難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)
コロナ禍に寄せて――「ギモン3:何を展示するの?(第2回)」の前に
いま、コロナ禍のなかで展覧会やキュレーションについて考えることが非常に困難な状況となっている。
この2カ月あまりの間に新型コロナウイルスの感染拡大により、文字どおり世の中が一変してしまった。ここで今回、これまでの連載の続きを掲載する前に、この場をお借りして、この状況下で展覧会やキュレーションに向き合うことについて、少しふれてみたい。書いたところでいますぐ何かの解決につながるわけではないのだが、とにかく私自身、本連載を続けるうえで、刻一刻と変わるいまの状況を備忘録的に書き留めながら、思考していくという以外にこれから先の原稿を書き進めるすべがない状況に陥っているので、このような脱線をお許し願いたい。またここで書いたことについては、今後も状況に応じてもともとの本連載全体の構成をアップデートしながら、連載後半の内容に反映していきたい。
2011年の東日本大震災のあとも、しばらくアートについて考えることができない、あるいはすぐにアートを通じて何らかの行動を起こすことが難しいと感じる美術関係者は、私自身も含めて大勢いたと思う。もちろん、さまざまな芸術を通した救援活動やチャリティー、また津波被害にあった作品のレスキュー事業(1)などもおこなわれていたが、それは被災者支援、復興に向けた活動だった。現在進行中の世界的なパンデミックと9年前に東日本で起きた震災と放射能汚染では、単純に比較することはできないが、本連載でも追って危機的な状況に私たちの社会が陥ったあとのアートや展覧会のあり方などについて、考察していきたい。
今回のコロナ禍について現時点(2020年4月末)で言えることは、1つの地域、あるいは1つの国にとどまらず、まさに地球規模で私たちが生きるということそのもの、また社会生活や経済活動に深刻な影響を及ぼしていて、しかもその「異常事態」が数カ月というごく短いスパンでもはや日常化しつつある、ということである。このような現況において美術の分野に限って簡単にこの2カ月あまりを振り返ってみると、中国を皮切りに韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界各国の美術館が2月から3月にかけて軒並み臨時休館に入り、多くの展覧会やアートフェアなどが中止・延期となった(2)。また私立美術館の多いアメリカでは、MoMAやメトロポリタン美術館をはじめとする名だたる館でスタッフの解雇が始まっている(3)。日本も首都圏など7都市を対象に緊急事態宣言が4月7日に発令される前から、大規模なイベント実施に関して自粛モードに入り、2月末からは美術館や博物館も床面積1,000平方メートル以上の館を中心に臨時休館に入っていたが、発令後には、細々と開けていたギャラリーも休廊を余儀なくされた。そして緊急事態宣言が4月16日に全国に拡大されてからは、実質的に日本国内の展覧会という展覧会が中止や再開見込み不透明なまま延期などに追い込まれている。
このような状況下でも、なんとか芸術活動を続けようと世界各地でさまざまな試みがなされている。音楽や舞台芸術、パフォーマンスの分野で動画配信、ライブ配信などがおこなわれるのに続き、美術館でも、オンラインで公開するコレクションを充実させたり、展示したものの休館せざるをえなくなった展覧会をウェブサイト上で写真や動画を交えて紹介したり、カタログテキストをウェブサイト上で閲覧できるようにするなど、各館がしのぎを削っている。だが、展覧会というメディアは、本連載の冒頭でも述べたとおり、そもそもが非常にアナログなメディアであり、展覧会に観客が実際にいってなんぼの世界である。したがって、今回のような事態にすぐさま対応しろと言われても、そう簡単にはいかないのも事実だ。また今日の現代美術の展覧会は、国際的な協力のもとに成り立っているものも多く、作品を国内外に輸送することや、展覧会場に国を超えてアーティストやキュレーター、クーリエなどの人が移動することができない現状のなか、作品を展示する、という行為自体が不可能になっている。またアーティストやフリーランスのキュレーターなどについては、予定していた展覧会が中止や延期となり、収入が断たれる人も多い。ドイツ政府は、この事態のなかいち早く「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要な存在(4)」と断言し、フリーランサーや芸術家、個人業者に向けて500億ユーロという大規模な支援を約束した。日本では、ドイツのような国レベルでの動きは鈍いが、地方自治体が独自の支援策を打ち出したり、各芸術団体やアーティスト、民間企業などが、立ち上がって、基金を設立したり、クラウド・ファンディングや、各種の署名活動などが始まっている。
