そもそも文章を書くという行為がそうなのかもしれないが、書いてみてはじめて自分の書きたかったことに気づかされることがある。ましてや一冊の本ほどの分量にもなると、その感はいっそう深い。だから今回書いてみてそうした感覚になったとしても不思議はないのだが、それでもそうした部分とは別に、今回とくに気づかされたこともあった。
当初青弓社の矢野恵二さんと今回の企画について打ち合わせたときにコンセプトとしてあったのは、現代日本社会にあふれる笑いへの欲望のようなものを社会学的な視座から広く考察するというようなことだったと記憶している。ところが完成したものは、そのコンセプトを踏まえながらも、広くさまざまな事例を取り上げるというよりは、結局テレビの笑いということに相当大きな比重を置いたものになってしまった。当然ながら、笑いのかたちは、それだけではない。テレビの笑いが、いまやそのなかの主流を形づくるものだとしてもである。
そうなってしまったのには、本書のあとがきでもふれたように、一つには、単純に筆者の個人的な嗜好によるところが大きい。その意味で、笑いを判断するとき、暗黙のうちにテレビ的なものを基準にする習性が身についているだろうし、とりあえず何でも笑えれば楽しいというある意味では困った価値観が染みついているような部分もある。要するに、筆者はいわゆる「テレビっ子」なのである。
もちろんそうしたテレビっ子としての自己形成には、育ってきた時代背景もあるだろう。きわめて紋切り型な表現で恐縮だが、物心がついた時点ですでにテレビが身近にあったという環境は、大きな影響をおよぼしたにちがいない。テレビ世代以前と以後という区分けの説得力は、メディア史的な検証を待つまでもなく私たちの確たる実感として共有されているのではないか。
しかし、そうした世代論ですませてしまうことにも抵抗を感じないではない。テレビっ子的あり方は、世代や成育環境といったことを超えて一つのコミュニケーション主体としてもはや無視できない実質を社会的に獲得しているように思われるからだ。そしてそれは、本書の基本前提でもある。
たとえば、テレビに対してツッコむという行為を考えてみよう。テレビ画面での言動あるいは展開などに対して、「おいおい」とか「そんなわけないだろっ」とか言いながら、ほとんど反射的にツッコんでしまうという経験を、かなり多くの人がもっているのではないだろうか。さらに一人でテレビを観ているときだったりすれば、その頻度も高まるにちがいない(もちろん筆者もご多分にもれない)。
この行為を一つの「コミュニケーション」として考えてみよう。するとそこには、テレビっ子のコミュニケーション主体としての特性がよくみえてくる。
言うまでもなくそれは、疑似的なコミュニケーションにすぎない。ただしそれは、疑似だからこそ私たちを誘惑するという側面をもっている。そこには、他者から隔離された場所で物を言いたいという欲求と他者と言葉を交わしたいという欲求とが同居している。言葉を換えていえば、テレビに対するツッコミは、独白であると同時に会話なのである。そこには、テレビを自然に親しい他者とするような奇妙な感覚がみてとれるだろう。だがその両義的なあり方のなかにこそ、テレビっ子のコミュニケーション空間は成立している。
ただしテレビっ子は、隔離されたところでツッコむ自分に完全に自足しているわけではない。そこには、どこか居心地の悪さがともなっている。そのことは、テレビに対して思わずツッコんでしまった自分に対してこみあげてくるあの気恥ずかしい感覚を思い出してもらえばいいだろう。それは、テレビにツッコむ自分に対してもツッコまずにはいられない自分が常に隣り合っていることのあかしである。そしてその自己反省的な部分もまた、テレビっ子的主体の本質的一面なのである。
その意味で本書は、テレビっ子であることを自覚した筆者が、テレビっ子的あり方が当たり前のようになっている現在の日本社会を語る試みとして読んでもらえるだろう。そのような一種の自己分析的構図ゆえに、読者は、そこかしこで筆者が対象に寄り添いすぎているところを発見し、苦笑してしまわれるにちがいない。だがそのなかで、テレビっ子としての語りに新しさとおもしろさを少しでも感じとっていただければ、筆者としてそれに優る喜びはない。