第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

1-1 機械と〈労働力〉――合理性の限界

機械が支配した時代

 ポスト冷戦以降、資本主義を人類史のなかで肯定的に把握する理解が、ある種の常識として通用するようになった。そのきっかけをつくったのがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり――歴史の「終点」に立つ最後の人間』(三笠書房、1992年)に代表される社会主義・共産主義の終焉を論じた議論である。リベラルな民主主義を歴史上完璧な統治機構として評価したのだ。そのフクヤマが2018年のインタビューで、マルクスが資本主義における過剰生産の危機と貧困の拡大を指摘した点を捉えて、「カール・マルクスが言っていたことが 事実になりつつある(注1)」とマルクスの議論をあたかも肯定するかのような発言をしている。同時に、中国を「国家資本主義」とみなして、中国モデルか西欧モデルか、という資本主義の制度内の危機への最適な適応をめぐる争いにむしろ将来の選択肢があるとも語り、リベラルな民主主義の危機を指摘した。マルクスを引きながら、結局のところは、将来社会のありかたについては、資本主義を前提としたリベラルな民主主義に収斂するとはかぎらず、資本主義と非リベラリズムあるいは近年の流行語でもある権威主義的な資本主義が歴史のゴールを飾るという別の選択肢もありうるということを暗に示唆したともいえる。
 以下で述べるように、資本主義は自由と民主主義のシステムとしては矛盾と限界を抱えている。資本主義の制度的な矛盾を資本主義内部で解決しようとする試行錯誤としての20世紀資本主義の歴史は、そのイデオロギーの側面からみたとき、ファシズムもまた矛盾の制度内止揚(そもそもこれが弁証法の本来の機能だが)として社会主義を資本主義的に再定義して包含しようとする現象だったことを想起する必要がある。もちろん中国が社会主義だと言いたいのではなく、20世紀のファシズムと社会主義の実験が失敗に終わったことをもって、リベラルな資本主義の勝利とみなす認識や、社会主義を20世紀に社会主義を標榜した諸国に還元して理解しようとする考え方に疑問があるのだ。こうした考え方は、制度や社会に対する理論的な枠組みをもつことなく、現実の世界を構成する国家や宗教の権力が、みずからの統治の技法の一部に用いる言語の象徴的な使用を「正しい」概念用語として前提してしまいかねない。ファシズムは、イギリスのケインズ主義、アメリカのニューデールと表裏一体をなすものであり対立するものではないし、社会主義革命を企図しながらもそれがファシズムに転態した歴史の教訓を汲むとすれば、資本主義や20世紀の社会主義もファシズムもいかなる意味でも私たちの未来の選択肢にはなりえない。同時に、コンピューター・コミュニケーション/テクノロジー(CTC)が支配的な位置を占めることによって資本主義の構造は、その深部で転換を経験しつつあり、マルクスの資本主義批判の妥当性を検証する場合も、この転換を念頭に置く必要がある。
 本章では、本連載の主題であるコンピューターが支配的なテクノロジーとなった時代の資本主義批判を見据えながら、その前提となる機械が支配した時代の資本主義を主に論じることになる。カール・マルクスが『資本論』で論じた一連の資本主義における矛盾に対し、資本主義はいかなる対抗を制度的に展開してきたのかを確認する。主題になるのは、機械と〈労働力〉(注2)と化した人間をめぐる管理、指揮、命令、制御、監視といった一連の問題をめぐって、マルクスが提起した土台=上部構造の資本主義の構造に関わることになる。
 労働市場を通じて〈労働力〉が売買されるということを私たちは、会社に雇われて働くことであり、労働が契約によってルール化されて、このルールを遵守することが労資双方の当然の前提だと思い込まされている。もちろん労働者は雇用主が狡猾にルールをかいくぐって酷使しようとしたり賃金をピンハネすることを警戒するし、雇用主もまた、労働者が従順に働くとは信じておらず、常時仕事ぶりを監視しないではいられないという不信感を抱くこともまれではない。一般商品の売買が前払いであるのに対して〈労働力〉だけは後払いだというところに、労資の力関係の不均衡と資本の不信感が端的に示されている。
 とはいえ、契約は双方にとって満足できなくてもほぼ有効な範囲には収まる程度の効果はもつ。だから、雇用契約とか就業規則の明文化は、労働者の権利を守るうえでも大切だとされている。しかし歴史を遡ると、こうした近代的な〈労働力〉売買の契約関係が定着するのには長い時間がかかっており、現代の世界全体の人口を視野に入れたとき、むしろ近代的な雇用契約の教科書的なモデルが実際に実現している場合のほうが少ないかもしれない。労働問題が国際的な人道・人権団体にとっての主要な課題でありつづけており、資本主義は建前ほど契約の平等と自由を重んじるような体制をおのずと実現できるようなシステムであるわけではない。
 したがって、工業化=機械化として出発した資本主義的な「経済発展」の経路をいま一度〈労働力〉の観点から再構成しておく必要がある。機械化、工業化が始まった当時、労働者の日常がいかに機械のリズムに反し、したがって資本家たちを苛立たせていたか。そして、機械の導入とは、この労働者の日常的なリズムの解体と服従の過程でもあったということを再度みておきたい。

道具、機械、歴史認識

 産業革命を通じて、イギリスを中心に、熟練の解体と機械への置き換えが19世紀に急速に進展し、労働の様相が一変する。社会の人口の多くが農業などの伝統的な産業から引き離されて都市の工場〈労働力〉へと短期間に転換できるのは、熟練労働の習得に必要な長年月の訓練が不要になり、短期で習得できる労働が支配的になってきたからだ。同時に、単純労働が支配的な労働市場は「流動化」しはじめ、資本は市場の需給動向に合せて必要な〈労働力〉を排除したり入れ替えたり、追加で調達するなど、あたかも〈労働力〉が「モノ」ででもあるかのように自由にその数量を調整可能な存在になる。これは周辺部資本主義における奴隷制の展開と表裏一体をなす資本主義に固有の「人間観」、つまり労働機械としての人間の一側面をなす。労働者は単純労働であればあるほど、取り替え可能な使い捨ての〈労働力〉としてのリスクに直面する。労働者は生存を維持するための雇用の維持を、かつての熟練労働者のように、容易に取り替えがきかない熟練技能を交渉の武器にして資本に譲歩を迫ることができなくなる。熟練労働者が主体となった労働運動から単純労働者による労働運動への転換は、重要な質的切断を伴う。
 マルクスは『資本論』第一巻「機械と大工業」でかなりのページを割いて機械が資本主義に果たす役割を論じている(注3)。工業化=機械化に対するマルクスの評価はややトリッキーだ。ラダイトのような機械化への拒否を批判しながら、機械化がもつ二面性の間で、難問に強引な決着をつけようとしているところがある。
 マルクスは、マニュファクチャから機械制大工業への展開のなかで、機械が膨大な数の熟練労働者の排除と単純労働化による低賃金化をまねくことを指摘する。資本主義的な労働市場に投げ込まれた無産労働者にとって、失業は貧困そのものだが、同時に雇用されたとしても長時間の劣悪な労働と最低限の生活をかろうじて維持できる賃金しか保障されない人生にしか帰結しない。だから、とくに蒸気織機の利用に対して機械の大量破壊運動が起きるが、マルクスは、これが「シドマスなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた」とその副作用の大きさをむしろ指摘して、「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである(注4)」と述べている。労働者が壊すべき対象は、機械ではなく資本(家)であるというマルクスの指摘は正しいが、そこから彼は、機械を資本主義的に利用することが労働者の搾取と貧困を生み出しているのであって、機械そのものの生産手段としての機能を擁護することになる。こうして、この単純労働化がもたらした労働の流動性、かつての職人のように一生一つの仕事に縛られることなく、様々な産業分野を行き来できる労働者の新しいありかたから、資本主義では実現しえない生産の社会化、つまり労働者が生産への主導権を取り戻すなかで、機械に体現される生産力を労働者の労働能力の全面的な開花として可能にするという楽観的な見通しを示唆する。この楽観論が、のちの正統派マルクス主義に継承され、資本主義が開発した技術の社会主義での横滑り的な適用を正当化する理屈として俗流化されて、20世紀の社会主義を標榜する体制が墓穴を掘ることになる。資本主義が開発した技術には、設計思想=資本のイデオロギーの物質的な体現、現代の言い回しでいえばイデオロギー・バイ・デザインという側面があり、機械とその社会的利用を区別することはできないと私は思う。この間違いにマルクスが陥ったのは、後述するように、商品論における使用価値批判の観点の希薄さが深く関連している。つまり、使用価値――生活手段であれ生産手段であれ――は、同時にイデオロギーの担い手でもあるという点への関心の欠如だ。工場の機械に関していえば、労働者を統制・制御しようとする意図がなければ、機械化は資本には受け入れられなかっただろう。
 他方で、マルクスは機械制大工業に先だつマニュファクチュアに関して、非常に示唆的なことを指摘している。マニュファクチュアで個々の労働者は全体の一部をなす部分労働者として適材適所で機械を操作する仕事をこなす。
「彼は、この作業ではより多くの力を、別の作業ではより多くの熟練を、また第三の作業ではより多くの精神的注意力、等々を発揮しなければならないが、これらの属性は同じ個人が同じ程度にそなえているものではない。いろいろな作業が分離され、独立化され、分立化されてからは、労働者たちは彼らの比較的すぐれた属性にしたがって区分され、分類され、編成される。彼らの生来の特殊性が基礎となってその上に分業が接木されるとすれば、ひとたび導入されたマニュファクチュアは、生来ただ一面的な特殊機能にしか役だたないような労働力を発達させる。今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さでそなえており、それらを同時に最も経済的に支出することになる(注5)」
 ここで「全体労働者」と呼んでいるのは、文字どおりの意味での労働者ではなく、分業によって様々な作業工程を担う労働者組織が機械とともに構成する全体のことである。この全体に対して、実際の労働者は「部分労働者」として全体の秩序に従属する。「部分労働者の一面性が、そしてその不完全性さえもが、全体労働者の手足としては彼の完全性になる」わけだが、この全体労働者が資本の組織そのものということになる。この全体労働者と部分労働者の構造は、事務・サービス労働が機械化される過程を理解するうえで重要な観点でもある。
 機械化が進んでいない時代の事務労働組織は、官僚制に典型的なように、人間の作業を法や規則によって規制し、労働者の能力を個人の適性によってある特定の作業に特化し、それらを相互に繋ぐことで組織全体=全体労働者としての機能を発揮させる。個々の労働者は全体に対する部分として器官化される。書類作成の過程にタイプライターが導入されると、この作業が単純労働化されて、書類のコンテンツ作成から切り離されて純粋な文字入力作業になり、熟練の解体へと向かう。文字を書く作業がこうして、直接的な文章作成に必要な知的な作業と、この作業の結果を印字して書類にするというアウトプットに切り分けられ、後者が機械化されるにつれて労働者は意味を剥奪された「タイピスト」という労働に特化される。ここで構築される書類の「意味」は資本によって制御される。労働者は資本の論理に沿って意味を文字として対象化する。ここでは、彼/彼女にとって意味がある労働とはならない。
 のちの議論を先取りしていえば、CTCが支配的な時代の独自の機械=コンピューターは、多数の部分労働者を結合した全体労働者の位置を占める。労働過程の錯綜した作業工程に必要な様々な作業、たとえば、熟練、大量のルーチン作業、高速のデータ処理、高度な解析作業などがそれぞれに特化したアプリケーションに振り向けられ、労働者は、彼/彼女のスキルに応じてコンピューター・プログラムによる処理を補助できるように労働組織が区分、分類、編成される。システムエンジニア、プログラマといった技術職からデータ入力やモニターの監視などの比較的単純な作業、処理されたデータに基づくコンピューターによる意思決定に対して人間の組織として最終的な確認をおこなうことなど、労働者は個別化されながらコンピューターのシステムに沿って組織全体に、つまり資本に結合される。労働者は、コンピューター・システムという「全体労働者」の機能=器官に転化することによって組織の規則性が維持される。古典的な工業化では、肉体的な行為を徐々に機械に譲るなかで、労働者は、機械の補助労働へと周辺化される一方で、機械が果たすことができない判断や思考に直接間接関わる部分を担うようにもなる。事務やサービス労働もまた、そのなかから計算機によって処理可能な労働を切り離して機械に委ねるようになる。20世紀の事務・サービス労働で起きてきた機械化の過程は、製造業がマニュファクチュアで機械が徐々に導入されるなかで起きてきた労働者の排除と機械による置き換えの過程と、その資本の意図と構造に即せば、ほぼ相似形である。ただし、今度は、人間の精神的・心理的な側面に機械が深く関与するようになったという意味で、人間にとってはより侵襲的な過程になっている。そして、この精神的・心理的な過程がコミュニケーション過程でもあることから、この問題は、狭義の資本の生産過程や流通過程を超えて〈労働力〉再生産過程、つまり私生活領域に接合されることになる。
 機械への批判を、ラダイトのような機械の拒否でもなく、またその社会的利用形態だけを資本主義のそれから切り離しさえすれば無毒化できるわけでもないとすれば、どうすべきなのか。資本主義的な技術開発から質的に切断されたテクノロジーをどのようにすれば獲得できるのか、という方向で問題を立て直す必要がある。こうした意味でのテクノロジーにおけるオルタナティブが真剣に議論されるようになるのは、核技術や公害、環境破壊が深刻になる一方で、マスメディアが人々の心の支配に深刻な影響を及ぼすようになってきたことへの批判が自覚的に提起される20世紀半ばを待たなければならない。またコンピューターの大衆化が到来した20世紀末に、ふたたびラダイトの影がコンピューターに向けられたこともまた忘れてはならない(注6)。

