第5回 続・コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 第4回「コスプレ――キャラクターとパフォーマンス」では、コスプレにまつわる問題群として、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題に注目し、【1】と【2】について考察した。今回は、【3】空間意識の問題について論じていく。

空間意識――2次元への侵入

 コスプレイヤーのイベントには、必ずカメラをもった参加者がいる。プロのカメラマン、コスプレイヤーが連れてきたカメラ小僧(カメこ)、まったく参加者と関係がない素人カメこまで、出自はさまざまだが、彼・彼女らの目的はただ一つ――ベストショットを写真に残すことである。また、コスプレ撮影スタジオで、さまざまな背景を使いながら撮影会をするコスプレイヤーも多い。イベントに参加せず、もっぱら写真撮影を専門にするコスプレイヤーもいるくらいである。写真は、ネットにアップして公共に公開する場合もあれば、コミュニティー内でしか共有しない場合もある。
 最近では、“コスプレ”写真をアートとしてビジネス化している例もある。たとえば、フィリピンのプロのコスプレフォトグラファーであるジェイ・タブランテは、モデルに主にアメコミ(アメリカン・コミックス)や日本アニメのキャラクターのコスプレをさせ、コミックスのワンシーンの一瞬を切り取ったような写真を撮影して、効果(エフェクト)をつけた写真集を出版している(1)。2013年に筆者がおこなったインタビューでは、フィリピンは1970年代から日本アニメの影響が強く(特に『超電磁マシーンボルテスV』〔テレビ朝日系、1977―78年〕の政治的・文化的影響は有名である)、彼自身も日本のアニメを見て育ったため、植民地化の影響で文化的にも浸透しているアメコミはもちろんだが、戦後影響力を持った日本アニメへの親近感があると語っていた(2)。彼の写真には、彼自身のノスタルジアも多分に含まれているようだ。
 日本では、著作権者に了解をとったうえで、プロの外国人モデルを起用した本格的なアニメ・マンガ・ゲームキャラクターのアート写真を手がけるアーティストICHIを中心とするANIMAREALがある(3)。筆者がICHI氏に失礼ながら「これはコスプレ写真ですか?」とうかがったところ、完全に否定された。タブランテ氏が考えるCosplayの定義とは、異なる理解をしているようだった。“コスプレ”への解釈は異なるものの、彼らの写真作品は、コスチュームの“プレイ”を超えた芸術である。
 コスプレと写真の関係は、多様な側面から考察することができる。スーザン・ソンタグは有名な『写真論』のなかで、映像との関係から写真の機能について次のように述べている。

写真は幾つかの形での獲得である。一番単純な形では、私たちは写真の中で大事なひとやものを代用所有する。その所有のお陰で、写真はどことなく独特の物体の性格を帯びてくる。私たちはまた写真を通じて、出来事に対して消費者の関係をもつようになる。(略)3番目の形の獲得は、映像作りと複写機を通して私たちはなにかを(経験というよりも)情報として獲得できるということである(4)。

 この代用所有による物質化された身体、出来事の消費、情報としての獲得、という認識は、2次元性へと回帰するコスプレイヤーたちの欲望と結び付くだろう。
 では、素人コスプレイヤーたちの舞台上の小演劇(スキット)という動的なパフォーマンスではなく、写真撮影という静的なパフォーマンスには、どのような社会的・文化的意味が生成されるのだろうか。

2.5次元からみる2次元性・物質性・記憶

 コスプレイヤーは、自分が扮したアニメ・マンガ・ゲームなどのキャラクターの決めポーズの写真を名刺代わりにしている人が多い(図1)。キャラクターの決めポーズそのままの写真もあれば、決めポーズがないキャラクターの場合は“キャラクターらしさ”がにじみ出るポーズの写真やシーンの再現もある。たとえば、「コスプレイヤーズアーカイブ(5)」には、コスプレイヤー名・作品名・キャラクター名がデータベース化され、誰でも(素人の)コスプレ写真を検索して鑑賞することができる。作品内ではありえない他のキャラクターとの二次創作的ショットなどもあり、コスプレ写真の可能性は無限だ。それは自己表現や自己アピールの意味ももちろんある。しかし、注目すべきは、2次元のキャラクターの世界に入りたい、というコスプレイヤーたちの欲望と空間意識である。

