堀口大學が経験した「異国」――『異国情緒としての堀口大學――翻訳と詩歌に現れる異国性の行方』を書いて

大村梓

 子どもの頃から読書が好きだった私にとって、本を出すのはずっと夢でした。周りに出版や創作に関わる仕事をしている友人が多いのもあって、何かを作り出して自分の名前で世に出すのは身近なことでした。そうはいっても自分がその当事者になると、本一冊を出版するのはこんなに大変なのか、と思いました。
 私は主に日本近現代文学、比較文学を専門として大学では講義をおこなっていますが、もともとはどちらかというと外国文学、翻訳文学を好んで読んでいました。母親が読書好きだったこともあって、小さい頃から家には本がたくさんありました。本棚に置いてあった『チボー家の人々』の黄色い表紙をいまだに覚えています。十代の頃に好きだったのはフランスの作家であるジュール・ヴェルヌの作品で、まだ見たことがない世界への憧れを抱いていました。高校は帰国子女や在京外国人の方が多いところを選び、大学院ではオーストラリアに留学し、その後、さまざまな国からやってきた同僚が多くいる職場で勤務したこともあり、異文化を身近に感じて過ごしてきました。おそらくそういった長年の経験から自分のなかで「日本」に対する認識も変わっていったのだと思います。そういったこともあり、翻訳家・詩人・歌人である堀口大學の活動により関心をもつようになりました。インターネットもない時代に海外に在住していた堀口は、どのように異国での生活を受け止めていたのでしょうか。堀口はそんなに詳しく異国での自分の経験について述べる人ではありませんでした。私たち読者は短い随筆、短歌や詩から、堀口が経験した「異国」をうかがい知ることができます。
 私もいまでこそ外国の友人も多く、海外に渡航することも多いので、もうカルチャーショックを感じることはほとんどないのですが、思い返してみれば十代の頃はよくカルチャーショックを感じていたような気がします。比較文学・比較文化の研究をしていることもあって、異文化にふれたときに自分のなかの固定観念や思考の枠みたいなものに気がつく瞬間を、非常に興味深いと感じます。もちろん私たち研究者・教育者はすべてのものに対して公平な態度で接したいと考えています。しかし一方で、自分の考えには固定観念や思い込みがあるのではないか、と常に自分を振り返るように職業上なっているような気がします。そういった自分のなかの固定観念や思考の枠に気がついたときに、まだまだ勉強しないといけないことがある、と研究を続ける理由にもなっています。
 本書で取り扱った翻訳文学という領域は、さまざまな要因が複雑に絡み合ったものです。翻訳は必ず読む誰かを想定しておこなわれます。自分が読むために翻訳する場合でも、誰かのために翻訳するためでも、そこには読む人がいるから翻訳するという目的が存在します。そして翻訳は翻訳に用いられる言語の制約にとらわれています。人によってはその制約をわずらわしいと思うかもしれません。しかし私はその制約がむしろ面白いと思います。そういった制約のなかでどれだけ試行錯誤をこらして、新しい文章を作り上げることができるのか。そういった苦心の跡を、本書では明らかにしたいと思いました。
 また、私たちは必ずしも自分が考える自分ではない姿で他人に受け止められていることも多いです。私はそれが面白いと思うタイプの人間ですが、みなさんはどうでしょうか。特にそれを顕著に感じるのが、日本で日本文学について語っているときの「私」と海外で日本文学について語っているときの「私」は、明らかに求められるものも、認識のされかたも異なるということです。具体的にいえば、日本で日本文学について語るときは外国での日本文学のとらえられ方についてふれながら話すことが多く、海外で日本文学について語るときは現在の日本文学や日本文化のあり方についてふれながら話すことが多いです。そういった求められているものの違いに気を配りながら研究者生活をおこなうことは、私にとっては興味深いことです。堀口も自分の日本文壇での役割と海外での役割の違いについては非常に敏感に感じ取っていたようです。そういった複数の顔をもっている自分、というものをどのように受け止めていたのか、という視点も本書では重要なポイントになってきます。
 本書を読んで、実際に自分も海外に行き、自分の異なる面を発見し見つめ直してみたいと思っていただけたのであれば、きっと本書に書いたことをよく理解していただけたということなのではないかと思います。