社会学者のみならず、「一般人でもわかる社会学書」として書かれたものである。
 この本の出版後、ある学会で「流言の専門家」と紹介され面映ゆい思いがした。私は流言の専門家では断じてない。ただの社会学者であり、流言は研究テーマのうちの一つであるにすぎない。とはいっても、私が流言について考えはじめ、論文を書きはじめてからすでに10年以上経つ。その間、違うテーマの研究もいろいろ発表してきたが、私の研究の全体を知らない人には、そういう誤解が生じてもしかたがないのかもしれない。
 流言を研究テーマにしたのは全くの偶然だった。その契機について述べておくことにしよう。
 大学院生のころ、たいへん厳しいというかたいへん怖いS先生に指導を受けた。ゼミのときには、院生はみんな、報告内容ばかりでなく、言葉や態度、服装や髪形にいたるまで気を使った。先生のご機嫌を損ねないよう、授業中は緊張で院生たちの血圧は確実に20上がっていただろう。
 あるとき、院生仲間と話していて、人にはそれぞれ「うそパワー」というものがある、という話になった。うそパワーとは、たとえうそであってもそれを他人に信じ込ませてしまう力である。詐欺師たちは、その自身の能力を商売に使う人びとである。もし、うそパワー・オリンピックがあれば、彼らはもっとまっとうな生き方ができたにちがいない。ヒトラーやスターリンは、こうした市井の詐欺師のレベルを超えて、かなりのうそパワーの持ち主だったと考えられる。歴史は、うそパワーはけっして悪用してはいけない力であることを教えている。
 しかし、私たち院生には、ヒトラーやスターリンやそのへんの詐欺師たちには騙されないという自信があった。では、私たちも騙されてしまうような、強力なうそパワーをもつ人物がいるとすればそれは誰か。私たちは、S先生であるという認識で一致した。誤解なきように言うが、もちろん、S先生が大ウソつきであったということではない。S先生の言うことが真実であるか虚偽であるかにかかわりなく、私たち院生たちには説得力をもっていた、ということである(そのS先生の実名は「あとがき」に書いておいた)。
 そんなバカ話から、そもそも真実と虚偽は誰がどのようにして決めるのか、という問題に興味をもった。これは、意味世界の問題であり現象学的社会学が取り扱ってきたテーマである。そして当時注目されていたハーバマスのコミュニケーション的行為に関する議論とも隣接する問題だった。この問題を考えていくうちに、いつのまにかそれは流言論に結実したのである。
 だから、この本は、戯言(たわむれごと)から生まれた作品である。本書で論じたように、真面目な言説よりも不真面目な言説のなかに、思わぬ創造の芽が潜んでいるものである。
 さて、自称「半妖」あるいは「幽霊族」である、早川洋行のうそパワーがどれほどのものであるか。それはこの本の売れ行きが示してくれるにちがいない。