第7回 コンテンツツーリズム(アニメ聖地巡礼)――イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係(2)

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

はじめに

 第6回連載で、“伝統的”アニメコンテンツツーリズムの例として、『夏目友人帳』の聖地である人吉市で起きている現象を分析した。妖怪というイマジネーションの産物が出てくるこの物語の聖地では、ニャンコ先生のぬいぐるみやアニメでのキャストボイスを務めた声優たちのサインが観光案内所に置いてあるくらいで、アニメキャラの等身大パネルや、像などは一切建てていない。コラボしたポスターやうちわ、グッズなどは夏祭りやイベントで販売されるものの、知るひとぞ知るというような、アニメ以外の観光客に軋轢を与えない配慮がなされているといっていい(1)。アニメを「売り」として全面的に利用していない態度も、ファンたちが反感を抱かない要因だろうし、アニメ放映が終了している間も、サステイナブルなコンテンツとしてファンを惹きつけることにもつながっていると思われる。ファンは、ひっそりとそれぞれが抱いた情景を思い浮かべ、聖地を旅し、二次元キャラクターたちと同じ空間を共有し、思いを馳せる。
 こうしたイマジネーションとともに旅をする“伝統的な”コンテンツツーリズムに、一つの新風が吹いている。AR(Augmented Reality:拡張現実)アプリを利用したコンテンツツーリズムである。本連載第7回では、ARアプリによって、コンテンツツーリズムのシーンがどう変わってきたか、また「2.5次元的な空間」にどう影響するのかを考察してみよう。

富山県南砺市の『恋旅~True Tours Nanto』の試み

 富山県南砺市には、『花咲くいろは』(2011年)、『SHIROBAKO』(2014-15年)、『さくらクエスト』(2017年)など、元気なワーキングガールたちを描いた傑作オリジナルテレビアニメで有名なアニメ制作会社P.A.WORKSがある。その南砺市が、PR用の短篇アニメをP.A.WORKSに委託して制作、2013年に公開されたのが、『恋旅~True Tours Nanto』(以下、『恋旅』と略記)である。『恋旅』は、P.A.WORKSの08年の作品『true tears』に関わったスタッフを中心に制作され、声優も『true tears』で主要キャラクターを演じた名塚佳織、高垣彩陽、井口裕香、吉野裕行、石井真らが、『恋旅』の主要キャラクターを演じているというつながりが深い作品である。そうした連続性は、モデルとなった舞台に関係がある。『true tears』の舞台の主要なモデルは南砺市城端地区(旧城端町)であり、『恋旅』が同市のPRアニメということであれば、必然的なつながりだった。
『恋旅』は、「富山県南砺市を巡る「3つの恋の物語」(2)」で、南砺市の観光スポットを舞台にしている。また、このアニメは専用アプリ「恋旅アプリ」をダウンロードして、カーナビなどのワンセグによるエリア放送、または南砺市内各庁舎、観光協会で視聴が可能になっている。つまり南砺市を訪れないと視聴できない仕組みになっている(プロモーションビデオは「YouTube」で視聴できるので、興味ある方は見てほしい)。
 地域誘致型のPRアニメという点も斬新だが、南砺市の試みが先駆的なのは、いち早く「恋旅アプリ」にARカメラ「恋旅カメラ」機能を搭載して観光誘致を試みたことである(3)。ARカメラを指定されたスポットで起動すると、アニメ『恋旅』のヒロインが現れ、観光名所と一緒に写真撮影ができる。自撮りや第三者に頼んで、自分がキャラクターと一緒に写真に入ることもできる。キャラクターのポーズのパターンは一つだが、季節ごとに衣替えをして、リピーターにも飽きさせない工夫がされている。また、「恋旅」フォトラリーという企画もあり、その写真を指定の場所で提示するとお土産(ポストカード)がもらえるキャンペーンなど、ファンの「恋旅カメラ」による写真撮影の動機を促している。紙媒体のスタンプラリーはすでに全国各地で採用されているが、「恋旅」は、モバイル機器を使ったデジタル技術によるスタンプラリーならぬ、フォトラリーであり、徐々に流行していた自撮りやのちに大流行する「インスタ映え」を予感させるような仕掛けが施されてあったことは重要である(4)。

イマジネーションとAR+カメラ

 では、コンテンツツーリズムの重要なファクターである物語性や“2.5次元空間”の構築には、ARとARカメラはどのような影響があるのだろうか。アニメ『恋旅』は、各話5分の3話で構成されている短篇である。長期間かけて描かれるテレビアニメやアニメ映画とは異なり、物語性によるファンの没入感は浅薄であろうと予想される。しかし、『true tears』のファンが、舞台の類似や声優の重複を手がかりに、『true tears』を参照しながら『恋旅』を楽しむ、という場合もあるかもしれない。たとえば、「この場所は『true tears』のあの場面にも出てきた」とか、「このシーン、比呂美(CV名塚佳織)っぽいね」とかいった具合である。そこに確かにイマジネーションははたらいていて、可視化されなくともファン一人ひとりの脳裏に、クロスレファレンスをしながら、キャラクターは現前しているはずである。
 そのようなイマジネーションの世界に、ARカメラによるキャラクターの可視化された姿が現れた場合、イマジネーションは阻害されるのだろうか、もしくは別の何かが体験できるのだろうか。
 ARによってスマートフォンのようなモバイルメディアをもつ人々の行動とソーシャリティが劇的に変化したのは、2016年の「Pokémon GO」の登場からだろう。そのベースにはもちろん、ゲームやアニメ『ポケットモンスター』(テレビ東京系)の物語性の共有がある。おそらくほとんどの『Pokémon GO』プレイヤーは、子どものころに『ポケモン』を観たり遊んだりした経験があり、おなじみのキャラクターがよく知る街並みに出てくる感覚は、3次元から2次元世界へ入り込んでしまった、まさに“2.5次元感覚”といっていいだろう。エルキ・フータモによると、「『Pokémon GO』は「拡張現実」の時代、すなわち、私たちが同時に二つの世界ーヴァーチャルとリアルーに住まい、作用を及ぼすことのできるヴィジュアライゼーションシステムの時代の到来を告げている(5)」という。
 こうした状態は、第1回連載で言及したように「ハイブリッドリアリティ(混交現実)」とも呼べる。『Pokémon GO』のプレイヤーたちは、サイバー世界と現実世界が混ざり合ったところで、ゲームを楽しむのである。ゲーム制作者の予想に反して、プレイヤーの間では、ゲームとは異なるコンテキストでのキャラクターとの遊戯も生まれた。ARカメラによる、ポケモンキャラクターを使ったお遊びである。たとえば、部屋のなかにポケモンが現れたら、コーヒーカップのなかに入るようにカップを配置して撮影したり、外でポケモンと自撮りしたりした写真をSNSにアップして楽しむという遊戯である。こうしたSNSへの写真の投稿のためのゲームという位置づけは、『恋旅』のARカメラの仕組みと通底する。しかし、『Pokémon GO』の場合、場所性にプレイヤーの関心があまり向かないため、観光誘致利用にはさほど大きな効果がなかったようである(6)。逆に場所性を意識しない功罪として神域や立ち入り禁止場所に入るプレイヤーに批判が集中したことは周知のとおりだ。

別府地獄めぐりの鬼岩坊主地獄に落ちそうなマリル 筆者撮影

 コンテンツツーリズムとARを考察する際、実はこの「場所性」がキーになっている。「場所性」といっても、必ずしも特定の観光名所を指すわけではない。『Pokémon GO』がゲームという看板を掲げながら、ゲームとは異なる文脈での遊びを誘引したのとは逆に、コンテンツツーリズムのARアプリは、観光アプリの看板を掲げながら、“ゲーム”的な使われ方もされている。次項では、筆者を含めゼミの学生たちがおこなった秩父でのコンテンツツーリズムとARの調査をベースに考えてみたい。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』と『心が叫びたがってるんだ。』の聖地・秩父

 2017年11月、筆者は横浜国立大学須川亜紀子研究室ポピュラー文化スタジオ・ゼミの学生(以下、ぽぷすたと略記)とともに、埼玉県秩父市でコンテンツツーリズムとARの調査をおこなった。秩父はいうまでもなく、A-1 Picturesのオリジナルテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)(以下、『あの花』と略記)と、『あの花』スタッフが結集して制作されたアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)(以下、『ここさけ』と略記)の聖地である。『あの花』とは、幼なじみの仲間「超平和バスターズ」の一人めんま(本名:本間芽衣子)の事故死をきっかけに疎遠になっていた仲間が高校生になった夏、「超平和バスターズ」のリーダー的存在だったじんたん(本名:宿海仁太)の前に突然めんまが現れ、それをきっかけに仲間が再会し、めんまの願いを叶えるため奮闘するうちに絆や心の傷を回復していく物語である。『ここさけ』は、おしゃべりの好きな主人公成瀬順が、幼いころ父親の不倫を目撃し、結果的に両親の離婚を招いてしまったことを契機に言葉が話せなくなり孤立していたが、高校生になって自分を理解してくれた仲間に出会うことで言葉と自尊心を回復していく物語である。どちらも感動的で、老若男女にかかわらず広い層に多くのファンをもつコンテンツだ。
 この2作品は秩父市と公式にコラボしていて、街中にはキービジュアルやキャラクターのフラッグやパネル、ラッピングバス、自動販売機などが放送・上映終了後の現在(2018年2月現在)でも見ることができる。実際、2017年7月に『ここさけ』が実写映画化されるなど、いまだ人気や話題が衰えない息の長いコンテンツのため、調査日にも“コンテンツツーリスト”に出会うことができた(詳細は後述)。

『あの花』ラッピングバス 学生撮影
旧秩父橋の『あの花』自動販売機 筆者撮影

 この調査で検証したのは、ソニー企業が2015年から運営しているARアプリ『行けるアニメ!舞台めぐり』(以下、『舞台めぐり』と略記)の利用状況とコンテンツツーリズムに関する意識である(7)。このアプリは、アニメ作品の「聖地」をチェックインポイントとして地図上に記しているため、地図ナビとしても使える。また聖地(チェックインエリア)で“写真を撮ってチェックイン”ボタンを押すと、キャラクターがポップアップで現れ、聖地の背景や自分と一緒に写真が撮れる。その写真をすぐアップする機能や、チェックインポイント達成率がパーセンテージで表示される機能もあり、近くで同じアプリを使っているユーザーの存在可否もわかる。作品によっては、キャラクターボイスも聞ける。『あの花』では、チェックインごとにめんまの声を聞くことができた。(聞かない選択もできる。『ここさけ』にはキャラクターボイスはなかった)。ぽぷすたの面々は、このアプリを使ってコンテンツツーリズムを体験しながら、『あの花』『ここさけ』のコンテンツツーリストにインタビュー調査をおこなった。質問内容は事前に作成したが、効率性確保のため2班に分かれ、同じ質問内容だが、半構造化式のインタビューを採用し、自由回答でさらに関連した質問をすることもあった。また、インタビューイーとの取り決めによって詳細な文言は掲載しないため、本連載ではまとめを報告するだけにとどまっている。
 調査では、『あの花』チームと『ここさけ』チームがそれぞれ特定のチェックインポイントとなる場所(聖地)を数カ所選んだ。『あの花』チームは羊山公園、旧秩父橋、定林寺、秩父神社を、『ここさけ』チームは横瀬駅、大慈寺、牧水の滝、デニーズを巡った。両チームとも代表的な聖地を選択したが、『あの花』チームは、羊山公園では『あの花』関係のツーリストには1人しか出会えず苦戦した。『ここさけ』チームも、駅では皆無だった。主にデータが取れたのは、非観光スポット、つまりアニメを知らない人はあまり訪れない旧秩父橋、定林寺、大慈寺であった。実施日時は2017年11月25日(土)の午前10時から午後5時。移動手段は徒歩とバスである。当日は、関連イベントが開催されているわけでもなく、アニメや映画の上映直後というわけでもないため、インタビューイーのサンプル数は限られているが、逆にいえば『あの花』『ここさけ』コンテンツツーリズムが日常的におこなわれている様子を点描できる可能性がある。とはいえ、以下で分析するデータは経年調査ではなく、サンプル数も少ないため、不十分であることを前提に論じていることをあらかじめ断っておく。より精密な調査については、今後の課題として考えたい。
 
物語性とAR

 ARアプリに関して、インタビューした10組20人全員のうち、『舞台めぐり』を実際に使った経験がある人は2組で、ほかは、DLしているが利用していない、利用したことはないが聞いたことがある、など利用率は低かった。ほとんどの人が聖地の場所を雑誌やネットの情報、そして西武秩父駅前にある観光案内所で配布されている「聖地マップ」を頼りに巡っていた。『あの花』に関しては、JTBのムック『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBパブリッシング、2014年)が出版されていて、詳細なガイドブックになっている。また、観光案内所で『あの花』と『ここさけ』の「聖地マップ」が配布されているので、事前情報がなくても容易に「聖地」を巡ることもできる。

『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBのMOOK)、JTBパブリッシング、2014年

(1)旅の目的
 インタビューイーは、『あの花』『ここさけ』の聖地を巡っている人に限ったが、旅の主目的を聞くと、「秋の紅葉や温泉など、秩父観光をするついでに聖地も見てみようと思って来た」、もしくは「近くに住んでいるので来てみた」いうもので、『あの花』『ここさけ』聖地巡礼を主目的に訪れていた人は1人だった。秩父観光をメインに訪れた人々は、ほかの代表的な秩父の観光地も巡りながら、アニメ聖地にも来ていた。近くに住んでいるという人々は秩父訪問は初めてではないので、何か変わったことをしようと聖地を巡ってみたというケースだった。アニメコンテンツツーリズム(またはアニメ聖地巡礼)というと、コアなファンだけがおこなっているイメージが先行しているが、「聖地巡礼」の行為自体の流行やアニメ・漫画自体の受容数の増加や公言度の高まりにより、いわゆるライトな動機(主観光のついで)でおこなう、いわば“副次的コンテンツツーリズム”も増加していると思われる。