資本の秘技

 資本の投資動機が最大限利潤の追求であることをふまえれば、資本主義における機械は、「労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきもの」、つまり「剰余価値を生産するための手段」であるという基本線は、現在に至るまで一貫している。しかし、機械の普及についての資本の大衆向けの正当化の主張は、人類の普遍的な進歩の体現としての機械とその発明が結果として、資本に利潤というご褒美を与えるのだという神話を構築することによって、資本の存在理由を文明の進歩の証しとして正当化しようとするものだ。こうした主張が万国博覧会のようなメガイベントを通じて人々のなかに資本主義の「未来世界」を印象づけることになる(注7)。機械を人類の歴史的な社会の存在様式から切り離して普遍化あるいは進歩の宿命とみなす考え方とマルクスの理解との間には、資本主義をその唯一の実現可能な制度とするか否かという点を除けば、共通した認識に立っているところがある。自然科学の応用としての技術の体系が資本主義と共通のものに基づくオルタナティブな社会なるものがありうるとして、それがはたして労働者の労働を解放された人間の行為の地位に据えるようになりうるのか、私はこの点についてはきわめて懐疑的だ。したがって、こうした抽象的・自然科学的唯物論に対して、私は、機械を明確にその設計思想も含めて歴史的な過程の産物であり、資本主義という固有の社会がもたらした特殊歴史的な技術の具体的なありかたであって、未来社会にまでその遺産を継承すべきかどうかはあらためて検証すべき課題だという点をはっきりさせる必要があると思う。
 機械が人類史のなかで長い歴史をもつ「道具」とどのように本質的に異なる意義をもつのかという問題は、機械が登場した資本主義という時代の特異性と、この時代に機械が人間労働の客観的な環境として資本によって導入されることによって生じた労働者の「労働」そのものの変容の問題でもある。機械の導入のなかでの労働の変容を通じて、一方で資本にとっては有機的構成の高度化を通じた相対的剰余価値の生産という特異な資本主義的な経済成長を実現する。労働そのものの大きな変容は、全体的労働者から部分的労働者へ、労働者のコミュニティのなかで「秘技」として伝承されてきた熟練が機械に翻訳可能な知識として資本が収奪するという事態を招く。『資本論』には次のような記述がある。
「ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業がmysteries(myste’res[秘技])と呼ばれて、その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしたヴェールは、大工業によって引き裂かれた(注8)」
 では、大工業はどのようにしてこのヴェールをひきちぎったのだろうか。マルクスはこの秘技が近代工業化のなかで、機械化によって自然科学による意識的で計画的なもとのになったことを評価する。
「大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行われるという少数の大きな基本的な運動形態を発見した(略)近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである(注9)」
 秘技としてしか伝承されなかった社会的な生産に不可欠な技術が科学的な知見によって、また機械を発明することになる過程を通じて、秘技から解放され不断の発達あるいは進歩を可能にしたとみる。「自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された」というときの「意識的」の主体は、資本主義では、先の述べたように「全体労働者」としての資本によって、資本の利潤追求というその特性によって、意識的・計画的・体系的に応用される。同時に、複雑な生産的行動が基本的な運動形態に還元可能だという場合もまた、それは資本にとっての「基本的な運動形態」認識だという制約がある。
 秘技の問題は、単なる労働の熟練技能の問題なのではなく、労働者が労働の現場を自らの意思で支配することを可能にする固有の労働のリズムの問題でもあり、同時に、雇用契約が労働とその報酬(賃金)をリンクさせることによって、より勤勉に資本家に対して従順に働くことでより高い報酬が得られるという近代的な労働のエートスの罠が有効性を必ずしももたなかった長い資本主義初期の時代の労働者の生活世界のありかたとも密接に関わっている。E.P.トムスンが述べているように(注10)、この機械化以前からラダイトの頃の機械化初期に至る時代のなかで、労働者たちにとっては、賃金のための勤勉な労働よりも、昨日と同じ今日の生活が確保できればよく、余計に働くよりは酒を呑むことを選び、また、工場に出稼ぎにきていた労働者達は収穫期になれば工場の労働を放棄して収穫の作業のために帰省してしまう。どのようにどれだけ働くかは自分たちの生活のリズムのなかで自分たちが決めることであって、資本家が口出しすべきことではなかった。こうした労働現場の自立性が労働の秘技として伝承されてきた実際の内容ではないか、とも思う(注11)。
 ここで問題になるのが、技術と資本の本源的蓄積過程との関連である。本源的蓄積とは資本主義にとって必須の前提条件となる〈労働力〉と土地の商品化を可能にする社会変容過程を意味し、歴史的にはイギリスの囲い込み運動がその典型とみなされるが、この過程は現在に至るまで繰り返し引き起されている恒常的な現象でもある。商品化される〈労働力〉をめぐる問題は、工業化のなかで、もっぱら自らの〈労働力〉を商品として売る以外に生存の手段をもたない無産者の社会的大量の出現によって、労働市場が形成され、資本はこの〈労働力〉を調達することによって生産過程を編成する、という一連の過程が生み出されることになる。ここで、この過程を理論的に論じる場合に念頭に置かれてきたのは、労働者の日常生活とその文化を捨象して工場の肉体労働の担い手としての単純労働者の存在だった。労働者が単純労働者として登場する回路は、そもそも熟練をもたない労働者たち(そのなかには、「秘技」から排除されていた農村から流入した労働者や子ども、女性が含まれた)と、機械化によって衰退した熟練労働者の単純労働者化がある。上の引用でマルクスが言及しているのは後者との関連である。労働者が「秘技」としての技能を奪われる過程は、マルクスが指摘するような自然科学の機械への応用といった過程をとったとみるとしても、社会の生産関係のなかでみれば、熟練の技能を資本は自然科学による応用が可能な「知識」に変換すると同時に、この知識を資本の所有として独占しようとする過程、つまり、労働者の部分労働者化、資本の「全体労働者」化でもあり、実際には容易な過程ではない。むしろこの容易ならざる過程の結果として、手に負えない労働者の頑固な生活様式に対抗する有効な手段として、繰り返し新たな機械が発明され導入された。この経緯は、マルクスもアンドリュー・ユアの『マニュファクチュアの哲学』(全集版『資本論』の翻訳では『工場の哲学』と訳されている)やチャールズ・バベジを参照しながら論じていた。そして、近代化によって「秘技」から解放された技術は、資本による機械化のなかで、今度は特許という近代的「秘技」によって資本によって労働者から隠され、生産の社会的性格が私的所有によって制約される典型的な資本の利潤構造のなかに取り込まれることになる。
 ところで、機械のリズムによって伝統的な労働者の生活様式を解体できたのかというとそうでもない。ユアは機械化に果たしたアークライトの業績を賞賛しながらも、「システムが完璧に組織され、また労働が極度に軽減されている現在でさえ、農村出身であれ職人出身であれ、思春期を過ぎた年齢の人びとを役に立つ工場労働者に変えることは、じつのところ、ほとんど不可能である」と述べている。つまり、労働者の日常生活が資本主義的な規則に従属するようになった経緯を機械による労働の規則的な行為への転換という方法で実現するにはあきらかな限界があったのだ。単純労働者は容易に取り替えがきくから、解雇が容易であることは事実としても、逆に単純労働者もまた、熟練工の秘技による排除を回避して資本を渡り歩き、よりよい条件(賃金ではなく自由なリズムでの生活)が可能な職場を探し歩くことも可能にした。ユアは機械だけでなく、また力による抑圧だけでもなく、「道徳律」の重要性を強調する。
「どの工場所有者にとっても、比類ない関心事は、機械装置の場合と同じくらい強固な原理にもとづいて道徳装置を編成することにある。そうしなければ工場所有者は、すぐれた生産物に欠かせない、確かな手の動きや、注意深いまなざしや、素早い協力などを支配できないのだから(注12)」
 この道徳律を労働者階級のなかに浸透させるうえで重要な役割を果たしたのが、ジョン・ウェスレーが創設したキリスト教のメソジストだった。メソジストが労働者階級に大きな影響をもった点にE.P.トムスンは着目した。トムスンは労働規律としてのメソジスムの効用は明確であって「多くの労働者がこの心理的な搾取に屈服した(注13)」と述べ、その経緯を子細に論じてもいる。メソジストの教義そのものはきわめて厳格であって、子どものしつけはいまでいえば虐待とみなされてもおかしくないほどの厳格さを要求していて、19世紀末の研究者でさえメソジストの道徳律を「恐しい宗教的テロリズムの体制(注14)」と述べているほどだ。しかし、むしろこの教義が実際のコミュニティのなかでは様々に変形されたり緩められたりしながらも、新興の教会が、閉塞した労働者の精神的な拠りどころになる経緯は、現代のドナルド・トランプ政権下での福音派やイスラム国など、多様な形で存在する宗教的な意識と共通するところが多い。機械と道徳が一体となった「装置」として人口を制御するシステムが求められていたという点は、労働者の階級意識と階級闘争、あるいは労働をめぐる道徳律と拒否をめぐる反資本主義運動内部に現在に至るまで持ち越されてきた課題を、19世紀の機械の時代にも見いだせるということでもあり、機械と道徳の問題がいかに資本主義の本質と密接に関わる課題であるのかを示してもいる。だから、本連載の関心はコンピューターという機械が要求する道徳装置の編成という課題を通じて、創造的なラダイトの可能性をどこに見いだせるのか、ということにもなるだろう。
 民衆が近代資本主義のなかで労働者として再定義されるなかで、機械と市場の合理主義によって、その意識が一方的に規定されるというよりも、この経済的土台が要請する意識を道徳律によって補完する場合に、ある種の宗教的な信仰に依存しながら、近代社会における封建制や前近代社会とは異なるコミュニティの人格依存的な紐帯の再構築がなされることになる。この過程で、労働者の労働に関わる知識は宙吊りにされて資本の側に囲い込まれることになる。この知識の資本による占有が、資本主義における私的所有がもたらしたあまり注目されてこなかった側面だが、それが情報資本主義からコンピューターによる資本主義のなかで中心的な役割を担うようになる。

1-2 身体性の搾取をめぐるコンテクスト

知識・技術・身体性の搾取

 労働者の知識、あるいはより一般的にいって民衆の知識が近代資本主義では資本の「知識」として囲い込まれて私有化されるという問題は、身体の〈労働力〉化にともなう重要な局面だ。労働者は肉体労働を資本の機械に従属させられるだけでなく、労働=生産過程に必要な知識を細分化され、意味を剥奪されて資本に独占され、その知識の共有を阻まれる。
 資本の生産=流通の全過程を、生産手段と〈労働力〉の結合による生産物の生産と、この生産物の流通と市場での貨幣への転化という観点から、資本と労働者の間で知識の流れがどのように構成されているのかをみると、労働者は一貫してその知識を機械と資本家による監督のなかで抑制されるか、資本家が与える知識の流れに自らの意識を同期させることを強いられていることがわかる。この過程は、一般に生産手段の私的所有に伴う特許や知的財産権としての側面と、同様の効果を労働者の側に及ぼす特殊資本主義的な知識の占有過程でもある。一方が機械をめぐる技術に関わる私的所有であるとすると、もう一方は〈労働力〉商品化によって労働者が引き渡すことになるのは、彼の知的能力の資本による抑圧や囲い込み、つまり道徳律の貫徹の過程、トムスンがいう「心理的搾取」だった。これはいずれも、本来は労働者に帰属すべきものが資本家の技術あるいは知識として現象するものだともいえるが、むしろ、機械の設計思想と資本による労働組織に知的所有と心理的搾取を組み込むこと、つまり、exploitation by designが内在していることを見逃すわけにはいかない。こうした技術は、生産過程に関わるものだけでなく、資本の流通過程に関わる技術や会計、労務管理、商品の販売といった一連の技術として、市場と資本の組織に固有のものとして、資本主義的な意識の形成を伴う特殊歴史的な発展を遂げる。この一連の過程を私は意味の剥奪と呼んできた。剥奪された意味の空白を埋める代替的な意味が、19世紀であればメソジストに象徴的に現れた宗教的な信条だったように、何らかの意味によって埋め合わされる必要がある。この支配的な埋め合わせと階級意識、反資本主義の意識との対抗関係こそが、イデオロギーの領域での重要な闘争課題になる。したがって、心理的搾取をレトリックとみなすべきではなく、こうした搾取は剰余労働の搾取とともに資本主義における搾取の重要な側面であって、この意味での搾取からの解放もまた、コミュニズムの重要な主題となるべきものだ。
 この知識の私的所有、あるいは心理的搾取は、資本の直接的な支配の領域を超えて人々の日常生活領域にも深い影響を及ぼすようになる。消費生活の水準が「向上」すればするほどその傾向が顕著になる。20世紀の資本主義は、文化産業あるいはメディア産業の成長に伴う知の商品化、あるいはコミュニケーションの市場経済への統合によってこの生活世界への浸透が進展する時代となる。大衆文化としての映画、ラジオ、テレビといったメディアのコンテンツが知的財産として資本の所有に帰してきたという20世紀の歴史があったからこそ、コンピューター化の歴史とプロプライエタリなソフトウエアによる不透明でブラックボックス化するコミュニケーション制御技術の生活過程への浸透が可能になった。歴史的にみれば重商主義のイギリスが最初に導入したといわれる技術をめぐる特許制度、1624年の専売条例にまで遡ることができる知の商品化過程と〈労働力〉の意識を一定の道徳律によって制御するために宗教的な信条を動員する非合理な世界が、21世紀のコンピューター化による資本主義へと継承される、とみることができるだろう。ここには、合理主義と非合理主義の資本主義的な不器用な「統一」の試行錯誤をめぐる歴史がある。かつて機械が労働者の日常生活のリズムをも制御することができず、結局は道徳律を宗教的な非合理に委ねざるをえなかったように、コンピューターのコードやプログラムもまたそれ自身の内在的な合理性によっては人間の非合理な行為を制御することはできず、やはり宗教的な非合理に委ねざるをえない事態が顕著にみえる(注15)。
 私が関心をもつのは、労働の主体である労働者としての役割を担う人間の生存様式そのもの変容とは、資本による形式的包摂の段階から、単純労働化、知識の資本による囲い込みを経て、資本による実質的包摂へと変容させる一連の過程がもたらす全体的な心身変容である、という点だ。剰余労働に限定されることなく労働の総体が「搾取」される過程へと巻き込まれていくことを見逃してはならないと思う。マルクスが明らかにした経済的搾取が搾取の全体なのではなく、同時に、社会を統治する力を奪い(政治的搾取)、人間の自己理解を書き換え、存在の意味を剥奪することが搾取の全体を構成する。近代資本主義が人間を人間として扱いえないことを私は身体性の搾取と呼んだが(注16)、この搾取過程は、いわゆる経済的貧困の問題に限定されないのであって、意味の剥奪と資本による意味の再構築を伴う総体としての人間そのものの資本主義的な再構成である。これがコンピューター化によるデータ化する人間の前提になるとともに、コンピューター化による資本主義的な人間の進化の意味することにもなる。だから、剰余価値の搾取からの解放は、解放の戦略の必要条件であっても十分条件ではない。人間が「労働者」となることによって再構成される人間の意味が、膨大なデータに基づく可変的な客体として処理される現代の「私」は、搾取の実態を経験的な実感として捉えることができたと主観的に感じられたとしても、その実感を超えたところで、実感されない広大な領域に拡がる「私」の意味が搾取に晒されていて、これを取り戻す闘いは、社会的平等に基づく自由の領域の創造においてのみ可能なのであって、現代に固有の資本主義的生産様式とイデオロギーの構成の全く新しい地平での闘争の配置を必要とするだろう。
 19世紀から20世紀にかけて、資本と支配者たちは、プロレタリアートに社会変革の主体の位置を与えないような主体の変容をもたらす生産様式と生活様式の再構築を目指してきた。資本が導入するテクノロジーもまた、この視点を通じて評価されることが必要になるのは現代でも変らない。