図1

 2016年に中国のコスプレイヤーたちにインタビューしていたとき、好きなキャラクターのコスプレはできない、と話した女性がいた(6)。「好きすぎて〔畏れ多くて、コスプレ:引用者注〕できない」というのである。こうした例は、日本はもちろん世界中で聞かれる感想の一つである。神のように崇めているキャラクターではなく、彼(女)の脇に寄り添うサブキャラクターのコスプレをすることで、彼(女)に近づける感覚があるようだ。むろん、崇拝という理由だけでなく、自らのコスプレ技術が未熟なため、もう少し上達するまで好きなキャラクターのコスプレはしない、という理由をあげる人もいる。事情はさまざまだが、重要なのは、好きなキャラクター、もしくは彼・彼女らがいる虚構世界に、コスプレを通じて接近、もしくは侵入するという感覚が、多くのコスプレイヤーに共通しているということである。
 筆者が考える「2.5次元遊戯」とは、2次元(虚構)と3次元(現実)のはざまを漂いながら楽しむ文化実践なので、コスプレはまさに2次元と3次元を行き来する遊戯だと言える。しかし、写真を通じて自らを平面化・物質化することで“2次元”の世界に入る、つまりアニメなどのキャラクターたちがいる世界と地続きになる感覚、コスプレをした自分と作品内のキャラクターを同列に位置づけるという認識は、もっぱら2次元から3次元という方向へと展開しているようにみえる2.5次元文化に、新たな視点を与える契機をもたらしてくれる。

“逆2.5次元”――“現実”から“虚構”へ?

 コスプレからいったん離れて、再度2.5次元舞台に目を向けてみよう。2次元のマンガ・アニメ・ゲームの世界を3次元で再現して、虚構性をある程度維持したまま3次元の身体で表現する舞台作品が2.5次元ミュージカルやストレートプレイである。しかし、最近注目されてきたのが、“逆2.5次元”、つまり3次元の舞台をアニメ・マンガ・ゲーム化(2次元化)するという取り組みである。これは、2.5次元ミュージカルの嚆矢であるミュージカル『テニスの王子様』(2003年―)を手がけているネルケプランニングが打ち出したプロジェクトで、舞台『錆色のアーマ』(2017年)を原作に、アニメ・マンガ・ゲームなどの2次元メディアへとメディアミックス展開をしていく計画だという(7)。『錆色のアーマ』の主演には、EXILEの佐藤大樹と、ミュージカル『テニスの王子様』出身の声優・増田俊樹をキャスティングして、すでにアイドル、俳優、2.5次元俳優、声優という2.5次元的“虚構性”と親和性がある2人を選択しているところに、戦略が垣間見える。現時点で今後の展開やファンの受容についてはまだ未知数だが、3次元から2次元へのベクトルの可能性に注目した最初の例だと言える。
 それより先んじてメディアミックス展開している例に、バンダイナムコグループとアミューズが手がける「2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』(8)」がある。Dear Dreamを中心とする男性アイドルグループたちの成長を描くゲーム・アニメだが、アニメのキャラクターと重ねて、実際のアイドルDear Dreamとしての声優たちの活動がパラレルに展開されるという、最初から企図して進められたプロジェクトに、“逆2.5次元”ともいうべき要素が認められうる。

