代理出産、特別養子縁組、里親、児童養護施設をつなげる視点――『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』を書いて

土屋 敦/松木洋人

「ふつう」の親子? 「ふつう」の子育て?

 血縁でつながっている実の親と子どもとの関係。これが多くの人がイメージする「ふつう」の親子関係だろう。同様に、我々が「子育て」という言葉を使うとき、それはたいてい実の親が実の子どもを育てる営みのことを意味している。
 しかし、この「ふつう」の親子関係とは異なる関係のもとで、子どもが生まれたり育てられたりする場合がある。たとえば、近年、子どもがいる男女が結婚することで形成されるステップファミリーへの注目が高まっている。ステップファミリーでは、夫と前の妻との間に生まれた子どもは、血のつながりがない「新しいお母さん」と生活をともにして、さまざまなケアを受けることになる。

「ハイブリッドな親子」と血縁・家族へのこだわり

 本書の書名になっている「ハイブリッドな親子」という概念は、ステップファミリーのように、子どもの生育に生みの親以外の大人が関与するさまざまな状況に光を当てるために我々が新たに考案した言葉である。「ハイブリッドな親子」にも多様なかたちがあるだろう。例えば、代理出産における「産む親」と「遺伝的親」の分離をめぐる問題、養親と養子の関係、里親と里子の関係や、児童養護施設で実親と切り離されながら養育される子どものケアなども含まれるだろう。
「ハイブリッドな親子」は、一方では血縁にとらわれていない点がポジティブに捉えられることもある。子どもの親にとって大事なのは子どもへの愛情であり配慮だと考えるならば、血縁がもつ意味は二次的なものになるだろう。たとえば、養親子関係のもとで育てられた子どもが、実際に自分を育ててくれた親こそが「ほんとうのお母さん、お父さん」であって、顔も覚えていない生みの親のことは「親でもなんでもない」と考えるというような場合である。
 他方で、本書も含めて、これまでさまざまな研究が示してきたのは、「ハイブリッドな親子」関係を生きる人々が、血縁へのこだわりと向き合いながら生きているということである。さきほどのステップファミリーの例でいうならば、「新しいお母さん」は、子どもが実の母親と会っていることに複雑な感情を抱いているかもしれないし、子どもも「新しいお母さん」のそんな気持ちに気づいて、実の母親と会っていることを隠そうとするかもしれない。また、養親子関係のもとで育てられた子どもも、自分を育ててくれた養親への感謝の念は大きく、自分はこのお父さんとお母さんの子どもだという思いは強くても、それと同時に、心のどこかで実の親への思いをぬぐい去ることができないような場合もあるだろう。
 このような人々の血縁へのこだわりは、血縁でつながった実の親と子どもの関係、そのような関係のもとでなされる子育てが「ふつう」であり、そうでない関係や子育てと比べて、なにか特別な価値をもつものとする規範に由来している。
 本書では、家族社会学の視座から人々の血縁へのこだわりや実の親と子どもの関係を価値づけている規範を解きほぐす作業に力を注いだ。その結果明らかになるのは、このこだわりや規範の強固さであるかもしれない。しかし、社会学的な分析は血縁へのこだわりを社会的プロセスのなかに置くことで相対化する作業でもある。本書は、子どもが実の親だけではなく、多様な大人との養育関係のなかで「ふつう」に育まれる社会をイメージして、その輪郭を浮き彫りにすることを心がけた。現代の日本社会では、家族に子育ての責任が過度に集中することの問題が指摘され、「育児の社会化」の必要性が主張されているが、本書が示そうとしている新たな社会のイメージは、「育児の社会化」を構想するうえでも新たな視点を提供してくれるはずだ。

■代理出産■
 現代社会のテクノロジーの発展にともない、「ハイブリッドな親子」の血縁・家族へのこだわりが最も顕著に表出しているのが、代理出産や第三者の配偶子(精子・卵子)を用いた体外授精の場だろう。代理出産は、自らの卵子を用いて自分で妊娠出産をおこなえない女性が、第三者の女性に妊娠出産腹を委託する行為をさし、「遺伝的親」と「産む親」の分離がおこなわれる。また、カップルのいずれかの不妊が著しい場合、第三者の精子や卵子を借りて出産がおこなわれる場合もある。
 日本国内で代理出産は2008年4月に日本学術会議から出された提言によって原則禁止されていて、この問題に関する法はいまだに整備されていない。他方で、アメリカで代理出産をし、出生児の戸籍上の扱いをめぐって03年に訴訟を起こした向井亜紀・高田延彦夫妻の事例は有名だが、日本人による代理出産自体は、アメリカへの渡航はもちろん、インドやベトナム、タイなどのアジア諸国で生殖ツーリズムとして展開されている。
 また、精子提供や卵子提供による非配偶者間人工授精(AID)、特に精子提供は1949年に慶應義塾大学病院で開始され、これまでに約1万5,000人あまりの子どもが精子提供で生まれている。他方で卵子提供は、日本国内では原則禁止されているものの、アメリカやインド、タイやベトナムなど、海外で提供を受けることが頻繁におこなわれている。
 本書では、こうした代理出産や卵子提供などの生殖ツーリズムの拠点になっているタイやベトナムなどの経験者に取材して、提供者になっている女性たちの身体観や血縁・家族へのこだわりを浮かび上がらせた。そこから見えてくるのは、出産や生殖をめぐる文化的規範のあり方であり、彼女たちが身体感覚の位相で抱く、出産に対する意味づけの差異である。

