佐倉智美『女子高生になれなかった少年――ある性同一性障害者の青春時代』のちに女子大生になったワタシ

 『女子高生になれなかった少年』がようやく世に出た。1年あまりにおよぶメールマガジンでの連載が終わってから、さらに1年あまり。そのあたり当世の出版事情の厳しさなどが垣間見えなくもないのだが、なにぶん本書の舞台は1980年代、私の“高校・大学時代”なので、執筆と出版のタイムラグはさほど問題ではない(その点、初著『性同一性障害はオモシロイ』〔現代書館、1999年〕では、この問題が大きかった。執筆時にはまだパートタイムで“女装”するだけだったのが、出版時にはほぼフルタイムで女性として生活するようになっていたりした)。
 それよりむしろ現在の高校生・大学生が本書を読んだときに、1980年代という時代背景が昔すぎて理解しにくいという問題が発生しないかが多少心配である。なにせJRはまだ「国鉄」。音楽聴くのもCDではなくアナログレコード。なにより携帯電話もインターネットもない。だから「そーゆーときは、まずメールしてみたらエエやん!」とツッコミを入れられそうな場面も少なくないが、そんな便利なものがなかったんだからしようがない。
 しかし本当のところ、1980年代と現在とでもっともちがいが大きいのは、じつはセクシュアルマイノリティをめぐる情報の質と量かもしれない。インターネットの有無とも関連するが、現在とくらべれば当時はそうした情報が格段に入手しがたかった。したがって自分のセクシュアリティについて正確に把握するための考察もできなかった。だからこそ私は、悶々とした謎の違和感を抱えたまま、貴重な青春時代を男子生徒・男子学生として過ごさなければならなかったのだ。
 その点、現在は恵まれている。例えば小学生からも、「5年生の女子です。でも自分は男子のほうがいいと思っています……」などという相談のメールをもらったりするくらいである。これは、早い時機から具体的に悩まなくてはならなくなったとも考えられるが、やはり自分がどういう存在なのか、なるだけ早くわかるほうが、次への対応がはるかにとりやすいので、おそらくはよいことなのだろう。自分の心の性別はこうなんだ、などと自覚さえできれば、学校に対する要望なども整理できるし、進学・就職に関する作戦だって立てられる。そうして、場合によっては「女子高生になる」という本人の希望を、百パーセントではなくても叶えることができるかもしれない。
 そういう意味では、最近の若い世代がうらやましいのはたしかである。同世代のセクシュアルマイノリティ仲間と飲みに行くと、そんな話題でひとしきり盛り上がることもある。とはいえ、私たちも現在ではこうあるべき自分・そうなりたい自分として生きているわけである。いまちゃんとしている以上は、将来「あのときちゃんとしていれば……」という後悔を現在以降に対して抱くことはないということだ。しょせん人生、前を向いて歩いていくしかないだろう。
 ちなみに私は2003年4月、大阪大学大学院の人間科学研究科に入学した。昨今は講演の機会が増えてきたこともあり、あらためてジェンダーにまつわるさまざまな事柄を勉強しなおしてみたいというのが公式な理由である。だがもちろんもっとヨコシマな動機も他にあって、その最たるものは「女子大生になってみたい」だろう。いざ入学してみると、大学院というところは年齢不詳・正体不明の人の多いこと! 私もそうだったのだが、社会人特別枠を利用して入試を受ける人は少なくないようで、なかには先生と見まごうような年長者もいる。そんな環境で、私が女子大生として楽しく過ごしているのは言うまでもない。女友達とノートの貸し借りをしたり、昼休みにはいっしょに学食でランチなんてこともある。もちろん勉学にも励んでいる……つもりである。
 願いはいつかは叶うのだ、なのかもしれない。

