第5回 アイダ・シュトゥッキのこと

 昨年末のこと、レコード会社の担当者から「アイダ・シュトゥッキ(Aida Stucki)というヴァイオリニスト、ご存じですか?」、こう言われて私は反応できなかった。担当者は続ける、「ムターの先生らしいですよ」。渡されたCDはTAHRAの663という番号のもの。それでも私はピンとこなかった。
『Discopaedia of the Violin』という本をご存じだろうか。これはカナダのJ・クレイトンが著したものだが、内容は古今東西のヴァイオリニストのディスコグラフィ集で、1990年頃に第2版が出ている。大きさはA4よりわずかに大きく、この第2版は4巻分が幅約11センチもある。収録されているヴァイオリニストの数は何人だろうか、おそらく数百人ではあるまいか。たとえば日本人では江藤俊哉、前橋汀子、漆原朝子、潮田益子なども含まれていることからもわかるように、世界的にはそれほど有名ではない奏者までも網羅している。ところが、この本にはシュトゥッキは出てこない。さらに調べていくと、彼女が録音したものと言えばモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第1、2、7番』(ピリオド)、シェックの『弦楽四重奏曲』(レーベル不明)くらいしか見あたらない。残した録音もこれだけ地味であれば、彼女の名が知られていないのはむしろ当然なのかもしれない。
  彼女の略歴はTAHRAの解説によると以下のとおりだ。1921年、ヴィンタートゥール出身の父とシチリア出身の母のもとでカイロに生まれる。母は美声の持ち主であり、シュトゥッキの名前アイダはイタリア・オペラ好きの母から授けられた。彼女の最初の先生はドイツの指揮者、ヴァイオリニストのErnst Woltersだった。37年、母の病気のためシュトゥッキはヴィンタートゥールに戻るが、その後カール・フレッシュに師事、さらにチューリッヒではバルトークと交友のあったStefi Geyer(1888-1956)にも師事している。彼女はハスキルともしばしば共演していたらしいが、その後の詳しい活動については触れられていない。
  シュトゥッキとムターとの出会いは1974年、ヴィンタートゥールでムターがメンデルスゾーンの『』ヴァイオリン協奏曲』を弾いたときである(このとき、ムターは11歳)。演奏の直前に楽器の調子が悪くなり、それを救ったのがシュトゥッキだった。これがきっかけとなり、ムターは彼女に教えを乞うことになったらしい。
  さて、このCDに含まれる演奏だが、1949年12月30日、ヘルマン・シェルヘン指揮、ベロミュンスター・スタジオ管弦楽団、曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である。音源はシュトゥッキ自身が所持していた78回転盤(おそらくアセテート盤だろう)とのことで、音揺れや歪みもあり、特に伴奏の音は強い音が終始割れぎみで、決していいとは言えない。だが幸いなことに、独奏はマイクに近いようで、極めて鮮明に捉えられている。その演奏だが、全く予想もしなかった美しさであった。古い世代に属する、特に女流ヴァイオリニストには独特の音程の取り方をしたり、一風変わった弾き方をする人も多く、そうしたものが独特の味わいを醸し出すことも多い。しかし、このシュトゥッキは全くの正統派だ。その意味では知性派フレッシュの教えを忠実に守っていると言える。しかし、微妙な変化と輝かしいほどの高貴な音も彼女の特色なのだ。たとえば第1楽章、ややゆっくりと、いかにも昔風な感じで手探りに始まる。だが、その音には何とも言えない柔らかさと気品が満ちあふれ、みるみるうちに引き込まれてしまう。緩急の付け方も見事で、実にさりげなく、かつ自然におこなわれている。第2楽章の美しさにも驚いた。この楽章のこんなにきれいな演奏も、ここしばらくは巡り会っていないような気がする。決して甘くべたべたと歌っているわけではないのに、いちじるしく夢心地にしてくれるのだ。第3楽章のいくらか遅めのテンポ設定も見事だ。これ以上遅くするともたついた感じがする、その一歩手前で踏みとどまっている。そして相変わらず硬軟、緩急のさりげない変化が実に見事。このCDのブックレットの冒頭にはムターの「この録音は弦楽器を弾く人、音楽愛好家すべてに必携である」という一文が掲載されているが、これは決して大げさではないと思う。
  余白にはバリリの独奏によるバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』が収められている。いかにも唐突なような組み合わせだが、ベートーヴェンと同じくシェルヘンの伴奏ということで採用されている(周知のとおり、このTAHRAはシェルヘンの娘ミリアムが切り盛りしているからだ)。ブックレットに記述はないが、このバッハは有名なウェストミンスター原盤である。
  今回の復刻盤は、さすがTAHRAである。自前レーベルGrand Slamにはとうていできない。

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