経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド

 19世紀の機械制大工業への転換の時代を目撃したマルクスによる資本主義批判の理論的パラダイムの根本にある労働価値説は、労働を社会的富の根拠とし、資本の利潤の源泉を労働者の労働に見いだし、社会の豊かさは資本が生み出すのではなく労働者が生み出すものだから、資本が存在しなくても社会は存続可能であると指摘することによって、資本主義の歴史的な限界を理論的に明確化し、19世紀の労働運動の正当性を根拠づける重要な役割を担った。『資本論』の刊行当時から現代に至るまで、彼の理論の核心にある労働価値説については厳しい拒絶にあってきた。マルクスの経済学が学問の世界で主流の位置を占めたことはない。労働が価値の源泉であるというマルスクの主張が必然的に導き出す資本家への道徳的な批判が、理論的な問題以上に支配階級の感情的な拒否を生み出したとE.J.ボブズボームは指摘している。この意味で、労働価値説は、理論的な批判に加えてイデオロギー的な「批判の砲火」を浴びることになる(注17)。
 20世紀初頭にかけて、資本主義は、マルクスの資本主義批判と労働運動、社会主義、コミュニズム、アナキズムの運動に直面して次のステップへと展開していく。一つには、資本主義の正当性、とりわけ資本が社会の豊かさを担う主体であり、市場経済がその不可欠な機構であることを証明しようとする一連の資本主義擁護の学説が登場する。いわゆる限界革命とよばれる経済学説の台頭である。労働価値説を否定し、労働者の労働と社会の富を結び付ける一切の論理を否定する理論体系が構築される。これが、のちにケインズ理論と呼ばれる考え方とあいまって、現在の主流の経済学を構成することになる。社会を数理的なモデルによって分析可能であるとみなし、マルクスが採用した弁証法的な論理構成をとらない。同時に、マルクスが実証主義を退けて、経験的な事実によっては論証しえない資本主義の搾取の構造を論じたのに対して、統計データを「事実」とみなしてデータを解析することによって、経済システムの動向を把握し、これを理論にフィードバックさせる方法が科学的な方法とみなされることになる。こうした支配的経済学がとる方法と理論の前提に置かれる資本主義は、コンピューター・テクノロジーが支配的な社会にあって、コンピューターのプログラムが前提する理論的な方法と共通する。つまり、経験や実感からは把握しえない社会の歴史的な構造を理解する方法をもたず、弁証法のような矛盾する要素をともにかかえこむことができず、与件とされたシステムは、与件そのものの否定という究極の否定としての結論をあらかじめ排除し、どのような結論も既存のシステムを維持することが前提される。
 19世紀が肉体的な熟練を単純化して資本の下への労働者の従属を可能にする基盤が形成されたとすると、20世紀は、この過程がいわゆる「精神労働」の世界で繰り返される時代だったとみることができる。「精神労働」の展開は二つの局面をもっていた。
 一つは、単純労働化した工場労働者をめぐる問題である。労働行為は、工場での物質的生産に関わる肉体労働だが、どのような肉体労働であれ、人間の労働であるかぎり「頭=脳」の問題を抜きにすることはできない。労働者が資本の管理・支配を受け入れるかどうかは、労働者の意思に関わる。前述したように、トムスンが論じた道徳律の形成にメソジストが果たしたような役割の構造から、資本はより積極的に、自らの資本の運動過程に意識を制御する仕組みを組み込むようになる。意思の問題を労働の単純化と機械への従属という客観的な環境を通じて強制する手法に加えて、労働者の意識そのものを資本に従属する意識へと変えるための技法の開発が20世紀資本主義が取り組んだ最大の課題だった。というのも、アントニオ・グラムシが述べていたように(注18)、労働者の労働が単純化したとしても、労働者の頭もまた単純化するわけではなく、単調な繰り返しの労働をこなしながら労働者たちは、頭を使って資本の支配への抵抗のための作戦を練ることが可能であり、労働者の意識を資本が直接支配することは容易なことではなったからだ。そして、マルクスもまた労働時間の短縮をめぐる闘争で、資本が長時間労働を追求するのは、単に、絶対的剰余価値の生産を求めようとする意図だけではなく、労働者に自由な時間を与えることのリスクを自覚していたからであり、逆に労働運動にとっては「労働時間の短縮は、精神的教養にあてるべきより多くの時間を労働者階級にあたえるためにも、絶対に必要」であり「彼らの究極の解放を達成するための第一歩(注19)」だと主張していた。その後の資本主義の展開をみればわかるように、労働時間の短縮によって生じる自由時間を資本は娯楽の時間として資本の消費過程に包摂した。非労働時間をめぐるこの階級闘争は同時にイデオロギーの再生産をめぐる闘争であり、意味をめぐる争奪でもあるのだが、労働運動がもっぱら労働時間の短縮を労働過程の過酷な労働の問題として理解してしまったために、自由時間と私生活を資本の支配下にみすみす譲り渡すことになった。20世紀の資本主義では、産業心理学が発達し、フォードは移民労働者の日常生活をアメリカ型のライフスタイルや英語教育などによって生活をまるごと資本主義の価値観によって包摂しようとした(注20)。こうした流れが、その後、大衆消費社会や「豊かな社会」としての資本主義モデルとイデオロギーの形成へと繋っていく。この問題は階級意識の解体とともに、20世紀には当たり前になる普通選挙権によって労働者もまた有権者としての政治的な権利を獲得したことに伴う国民国家への意識的な統合、すなわちナショナリズムの浸透を伴うために、労働者の国際主義もまた解体し、これが20世紀型の社会主義を標榜する権威主義国家の誕生を支えてしまう。
 21世紀の機械の問題は、この20世紀の資本による意識生産が限界を迎えるとともに、再び、現代のメソジスト的な様相の登場とともに新たな機能をまとうことになる。コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的な社会は、コンピューターをモノの生産から人々の意識の生産へ、意識の生産から感情の生産へと展開していく流れのなかの最後の段階、つまり感情を含む人間の「脳」の活動を代替しようとする一方で、コンピューターは、19世紀の機械制大工業のなかで機械が工場労働者の肉体労働を支配したように、人々の日常生活の言動を支配するための装置になるような方向をもって開発が重ねられてきた。その現在の帰結が人工知能の産業への応用から日常生活への応用へという広がりということになる。こうなると、技術をめぐる問題領域は、一方で機械をめぐる問題でありながら、他方で、コンピューターが関与するほとんどあらゆる産業分野を横断する構造転換(いわゆるデジタル・トランスフォーメーション)にとどまらず、コンピューターが媒介する人間のコミュニーション領域をも包含するようになる。CTCは、人間のコミュニケーションと融合する局面、つまり機械による(象徴的)言語や表現の領域と人間のそれとの関わりといった切り口を介して、人間の文化的な営為を巻き込み、経済的土台は上部構造と不可分一体のものになる技術的な前提を獲得することになる。人間の言語行為が、人間とは全く異なるプロセスによるAIの言語と競合し、あるいはコミュニケーションすることによって、それ自体が新たなコミュニケーションと言語環境を構成するという、これまでにはない世界が、資本主義の基本的な構造を前提として形成されつつある。これは技術決定論を意味しているのではなく、技術の展開ベクトルは、人間の言動を予測と操作を通じてコントロールしようとする資本主義社会が抱いている支配欲望の実現に一歩近づくことを意味している。資本主義にとっての最後のフロンティアが、人間の言動の未来領域を資本の領域のなかに確実に囲い込み、予測可能で操作可能な存在へと変えることによって切り開かれる領域だ。この課題の実現のために、資本主義はCTCに賭けた、といってもいい。

