『偏見というまなざし』というこの本の企画は、編集者の林桂吾さんが名古屋にいたときに私の研究室に何度かきて、ひととおりいまの文学や思想の状況について雑談を繰り返したあと、「なにかおもしろい本が出せないかなあ」という思いを漠然と二人の間で共有するようになったところで、すぐに動きはじめた。最初は、日本には翻訳をとおして文化研究(カルチュラル・スタディーズ)やメディア論の本はたくさん入っているが、日本の近代の問題を文化研究やメディア論などの視点から総合的に考える入り口になるような本があまりないのではないか、という問題意識から始まったと思う。
その後、書いていただく執筆者の方々を決めていく過程で、このうちの「入り口」ということをより強く意識するようになっていった。いまでは文化研究を紹介し、それを日本のさまざまな文化状況に応用する本はいくつか出ているが、私たちのこの企画は、文化研究やメディア論の通俗化を慎重に警戒しながら、それらの原点である政治性を確認し、なおかつ、より身近な問題をとおして、日本の近代を平易な言葉で語り直そうというところに特徴があると思う。「入り口」と書いたのは、そういう意味においてである。
そうした基本的な態度が「偏見」という本書のキイワードを必然的に呼び寄せたと言える。「差別」については多方面の領域ですでに多くのことが語られてきたし、今後も語られ問われていくだろう。差別も偏見と同様、私たちの日常のなかにごく普通の顔つきで転がっており、私たちはいつでもその主体にも客体にもなりうるような状況にある。だから偏見を考えることはまさに差別を考えることにほかならないのだが、あえて「偏見」ということばにこだわったのも、私たちの日常に、目に見える形でアクションとして露顕する前の、曖昧な様態をまずは点検してみる必要があると考えたからだ。
もちろん「意識されざる差別」というものがあるわけで、いや差別というもの自体、もともと意識され自覚されることが少ない(ない)ところに最も根深い問題があることを前提にされるべきであることは言うまでもない。しかし、「意識されざる差別」と「偏見」とを区分けする径庭は(厳密ではないものの)じつはたいへん大きいのではないだろうか。偏見というものは手を差し出せば各人のすぐ目の前にあって触れているものだ。このことばがすでに視覚的な意味を内包しているように、それは私たちが生活のなかで感じていること、感覚や感性からダイレクトに繋がって派生しているものなのだ。私たちの「感じ方」を規定しているシステムを日本の近代のなかに辿り直しみるという試みは、だから直ちに大きな歴史(物語)の扉に到達することはないだろう。
だが、こうした低い目線を選び取ることことこそ、私たち自身の行為や思想の責任の在処を問い直す出発点になりうるという考えを、この本の編集の過程で私は確かなものにできたと思う。
ところで本書のもう一つの特徴は、ふだんあまり交流することの少ない多領域の書き手の方たちがその論考を通して顔を合わせたことだろう。それぞれの領域で現在、もっともヴィヴィッドに仕事をされている方たちに書いていただけたと自負している。ただ編者としてやり残したことがあるとすれば、論考のそれぞれが実際的に応答を重ねるような場を作ることだろうか。その応答の場はむしろいま、読者の皆さんのなかに委ねられているのかもしれない。
私自身は学会などでは日本の近代文学研究というアカデミックな枠組みに帰属している人間だが、勤務先の大学の所属は「情報文化学部」というところにある。大学院は「人間情報学研究科」が所属先で、講座は学部も研究科もともに「情報創造論」という。ひとから「何をやっている学部なんだ?」とたずねられて答えに窮することが多い。こうした事情は私以外の同僚にとってもほとんど同じようで、文理融合をめざした情報系の学部・研究科という公式お題目的な説明はできても、組織がやっていること、やりたいことを一言で述べるとなるとじつにむずかしいのだ。もちろん大学は社会に対して情報を公開し、研究教育の実態に対する説明義務を負っている。私も数年前までは広報の仕事を任されて高校生たちの前で説明したり、進級する学生へのガイダンスを毎年のようにおこなって、学部などの説明はしてきている。だが、あたらしく構築された組織はしょせんは実践によって語る以外に語りようがない。いままでなかった学問領域は説明することによって成立するのでなく、作り上げることによってはじめてその顔を見せる。
反面、こうした(横断的な)組織にいてもなお痛感させられるのは、大学というところがまだまだ「社会化」されていない、風通しの悪いところだということである。私のいるような組織に対しては既設学部の人たちからは比較的冷ややかに揶揄的に見下されることも少なくない。どうせ「便宜的」に新しい学問をでっちあげているだけだろうとか、伝統がないところで学問は育たない、とか。その一方で文学部・教育学部など既設学部の側からは、さまざまな観点から人文基礎学の危機を憂える声が煽るように呻くように聞こえてくる。このことは、大学では、内部的に既得権益も絡みながら、「発明された伝統」としてのアカデミズムの制度がまだほとんど疑われていないことを反照している。私のいる「学際的」な組織も現在、あらためて改組の荒波に直面している。
以上のような事態はどういうことを提起しているのだろうか。簡潔に結論づけよう。大学が新しい領域を開拓することと、それを社会に向けて発信しつづける努力は今後も続けねばならない。しかし、それと同時に、大学という場所だけで知を鍛え上げられるなどというような思い上がった幻想はすみやかに廃棄されねばならないだろう。
『偏見というまなざし』のような試みが何かユニークなものを実現しているとすれば、それはちょうど上に述べたような、知の枠組みを保全するのでなく、それを超えて、そのつどその都度新たなネットワークを作り出していくこと、そうした運動を生起させる場を用意することだと思う。今回の企画の執筆者にも私を含めて多くの大学教員の方たちが含まれているが、同時にお二人のキューレーターにもお書きいただくことができたのは、そうした趣旨のうえでもたいへん幸いなことだった。あちこちにいろいろな「箱」があって、そこから飛び出した人たちが共通の場を作り出す。それがたまたま書物の体裁をとっていたということだが、こういうことができる以上、まだまだ本の文化も捨てたものではないし、私個人は本を編集することの快楽を存分に味わわせていただいた。読者の皆さんとこの快楽をこれからじっくりかわしあえればと願っている。