虚構が担保する「現実」

 さらに、空間認識を考えるうえで興味深いのが、最近ネット上で炎上した「『うたの☆プリンスさまっ♪』の舞台化」騒動である。『うたの☆プリンスさまっ♪』(以下、『うたプリ』と略記)とは、女性向け恋愛アドベンチャーゲームを原作にアニメ・ドラマCD・キャラツイッター・コンサートなどメディアミックス展開をしている大人気コンテンツである。アニメシリーズ(TOKYO MX、2011年―)のストーリーは、作曲家志望の15歳の少女・七海春歌の視点から主に描かれる。芸能学校「早乙女学園」を舞台に、七海と一十木音也、一ノ瀬トキヤ、来栖翔、四ノ宮那月、神宮寺レン、聖川真斗、それに愛島セシルを加えたアイドルの卵たちの成長と、アイドルグループST☆RISHとしてのデビュー、ブレイク、ライバルグループとの切磋琢磨などが描かれ、2016年には第4期が放映されている。これまでキャストされた声優(寺島拓篤、宮野真守など)による『うたプリ』コンサート=プリライも開催され、2次元キャラクターにビジュアルが必ずしも忠実でないにもかかわらず、主に声の演出によって2.5次元的空間を創出している希少な成功例である。“その『うたプリ』が舞台化される”と聞くと、他作品でもすでに展開されている“ゲーム原作の作品の2.5次元舞台化”と思われがちである。しかし実際は、作品中に登場する早乙女学園長シャイニング早乙女の「劇団シャイニング」が上演したという設定の『天下無敵の忍び道』を舞台化する、という発表だったのである(9)。いわば、劇中劇を舞台化するということである。舞台化では、たとえば、一十木音也が演じた音也衛門役を俳優・小澤廉が演じる。しかし、多くのファンにとっては、“実在する(はずの)”音也を他者(俳優)が演じること自体が許せなかったり、『うたプリ』とは別次元の「演劇作品」だから『うたプリ』の舞台化ではない(から許容できる)、といった賛否両論が「twitter」上に飛び交った。『うたプリ』は、他のアイドルコンテンツとは現象面で一線を画すコンテンツだが、こうしたファンの反応を分析すると、ファンにとっての虚構(2次元)の確実性や指向性、重厚なリアル感の存在が浮き彫りになる。

おわりに

 再び写真に立ち戻る。写真は「現実」を切り取り、記憶を喚起させるメディアとして作用してきた。また、所有を通じた「現実」や「身体」の物質化という意味も生成してきた。映像というメディアが現れたことで、写真はつねに静的であり、かつ動的な要素を含む映像とは異なるメディアとして異化されるようになった。今日では、VRやARの浸透によって現実(reality)と虚構(virtuality)が感覚的にはすでに融合し、われわれの「現実」認識を撹乱している。仮に物質的な現実世界の「2.5次元化」によって、特に若い世代に不確実性による不安が生じているのだとしたら、無時間性であり、所有し、記録し、共有し、存在証明ツールともなるコスプレ写真は、2次元(虚構)の“確実性”というべきものを逆説的に保証するのである。2次元キャラクターは歳をとらず、性格のブレもなく、スキャンダルもない。失望することがなく、勝手な妄想をしたとしても、キャラクター自身から訴えられることもない(ファンからバッシングされることはあるが)。コスプレ写真から析出しうるものは、「現実」(3次元)を異化し、その不確実性を照射する機能と、虚構(2次元)によって再認識・再評価される「現実」(3次元)への価値・意味づけという機能なのである。


(1)“January 2013 Featured Photographer of the Month: Jay Tablante,” Cosplay Photographers(http://cosplayphotographers.com/2013/01/jay-tablante/)[2017年3月1日アクセス]
(2)2013年12月フィリピンでおこなったCheng Tju Lim氏(現Yishun中学)との共同インタビューによる。
(3)「ANIMAREAL」(http://animareal.com)[2017年3月1日アクセス]
(4)スーザン・ソンタグ『写真論』近藤耕人訳、晶文社、1979年、158ページ
(5)「Cosplayers Archive」(http://www.cosp.jp/photo_search.aspx)[2017年3月10日アクセス]。アクセス時には、約1万6,000人の登録(活動)と記されていた。
(6)2016年10月上海でおこなった田中東子氏(大妻女子大学)との共同調査による。
(7)「錆色のアーマ」(http://www.nelke.co.jp/stage/rusted_armors/)[2017年3月30日アクセス]
(8)「2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』」(http://www.dream-fes.com/)[2017年1月29日アクセス]
(9)「“劇団シャイニング”はシャイニング事務所のアイドル11人をメインに構成された「劇団」をキーワードに展開するうたの☆プリンスさまっ♪オフィシャルプロジェクト」と設定されている。「劇団シャイニング」(http://www.utapri.com/sp/shining_theatrical_troupe/introduction.php#.WNyv4BLyg0Q)[2017年3月30日アクセス]