出口 顯『レヴィ=ストロース斜め読み』世界に一つだけの花

 余白については本書第8章「余白のフィロソフィー」でマンダリ人の神話を分析しながら論じたことでもあるが、本やその原稿の余白について語ることは必然的に本と原稿の内容を逆に余白化することであり、本来のものとは別の本をつくる営みになってしまう。だからそれは舞台裏やこぼれ話を語ることと決して同義ではない。
 例えば、本書はこれまでレヴィ=ストロースについて書いてきた論文を中心に編まれた論集だが、校正の段階で原稿を読み返して、誤解されつづけてきたレヴィ=ストロースの思想のよりよい理解のための「狂言回し」であるかもしれないにせよ、レヴィ=ストロース同様あるいはそれ以上に、柄谷行人の『探究Ⅰ・Ⅱ』にこだわりつづけているということは、文章そのものからわかる。そして、たとえ自分自身でそのこだわりを「再発見」したにせよ、原稿の余白として記すべきことにも思われない。同様に、他ならぬこの私が他ならぬこの私に執着することをなんとかしたいと、「個」「人格」「身体」「関係性」などの構造主義的理解を研究テーマにしてきたことも、本文とくに第6章から読みとれることであり、これもまた余白とはいえないだろう。余白とは、語ることができないから余白なのである――と述べたところで、ここでの責を免れるとも思われない。だから以下の余白ならぬ空白のページを埋めることになるのは、本書の基調音の変奏というべきだろう。
 代替不可能性、かけがえのなさということを考えてみよう。売り上げがダブルミリオンに達したSMAPが歌う「世界に一つだけの花」の歌詞ではないが、一人ひとりの個人はもともとお互いに違う「特別なオンリーワン」である。この歌では、だから「ナンバーワンにならなくていい」し、たとえ一卵性双生児、クローン人間であっても、なお彼らはかけがえのない個体であり、代替不可能ということになる。その意味での「オンリーワン」である。
 この歌の1番の歌詞では「それなのに僕ら人間はどうしてこうもくらべたがる、一人一人違うのにその中で一番になりたがる」とある。これは19世紀人類学の思想を彷彿とさせる。そのころ欧米に登場した人類学は、文明の絶頂にいた欧米を発達の頂点に位置づけ、そこからの隔たりに応じて世界中の文化を階層的に配列するという、エスノセントリズムに基づく比較を試み、人類の文化の進化を跡づけようとした。「世界に一つだけの花」はこうした、今日のわれわれにも根づいている考え方を批判しているといえよう。
 歌の最初(シングルバージョンのみ)と最後で「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と歌われる。つまりどんなに見た目は異なっていても、逆にどんなに似ていて遺伝子組成が同じでも、優劣をつける比較の対象にはならない、ナンバーワンを決めるような序列的比較は無意味だといっているのだ。これは進化論的比較を批判し、それぞれの文化の独自性を主張した文化相対主義の立場といえよう。人であること(歌では花であること、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」)以外は共通点がないのだから、かけがえのない個体だというレベルでとらえるとき、共通なものがないなら、比較は無意味ということになるのだ。
 しかしこのような文化相対主義には支払うべき代償がある。違うのだからそれぞれの固有なものを大事にしなければならないと説くことが、その固有なものを守るために文化の間に隔壁をつくることになり、さらにそれが人種差別につながりかねないおそれも出てくるのだ。
「共通なものがないなら、比較は無意味ということになる」と述べた。しかし互いに全く異なっているということにおいて、じつはお互いが同じだということもいえる。「他と同じ性質を全く有していない」という共通の=同じ特徴を個々が有しているのである。代替不可能という意味での差異が全ての個体の共通性、あるいは同一性になるのである。つまり「違うことは同じこと」であり「同じことは違うこと」なのである。これは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人間の個の関係、自己と他者の関係はまさにこのようにしか表現できないのであり、「自己は他者でもある故にかけがえのない自己になる」のである。神話や婚姻の透徹した分析と強靱な思考力で、レヴィ=ストロースが明らかにしたのは、こうした自己と他者の関係性の「構造」なのである。そして、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」の「花」とかそれが意味する「人」とは、たんに分類のための普通名詞なのではなく、じつは「他者であるゆえに自己である」個それぞれに与えられる名前といえるだろう。
 このような思考に到達できるとき、われわれは、文化相対主義の代償を回避できるのではないだろうか。