非合理性と近代の科学技術

 20世紀半ばに、ルイス・マンフォードは次のように述べている。
「人間の単なる動物状態からの離脱に伴なう不幸は多かったが、その報酬は大きかった。人間が幻想や計画、欲望や意匠、抽象や観念を日常経験の平凡なことと混合させる傾向は、今も見られるように、限りない創造力の重要な源であった。非合理と超合理を分ける明確な線はない。そして、この対立した能力を扱うことは、つねに人間の主な問題であった。技術と科学にたいする今日の解釈が皮相的であることの理由の一つは、人間文化のこの面が、人間存在の他の部分ばかりでなく超越的な願望と悪魔的な強制をも受け入れやすいこと―そして、今日ほどそれらを受け入れやすく、害を受けやすいことがなかったこと―が見落されていることである(注21)」
 支配者が人々の言動の将来を把握し支配したいと考えることは、いまに始まったことではない。支配者が予言や占いを好むように、彼らは未来永劫の支配者としての安泰をなによりも願望する。人類史あるいは文明史のなかで、近代も含めて、この領域の大半を占め、最も大きな影響力を発揮してきたのは宗教だった。近代は宗教を二番手に退かせ、科学がこれにとってかわるが、宗教的非合理は、科学には不可能な人々の心理と意識に対して深い情動を、しかも非合理性を前提としたそれを刻み込むことができるために、相変わらず維持されるか、文化のなかに伝統などとして姿を変えて人々の非合理な日常意識を支えることによって権力の正統性を支えつづけている(注22)。このことは前述した19世紀のメソジストの事例でも言及したとおりだ。
 実はコンピューターが日常のコミュニケーションの生活必需品になりながらも、大衆の日常生活行動――不/非合理で非科学的な振る舞いも少くない――は本質的な影響を受けないままだ。ほとんどの人々はコンピューターがどのようなメカニズムで作動しているのかを知らされないし、コンピューターを動かしているプログラムも理解すべき知識だとはみなされないどころか、むしろこの「秘技」から遠ざけようとさえされてきた。コミュニケーションを成り立たせている技術がどのような仕組みなのかわからないまま、企業や政府の宣伝を鵜呑みにしてコンピューターを受け入れてきた。もし人々が、合理的で科学的な精神をもち、コミュニケーションに関する人間の権利や基本的人権の憲法の理念を日常生活で具体的に実現することに関心があるとすれば、コンピューターのような複雑で理解することが困難なものは容易には受け入れられないはずだ。他方で、コンピューターの開発者やプログラマーは合理的な世界にどっぷり浸っているわけではなく、偏見や差別、あるいはカルト的な世界観を同時に抱いている場合があっても不思議ではない。この意味でコンピューターは、実は近代世界における人々の不/非合理な日常生活や情動、言動の世界と表裏一体であって、この矛盾した構造を超越したり解決する技術ではない。この問題は、21世紀のフェイクニュースやヘイトスピーチのような不合理な表現行為を考えるうえで重要なことなのだ。
 そもそも近代社会の支配的なシステムをなす「資本主義」とは、マルクスの議論を念頭に置いていえば、資本の経済支配と国家による統治権力の独占という二つの下位権力からなる歴史的な社会だ、ということになる。資本と呼ばれる経済組織(注23)が、社会を構成する人口の必要とするモノを供給し、同時に統治機構=国家のとって必要な財政的な裏付けを創出する。資本による市場経済が社会の経済を支配するようになり、人々の生存の基盤を根底から転換させた。とりわけ〈労働力〉と土地が市場で売買される商品になることによって、国家権力の基盤となる領土と人口が市場に接合されることになる。これが資本主義を歴史的にそれ以前の社会から区別する根拠をなすことになる。この意味で、国家もまた近代に固有の統治機構なのであって、文明と呼ばれる古代社会以降の様々な社会の統治機構との共通性は、近代国家がその正統性を確立するために持ち出してきたイデオロギー的な歴史のナラティブのなかで人工的に構築されたものだ。
 コンピューターによって接合された社会関係に規定された人間関係を生み出す直接的な歴史的前提が機械制大工業だったとすれば、そしてこの両者に共通する社会統治のシステムが市場と国家であるとすれば、この全体を規定している構造がどのようなものであるのかに関心を寄せることは、近代と呼ばれている社会のいまだそのなかから脱することもできず、またその次を見通すこともできていない現在、重要な意味あるアプローチだと思う。というのも、資本主義が歴史的社会として一貫性をもっているとすれば、この一貫性が工業化の社会にも、脱工業化=情報化=コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的となった社会にあっても共通した構造が見いだせなければならないからであり、さらには、20世紀の諸々のファシズムにも、いわゆる社会主義と呼ばれた体制と資本主義の体制の間にも、これらとは異なる価値観をもつと主張するいわゆる「西欧民主主義」も、見かけ上の対立はあるにしても、その背後にある共通した何かが「近代」という時間と空間の限定を定義することができるものになっていなければならないだろう。 私は、これを身体性の搾取である、と考えたいのだ。
〈労働力〉としての人間の誕生は、マルクスが本源的蓄積と呼んだ数世代にわたる身体性の再構築過程の結果であり、この過程は現在に至るまで継続している。人間が機械を操作する過程が資本の生産過程に組み込まれることをマルクスは死んだ労働による生きた労働の支配と呼んだが、この機械化を資本が好んだ理由は主に二つある。一つは、時間の効率性である。資本の回転速度が利潤率に影響することから、資本はスピードアップに異状に執着し、機械化を好んだ。機械によって速度を資本がコントロールできるようになり、人間動作の速度の限界は資本にとっての決定的な限界とはならなくなった。もう一つは、結果の確定性だ。設計図どおりに作動する機械が産出する結果をあらかじめ予測することは可能であって、これもまた予測が不確定な人間の労働(明日もまた今日と同じように働かせることができるかどうかは不確定だ)の不確定性を排除して機械を好むことになる。機械に具体化されたテクノロジーの基本的な開発の方向性は、この二つの要因、速度と予測によって規定されてきた。特に予測=計画という側面は、20世紀の「社会主義」も注目した。計画経済がマルスクのコミュニズムのイデオロギーを右翼的に転用したこのイデオロギーは、市場の不確実性を超克する可能性を秘めているものとある時期まで期待されていた。資本がその組織内部での計画性(予測可能性)を高進させながらも、市場そのものを計画的に調整しつつなおかつ「市場の自由」と両立させる方法は、資本による独占というナショナルな経済の一部でだけ実現可能な方法がせいぜいだったのに対して、「社会主義」は、ナショナルな経済全体を国家の計画経済として調整することを法的にも政治的にも正当化しうる枠組みをもつことで優位にあるとみなさた時代があった。
 他方で、「社会主義」の主流もまた合理性の勝利の社会的な体現、あるいは合理性を経済の物質的な基礎において実現することこそが人類の進歩の証しだと誤解した「進歩主義者」という側面では資本主義と進歩の観念を共有してしまった。これが、グローバルな標準としてのテクノロジーをもたらし、その結果として、私たちは文字どおりの意味でのオルタナティブを奪われた。マーガレット・サッチャーが言った意味でのオルタナティブの不可能は新自由主義の専売特許なのではなく、おしなべて、現にある社会システムの淵源をなす20世紀の支配的なイデオロギーのいずれでも体現されていたものだ。私たちが挑戦しなければならないのは、こうしたイデオロギーの殻を破ることにある。
 歴史が弁証法的な展開を遂げる典型的な例が、機械化として始まった資本主義をめぐる20世紀の歴史のなかに見いだすことができる。机上の空論でしかなかった国家経済計画の「社会主義」モデルを実現可能と過信した20世紀の国家社会主義(ナチズムのことではなく、20世紀に存在した社会主義を標榜する国民国家群のことだが)に対して、資本主義は、市場の無政府性というやっかいな問題をかかえ込んできた。資本にとって予測の不確実性は、資本の価値増殖の深刻な制約条件をなしている。競争による将来の不確実性は資本蓄積の足を常にひっぱる。だから競争によって優位に立ち、競争相手の資本を淘汰して独占を指向するわけだ。しかし、これだけで不確実性の問題は終わりではない。
 市場経済は、ほかの経済システム(カール・ポラニーの分類を借りれば、互酬と再分配ということになるが(注24))と決定的に異なるのは、モノの受け手(買い手)にモノの移動の決定権がある、という点だ。しかも、この決定権が、理念的なモデルでいえば、「個人」に帰属する。つまり、貨幣所有者でもある買い手が自分の欲望(ニーズ)に忠実に、欲しいモノを市場で購入する。買うかどうかの決定権は貨幣所有者が独占する。この買い手と売り手の非対称性は、売り手もまた、販売が実現して取得した貨幣を持って市場で買い手になるときには、貨幣所有者としての売買契約の独占的な決定権を握ることで相殺される。

1-3 融合する土台と上部構造――支配的構造の転換

構造的矛盾の資本主義的止揚

 マルクスが資本主義に対する批判的分析の方法として、法的諸関係や国家緒形態、さらには人間精神は「物質的な諸生活関係」に根ざしており、その解明は経済学の領域にあるとしたうえで、これを定式化した端的な文言を『資本論』の『経済学批判』の序言で書いた。これが土台と上部構造という社会全体の見取り図を描いたものとして解釈され、マルクス主義の社会観、あるいは唯物史観(史的唯物論)の定式と呼ばれて資本主義批判の基本的な視点として、俗流化されたり教条的な解釈がまかりとおってきたり、グラムシからルイ・アルチュセールまで資本主義批判の議論にとって欠かせない入り口になってきた。以下、私の議論は、これまでのマルクス主義の掟からするとやや異例の論点を提起することになるかもしれない。結論から述べてしまうと、ポスト・マルクスの時代――マルクス死後の時代のことで、マルクス主義の終焉を意味しているわけではない――の資本主義は、土台―上部構造という定式によるマルクス主義による資本主義批判への対抗の時代だとみることができる。資本が、上部構造の土台化、つまり法やイデオロギーなど統治機構を資本の価値増殖過程に組み込むこと、こうして経済的土台それ自体が上部構造の機能を担うという土台の上部構造化をもたらし、今度は、政治的な統治権力の不可欠な一部をなすようになった資本が、市場の構造に政治的な機能を組み込むことになる。国家の経済学ともいえる財政学は長い学問的伝統があるが、いま必要なのは、ほとんど未開拓な市場の政治学である。20世紀以降の資本主義は、この土台と上部構造を徐々に融合させることによって、マルクス主義の唯物史観に対抗してきた。これがポスト・マルクス、つまり20世紀資本主義における統治の弁証法過程だった。この歴史的経緯をふまえて、この資本主義の対応を脱線させることが左翼に課せられた課題なのであって、そうだとすれば、マルクスの定式に対する大胆なバージョンアップが必要だ、というのが私の主張だ。このなかで重要なことは、コミュニケーションの労働化と資本による包摂に始まり、文化やイデオロギーの領域が資本の投資対象となって市場に包摂され、イデオロギーそれ自体が資本の価値増殖の直接的な領域へと再編されてきたこの1世紀に及ぶ過程をふまえることだ。そして、この構図の上に、産業分野を横断し、市場と国家を横断する収斂技術としてのコンピュータ・テクノロジーを位置づけながら、その限界と矛盾を見いだすことだ。資本が唯物史観の定式を出し抜こうとして展開してきた資本主義延命の戦略は、商品の使用価値が生活過程で果たしたイデオロギー作用を徹底して活用することによって、〈労働力〉の意識領域を資本が占領する方向をとった。資本の本源的蓄積が、地理的な空間の私的所有に始まり、次第に公共空間の市場化(いわゆる規制緩和と民営化)を進めた20世紀資本主義のもう一つのフロンティアが日常生活意識という心理的な空間の囲い込みだった。そして、現在、この上部構造に残された最後の領域ともいえる法と政治による統治の領域と日常生活空間とを資本はコンピューター・テクノロジーのコードによって加重決定できるところにまで到達していると私は考えている。
 そもそものマルクスの『経済学批判』の唯物史観の定式と呼ばれている文章に立ち返ってみよう。定式とは以下の箇所だ。
「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる(注25)」
 資本主義は、このマルクスの指摘に対して、土台それ自身が上部構造を担い、また上部構造が土台となることで、そもそもの「矛盾」を解除する方向をとることで、資本主義的な発展の桎梏と社会革命を回避しようとした。これが20世紀から現在に至る資本主義による反革命の戦略だった。
 ここで私が注目したいのは、マルクスがなぜもっばら物質的生活に着目したのか、このことをどのように理解すべきなのか、である。物質的生活の生産様式こそが当時でいえば資本主義的生産様式の中核をなしており、市場経済もまたもっぱら物の生産の連鎖からなるものだった。植民地での工業原料の生産や必ずしも資本家的とは言い難い家族制生産様式(注26)を含む農業などを周辺に配置しながら、物の生産が主に社会の人口の大半の生活過程への資本の介入の回路だった。この物の商品としての回路を産業資本や商業資本が支配することを通じてしか、人口の〈労働力〉としての再生産過程に介入する術はなかったともいえる。
 存在が意識を規定するというマルクスの定式は、存在がますます直接的に意識そのものの生産過程となり、物質的な束縛から解き放たれて非物質的な存在へと拡張されることによって、資本主義的な完全性を実現しようとする過程へ向かう歴史的な傾向をふまえて再定義される必要がある。唯物論の立場は「物質」主義とは関係ないことをマルクスははっきりと自覚していた。
「生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。生産的労働者の概念は(略)労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである(注27)」
 資本が支配する生産領域が資本主義的な支配の中核をなすということ、19世紀の資本主義は、この狭い土台を通じて上部構造を、一方で労働者の生活過程を、他方で国家の統治機構を基礎づけるという限界があった。だから資本が労働者の生活に影響を及ぼす回路もまた「物質的」な生活手段に限定されざるをえなかったということでもある。マルクスによる生産における物質性の強調は、資本主義が工業化、機械化として発展してきた19世紀資本主義の特徴をふまえて資本主義への批判の核心を資本によって担われる物質性の領域に絞ったのだ。
 上の引用にあるマルスクの「教育工場」への言及は、当時であれば、ある種のたとえ話の域を出ないとしか理解されなかったかもしれないが、むしろこの「教育工場」こそが現代の資本主義の剰余価値生産の主要な現場になっている。こうして、資本の価値増殖が「物質的生産の部面の外」へとその支配地を広げてきたわけだが、マルクス以後の俗流マルクス主義が物質的生産にこだわる狭い労働者主義の罠にはまっているなかで、非物質労働領域に〈労働力〉を動員して剰余価値を生産してきた歴史的経緯を重視しなければならない。ただし、マルクスの上記の文章のなかで、生産的労働者を「労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す」ものと限定している箇所は、さらに踏み込んで、生産的労働者の領域、つまり剰余価値を形成する労働の領域には、直接的増殖手段のほかに――この「直接的」という概念を借りれば――「間接的増殖手段」が存在するのだ、ということをも視野に入れておく必要がある。間接的増殖の最も重要な領域が、生活過程のなかに組み込まれた労働、つまり家事労働領域である。資本との直接的雇用関係の外にあって、なおかつ賃金労働者の〈労働力〉の支出を可能にする〈労働力〉再生産過程を支える役割を担う家事労働もまた、価値増殖の担い手であるという観点をも視野に入れておく必要がある。この領域は、労働者の日常生活の価値観のなかに家父長制を組み込むうえで不可欠であって、この家族と人間関係は、のちに権威主義的なパーソナリティの形成をめぐる主要な戦場となる。そうだとすれば、私たちがマルクスの土台=上部構造論を現代資本主義の文脈のなかで評価する場合、中心に据えるべき観点は、その物質性ではなく、資本が生活手段として供給する商品の意識に対する意味形成作用――剥奪された意味の空白を埋める意味――であり、この作用を可能にする狭義の意味での資本の生産関係に還元できない歴史的な意識の再生産構造である。19世紀の限られた工業化の世界に生きたマルクスにとって、資本が供給する商品が非物質的な属性をもつものであるということを念頭の置くことは容易なことではなかったはずだ。それは、20世紀半ば以降になってやっと資本が包摂するようになった領域だからだ。そうだからこそ、この資本主義の展開に含意されている反マルクスの具体化を見逃すことができない。
 さて、非物質的労働の生産的労働としての組み込みのもう一つの重要な領域がある。それが、いわゆる「資本家的労働」としてマルクスが剰余価値を生まないとした資本の流通過程の労働(流通費用(注28)に関わる領域や商業資本のもとでの労働など)だ。
 20世紀の資本主義は、肉体労働を機械を通じて資本の実質的包摂として資本に服従させる一連のメカニズムを前提として、精神労働の実質的包摂が主題になった時代だといえる。これは、資本の規模の拡大に伴って、資本家的労働としてマルクスが分類した管理や資本の流通過程における労働(販売労働がその典型だろう)を労働者に分担させることが必要になった。資本家的労働はマルクスの分類では不生産的労働として剰余価値を生まないとされた。これは資本家本人が「労働」を担う場合を想定しての判断だが、こうした資本家的な活動が労働者に担われることによって、剰余労働がこの領域で新たに形成されることになる、という観点まではマルクスの時代には想定しがたかった。資本が担う「活動」は、モノの社会的な分配であり、生産ではないとみなされたわけだが、社会の維持には、社会の構成員が必要とするモノの適正な分配が不可欠であり、同時に生産と流通を通じた分業関係は、モノの生産と流通だけでなく、これを担う人間相互の関係に必然的に伴うコミュニケーション行為の存在があり、こうしたコミュニケーションもまた様々な労働者によって担われるようになることによって、コミュニエーション領域もまた生産的労働となり、剰余価値を形成するような構造変容を遂げる。必要労働は、労働者が賃金を介して購入する生活手段の価値を意味している。資本家的労働が労働者に担われることによって生産的労働へと転換し、剰余労働を生み出す労働になる。
 身体性の搾取の観点からすると、こうした量的な価値の側面とは別に、労働者が資本家的な意識を「装う」か「内面化」することを強いられる多くの労働が流通過程の労働を構成している、という問題がある。対面での人と人の関係のなかで構築されるサービス労働の多くが営業労働のように、資本の意図を代理して人に意識にはたらきかける労働だ。労働者でありながら資本家の役割を担えるのは、そこに行為の意味に特異な入れ替えが起きるからだ。労働者は階級としての存在に基づく意識ではなく、資本の有機的な機械という存在に基づく意識によって自らの意識を組み替えることになる。階級を資本に代替するこの意識の構造を媒介するのが「国民」意識になる。階級が国民として資本をも包含した意識集合のなかに組み込まれ、そしてそこから資本の意識へと切り替えられていく。〈労働力〉は国民的〈労働力〉として構築されることによって、資本の意識を装うことが可能になる。
 人間の意思(あるいは意志)の問題は、集合的には社会的諸意識形態として現れ、これが階級意識となる場合もあれば、ナショナリズムや宗教的な信仰として表出したり、これらが輻輳し複合したり摩擦を引き起こすこともあるわけだが、どのような「意思」を諸個人が抱こうとも、資本主義の一定の生産諸関係のなかに組み込まれる。人間の意識はその社会的存在によって規定されるために、人間の「意思」の多様性は、社会的存在という枠を超えることはできない。
 資本にとって、労働者としての諸個人は〈労働力〉の単なる担い手であることを期待するが、実際にはそうはいかない。人間は労働者や、ましてや〈労働力〉に還元できる存在ではないからだ。先にユアを引用した際にも述べたように、〈労働力〉それ自体は、資本主義的な生産諸関係のなかに組み込まれた社会諸関係の客体の一部をなすが、労働者あるいはその役割を担う人間は、自らの意思によって文字どおりの意味でも契約上であっても資本にとっては物のようには自由にしえない対象であって、資本はこうした労働者への戦略的な対処の必要を自覚せざるをえない(注29)。
 資本家的労働にかぎらず、人間のどのような行為を労働とみなして、生産的労働へと組み込み、剰余労働をそこから抽出するのかという問題は、あらかじめ決められているわけではない。むしろ市場経済と資本の投資行動のなかで、この生産的労働と剰余労働の形成の範囲が伸縮性をもって対応することになる。たとえば、家事労働は家族内にあって資本の間接的な支配しか受けていない段階では、その利潤への接合は、直接的な市場経済の計算構造のなかで剰余労働の利潤への転化の論理では説明できないが、家事労働領域が市場経済に組み込まれて資本によって供給される商品として登場するとき、直接的な剰余価値形成の構造の内部に組み込まれることになる。国家の官僚組織が住民管理のデータ処理を資本に外注するとき、住民管理の労働は直接的な剰余価値形成の労働に転化する。身体性の搾取は、この搾取の量的な側面を超えて意味の資本主義的な組み替えをおこなう。つまり、人間を〈労働力〉に繋ぎ止め、自由や平等の意味を資本主義のそれに置き換えることを通じて、資本主義からの解放という動機づけそのものを無化しようとする。この過程は、労働だけでなく、労働者が消費する商品の使用価値の意味―イデオロギー・バイ・デザイン―を通じて日常生活のなかで再生産される。こうして問題の観点は、資本によって市場化された領域によって供給される商品が社会的・政治的・精神的過程一般を制約するということそのものということになる。
 資本家にとってマルクスの定式ほど恐しく不安に駆られる規定はないだろう。資本は〈労働力〉を必須とする以上、労働者がその意識をその存在によって規定されざるをえないのであれば、資本家の立場を労働者が内面化する、つまり資本主義的な意識をもつことによって労働者でありながらその存在の本質=搾取される身体性としての生を資本家的に肯定するなどということはありえようがない、ということになるからだ。以降、資本の労働者に対する戦略(注30)は、資本家的な意識が労働者の存在を規定するという逆立ちした関係の構築へと向かう。つまり、マルクス以降の資本主義は、労働者性を基盤とする資本主義批判への応答として階級意識を回避する社会意識の意図的な形成を市場経済のなかにも統治機構のなかにも、そしてイデオロギーのありかたにも組み込むことになる。この資本による挑戦は不可能への挑戦でしかなく、解くことができない難問によってもたらされる矛盾と摩擦が資本主義の常態となる。この矛盾と摩擦が組織的な闘争になる場合もあれば、いわゆる社会的逸脱や社会病理とみなされる場合もあれば、私的な悲劇として片付けられてしまう場合もある。心理的な空間や生活空間を資本が支配する社会にあってはいかなる私的な事柄も社会的な矛盾の表出として解釈されなければならないが、逆に、様々な矛盾や病理を「個人」に還元したうえで解決の政策を構築することによって、国家と資本を免責するような「科学的」なパラダイムが支配的になる。そして、20世紀の歴史を通じて、資本主義が出したマルクスへの、あるいは階級闘争と階級意識を介した「社会革命」を阻止する戦略が、そもそものこの解決不能な矛盾を、土台の上部構造化、上部構造の土台化を通じて構造内部の矛盾を止揚するという方向だった。