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第4回 コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

世界コスプレサミットに見るコスプレ文化

 2016年7月30日から8月7日まで、名古屋で世界コスプレサミットが開催された。今回で14回目を数えるこのイベントの目玉は、「世界コスプレチャンピオンシップ」である。過去最多の30の国と地域が参加したこのチャンピオンシップは、各国の優勝者を日本に招待して、厳しいルールのもとで文字どおり「チャンピオン」を決めるためのコンペティションだ。今年は『トリニティ・ブラッド』(吉田直、全12巻〔角川スニーカー文庫〕、角川書店、2001―04年)のコスプレパフォーマンスをしたインドネシアの2人組が優勝した。年々参加国が増加し、衣装の完成度やパフォーマンスのレベルも上がり、もはやすでに“パフォーミング・アーツ”の域である。特に今年からは背景に映像を使用することが許可され、舞台上の演出と映像演出の面で、素人(しろうと)とは思えない完成度が高いパフォーマンスが繰り広げられていた。

図1 2016年世界コスプレサミットでのコスプレパレードの様子

 2分30秒以内と規定されたパフォーマンスを音楽と演技だけでおこなう組がいる一方、セリフを使用する組もあるのだが、流暢な日本語でおこなえる外国チームは、残念ながらまだ少なかった。母語でセリフを言い、英語・日本語の字幕が出ることが多いのだが、審査委員長で人気声優の古谷徹の総評の際のコメントが興味深かった。せっかく日本のコスプレをやっているのだから、日本語でセリフを言ってほしかった、という趣旨のコメントだったからだ。もちろん、これは「日本製のマンガ、アニメ、ゲーム、特撮のもの」だけという規定があるうえでの発言だが、コスプレとは、衣装、メイクなどのビジュアルや、静止した決めポーズだけでなく、パフォーマンスという要素も重要だということが、彼のコメントによって前景化したのだ。

外国のアニメ、漫画、ゲーム関連イベントでのコスプレパフォーマンス

 世界中で楽しまれているコスプレだが、コスプレイヤーの消費や利用の仕方はさまざまである。世界コスプレサミットが、チャンピオンシップのようなコンペティションで規定しているような「日本の漫画、アニメ、ゲーム、特撮などのキャラクター」を模すコスプレが多い印象だが、どちらかというといまではコスプレとは、「2次元キャラクターを模すること」という広い解釈がなされている。その傾向は特に海外では強い。たとえば、日本アニメーション振興会主催で1992年から続いているアニメエキスポ(ロサンゼルス)は、その主催者によると「日本アニメの振興」がそもそもの目的だった。しかし、回を追うごとにその趣旨を離れ、現在では日本製作品のキャラクター以外にも『スター・ウォーズ』(監督:ジョージ・ルーカス、1977年―)、アメコミヒーロー、ディズニープリンセスなどのコスプレをする訪問者は非常に多い。

図2 2011年アニメエキスポの会場の様子

 また、フランスで最大の日本文化オンリーのイベントであるジャパン・エキスポ(パリ郊外)でさえ、スパイダーマンや『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダー、『ハリー・ポッター』シリーズ(J・K・ローリング、1997年―)のキャラクターコスプレに出くわすことが多い。ましてや、日本メインや日本オンリーではない漫画、アニメ、ゲームに関する一般のイベントでは、ありとあらゆるキャラクターのコスプレが跋扈している。たとえば、イタリアのルッカコミックス&ゲームズというイベントは約50年の歴史があるが、ここでは日本製作品のキャラクターのコスプレのほうが圧倒的にマイノリティーである。影響力が大きいアメコミヒーローやシューティングゲームのミリタリーコスプレなどが目を引く。実際にイタリア軍隊が会場でリクルート活動をしているので、筆者などは本職なのかコスプレなのか区別ができなかったほどである。