長谷正人/中村秀之編著『映画の政治学』 他者の感受性を触発する映画的コミュニケーションを――長谷正人

 映画をめぐる言葉が、いまあまりにも貧しいのではないか。映画作品を映画作品としてまともに論じようとするような批評がほとんど存在しないのではないか。そういう空虚な状況に少しでも抗おうと考えて、この『映画の政治学』という(映画批評というのとは少し違うのだが)論集を中村秀之とともに編んだ。むろん反対に、ある意味では映画をめぐる言葉はいま世の中にあふれかえっていると言えるのかもしれない。これを書いている現在ならば、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 (本広克行監督)と『座頭市』(北野武監督)をめぐってマスメディアが大量に流している情報がそうだろう。前者が大ヒットして実写映画としての観客動員数の新記録を更新中であること、後者がベネチア映画祭の銀獅子賞を受賞したということ。これらの情報はここ1カ月ほどのあいだ、マスメディアを賑わしつづけた。
 しかしでは、これらの作品の内容、主題、出来ばえなどについての批評の言葉があるかと言えば、ほとんどないのだ。そもそも両作品とも、別の作品の二番煎じ(続篇とリメイク)として作られたわけなのだから、以前の作品として比較して批判されるのが普通だと思うのだが、そのような批評はほとんど見られなかった(実際、両作品とも、そのような批判をかわすように巧みに作られていることは間違いないのだが、その工夫のありようにさえほとんど誰も言及しないのだ)。マスメディア上で問題とされているのは、それらが「面白い映画」であるとか「駄作」であるというメディア自身の判断では決してなく、記録的にヒットしたとか外国で賞を取ったとかいった、メディアにとっても作品にとっても「外在的」なデータばかりである。つまり、こうした作品をめぐるマスメディア情報は、「作品」自体について語ることだけは避けて通っているのだ(しかし『踊る大捜査線』でさえ、決して批評する価値がない、ただの情報エンタテインメント作品ではないと思う。それはお台場というメディアイメージ化された観光スポットへと人びとの欲望を吸引するための情報エンタテインメントにすぎないことを自ら暴露しながら、実は情報映画として機能するという、用意周到な自己韜晦的映画なのだから)。
 むろんこうしたマスメディアの流す情報とは違ったところで、インターネット上の掲示板や日記には「映画作品」をめぐる多くの人びとの感想や批評が書き込まれていることも事実だろう。その意味では確かに、現代ほどさまざまな映画批評(?)を読める時代はないとも言える。だが私はつい先だって、やはり今年ヒットした『黄泉がえり』(塩田明彦監督)をめぐる批評や感想の言葉をネット上で次々と読んでいるうちに、なんだかげんなりしてきてしまった。要するにそれらの感想は、「泣けました」という絶賛か、さもなければ「思ったほど泣けませんでした」という酷評に二分されてしまうのである。つまりこれらの感想は、この作品との対話を通して評者が思考したことや想像したことを書いているのではなく、たんに自分の感覚がどれだけその作品に刺激されたかを報告しているだけなのだった。これではまるで、新しいジェットコースターの乗り心地を報告し合っているみたいではないか。「いやあ、今度のマシーンはスリリングだったよ」とか「そうかな、思ったほどでもなかったよ」などと。
 しかし『黄泉がえり』に観客が泣くということは、このような刺激-反応図式からは最も離れた地点に起きる出来事ではなかったのか。例えばイジメを苦にして自殺した男子中学生が、自分の葬式の最中に「黄泉がえって」くるエピソード。ここで観客は、彼がどのようにイジメを受け、どのように苦しんだのかをイメージとしてもセリフとしても全く知ることはできない。ただ結果的に黄泉がえって再び学校の自分の席に着いた彼が、その机の上にひっかき傷のように書かれた無数の悪口の言葉を指でなぞっていくのを私たちは見るだけである。あるいは、娘を出産したときに死んでしまった母親が、年老いた夫と大人になった娘のもとに若々しい姿のまま24年ぶりに黄泉がえってくるというエピソード。ここでも観客は、残された親子がどのような人生を歩んできたかを(母親が聾だったことを聞いた娘が、聾学校の教師という職業を選んだというセリフの説明を除いて)何もイメージとして知らされない。ただその奇妙な年齢構成の親子三人が、抱き合っているのを見るだけである。だからもし観客がこの映画を見て泣いたとしたら、刺激的なイメージやセリフや物語が涙という反応を惹起したためではなく、与えられていないはずのイメージを観客自らが勝手に想像してしまったためと言うしかないだろう。だからここで「批評」に求められているのは、映画を見て泣くというコミュニケーション自体の不思議さについて思考することのはずなのだ(本書第2章の斉藤綾子によるすばらしい論文を参照してほしい)。だがウェッブ上でこの映画について書く誰もが、その不思議さに立ち止まることなく、泣いたり泣かなかったりする自分を生理学者として報告するだけである。
 こうして私たちはいま、映画の言葉をめぐる、奇妙な二極分解の地点に立たされているように思う。一方にマスメディアによる、映画をめぐる、味もそっけもない、外在的な情報とデータの羅列。他方に個々人による、「泣ける」とか「笑える」とか「怖がれる」などといった、身も蓋もない生理学的気分の醸成装置としての映画紹介。この両者に欠けているのは、言うまでもなくコミュニケーションであり、対話であり、政治である。映画作品について語ることは、決して自分自身の生理学的反応の報告ではなく、他者の感受性を触発したり、他者の想像力を映画に向けて喚起させなおすような、言語的パフォーマンスであるはずだろう。そのようなパフォーマンスを喚起させてくれる過去の映画作品には、事欠かない(本書が示したのは、そのほんの一部である)。そしてそれはいまも作られつづけているのだ。だから怠慢なのは、映画をめぐる言葉のほうである。本書がそのような映画的コミュニケーションを生み出す起爆剤となることを願ってやまない。

落合真司『音楽業界ウラわざ』J・K・ローリングでなくても、運命から誕生する本はある

 わたしが上京するのは、年に1度ほどしかない。目的はコンサートなのだが、上京すれば必ず青弓社を訪れる。いつもアポなしで顔を出し、他愛もない世間話をすこしだけすると、目の前のお茶の湯気が消えないうちに退室する。わざわざ多忙な業務の手をとめさせて、長話をするような重要なネタは持ちあわせていない。いつもあたたかく迎え入れてくれるだけで、ありがたいと思っている。
 だが、そのときはちがった。ひとつの企画がぼんやりと頭のなかにあった。しかし、鼻息荒くプレゼンをするほどの材料はなく、ターゲットさえ決まっていない状態だった。だから、いつものようにアポなしで青弓社を訪れることにした。あいにく矢野さんは不在で、1分もしないうちに会社を出てきてしまった。年末の出版社がどれほど忙しいかよくわかっているつもりなので、あいさつだけで出てきたのだ。
 静かな廊下でエレベーターのボタンを押して、冷たいドアをぼんやりながめていた。そのとき、ドアが開いてエレベーターから矢野さんが降りてきた。互いに驚き、「もう帰っちゃうの?」という社長の言葉に甘えて、再び部屋に入ることにした。
そこでわたしは、まだ輪郭のはっきりしていない企画をしゃべりはじめた。音楽業界で活躍する人材を育成する専門学校で1年間授業をもっていたことがあり、その講義内容を一冊の本にまとめたいと思っていたのだ。きっかけは、自分が授業をするにあたって、何か教科書になるような本はないかと書店をいくつも見てまわったが、ひとつもなかったところにある。かなり苦労をして、ひとつひとつ自分で調べ、徹夜を繰り返して授業の準備をした1年間だった。
 音楽シーンで現在起こっている現象を裏側から分析・解説した講義ノートは、学生に向けてつくったもので、これを外に向けて出版するとなると、今度はターゲットが誰になるのか、自分でわからなくなってしまった。とにかく、こんな本はどこにもないから、どうしても出したいんですと、そればかりを矢野さんに訴えていた気がする。そんなわたしに、「年明けにでも、企画書を送ってよ」と言ってくれた。
 約束どおり、年が明けてまもなく企画書を送った。ただし、ターゲットは、あいまいなままだった。同時に、「年明けにでも、企画書を送ってよ」という言葉の重みをわたしは疑っていた。あんなとりとめもない話に、本気で企画書を見たいと思ってくれたのだろうか。「企画書を送ってよ」は、編集者なら、昨日入社したばかりの新入社員だって言うじゃないか。忙しい年末の話など、きっと忘れているにちがいない。そんな不安な気持ちのまま、数日が過ぎた。
 1週間ほどして、矢野さんからメールが届いた。社内で会議にかけ、ターゲットや方向性などの案を出してくれたのだ。うれしかった。メールを何度も読み返しながら、なぜかドキドキした。こんなに真剣に取り組んでくれていたのに、つまらないことを考えていた自分を恥じた。そして会議で出されたいくつかの提案にもとづき、企画書を練り直すことになった。
 あらためて企画書を出して、つぎの連絡を待った。届いたメールは、ゴーサインだった。張り切って原稿を書いた。講義ノートは、原型をとどめないほどに内容がリファインされていった。気がつけば、原稿は450枚にもなっていた。今度は300枚ちょっとにするため、削っていく作業に追われた。
 季節は春が終わりを告げようとしていた。初校のゲラを見ながら、いいことを書いてるなあとナルシストになってしまい、校正がなかなか進まない。
 いよいよリリースになり、できあがった本を手にとり、また顔がゆるむ。ちなみに、これが青弓社から上梓した10冊目の本になる。もう本は出せないかもしれない、つぎはないかもしれないと思いつつの10冊目だ。うれしくないはずがない。
 この出版不況のなか、ターゲットが不明確な企画書と真剣に向きあい、なんとかよい本にしようと取り組んでもらったことに感動する。わたしが、よい本だとうっとりする理由は、もしかしたら、あの年末の日、偶然にもエレベーターから矢野さんが降りてこなかったら、あと1分すべてがずれていたら、この本は誕生しなかったかもしれないと思うからだ。よくぞこの世に生まれてきたと思う。