資本主義の支配的構造

 経済構造=土台の上に法律的政治的上部構造が立ち、これに一定の社会的諸意識形態が対応する、というマルクスの枠組みに対して、ポスト・マルクスの時代に資本主義は、法・政治と意識諸形態を経済構造に組み込むことによって、土台=上部構造という構造の接合構造から両者を分かち難い一体のものとすることによって、土台と上部構造相互の摩擦を解消する方向へと展開していった。これを実現したのは、資本蓄積の主軸がCTC関連産業へとシフトし、統治機構の情報インフラを資本によって開発されたCTCが担うと同時に、民間部門が政府によっては把握しえない膨大な人口の個人データを収集し、独自に解析できる能力を獲得したことによる。こうして資本は、価値増殖の本性を維持しながら社会的・政治的および精神的生活過程全般を市場に統合する力を獲得した。他方で、政治的な権力は、政治的価値、つまり権力の不断の拡張=増殖を私的な領域や公共領域へ、そして市場へと拡張を図ろうとする。伝統的な手法は政治権力が独占する法の制定権力と徴税権力を用いて、行為者の行動を規制する方法になる。この法と税を入り口として市場と生活世界を政治権力に接合できるのは、人間が法の言語を理解し、対価なしに所得の一部を支払い手段(注31)として政府に対して貨幣を拠出することをよしとする心理がときには内面化されるからだが、そのためには言語の能力とともに社会規範や国家観念の資本主義的な正統性を教育を通じて訓育することが不可欠の条件になる。しかし統治機構には、こうした伝統的な官僚とは異なる新たな役割を担うテクノクラート集団が次第に台頭する。政治権力の側からすると、市場と人口を政治的権力の領域に統合すること、つまり、市場の政治化と家族への国家の介入こそが権力にとっての究極の目標となり、この目標の具体的な実現をCTCが可能にした。こうして、土台は上部構造を呑み込もうとし、上部構造もまた土台を呑み込もうとする。この資本主義的な市場経済の政治化と政治過程と生活過程の市場化という二重の展開は、マルクスが指摘した生産力と生産諸関係との矛盾の資本主義的な止揚という不可能な夢を追うことでもある。こうした傾向はCTCによって突然可能になったわけではない。むしろ20世紀の長い歴史的な背景なしには実現できないものともいえる。その最初の実験が、日本やドイツなども含むプロトタイプのファシズムとニューディールと一国社会主義であり、とりわけ、戦争による社会の総体的な統制の技術と、これを支えるテクノクラートの形成という前史があった。
 資本の拡張領域、上部構造の土台化は、民主主義そのものに深刻な影響をもたらす。従来の上部構造は、政治的権力の自己増殖装置でもあり、社会を構成する人々を権力に接合させるための構造であり、市場と資本の外部にあるものとされた。近代国家が民主主義の政体をとる場合、いわゆる「国民」というカテゴリーに組み込まれた諸個人は、歴史的には財産や性別、人種など様々な社会的属性によって制限されながらも、「主権者」として、法の下で平等な政治的な権利主体となりうるものだという共通理解が共有されてきた。他方で、資本の統治に関する意思決定主体のありかたはこれとは全く異なり、利害関係者に平等な意思決定への参加の権利は認められない強固なヒエラルキーが当然とされている。資本が法・政治過程を包摂し、政治的権力が資本をその一部として組み込むということは、従来の政治過程の民主主義が狭められ、政治的意思決定が資本のブラックボックスに移される危険性をはらむことになる。この一連の過程の物質的基礎をなすのがCTCである。
 新自由主義において顕著な傾向を示す公共サービスの市場への開放は、単なる統治機構の解体・縮小なのではなく、資本の側から眺めれば、資本が統治機構の一翼を政治的権力とともに担うようになることを意味し、その分、民主主義的な統治は後退する。そもそも国家や公権力の公共サービスへの民衆の側の依存という事態は、民衆の相互扶助の解体、つまり、プロレタリアートの自律した世界(注32)の解体を意味していた。そしていま起きつつある事態は、統治機構に僅かに残された民主主義的な権利領域が解体され、統治機構の重要なプロセスが資本の私的な領域に移されているということだ。他方で、ケインズ主義による「大きな政府」が開拓したのは、福祉や社会保障といった分野を民衆の生活世界から奪い、国家がこれに代位する過程――この過程は同時に、階級闘争に内在する支配的構造から自律する傾向を破壊する過程でもあった――であり、戦争に伴う総動員体制を可能にした。この点ではファシズムも「自由主義」陣営も変わるところはない。資本にも国家にも直接帰属することのなかった民衆の自律的な空間は、資本あるいは国家のいずれかの制度へと囲い込まれることになる。ケインズ主義と(新)自由主義はこの意味で、資本主義的な支配の不可分な二つの側面を示すものだ。19世紀までの資本主義では、支配的構造から相対的に自律した領域として民衆のコミュニケーションや文化といった領域が存在したが、20世紀以降、一方で公教育によって、他方で大衆文化の商品化によって、そして、情報通信や交通は政府の財政と民間資本が相互に協調しながら、社会インフラとして構築されることによって、この領域がイデオロギー装置化すると同時に資本の投資の主要な領域ともなることによって、古典的な市場とパラマーケット(広告のように市場に不可欠だが商品化されない情報の流通)の構造が総体として、ナショナルな性格をもつようになる。資本主義は、経済学の教科書にあるような無国籍な市場ではなく、ナショナルな市場でありナショナルなパラマーケットであり、ナショナルな〈労働力〉であり、ナショナルな使用価値の意味体系を再生産する構造を高度化させる。インターネットが市場に開放されて大衆的なコニュニケーションのツールとなることで支配的な(イデオロギー)装置となる直前の時代、つまり、世界を席巻した1980年代の新自由主義も、こうした文脈のなかで理解する必要がある。
 インターネット以降を念頭に置くとすると、その草創期、とくに民間への開放直後に短期間だが、インターネットが国境を越えるネットワークであるというその技術的な基盤から、国家の統治から自由になりうる可能性に期待する声があったし、私も期待した一人だ(注33)。この期待はいまでもその可能性を残しているが、かなり大きく後退してきた。ただし、強調しておきたいが、後退したとしても、各国の政府も企業も完全にインターネットのコミュニケーションを自らの支配下に置くことはできていない。それは技術の問題ではなく、人間のコミュニケーションだからであり、コミュニケーションの自由を維持することが死活問題となる領域が存在するからだ。つまり、様々な傾向をもつ政治的な異議申し立てや抵抗が――このなかには私にとっては全く同意することができない極右やいわゆる宗教原理主義者たちによるものも含まれる――存在するからだ。だから暗号や、これと密接に関わる仮想通貨、捜査機関が侮蔑的に「闇サイト」と呼ぶ匿名性の空間が存在し、さらに私たちはアナログの権利を手放してはいないし(注34)、ウイルス作成罪があるとはいえ、かなりのところまでプログラムを書く自由を維持している。これらは、支配的構造に完全には包摂されていない空間である。
 この連載の後半では、ここで述べたインターネットの時代を対象にして議論をするが、その前に、本章で述べたやや抽象的な議論を、具体的な事例を通じて考えるてみるのが次章以降のテーマになる。コンピューター以前の時代の人間をデータ化し監視・管理する技術を通じて、大量監視の問題は近代資本主義が本性としてもっている人間観に根差しており、監視社会なき資本主義というリベラリズムの夢は現実にはなりえないことを論じる。