図3 2015年、ルッカコミックス&ゲームズの会場(街中)の様子

パフォーマンス重視の海外コスプレコンペティション

 コスプレでただ参加する訪問者は、それぞれコスプレを楽しんでいる。コスチュームや道具に凝っているし、カメラを向ければ足を止めてポーズをとってくれるのは、万国共通のサービス精神である。しかし、いざコンペティションとなった場合に、日本と海外でおそらく最も大きな違いは、海外のコンペティションではパフォーマンスを重視する、つまり観客をどれほど楽しませるかを重視したものになっていることだ。似ているというだけでなく、キャラクターをどう解釈し、どんな演技や演出を観客が望んでいるのか、またその期待の上をいくような、または期待をいい意味で裏切るような展開を短い時間にどれほど凝縮するか、が焦点になっているのだ。すると必然的に一瞬で観客を魅了する派手な衣装や大掛かりな演出をするパフォーマンスが選択されやすくなる。会話だけで話が進むような日常系学園ものの女子高生キャラなどは演出上「地味」だから、ファンタジー系で装備や衣装が華々しいゲームの世界観やキャラクターでのパフォーマンスが多くなる、というわけだ。観客の目も肥えているようで、つまらないパフォーマンスには反応が悪いが、すばらしい演出や衣装には、称賛の拍手を送る。この意味で、コスプレパフォーマンスは2.5次元舞台とかなり親和性が高い。

コスプレが提示する問題群

 2.5次元舞台とコスプレパフォーマンス(特にコンペティションの場合)の親和性の高さは、キャラクター中心主義的な演出(つまり俳優の個性よりもキャラクターの存在性が前景化すること)と、観客と行為者とのインタラクションによって立ち上がる空間の共有で実現する。エリカ・フィッシャー=リヒテはこれを「ライブ(身体)の共存(1)」と呼んでいる。この点で、コスプレの考察には2.5次元舞台を論じた第2回「事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流」、第3回「事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望」で言及したキャラクター論と、第1回「2.5次元文化とは何か?」で論じたファン研究、パフォーマンス研究からのアプローチが必要になってくる。
「それでは、2.5次元舞台とコスプレは同じようにとらえていいのだろうか?」という疑問がわいてくるだろう。もちろん共通している部分もあるが、コスプレにはもう少し考えなければならない問題群がまとわりついている。特に、観客と行為者の場があらかじめ用意されたコンペティションのような固定された舞台ではない場で、素人がコスプレをパフォーマンスしている際に浮上する問題である。それは、イベント会場(多くは野外)のマクロな空間や、コスプレ撮影のミクロな空間だったりする。
 その問題のなかでも注目したいのは、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題、の3点である。【1】アイデンティティー形成の問題とは、誰がどんなキャラクターを選択しパフォームするか、またパフォーミングを通じて、選択したキャラクターと当事者のアイデンティティーとにはどのような関係があるか、ということである。【1】との関連で、【2】セクシュアリティーの問題とは、特に女性が「見られる客体」になる場合に、「性的対象」として見られることに関する問題である。これは海外の「コスプレは同意ではない(Cosplay is not consent.)運動」との関連で、身体、セクシュアリティー、ジェンダーの点で考察したい。最後に【3】空間意識は、コスプレイヤーの重要な目的の一つが写真を撮ることであることと関係がある。2次元の虚構キャラクターをコスプレによって3次元化したにもかかわらず、いや、かえって3次元化したからこそ、写真という2次元へと回帰する欲望とは何だろうか。そうした“2.5次元遊戯”(2次元と3次元のハイブリッドな浮遊行為)と呼べるような振る舞いに関して、一つの分析を試みる。