田口亜紗『生理休暇の誕生』月経の医療化に抗して――日常的な身体感覚と近代知をつないだ実践の歴史

 たいていの方は、「生理休暇」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、職に就いている女性の方で、その労働規約に「生理休暇」が盛り込まれていることを知っていたり、実際にこれを使ったことがあるという方もいると思います。また、労働法制にくわしい方なら、労働基準法第68条に「生理日の就業が著しく困難な女性に対する措置」(労基法改正前の第67条では「生理休暇」)として、生理休暇をはっきりと認めた規定が存在することを知っているかもしれません。
 けれども、この生理休暇という制度、実は成立当時はアメリカなどの欧米にもまったく例のない、日本オリジナルの制度だったことはごぞんじでしたか? それどころか、大正期にはすでに月経時の休暇を要求する声が登場していたこと、昭和初期にはいくつかの企業で実際に生理休暇が獲得されていたこと、敗戦直後には労働運動に生理休暇要求が復活し、多くの企業が労働協約に生理休暇を盛り込むようになったことなどについては、おそらくほとんど知られていないのではないでしょうか。生理休暇制度は、たんに敗戦直後のGHQ主導による民主化政策のなかで付与されたのでも、労働基準法の成立にともない突然出てきたのでありません。女性労働者や雇用者、医学者、政治家たちとのあいだで敗戦期よりもずっと前から繰り広げられてきた議論や交渉をへて生まれた制度だったです。
 生理休暇制度は、1947年の成立当初から現代にいたるまで、月経時の女性労働者を保護するという発想ゆえに、「過保護だ」「世界に例がない」「男女平等の原則に反する」などの批判にさらされてきました。そればかりか、取得する当事者である女性労働者にとっても、「自身の労働評価が低くなる」「上司や同僚からひやかされる」といった理由から、それはたいてい取りづらいものでした。一言でいってしまえば、生理休暇は、誰もが大手を振って称揚するような有効な権利ではないのです。けれど、私が生理休暇について書いたのは、それが有用な制度だからなのではなく、生理休暇をめぐる諸言説の歴史が、近代日本における月経の医療化のプロセスと、その医療化のなかにあってなお、より生きやすい日常を模索しようとする女性たちの姿とを、同時にみせてくれると感じたからでした。
 明治以降の欧米文化の移入にともない、近代西欧医学的な観念が日本でも支配的になると、月経は、医学者たちによって病理的なものと説明されるようになっていき、大正期以降には、具体的な医療技術や専門人員の配備などをともなって医療化の対象となっていきます。このような、月経を管理や治療の必要な現象とみなす月経の医療化の過程にさらされながら、生理休暇は、それに抵抗するようなかたちで生まれました。なぜなら、それは女性たちが、自分たちの身体感覚を起点にして、さまざまな女性同士のネットワークを築きながら、月経をあくまでも病気ではないものと捉えたうえで、少しでも快適な労働条件を確保しようとして編み出した権利要求だったからです。
 生理休暇を要求する女性たちの主張は、学術的な理論を援用したかと思えば、その理論にはっきりと賛成するでも反対するでもなく、時にはひたすら感情的に自身の身体観や労働環境の悪さを切々と訴えるなど、一見すると一貫性のないものばかりです。そこには、とにかく過ごしやすい「いま・ここ」を確保しようとする女性たちの姿が読み取れます。そして、より強い医療化にさらされている現代の私たちにとって大事なことは、日本で生理休暇という制度が有効なのか、存続か廃止か、といったことを議論することではありません。むしろ、医療化によってもたらされた知や技法を使いながら医療化には抗していた過去の女性たちの姿を、私たちの「いま・ここ」を生きるヒントとして活性化させていくことこそが重要なのではないでしょうか。
 つまり、本書は、法学の立場から生理休暇制度の意義や是非を問うことを目的としているのではありません。また、多くの女性史や法制史などの立場から、日本に特殊な要求や制度が日本のフェミニズムの成果として生まれたのだと主張したいのでもありません。私がもっとも注目したのは、月経の医療化とそこでおこなわれていた女性たちの言説による実践の歴史でした。医療化の過程で、自分たちの身体を医療化から守ろうとする女性たちの