(2)情報入手の方法
 こうした副次的コンテンツツーリズムで、聖地巡り関連の情報をどのように入手したかを質問すると、次のようになった(複数回答あり)。

 ネット上の情報 10組
 紙媒体のガイドブック 0組
 観光案内所で配布された聖地マップ 1組
 ARアプリ 3組

 民間企業が運営するデータベース的聖地巡礼マップからファンがアップしているブログ的なサイト、「ツイッター」などのSNSまで、あらゆる情報、写真から聖地を特定した人が多数観察された。ネットからの情報入手は、どのコンテンツツーリズム調査でも利用率が高い。ARアプリは、まだ利用者と非利用者にコンテンツごとのばらつきがあるようだ。特に『舞台めぐり』はサービス開始からまだ間もないので、知名度がさほど高くなく、(増加しているものの)ラインナップタイトルが限定的である(8)。そのためこのアプリを知る機会が、コンテンツによって異なるのは仕方がないだろう。

(3)ARアプリの利用状況
 ARアプリ「舞台めぐり」の利用状況については、次のような結果となった。

 存在を知らなかった。1組
 存在を知っているが、あまり使っていない。5組
 部分的、または補助的に使っている。3組
 ほぼすべての機能を使っている。1組

(4)キャラクターとの写真撮影について
 ARアプリを知っている人すべてが『舞台めぐり』をダウンロードしていた。しかし、使用頻度が少なく、使いこなせていない(またはあえてあまり使っていない)という人が多く、地図だけ、写真だけなど、部分的な使用方法が顕著だった。『舞台めぐり』の写真機能を利用した、キャラクターとの写真撮影の有無を聞くと、意外とキャラクターには固執していない組がほとんどだった。なかには「風景が好き」「キャラクターも含めて物語全体が好き」という、物語性やランドスケープを中心とした消費をしていた人が、調査対象には多かった。
 逆に、ぽぷすたの面々は『舞台めぐり』を使うのが初めてだったので、キャラクターがチェックインエリアで現れたことに感動し、『Pokémon GO』で見られたようなツーショット写真や遊び写真を撮って遊んでいた。

めんまドリンクとめんまのスリーショット 学生撮影
『ここさけ』の順とツーショット写真を撮る学生 学生撮影

作品内容とARキャラクター

『あの花』と『ここさけ』は、心の傷や仲間との絆を描いた青春譚である。好きなキャラクターをインタビューイーに聞くと、それぞれ一人挙げてくれたが、「みんな好き」「全体で一つ」「物語や風景が好き」という意見が多かった。したがって、「舞台めぐり」を利用していても、写真をアップしたり、アップされているほかのツーリストの写真を見たりということまでは興味がない人が大半だった。その温度差は、主目的としてのコンテンツツーリストか副次的なものか、という差異と、作品において前景化しているのがキャラクターなのか物語なのか、という差異によって出てくる。当然ながら、ツーリストの好みもその受容の仕方に大きく起因する。聖地を見つけること自体が好きなツーリストや、ピンポイントで聖地を訪問するよりも、迷いながら街をぶらぶらして物語空間そのものを楽しみたいツーリストも存在する。物語上、そのほうが2.5次元空間をより深く実感できる作品もあるだろう。
 本調査のインタビューイーも、2組はリピーターだったが、残り8組は副次的コンテンツツーリストであるため、足跡を残すこと(ARアプリ上に写真をアップする)にあまり固執していなかった。ぽぷすたの学生も、作品自体は好きだがリピーターになるほどでもなく、チェックインポイントの制覇(パーセンテージで数値化される)や、キャラクターのポップアップをどこから撮るか、などに夢中だった。ARアプリサイトに自分が撮った写真をアップするよりも、誰がいつアップしているのかに興味があるようだった。
 ぽぷすたの学生たちは、キャラクターが出てくることで、想像の幅が少し狭まると感想を述べた。しかし、それはキャラクターの出現自体ではなく、キャラクターのバリエーションの問題もあるかもしれない。『舞台めぐり』でのキャラクターパターンは1キャラクターにつき1種類である。チェックインポイントによって出現するキャラクターは異なるが、一人のキャラクターの変化はない。コンテンツツーリストたちにとって、アニメのシーンと同じ角度で“再現”写真を撮影することは重要な目的であり、『舞台めぐり』もチェックインエリアで、アニメのワンシーンを画面上に薄く重ねて、同じアングルでの写真撮影を可能にさせている機能もある。しかし、そこにキャラクターを入れたい場合、キャラクターのパターンが一つなので、違和感が生じる。
 
ARキャラクターと聖地

 たとえば、この聖地である(写真)。ここは、『あの花』でじんたんがうなだれていたベンチである。筆者の写真の腕が悪いのもあるが、じんたんのキャタクターパターンはこの立ち姿しかないため、興醒めな写真である。したがって、“再現”写真を撮りたくても、うなだれたじんたんは再現できず、ユーザーのイマジネーションと可視化された写真の場面に大きな齟齬が生じる。

ベンチとじんたん 筆者撮影

 しかし、ARキャラクターによって、場所の聖地化が可視化される利点もある。上記の例のベンチも、キャラクターが写っていない場合、物理的にはただのベンチである。そこにじんたんを配置させ、じんたんという意味内容と紐付けされることで、じんたんのベンチが可視化され、聖地として認識されやすくなるのである。こうした例は、非観光地の聖化や意味生成にも通じる。たとえば、駅が聖地となっている場合もアニメ作品には多いが、駅は公共の場所であり、人によって社会文化的意味は異なる。しかし、駅にARキャラクターを配置させて写真を撮ることによって、駅に「色」がつくのである。こうした使われ方のほかに、『Pokémon GO』ユーザーに見られたようなキャラクターの私物化、ネタとしての利用(遊戯)なども『舞台めぐり』でおこなわれていて、アプリの「ゲーム化」とソーシャリティに大きく影響を与えている。

イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係の未来

 ここまで、AR技術とコンテンツツーリズムについて、イマジネーションとの関係性を中心に論じてきた。聖地にいわゆる「巡礼ノート」が置いてある場合、そこにメッセージやイラストを描くことが、足跡を残すことになる。神社の場合は、絵馬がメッセージボードとして機能している。ほかに、レストランや宿泊施設であれば、グッズやぬいぐるみを置いてもらうことも足跡になるだろう。しかし、野外の小規模な聖地である場合は、ARキャラクターの出現は、聖地の可視化に貢献するのではないだろうか。
「ここで○○も立っていたなあ」とか「あの家が○○の家か」など、イマジネーションをフル稼働して2.5次元空間を楽しむコンテンツツーリズムだが、ライトなツーリスト(副次的コンテンツツーリスト)も含め、ツーリストの目的も多様化している。そうした状況で、今後コンテンツツーリズムにおいて、テクノロジーとイマジネーションのゆるやかな関係はどうなっていくのだろうか。VR(Virtual Reality:仮想現実)も視野に入れながら、今後も考察していきたい。

*こうした問題群から、筆者は2018年2月27日(火)14:00から「第4回「2.5次元文化」を考える公開シンポジウム――コンテンツツーリズム、AR、イマジネーション」を開催する(参加無料。ただし事前登録制)。興味のある方は、ウェブサイトを参照していただきたい(http://www.ynu.ac.jp/hus/urban/18907/detail.html)。


(1)一般社団法人人吉温泉観光協会の事務局アドバイザー中神寿一氏によると、「あえて「何もしないおもてなし」」のスタンスを取っているという(2018年2月9日、筆者によるインタビュー)。
(2)『恋旅~True Tours Nanto』公式ウェブサイトのキャッチコピー(www.koitabi-nanto.jp)[2017年12月1日アクセス]。
(3)「恋旅アプリアップデート!~ヒロイン3人秋服に衣替え♪~」(www.koitabi-nanto.jp/archives/2357)[2017年12月1日アクセス]
(4)Philip Seaton, Takayoshi Yamamura, Akiko Sugawa-Shimada and Kyungjae Jang, Contents Tourism in Japan: Pilgrimages to “Sacred Sites” of Popular Culture, Cambria Press, 2017, p.231.
(5)エルキ・フータモ「『Pokémon GO』とメディア熱の歴史」太田純貴訳、「特集 ソーシャルゲームの現在――「Pokémon GO」のその先」「ユリイカ」2017年2月号、青土社、51―63ページ
(6)中川大地「ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉――『Pokémon GO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋」同誌92ページ
(7)「行けるアニメ!舞台めぐり」(https://www.butaimeguri.com/)[2017年12月1日アクセス]
(8)2018年2月18日時点で、78タイトルである。

[謝辞]この場をお借りしまして、インタビューに快く応じてくださった一般社団法人人吉温泉観光協会事務局アドバイザー中神寿一様、そして秩父観光されていたみなさまに厚くお礼を申し上げます。また、一緒に調査をおこなった横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程2年(ぽぷすた)のみなさん、3、4年(ぽぷゼミ)のみなさん、OBの有志のみなさんにも感謝いたします。

[青弓社編集部から]
本連載は第7回で終了します。これまでの連載に加筆・修正して、書き下ろしを加えて書籍化する予定です。刊行日などが決まり次第告知しますので、楽しみにお待ちください。

 

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第6回 コンテンツツーリズム(アニメ聖地巡礼)――イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

『君の名は。』が浸透させた「聖地巡礼」

「聖地巡礼」という言葉が、お茶の間を騒がせている。もともと聖なる地への巡礼という宗教に根ざした言葉だが、現代では宗教ではなく、自分にとって神聖だと思う地への観光という意味で使用されている(1)。新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』(2016年)の国内外での大ヒットによって、アニメファンだけでなく、アニメをあまり見たことがない人までもがモデルになった場所を訪問する行為が社会現象になり、「聖地巡礼」イコール「アニメの舞台訪問」として印象づけられた。
『君の名は。』は、都会に暮らす男子高校生・瀧と田舎の女子高校生・三葉という見ず知らずの2人が、不思議な縁で身体が入れ替わり、お互いを探し求める恋愛ファンタジー物語である。舞台は、四谷(東京都)の須賀神社、四谷駅、新宿御苑、飛騨地方(岐阜県)の駅や図書館、諏訪湖(長野県)、某高校(広島県)、瀧がバイトをしていた都内のレストラン(のモデルになった店)など、多岐にわたる。ファンがその「聖地」を特定し、写真を撮ってSNSやウェブサイトで拡散、それを見た別のファンがまた写真をアップする……という連鎖作用の結果、聖地巡礼が大流行した。韓国、台湾、中国など、海外からも聖地巡礼に訪れるファンがいる。劇場公開が終了した現在でも、2017年7月にはDVD・BDも発売され、聖地巡礼は衰えを知らない。実は『君の名は。』以前からこうしたアニメ聖地巡礼はおこなわれているが(2)、『君の名は。』効果でアニメファン以外の一般の人が知るところになったという意味で、「(アニメ)聖地巡礼」という用語が人口に膾炙したのは、おそらく2016年からといっていいだろう(3)。

コンテンツツーリズムとは何か?

 こうしたアニメが誘引する「聖地巡礼」は、“コンテンツツーリズム”とも呼ばれる。コンテンツとは、岡本健によると「情報が何らかの形で創造、編集されたものであり、それ自体を体験、消費することで楽しさを得られる情報内容(4)」である。しかし、「コンテンツビジネス」という昨今よく耳にする用語になると、アニメを中心にした多角的メディアミックス展開(漫画、小説、ゲーム、舞台、グッズ、DVD/BDなど多メディアでの展開)を指すことが多いので、「コンテンツ」というとすぐにアニメなどのポピュラー文化を連想してしまうかもしれない。だが、「コンテンツ」を情報の集積だととらえれば、あらゆる情報の集積に関連した観光は、総じて「コンテンツツーリズム」となる。
 類似の行為は古くから見られたが、コンテンツツーリズムという大きな枠組みでとらえて概念化したのは日本である。そもそもContents Tourismという英語は存在しない。和製英語の造語なのである。コンテンツツーリズムという用語の初出は、2005年の国土交通省、経済産業省、文化庁による「映像等コンテンツの制作・活用による地域振興のあり方に関する調査報告書」である。そこでは、コンテンツツーリズムは「地域に関わるコンテンツ(映画、テレビドラマ、小説、まんが、ゲームなど)を活用して、観光と関連産業の振興を図ることを意図したツーリズム(5)」という意味で使用されていて、地域振興を目的にする観光資源としてのコンテンツに関する観光という位置づけだった。一方、シートンらによると、コンテンツツーリズムとは、「映画、ドラマ、マンガ、アニメ、小説、ゲームなどの大衆文化商品の物語、キャラクター、舞台、その他創造的要素に、多かれ少なかれ動機づけされた旅行行動(6)」だと定義されている。地域に限らず、また産業の振興を第一義的目的にしない行動も含む、広義のコンテンツツーリズムの定義だといえる。本稿では、この定義に基づいて、コンテンツツーリズムの社会文化的側面に焦点を当てていく。
 これまで、映画ツーリズム、小説ツーリズム、ダークツーリズム(死や悲しみを対象にしたもの。戦場、災害地などへの観光)などメディアやテーマごとで発生した観光形態は、小説や映画の登場・普及時から存在していた。もっと時代をさかのぼれば、日本では江戸時代の印刷メディアの発達によって、大量生産された版画として、たとえば京都の名所のイラストと説明文の版画を現在のガイドブックのように庶民が目にし、それを見にいくために観光に赴くという例や、やじきた道中として有名な十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年)を読んだ人たちが、実際に弥次さん、喜多さんの世界の体験を兼ねて伊勢参り、京都・大阪巡りの徒歩旅行をする、といった例は存在していた(7)。つまり、大量生産によって多くの人が何かのコンテンツを共有するポピュラー文化があれば、コンテンツツーリズムのような現象は、発生していたのである。

