須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)
いま、2.5次元が熱い。
2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。
また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」
*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。
注
(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。
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