田代 順『小児がん病棟のこどもたち――医療人類学から』死が引き戻す母子の原始的関係

 この本に描き出した「子どものシーン」の原型となった子どもたちは、(残念ながら)そのほとんどが、私のフィールドワークの期間中に亡くなっていった。
 病棟に(基本的に)週1回しか行けないフィールドワーカーの私にとって、終末期/臨死期の子どもと会った翌週のフィールドワークは、とても気の重いものだった。まず、ナースステーションに入る。挨拶もそこそこにおそるおそる入院中の子どもの名札を見る。個室に入室している子どもの名前に目をやる。そこに先週会った彼/彼女の名前はない。
 私は彼/彼女が、短い人生の最後のひとときを母親とすごしただろう個室の前に立つ。新しい個室入室者はまだいない。引き戸のドアをスライドさせてなかに入る。がらんとしたベッドがきれいに掃除されて、ぽつんと部屋のなかにある。ものすごい違和感だ。彼/彼女の痕跡はまったくない。しんと静まりかえっている。沈黙そのものですら押し黙っている感じだ。あるいはしんという音がうるさいくらい耳ざわりだ。ついこの前までこの個室で、子どもが死に逝きつつあることを知っている母親は、どのような気持ちで、子どもとの最後のひとときをすごしたのだろうか? 身体がどんどん悪化して苦しくなるなか、子どもは迫りくる自分の死というものをどのように認識していたのだろうか?
 小児がんの病棟で、子どもは、(まだ)生きていること、子どもであることの証として、遊んだり泣いたりしていた。ときにぶっきらぼうになり、ときに熱心になって私に受け答えをしてくれた。あるいはときに悲しそうに。ときに苦しそうに。ときにさびしそうに。ほんとうにいろいろな姿を母親に、私に、ほかの子どもたちに、医師や看護師にみせてくれた彼/彼女は消えてしまった。
 あるいは(今週は)もう会えないくらい病状が悪化していて、完璧に個室で母親と2人きりになっている子ども。もちろん、治療をする/看護行為をする以外の者は、その個室に入ることがすでにできなくなっている。私は、彼/彼女ともう会うことはない。顔を見ることもない。私が、どんなに母親やその子どもと仲がよかったとしても、もう彼/彼女は死に捕らわれてしまっている。死の覆いがすべてを包み込んでいる。唯一、母親だけが、その子どもという命を産み出した母親だけが、自分がこの世にひとつの命として産み出した子どもの、刻々と死に逝きつつある状況を子どもとともにする。子どもの命に寄り添っている。そして(おそらく)次の週には、彼/彼女の名前はない。
 思い返してみて、こうして死に逝きつつ死に至るという時期でさえ、そこにあるのは社会的な営みを維持しながら死んでゆくための子どもと母親の営為である。もっと具体的に言えば、母親との最後の関係を維持しつつ、きわめて社会的に死に逝こうとする子どもの姿が、死とともにそこにあるということだ。そして、ここに至るまでにさまざまな方法とニュアンスで子どもは(そして母親は)小児がん病棟を構築し、それを支えるために通底する社会的文脈を絶えず維持・生成する方向でのダンスを踊る。壊す方向ではもちろんなく。そのような「破壊」につながる方向での言動・行動はタブー視され徹底して回避する方向で。病棟社会を構成する人々が、それぞれの役割を存分に担い合いながら。
 いま、こうして本が上梓されることになって、振り返ってみると、ほんとに眩暈がするくらいの社会的な営為の積み重ねが、病棟社会のそこここに展開していたことがよくわかる。幼い子は幼い子なりに、母親は母親なりに。かように、人間は人間であるがゆえに(最後まで人間であるために)、社会/関係という鎧をしっかり着込んで病気なり、死が近しくなるにつれて、病棟社会の社会的属性、鎧を脱ぎ捨てながら(幼い子どもは赤ちゃん返りして)死に逝く。母子関係という原初的な関係は最後まで維持しながら。それらは、死に子どもと母親が近づくことよって、治療を究極の社会目標とする病棟社会の一員である必要がなくなるということだ。ここにおいて初めて、子どもは子どもに、母親は母親に(再び)存分に帰っていくのである。病院にくるはるか以前の、ごく普通の「健康」だった子どもと母親の関係に。
 最後に、本文ではあまりふれることができなかったが、医師と看護師の献身的な治療と看護に言及しておきたい。
 治療・看護対象が子どもだということもあると思う。彼らとは、本来、死んではいけない存在なのだ。元気に走り回っている存在なのだ。だからこそ、医師も看護師もそれこそ、その小児がんに子どもが罹患するという理不尽さに全力で抵抗し戦っていた。もてる力を出しきりながら懸命に子どもにかかわっていた。それが、短い生涯を全力で生き、全力で死んでいった子どもらへの「畏敬」と「はなむけ」の証であるかのように。
 最後の最後に。
 なによりも子どもと母親に。そして、医師と看護婦に。心から感謝の気持ちをこめて。ほんとにありがとうございました。

