第12回 時代を捉えたコトバ――『正直不動産』の本音

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

「本当の自分」に戻す風のように

 突然、襲いかかった新型コロナウイルス感染症によるコロナ禍。外出自粛とマスク生活が長引くなか、社会全体も人々も暗鬱さを隠せず、いかんともしがたい閉塞感と疲弊感が積み重なって、緊急事態宣言が明けてもどんよりとした空気感にいまだ包まれながらの日々が続いた。そんな先がみえない曇り空にようやく光が差しはじめ、ゴールデンウイークの連休の行動制限も解除され、本格的にウィズコロナ(コロナとの共生)の新しい生活様式が始まりだしたちょうどそのころ、テレビドラマ『正直不動産』(NHK、2022年)がスタートした。
 主演の山下智久にとっては、『インハンド』(TBS系、2019年)以来、3年を経てのドラマ復帰。その3年間は必ずしも長いブランクというほどではなかったが、途中、事務所からの独立に加え、複数の海外作品に挑戦する世界進出の本格化もあいまって、地上波での露出頻度が減少していた時期に重なった。それだけに、作品の放送開始は「山下智久がテレビに帰ってきた」という期待と興奮で盛り上がり、ワクワクが止まらなかった。
 役どころは、祟たたりのせいでウソをつくことができなくなり、本音を語る正直な営業しかできなくなった不動産マンの永瀬財地さいち。その人物像はコミカルに描かれながらも、なんとも温かく、それでいて清涼感ある爽快さと自然体が際立ち、観る者の心を和らげ癒やした。主人公がウソをつこうとすると、どこからともなくつむじ風がブワッと吹く。そして本音が口から飛び出る。それは、ウソがない「正直」な生き方へと導き、正直であることの重要性に気づかせる。いうなれば人間本来の「偽りと飾りない姿」を取り戻させる風だった。
 それと同様、久しぶりにドラマの舞台に降り立った山Pも、目に見えないコロナウイルスとその不安に萎縮した人々の身体と心をつかの間解きほぐし、コロナ以前の「本来の自分がどうあったか」「どう生活し、生きていたか」といったことを物事の楽しみ方や笑い方などとともに忘れかけていたぼくらを、原点へと連れ戻す。そんなパワーをもった、救いをもたらす風を吹かせる感じで、心からうれしかった。大げさかもしれないが、いま思えば、これから再スタートしようとしていたコロナ時代の新生活は、山Pのこのドラマがあったからこそ前向きに始められた気さえする。少なくとも、その勇気と元気を、山P演じる永瀬は与えてくれた。
 正直で誠実な人間は、さっぱりして端正でスッとして心地がいい。もともとスマートさが際立つ山Pが演じればこそ、その印象はいっそう強く、ウソをつけない永瀬の姿は、コロナ禍でがんじがらめになった心にまとわりつくもろもろをスッと洗い流して、吹き飛ばしてみせた。その感慨が、個人的には強く残っている。
 人気に後押しされて作られたスペシャル版、そしてシーズン2、さらには映画化も経て、さまざま作品評が出そろった感はあるが、シリーズに一区切りが付いたいま、山Pがドラマに帰ってきたあの感触を思い出しながら、作品のいくつかのポイントについて、誤解を恐れずあらためて自分なりに書いてみようと思う。そう、主人公の永瀬と同じように、“正直”な言葉で書いてみたい。

忖度時代のなかで

 この作品を支え、魅力の中心になっているのは、主人公の永瀬がウソをつこうとすると突然つむじ風が吹き付け、自分の意に反して心にある本音を言葉にしてしまう、そんな毎回お決まりのシーンだ。そのときの、勢いとスピードをつけて息継ぐ間もなく一気呵成の早口で言葉を吐き出すさまは、圧巻の見応えである。永瀬が本音をぶつけるのは、お客の甘い考えや家主の傲慢さ、あるいは同僚や同業者の腹黒い部分で、その「相手に言いにくい/相手も言われたくない」真実・事実を鋭く突いていくのが、なんともじつにスカッとする。だがそんなストーリー上の見せどころを超えた部分でも、永瀬の本音劇が担っていたものは、もっとありそうだ。
 永瀬の本音モードを前に、観る側が痛烈にスッキリした気分になるのは、心にあるもの・思い浮かんだことをひとつの残りもなく勢いよくぶちまける。シンプルにその意味合いが大きいためである点を見逃せない。仕事などで個々人が日々直面している「本音/建前」のありさまを、永瀬の姿や物語展開に重ねることもできる。だがもっと視野を広くとれば、この作品がもつ時代性にぶち当たる。
 この作品が放送されたコロナ前の数年は、社会や組織のどこをみても“忖度”まみれで、「言葉にしてはっきりものを言う」ことを、相手や空気を読んで抑える。そんな風潮が強く――それが社会的にも疑問視されていって、誰もがその状況と空気感に嫌気を募らせていた時期にあたる。しばしば指摘されることだが、外出自粛やマスク使用などの各場面に顕著だったように、それまでの物言わぬ空気を読む“忖度”(とその弊害)が、今度は同調圧力として、より身近な街のなか・学校・職場・SNSなどへ拡大・拡張したのがコロナ禍でもあった。そんななか、口から勝手に出てしまう永瀬の荒い言葉は、社会全体――つまりは、そこで生きるぼくらが抱える「言いたいけれど、言え(わ)ない」想い、あるいは不平・不満を代弁するガス抜きのような作用も担って、そうした意味でのカタルシスをふくんだ痛快さもあった。