明日の暮らしをどうするのか、を考えなくてはならない事態のなかで、こうしたいますぐ必要な支援や対応について、それぞれができることを考え、動いていくことは大事だ。だが、同時にポスト・コロナ、ポスト・パンデミックの世界について考え始めることも重要である。感染の収束にはまだ相当の時間がかかりそうだし、この状況によりさまざまな価値観の変容が否が応でも起こっていることは確かである。世界的にこの危機的状況を共有した(大半がまだそのただなかにあるが)あとのポスト・コロナの世界では、私たちの暮らしのあらゆる面で、従来どおりというわけにはいかないことは明らかだろう。それは、人間の文化活動でも当然同じであり、本連載の根本的なテーマである、展覧会やキュレーションとは何か、またどうあるべきか、という問いにもつながっている。
連載は、ギモン3の第2回を執筆当時(2月中旬)のままの原稿で以下、掲載するが、ギモン4以降はそうしたポスト・コロナ社会で求められる展覧会やキュレーションとは何か、といった問題も考えながら、あらためて執筆していきたい。なお、本連載の書籍化の際には、これまでの執筆分も含めて大幅に見直しが必要となってくる部分も出てくると思われる。というか、見直さざるをえない状況にいると言ったほうが正しい。こんな時期に展覧会やキュレーションのことを論じるのか、と言われるかもしれないが、こんな時期だからこそ、見えてくるものがあると信じて、今後の連載を継続したい。
注
(1)文化財レスキューの具体的な事例については、例えば東京文化財研究所の「被災文化財レスキュー事業 実施状況」などを参照のこと(https://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/110627/index.html)。
(2)なお、先に流行して早くから都市封鎖に入った上海の美術館は、3月中旬から再開、北京の美術館も4月下旬から再開している。イタリアの美術館も5月中旬以降、再開の予定となっている。
(3)「MOMA AND NEW MUSEUM AMONG NY INSTITUTIONS CUTTING JOBS TO CURB DEFICITS」「ARTFORUM」2020年4月3日(https://www.artforum.com/news/moma-and-new-museum-among-ny-institutions-cutting-jobs-to-curb-deficits-82681)、「METROPOLITAN MUSEUM OF ART LAYS OFF EIGHTY-ONE EMPLOYEES」「ARTFORUM」2020年4月22日(https://www.artforum.com/news/metropolitan-museum-of-art-lays-off-eighty-one-employees-82782)
(4)モーゲンスタン陽子「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」「ニューズウィーク日本版」2020年3月30日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92928.php)
第2回 展覧会に出す「作品」を選ぶ行為
展覧会では、世の中にあまたある「作品」から、ある特定のものを選んで展示する。その特定のものを選ぶ基準を決めて、何をどのように展示するかを決めるのが、キュレーターの仕事とも言える。
ギモン2の順路の話のところで少し触れたが、キュレーターは、一本の展覧会に通底するストーリー、あるいは展覧会のテーマ、企画のコンセプトを考え、それに基づいてアーティストとその作品を選ぶ。アーティスト自身が企画をする場合はキュレーターを立てないこともあるが、その場合でも、アーティストがキュレーターの役割を兼務することには変わりない。つまり展覧会は、キュレーターによってなんらかの価値基準の下で選択される作品で構成される、極めて恣意的なものである、ということだ。