(1)“Francis Fukuyama interview:’Socialism ought to come back’”(https://www.newstatesman.com/culture/observations/2018/10/francis-fukuyama-interview-socialism-ought-come-back)
(2)マルクスは労働と労働力を概念的に明確に区別して把握することによって、剰余労働の存在を明かにすることに成功した。 本連載で〈労働力〉とカッコに括って表記する場合がある。これは、人間の労働能力そのものが可変であり、労働者による労働する意思に依存することを明示するための表現だ。労働者がどれだけの能力を発揮しようとするのかという問題は、労使関係のなかで重要な意味をもつ。たとえば、労働する能力を有しながら労働力の発揮をあえて抑制したり停止する(ストライキ)ことは労働者の重要な主体的な側面である。〈労働力〉は変数としての労働力の表現である。したがって、〈労働力〉とは、可能態としての人間の労働能力を指し、これが市場で売買されることになる。〈労働力〉は、伝統的な労働市場では、求人票に記載されているような内容によって固定化される。現実態としての労働能力を市場で売買可能な「枠組み」として提示しうる形式とすることで市場の契約に適応させることになる。コンピューターが支配的な技術になる時代では、資本が労働者の能力を判定するためのデータセットとしてより高度化されることになる。
(3)マルクスの機械についての基本的な考え方については、1868年7月28日に総評議会会議での発言が端的でわかりやすい。「資本家による機械の使用の結果についてのマルクスの演説の記録」、全集第16巻。
(4)『資本論』第1巻、全集23a、560ページ。
(5)注(3)参照
(6) Chris Carlsson, “Processed World: A Political History,” 2019, https://notesfrombelow.org/article/processed-world. Bryan Appleyard,”The New Luddites: Why Former Digital Prophets Are Turning Against Tech”
(7)「この博覧会は、現代大工業が、いたるところで集中された力をもって、民族的境界をとりのぞき、生産や社会関係やそれぞれの民族の性格における地方的特殊性をますます消し去っていることの適切な証明である。博覧会は、現代のブルジョア的関係がすでにすべての方面から掘りくずされているまさにその時にあたって、現代工業の生産力の送料を小さな空間に圧縮して観覧に供することによって、同時に、この土台からゆらいでいる状態のただなかで新社会の建設のためにつくりだされた材料、また日ごとにつくりだされつつある材料を展示するのである」。マルクス゠エンゲルス「論評」、『全集』第7巻。441ページ。「資本家階級は、人類社会がかつてもった富のなかで最も巨大な富のただなかにありながら貧困の運命をになわされている労働者の製作品を、凝視し嘆賞するために、富者と権勢者を万国博覧会に招待している。労働の解放と、賃金制度の廃止と、性別、国籍にかかわりなくだれしもが、共同労働によってつくりだされた富を享有する権利をもつ社会の樹立につとめているわれわれ社会主義者―そのわれわれが、7月14日、パリにおいて会合しようと約束するのは、この労働者となのである」。1889年、パリ万博開催にぶつけて国際社会主義労働者大会がパリで開催された際のエンゲルスによる「招集の知らせ」、『全集』第21巻、555ページ。
(8)『資本論』第1巻a、633ページ
(9)『資本論』第1巻a、633-634ページ
(10)「小農や、まだ囲い込まれていない村落の農業労働者、また都市部の職人や徒弟でさえ、労働の報酬を貨幣収入だけで計算していたのではない。彼らは、毎週毎週規律に従って働くという考え方に反抗したのである」。E.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』市橋秀夫/芳賀健一訳、青弓社、425ページ
(11)本連載では取り上げる余裕がないが、戦前から戦後にかけて、日本には固有の技術論論争の歴史があり、現代のコンピューター・テクノロジーが支配的になった時代からかつての技術論論争を総括することは重要な課題だ。
(12)トムスン、前掲書、430ページから再引用。
(13)トムスン、前掲書、446ページ
(14)トムスン、前掲書、445ページ
(15)こうした技術に関わる知識はそれ自体は物質的な存在ではないが、明らかに経済的土台の一部をなす。この知識自体の背景をなすのは単なる自然科学だけではなく、自然科学を支えた世界観にまで視野を広げなければ近代科学の技術との接点も明らかにならないだろう。この意味で、ルイス・マンフォードが文化や技術の象徴的な側面への着目をマルクスの技術論と和解させる観点が必要になるかもしれない。ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、参照。
(16)小倉利丸『搾取される身体性』青弓社、参照。
(17)「おそらく、批判の砲火が、これらのもの[労働価値説、利潤と利子の理論]に集中されたのは、『労働は、あらゆる価値の源泉である』という語句にふくまれている道徳的非難が、資本主義の衰退と崩壊との予言以上に、資本主義の確固とした信奉者に影響をあたえた」。E.J.ホブズボーム『イギリス労働史研究』鈴木幹久/永井義雄訳、ミネルヴァ書房、219ページ
(18)「肉体労働だけが完全に機械化されるのである。(略)自由で何物にも邪魔されない頭脳は別の仕事のために残されるのである」「アメリカの企業家たちは新しい産業方式に固有のこの弁証法を極めてよく理解した。(略)労働者は考えるだけでなく、作業から直接の満足を得ておらず調教されたゴリラに変えられようとしているのを理解しているという事実から、ほとんど順応主義でない思考の流れに向かう可能性がある。企業家たちの中にこのような懸念が存在していることは、フォードの諸著作やフィリップの著述から引き出すことができる一連のの予防策や『教育的』イニシアチブ全体から明らかである」。アントニオ・グラムシ『ノート22、アメリカニズムとフォーディズム』東京グラムシ会『獄中ノート』研究会訳、いりす、89ページ
(19)マルクス「労働時間の短縮についてのマルクスの演説の記録」、全集16巻、553ページ
(20)小倉利丸『支配の「経済学」』れんが書房新社、参照
(21)ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、55ページ
(22)だから、「暦」はいまだに宗教暦に依存しており、日常用語には多くの非合理な言い回しが残り、人々は事実よりも「信じうること」を受け入れる。
(23)資本は日常語では投資のための資金などを指すが、マルクスは「自己増殖する価値の運動体」と定義している。この定義からすると、資本とは資金、〈労働力〉、様々な設備、労働者と経営者からなる人間集団組織などが利潤を目的として一体となって「運動」する組織体そのものということになる。
(24)カール・ポラニー『大転換』野口建彦/栖原学訳、東洋経済新報社、参照
(25)マルクス『経済学批判』、全集第13巻、6ページ
(26)C.メイヤスー『家族制共同体の理論 経済人類学の課題』川田順造/原口武彦訳、筑摩書房、参照
(27)マルクス『資本論』第1巻、全集23b、660ページ
(28)マルクス『資本論』第2巻第6章、参照
(29)人間の意思や意識を制御するという資本の願望が20世紀資本主義の主要な課題をなしてきた。これを国家の側から捉えたとき、そこにナショナリズムの問題が表出する。しかし、こうした意識を監視のテクノロジーによって直接捉えるまでには長い時間がかかった。監視技術は工場では機械体系による労働の組織化によって実現することができたが、国家という枠組みのなかでは、産業組織に該当するような機械体系は存在しない。これに代わるものが、次章の課題になるが、人口を管理するために導入された様々な統計と技術による「全体機械」である。現代のCTCはナショナリズムという意識形態を再生産する経済的土台が上部構造として機能するという方向をとることによって、「階級」意識を解体する資本主義の反マルクス戦略でもある。
(30)本来なら資本と国家の労働者に対する戦略とすべきか、あるいは資本と国家の人口に対する戦略としてより一般的に論じなければならない問題だが、定式をふまえた議論としてあえて「資本」に絞った。また、こうした限定や一般化は、ジェンダーやエスニシティといった無視することそれ自体が理論の死活に関わる観点をも無視した議論になっている。ジェンダーとエスニシティを明確に論点の中核に据えた理論構築がなされるとすると、私が本連載で論じたことの大半は、そのままでは通用しなくなる。しかし、いまの私の能力ではこのような再構成を全面的に試みることができない。
(31)支払手段とは、富の一方的な移転としての貨幣の使用を指す。商品の購入のための貨幣の支出は「購買手段」であり、日常用語ではほぼ同義で用いられるが、マルクスの定義に従って、ここでは区別している。
(32)この世界は、実体として、地理的空間的のどこかに実在するものである必要は必ずしもないが、その可能性を示唆するような現実の運動の存在は重要である。20世紀の初頭まで、つまり、ファシズム、スターリン主義、ケインズ主義が登場することによって、こうした空間は先進国では国家の「福祉・社会保障」によって解体される。その後の長い歴史を省略してインターネット以後に限るとすると、サパティスタや都市部に点在する住宅占拠の空間(ハキム・ベイがいうT.A.Z)など、私たちが想像力を刺激される運動は多くある。
(33)「サイバースペース独立宣言」1996年。日本語訳( http://www.asyura2.com/2003/dispute6/msg/284.html)
(34)宮崎俊郎「デジタル監視法は超監視社会を招来する! アナログ選択権の行使を!」(https://www.jca.apc.org/shiminren/?p=152)

 