コスプレとアイデンティティーの諸問題

 アニメキャラクターを演じることの心理学的研究は、特に日本のアニメが子どもだけでなく、思春期の若者の精神にも有益な影響があることがとりざたされた2000年代ごろから盛んである。テレビアニメーション(テレビカートゥーン)が登場し始めた1950年代後半ごろから、アニメーションが視聴者、特に子どもに与える影響は、主に「悪影響」として語られることが多かったが、西村則昭は、アニメキャラクターを演じることを通じたカウンセリングの有効性を論じている(2)。西村のクライアントの少女は、アニメ『スレイヤーズ』(1995―2005年)の強いヒロイン・リナ=インバースを演じ西村とロールプレイをすることで、自分をリナと置き換える作業をしている。また、スーパーヒーローを演じることによるカウンセリングをおこなっているローレンス・C・ルビンは、彼のクライアントであるクラスからいじめを受けているアメリカの男児がアニメ『NARUTO』(2002年―)のナルトを演じることによるセラピー的効果を論じている(3)。
 こうした「プレイセラピー」は、メンタルの病気治療の一つとして用いられているが、患者でなくても、コスプレには類似の効果があるのではないかと筆者は仮説を立てている。なぜなら、筆者の(主に海外の非日本人の女性)コスプレイヤーへのインタビュー調査で、自分のジェンダーアイデンティティーやそれにともなうコンフリクトとコスプレには密接な関係性があるケースが頻出しているからである。
 一例を挙げておこう。2013年、シンガポールのAFA(Anime Festival Asia)で5人のコスプレ女性に個別インタビューをおこなった。Aさん(当時20代前半、大学生)は、『銀魂』(漫画:空知英秋、〔ジャンプ・コミックス〕、集英社、2004年―、アニメ:テレビ東京系、2006―16年)の柳生九兵衛のコスプレをしていた。九兵衛とは、女性でありながら剣術の名門柳生家の跡取りになるため男性として育てられた剣術の達人である。幼いころ、親友の志村妙を悪人から守った際に右目を痛め、眼帯をしている。男嫌いで、妙に恋心を抱く九兵衞は、女性と男性の両方を兼ね備えたキャラクターである。Aさんによると、九兵衞は「まさに理想」だそうだ。なぜなら、「かっこいいけど、カワイイ」という自分がなりたい(けどなれない)キャラクターだからだという。ここまでなら、普通のワナビー(wanna be)と思われがちだが、Aさんは両親との確執を話してくれた。
「両親はコスプレには、あまり賛成していない。特に日本のアニメの女性キャラクターは肌の露出が多いから。でも、九兵衞はあまりセクシーでないし、肌を見せずにすむから、両親も文句は言わなかった」
 Aさんの回答は、両親の期待が子どものジェンダー意識の形成に大きな影響を及ぼすこと、そして、男装のコスプレを選択したのは、コスプレを通じて男性になりたいのではなく、肌の露出を避けたいがためだったことを示唆している。同様のことは、ゲームキャラクターの男装をしていた女性のコスプレイヤーBさんからも聞けた。ジェンダーアイデンティティーとコスプレの問題は、このAさんとBさん以外にも、宗教・慣習や恋愛経験とも関係が深い。今回は字数の関係上すべての事例を紹介できないが、いずれ詳細な結果を発表するつもりである。

Cosplay is Not Consent(コスプレをしている=お触りOKではない)

 コスプレとセクシュアリティーも、実は深刻な問題である。いまでこそ「クールジャパン」の代表例として国策の一つに利用されているアニメ(と漫画、ゲーム)だが、日本のアニメが欧米で認知され、揶揄ぎみに「ジャパニメーション」といわれた1980年代、日本製のテレビアニメーション=暴力とセックスの宝庫=子どもには有害、と理解されていた。特に、日本のアニメに子どもたちが熱狂していたフランスでは、『北斗の拳』(フジテレビ、1984―87年)などが、そのあまりにも暴力的な描写のために放送禁止になったこともあった。表面上は表現の過激さを理由にしているが、子どもや若者たちにあまりにも人気が沸騰したために、他国によるフランス文化侵略・侵食への不安もあった。そのトラウマは、コスプレを通じて再顕在化している。それが、Cosplay in Not Consent運動である(図4)。