2000年代以降のコンテンツツーリズム

 昔からコンテンツツーリズムのような事象が存在していたにもかかわらず、なぜいまコンテンツツーリズムが流行し、学術的研究がなされるまでに至っているのだろうか。今日のコンテンツツーリズムと既存のメディアやテーマ別ツーリズムとは何がどう違うのだろうか。その一つのファクターは、インターネットの普及を背景にした人々の広範囲のコミュニケーション行動だろう。1995年のWindows95の登場によって、コンピューターは、機械に強く特殊な技能をもち、必要に迫られた一部の人たちのものから、さほどコマンドの知識や技能がない一般の人も気軽に使えるものになった。色がついた画面とアイコンで見やすさが向上し、マウスをクリックすればアプリケーションが起動できるようになったのである。面倒なパソコン通信の時代から、インターネット接続機能が搭載され、クリック一つでネットにつながる時代がやってきたのだ。以後、2000年代に入るとパソコン機能の向上によって、ネットは私たちの生活により身近になった。フォーラムや掲示板で匿名での書き込みによる情報発信、見知らぬ他者との交流が盛んになり、またブログで定期的に特定の個人の情報発信と読者のやりとりも可能になった。そこに登場してきたのが、04年にサービスが開始された「mixi」や「GREE」などのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)である。情報の公開制限などアクセスコントロールをカスタマイズできるようになり、趣味を共有するユーザーとのコミュニティーの形成や、見知らぬ他者とオフ会を開催して人脈を広げることも可能になっている。海外では、04年に「LinkedIn」「Orkut」「MySpace」などが展開。04年に一部の学生だけに開放されていた「Facebook」も06年に一般の登録が可能になり、日本に上陸すると瞬く間にユーザーを増加させた(8)。それに続くかたちで、06年開設の「Twitter」が登場。字数制限はあるが、匿名で不特定多数の他者へのつぶやきを発信するという手軽さで、若者を中心にいまや必須のコミュニケーション手段になっている。情報発信・相互交換ツールの発達・普及とともに、ガジェットの性能、小型化、多機能化も進み、ポケットベル→携帯電話→スマートフォンと、軽量モバイルメディアの普及で、私たちは常時接続状態のなかで生活をしている。
 こうした個人が匿名でおこなうことができる情報発信ツールが発達し、コンテンツツーリズムの写真や体験を見知らぬ他者と共有することが可能になった。アニメのシーンとそっくりなアングルで写真を撮り、キャプチャーしたそのシーンと写真を並行してアップするサイトも登場するなど(9)、SNSというツールを獲得した現在、コンテンツツーリズムは、過去のコンテンツツーリズム的なものとはメディア環境の変化による、コミュニケーション形態で違いがある。
 またもう一つのファクターとして、ネットや映像技術の発達によるリアリティー感覚の認識の変化も、現在のコンテンツツーリズムを論じるうえで重要である。今回注目するのはこの点である。「第1回 2.5次元文化とは何か?」でも論じたように、ファンタジー(虚構)とリアリティー(現実)の感覚が限りなく融合した“ハイブリッドリアリティー”の世界に生きている私たち、特に物心ついたときにはすでにネットがあった若者たちにとって、コンテンツツーリズムに感じる「2.5次元的な要素」は、ネットの登場以前の感覚とは異なっているように思われる。
 では、2.5次元文化としてのコンテンツツーリズムには、どのような事象が起こっているのだろうか。その一端を探るため、本稿では、ハイブリッドリアリティーを生きる若者たちのコンテンツツーリズム行動での動態調査として、『夏目友人帳』(テレビ東京、2008年―)のゆかりの地である熊本県人吉市の事例を取り上げる。また、観光地でスマホをかざすと、昔の街並みや歴史の説明などが現れるAR(拡張現実)アプリがコンテンツツーリズムでも活躍しているが、テクノロジーの発達とイマジネーションにはどのような相互作用があるのか、スマホARアプリとファンの反応についても(次回)考察する。

『夏目友人帳』――妖怪、自然、そして人

『夏目友人帳』は、緑川ゆきの同名漫画(「LaLa DX」2003年7月号〔白泉社〕初出。現在「LaLa」〔白泉社〕で連載中)原作のアニメで、2017年までに6期分放送されているロングランの人気作品である(10)。幼いころ突然両親を亡くした主人公・夏目貴志は、親戚の家を転々とし、幽霊や妖怪が見える特殊能力のために、周囲から「嘘つき」と言われて孤独な幼年時代を過ごした。高校生になり、遠い親戚で子どもがいない藤原夫妻に引き取られ、山あいの田舎に引っ越してくるが、そこでいままで以上に妖怪に追いかけられることになる。そこは霊力が強かった祖母・夏目レイコが育った土地であり、レイコが勝負を挑んで負かせた妖怪の名前をつづった「友人帳」を残して亡くなり、それを引き継いだ貴志をレイコと勘違いした妖怪たちがやってくるようになったからだ。偶然結界を破るかたちで助けた狐のような大妖怪の斑(招き猫に封じられていたが、便利なので普段は猫の姿でニャンコ先生と呼ばれる)に、死後「友人帳」を譲るという条件で用心棒になってもらううち、貴志はいろいろな妖怪と出会う。レイコと妖怪との思い出を知り、妖怪たちや高校の友人と交流するうちに、貴志も頑なな心を開いていくのだった。
 妖怪退治ではなく、貴志の視点を通して妖怪や人間との交流が淡々と描かれる。ぎこちないながらも妖怪に温かく接する貴志の態度はしばしばトラブルも起こすが、その貴志を見つめるニャンコ先生の冷静な目がしばしばズームアップされ、視聴者は少し距離のある視点にも同一化することができる。
 感動的な物語はファンの心を動かし、『夏目友人帳』の舞台とされる熊本県人吉球磨地方には国内外から多くのファンが訪れている。熊本県人吉市は、原作者・緑川ゆきの故郷とされ、実在する人吉駅、神社、天狗橋や山や川、田畑の風景などがアニメに登場する(11)。

聖地化の動き、ファンの行動

『夏目友人帳』(以下、『夏目』と略記)は2008年に放映が開始された。熊本県では数カ月ずれて放映されている。人吉温泉観光協会の方々を含め、自分たちの街がアニメの舞台であり、そのファンが訪れていると地域住民が気づいたのは、ファン主導のコンテンツツーリズムが起きたあとのようだ。山村高淑によると、日本のコンテンツツーリズムには2つの系譜があるという。1つは行政の施策として作られるコンテンツツーリズム、もう1つファンによる自発的なコンテンツツーリズムである(12)。『夏目』のケースは、ファンによる自発的なものから始まり、行政があとから参入したかたちである。
 アニメ第3期が始まる2011年7月には、人吉花火大会のポスターやうちわにアニメのイラストが使用された。人吉温泉観光協会によって、『夏目』の舞台を巡る「アニメ『夏目友人帳』探訪マップ」が作られ、人吉駅にある観光案内所で現在でも無料配布されている(図1)。同年には、オープニングに出てくる田町菅原天満宮でニャンコ先生絵馬が販売され、探訪ノートが設置されている。記念スタンプも各所に設置された(詳細は後述)。12年にはアニメ公式ファンブック『夏目友人帳』(〔「PASH! Animation File」第10巻〕、主婦と生活社)も出版され、ガイドブック的役割をになっている。

図1 アニメ夏目友人帳聖地巡礼マップ

 マップに記された「聖地」は広範囲にわたるため、短時間ですべて巡るのは容易ではない。バスは1時間に1、2本程度なので、レンタサイクルまたはタクシーがよく利用される。若いファンが多いため、金銭的な制限もあってか観光タクシーの利用は少なかったようだが、2016年には人吉タクシーの「人吉球磨アニメ聖地巡礼」コースに大手旅行サイト「じゃらん」のクーポンが使用できるようになり、リーズナブルな値段で利用できるようになった。乗車記念『夏目』コースターもお土産にもらえる(2016年時点)。
 こうしたマップの提供、交通機関の整備によって、コンテンツツーリズムがしやすくなっている。では、ファンは何を求めて『夏目』コンテンツツーリズムをするのだろうか。ファンの足跡をたどりながら、言説を類型化していく。

人吉観光案内所
 熊本駅から特急で1時間ほどで人吉駅に到着する。人吉駅も聖地の一つで、コンテンツツーリズムの玄関口である。改札口外には観光案内所があり、ファンが立ち寄る最初の場所である。ここにはニャンコ先生の巨大ぬいぐるみ、声優・井上和彦(斑/ニャンコ先生役)と堀江一眞(田沼要役)のサインも置いてある。もちろん、地酒など『夏目』以外の物産品も置いてあるが、特徴的なのは、ファンの置き土産スペースがあることだ。ファンは聖地に何かしら自分の痕跡を残す(モノを置いていく)が、主にニャンコ先生ストラップがかけられていて、この置き土産がまだ残っているか確認するため、リピーターになる動機づけにもなるだろう。筆者がおこなった観光案内所の方へのインタビューによると、ファンが自主的に置いていったものを飾っていたら、次々に置き土産が増え、特定のスペースになったのだという。ファンが帰る場所の確保は、コンテンツツーリズムの持続性に大いに貢献している。

田町菅原天満宮
 田町菅原天満宮(写真1)は、アニメの第2期のオープニングで、夏目の友人であり、除霊師の名取周一が座っていた場所である。前述したとおり、ここには『夏目』絵馬が販売されていて(無人なので、さい銭箱に良心的に支払う方式)、ファンが多くのメッセージを残している。ここには「『夏目』探訪ノート」やニャンコ先生スタンプが置いてある。スタンプは人吉温泉観光協会が設置したが、スタンプ台はファンや地域住民がボランティアで交換しているのだという。絵馬やノートに書かれたファンの心情を分類すると次のようなものになる(1つの書き込みのなかで複数の項目に当てはまるものもある)。

写真1 田町菅原天満宮

1、足跡を残す……「○○から来ました」と出身地を書き、名前を残す。ファンが再訪したときに、自分の足跡を確認するツールとしても、探訪ノートは機能する(田町菅原天満宮の場合、ノート保存ボックスがあり、過去のノートも閲覧可能)。筆者が2016年に訪れた時点でノートは16冊あったが、近年になるにつれ、海外からの訪問者の書き込みも目立つ(写真2)。

写真2 ノート香港

2、アニメの新シリーズ放映へのメッセージ……新シリーズを楽しみにしているという書き込み。アニメは中断を挟み、2017年時点で第6期まで制作されていて、新シリーズ放映発表がコンテンツツーリズムの契機になっていると考えられる。

3、地域住民へのメッセージ……『夏目』をきっかけに人吉球磨地方を訪れた際、地域住民のおもてなしに感動したことへの感謝をつづる(写真3)。

写真3 ノート人について

4、熊本地震への言及……2016年4月16日、熊本県・大分県を震度7の熊本地震が襲った。熊本城や阿蘇神社の損壊、最も震度が大きかった益城町では、特に被害が大きかった。人吉市は幸い軽度だったが、熊本地震も『夏目』コンテンツツーリズムの動機の一つと思われる書き込みもあった(写真4)。地域住民とのラポール形成後の応援メッセージが含まれている。

写真4 リピータ人について

5、成功祈願……このメッセージは絵馬に多いが、入試・試合などの成功を祈願するものである。天満宮は菅原道真を祭神とする神社である。学問の神である天満宮に必勝祈願をするのは本来の姿だが、興味深いのは『夏目』と天満宮を同一視するような書き込みも散見されることだ。多くのファンの熱気が集中したパワースポット的なイメージをもっているのだろう(写真5)。

写真5 絵馬

 探訪ノートは、晴山バス停にも設置されている。晴山バス停は、アニメ第2期オープニングに出てきたバス停のモデルである。筆者が人吉タクシーの運転手に話をうかがうと、かなり辺鄙な場所にあるごく普通のバス停に多くのファンが訪れ写真を撮る姿に、地域住民は当初不思議に思ったそうだ。ここにも多くのファンが上記のような書き込みをしている。

写真6 アニメ第2期オープニングに出てきたバス停のモデル

旅館(一富士旅館)
 観光地でもある人吉市内にホテルは多いが、『夏目』ファンに人気がある宿泊先の一つが町屋旅館一富士である。町屋風なつくりで情緒があり、日本語・英語のバイリンガルウェブサイト(http://www.1fuji.jp/)でのアクセスのしやすさのためか、海外からの『夏目』ファンも多く宿泊するという。部屋にはアンケートが置いてあり、観光理由の項目に「夏目友人帳」という固有名があるのが、その人気度の証左になっている。筆者が女将の松田淳子氏にインタビューしたところ、ファンがニャンコ先生ぬいぐるみを置いていってくれたという(写真7)。情緒がある和式の部屋、気さくで親切な女将、おいしい料理……と、『夏目』の世界観にも通じる、人のあたたかさが感じられる。こうしたおもてなしも、『夏目』の世界に入り込む一助になっている。

写真7 旅館

ファンの帰る場所――イマジネーションとコミュニケーション

「人吉は人良し」――一富士旅館の女将・松田氏は、宿泊客からお礼の手紙が届いたり、リピーターが多かったりする理由を、地域住民とのコミュニケーションだろうと分析していた。松田氏によると、『夏目』コンテンツツーリズムで訪れた宿泊客は、筆者の予想に反して、男性や家族連れも多いという(それでも女性が過半数である)。年齢も若者だけでなく、40代から50代の人もいるという。原作は少女漫画だが、ジェンダーや年齢関係なく受け入れられる物語内容であり、シリーズの長期化によるファン層の拡大がなされたと思われる。探訪ノートや絵馬には、「娘・息子に誘われて来た」という書き込みも多く見られた。「最初は1人で来たが、2回目は両親・友人・彼氏を連れてきた」という書き込みも見られ、ファーストウィンドーが作品(漫画、アニメ)ではなく口コミだったことも、ファン層の拡大の一因だと推測される。同時にファンによる聖地巡礼報告がSNSやウェブサイト上で盛んである。こうしたリピーターを中村純子は「文化仲介者」と呼び、観光産業の重要なアクターとして位置づけている(13)。
“居心地のよさ”から、聖地を“第2のふるさと”のように感じるファン、つまり作品のファンから地元のファンへ、という動きは多くのコンテンツツーリズムで観察される。それが、コンテンツツーリズムを一過性にせず、サステナブル(持続可能な)にする要因の一つだろう。しかし、 “2次元作品の世界観に浸る”というのがコンテンツツーリズムの第一義的目的であることは変わらない。上記で指摘した、ファンのノート(聖地巡礼ノート、探訪ノートなど)の設置、『夏目』絵馬のような特別仕様の絵馬、聖地巡礼マップ、スタンプの設置、記念グッズの販売など、訪れるファンのために地元の自治体や観光協会が整備している物理的なものも、2.5次元空間を構築する重要な媒介物である。けれども、例えばノートやグッズがない聖地の天狗橋(『夏目』第1期第3話など)や胸川(『夏目』第2期第8話など)、『夏目』という文脈の外では社会文化的意味をもたない自然や橋を眺めるとき、ファンはどのような行為をするのだろうか。それは、アニメなどの映像で観た世界を幻視し、想いを馳せ、写真に残す、という一連の作業だろう。写真はSNSなどにアップされ、クレジット(『夏目』に出てきた○○など)をつけると、『夏目』の世界が可視化される。
 では、そうした“2.5次元遊戯”といえる行為に、ARアプリが介入すると、どのような変化が起こるのだろうか。不可視だからこそイマジネーションの世界を楽しめた聖地に、テクノロジーはどういう意味作用をもたらすのか。次回は、テクノロジーとイマジネーションの関係の具体例を考察していきたい。