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序章 資本主義批判のアップデートのために

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

 私たちが生きる社会を、文化や伝統を引き合いに出して肯定的に賛美するような言説は、あたかもいまここにある現実を悠久の人類の歴史と未来永劫続く人類の歩みのなかに位置づけることによって、この現実を暗黙のうちに正当化して肯定しようとする保守的で排他的な願望が必ずといっていいほど含まれている。結果として、いまある現実を肯定して生きる以外の選択肢を模索する努力を最初から断念させる。こうして、いまある現実を与件としたうえで、いま可能な微調整(実現可能な対案)に限定するということこそが分別ある行為だとみなされる。
 とりわけ日本に関していえば、数世代にわたって私たちの記憶には、民衆の力が権力を打ち倒すといった劇的な歴史がなく、もっぱら抗いがたいほどの力をもって支配者たちが連綿としてその力を保持してきた絶望的な風景しか思い起すことができない。たとえあの1960年代にまで遡ったとしても、そう言うしかないように思う。しかし、世界では、多くの革命があり敗北もあるなかで、資本主義近代が誇る自由と民主主義が文字どおり実現された国はどこにもなく、また、革命が期待された帰結をもたらすこともまたまれななかで、民衆がいまだに到来しない世界に自らの夢を託すことを心の底から断念したこともまた一度たりともなかった。日本の資本主義近代という時間の幅は、南北アメリカ大陸の先住民が経験してきた時間の数分の一にしかならない。いまだない社会への夢を断念させようとするいま/ここにある支配者たちの目論見を私たちは忘れていはならないと思う。そして、彼らの目論見が冒頭に掲げたようなありふれた日常感覚のなかにひそかに込められているということ、そのこと自体を本連載では問題にしたい。
 現実的な感覚とか科学的なデータに基づく「事実」を判断基準にすること自体のなかに、私たちの可能性を削ぐある種の抑圧が伏在している。私たちは、彼らがいう「現実的」とか「科学」を受け入れて彼らの土俵の上で物事を論じなければならないのだろうか。むしろ、現実と呼ばれるものは、先験的に与えられた誰にとっても同じ客観的な世界であるかのようにみなされているが、実はあらかじめ押し付けられたものを押し付けられたと実感するのではなく、むしろ自らの自発的な理解であるという転倒した意識によって受け入れさせられているものであるし、データもまた現実そのものではなく、現実を一定の方法に基づて構築されたカテゴリーによってあらかじめ抽象化し、一定の理論的な枠組みを前提にして、それ自体としては整合性がある理論に基づくものであったとしても、データは事実ではないし、現実を説明する「エビデンス」でもない(注1)。データは私自身を「データ化」して、データ化された私が、私そのものに取って代わるデータ・フェティシズムをもたらしている。
 私は、ファイクニュースの肩を持っているわけではない。フェイクニュースもまたもう一つのいかがわしい証拠や「エビデンス」を持ち出して自らを正当化しようとする以上、同じ穴のムジナでしかない。日常生活の実感も、科学的と称するデータとその理解も、それ自体に含まれているいまだ見ぬ世界へと至る道を塞ごうとする罠であることに用心しながら、そこから絶対的に切断された立場をとることが不可能である以上、罠に落ることを覚悟しながら罠から這い上がる格闘を覚悟しなければならない。
「本質」なるものの存在が懐疑的な時代であるにもかかわらず、本質に立ち返って、また、いまある現実を将来でも継続するにちがいない現実にすべきではないという明らかな価値観を伴う観点をとることが、いま/ここにある現実を根底から覆すだけの力になりうる。これは実践的な課題であってテキストの役目を超えるのだが、とりあえずは、この役目のギリギリの境界に立つような試みをしてみたいと思う。
 文化や伝統のなかで語られる物語の多くが、科学的な理解によって間違いとされたとしても、私たちはこのことに目くじらを立てることはあまりない。とはいえ、近代以降、科学が現実の社会に応用され具体化されることによって、神学や伝説・伝承の類いを押しのけて人々の世界理解の基盤となった。にもかかわらず、日常生活に伴う感覚や実感の非合理性は、いまに至るまで強固に日常生活のなかに定着し、科学的理性をもって仕事をこなす研究者や技術者であってさえ日常の非合理性は肯定されている。神を信仰するとか、人種的な偏見をもつとか、その実体も明らかとはいえない「国家」に忠誠を尽すとか、こうした一連の行為は、人々の科学的認識と矛盾することなく共存し、逆に、こうした非合理な存在を科学が正当化してしまうような作用さえありうる、ということが近代の歴史が歩んできた道だった。いわゆる「偽科学」とかフェイクをめぐるあからさまな虚偽以上に、この非合理性と科学の平和共存の社会意識のほうがずっと厄介な存在だ。近代日本が西洋の近代科学を経済に応用し軍事力を誇示する一方で、非合理としかいいようがない現人神がなぜ一国の統治機構の中心をなすことが可能だったのか。なぜ科学者は現人神の存在証明を科学的に追求しようとしなかったのか。医学生理学は天皇が神なのかどうかを証明するという責任を棚上げし、法学者は、法の形式合理性の枠組みに巧みに現人神を据えることに加担した。こうした世界理解の和解しようがない亀裂を人々が受け入れることができたのは、そもそも人々の日常生活そのものにこうした非合理性と合理性の間に折り合いをつけるある種の生活様式が形成されていたからにほかならない。これは、日本に限らず世界的な現象である。私たちは、世界のどこであれ、合理性と非合理性の間にかなりいいかげんな「折り合い」をつけながら日常生活を送っている。どのように折り合いをつけているのかといったごく私的な態度や判断は、長い間自己の内面か親密な人間関係かのなかにしか表出しなかったが、誰もが不特定多数にメッセージを発信できるコミュニケーション手段が確立して以降(つまり1990年代以降)、この「折り合い」が可視化され、人々がいかにそれぞれ非合理な世界を抱えているのかが露わになったことで、この厄介な世界が共振しはじめ、世界理解の共通の基盤と思われたものが意外に脆弱であることが示された。自由も平等も実は人々の日常経験のなかでは絵に描いた餅以上のものではなく、常に、この理想を獲得するための闘争を強いられてきただけでなく、それ自体が戦争を内包さえしていて、結果として、ナショナリズムや神観念といった非合理な世界に救いを求めるというパラドクスから逃れることもできなくなった。
 言い換えれば、科学的な正しさが私たちの日常生活や行動を変えうるだけの力を持つとは必ずしもいえない、という問題を、科学的合理性を持ち出して簡単に否定できると考えてきた合理主義者たちのアプローチでは問題は解決できず、その「解決」はときには暴力に委ねられるしかなかったということではないだろうか。非合理性が世界観や価値観として影響力をもつとき、それは、暴力を別にすれば、文化的な表象を通じてその正統性を維持してきた。19世紀が機械と合理主義、あるいは理性の時代であったとはいえ、同時に19世紀はロマン主義の時代でもあり、このロマン主義が20世紀になって大衆的な心情を捉えながら、当時の時代状況に即していえば高度なテクノロジー指向の国家でもあったナチズムとファシズムをももたらした。日本の文脈でいえば高度国防国家であり、戦艦大和を賛美するような機械崇拝と現人神や戦争の美学が大衆の心情のなかで棲み分けていた。日本浪漫派であれエルンスト・ユンガーであれダヌンツィオであれ、ロマン主義は理性を破壊(注2)したというよりも理性を飼い馴らしたのだ。他方で、合理主義者たちが主張する「合理性」が資本主義的な合理性にすぎないという批判は主に左翼から提起されてきた長い歴史があるが(注3)、いま私たちが直面しているのは、日常の非合理を政治的な支配のレベルで合理的な法の支配を超越して拡大し、世界観そのものを過去に向かって覆すような状況であり、私たちが闘わなければならないのは、こうした力に対してである。権威あるメディアや知識人が自国のことや自国民の問題を論じる段になると、その言説のなかに意識されないナショナリズム、あるいはレイシズムなきレイシズム(注4)が容易に忍び込む。習俗とみなされる宗教的な信仰を伝統や文化として肯定する日本の風土のなかで暮らす者たちが、アメリカの福音派の非合理を理解しがたい迷妄とみなしながら、天皇や皇室について語る場合は、その存在の「フェイク」を伝統とみなして肯定するのである。こうしたわかりやすい真実と虚偽の御都合主義的な腑分けよりも問題なのは、科学や学問あるいは文化や伝統の正統性によって裏付けを与えられた世界の基盤にある私たちからみれば明らかな虚偽の世界を人々が正しい世界とみなすある種の認識の転倒である。
 マスメディの時代とは違って、SNSのなかに浸透する心情は、個々人の内心の集合的な発露であって、倫理的あるいは理論的な正しさに還元できない人間の欲望を連鎖的に表出する回路がインターネットの時代に開かれた。フェイクやヘイトはネットに原因があるのではなく、むしろ結果にすぎない。人々を表向き「正しい」とみなす学校文化風の秩序に押し込めることによって、社会の矛盾やどうしようもない汚なさを正当化する強い者たちに立ち向かうことで決着をつけるのではなく、むしろ一人ひとりがあたかも社会の支配者であるかのように思い込むことを可能にする仮想の集団性によって、矛盾や汚なさの側に加担しやすい回路が形成されている。だから道徳的倫理的に「言ってはいけない」という歯止めは、確かに「言わない」という歯止めにはなったのだが、これはそもそも多くの人々がこれまで何世代にもわたってひそかに内面化してきた他者に対するネガティブな感情を表出させないというにすぎず、こうした感情それ自体が消え去ったわけではない。マスメディアの時代には、これで社会の正義を維持することができた。しかし、インターネットの時代には、この内面の差別や偏見、あるいは非合理な集団的な価値観が容易に表出しうるようになる。真理が権力を握ったとみなされる時代に、この真理によって支えられていると称する権力は、大衆のなかに、真理とは言い難い神話や憶測、偏見と差別をも植え付けてきた。近代国民国家が「ナショナリズム」なしには成り立たないということは、国家が合理性によって統治の必要かつ十分な条件を備えることは不可能なのだ、ということの証しでもある。だから解決されるべき問題は、もっと大きくやっかいなものだ。つまり、現代の世界が真理とか理論などとして正しいとみなしてきた世界についての説明が、総体としてフェイクの源泉であるのであって、そうだとすれば、そもそもの真理や理論そのものを疑うことなくして、フェイクの問題は解決できない。人間は社会的な存在であり、社会的な意識がその時代の支配的な制度によって深く規定されるとすれば、理性と科学を標榜する時代そのものに内在する非合理性とのひそかな共謀を暴く必要がある。のちに述べるように、この問題は、資本主義における世界の二重性、あるいは、カール・マルクスが土台と上部構造として論じた社会構造への資本主義からの応答に対する私たちの新たな闘争の構築という課題である。こうした社会の現実があらわになったのはインターネットによるコミュニケーションが現代資本主義の支配的な構造となったことによる。私的なコミュニケーションが社会的な事柄として相互に共振しながら社会総体のコミュニケーションの集団性が形成される。このコミュニケーションの基盤が現代資本主義の資本蓄積の基軸をなし、同時に、これが資本主義の統治機構、つまり国家の正統性と不可分な構造が形成された。のちに述べるように、マルクスの土台と上部構造としての資本主義全体の枠組みは、現代資本主義においてはコンピューターテクノロジーを駆使した土台と上部構造の相互浸透と融合へと向いつつある。市場は政治化され、国家はそれ自体が資本のガバナンスを模倣し、結果として民主主義の居場所は次第に縮小され、データ化された私たちには、サファリパークの飼い馴らされた動物の自由だけが残されることになる。最悪の場合は、生存を保障された刑務所の受刑者のような「生存権」だけしか与えられないことになる。

0−1 あえて罠に陥るべきか…

 こうした現状に対して、私たちがとれる対抗策は、納得を得られるように科学的な知の啓蒙の技法に磨きをかけることだろか。しかし、こうした方法ではたして「陽が昇る」という実感を「正しい」実感に修正することができるだろうか。相対性理論に基づく私たちの日常感覚はどのように構成しうるのだろうか。あるいは、私たちもまた、私たちに敵対するフェイクを超えるフェイクを編み出すというフェイク戦争を仕掛けるという手法が、政治的プロパガンダとしては正しいとしても、社会の正義を実現(いったい何が正義なのかという問題も含めて)するという本来あるべき社会変革のための運動の課題からすれば、理念なきプロパガンダはデマゴーギーにすぎないから、当然採るべき道ではない。もちろん、最大の厄介事は、敵——そもそも誰が敵なのかさえ判然としない——は決して彼らの主張をフェイクだとは考えおらず、私たちもまた、自分の主張をフェイクとは考えておらず、いずれもが自分の主張を真実だと信じている、という救いようがない事態にある。しかし、さらに厄介なことは、こうした厄介事があたかもSNSのような新しい双方向不特定多数を対象にしたほぼ誰でもが発信できるメディアのせいで蔓延したという批判に典型的に示されている誤解だ。多くの良識あるリベラルや既存のメディアを死守したいとつい考えてしまう一昔前の「マスメディア」は、フェイクを阻止する方法として、SNSの発信を検閲すべきだとかアカウントを停止すべきだとかというが、こうした口封じは口しか封じておらず、頭はそのままで、また、キーボードを叩く手の自由も奪えていない。マスメディアが情報発信を独占してきたこの1世紀の間、圧倒的多数の大衆は、口封じ同然の状況のなかで一方的に情報を受け取る側にいることを強いられてきた。この20世紀のマスメディア時代を通じて形成されてきた諸個人のパーソナリティは、内心の声として、レイシズムやセクシズムなど諸々の差別の感情を発酵——腐敗というべきか——させてきた。きわめて私的な会話のなかで繰り返し語られてきたにちがいない差別的嘲笑的な人間観や荒唐無稽な世界観は、その根源にあるのは支配的な社会そのものが構造的に有している差別や偏見、排外主義の個人の意識への反映なのだが、制度の側は、憲法や国連の高邁な人権条項などを口実に、システムに偏見や差別は組み込まれていないとして自らの構造的な問題を不問に付し、個人の言論だけを法の権力を動員して扼殺する手法を繰り返してきた。SNSという手段を与えられたことによって不特定多数への呟きとして噴出する偏見、差別、憎悪の言説は、この資本主義社会そのものの本質的な矛盾の表出であるという視点をこの社会を支持する人々が自ら認めることを期待することはできない。私たちの究極の課題は、そもそものフェイクやヘイトという言論そのものが無意味であるだけでなく、念頭に置かれることも、無意識のなかに抑圧されて延命することもない、そうした言説の存在そのものが不在であるような社会をめざすということだ(注5)。
 こうした呟きの言説の質を長年培ってきたのは、実はマスメディアであったり言論を支配できる教育現場や、権威主義的な政治家たちの言説、そしてこれらを身近で増幅する信頼を寄せる友人や近隣の人々、家族などが繰り返すわけだが、親密になればなるほど、そのコミュニケーションは政治的正しさのメッキが剥がれた歯に衣を着せぬ率直な嫌悪や排除の感情が共有されるという一連のコミュニケーションの構造だったとは言えないだろうか。人間は社会的な存在であり社会的なコミュニケーションのなかでパーソナリティを形成し社会や人間への価値観を形成する。人々は、メディアや教師の政治的に正しいように見える言説が言外に語っている侮蔑や差別のメッセージを的確に受け取っているのではないだろうか。
 太陽は昇るわけではないが、この実感には抗いがたいところがあり、これは、真実ではないことを事実として肯定することがどうして可能なのかということでもあるが、こうした問題が私たちの社会のなかには無数に存在しており、それが些細な日常の事柄であるだけでなく、それが政治的な権力を支える権威の正統性や資本の行動を左右するような大きな問題にもなる。そのわかりやすい事象がナショナリズムや宗教的な信仰だろうが、わかりにくいが社会にとって重要な事象が、本連載の守備範囲に関する限りでいえば、市場経済の構造をめぐる「科学的」な理論の擬制である。市場経済のフェティシズムと呼んでもいいような擬制だがそれ自体の内的な論理は一貫している、というやっかいな存在である。経済政策の策定者から金融市場の売買に関与するコンピューターのプログラムまで、私からすれば——そしてたぶん、非主流の経済学者たちやマルクス経済学者たちにとっても——支配的学説が現実の世界に及ぼす力の問題がある。市場は多くの人たちが見ているようなものではないのだが、そのことをやはり実感することが難しい。
 さて、冒頭に掲げた例え話にはまだ「嘘」がある。時間の流れが太古の昔から変わらない、というふうには社会のなかの時間は流れない。社会は物理的な時間ではなく「暦」として時間を刻み、歴史を(主として)支配者の物語として記録する。残念なことに、「暦」には、重さや長さのような中立的な尺度がない。2021年は西暦であり、キリスト暦というれっきとしたキリスト教の背景をもった時間の尺度である。イスラム暦があり、日本には悪名高い元号がある。どの暦を用いてもとても客観的で中立な歴史の時間を表示することはできない。「暦」に関しては、いかなる科学主義の合理主義者であっても、時間の尺度を自分勝手に決めてもそれをほかの人々と共有する合意を形成できなければ社会的な意味を獲得できない。