旧東ドイツ出身の哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスは、著書『アート・パワー』のなかで、キュレーターやアーティストによってもたらされる展覧会の恣意性について次のように述べている。
「アーティストやキュレーターはこれら芸術の対象とされる物すべてを、純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する。このようにしてアーティストやキュレーターは、選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会を得るのである(6)」
グロイスの指摘は、半分当たっているが、半分は正直、首を傾げたくなる。確かに展覧会で何を展示するかは、キュレーターあるいはアーティストが決めるにせよ、「純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する」ことができるなら、世の中のキュレーターたちはこんなに苦労していないだろう。そんな思いどおりの夢の企画が実現できることは、まずないと言ってもいい。大抵は、予算の問題や物理的な制約、また人的・政治的要因などさまざまな軋轢があるなかで、それでも自分の理想とする展示に向けて、あらゆる創意工夫をして、多くの人の協力を得て、ようやくなんとか納得できる形に落とし込んでいく、というのがキュレーションの現場の実態に近いと思う。
ただ、グロイスの指摘のうち、ここで注目したいのは、半分当たっているほうの部分の話だ。先に述べたように、キュレーターの仕事の根幹をなす部分は、展覧会のコンセプト作りとそれに基づく作品の選定にある。展覧会は、グロイスが言うとおり、「選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会」にはちがいない。だが、それは単に自分が好きなものを展示して終わり、ではない。展覧会の規模や種類にもよるが、都内の美術館での大型展覧会となると、家が一軒買えるぐらいの予算を扱う。これが公立館の場合なら、その財源は市民や都民の税金ということになる。特に公金を投じるタイプの展覧会の場合、キュレーターがある選択をして展示する以上は、その作品をどのように美術や美術史の文脈に位置づけるのかについて観客に公的に説明する責任が生じる。一つの展覧会を作るときに、あるコンセプトやテーマを設定した場合、それに沿ってさまざまな選択のプロセスが生まれる。ときには、そのプロセスのなかでコンセプトやテーマそのものを軌道修正していくことも少なくない。なぜAという作家ではなくBという作家を選ぶのか、あるいは同じ作家の手によるものでも、なぜCという作品ではなくDという作品を展示するのか、など一つひとつの選択をしながら、その理由を展覧会の形で広く観客に向けて示していくことが必要になる。またなぜその会場で、このタイミングで、そのテーマの展覧会をやるのか、ということも問われるだろう。それでも、この「選択」という展覧会の宿命は、ときにキュレーターにある種の権力を生み出す危険性もはらんでいる。
「作品」は、作家の手で生み出されて、展覧会場に置かれて、観覧されることではじめて「作品」として多くの人が知ることになる。この「作品」を「作品」として位置づけるのがキュレーターだとすると、キュレーターがもつ責任は非常に重大だと言えるだろう。「作品」がなければ展覧会は始まらないが、キュレーターが選ばなければ、「作品」は日の目を見ることはない。ここでキュレーターは、その選定の根拠をしっかり説明する必要がある。ウォールテキストやカタログは単なる飾りや展覧会の付属物ではなく、展示だけでは足りない部分を言葉を使って補足する大切な役割を担っている。特に近年の多様化する現代美術の場合、見ただけではわかりにくく、その背景について説明を要する作品も多い。こうした展覧会に展示された作品を、その展覧会全体の説明や個々の作品に関する説明も含めて鑑賞した観客の反応、さらには美術史家や美術評論家といった人たちがそれらを論じていくことで、あらためてキュレーターのキュレーションや作品の意義や位置づけが問われていくのだ。
現代美術における作家とキュレーターの関係
