柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
山Pの全体像へ
ぼくの人生(何を考察し、何を語ることに生きる時間を使うか)の転換点にもなった『SUMMER NUDE』。この作品に出会う前も、過去の山Pの代表作は多く鑑賞して、見入ってきた。そのなかで、「山Pだからこそ出せる味」や「山Pなればこそ作れる感動・感銘」というものも感じ取ってきた。でも立場的には、どちらかというと「役者としての山P」と「アイドルとしての山P」を区分けしてみていた感が強い。よくある「アイドルでもあり役者もこなす」的な言い回しや見方には否定的で、役者として演じるぶんにはあくまで役者として評価する、そういう視点が当時のぼくには強かった。
でも山Pの場合、それは間違いかもしれない、それではぜんぜん足りないかもしれない。つまるところ、その見方では、前篇で語った「たそがれる背中」のショットを含め、目の前の『SUMMER NUDE』の魅力を十分言葉にできそうもない。そんな想いがドラマの回を重ねるにつれ、どんどん膨らんでいった。
テレビの音楽番組やバラエティー番組への出演、あるいはときどき目にする雑誌やニュースの取材を通じて、大まかながら「物事に実直で真摯に向き合う人」、そんなイメージを山Pに抱いてはいた。でも、彼の人となりをつぶさに確認したり、検証するまでには至っていなかった。だが主人公・朝日の「たそがれる背中」を、そして『SUMMER NUDE』を支えているものは、山Pのアイドルとしての歩みなり生き方と分かちがたい。そう感じられてからは、山下智久を全方位的に捉えたくて、彼に関するあらゆる資料を集め始めた。だがそれは、想像以上に大変な作業で、長い道のりだった。その始まりの一端はこんな具合だ。
資料探しの旅
手始めに、まだ観ていなかったもの、観たけれど忘れかけているものも含めて、過去の映像作品の(再)鑑賞にとりかかった。最寄りのTSUTAYAで全タイトルを借りて一気見した。お店に許可をもらって、レンタルケースの各巻のジャケットもコピーして集めた。――そんなのDVD-BOXを買えばいいじゃないか、と思われるかもしれないが違う。ひとつのドラマで5巻前後からなるレンタルジャケットの背面にあるリード文やショット画像はレンタル商品に特有のものだ。そこに何が使われているかは、その回でどんな山P(演じる主人公)に焦点を当て、象徴的に見せたいかの情報であり、もっといえば「小さな作品」でもあって、山Pとその作品が人々にどう受容されていったかを示す貴重な資料のひとつでもあるのだ。
そしてドラマとなれば、やはり当時の番宣のたぐいも一通り見ておきたい。だがこのあたりにくると、研究者のはしくれで資料調査が得意なぼくでも、そう簡単には進まない。どこかの図書館やウェブサイトに求める映像がそろっているわけではないからだ。そのため、ひとりの収集ではすぐに限界がきた。そこを助けてくれたのが、山Pのファン(sweetie)である。
ドラマのことを「Twitter」で毎回つぶやくなかで、反応をくれた初期のフォロワーの数人が、入手が難しい古い資料や知らない情報を惜しまず提供してくれた。その経験もあってしばしば言っているが、「アイドル資料のいちばんのアーカイブ(保管場所)はファンにほかならない」。だからこそファンを置き去りにしたアイドル論というのは、原理的にありえない。そういうぼくなりのアイドル考察の価値観やスタンスもこのときから作られていった。
アイドルの細部を再発見する
そうして周辺資料もコツコツと集めながら、山Pの本質に迫るべく、いざドラマの過去作を見始めると、その演技の細やかさや、年齢とともに変化していくイメージ、役のうえに表れた固有の色やクセ……。気づいたり気になったりしてメモすることは想像以上に多く――つまりテレビドラマだけでも、山Pの長所や特性は相当量、表れているわけだ――、個々のシーンやショットを自分用にスマートフォンで写しては、それぞれにコメントを付けて蓄積しないと追いつかなかった。
あるとき、ドラマやアイドルの細部をどうやってそこまでじっくり観察しているのかと学生に聞かれて、そのメモの一部を見せたことがある。すると「ガチオタでもあるんですね、尊敬します」と言われて、喜んでいいものか戸惑ったことがあるが、とにかく当時のぼくは真剣だった。それほど山Pの魅力は、一見わかりやすいように思えて、その実は奥深かった。アイドルはその大衆的人気もあって、世間がなんとなく共有する「イメージ」で存在を捉えた気になっていることが少なくない。それだけに、アイドルの実際を確認し、ひもといていくと、それまで見ていなかった「細部」とそこにある凄みにぶち当たらざるをえない。その量と度合い、そして衝撃は大きい。それを漏らさず押さえようとすれば、オタク顔負けの熱量が必要とされもするのだ。
山Pの一挙一動が見逃せない