0−2 連載の構成

 こうした例え話を通じて本連載の課題を示すとすれば、以下のようになる。
 私たちは、決して完璧な合理主義者として日常生活を過ごすことは不可能だが、同時にまた、完璧に非合理にもなりきれないということ。理論的に合理的な推論によって構築される理論の体系は、同時に非合理な世界と共存できることは人類の歴史を振り返れば自明といってもいい。自然哲学が自然科学の知見からみて明らかに間違った前提にたっていても、そのことをもって自然哲学の意義が全て否定されるわけではない。問題は、科学的・合理的ではない、そうはなりえない人間の社会的な生活存在を前提にして、社会が人々に対して振る舞う抑圧と闘うための基礎をどのようにすれば築くことが可能なのか、という問題である。この問題は、合理主義と非(不)合理主義との相克としてとらえたり、感情の哲学・思想、バールーフ・スピノザ、フリードリヒ・ニーチェからアンリ・ベルクソンやアルトゥル・ショーペンハウエルといった思想家の系列をイマヌエル・カント、G・W・ヘーゲルからさらにはマルクスといった唯物論へと至る系譜と対置させるというよりも、こうした思想の世界(マルクスを哲学に還元すること自体が間違っているが)に向かうのではなく、現実の社会へと目を向けることで、社会を変革するための手掛かりを、合理主義的な資本主義批判でもなく、かといって非合理を梃子として情念の革命を構想するのでもない、ねじれた世界へと出立できるような準備をすることを考えたい。
 とりわけこうした議論が重要なのは、現代の資本主義が逢着している事態が、まさに合理主義の徹底的な追求のなかで人間を再定義する方向で資本主義の延命を図る方向がかなりはっりしてきているからだ。つまり、コンピューターが支配的な技術になり、ほぼ社会の全ての領域で、私的な領域であれ公的・国家的な領域であるかを問わずに、コンピューターによって処理されたデータとしての私が、新たな私の自己同一性形成にとっての不可欠な要件をなすようになってきたために、資本主義はますます人間の合理的とはいえない振る舞いをいかにしてデータ化してコンピューターのアルゴリズムの世界に翻訳しうるかというところに追い込まれてしまっている、という問題である(注6)。
 なぜコンピューターテクノロジーが「発達」することになったのか、その動因とともに、その発展の方向性、とりわけデータ処理の高速化(ビッグデータ)、ネットワーク化、予測と予防(AI)としてあわられている状況を、経済の相からみれば資本主義的な生産—消費様式の構造的な再編の問題であり、政治の相でみれば資本主義的な権力様式の構造的な再編の問題であり、軍事の相でいえば武力攻撃と軍の配置における地政学の根本的な転換(サイバー戦争におけるスペース)の問題であり、イデオロギーの相でいえば文化様式の構造的な再編の問題である。これらが、いずれもコンピューターテクノロジーと不可分一体のものであるということがもっている広がりはほぼ私たちが住む世界全体を覆うだけの広がりとなっている。最もミクロな領域でいえば、遺伝子や生物学上の諸現象が情報として捉えられ、工学との境界があいまいになっていること、マクロでいえば、気候変動のような地球規模の自然の変化を把握すための方法もまた情報としての自然の把握を介してのことになっており、情報科学抜きには成り立たなくなっている。そして人間自身もまた、アナログとしての生身の人間もまたデジタルの膨大なデータの束として、そのつどの必要に応じて必要な組み合わせが抽出、解析され、そのつど「私」と呼ばれる存在の実体が一時的に再構成される。「私」を取り巻く空間もまた、地理的な空間がもっている絶対的な実在性に対して、地図が現実の空間をその目的に応じて抽象化するように——自然の地形、行政区画、車の運転に必要な道路情報、グルメ地図など——空間は必要に応じて必要な情報の組み合わせによって提示される可変的な情報の束であり、しかも、地理的空間の制約を超えて、カテゴリーで空間を再構成することも当たり前にできてしまう。
 これは一見すると技術革新であり進歩であり、人工的な知能による新たな支配の可能性をいま/ここにある支配者たちに夢想させることになっているが、しかし、むしろ政治が合理的な側面と非合理で予測困難な行動の側面の弁証法として構築されているという、その支配の軌道から脱線しつつあるということも示している。このことは近代の政治的な理念としての民主主義が果たすべき統治の実効性を削ぐことになりかねない。
 話がここで終わるなら、ある種の資本主義の終わりのような(私たちにとってはハッピーエンドな)筋書きになるが、こうした高度なコンピューター的な合理性がもたらす矛盾から運動の欲動が備給されているのは左翼だけではなく、むしろ右翼や保守主義者もまた、左翼以上に、このコンピューターが支配的な社会の新しい合理主義に異議申し立てをしている。彼らのスタンスははっきりしている。合理主義近代の裏面にへばりついている非合理で近代以前を諸々の形態で想起させる(本当に近代以前にそうした形態が存在していなくてもかまわない)表象や文化の領域を足掛かりにしながら、さらに、伝統を過去へと遡りながら、彼らにとっての社会の正当性の根拠を再構成しようとする。この傾向は、表れは様々であっても、どの社会にも見いだされる反動のプロジェクトである。彼らは、コンピューターの合理主義がとりこぼしている人間の非合理な側面と、これに付随する感情を高度なコンピューターの世界に接合して補完する。あたかもスティームパンクのように、歴史の時系列を伝統や過去への眼差しに依拠しながら未来を観る、つまり未来を過去の伝統に則して、しかし技術のあり方としては高度にコンピューター化されたデータ化された個人の存在を徹底して肯定することで、資本主義の将来をこじあけようというのだ。たぶん、こうした世界は、民主主義を壊死させながら資本主義は生き残るということになりかねない。独裁と民主主義のコンピューターテクロジー至上主義による弁証法的統一、これが資本主義の次の時代を特徴づけるのであれば、私たちもまた、この構造を正面に据えた闘いを模索しなければならない。
 上記で描いたような世界からは見えない世界がある。それは、一般に、フェイクとかポストトゥルースなどと呼ばれて極右の陰謀や政府のプロパガンダ(政府の広報やウェブページのデータの類い、議会の議事録などを含む)や、無名の庶民が引き起こすネットの炎上やリベンジポルノやネットのテクノロジーと深く関わるようなハッカーや金銭動機から政治的な動機に至る「犯罪」とみなされている世界だ。社会が容認しえない動機や情動にコンピューターコミュニケーションの社会基盤は手段を与えているとみなしてしまえば、手段を遮断することで動機の実現を阻止すればいい、という安直な対症療法に陥るが、ほとんどの政治的な対処はこの範囲を超えることはない。他方で、動機を問題にするときには、必ずといっていいほど、社会から逸脱した動機を社会が「正しい」とみなす情動へと矯正(強制)することに向かうことになる。しかし、いま起きているのは上記のようなモデルではない。極右がメインストリーム化し、保守と革新が議会政治では本質的な差異がない存在へと収斂しつつある現在、極右の陰謀と政府のプロパガンダは「正史」の位置を獲得し、政治的社会的マイノリティの言論空間は構造的暴力に晒される。社会から逸脱した動機がある特定の傾向に正統性を与え社会基盤へのアクセスを保障するという事態が世界規模で起きている。こうして、左翼の言説だけが周縁化され、ときには「犯罪化」される。いま起きているのは、私からみて陰謀やフェイクであるとみなしうる事柄が、政府のプロパガンダとともに、その正統性を主張するときに、常に、神話を含む過去の物語が参照される、という事態だ。過去を参照し、過去を再定義するなかで、未来への可能性を見いだそうとする伝統主義だ。
 しかし、左翼はこうした状況に十分に対処できないように見える。過去は未来を創造するための否定的な教訓の書庫であって決してそこに立ち返るべき場所ではない。未来は、ある意味でいえばいまだにありえない世界の一(はじめ)からの創造であり、とりわけ、その条件は、現にある資本と国家が構想できるようなものとは本質的に異なる、つまり彼らには到底理解することができない世界を創出することでなければならない。この任務をいま現在の世界と過去の記憶と記録からなる総括という限られた駒を使って進まなければならない。
 このときにやっかいなのは、資本主義が過去に梃子の支点を置きながらも、未来という時間を先回りして常に彼らの世界のなかに囲い込むことに長けているという点だ。後述するように市場経済と資本の投資行動の基本がこの将来=未来への投企であり、コンピューターもまた予測の技術として開発されてきたという経緯のなかに、未来は過去の軛にとらわれ、私たちが描くべき夢を次々と市場の商品や国家の愛国心が奪いとってしまうメカニズムが存在している。このメカニズムそのものを解体する闘いを組むことが必須である。運動が資本と国家にとっては不可能な夢を見る必要があるのだ。本連載はそのための模索である。
 こうした見通しをもって、本連載が意図していることは以下の点にある。
 第一に、資本主義批判の核心となってきたマルクスの資本主義批判、とりわけ搾取をめぐる理論の拡張である。剰余価値論として商品価値論から導出された搾取の理論に対して、本連載は、マルクスが十分な検討を加えないままにした商品の使用価値を正面に据える。商品の使用価値は、その消費を通じて人々の生活を再構成して人口の日常的再生産と世代の再生産の具体的なありようを規定する。ここで問題になるのは、労働の量ではなく、市場での使用価値の調達から消費に至る過程のなかで商品の使用価値をめぐって形成される「意味」が人々の意識に作用するあり方だ。この過程は、資本主義における意味の剥奪を通じた身体性の搾取であり、これを通じて資本主義において人々は〈労働力〉となる。マルクスの搾取の理論に加えて、より包括的な搾取の構造がここにはある。こうした意味での使用価値を論じるには、狭義の意味での市場だけでなく市場を取り巻く情報環境、コミュニケーションのあり方を視野に入れなければならないが、現代資本主義はこの分野をコミュニケーションの労働化によって資本に包摂するようになる。これまでパラマーケット論として述べてきた議論のアップデートを試みることになる。
 第二に、資本主義の人間嫌いが機械化をもたらしてきた過去の経緯のなかで、人間をデータ化し管理する方向で開発されてきたテクノロジー進歩はいったいどのような思想によって支えられてきたのか。この問題を、行動主義からコンピューター科学へと至る人間を操作可能な対象とみなす道具主義的合理主義を中心に、監視社会を支えるイデオロギーとして批判を試みる。
 第三に、資本主義の基本的な構造を土台—上部構造として描いたマルクスの議論が、その後の資本主義によって脱構築される経緯こそが20世紀資本主義の生き残り戦略の基本にあることから、土台と上部構造が一体化する傾向をもっていることを指摘する。イデオロギーはもはや上部構造ではなく、これ自体が経済的土台が担う領域になる。そして法もまたコンピューターのアルゴリズムやプログラムに取って代られることによって、資本のテクノロジーが優位を占める。
 第四に、こうした傾向を支えているコンピューターコミュニケーションはこれまでのコミュニケーション分析では考慮されてこなかった機械化されフィードバックのメカニズムを内包させた非知覚過程に着目し、プライバシー空間の解体と人々の意識そのものの直接的な包摂を企図するものとしてビッグデータからAIに至るテクノロジーの問題を指摘する。ここでは、資本主義的な人間が機械に対して抱くフェティシズムがAIに対する同一化をもたらす点も指摘する。
 第五に、意識の資本と国家による実質的包摂の可能性に対して、私たちは、パラマーケットと非知覚過程を通じて、私たちの主体をも巻き込んで展開される意味世界がもたらす身体性搾取からの解放のためにとりうるとりあえずの方途について、いくつかの具体的な考え方を示す。人間の意識や行動を道具主義的に把握し操作可能な存在とみなす見方への有力な批判は、コンピューターを支えるプログラム思考そのものの本質に本質的な変更がなされないまま普遍化していることを考えたとき、この道具主義への有力な対抗でありつづけたフロイトの無意識の系譜をいまこの時代に再度検証すること意味のあることだ。とくに、ヴィルヘルム・ライヒからドゥルーズ=ガタリの前インターネット時代に存在した無意識をめぐる対抗政治が、なぜか監視社会化のなかでは影響力が削がれているのだが、いま一度この無意識の復権を考えてみる。


(1)日本の公式統計では、仕事をしたいがここ1カ月仕事が見つからないと諦めてしまえば失業統計に反映されない。実態としては失業者であるのに隠されてしまう潜在的な失業人口を日本の統計では「潜在労働力」と言い換えて失業のカテゴリーから排除する。
(2)たとえば、ジョルジュ・ルカーチ『理性の破壊』は、その早い時期に影響力をもった例だろう。
(3)人類学の知見は、この点で非常に有益な解毒剤になる。たとえば、モーリス・ゴドリエ『経済における合理性と非合理性』(今村仁司訳、国文社)、マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(山内昶訳、法政大学出版局)などを参照。
(4)Eduardo Bonilla-Silva、Racism without Racists : Color-Blind Racism and the Persistence of Racial Inequality in America、Rowman & Littlefield 参照。
(5)20世紀の社会主義を標榜する諸国は、いずれも半ば強制的な文化革命やイデオロギーの強制を通じた意識改変を試みて失敗した。教科書的なマルクス主義の教義に従えば、存在が意識を規定するとすれば、社会主義の建設=経済的土台によって上部構造としての意識はおのずとこれに規定されて変容を遂げるはずだから、トップダウンの意識変容の強制政策は不要なはずだ。ところが、そうならないとすれば、そもそもの教科書が間違っていたか、現実の経済的土台が社会主義の名にそぐうものではなかったのか、そのどちらかである。本連載では、この問題に直接アプローチしないが、資本主義がどのようにして人々の意識を資本主義的な意識として再生産するのか、という問題を、市場が供給する商品の使用価値の問題として考えてみる。これはマルスクが『資本論』でやり残した問題でもある。
(6)コンピューター開発の歴史は、20世紀の歴史がいわゆる社会主義と資本主義という二つの体制が共存した70年間の時代を間に挟んでいること、そしてコンピューター開発にソ連を中心とする社会主義圏の科学技術の動向も関わりがあること、このことを前提にすると、コンピューターを支配的なテクノロジーとして選択した体制を資本主義に限定すること自体が果たした正しい認識なのかどうか、という問いに私なりの答えを出しておかなければならないことになる。
 さらに、この問いに加えてやっかいなこととして、ソ連をはじめとする20世紀の社会主義、そして冷戦崩壊後も社会主義として資本主義諸国から敵対視される諸国(中国、キューバ、北朝鮮など)も含めて、これら諸国は資本主義とは本質的に異なるとともに、社会主義と彼ら自身が自称することをそのまま受け入れて社会主義として区別すべきなのかどうか、というもうひとつの問いである。このように問うということは、20世紀の冷戦の一方の当事者を社会主義とみなすことの是非という問題がここには含意されている。社会主義と呼ばれる体制が成立した当時から議論されてきた、社会主義を自称する諸国は社会主義の名に値するのかどうか、という問題は、簡単に解決できない半面、この問題に一定程度の答えを与えないかぎり、20世紀の資本主義にも自称社会主義にも共通するテクノロジーの問題への答えがうまく出せない。
 もし、自称社会主義諸国を文字どおりの社会主義あるいはその萌芽、過渡的形態とみなすにせよ、いずれにしても資本主義とは本質的に異なる統治機構と経済システムをもつ社会であるとすると、そうであってもなお資本主義と共通するテクノロジーの基盤をもっていたとすれば、テクノロジーへの問いを、資本主義とテクノロジーという枠組みで論じることが妥当かどうかが問われることになる。この問題はコンピューター以前の工業化のテクノロジーにも共通する問題だ。

 

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