テュケーを追いかけて――『アニメと声優のメディア史――なぜ女性が少年を演じるのか』を出版して

石田美紀

 少年役を演じる女性声優の歴史を記述することは、長く苦しい体験でした。もともと遅筆の筆者ですが、今回はそれだけではなかったように思います。声は人間にとって基本的な表現手段のひとつです。そのため、声優と呼ばれる声の演技者の活動領域は多岐にわたります。
 1963年に放送が始まった連続テレビアニメの原点『鉄腕アトム』(フジテレビ系)も、声優という職業の出発点ではありません。テレビの黎明期である50年代初頭から、声優は海外テレビドラマや洋画の吹き替えで活躍すると同時に、連続人形劇でもさまざまなキャラクターを演じてきました。さらにテレビが登場する以前の声のメディアであるラジオも、声優なしでは成立しませんでした。特に敗戦後の連合国軍の占領期には、女性声優たちが自分とは性別も年齢も異なる少年役を演じ、連続ラジオドラマという新しいジャンルを日本に根づかせ、花開かせました。
 声の表現者たちの調査は、本書の執筆開始当初には想定もしなかった時代とメディアへと、筆者を誘っていきました。新しい領域にさしかかるたびに筆にはブレーキがかかり、議論の方向も変わっていきました。そのため、本書を担当した編集者のおふたりの手をずいぶん焼かせてしまいました。
 そしていま、本書の執筆で経験した紆余曲折は、「幸運の女神」を追いかける道のりだったと感じています。「幸運の女神には前髪しかない」という有名な警句があります。チャンスはそれが訪れた瞬間につかまなければものにできないよ、ということですが、ここで言っている幸運の女神とは、古代ギリシャでテュケーと呼ばれた運命の女神です。実は、本書の出発点のひとつになった発表で、筆者はテュケーと遭遇しています。なんとまあ大げさな、と思われるかもしれませんが、いましばらくお付き合いください。
 2018年2月、ドイツのある大学で、現代の大衆文化のなかのキャラクターを主題にシンポジウムが開かれていました。ヨーロッパ各地やブラジル、そして日本から参加した研究者が、アメリカのコミックスからマーベル映画、はたまた『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー、1818年)に代表されるゴシック小説まで、それぞれが関心をもつ領域・メディアのなかのキャラクターを考察し、意見交換をおこないました。
 筆者は1990年代のアニメを選び、キャラクターを構成する絵と声がアクロバティックな関係を取り結びながら、ジェンダーとセクシュアリティの多様性を切り開いていったことを発表しました。分析の中心になったのは、少年役から青年役を得意とする緒方恵美さんが演じた女性キャラクターである天王はるか/セーラーウラヌスです。「らしさ」を華麗に一蹴するこの女性キャラクターが、女性が演じる少年役という日本の連続テレビアニメの慣習と、そこに蓄積された声の演出から生まれたことを論じました。
 発表のあと、聴衆のひとりが「あなたはテュケーを追いかけているんですね」とコメントをくれました。それは思いもかけない感想だったのですが、すぐに、ああ、と腑に落ちました。この方は、アニメというシステムを確実に作動させるために少年役を演じる女性声優の声が、システムが予期しなかった女性キャラクターを生み出したことを、不意に現れる幸運の女神になぞらえていたのです。
 テュケーという名を聞いて、画家アルブレヒト・デューラーが16世紀に描いた運命の女神の姿が頭に浮かびました。このデューラーの銅版画は『ネメシス(運命)』と題しているとおり、描かれているのはテュケーではありませんが、ネメシスはテュケーとともに運命をつかさどる存在です。
 デューラーの手になる運命の女神は、球体に乗って空中を移動しています。不安定な球体は、予測不能な運命の寓意です。筆者にはこの球体が回転しているように見えるのですが、回転という運動は規則的であり、予測を裏切ることはありません。予測がつかない運命の女神の乗り物がこのうえもなく安定した運動を見せるのなら、彼女は安定したアニメのシステムから生まれた型破りな女性キャラクターのもうひとつの姿かもしれない。そう筆者は考えました。
 たしかに、これはネメシスとテュケーの区別もつけない乱暴な思い込みでしょう。ただ、そのときから筆者にとって、アニメのシステムと少年役を演じる女性声優について考えることは、まるでテュケーをつかまえるかのようでした。もちろん簡単にことは運びません。なにしろ相手は運命の女神ですから、あっちに行ったかと思えば、こっちに戻ってしまう。それを何度も繰り返し、ようやく記述がまとまったのは、新型コロナウイルスに翻弄された2020年が終わろうとする頃、つまりこの文章を書いている四カ月前のことです。
 はたして、運命の女神はこの本のなかに収まっていてくれるのだろうか。不安はいまでも絶えないのですが、その一方で、気まぐれな女神はいつかどこかに行ってしまうだろうと覚悟も決めています。