最終的に時間は相当かかったが、山Pの全映像作品をコマ送りで止めながらじっくりと観察し、スローでも見ていく。その分析のやり方はあまりに愚直すぎて、笑われるかもしれない。でもそのおかげで、山Pの「らしさ」の主要なエッセンスにさまざま気づくことができた。細部を観察して再発見できたひとつは、『SUMMER NUDE』でいえば山Pの「笑顔の瞬発力」だ。
作品冒頭にも描かれる、物語序盤のシンボルともいえる元カノが写った大きな看板に向けた、主人公の毎日の挨拶。「おはようございます」と言って、看板の彼女にほほ笑む。過去の作品でも「山Pはいい笑顔をするなぁ」と感じていたが、それはあくまでざっくりで、本質はわかっていなかった。山Pの真骨頂は、笑顔をふりまいたり、笑顔でいる間より、笑顔をみせるその一瞬の力にこそある。表情を大げさに動かして笑うのではない。ごくわずか、クールな顔の筋肉を緩和させて「ニコッ」とする(ニコニコでもニコリでもない、ニコッだ)。そのちょっぴりの「一瞬の笑み」――そう、笑顔というより笑みと呼ぶのがふさわしい――それがなんとも優しさあふれるキュートさで、瞬間的に幸せのオーラを放つ。それも、見ている側がホッとさせられるような幸福感でだ。彼の笑みは、そんなパワーと質感に満ちている。
山P演じる朝日は夏が似合う爽やかなキャラではあるが、天真爛漫で常にニコニコしている人物というのとは少し違う。過去の恋愛も含めて葛藤をさまざまに抱え、ため息をつく機会も多く、言葉にはしないが、常に何か思い悩んでいてポーカーフェイスでいる時間のほうが圧倒的に長い。それでも決して暗い印象で染めず、仲間たちの中心でほがらかな雰囲気を担って立つ。
その重要な部分を支えているのが、会話の一端や、誰かのやりとりを見守って放つ「一瞬の笑み」だ。ときにクスッと鼻息を混ぜて見せる彼の笑みは、ただ自身の喜びやうれしさを表すだけでなく、作品世界の折り目に“癒しある光”を与え、ストーリーの絶妙なアクセントやテンポも担ってうまい。そして何より、新たな恋愛によって過去の恋(とその傷)が上書きされて心がほどけてゆく。つらい過去と前に進めない自分に縛りつけられてグッと入っていた力みが和らいでいく。そうした心の機微を――その数秒で観る側もほっこりさせながら、繊細かつ的確につかむ表現力に長けていた。
朝日は、中間のテンションで仲間の真ん中にいて、バランスよく均等に周りに目を配るタイプ。そんな立ち位置が自身のプライベートに近いものがあって、等身大で役を演じられそうだ。そう放送前の取材で山Pは語った。実際『SUMMER NUDE』の節々には、生の山Pが活きている感じが強い。そのナチュラル具合が、作品の魅力を格段に高めていた感じだ。飾らない山Pの小さな笑みにも、(バラエティー番組やドキュメンタリーと照らしてみるとよくわかるが)たしかに演技ながら、彼の「素」がもつニュアンスが相当に混じっている。自然体の演技とよく言うが、神格化されたイメージが強くつきまとうアイドルが、現実にもちあわせている何気ない人間味を、文字どおりごく自然なかたちで役のうえに表現できるのは、なんとも感慨深くていい。
作品の細部に目を向ける。そうしたミクロな分析で毎回追いかけていると、作品のある特色にも気づいた。
物語は夏の日を少しずつ進んでいくが、主要舞台であるカフェ&バー「港区」の店内にある日めくりカレンダーが、各場面でいつも映り込んでいる。これを追いかけると、誰が何をして、どんな恋の展開があったか。物語のなかの主要な出来事が「〇月〇日」にあったことかわかる仕組みになっていた。それを年表形式にまとめて「SUMMER NUDE年表」なるものを自作した。さらにカレンダー風にして、放送後から今日まで、夏が来るたび、一日一日を「今日は山P演じる朝日が〇〇をした日だ」と確かめながら、まさに物語と一緒に過ごしてきた。
よくいえば、作品(コンテンツ)愛が強い。悪くいえば、マニアックな自己満足かもしれない。もちろん、作品の作りや構図を解明したい、そうした研究者的な関心もあった。でもそれにもまして、この年表を作らせた根底にあったのはやはり、山Pの一挙一動を逃したくない、そんなシンプルな想いだった。だから、これは作品分析の成果というよりは、ぼくにとってかけがえのない財産で、朝日と山Pがくれた贈り物のように感じて、(いつまでも公開しないまま)大事に手元にしまっている。
アイドルと「待つ」ということ
「たそれがれる背中」のショットを眺めながら、資料をあさっていくうちにあらためて気づいたことをひとつ記しておきたい。あまりにも当然のことなのだが、それゆえ、山Pに関心をもちながらも『SUMMER NUDE』に出会うまで、そこへ十分な意識を向けずにきた自分が恥ずかしくもなった……そんなことだ。
それは、朝日が元カノの香澄を「待つ」という営み、それを人間ばかりか、世界が抱える宿命であるかのような威厳を醸しながら山Pが演技しうるのは、ほかでもなく彼がアイドルだからこそのリアリティーのためではないか、ということだ。アイドルであるがゆえの「待つ」という経験値が、あの背中には反映されているのではないか。そんな当たり前に、あるときハッと気づいた。