(1)岡本亮輔『聖地巡礼――世界遺産からアニメの舞台まで』(〔中公新書〕、中央公論新社、2015年)参照。江戸時代のお伊勢参りなど、宗教と観光が未分化だったことも指摘している。
(2)大石玄「アニメ《舞台探訪》成立史――いわゆる《聖地巡礼》の起源について」「釧路工業高等専門学校紀要」第45号、釧路工業高等専門学校、2011年、41―50ページ、参照
(3)アニメ聖地巡礼が、地域振興に寄与する事例として注目されたのは、2007年ごろ話題となった、埼玉県鷲宮町(現・久喜市)の『らき☆すた』(千葉テレビ/TVK、2007年)聖地巡礼がある。山村高淑などが学術的に研究したことでも話題となった(山村高淑『アニメ・マンガで地域振興――まちのファンを生むコンテンツツーリズム開発法』東京法令出版、2011年、参照)。
(4)岡本健「コンテンツツーリズムを研究する」、岡本健編著『コンテンツツーリズム研究――情報社会の観光行動と地域振興』所収、福村出版、2015年、10―13ページ
(5)国土交通省総合政策局観光地域振興課/経済産業省商務情報政策局文化情報関連産業課/文化庁文化部芸術文化課「映像等コンテンツの制作・活用による地域振興のあり方に関する調査報告書」49ページ(http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/souhatu/h16seika/12eizou/12_3.pdf)[2017年6月13日アクセス]
(6)Philip A Seaton, Takayoshi Yamamura, Akiko Sugawa and Kyungjae Jang, Contents Tourism in Japan: Pilgrimages to “Sacred Sites” of Popular Culture, Cambria Press, 2017, p. 3.
(7)増淵敏之『物語を旅するひとびと――コンテンツ・ツーリズムとは何か』彩流社、2010年、14ページ
(8)大向一輝「SNSの歴史」「通信ソサイエティマガジン」第9巻第2号、電子情報通信学会、2015年、70ページ(https://www.jstage.jst.go.jp/article/bplus/9/2/9_70/_pdf)[2017年6月15日アクセス]
(9)たとえば、大石玄による「舞台探訪アーカイブ」(http://legwork.g.hatena.ne.jp/)や、ディップによる「聖地巡礼マップ」(https://seichimap.jp/)などがある。
(10)2017年8月現在、第20巻まで刊行。2014年の18巻目で単行本累計1,000万部を超えた(「「夏目友人帳」単行本1000万部突破 最新18巻刊行で大台超え」「アニメ!アニメ!」〔https://animeanime.jp/article/2014/09/06/20074.html〕[2017年7月30日アクセス])。原作漫画のファンによるコンテンツツーリズムももちろん観察されるが、後述する筆者の調査で、アニメ放映によって動機づけられたコンテンツツーリズムが大多数を占めているため、本稿ではアニメについて論じている。
(11)須川亜紀子「コンテンツツーリズムとジェンダー」、前掲『コンテンツツーリズム研究』所収、59ページ
(12)山村高淑「コンテンツツーリズムと日本の政策」、同書所収、68―71ページ
(13)中村純子「コンテンツツーリズムと「ホスト&ゲスト」論」、同書所収、36―39ページ

*取材にご協力くださいました町屋旅館一富士の松田淳子氏、人吉観光案内所のスタッフのみなさまにこの場をお借りして厚くお礼申し上げます。

 

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第5回 続・コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 第4回「コスプレ――キャラクターとパフォーマンス」では、コスプレにまつわる問題群として、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題に注目し、【1】と【2】について考察した。今回は、【3】空間意識の問題について論じていく。

空間意識――2次元への侵入

 コスプレイヤーのイベントには、必ずカメラをもった参加者がいる。プロのカメラマン、コスプレイヤーが連れてきたカメラ小僧(カメこ)、まったく参加者と関係がない素人カメこまで、出自はさまざまだが、彼・彼女らの目的はただ一つ――ベストショットを写真に残すことである。また、コスプレ撮影スタジオで、さまざまな背景を使いながら撮影会をするコスプレイヤーも多い。イベントに参加せず、もっぱら写真撮影を専門にするコスプレイヤーもいるくらいである。写真は、ネットにアップして公共に公開する場合もあれば、コミュニティー内でしか共有しない場合もある。
 最近では、“コスプレ”写真をアートとしてビジネス化している例もある。たとえば、フィリピンのプロのコスプレフォトグラファーであるジェイ・タブランテは、モデルに主にアメコミ(アメリカン・コミックス)や日本アニメのキャラクターのコスプレをさせ、コミックスのワンシーンの一瞬を切り取ったような写真を撮影して、効果(エフェクト)をつけた写真集を出版している(1)。2013年に筆者がおこなったインタビューでは、フィリピンは1970年代から日本アニメの影響が強く(特に『超電磁マシーンボルテスV』〔テレビ朝日系、1977―78年〕の政治的・文化的影響は有名である)、彼自身も日本のアニメを見て育ったため、植民地化の影響で文化的にも浸透しているアメコミはもちろんだが、戦後影響力を持った日本アニメへの親近感があると語っていた(2)。彼の写真には、彼自身のノスタルジアも多分に含まれているようだ。
 日本では、著作権者に了解をとったうえで、プロの外国人モデルを起用した本格的なアニメ・マンガ・ゲームキャラクターのアート写真を手がけるアーティストICHIを中心とするANIMAREALがある(3)。筆者がICHI氏に失礼ながら「これはコスプレ写真ですか?」とうかがったところ、完全に否定された。タブランテ氏が考えるCosplayの定義とは、異なる理解をしているようだった。“コスプレ”への解釈は異なるものの、彼らの写真作品は、コスチュームの“プレイ”を超えた芸術である。
 コスプレと写真の関係は、多様な側面から考察することができる。スーザン・ソンタグは有名な『写真論』のなかで、映像との関係から写真の機能について次のように述べている。

写真は幾つかの形での獲得である。一番単純な形では、私たちは写真の中で大事なひとやものを代用所有する。その所有のお陰で、写真はどことなく独特の物体の性格を帯びてくる。私たちはまた写真を通じて、出来事に対して消費者の関係をもつようになる。(略)3番目の形の獲得は、映像作りと複写機を通して私たちはなにかを(経験というよりも)情報として獲得できるということである(4)。

 この代用所有による物質化された身体、出来事の消費、情報としての獲得、という認識は、2次元性へと回帰するコスプレイヤーたちの欲望と結び付くだろう。
 では、素人コスプレイヤーたちの舞台上の小演劇(スキット)という動的なパフォーマンスではなく、写真撮影という静的なパフォーマンスには、どのような社会的・文化的意味が生成されるのだろうか。

2.5次元からみる2次元性・物質性・記憶

 コスプレイヤーは、自分が扮したアニメ・マンガ・ゲームなどのキャラクターの決めポーズの写真を名刺代わりにしている人が多い(図1)。キャラクターの決めポーズそのままの写真もあれば、決めポーズがないキャラクターの場合は“キャラクターらしさ”がにじみ出るポーズの写真やシーンの再現もある。たとえば、「コスプレイヤーズアーカイブ(5)」には、コスプレイヤー名・作品名・キャラクター名がデータベース化され、誰でも(素人の)コスプレ写真を検索して鑑賞することができる。作品内ではありえない他のキャラクターとの二次創作的ショットなどもあり、コスプレ写真の可能性は無限だ。それは自己表現や自己アピールの意味ももちろんある。しかし、注目すべきは、2次元のキャラクターの世界に入りたい、というコスプレイヤーたちの欲望と空間意識である。

図1

 2016年に中国のコスプレイヤーたちにインタビューしていたとき、好きなキャラクターのコスプレはできない、と話した女性がいた(6)。「好きすぎて〔畏れ多くて、コスプレ:引用者注〕できない」というのである。こうした例は、日本はもちろん世界中で聞かれる感想の一つである。神のように崇めているキャラクターではなく、彼(女)の脇に寄り添うサブキャラクターのコスプレをすることで、彼(女)に近づける感覚があるようだ。むろん、崇拝という理由だけでなく、自らのコスプレ技術が未熟なため、もう少し上達するまで好きなキャラクターのコスプレはしない、という理由をあげる人もいる。事情はさまざまだが、重要なのは、好きなキャラクター、もしくは彼・彼女らがいる虚構世界に、コスプレを通じて接近、もしくは侵入するという感覚が、多くのコスプレイヤーに共通しているということである。
 筆者が考える「2.5次元遊戯」とは、2次元(虚構)と3次元(現実)のはざまを漂いながら楽しむ文化実践なので、コスプレはまさに2次元と3次元を行き来する遊戯だと言える。しかし、写真を通じて自らを平面化・物質化することで“2次元”の世界に入る、つまりアニメなどのキャラクターたちがいる世界と地続きになる感覚、コスプレをした自分と作品内のキャラクターを同列に位置づけるという認識は、もっぱら2次元から3次元という方向へと展開しているようにみえる2.5次元文化に、新たな視点を与える契機をもたらしてくれる。

“逆2.5次元”――“現実”から“虚構”へ?

 コスプレからいったん離れて、再度2.5次元舞台に目を向けてみよう。2次元のマンガ・アニメ・ゲームの世界を3次元で再現して、虚構性をある程度維持したまま3次元の身体で表現する舞台作品が2.5次元ミュージカルやストレートプレイである。しかし、最近注目されてきたのが、“逆2.5次元”、つまり3次元の舞台をアニメ・マンガ・ゲーム化(2次元化)するという取り組みである。これは、2.5次元ミュージカルの嚆矢であるミュージカル『テニスの王子様』(2003年―)を手がけているネルケプランニングが打ち出したプロジェクトで、舞台『錆色のアーマ』(2017年)を原作に、アニメ・マンガ・ゲームなどの2次元メディアへとメディアミックス展開をしていく計画だという(7)。『錆色のアーマ』の主演には、EXILEの佐藤大樹と、ミュージカル『テニスの王子様』出身の声優・増田俊樹をキャスティングして、すでにアイドル、俳優、2.5次元俳優、声優という2.5次元的“虚構性”と親和性がある2人を選択しているところに、戦略が垣間見える。現時点で今後の展開やファンの受容についてはまだ未知数だが、3次元から2次元へのベクトルの可能性に注目した最初の例だと言える。
 それより先んじてメディアミックス展開している例に、バンダイナムコグループとアミューズが手がける「2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』(8)」がある。Dear Dreamを中心とする男性アイドルグループたちの成長を描くゲーム・アニメだが、アニメのキャラクターと重ねて、実際のアイドルDear Dreamとしての声優たちの活動がパラレルに展開されるという、最初から企図して進められたプロジェクトに、“逆2.5次元”ともいうべき要素が認められうる。

虚構が担保する「現実」

 さらに、空間認識を考えるうえで興味深いのが、最近ネット上で炎上した「『うたの☆プリンスさまっ♪』の舞台化」騒動である。『うたの☆プリンスさまっ♪』(以下、『うたプリ』と略記)とは、女性向け恋愛アドベンチャーゲームを原作にアニメ・ドラマCD・キャラツイッター・コンサートなどメディアミックス展開をしている大人気コンテンツである。アニメシリーズ(TOKYO MX、2011年―)のストーリーは、作曲家志望の15歳の少女・七海春歌の視点から主に描かれる。芸能学校「早乙女学園」を舞台に、七海と一十木音也、一ノ瀬トキヤ、来栖翔、四ノ宮那月、神宮寺レン、聖川真斗、それに愛島セシルを加えたアイドルの卵たちの成長と、アイドルグループST☆RISHとしてのデビュー、ブレイク、ライバルグループとの切磋琢磨などが描かれ、2016年には第4期が放映されている。これまでキャストされた声優(寺島拓篤、宮野真守など)による『うたプリ』コンサート=プリライも開催され、2次元キャラクターにビジュアルが必ずしも忠実でないにもかかわらず、主に声の演出によって2.5次元的空間を創出している希少な成功例である。“その『うたプリ』が舞台化される”と聞くと、他作品でもすでに展開されている“ゲーム原作の作品の2.5次元舞台化”と思われがちである。しかし実際は、作品中に登場する早乙女学園長シャイニング早乙女の「劇団シャイニング」が上演したという設定の『天下無敵の忍び道』を舞台化する、という発表だったのである(9)。いわば、劇中劇を舞台化するということである。舞台化では、たとえば、一十木音也が演じた音也衛門役を俳優・小澤廉が演じる。しかし、多くのファンにとっては、“実在する(はずの)”音也を他者(俳優)が演じること自体が許せなかったり、『うたプリ』とは別次元の「演劇作品」だから『うたプリ』の舞台化ではない(から許容できる)、といった賛否両論が「twitter」上に飛び交った。『うたプリ』は、他のアイドルコンテンツとは現象面で一線を画すコンテンツだが、こうしたファンの反応を分析すると、ファンにとっての虚構(2次元)の確実性や指向性、重厚なリアル感の存在が浮き彫りになる。

