実存を懸ける――『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』を出版して

根岸貴哉

「実存を懸けてやりなさい」
 これは、敬愛する師、谷川渥先生からいただいた言葉だ。

 2018年7月、猛暑の京都。壇上でぼくは博士論文の構想発表をしていた。このプロセスを通らないと、博論を提出することができない。

 ぼくが所属していた立命館大学の先端総合学術研究科、通称「先端研」の博論提出の要件。それは、前述した構想発表で認められることと、査読論文が3本以上あること、そして、既定の年数以上所属していることである。先端研は一貫制博士課程のため、1年次から入学していれば5年以上、3年次からの編入であれば3年以上、ということになる。
 先端研の人々は、この構想発表をおこなってから数年後に博論を提出している。博士論文とはなんだろう。ある人にとってそれはひとつの象徴的な通過儀礼かもしれないし、もしかしたら「ただの書類」かもしれない。しかしある人にとっては、それはひとつの到達点であり、集大成になりえるものだろう。
 建前をいうなら、そりゃあ「到達点」としてあるべきだ。だから、構想発表をしてから数年という時間をかけて書き上げる。そういうものなのだろう。では、ぼくの博士論文はどうだったのか。その評価は、博論をベースにした単著『野球のメディア論』を読んだ方々におまかせしたいと思う。いや、大幅に加筆・修正をした単著で博論の評価をあおぐ、なんてずるいだろうか。ならばあえて自己評価をしよう。端的にいってしまえば、ぼくの博論は急ごしらえで書いたものだ。なにせ、ぼくは構想発表の3カ月後には博論を提出していたのだから。
 本来なら数年かけて出すものを3カ月で書く。構想発表をしたあとすぐに書き始めていたわけではないから、実際にはもっと短い時間だったと思う。時間が圧縮されていた。もう一度やれ、と言われたら無理だと思う。後日、主査の先生にそんな話をしたら「博士論文なんて人生に一度だけだから」と言われた。そりゃそうだ。

 なんでそんなことになったのか。時を戻して2018年9月。ぼくは指導教員だった吉田寛先生の異動を知る。博論提出の締め切りまではあと1カ月しかない。ぼくからしたら、博論の提出も確かに人生一度だけだが、師事していた教員が突然来年度にはいなくなるなんてこともなかなかない事態である。さらに、 締め切り2、3週間前には、副査を務めていただいた木村覚先生も、来年度はサバティカルで日本にいないと知る。どうやったって、10月の締め切りがラストチャンスである。
 そこからのことは、もうあまり覚えていない。ただ、博論の書き下ろし部分、すなわち単著の序章と第5章、第6章はいずれもこの期間に書いた。形式や前後の章のバランスを整えたのも、もちろんこの期間で、である。 だから大幅な加筆・修正をして単著として出版することができたのは幸甚だった。
 口頭試問、それを受けての修正、そして公聴会やその他の書類処理をして、なんとか3月に修了し、博士号を取得した。その後、数カ月から一年間はずっとぼんやり状態だった。世の中がコロナ渦になっているなか、ぼくもまた燃え尽きて停滞。副査を務めていただいた竹中悠美先生から、先端研の研究指導助手のオファーをいただくまで、ぼんやりと研究を続けながら日々を過ごしていた。

 助手になった2023年、春。経済状況と自身のぼんやり状態がマシになってきて、ようやく出版に向けて準備を進め始める。吉田先生に連絡をして、紹介してもらったのが青弓社だった。出版に向けた打ち合わせの際にリライトのスケジュールを聞かれ、博論のときと同じ感覚で執筆計画を提案すると、「本当に無理をしないでください」と言われた。どうやら、ぼくの執筆スケジュール感覚は麻痺していたらしい。

 博論のリライトを進めていた2023年8月、ある日の夜のこと。目を閉じて、目を開けると、……黒いものが見える。黒カビが浮いた水のなかに、左目だけがあるような感じだ。急いで目を洗いにいくも、取れない。次第に黒カビはどんどん広がっていって、気づけば黒いカーテンの隙間から覗いて見えている程度の視界しかなくなってしまう。
 次の日の朝、急いで眼科に行くと、診断は「左目網膜剥離」。眼底出血がひどいらしく、翌日、大きな病院で診断を受けてください、とのこと。