笠原美智子『写真、時代に抗するもの』私は抗しつづける

 拙著『写真、時代に抗するもの』が出版された。できあがってほやほやの本に頬ずりして、にまにましながら、さすってみる。もう読む必要もないのに、何回も見返して、ことあるごとに取り出してページをめくる。そうした幸せな躁状態がすこし落ち着いて、つくづく眺めて思うのは、「わたし、よくこれだけ仕事してきたよね」。
 1989年に東京都写真美術館の学芸員になってから今年の7月に東京都現代美術館に異動するまでの13年間で、この本と98年に出版した『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』の2冊をまとめることができた。13年間で本2冊というのは普通の書き手としては少ないのかもしれない。けれども美術館の学芸員としては、「よく」と自画自賛してもバチは当たらないのではないかと思う。なにせ、学芸員の仕事の9割以上は雑務である。展覧会のための調査や研究、図録の論文書きなどは雑務の合間のわずかな時間をかすめてやるか、勤務後や休日に家で書くしかない。日本の学芸員が雑芸員といわれる所以である。自他共に認めるめんどくさがり、怠惰このうえないわたしが、こんな状況で、「よく」これだけ仕事をしてきたものだとわれながら感心する。好きな仕事だし、やりたい展覧会だからではあるが、怠け者のわたしを衝き動かしていたのはそれだけではない。それは「怒りのパワー」とでも呼ぶべきものである。
 本当にわたしは怒っていた。美術館とはどんなものであるかもちゃんと調べずに美術館を作ってしまい、まっとうな組織構成も人事もせず、10年にも満たないうちに、入館者が少ないからといって予算を大幅に削減したり廃館をにおわす、東京都のいいかげんな文化行政に対して。自分の権利だけを主張して、義務をなおざりにする役人化した学芸員に対して。コンセプトだけ考えれば展覧会ができると思っている大学の先生に対して。展覧会を金儲けのイベントとしか考えていない一部の新聞社事業部に対して。普段美術館に興味もなく来もしないのに、海外旅行でたまたま立ち寄った美術館の聞きかじりをわけ知り顔で吹聴し日本の美術館をけなす政治家や一般の人に対して。自分の写真だけは美術館で取りあげられるべきだと信じ込んでいる写真家に対して。専門分化も役割分化もできていない日本の美術館に対して。貸館になっても専門家以外の館長が就任しても、異を唱えるどころかその問題点すらわかっていない写真界に対して。写真のことなど何の興味もなく勉強もしていないのに展覧会を企画する「現代美術」のキュレーターに対して。そもそも批評文化が成立しないこの国の文化的貧困について……。
 もちろんわたしは自分のことを棚に上げている。そんなことははなからわかっている。しかし、上は日本の文化情勢から、果ては日常の細々とした出来事まで、毎日毎日何かが起こり、怒りの種は尽きず、怒髪天を衝くような環境でわたしは暮らしていた。
 最近わたしは怒らなくなった。「大人になったね」ともたまに言われる。45歳の女をつかまえて「大人になった」もないもんだけれども、確かに大声を出すことも、怒りで身を震わすことも少なくなった。愚痴をこぼすのもめっきり減った。何が起こってもたいがいのことではあわてふためいたりはしない。状況が好転しているからではなく、むしろその逆で、美術館や写真を巡る状況は悪化の一途を辿っている。しかし経験とは恐ろしいもので、怒りのハードルはどんどん低くなっていく。めったなことでは動じなくなった。
 わたしは自分の身に起こっているこの変化がおそろしい。これは成熟と言うよりもむしろ、諦念が忍び寄っているのではないか。嫌悪してきた予定調和の世界に、知らず知らずに自分も身を浸しているのではないか。エネルギー値が落ちてきているような気もする。
 怒りの代わりに人を動かすのは何だろう。人によっていろいろあるだろうけれども、わたしの場合の答えはわかっている。そしてわたしはいま必死でそれを探している。