おわりに

 再び写真に立ち戻る。写真は「現実」を切り取り、記憶を喚起させるメディアとして作用してきた。また、所有を通じた「現実」や「身体」の物質化という意味も生成してきた。映像というメディアが現れたことで、写真はつねに静的であり、かつ動的な要素を含む映像とは異なるメディアとして異化されるようになった。今日では、VRやARの浸透によって現実(reality)と虚構(virtuality)が感覚的にはすでに融合し、われわれの「現実」認識を撹乱している。仮に物質的な現実世界の「2.5次元化」によって、特に若い世代に不確実性による不安が生じているのだとしたら、無時間性であり、所有し、記録し、共有し、存在証明ツールともなるコスプレ写真は、2次元(虚構)の“確実性”というべきものを逆説的に保証するのである。2次元キャラクターは歳をとらず、性格のブレもなく、スキャンダルもない。失望することがなく、勝手な妄想をしたとしても、キャラクター自身から訴えられることもない(ファンからバッシングされることはあるが)。コスプレ写真から析出しうるものは、「現実」(3次元)を異化し、その不確実性を照射する機能と、虚構(2次元)によって再認識・再評価される「現実」(3次元)への価値・意味づけという機能なのである。


(1)“January 2013 Featured Photographer of the Month: Jay Tablante,” Cosplay Photographers(http://cosplayphotographers.com/2013/01/jay-tablante/)[2017年3月1日アクセス]
(2)2013年12月フィリピンでおこなったCheng Tju Lim氏(現Yishun中学)との共同インタビューによる。
(3)「ANIMAREAL」(http://animareal.com)[2017年3月1日アクセス]
(4)スーザン・ソンタグ『写真論』近藤耕人訳、晶文社、1979年、158ページ
(5)「Cosplayers Archive」(http://www.cosp.jp/photo_search.aspx)[2017年3月10日アクセス]。アクセス時には、約1万6,000人の登録(活動)と記されていた。
(6)2016年10月上海でおこなった田中東子氏(大妻女子大学)との共同調査による。
(7)「錆色のアーマ」(http://www.nelke.co.jp/stage/rusted_armors/)[2017年3月30日アクセス]
(8)「2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』」(http://www.dream-fes.com/)[2017年1月29日アクセス]
(9)「“劇団シャイニング”はシャイニング事務所のアイドル11人をメインに構成された「劇団」をキーワードに展開するうたの☆プリンスさまっ♪オフィシャルプロジェクト」と設定されている。「劇団シャイニング」(http://www.utapri.com/sp/shining_theatrical_troupe/introduction.php#.WNyv4BLyg0Q)[2017年3月30日アクセス]

 

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第4回 コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

世界コスプレサミットに見るコスプレ文化

 2016年7月30日から8月7日まで、名古屋で世界コスプレサミットが開催された。今回で14回目を数えるこのイベントの目玉は、「世界コスプレチャンピオンシップ」である。過去最多の30の国と地域が参加したこのチャンピオンシップは、各国の優勝者を日本に招待して、厳しいルールのもとで文字どおり「チャンピオン」を決めるためのコンペティションだ。今年は『トリニティ・ブラッド』(吉田直、全12巻〔角川スニーカー文庫〕、角川書店、2001―04年)のコスプレパフォーマンスをしたインドネシアの2人組が優勝した。年々参加国が増加し、衣装の完成度やパフォーマンスのレベルも上がり、もはやすでに“パフォーミング・アーツ”の域である。特に今年からは背景に映像を使用することが許可され、舞台上の演出と映像演出の面で、素人(しろうと)とは思えない完成度が高いパフォーマンスが繰り広げられていた。

図1 2016年世界コスプレサミットでのコスプレパレードの様子

 2分30秒以内と規定されたパフォーマンスを音楽と演技だけでおこなう組がいる一方、セリフを使用する組もあるのだが、流暢な日本語でおこなえる外国チームは、残念ながらまだ少なかった。母語でセリフを言い、英語・日本語の字幕が出ることが多いのだが、審査委員長で人気声優の古谷徹の総評の際のコメントが興味深かった。せっかく日本のコスプレをやっているのだから、日本語でセリフを言ってほしかった、という趣旨のコメントだったからだ。もちろん、これは「日本製のマンガ、アニメ、ゲーム、特撮のもの」だけという規定があるうえでの発言だが、コスプレとは、衣装、メイクなどのビジュアルや、静止した決めポーズだけでなく、パフォーマンスという要素も重要だということが、彼のコメントによって前景化したのだ。

外国のアニメ、漫画、ゲーム関連イベントでのコスプレパフォーマンス

 世界中で楽しまれているコスプレだが、コスプレイヤーの消費や利用の仕方はさまざまである。世界コスプレサミットが、チャンピオンシップのようなコンペティションで規定しているような「日本の漫画、アニメ、ゲーム、特撮などのキャラクター」を模すコスプレが多い印象だが、どちらかというといまではコスプレとは、「2次元キャラクターを模すること」という広い解釈がなされている。その傾向は特に海外では強い。たとえば、日本アニメーション振興会主催で1992年から続いているアニメエキスポ(ロサンゼルス)は、その主催者によると「日本アニメの振興」がそもそもの目的だった。しかし、回を追うごとにその趣旨を離れ、現在では日本製作品のキャラクター以外にも『スター・ウォーズ』(監督:ジョージ・ルーカス、1977年―)、アメコミヒーロー、ディズニープリンセスなどのコスプレをする訪問者は非常に多い。

図2 2011年アニメエキスポの会場の様子

 また、フランスで最大の日本文化オンリーのイベントであるジャパン・エキスポ(パリ郊外)でさえ、スパイダーマンや『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダー、『ハリー・ポッター』シリーズ(J・K・ローリング、1997年―)のキャラクターコスプレに出くわすことが多い。ましてや、日本メインや日本オンリーではない漫画、アニメ、ゲームに関する一般のイベントでは、ありとあらゆるキャラクターのコスプレが跋扈している。たとえば、イタリアのルッカコミックス&ゲームズというイベントは約50年の歴史があるが、ここでは日本製作品のキャラクターのコスプレのほうが圧倒的にマイノリティーである。影響力が大きいアメコミヒーローやシューティングゲームのミリタリーコスプレなどが目を引く。実際にイタリア軍隊が会場でリクルート活動をしているので、筆者などは本職なのかコスプレなのか区別ができなかったほどである。

図3 2015年、ルッカコミックス&ゲームズの会場(街中)の様子

パフォーマンス重視の海外コスプレコンペティション

 コスプレでただ参加する訪問者は、それぞれコスプレを楽しんでいる。コスチュームや道具に凝っているし、カメラを向ければ足を止めてポーズをとってくれるのは、万国共通のサービス精神である。しかし、いざコンペティションとなった場合に、日本と海外でおそらく最も大きな違いは、海外のコンペティションではパフォーマンスを重視する、つまり観客をどれほど楽しませるかを重視したものになっていることだ。似ているというだけでなく、キャラクターをどう解釈し、どんな演技や演出を観客が望んでいるのか、またその期待の上をいくような、または期待をいい意味で裏切るような展開を短い時間にどれほど凝縮するか、が焦点になっているのだ。すると必然的に一瞬で観客を魅了する派手な衣装や大掛かりな演出をするパフォーマンスが選択されやすくなる。会話だけで話が進むような日常系学園ものの女子高生キャラなどは演出上「地味」だから、ファンタジー系で装備や衣装が華々しいゲームの世界観やキャラクターでのパフォーマンスが多くなる、というわけだ。観客の目も肥えているようで、つまらないパフォーマンスには反応が悪いが、すばらしい演出や衣装には、称賛の拍手を送る。この意味で、コスプレパフォーマンスは2.5次元舞台とかなり親和性が高い。

コスプレが提示する問題群

 2.5次元舞台とコスプレパフォーマンス(特にコンペティションの場合)の親和性の高さは、キャラクター中心主義的な演出(つまり俳優の個性よりもキャラクターの存在性が前景化すること)と、観客と行為者とのインタラクションによって立ち上がる空間の共有で実現する。エリカ・フィッシャー=リヒテはこれを「ライブ(身体)の共存(1)」と呼んでいる。この点で、コスプレの考察には2.5次元舞台を論じた第2回「事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流」、第3回「事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望」で言及したキャラクター論と、第1回「2.5次元文化とは何か?」で論じたファン研究、パフォーマンス研究からのアプローチが必要になってくる。
「それでは、2.5次元舞台とコスプレは同じようにとらえていいのだろうか?」という疑問がわいてくるだろう。もちろん共通している部分もあるが、コスプレにはもう少し考えなければならない問題群がまとわりついている。特に、観客と行為者の場があらかじめ用意されたコンペティションのような固定された舞台ではない場で、素人がコスプレをパフォーマンスしている際に浮上する問題である。それは、イベント会場(多くは野外)のマクロな空間や、コスプレ撮影のミクロな空間だったりする。
 その問題のなかでも注目したいのは、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題、の3点である。【1】アイデンティティー形成の問題とは、誰がどんなキャラクターを選択しパフォームするか、またパフォーミングを通じて、選択したキャラクターと当事者のアイデンティティーとにはどのような関係があるか、ということである。【1】との関連で、【2】セクシュアリティーの問題とは、特に女性が「見られる客体」になる場合に、「性的対象」として見られることに関する問題である。これは海外の「コスプレは同意ではない(Cosplay is not consent.)運動」との関連で、身体、セクシュアリティー、ジェンダーの点で考察したい。最後に【3】空間意識は、コスプレイヤーの重要な目的の一つが写真を撮ることであることと関係がある。2次元の虚構キャラクターをコスプレによって3次元化したにもかかわらず、いや、かえって3次元化したからこそ、写真という2次元へと回帰する欲望とは何だろうか。そうした“2.5次元遊戯”(2次元と3次元のハイブリッドな浮遊行為)と呼べるような振る舞いに関して、一つの分析を試みる。

コスプレとアイデンティティーの諸問題

 アニメキャラクターを演じることの心理学的研究は、特に日本のアニメが子どもだけでなく、思春期の若者の精神にも有益な影響があることがとりざたされた2000年代ごろから盛んである。テレビアニメーション(テレビカートゥーン)が登場し始めた1950年代後半ごろから、アニメーションが視聴者、特に子どもに与える影響は、主に「悪影響」として語られることが多かったが、西村則昭は、アニメキャラクターを演じることを通じたカウンセリングの有効性を論じている(2)。西村のクライアントの少女は、アニメ『スレイヤーズ』(1995―2005年)の強いヒロイン・リナ=インバースを演じ西村とロールプレイをすることで、自分をリナと置き換える作業をしている。また、スーパーヒーローを演じることによるカウンセリングをおこなっているローレンス・C・ルビンは、彼のクライアントであるクラスからいじめを受けているアメリカの男児がアニメ『NARUTO』(2002年―)のナルトを演じることによるセラピー的効果を論じている(3)。
 こうした「プレイセラピー」は、メンタルの病気治療の一つとして用いられているが、患者でなくても、コスプレには類似の効果があるのではないかと筆者は仮説を立てている。なぜなら、筆者の(主に海外の非日本人の女性)コスプレイヤーへのインタビュー調査で、自分のジェンダーアイデンティティーやそれにともなうコンフリクトとコスプレには密接な関係性があるケースが頻出しているからである。
 一例を挙げておこう。2013年、シンガポールのAFA(Anime Festival Asia)で5人のコスプレ女性に個別インタビューをおこなった。Aさん(当時20代前半、大学生)は、『銀魂』(漫画:空知英秋、〔ジャンプ・コミックス〕、集英社、2004年―、アニメ:テレビ東京系、2006―16年)の柳生九兵衛のコスプレをしていた。九兵衛とは、女性でありながら剣術の名門柳生家の跡取りになるため男性として育てられた剣術の達人である。幼いころ、親友の志村妙を悪人から守った際に右目を痛め、眼帯をしている。男嫌いで、妙に恋心を抱く九兵衞は、女性と男性の両方を兼ね備えたキャラクターである。Aさんによると、九兵衞は「まさに理想」だそうだ。なぜなら、「かっこいいけど、カワイイ」という自分がなりたい(けどなれない)キャラクターだからだという。ここまでなら、普通のワナビー(wanna be)と思われがちだが、Aさんは両親との確執を話してくれた。
「両親はコスプレには、あまり賛成していない。特に日本のアニメの女性キャラクターは肌の露出が多いから。でも、九兵衞はあまりセクシーでないし、肌を見せずにすむから、両親も文句は言わなかった」
 Aさんの回答は、両親の期待が子どものジェンダー意識の形成に大きな影響を及ぼすこと、そして、男装のコスプレを選択したのは、コスプレを通じて男性になりたいのではなく、肌の露出を避けたいがためだったことを示唆している。同様のことは、ゲームキャラクターの男装をしていた女性のコスプレイヤーBさんからも聞けた。ジェンダーアイデンティティーとコスプレの問題は、このAさんとBさん以外にも、宗教・慣習や恋愛経験とも関係が深い。今回は字数の関係上すべての事例を紹介できないが、いずれ詳細な結果を発表するつもりである。

Cosplay is Not Consent(コスプレをしている=お触りOKではない)

 コスプレとセクシュアリティーも、実は深刻な問題である。いまでこそ「クールジャパン」の代表例として国策の一つに利用されているアニメ(と漫画、ゲーム)だが、日本のアニメが欧米で認知され、揶揄ぎみに「ジャパニメーション」といわれた1980年代、日本製のテレビアニメーション=暴力とセックスの宝庫=子どもには有害、と理解されていた。特に、日本のアニメに子どもたちが熱狂していたフランスでは、『北斗の拳』(フジテレビ、1984―87年)などが、そのあまりにも暴力的な描写のために放送禁止になったこともあった。表面上は表現の過激さを理由にしているが、子どもや若者たちにあまりにも人気が沸騰したために、他国によるフランス文化侵略・侵食への不安もあった。そのトラウマは、コスプレを通じて再顕在化している。それが、Cosplay in Not Consent運動である(図4)。