人を傷つけない「言葉の魔法」

 だが、それだけではない。それ以上に重要だったのは、永瀬の言葉=山Pのせりふのテイストが、忖度時代のなかで人々が求めるあり方にマッチする性格をもっていたことだ。ときに永瀬が吐くフレーズは、その勢いもふくめて乱雑かつ強烈で、そこだけみると悪態や罵倒という印象、毒舌全開という感じを受ける。だが不思議にも、そこに暴力性や乱暴さを変に感じさせないのが特質だった。そして(言葉それ自体の意味はそうだったとしても)相手を傷つけるトゲや悪意というのもみえない。どんなに荒ぶってひどい言葉を発しても、永瀬は悪人に映らない。むしろ、彼の根っこにある人のよさ、ヒューマンな面が掘り起こされてにじんで妙だった。これが可能だったのは、やはり山下智久が言葉を語るためにほかならない。
 山Pが話すと、攻撃的だったりネガティブだったりする言葉であっても決して悪質さや陰湿さを帯びず、ソフトでカジュアルに巧みに響く。ひとつ例にとれば、同じくコメディー要素をふくんだ恋愛ドラマ『5→9 〜私に恋したお坊さん〜』(フジテレビ系、2015年)もそうだった。主人公の僧侶・高嶺が恋愛相手のヒロインに向ける強引なアプローチの数々は、ひとつ間違えば執拗なストーカーの言葉としてドン引きされ、危険に映りかねない。でも山Pが演じて話すと、妙に納得させられ、許せてしまう。別の人が発すると危うい言葉でも、クスッと笑えて温和に受け入れられるものにする。そうした「言葉の魔法」が、山Pは得意なのだ。
 以前、山下智久は今後挑戦してみたい役柄を問われ、演じたことがない新たな役として「悪役」を一例に挙げていた。(もちろん前例がないそうした役も心待ちだが、それは脇に置いておくとして)その発言を借りていえば、彼はどうしても「悪人」、そこまでいかなくても「嫌な奴」にならない、そうなりきれない。そんな役作りに山Pのうまさは本領発揮されるようにみえる。それはある意味、振り切って悪役を演じるよりもむしろ至難の技で、その資質こそが役者・山下智久の真骨頂でもあるのだ。
 劇中に繰り返し登場する印象的な本音ワードのひとつに「クソ」がある。この汚い言葉(スラング)は、ネット時代のいま、SNSなどでも散見される。その多くは軽い気持ちで発信されているものだが、誰かを攻撃する危険は常にあるし、人知れずそれに胸を痛めてしまう場合だってある。これに限らず、自分の鬱憤や曲がった正義感から、誰かの人格や尊厳、名誉を安易に傷つけるヘイトワードは、ぼくらの日々と隣り合わせに無数に存在しているのが実情だ。そんな状況のなかで、永瀬=山Pが吐く「クソ」は、同様の危うさやネガティブさを一切感じさせず、ユーモアに包まれた安堵ある一言――誰をも傷つけず不快にもしない一言として際立つ。いうなればそれは、この時代のなかで、最も優しく平和な「クソ」のひとつと形容していいかもしれない。それを山Pが、この作品で発している――そして、それに視聴者は笑い、心を爽快にして洗われる。それだけで、この『正直不動産』という作品が、とにかくいとおしく、感慨深くなるのはぼくだけだろうか……。
 閉塞感と不自由さが漂う現代、誰だって「言いたいこと」はたくさんあるが、決して誰かを傷つけたくはない。そしてそれを見聞きしたくもない。その点で永瀬の本音の言葉は、いまの時代に優しく、それでいてどこか万人の鬱憤を肩代わりしもする。そんなきわめてバランスがとれた物語として楽しめた。それはエンタメの理想のようなもので、じつに良質な作品であることの証しでもあった。
 本音シーンにたくさん笑わせてもらいながら、一方で「この状況この時代に、山下智久の永瀬が見れてよかった」、もっと厳密にいえば「山Pの永瀬が心のよどみを少し取り払って、つかの間、清廉な気持ちにさせてくれた」――そうした感謝にも似た感情と余韻を胸に抱いたことを、コロナが終息したいまでも大切に忘れずにいる。