■特別養子縁組■
「ハイブリッドな親子」と聞いて最も多くの方が思い浮かべるのが、養子縁組の親子関係かもしれない。そこでは、「遺伝的親」と「育ての親」の分離がある。本書では、養子縁組のなかでも特別養子縁組制度の立法化過程を取り上げた。
 普通養子縁組制度では、養子になった子どもは戸籍上、実親と養親の2組の親をもつことになる。だが、特別養子縁組制度は戸籍上、養親の子どもになり実親との関係がなくなる。特別養子縁組制度が誕生したのは1987年のことだ。長い養子縁組の歴史を振り返れば、近年になって誕生した新たな制度だといえるだろう。
 血縁関係に基づく親子観は、「ごく自然で自明のもの」として想起されやすい。他方で、特別養子縁組制度の立法過程をさかのぼるなかで見えてくるのは、「ごく自然で自明のもの」として意識されがちな親子観が、過去のある時点で偶然生じたものであったり、政治的な交渉のなかで恣意的に選択されたものであったりする、親子観をめぐる血縁のポリティクスとも言うべき事態である。本書で意識的に心がけたのは、「血縁」という一見強固に見える親子観を換骨奪胎しながら、そこで議論される政治的な交渉の背景をつぶさに浮かび上がらせることである。

■里親■
「ハイブリッドな親子」のなかでは、里親制度の親子のあり方もまた大きな主題である。養子制度が戸籍の変更を伴う親子関係構築の場であるのに対し、里親制度は児童福祉法に位置づけられた制度であり、虐待を受けた子どもなど、実親のもとでは養育が困難な子どもを第三者が一時的に養育する社会的養護の一つであるところに特徴がある。
 この社会的養護の実践の場で、乳児院や児童養護施設などの施設養護が望ましいのか、それとも里親委託のほうが望ましいのかという論争は長年にわたり繰り広げられてきた。だが、特に2000年以降の潮流は圧倒的に後者の里親委託への支持に傾斜している。本書で取り組んだのは、この潮流のなかで「里親」の位置づけはどう変化したのかを明らかにすることである。
 里親制度は児童福祉法に基づく福祉制度である。そのため、この制度は、「親」であること、「家族」であることを社会がどう評価・実践するのか、という問題と向き合いながら作り上げられてきた。里親制度で近年生じてる事態は、血縁・家族へのこだわりの今後を読み解いていく際、大きな試金石になるだろう。

■児童養護施設■
 里親制度などの「家庭的養護」と対比して語られるのが、乳児院や児童養護施設などでの子どもの養育であり、それは「施設養護」と呼ばれる。「施設養護」は里親制度と並んで日本の社会的養護を担ってきた代表的な場だが、近年、要保護児童の養育に占める「施設養護」割合の高さが大きな問題になっている。国連子どもの権利条約(1989年)では、実親家庭での生活が困難な子どもに家庭的な場での養育を保障することが盛り込まれ、日本の施設養護の多さに3度の国連勧告がなされてきた。
 子どもの「施設養護」は、家庭的な養護からは最も隔てられた場所でなされる育児である。そうした場所での育児規範は、「ふつうの家族」における育児規範とどのような交錯関係のなかで形成されてきたのだろうか。本書で試みたのは、「施設養護」における育児規範の歴史的な変容を跡付ける作業であり、1960年代から70年代に大きな画期があったことを明らかにしている。

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「ハイブリッドな親子」における血縁・家族へのこだわりを解きほぐしていく最大の意味は、ある種の息苦しさも含む「家族」から少し距離を置いて現在の親子関係を検証していく視座を確保することであり、血縁や実親子へのこだわりを一度カッコにくくり、多様な親子関係に目を向けていくことを世に喚起することにある。まずは多様な「現実」と向き合い、理解するということ――それが、個々人がもつ「こだわり」を解きほぐすことにつながる第一歩だと、そう信じている。