早川洋行『流言の社会学――形式社会学からの接近』マージナルな社会学者

 最近、わが家の連れ合いと子どもたちは「犬夜叉」というテレビアニメにはまっている。これは、犬夜叉という半妖(妖怪と人間の合いの子)と日暮かごめという女子中学生が「四魂の玉」を求めて旅をする高橋留美子の作品である。
 犬夜叉は、外見上は犬の耳をもつということ以外、なんら人間と変わらないのだが、メチャクチャ強い。妖怪や悪い人間を次々と倒してしまう。おそらく妖怪退治にかけては「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)と並ぶ日本のヒーローだろう。そういえば、ゲゲゲの鬼太郎も、人間でも妖怪でもない幽霊族という設定だった。マージナル(境界的)なものがいちばん強い、という命題は普遍的なものだと思う。
 最近、社会学の世界は専門分化が進み、それは研究者世界のタコツボ化、研究者のおたく化を生んでいる。一般人ばかりでなく同じ社会学者であっても分野が違うと言葉が通じないのである。これではいけないという危機感が、最近の、学会における社会学教育への関心の高まりにも表れている。
 もちろん、スタンダードな教科書を作ったりカリキュラムを組んだりして、社会学教育体制を確立することは重要なことである。しかし、なにより大切なのは研究者一人ひとりが、みずからの研究を誰にでもわかる言葉で語ることだろう。私が本書で心がけたのもそのことである。
 アカデミズムの世界と一般人の世界、そのどちらにも安住しないで橋渡しをするような存在、私はそういうマージナルな社会学者でありたいと思っているし、そういう思いから、本書は社会学者のみならず、「一般人でもわかる社会学書」として書かれたものである。
 この本の出版後、ある学会で「流言の専門家」と紹介され面映ゆい思いがした。私は流言の専門家では断じてない。ただの社会学者であり、流言は研究テーマのうちの一つであるにすぎない。とはいっても、私が流言について考えはじめ、論文を書きはじめてからすでに10年以上経つ。その間、違うテーマの研究もいろいろ発表してきたが、私の研究の全体を知らない人には、そういう誤解が生じてもしかたがないのかもしれない。
 流言を研究テーマにしたのは全くの偶然だった。その契機について述べておくことにしよう。
 大学院生のころ、たいへん厳しいというかたいへん怖いS先生に指導を受けた。ゼミのときには、院生はみんな、報告内容ばかりでなく、言葉や態度、服装や髪形にいたるまで気を使った。先生のご機嫌を損ねないよう、授業中は緊張で院生たちの血圧は確実に20上がっていただろう。
 あるとき、院生仲間と話していて、人にはそれぞれ「うそパワー」というものがある、という話になった。うそパワーとは、たとえうそであってもそれを他人に信じ込ませてしまう力である。詐欺師たちは、その自身の能力を商売に使う人びとである。もし、うそパワー・オリンピックがあれば、彼らはもっとまっとうな生き方ができたにちがいない。ヒトラーやスターリンは、こうした市井の詐欺師のレベルを超えて、かなりのうそパワーの持ち主だったと考えられる。歴史は、うそパワーはけっして悪用してはいけない力であることを教えている。
 しかし、私たち院生には、ヒトラーやスターリンやそのへんの詐欺師たちには騙されないという自信があった。では、私たちも騙されてしまうような、強力なうそパワーをもつ人物がいるとすればそれは誰か。私たちは、S先生であるという認識で一致した。誤解なきように言うが、もちろん、S先生が大ウソつきであったということではない。S先生の言うことが真実であるか虚偽であるかにかかわりなく、私たち院生たちには説得力をもっていた、ということである(そのS先生の実名は「あとがき」に書いておいた)。
 そんなバカ話から、そもそも真実と虚偽は誰がどのようにして決めるのか、という問題に興味をもった。これは、意味世界の問題であり現象学的社会学が取り扱ってきたテーマである。そして当時注目されていたハーバマスのコミュニケーション的行為に関する議論とも隣接する問題だった。この問題を考えていくうちに、いつのまにかそれは流言論に結実したのである。
 だから、この本は、戯言(たわむれごと)から生まれた作品である。本書で論じたように、真面目な言説よりも不真面目な言説のなかに、思わぬ創造の芽が潜んでいるものである。
 さて、自称「半妖」あるいは「幽霊族」である、早川洋行のうそパワーがどれほどのものであるか。それはこの本の売れ行きが示してくれるにちがいない。

関 朝之『10人のノンフィクション術』大切な自分の想いを表現する人たち

 「ノンフィクション」とは、「フィクション以外の文学」という意味である。換言すれば「記録文学」ということだろう。
 現場で体験した客観的な事実を正確に筆録する「ルポルタージュ」。旅の見聞や感想などを記した「紀行文」。個人の生涯の行跡を綴った「伝記」。毎日の出来事や感想を記録する「日記」……など、あまりにも広い分野を総称して呼んでいる。
 そんな「ノンフィクション」の取材術・執筆術を、第一線で活躍されるノンフィクション作家の方々に訊いて歩いたのが、この『10人のノンフィクション術』である。
 十人いれば十通りのノンフィクションのスタンスがあり、その取り組み方は、それぞれの生き方にも似ていた。つまり「ノンフィクションの書き方」は、「ノンフィクション作家の生き方」だと、ぼんやりと思っている。
 本書では、それぞれの書き手の作品から例文を引用し、インタビューでの言葉とシンクロさせての解説を試みた。また、これだけの著名ノンフィクション作家のノウハウが、一冊に納まっているのも珍しいのではないか。とりわけ、フィクションではないノンフィクションという広い分野で、みずからの身の置きどころを選択している方々の言葉には、取材活動という「実人生」を宿している迫力があった。
 もちろん、ノンフィクションの取材術や執筆術は大切なことなのだが、ぼくがいちばん興味をもったのは、その人が、どのようなものに衝き動かされてノンフィクションを書くようになったか、である。この衝き動かされる「なにか」こそが、ノンフィクションを書くカギのような気がしてならなかった。
取材は緊張した。なにしろ、インタビューのプロ中のプロにインタビューするのだから……。その反面、楽しかった。本棚でしか見たことがなかった作家が目の前にいたからだ。
佐野眞一さん──「時代」を自分の言葉で後世に伝える──。
久田恵さん──メディアが落としていった事実を拾い集めて──。
鎌田慧さん──頑固なまでに志を貫くルポルタージュ──。
北島行徳さん──登場人物に愛されるように描く──。
足立倫行さん──人を描いてテーマを語る?現場報告の手法?──。
柳原和子さん──インタビューする相手を丸ごと好きになる──。
大崎善生さん──感情に支えられた心優しきノンフィクション──。
高山文彦さん──諦めずにいれば、書くチャンスは巡ってくる──。
後藤正治さん──ライターになるのではなく、ノンフィクションを書く──。
櫻井よしこさん──知りたい事実を解き明かすために書いていく──。
 もちろん、「この十人」に出会うまで何人もの方々に断られた。「どこの誰だかわからぬやつ」に、自分の蓄積してきた「ノンフィクション術」を本にされることに抵抗を覚えても仕方がないことだ。けれども、というか、だからこそ、「この十人」に出会えた。「どこの誰だかわからぬやつ」に時間をさいてくれたノンフィクション作家は、かつてみずからも「どこの誰だかわからぬやつ」だったのかもしれない……、となんとなく思っている。それゆえ本書は、これからノンフィクションの書き手をめざす方々にとって、これ以上ない「十人の言霊」が詰まった書籍である。 
 本書がノンフィクション作家志願者のみなさまにとり、技術的な実用書となることはもちろん、その道程で迷ったときの指南書となれば……、と思う。また、もし「この本に登場してくれた十人のノンフィクション作家は、どんな人たちだった?」と問われたら、「大切な自分の想いの表現を諦めなかった人たちだったよ」と、答えてみたいと思っている──。