図4

 Cosplay is Not Consent運動とは、特に女性コスプレイヤーが、性的対象として体を触られたり、露出が多いキャラクターに扮しているとセックスアピールだと理解され性的暴力の対象になりやすいことから欧米で始まったムーブメントである。2013年にシアトルで開催されたアニメイベントAki Conで、女性コスプレイヤーが男性DJにレイプされた事件も起きている(4)。事件にならないまでも、身体(胸、尻、脚、背中など)を見知らぬ男性に触られる被害があとをたたないことや、承諾なしで撮影された写真(多くはスカートのなかや胸の盗撮)をインターネットにアップして、コスプレイヤーのプライバシーをさらす事例も多数あり、図4のようなイラスト入り警告や、イベント会場での看板が設置されるようになった(5)。
 女性コスプレイヤーのなかには、自発的にわいせつなコスプレ写真をネットにさらしたり、卑猥なポーズをしてカメラ小僧(カメこ)に積極的に写真を撮らせるケースもないわけではない。しかし、純粋に好きなキャラクターになりたい、自分に合ったキャラクターがそれだった、というような、性的欲望の対象になることが目的ではなく参加した女性コスプレイヤーたちにとっては迷惑な話である。日本のアニメ、漫画、ゲームの女性キャラクターのなかには、露出が多い服を着た設定の未成年の少女や、胸を強調した服を着た成人女性も多く、虚構を現実に移し替える際に、セクシュアリティーの問題を回避するのは容易ではない。

身体に対する規範と匿名の他者からの中傷

 好きなキャラクターへの愛を表現したい、自分と似ているあのキャラクターになりたい――コスプレイヤーにとって動機はごく純粋である。しかし、同じコスプレイヤーや、それを関心をもって見るオーディエンスのなかには、非常に厳格な規範をもって中傷する者たちもいる。
「そのキャラクターをやる資格がない」
というものである。具体的には、太っている、胸が小さい、顔が醜い……など、演じる者の内面ではなく、物理的な外面に対する中傷である。「Facebook」で自分のコスプレ写真をアップしていたある女性は、“いいね!”をもらうことに自己顕示の欲求が満たされた半面、いいね!がこない不安にかられて、コスプレができなくなった。ある女性は、「ブス! デブ! お前が○○様(キャラの名前)やるな!」と匿名の中傷を書き込まれ、SNSを閉じざるをえなかった。再現性を重視するあまり他者の娯楽に不寛容な傾向は、どの国でもある。比較的肯定的にとらえられ、新しい潜在性がある共同体と認知される一方、2.5次元文化実践が抱える問題も看過してはならない(【3】空間意識については、第5回に続く)。


(1)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭/平田栄一朗/寺尾格/三輪玲子/四ツ谷亮子/萩原健訳、論創社、2009年、44ページ
(2)西村則昭『アニメと思春期のこころ』創元社、2004年
(3)Lawrence C. Rubin, “Big Heroes on the Small Screen: Naruto and the Struggle Within,” in Lawrence C. Rubin ed., Popular Culture in Counseling, Psychotherapy, and Play-Based Interventions, Springer, 2008, pp. 227-242.
(4)“Aki-Con’s Sexual Assault Case,”(http://cosplayisnotconsent.tumblr.com/)[2016年10月10日アクセス]
(5)Andrea Romano, “Cosplay Is Not Consent: The People Fighting Sexual Harassment at Comic Con,”(http://mashable.com/2014/10/15/new-york-comic-con-harassment/#484vIUNskkqI)[2016年10月19日アクセス]

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第3回 事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