図4

 Cosplay is Not Consent運動とは、特に女性コスプレイヤーが、性的対象として体を触られたり、露出が多いキャラクターに扮しているとセックスアピールだと理解され性的暴力の対象になりやすいことから欧米で始まったムーブメントである。2013年にシアトルで開催されたアニメイベントAki Conで、女性コスプレイヤーが男性DJにレイプされた事件も起きている(4)。事件にならないまでも、身体(胸、尻、脚、背中など)を見知らぬ男性に触られる被害があとをたたないことや、承諾なしで撮影された写真(多くはスカートのなかや胸の盗撮)をインターネットにアップして、コスプレイヤーのプライバシーをさらす事例も多数あり、図4のようなイラスト入り警告や、イベント会場での看板が設置されるようになった(5)。
 女性コスプレイヤーのなかには、自発的にわいせつなコスプレ写真をネットにさらしたり、卑猥なポーズをしてカメラ小僧(カメこ)に積極的に写真を撮らせるケースもないわけではない。しかし、純粋に好きなキャラクターになりたい、自分に合ったキャラクターがそれだった、というような、性的欲望の対象になることが目的ではなく参加した女性コスプレイヤーたちにとっては迷惑な話である。日本のアニメ、漫画、ゲームの女性キャラクターのなかには、露出が多い服を着た設定の未成年の少女や、胸を強調した服を着た成人女性も多く、虚構を現実に移し替える際に、セクシュアリティーの問題を回避するのは容易ではない。

身体に対する規範と匿名の他者からの中傷

 好きなキャラクターへの愛を表現したい、自分と似ているあのキャラクターになりたい――コスプレイヤーにとって動機はごく純粋である。しかし、同じコスプレイヤーや、それを関心をもって見るオーディエンスのなかには、非常に厳格な規範をもって中傷する者たちもいる。
「そのキャラクターをやる資格がない」
というものである。具体的には、太っている、胸が小さい、顔が醜い……など、演じる者の内面ではなく、物理的な外面に対する中傷である。「Facebook」で自分のコスプレ写真をアップしていたある女性は、“いいね!”をもらうことに自己顕示の欲求が満たされた半面、いいね!がこない不安にかられて、コスプレができなくなった。ある女性は、「ブス! デブ! お前が○○様(キャラの名前)やるな!」と匿名の中傷を書き込まれ、SNSを閉じざるをえなかった。再現性を重視するあまり他者の娯楽に不寛容な傾向は、どの国でもある。比較的肯定的にとらえられ、新しい潜在性がある共同体と認知される一方、2.5次元文化実践が抱える問題も看過してはならない(【3】空間意識については、第5回に続く)。


(1)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭/平田栄一朗/寺尾格/三輪玲子/四ツ谷亮子/萩原健訳、論創社、2009年、44ページ
(2)西村則昭『アニメと思春期のこころ』創元社、2004年
(3)Lawrence C. Rubin, “Big Heroes on the Small Screen: Naruto and the Struggle Within,” in Lawrence C. Rubin ed., Popular Culture in Counseling, Psychotherapy, and Play-Based Interventions, Springer, 2008, pp. 227-242.
(4)“Aki-Con’s Sexual Assault Case,”(http://cosplayisnotconsent.tumblr.com/)[2016年10月10日アクセス]
(5)Andrea Romano, “Cosplay Is Not Consent: The People Fighting Sexual Harassment at Comic Con,”(http://mashable.com/2014/10/15/new-york-comic-con-harassment/#484vIUNskkqI)[2016年10月19日アクセス]

 

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第3回 事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

双方向性メディアの発達と「2.5次元」舞台

 1950年代の地上波テレビの登場、60年代のカラーテレビの普及、80年代の家庭用ビデオデッキの登場・普及、90年代のパソコン通信による双方向性コミュニケーションメディアの登場から2000年代のインターネットの急速な普及、ソーシャルメディアの発展、と目まぐるしく変化するメディア環境は、私たちの現実認識やコミュニケーション形態に大いなる影響を与えてきた。そして10年代の現在、私たちはスマートフォンなどを通じてモバイルサイバー空間に常時接続状態でいることが可能だ。バーチャルリアリティー技術も向上し、一昔前までは荒く、区別が明確だったCG画面と実写映像の混合も、いまはわからないくらいに「リアル」で、私たちは知らないうちに加工された映像にだまされている。こうしたメディア環境の著しい変化によって、私的領域と公共領域は混合し、いまではそれを自明なものとして私たちは生活している。
 漫画、アニメ、ゲームなど、視覚情報をともなった一次創作物を原作にした舞台という限定的な意味での2.5次元(以下、2.5Dと略記)舞台には、スター重視という側面は否めないものの、独自の様式で視覚的再現性を内包していた宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』(1974年)や、SMAP主演の『聖闘士星矢』(1991年)があった。視覚的再現性に聴覚的再現性が加わった舞台では、アニメ版の主役(両津勘吉)を演じたラサール石井が同じ役で演じたミュージカル『こちら亀有前派出所』(1999―2006年)シリーズ(1)や、アニメ声優たちが担当キャラクターを演じたミュージカル『ハンター×ハンター』(2000―04年)シリーズ(2)など、前ミュージカル『テニスの王子様』(以下、『テニミュ』と略記)期の2.5Dミュージカルは少なくなかった。しかし、2000年代後半からの2.5D舞台の爆発的人気には、上述したメディアの発達が大きく寄与している。

参加型文化とニューメディア

 第1回でも言及したが、こうしたメディアの発達とファンのコミュニケーション形態を研究したヘンリー・ジェンキンスは、1994年の著書で、1960年代からのテレビというメディアの普及にともない見られるようになった、ファン同士が二次創作を通じて横のつながりを形成(ネットワーク化)する様子を、「参加型文化」と呼んだ。しかし現在では、デジタル技術、インターネット、ソーシャルメディアの発達によって、その概念はより拡大した意味を内包し、ファンたちの積極的な参加によって成立する文化としての意味合いが強い。2.5D舞台のまわりでよく見られる光景といえば、鑑賞する側が関連情報をいち早く収集し(たとえば、新作舞台の情報やキャストのつぶやきなど)、SNSなどで不特定多数のファンに拡散し、舞台上のキャスト(役者)の体にキャラクターを幻視した体験を、舞台の休憩中に情報発信し、また多様な読み込みによってファン同士をネットワーク化しているということだ。こうした参加型文化では、参加者(傍観者であるオーディエンスでなく、積極的に参加するプレイヤー)のはたらきかけが舞台パフォーマンスの一部なのである。
 そうしたファンたちと制作者たちの向かう先はどこなのか。交差する視線のなかで、どのような欲望が観察されるのか。今回は、『テニミュ』の熱心な若い女性ファンたちの声と、2.5D舞台に新たな旋風を巻き起こしているハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』の新進気鋭の演出家ウォーリー木下氏のインタビューを紹介し、ファンと制作者の交差する視点について考えてみたい。

ファン座談会から

『テニミュ』の公演では、終劇後、出口でお土産が配られる。シールだったり、生写真だったりと毎回趣向がこらされたお土産は、ファンの楽しみの一つである。リピーター(特に、すべての公演に皆勤することを「全通」という)は、当然同じものを引き当てる確率が高く、公演後の東京ドームシティ出口付近での物品トレードは風物詩になっている(3)。
 筆者は、トレードで知り合ったファンや、スノーボール式に知り合ったファンたちを集め、2016年3月に座談会をおこなった。参加者は5人。日本人4人(あやかさん、えみさん、さやかさん、みふさん)は当時20代前半、北アメリカ出身の外国人(ジルさん)は20代後半だった。特にジルさんは、自国で『テニミュ』のDVDを友人から借りて惚れ込み、ついには『テニミュ』を毎回観たいがために来日を決め、日本で仕事をしているというツワモノである。

座談会の様子

きっかけは「ニコ動」

 まず、5人に『テニミュ』はじめ2.5D舞台/ミュージカルにハマったきっかけを聞いた。すると口をそろえたように、日本人参加者は「ニコニコ動画」(以下、「ニコ動」と略記)と答えた。ジルさんだけはDVD鑑賞がきっかけだったが、『テニミュ』開始当時の2000年代前半にまだ中学生だった参加者にとって、「ニコ動」は身近な情報収集ツールだった。特に初期の『テニミュ』に対しては、「空耳」と呼ばれる「~のように聞こえる」架空のセリフの字幕をつけて楽しむファンの二次創作が盛んだった。滑舌の悪さやオーバーリアクションの面白さから、こうした“ファンが参加する余地”が生まれ、それにほかのユーザーがコメントをつけることで、ますますファン層が広がり、最終的に“本物”を観に劇場に行って、ハマってしまうのだという。えみさんは、「劇団四季(のミュージカル)をよく観にいっていたが、空耳がはやっていて面白かったので、“お笑い”を見にいく感覚で行ってみたら面白くてハマった」と告白している。当然、DVDを勝手にアップするのは違法だが、こうしたストリーミングサイト上の二次創作のシェアが、原作『テニスの王子様』(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)やアニメのファン以外や、公演に足を運べない人など、『テニミュ』の裾野を広げるのに担った役割は大きい。実際、原作ファンで地方在住の高校生だったみふさんは、公演をなかなか観にいけず、ひたすら「ニコ動」で情報を追いかけていたという。

多メディア展開による複合的快楽

 キャラクターのファンだったり、キャスト(=役者)自体のファンだったりと、5人の快楽のツボはさまざまである。それを可能にしているのが、多メディアによる配信と舞台裏映像である。本公演以外に、バックステージと呼ばれる、舞台裏の様子を収めたDVD特典などで、キャラクターを演じるキャストの素顔を垣間見ることができる。ファンは、キャラクターを彼らに幻視し、AくんとBくんは、物語上は他校だけど、楽屋では仲がいい――つまり、物語と現実のギャップを楽しむことや、「バックステージを見て、Cくんがいじめられているのがカワイイと思った」(さやかさん)など、キャストの若い男性たちがワイワイやっている姿を、外から眺めて楽しむこともできる。ライブビューイングと呼ばれる、公演の生中継を映画館などで映像として観る形式もある。ライブビューイングの楽しみの一つは、自宅でテレビをみんなで観ているような気軽さだという。「飲食をしながら、ツッコミをいれながら、みんなで楽しめる気軽さがいい」(ジルさん)というような、本公演では本番中声を発したり、飲食することができないが、ライブビューイングではそれが可能になり、しかもほかの観客=ファンと一緒に、サイリウムを振って応援する一体感がうれしいという。実際あやかさんは、キングブレードと呼ばれるサイリウムを座談会に持参、応援の様子を再現してくれた。ファンにとって、キャラクターのシンボルカラーを覚え、キャラクターの登場に合わせて色を変えることは、キャラクター/キャストとの一体感も味わえる瞬間なのだ。

同担拒否がない比較的平和なコミュニティー(?)

「同担拒否がないので、1人で劇場に行っても、キャラの人形やグッズを持っている人を見ると話しかけられるし、仲良くなれる」(みふさん)。
 同担拒否とは、同じ推しメンを好きな人同士は仲が悪い(一緒にいるのをいやがる)ということを指す。“同じ担当の人を拒否する”という意味で、同担拒否なわけだ。同担拒否は、たとえばジャニーズファンの間ではすでに自明になっているようだが、2.5D舞台/ミュージカルではキャラクターという偶像が介在していることが幸いして同担拒否が起こりにくい環境になっているのかもしれない。みふさんの言葉からは、同じ嗜好をもった者同士が集まる場所という安心感が読み取れる(ただし、同担拒否がまったくないわけではない。成熟したコミュニティーでは、排除も起こりやすい。この問題は改めて議論していきたい)。

ファンの視線の先に

 紙数の関係からすべてを紹介できないが、再現性の高さに対する賞賛やチーム男子へのまなざしを共有し、多メディアで展開されるコンテンツとして、『テニミュ』や2.5D舞台/ミュージカルを楽しむファンたちの姿が垣間見えることは確かだろう。『テニミュ』はとりわけ10年以上の歴史から、バックステージ、ライブビューイング、『ドリームライブ』(本公演以外に展開されるコンサートショーのようなもの)、運動会など多くの実績があるが、昨今の2.5D舞台/ミュージカルでは、本公演以外にライブビューイングや、DVD・BD(ブルーレイディスク)にバックステージやメーキング(稽古の様子)映像を含めるものが多くなっている。
 最初は再現性やチーム男子へのまなざしを重視するファンだが、目が肥えてくるとキャストの熱がこもった演技、舞台装置、物語の演出方法など、キャラクター以外の細部に目がいくようになる。さらに、「推しキャストができたことで、その人が出演するほかの演劇も観にいくようになり、趣味が広がった」(さやかさん)という意見もあり、演劇自体への興味にもつながっている。
 いままで、オリジナルの演劇に対してどこか劣位に置かれていた2.5D舞台/ミュージカルだが、ファンの2.5Dからいわゆる普通の演劇への流れとほぼ同時に、小劇場出身の演出家が2.5D舞台に参加することで、興味深い化学変化と交流が起こっている。

ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”

 第2回で、2.5Dミュージカルに関して藤原麻優子(4)の議論を紹介し、「未完成の美」という要素に言及したが、第1回でも述べたとおり、2.5D舞台は多様化していて、「ジャンル」として規定することがますます困難になってきている。実際筆者は、『テニミュ』系ミュージカルでの①再現性、②チーム男子、③連載上演、に限りなく近いと思い観劇しにいき、いい意味で期待を見事に裏切られた2.5D舞台を体験した。2015年秋に初演し、その人気ゆえに早くも2016年春に再演したハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”(以下、演劇『ハイキュー!!』と略記)である。
 原作『ハイキュー!!』(〔ジャンプコミックス〕、集英社、2012年―)は、「小さな巨人」に憧れて宮城県立烏野高校バレーボール部に入部した主人公・日向翔陽を中心にした高校バレーボール選手たちの青春を描く、古舘春一の漫画である。テレビアニメ化(2014年―)、ゲーム化(2014、16年)など、広くメディアミックス展開もされている人気作品で、2015年に待望の舞台化となったわけである。演劇『ハイキュー!!』は、日向の中学生時代の体験と影山飛雄との出会いから、高校のバレー部入部を経て、強豪・青葉城西高校との試合などを描いている。
 演出は、エジンバラ演劇祭で5つ星を獲得するなど国内外で活躍する気鋭の演出家ウォーリー木下氏。脚本は、2.5D舞台では演劇『ハイキュー!!』のあと、舞台『黒子のバスケ』の脚本・演出も手がけている中屋敷法仁氏である。今回は、演出を手がけたウォーリー木下氏にお話をうかがうことができた。