山本善行『古本泣き笑い日記』一書畏るべし

 まさか自分が古本日記を書くことになるとは思わなかった。ただ、ひとの読む本、買う本が気になるほうで、ひとの日記を読むのはずっと好きだった。
 たとえば、殿山泰司の『JAMJAM日記』や、小林信彦『1960年代日記』は何回も読んでいるし、木佐木勝『木佐木日記』は、図書新聞社版ではあるが、おもしろくておもしろくて読み終えるのがもったいないと感じたぐらいだ。現代史出版会の『木佐木日記』全四巻本は値段の問題でまだ持ってないが、ぜひ揃えたいと思う。書いていると欲しくなって、安く出ていないかネットで見てみたが、やはり三、四万円している。どこかの出版社、文庫にしてくれるとありがたいが。迂闊なひとは、そんなにいい本なら、四万円でも五万円でも買えばいいではないか、と思うかもしれないが、値打ちのある本はこれだけでなくいっぱいあるわけで、多少高くても、なんてのんきなことを言ってては、即破産まちがいない。
 もちろん、経済状態の問題もある。わたしのところなんか、妻に、「必要なものでも買わないのが本当の節約だ」と言い聞かせているぐらい厳しい状況で、そんななかでの古本買いなのだ。だから、百円なら買うが三百円では買わないといったような、神経をすり減らすような、まるで、なにかの修行みたいになるのである。
 自分で古本日記を書くようになり、古本屋で、これは日記に書けるぞ、とか思うのは、いいことなのかどうか。また、古本屋の店先に座ってごそごそ均一本を探していると、店主がそれを見てにやにや笑っていたりする。古本まつりの会場で知人に会うと、「百円均一どうでした」なんて聞かれる。「どうせわたしは安い本専門ですよ」と開き直るしかないのだろうか。
 こんなわたしだけれど、はじめからこんなんではなかった。
 わたしの周りに本が集まりだして、いつのまにか、二十五年ぐらいになるだろうか。思い出せば、はじめのころは私もかわいかった。新刊本屋でも売っているような文庫を古本屋で五十円ぐらいで探し出しては、友人に自慢していたのだから。
 大学は出たけれど、就職せずに、京都三条のやっと首が出せるような窓しかないアパートに住んで、せっせと本を読んでいた。お金がなくなると、アルバイト。ライオンの歯磨きやシャンプーを店頭で冗談いいながら売っていた。実演だといって、その場で頭にシャンプーをかけ洗いだしたときには、さすがに店長に注意された。
 時間だけがたっぷりとあった。いまから考えれば図書館を利用すればよかったとも思うが、当時からもう本そのものへの興味があったのだろう、お金はなくても、買って自分のものにして繰り返し読みたかったのだ。
 仕事のほうは、そのあと友人の学習塾を手伝ったりしていたが、その友人が突然、「塾なんかやっててはあかん。これからの教育はシュタイナーや」という言葉を残して塾をやめると言いだした。いまから二十年ほど前の話だ。わたしはそのあとを引き継いでいまも続けているのだが、なんとか食べてこれたのは、そのシュタイナーのおかげだと思っている。仕事が夕方からだということもあり、昼間はせっせと古本屋めぐりの生活というのも、気に入っている。
 書いてきて気がついた。わたしという現象は、はじめからあまり変わっていない、ということに。でも、自分でも不思議なのは、本への思いが、多少の波はあるものの、昔ながらの熱を持ちつづけているということだ。ますますのめり込んでいるのかも。古本が絡まないと、力が出ない。そこに本があれば、そこまで行けるのである。
 気がつけば古本屋の前の均一台をながめている。買えるときはまだいいのだけれど、たいていはただ見るだけの繰り返しである。
 近ごろよく言われるのは、「またこの前、古本見てたな、なんか恐くてよう声かけへんかったわ」。そうでしょう、そうでしょう、そんなときのわたしはきっと哀しそうな背中を見せているのでは、と思う。なにかから、逃げているのだ、と感じるときもある。
 そんなわたしではあるが、「一書畏るべし」という気持ちで本を読みたいと思うし、自分の本についても、わたしなりの魂は入れたつもりである。