現代美術の場合、作家が現役で活躍していることも多いので、展覧会に合わせて新作を作ってもらう、ということもできてしまう。ときには、評価が定まっていない作家の作品を展示することもあり、若手の作家にお願いすることは、最後まで結果が見えないというリスクも大きい。これは近代美術までのキュレーションとの大きな違いである。既存のものを見いだし、ときには全く新しい文脈から光を当てて選ぶという行為までは近代美術までの美術も現代美術も変わりないが、現代美術の場合、それに加えて、新しく作り出すという行為が可能になってくるのだ。そうしたプロセスにおいて、まさに展覧会で「作品」を「作品」として位置づける行為は、ある種作家とキュレーターによる共同作業になっていくとともに、緊張関係を生み出す。
1990年代に入って、特に現代美術の展覧会でキュレーターの役割が世界各地で急激に台頭してきたなかで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった大型の国際展を華々しく取り仕切るキュレーターは、「スター・キュレーター」ともてはやされた。そのスター・キュレーターに選ばれる作家はスター・アーティストと呼ばれ、国際展の常連組となり、作品が高値で取り引きされ、世界の名だたる美術館で展覧会が開催されていった。そうした国際的な舞台で活躍するにはスター・キュレーターのお眼鏡にかなう必要があり、そうしたキュレーターと「ワイン&ダイン(食事やお酒を一緒に飲んで仲良くする、の意)」するのが作家として成功への近道であるかのように揶揄されることも多かった。その一方で、そうした作家とキュレーターのパワーゲームに異を唱えるように特に2000年代以降、「アーティスト/キュレーター」と呼ばれるキュレーションを自ら積極的におこなうアーティストが登場したり、複数のキュレーターが一つの展覧会を作る共同キュレーションの試みなど、既存の一人のキュレーターがすべてを取り仕切る形とは異なる新しいキュレーションの方法が次々と実践されている。あるいは、従来の美術の展覧会の枠組みではなく、社会的な問題意識から、アーティストなどが自発的にプロジェクトを立ち上げるなど新たな方法論を模索する試みも近年増えている。例えばアーティスト集団のwah document(ワウ・ドキュメント)は、東日本大震災後の東北の被災地に赴き、子どもたちとワークショップを通してお手製の映画館を作った(7)。あるいは、詩人の上田假奈代が主宰するNPO法人のココルームは、日雇い労働者や路上生活者が多く住む大阪のあいりん地区・釜ヶ崎で「釜ヶ崎芸術大学」という名の地元の「おじさん」たちを対象とした狂言、書道、音楽、美術、天文学など幅広いジャンルを扱う市民大学、ワークショップを継続的に実施している(8)。
こうしたさまざまな新しい試みは、「作品」を「作品」として位置づける行為が、これまでアーティストが「作品」を創り出し、キュレーターがそれを「展示する」という前提に成り立つ行為であったことを浮き彫りにする。と同時に、近年のキュレーションのあり方の見直しや、観客やコミュニティーが作品制作のプロセスに大きく関わるなかで「作品」を創り出し、それを「作品」として位置づける行為の主体者が必ずしもアーティストやキュレーターとはかぎらないという、現代美術ならではの状況が発生している。
これまで見てきたとおり、展覧会は、確かに作品を「作品」と定義づけ、美術の文脈のなかに位置づける装置であったと言える。だが、その担い手については誰が「作品」を創るのか、という問いも含めて、あらためて考える必要がある。「作品」が「作品」として成立するときについて、本ギモンでは主にキュレーターの立場から考えてきたが、次のギモンでは、視点を変えて、観客とアーティストの立場からもう一度考えてみることにしよう。
注
(6)ボリス・グロイス「多重的な作者」齋木克裕訳、『アート・パワー』石田圭子/齋木克裕/三本松倫代/角尾宣信訳、現代企画室、2017年、151ページ
(7)詳しくは「wah in 東北 9日間の活動レポート」(「wah document」〔http://wah-document.com/blog/2011/07/wah-in-東北%E3%80%809日間の活動レポート/〕)を参照。
(8)釜ヶ崎芸術大学については下記を参照のこと。「NPO法人こえとことばとこころの部屋cocoroom」(http://cocoroom.org/釜ヶ崎芸術大学・大学院2019/)。なお、釜ヶ崎芸術大学は、2014年の横浜トリエンナーレに作家として参加している。
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