2.5次元の地平の先へ――ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”の演出家ウォーリー木下さんに聞く

※文中にはいわゆるネタバレが含まれます。
※文中WKはウォーリー木下氏、ASは筆者の略称。

 まず、演劇『ハイキュー!!』で演出をされたウォーリー氏に、率直に2.5Dのイメージについてうかがうと、コンビニなどで2.5D関係の新聞を目にしたり、大阪の稽古場の近くでコスプレシューティング(撮影)している人々を見かけたりするという程度で、特に意識していなかったという。それならば、漫画『ハイキュー!!』の舞台化の依頼に戸惑いはなかったかうかがうと、「それはなかった」ときっぱり。

ウォーリー木下さん

WK:最初に「2.5Dミュージカル」の枠組みのなかで作りたいわけじゃなくて、(略)もっと画期的な、ウォーリーがやりたいと思っている、演劇のもう一歩先というか、演劇は演劇であるんだけども、現在進行形で進んでいるいろんなテクノロジーであるとか、メディアアートみたいなものと、人力を使ったもの(略)を『ハイキュー!!』でやらないか、っていう話だったんです。

 実際、プロジェクションマッピング、ライブカメラ、漫画のコマを使ったスチール、漫画のコマを画面分割に使って背後のスクリーンに投影……など、舞台上であらゆるテクノロジーが使用されている。「人間の身体=実体」が「漫画のコマ=虚構」と交じり合った映像は、実写映画のスクリーン上ではCG技術を使用すれば不可能ではない。しかし、演劇『ハイキュー!!』の卓越したところは、劇場という観客が内包された3次元の閉鎖空間で、身体性を感じる生身の役者の身体表現と、あらゆる種類の映像との巧妙なハイブリッドが展開し、不思議な異空間が演出されている点である。したがって、観客は3次元感覚(物理的な現実認識)と2次元感覚(想像的な虚構認識)をかろうじて隔てていた境界に対する認識が麻痺し、自分がいつのまにかその異空間に入り込んでいる感覚に陥る。しかも、テクノロジーを使った演出だけでなく、白いベールをかぶった黒子が、音楽に乗って日向のアタックのときの跳躍を支えて持ち上げるという、アナログ的な演出なども多数ちりばめられていて、まさに3次元と2次元を行ったり来たりする感覚に包まれるのだ。こうした漫画のコマを使用する意図や表現したかった思いをうかがってみた。

WK:漫画をテキストにして、舞台化しようって思ったときに、普段僕がやる作業としては、なんというか、手術みたいに1個1個取り出して、横に並列してばーって並べるんですよ。作業としては。(略)それをもとに役者と一緒に共同作業するんですけど、わりと僕、集団創作が多いんですよ。演出家が立って、右行って、左行ってとかってじゃなくて、俳優さんと一緒に、こういうものがあって、これをじゃあ、セリフで読んでみてほしい、もしくは逆にセリフで読まずに体で表現してほしい、っていうのもやったりとかする集団創作っていうのをやって、(略)その作業のなかで、漫画のコマ割りっていうのが、すごく興味が出てきちゃって、(略)いやこれはこのまま使ったほうが面白いって、あるとき思ったんですよ。なんでそう思ったのか記憶はあまりないんですけど、とにかく直感で思って、漫画のコマ割りのなかに、実際の役者のリアルな顔を、今回の再演の場合、生カメラで入れたりしてるんですけども[AS:あれはとても面白かったです]。要するにリズムなんですって、コマって。(略)じゃ、リズムであれば、演劇もリズムが8割くらいだと思っているので、リズムのなかで音が出てくれば、ドンって使い方すれば、何か新しいものにならないかなと思ってやってみました。だから、『ハイキュー!!』を舞台化するうえで、あのコマのリズムみたいなものとかデザインというものが、有効に生きるんじゃないかなという判断で、選択したうちの一つです。

解体作業、ポエトリー化、そして……

 ウォーリー氏はさらに、原作を「ピンセットで1枚1枚剥がすような」という解体作業、そして「いったん抽象化する」=“「ポエトリー」(詩情)化”し、「具体化」=再構築していく、という興味深い創作プロセスを語ってくださった。

WK:漫画を立体化したいわけでなくて、その漫画を演劇化したいわけなんですよ。演劇化するって何かっていうと、1回抽象化することだと思うんですよ。(略)たとえば、わかんないですけど、少年時代のもやもやした葛藤みたいなものがあったとして、この2人[日向と影山]がもしかしたら双子かもしれないと。同じお母さんから生まれてきた2人がいまこうなっているかもしれないと。……わかんないですよ、でもそうやって抽象化していくというか。たとえば、太陽と影。たとえば、彼が太陽で、彼が影だったら、その真ん中に誰かいるんじゃないか、つまり物体がないと影ができないじゃないかとか、そうやって1個1個、あえてポエトリーにしていくというか、ということを1回して、それをさらに具体化することで演劇ってできると僕は思っていて……

 おそらく、それは抽象的世界観を作り上げていく、まさに虚構を具象化していく緻密な作業なのだ。その結果として選ばれたテクノロジーの使用とアナログな身体表現のハイブリッドが絶妙な加減で、再演パンフレットでウォーリー氏が「『ハイキュー!!』の根っこに近づきたかった(5)」と言及しているとおり、“根っこ”というまさに根幹に流れる精神(ルビ:エーソス)を表現しているのだろう。
 また、ウォーリー氏は声についての演出は高低や速度以外は役者におまかせだったとのこと。アニメの声優の声はキャラクターを同定させるひとつの重要な要素だが、たとえ声が声優に似ていなくても、役者がキャラクターとしてすでに現前してしまっているのは、「『ハイキュー!!』の根っこ」を中心とした世界観が忠実に再現されているからだろう。実際、2.5Dものに特有の「○○君そっくり!」というファンの感想が「Twitter」で多く見受けられたので、声や動作をアニメに寄せている演出もされているかもしれない、という筆者の予測は見事に覆された。

1ミリ、1秒という計算された動き

 しかし、だからといって役者が完全に自由に表現しているというわけではないという。やはり、プロジェクションマッピングやライブカメラを成功させるには、非常に高度な技術が要求される。

WK:実は(舞台)『ハイキュー!!』って立ち位置とか、このカウントでここに立つとか、このカウント内でジャンプするとか、1ミリずれたらダメですっていう感じの制限がとても多い舞台で、役者にかかっているストレスは大きくて、まあ、さらに八百屋(6)だし、本物のボールも出てくるし、そういうふうにしたんですね。それは難しい決まりごとで毎回本番をやることで、つまり、手の抜ける本番にしたくないというか、ちょっとでも気が緩んだら事故るっていうのを全員が認識して(やってもらっています)……スポーツってそうじゃないですか。(略)
AS:緻密な計算があるんですね。
WK:そうなんです。(略)だからキャラクターが自由に見えるなかで、本当に100%なりきって演じてたら、絶対できないんですよ。っていうたぶんそれが、見てる側からすると、あの人たちは自由にやってるなあ、と逆に思われるんじゃないかと思うんですよ。本当に自由にやっていると、あんまり自由に見えない……なんか変な言い方ですけど。

 束縛があるからこそ、生き生きとしたキャラクターが現前する。あの不思議な空間は、抽象化(ポエトリー化)を通って具現化した世界観のなかで、緻密に計算された立ち位置やタイミングがすべて組み合わさったところで実現しているのだ。筆者が体験した(おそらく多くの観客も体験しただろう)舞台を観たときの緊張感と感動は、こうしたなかで生まれていた。

つねに予想を超えていく

 2.5D舞台/ミュージカルのファンの行動として、休憩や終演後すぐに感想をツイートするというのも一つの特徴だが、最後に、観客の反応についてうかがってみると、あまり見ないとのことだった。

WK:逆にお客さんが、次に音駒高校が登場したらマッピングでこんなことやるんだろうなとか、仮に書いていたとしたら、絶対それをしたくないと思うんですよ。だって、予想していたものが舞台上に出てきても、お客さんは何の感動もないし、だからたぶんある程度そこは超えていかないといけないと思うから、大変だなと思うんですけどね。

 私たちの予想を越えて進化する演劇『ハイキュー!!』。大千秋楽5月8日のライブビューイングで、新作ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“烏野、復活!”の発表がおこなわれた。今年の秋に、またあの不思議空間に迷い込める。

【謝辞】
ご多忙にもかかわらず、インタビューを快諾してくださったウォーリー木下様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、関係者のみなさまに大変お世話になりました。心から感謝いたします。


(1)2016年には10年ぶりに新作が上演予定。
(2)ただし、担当キャラクター以外でキャストされた声優もいる。
(3)どの2.5D舞台でも、物販で中身がわからない缶バッチや生写真セットが販売されていることが多いが、同じものがかぶると公演前後のロビーや屋外でトレードが自然とおこなわれている。
(4)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、68―75ページ
(5)ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”再演パンフレット、42ページ
(6)傾斜がついた舞台のこと。八百屋の店先の傾斜がついた台に野菜が並んだ様子から。

 

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第2回 事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

アニメといえば日本!……2.5次元ミュージカル/舞台といえば?

“2.5次元”という用語をアニメ・漫画ファン以外にも認知させたのは、やはり2.5次元(以下、2.5Dと略記)ミュージカル/舞台だろう。第1回連載でも言及したとおり、2014年に日本2.5次元ミュージカル協会(以下、2.5D協会と略記)が設立され、漫画、アニメ、ゲームなどの“2次元”を原作にした日本発のミュージカル(とストレートプレイ)を世界へ発信し、世界標準を目指した活動が始まった。ディズニー/ピクサーなどのアメリカのフルアニメーションや3DCGアニメーションと並んで、日本のセルタイプの2D(リミティッド)アニメがいまや「世界標準」となっている(つまり、「アニメといえば、日本」という共通認識)ことを考えると(1)、アメリカのブロードウェー、イギリスのイーストエンドのミュージカルに対し、2.5Dミュージカル/舞台は日本オリジナルのものだと世界で周知されるのもそう遠くはないかもしれない。実際2014年、ヨーロッパ最大の日本に関するオンリーイベント「ジャパン・エキスポ」(パリ郊外)でおこなわれたミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のキャンペーンで、セーラー戦士とタキシード仮面が登場すると、その場にいた観客が一斉にカメラを構えた(画像1)。メインナンバーを歌うキャストに、若者だけでなくいい大人たちが大きな声援を送っていたのを、筆者は驚きとともに目撃している(画像2)。コンテンツの力、そして後述する“キャラ”の力は、メディア領域を超えて拡大し続けている。

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2.5次元ミュージカル/舞台の特徴

「じゃあ、既存のミュージカル(ブロードウェーや劇団四季などのミュージカル)と2.5次元ミュージカルってどう違うの?」
 当然の疑問である。
 はたして、2.5次元ミュージカル/舞台を、既存のミュージカルや演劇と一線を画しているものとは何だろうか。そんな問いに対する答えを探るため、筆者は2015年から「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」を開催し、研究者や学生、関係者、一般の方々と意見を交換している。記念すべき第1回は、15年2月5日(木)の奇しくも2.5次元の日!(注:ねらってその日に設定したわけではありません、念のため)におこなわれた。日本2.5Dミュージカル協会代表理事/ネルケプランニング代表取締役松田誠氏とウェリントン・ヴィクトリア大学(ニュージーランド)のコスプレ研究者エメラルド・キング先生をお迎えし、「2.5次元ミュージカルとコスプレにおける女性の文化実践」をテーマに、お話をうかがった。松田氏は、15年は2.5次元ミュージカル/舞台の紹介の年と位置づけ、2.5Dミュージカル/舞台の詳細、2.5D協会の目的などを紹介された。一方、キング氏は、主に女性のコスプレイヤーが男性から受けるセクハラ問題、女性レイヤーが陥った自己顕示と承認/非承認問題などを話された。コスプレについては、この連載でいずれ詳しく取り上げるつもりなので今回は深く触れないが、コスプレと2.5次元ミュージカル/舞台の関係は非常に親密だということを特記するにとどめておく。これは後述する“キャラ”という要素にも密接に関わってくる。
 第2回は、2016年2月6日(土)「声、キャラ、ダンス」というテーマでおこなわれた。大妻女子大学の田中東子先生は、“キャラ”とファンに関する興味深い指摘をされ、早稲田大学演劇博物館招聘研究員の藤原麻優子先生は、既存のミュージカルと2.5Dミュージカルの違いを細かく解説された。お2人の発表内容にも言及しながら、先に掲げた問い「2.5Dミュージカルの特徴とは」を解明していこう。

“キャラ”、キャスト、コンテンツ

 キャラクターとは、一義的には創作物の登場人物のことである。しばしばキャラクターは「キャラ」と略して使用され、近年ではコンテキストによってその意味は多様化している。キャラとキャラクターに関する議論は非常に複雑である。今年のセンター試験にも出題された土井隆義の『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』(〔岩波ブックレット〕、岩波書店、2009年)に代表されるように、ある一定の個性を強調した個体(「いじられキャラ」「エロキャラ」などコミュニティーのなかでの役割分担のようなもの)がキャラと呼ばれる場合、コミュニケーション学や社会学の文脈でしばしば語られる。この文脈では「キャラがかぶる」(例えば「メガネキャラ」などメガネをかけているクール系がクラスに2人もいると、都合が悪いわけである。アニメや漫画でもその傾向は顕著だ。)や、「キャラが立つ」(個性の強さがあり、唯一絶対の個体として認識できる)などの言い回しになる。しかし、漫画の“キャラ”とキャラクターの概念の差異を丁寧に考察し定義している伊藤剛や東浩紀などが示すように、“キャラ”は単なるキャラクターの略語ではないことも、いまでは自明となっている(2)。しかし、便宜的に今回は「キャラ」は、キャラクター(登場人物)、その性質や個性という意味で使用し、論を進めていく。
 このキャラ(キャラクター)の議論にはコスプレの回で再訪するとして、2.5Dミュージカルでのキャラに話を戻して考えてみよう。前述したシンポジウムで田中は、小田切博のキャラクターの定義を引用して、「外見、性格、記号的意味(3)」がキャラクターの構成要素であるが、そのうち一つさえあれば、存在がゆらぐことはないという小田切の考え方を、キャラクターの“増幅”としてとらえていた(4)。二次創作によるパロディーはもちろん、地上波で一次作品をもとに世界観や設定を変えて創作する二次的な作品でも、キャラはキャラとしてブレない。『科学忍者隊ガッチャマン』(フジテレビ系、1972―74年)をギャグ短篇アニメにした『おはよう忍者隊ガッチャマン』(日本テレビ系列、2011―13年)や、『おそ松くん』(毎日放送系、1966―67年、フジテレビ系、1988―89年)のキャラたちが成人してニート生活を送っているという設定で、6つ子に強烈な個性を与えたパロディアニメ『おそ松さん』(2015―16年)など、二次創作手法が一つの作品として認知されている。余談だが、『妖狐×僕SS(5)』(MBSテレビ、2012年)など、コメディー風にキャラが突然“チビキャラ”としてデフォルメされたり、ねんどろいどに代表されるようにカワイくデフォルメされたフィギュアが愛好されたりと、キャラの“増幅”は無限である(果ては擬人化ならぬ“(擬)モノ化”〔人間キャラが動物になったり、モノになったり〕しても、キャラとして設定や個性があれば、キャラの自律はゆるがない)。
 2.5Dミュージカル/舞台も、キャラの“増幅”の範疇にあるなら、三次元の身体を借りた“パロディー”としてとらえることが可能だろう。まず、この“キャラ”の問題が、既存の戯曲(テキスト)の翻案ミュージカルとの重要な差異の一つである。

ブロードウェーでも2.5次元?