「終わった」と思った。

 博士論文のタイトルは「野球視覚文化論」である。そう、「視覚文化」である。視覚文化の研究者が視覚を失ったらその資格も失う、なんて冗談でも笑えない。
 博論の副査を務めていただいた竹中先生からは「単著が出たら景色変わる」と言われていたが、まさかこんなかたちで景色が変わってしまうとは。
 次の日、京都府立医科大学付属病院にて、やはり「網膜剥離」と診断され、2日後には手術を受けた。
 まるで『アンダルシアの犬』(監督:ルイズ・ブニュエル、1928年)のようだな、と思いながら手術を受けた(めちゃくちゃ怖かった)。術後はしばらくうつ伏せで過ごさなければならない。ちょうど甲子園で高校野球をやっている時期だった。しかし、見れない。怖くて左目は使えないし、目が疲れてしまうから右目もなるべく使わないようにしていた。それでも結果は気になるし、入院生活でできることも少ないため、野球中継だけはつけていた。
「カッ」という音なのか「カッキーン」という音なのかで、こすったのか芯でとらえたのかがなんとなくわかるようになってきたあたりで、退院を迎えた。それでも、しばらく日常生活は不便なものだった。なんとか見えるようにはなったものの、とにかく左目は何を見てもまぶしく感じてしまう。左目にタオルを巻いて生活する日々だった。
 手術の前後はまったくリライトが進まず、提出が遅れてしまう旨を出版社に伝えた。これはもう間に合わない、だめかもしれない……と思いながらやっと完成した章を送ると、それでも「速いペースで進んでいる」とのこと。麻痺したスケジュール感覚は、まだ戻っていないようだった。それからも、順調なペースでリライトは進んだ。

 時はとんで2024年2月。校正が始まる。いろいろな事情が重なって、本来の校正スケジュールではなかなかありえないタイトなスケジュールとなった。 合間に助手の業務と自身の発表をこなしながら、校正は助手の同僚であった駒澤真由美さん、吉野靫さんの助力もあってなんとかなった。もちろん、編集者の矢野未知生さんや、青弓社の方々にも本当に助けられた。同時にカバーデザインにもちょっとした仕掛けを作ったりした。
 序章のタイトルを求められたのも、この時期だったと思う。大谷翔平選手が全国の小学校にグローブを贈った際の言葉「野球しようぜ」を少し変えて、「野球観ようぜ」とした。本当にギリギリの修正だった。
 博論のときと同じような切迫感、締め切りに間に合わないかもしれないという焦燥感を味わった。校正が終わってからしばらくダウンするだろうなあ、なんて考えていたら新型コロナウイルスに感染した。作業が終わったあとで本当によかったと思う。

 そして2024年3月、出版に至った。その直後、ぼくはまた肝を冷やすことになる。
 読者のなかにはお気づきの方もいるかもしれない。そう、大谷選手の通訳を務めていた、水原一平氏の事件である。いまでこそ、大谷選手は被害者だ、ということになっている。しかし、報道が出た当時は大谷選手も共犯が疑われたり、自身が野球賭博に関与している場合にはメジャーリーグから永久追放も……などと噂されていた。焦る。著作と人格は別物だといっても、まさかこんなことになるとは。いまから出版の差し止めなんてできるはずもない。信じて祈るしかできない。出版の実感が湧く前に、出版されてしまった、と焦ることになるなんて。

 思えば、修士論文に相当する博士予備論文の執筆時には喉を壊して、主治医から「今夜が峠だな」と告げられた。その後も比喩ではなく血反吐を吐きながら死線をくぐり、なんとか書き上げた。博論のときは、主査の異動に伴う圧縮されたスケジュールと締め切り。今回は、網膜剥離による「研究者活動」の死線と、相変わらずタイトになってしまった締め切りを乗り越えた。大きな締め切りのたびに実存を懸けて、そのつど――筋書きのない――ドラマが生まれる。
 タイトルをつけるなら、『デッドライン』。……いやいや、それじゃあ千葉雅也先生の小説じゃないか。あんなにすばらしい小説はぼくには書けない。できることはただ、締め切りと死線を、そのたびに実存を懸けて乗り越えることだけ。そんな成果物をぜひ読んでいただきたい。

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