歌手のキャリアが活きた、音楽的なせりふ芸

 ウソをつけず、本心を吐き出す永瀬のシーンがぼくたちを惹き付けるのは、言葉それ自体の動きの魅力も大きかった。永瀬が吐くせりふには長いものも多く、それをセキを切ったように怒濤の早口でまくし立てる。その流れるような話わの芝居の秀逸さもさることながら、より肝だったのは彼の弁のテンポのよさだ。それゆえ、ただユーモラスなだけではない、耳が欲する深みがあった。
 作中のシーンにふれてプロデューサーが、「嘘がつけない時の芝居には、役者の山下さんと、パフォーマーとしての山下さんが混在している」「あの芝居は、山下さんにしかできない」(「山下智久主演『うさPの正直アフタートーク➀』上半身裸の秘密!?」)と鋭い洞察を交えて語っていたのを思い出す。口から勝手に出てくる本音の言葉を必死にこらえようとして見せる苦悶の表情、喉元を手で締め付けるように抑えながらの上半身のくねらせやそらし、危うく倒れそうになるほどの足さばきやステップなど……、全身をダイナミックにフルに使って言葉(本音)と格闘する永瀬=山Pの身ぶりは、まさに「振り付け」さながらの感があった。それは、多くのライブステージを踏んで、長年にわたって激しくも華麗なダンスを鍛え、披露してきたアイドルアーティストならではの経験があればこそのものだった。だがポイントは「体」だけではない。この「パフォーマー」としての姿のなかには、当然、歌手という存在もふくまれてしかるべきだ。そう、「音(楽)」の側面だ。
 矢継ぎ早に口から漏れ出ていく、スピーディーにしてリズミカルな言葉の流れ方、あるいは本音を言い切った直後の「言ってしまった」感満載の言葉の切り上げ方の余白などもふくめ、ウソをつけないせりふ劇には、ただ言葉数の面で多弁というだけでは決してない、音楽的なエッセンスが多分に感じられる点を見逃せない。その言葉たちには、なんともいえないバイブスがあって、ワードひとつひとつに躍動感と息吹が強くみえる。ウソをつくことがかなわず、逆に、意図に反しておのずと本心が出てしまう。非現実的で奇抜な設定とシチュエーションだが、むしろそこにリアリティーが強くにじんで、やみつきになる愛着さえ湧くのは、こうした言葉の「活いき」によるところも大きい。
 山Pのキャリアを振り返ってみると、こうしたセンスはなにもこの作品と役が初めてというわけではなく、役者の長所として早くから発揮されていた事実に思い当たる。大きな成果を収めたその最たる例が、代表作『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系、2005年)だろう。
 彼が演じた、クセが強く、それでいて愛されキャラでもある彰のシンボルだったのが、独特なしゃべり口調だった。「~だっちゃ」や「~なのよん」などの語尾をはじめ、スローかつ脱力したしゃべりに独特な抑揚を効かせた話し方は、一見すると軽くチャラいようにみえて、そこには固有の旋律とリズムがあり、それが中毒性ある魅惑を作って惹き付けた。「早口で静かでインテリジェンスみたい」というイメージを監督に求められながらも、山Pは独自のアレンジとアドリブで、彰という強烈な個性のキャラクターと話し方を生み出した。そんな有名なエピソードを思い起こしてみても山Pには、「音楽的なせりふ」を独自に繰り出す才能に長けている。そうした側面が確かにあって、それがこの作品でも発揮されているように思われるのだ。
 そしてそれは、山Pが『正直不動産』のなかで、永瀬財地という人間を、さらに彼がウソをつけずに本音を話してしまう苦悩さえをも、自身で楽しみながら演じているような雰囲気とも無縁ではないはずだ。毒舌だけれども、その言葉の繰り出し方は音楽のように楽しい。それが、この作品全体の愉快さを支える基盤にもなっていた。
 生の山Pの存在感やムード、あるいはパブリックイメージなどが役に生きる。そうしたケースはたびたび評価されてきたが、彼が歌手としてもちうる潜在力やそれまで培ってきたスキルが(そこにはラップやEDMへの関心や積極的な摂取もふくまれる)、個性あふれる役――それもお茶の間で愛される人物造形へと巧みに反映されていく。そうした山下智久ならではの特色は、もっと注目され、拍手が送られていいように思う。
 
『正直不動産』シーズン1の放送から、はや4年半がたつ。もうコロナウイルスとその恐怖に覆われた世界という感じではなくなったが、それとは別に、何か自分のなかに息苦しさや鬱屈感を強く感じてツラいときには、決まって『正直不動産』と山P演じる永瀬を見返したくなる。そしてその本音モードとウソがない言葉に、自分自身をがんじがらめにしているものを一度スッキリさせてもらって、また前を向くのだ。
 そんなふうに、コロナ以後もこの作品と一緒に(ウィズコロナならぬ、ウィズ永瀬でもって)、ぼくも、そして社会も人々もきっと進んでいくのだ。いや、そうであったら、すてきだ。
 これまでもこれからも、何度観ても山Pの永瀬は、やっぱりクソ●●素晴らしい。
 
筆者X:https://x.com/prince9093
 
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