「いや、ブロードウェーでもアニメーションのミュージカル化があるじゃないか。ディズニーの『ライオン・キング』『リトルマーメイド』『アラジン』、マーベルの『スパイダーマン』……あれって、2.5次元じゃないの?」
 これも当然の疑問である。
 星野太は、2.5次元は、2次元/3次元という次元の位相の差異ではなく、キャラクターと観客をベースとしたときに浮上すると述べている。「二次元/三次元の相克は、厳密にはそのメディウムの次元で生じているのではなく、むしろその「キャラクター」と「俳優の身体」のあいだで生じている(6)」のだ。漫画、アニメ、ゲームなどの虚構の世界のキャラが、あたかも人格をもった存在として観客の認識にあり、目の前で展開されるキャラそっくりの俳優たちの身体に、観客はキャラを「幻視」し「二重写し」にするとき2.5次元空間という位相が生じるという(7)。
 星野の議論は、2.5次元空間を成立させる私たちのキャラに対する認識と劇場内での参加(物理的にも認知的にも)が不可欠要素であることを担保している。しかし、例えば、スパイダーマンなど、パロディーや“増幅”が多いアメコミキャラの舞台は、はたして2.5Dミュージカルといえるのだろうか。
 藤原麻優子は、ディズニーアニメやアメコミのキャラクターたちが、キャラとして成立しているにもかかわらず、なぜ日本の2.5次元舞台と異なるのかを、①再現性、②物語構造、③ミュージカルナンバー(曲)の役割の3点から分析している(8)。

①再現性
 まず藤原は、レーマン・エンゲル(9)を引用して、既存のミュージカルが原作に忠実か否かは問題ではなく、翻案者が自分の方法で表現することが大前提だとしていると強調する。これに対し、2.5Dミュージカル/舞台は、2次元の世界観をそのまま再現することに重きを置いていることを挙げる。もちろん、藤原が指摘する二項対立図式にすべての漫画、アニメ、ゲーム原作のミュージカルが当てはまるとはかぎらないが、最近の2.5Dミュージカル/舞台に、アニメキャスト(声優)の声、ビジュアル、原作のセリフ、世界観をなるべく再現しようという傾向が強いことはまちがいない。したがって、ディズニーアニメの舞台を観て、「あ、アラジンがそこにいる!」「アリエルそっくり!」という感覚はあまり実感できないだろう(『ライオン・キング』はそもそも動物がキャラクターだから忠実な再現性は不可能だ)。

②物語構造
 また、物語構造も異なる。藤原は、起承転結という日本の物語構造の典型に対して西洋には「対立―衝突―解決」という文法があるが、2.5Dには、連続上演という必ずしも一つの上演作品内で完結しないシリーズ化という特徴があることを指摘する(10)。既存のミュージカルには、必ずドラマ(「(一連の)出来事を通して描かれる人物の視点の衝突や変容の起伏(11)」)があるが、2.5Dミュージカルは、ドラマは前景にあまり出てこない。

③ミュージカルナンバー(曲)の機能
 このことは、ミュージカルナンバー(曲)の機能と密接な関係がある。既存のミュージカルでは、「歌とダンスが物語に対して一定の機能を担い、作品のテーマを有機的に描き出していく(12)」ので、ミュージカルナンバーに物語の人物の説明、心情をテーマに沿うように乗せてくる。それに対し、2.5Dミュージカルには状況説明の曲が多いとされ、限りなく非ミュージカル的だという。しかも2.5Dミュージカルは、非ミュージカルだということを自分から告白するかのように、キャラクターが突然歌い出すというミュージカルをミュージカルたらしめている文法に、キャラクター自身がツッコミを入れたり、ちゃかしたりする「自己言及性(13)」が強いという(例として、藤原はミュージカル『テニスの王子様』〔通称『テニミュ』〕で菊丸が試合途中に歌いだし、試合に負けた原因を「なんで歌っちゃったんだろう」と、歌によってスタミナがなくなったと言及している点を指摘している)。確かに、アニメや漫画原作にキャラが物語のなかで歌っている場面はないので、ミュージカルナンバーは、違和感=「キャラに合わない」はずである(余談だが、この2.5Dミュージカルはアニメにも影響を及ぼしている。アニメ『スタミュ(高校星歌劇)』〔2015年〕や、『Dance with Devils』〔通称『ダンデビ』、2015年)などでは物語中キャラが歌いだす。『ダンデビ』に至っては、ミュージカルアニメーションと銘打たれ、2016年に舞台化もされている)。
  
ミュージカル『テニスの王子様』の衝撃

 以上、主要3要素から既存のミュージカルと比較してみると、2.5Dミュージカルは、明らかに独自性をもっている。キャラ中心にドラマ、曲、ダンスさえもキャラの自律化へ従属していく。また、藤原は、既存のミュージカルからみると積極的な余白、つまり“不完全性”があること、そして派手な舞台装置があまり必要とされないことも、キャラ中心主義に寄与する要素だとしている(14)。これはミュージカル『テニスの王子様』を嚆矢とする“『テニミュ』系”2.5Dミュージカルが典型である。『テニミュ』系とは、①無名俳優の起用によるキャラ再現性の優先、②チーム男子の採用、③連載上演を特徴としている作品群と定義しよう。
『テニミュ』は2003年から現在まで続く、2.5Dミュージカルという分野のパイオニアであり、最長寿作品である。したがって、2.5Dミュージカルの原点として取り上げられる作品である(15)。『テニミュ』はアニメ化もされた漫画「テニスの王子様」(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)が原作である。絶対に無理といわれたスポーツ漫画のミュージカル化を成功させたプロデューサー片岡義朗は、読者がコマとコマの間を補完する漫画と、観客の想像力に依存する演劇との類似性を早くから指摘していたし(16)、松田誠も「脳内補完」という実に妙を得た用語で端的に指摘する(17)。集客力がある有名俳優をキャストするのではなく、一貫してあえて無名俳優を起用し、キャラの再現性を最優先させたことも、他作品と一線を画す点である。「まるで漫画から抜け出たみたい」というキャラを中心とする感覚という意味の“2.5次元”がここに結実する。しかも、2次元キャラでは味わうことができない、息づかい、汗、匂い、筋肉などを、舞台では体験できるのだ(むろん、キャラが汗をかくのは見たくないというファンもいるだろうが、汗はキャストの一生懸命さが伝わってきて、かなり感動する)。
 また、よく指摘されることだが、『テニミュ』では女性キャラクター(物語のなかでは、竜崎スミレ監督と監督の孫・竜崎桜乃は主要女性キャラクター)を排除し、「チーム男子」(イケメンだけの集団)の世界を構築したことも大きな勝因である。これは、男性のスポーツ漫画にはレギュラー以外にも対戦相手に男性キャラが多いため、同人誌でBL的な多様なカップリング創作が多発したチーム男子流行の流れの一つだった。これを逆転したのが、チーム女子化した新作ミュージカル『美少女戦士セーラームーンLa Reconquista』(2013年)と続篇『Petite Etrangere』(2014年)、『Un Nouveau Voyage』(2015年)である。『セーラームーン』のミュージカル版は、実は『テニミュ』以前、アニメ放映の翌年1993年から2005年まで上演されたロングラン作品である。しかしオール女性キャストにしたのは新作からで、男性キャラは、タキシード仮面の大和悠河はじめ、元宝塚出身が多く、ヅカファンを2.5Dのほうへ引き寄せた第一人者的2.5Dミュージカルでもある。
 そして、藤原も指摘しているように、一つの舞台で物語が完結せず、漫画やテレビアニメ連載よろしく、連載上演(ただし一つの舞台で一試合)がなされているのも『テニミュ』や『テニミュ』系作品の特徴である。同じアニメーションや漫画原作でも、ディズニーミュージカルは一つの完成した作品としてのアニメーション映画を、『スパイダーマン』などのアメコミは連載ではあるが一話完結物(一つの事件の発生と解決)をそれぞれもとにしているため、形態の相違が生じるのは必然なのだ。

余白、未完成性の美学

 舞台装置も簡素。ブロードウェーミュージカルなどの派手な演出もない。むしろ、キャラを際立たせる演出が優先されるため、完全に作り込まない「余白」こそが2.5Dミュージカル/舞台を楽しむ重要な要素である。
『テニミュ』の「空耳」がはやったのがその証左だ。「空耳」とは、まったく関係ないが、“そう聞こえる”セリフを映像に字幕としてつけ、「ニコニコ動画」などの動画投稿サイトにアップして楽しむビデオのことだ。キャストの滑舌の悪さ(つまり未完成なミュージカル俳優)にツッコミを入れ、ファンたちが楽しむわけなのだ。また、セリフを噛んだり、間違えたり(「カムヒ」=セリフを噛む日と呼ぶらしい)、ウィッグがずれるなどのアクシデントが起こったりと、一回性の体験は実に「おいしい」。観客たちは、ここぞとばかりに「ツイッター」やブログで情報発信し、楽しむのだ。未完成だからこそ、観客がツッコミを入れる余地があり、そのことによってパフォーマンスに参加できる。
 ストレートプレイでも、楽屋ネタやアドリブを入れたり舞台裏を披露したりといったお笑いショー的な要素があると、観客は一挙に引き込まれていく。キャラとしてキャラの個性や設定を逸脱しない程度に笑いを作っていくのは、二次創作的な演出といえるだろう。
 こうした“未完成”性は、決して既存のミュージカルや舞台に対しての優劣で語るような要素ではない。一つの特徴なのだ。観客参加型の文化が主流になってきている現在、2.5Dミュージカル/舞台の心地よい未完成こそが、人を引き付けてやまないのである。


(1)アニメーションとアニメの差異については、津堅信之『日本のアニメは何がすごいのか――世界が惹かれた理由』(〔祥伝社新書〕、祥伝社、2014年)を参照。
(2)伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年、東浩紀編著『網状言論F改――ポストモダン、オタク、セクシュアリティ』青土社、2003年
(3)小田切博『キャラクターとは何か』(ちくま新書)、筑摩書房、2010年、120ページ
(4)田中東子「次元を超える愛――ファンたちは2.5次元キャラクターをどう愛好しているのか?」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(5)藤原ここあの同名漫画(2009―14年)が原作のアニメ。アニメの場合は声が統一されていることもキャラの自律性を担保する。漫画という視覚情報だけでもキャラの普通バージョンとチビバージョンで、読者の認識に混乱が生じることはほぼない。
(6)星野太「キャラクターの召喚――二・五次元というカーニヴァル」、「特集 2.5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、62ページ
(7)同論文65ページ
(8)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」、前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、68―75ページ、藤原麻優子「Does it Work?――2.5次元ミュージカルとアダプテーション」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(9)Lehman Engel, The Making of a Musical: Creating Songs for the Stage, Lomelight, 1986, p.98.
(10)前掲「Does it Work?」
(11)前掲「「なんで歌っちゃったんだろう?」」69ページ
(12)同論文70ページ
(13)同論文70ページ
(14)前掲「Does it Work?」
(15)『テニミュ』以前の漫画や、アニメ原作ミュージカル/舞台、2.5Dミュージカル/舞台の系統別リストについては前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号巻末のやまだないと/上田麻由子+PORCh「2.5次元ステージキーワードガイド」(ただし2014年まで)を、キャストを含めた詳細は「特集 2.5次元へようこそ!」「ダ・ヴィンチ」2016年3月号(KADOKAWA、16―61ページ)を参照のこと。
(16)片岡義朗「アニメミュージカルの生みの親&「テニミュ」立役者 片岡義朗インタビューinニコニコミュージカル」「オトメコンティニュー」第3号、太田出版、2010年、81―91ページ
(17)松田誠「日本2.5次元ミュージカル協会代表理事松田誠インタビュー」、前掲「ダ・ヴィンチ」2016年3月号、61ページ

 

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第1回 2.5次元文化とは何か?

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 いま、2.5次元が熱い。

 2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
 いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
 そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
 2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
 しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
 では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
 テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
 MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
 そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
 このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
 また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
 そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
 紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。

 また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」

*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。


(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。

 

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