次の新作まで、あるいはコンサートで会える日まで、ファンがアイドルを待つ。こんな言い方をよくするが、待つのはファンだけではない。アイドルの側も待つ。あまりにも基本的なことだが、ぼくらは「アイドル=待たせる/ファン=待つ」というイメージばかりをもって、もう一方の側面を軽視しがちだ。
自分の考えや想いだけで、アイドルの仕事は進まない。ときに忍耐強く、ファンが喜ぶ発表や報告ができるまでタイミングを待つ(特にコンサートはその強度が大きい)。そんな長い時間の経験のうえに「アイドル/ファン」の関係も絆も構築されていく。それは役者でもミュージシャンでも同じかもしれない。でも、その濃度や密度はアイドルでは各段に桁違いなはずだ。それを大胆にいうなら、アイドルは作品自体よりも、コンサートでじかに触れ合うよりも、互いに相手を「待つ」時間のほうがはるかに長く、その尊い時間のなかにこそ、アイドルは存在し現象している、ということになるかもしれない。
こう考えると、待っている対象や中身はまったく異なるものの、ドラマのなかで朝日が何年も相手を待ちわびて「たそがれる背中」と、そこから自然とにじみ出るものは、アイドルとして体験してきたことと強く結び付いていて不思議ではない。しかもアイドルとしての山Pの軌跡は、ほかの誰にもまして「ひとり」ということと密接に関わり、特殊な道をたどってきてもいる。グループに属しながらのソロデビュー、そしてグループからの独り立ち(そしてこの数年先には事務所からの独立もある)。どれも前向きな挑戦としての「ひとり」になる選択と行為だが、そんな背景を抱えた彼だからこそ、内なる自分とひとり闘う朝日の味も深く演じられたように思う。
そして、そんな山Pの歩みはいつも「強い信念」で貫かれてきた。自分自身の決断を、その先に見据える夢をまっすぐに信じる。彼自身のその力も、それを外からみていて受け取る雰囲気もずば抜けている。しかも夢に向かって、力強く、がむしゃらに道を切り開くというより、日々の隠れた努力を重ねながら、忍耐強くじっくり、どっしり構えるように未来を目指していく。それが山P流だ。その生き方の色も、気が遠くなるほど根気強く「待つ」朝日の想いと姿を、下支えしていたように思える。
近年の言葉から拾えば、山Pは「頭に浮かぶビジョンっていうものが全ての現実を作りだしていく」、だからこそ「どう強くイメージできるかが大事」で「5年後、10年後の自分の姿を常に思い浮かべながら行動」してきたと、それまでの人生を振り返って語っている(「山下智久『Sweet Vision』インタビュー」、「傷つくことを恐れずに挑戦していく」)。このたくましくポジティブで前向きな彼の人生哲学に照らせば、どこに向かって進めばいいかわからず、3年間も立ちすくむ朝日は正反対である。でもそんな山Pが演じればこそ、過去にしがみつく朝日の後ろ向きな姿のなかにも、帰ってくるはずがない元カノを待ち続ける決断も含めて、信じるものにまっすぐ進む「たくましい生きざま」と、希望をかすかに感じさせる「強い気持ち」が、うっすらと、でもたしかににじんで、簡単には否定できない魅力ある主人公像になっていた印象だ。
終わりなき山下智久論
こう書いてくるとやや強引な分析に映るかもしれないが、決して空論ではない。というのも、さまざまなアイドル=役者の評を読むとき、アイドルとしてもちあわせる雰囲気やオーラにふれた役(作り)への評価はときどきあるが、もっと本質的な部分に踏み込んで「アイドルであること」と「役者であること」を、その人独自のキャリアを交えながら捉える。そういう役者論や演技論は、現代アイドル論では知りうるかぎりで決して多くはない。
もちろん「現実の山P/役の山P」をつなげ、重ねることが必ずしも正しいわけではない。だが「アイドルであるがゆえの役者性」とでも呼ぶべき観点と評価を、たぐいまれな歩みを続ける山Pにあっては、体系立てておこなうことは欠かせない作業のように思えてならない。朝日の「たそがれる背中」に深いものを感じながら、そんなこともつらつら考えつつ、資料収集と考察はあの日から終わりなく続いている。
山下智久をしかと語るために、その原点になる『SUMMER NUDE』を真正面から精確に語るために、ぼくは、朝日が香澄を待った3年では足りず、波奈江が朝日に片想いを続けた10年でも足りず、ドラマの放送から12年たってようやくこの連載を始められた。
いつも「夏」がくるたび、頭のなかでテロップが流れる。
『SUMMER NUDE』から〇〇度目の夏……。
そして気づくと、いつも『SUMMER NUDE』について語ろうとして語らないまま「夏」が終わってしまう。でも今年は、そのほんの「さわり」だけだが、連載に一呼吸をつくように、こうして語ることができた。語るべきことはこれからが本番なのだが、また気づいたころに『SUMMER NUDE』に戻ってくることにしたい。朝日の元カノ・香澄も言っていた。戻ってくるの!
筆者X:https://x.com/prince9093
Copyright Koichi Kakitani
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。