双方向性メディアの発達と「2.5次元」舞台

 1950年代の地上波テレビの登場、60年代のカラーテレビの普及、80年代の家庭用ビデオデッキの登場・普及、90年代のパソコン通信による双方向性コミュニケーションメディアの登場から2000年代のインターネットの急速な普及、ソーシャルメディアの発展、と目まぐるしく変化するメディア環境は、私たちの現実認識やコミュニケーション形態に大いなる影響を与えてきた。そして10年代の現在、私たちはスマートフォンなどを通じてモバイルサイバー空間に常時接続状態でいることが可能だ。バーチャルリアリティー技術も向上し、一昔前までは荒く、区別が明確だったCG画面と実写映像の混合も、いまはわからないくらいに「リアル」で、私たちは知らないうちに加工された映像にだまされている。こうしたメディア環境の著しい変化によって、私的領域と公共領域は混合し、いまではそれを自明なものとして私たちは生活している。
 漫画、アニメ、ゲームなど、視覚情報をともなった一次創作物を原作にした舞台という限定的な意味での2.5次元(以下、2.5Dと略記)舞台には、スター重視という側面は否めないものの、独自の様式で視覚的再現性を内包していた宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』(1974年)や、SMAP主演の『聖闘士星矢』(1991年)があった。視覚的再現性に聴覚的再現性が加わった舞台では、アニメ版の主役(両津勘吉)を演じたラサール石井が同じ役で演じたミュージカル『こちら亀有前派出所』(1999―2006年)シリーズ(1)や、アニメ声優たちが担当キャラクターを演じたミュージカル『ハンター×ハンター』(2000―04年)シリーズ(2)など、前ミュージカル『テニスの王子様』(以下、『テニミュ』と略記)期の2.5Dミュージカルは少なくなかった。しかし、2000年代後半からの2.5D舞台の爆発的人気には、上述したメディアの発達が大きく寄与している。

参加型文化とニューメディア

 第1回でも言及したが、こうしたメディアの発達とファンのコミュニケーション形態を研究したヘンリー・ジェンキンスは、1994年の著書で、1960年代からのテレビというメディアの普及にともない見られるようになった、ファン同士が二次創作を通じて横のつながりを形成(ネットワーク化)する様子を、「参加型文化」と呼んだ。しかし現在では、デジタル技術、インターネット、ソーシャルメディアの発達によって、その概念はより拡大した意味を内包し、ファンたちの積極的な参加によって成立する文化としての意味合いが強い。2.5D舞台のまわりでよく見られる光景といえば、鑑賞する側が関連情報をいち早く収集し(たとえば、新作舞台の情報やキャストのつぶやきなど)、SNSなどで不特定多数のファンに拡散し、舞台上のキャスト(役者)の体にキャラクターを幻視した体験を、舞台の休憩中に情報発信し、また多様な読み込みによってファン同士をネットワーク化しているということだ。こうした参加型文化では、参加者(傍観者であるオーディエンスでなく、積極的に参加するプレイヤー)のはたらきかけが舞台パフォーマンスの一部なのである。
 そうしたファンたちと制作者たちの向かう先はどこなのか。交差する視線のなかで、どのような欲望が観察されるのか。今回は、『テニミュ』の熱心な若い女性ファンたちの声と、2.5D舞台に新たな旋風を巻き起こしているハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』の新進気鋭の演出家ウォーリー木下氏のインタビューを紹介し、ファンと制作者の交差する視点について考えてみたい。

ファン座談会から

『テニミュ』の公演では、終劇後、出口でお土産が配られる。シールだったり、生写真だったりと毎回趣向がこらされたお土産は、ファンの楽しみの一つである。リピーター(特に、すべての公演に皆勤することを「全通」という)は、当然同じものを引き当てる確率が高く、公演後の東京ドームシティ出口付近での物品トレードは風物詩になっている(3)。
 筆者は、トレードで知り合ったファンや、スノーボール式に知り合ったファンたちを集め、2016年3月に座談会をおこなった。参加者は5人。日本人4人(あやかさん、えみさん、さやかさん、みふさん)は当時20代前半、北アメリカ出身の外国人(ジルさん)は20代後半だった。特にジルさんは、自国で『テニミュ』のDVDを友人から借りて惚れ込み、ついには『テニミュ』を毎回観たいがために来日を決め、日本で仕事をしているというツワモノである。

座談会の様子

きっかけは「ニコ動」

 まず、5人に『テニミュ』はじめ2.5D舞台/ミュージカルにハマったきっかけを聞いた。すると口をそろえたように、日本人参加者は「ニコニコ動画」(以下、「ニコ動」と略記)と答えた。ジルさんだけはDVD鑑賞がきっかけだったが、『テニミュ』開始当時の2000年代前半にまだ中学生だった参加者にとって、「ニコ動」は身近な情報収集ツールだった。特に初期の『テニミュ』に対しては、「空耳」と呼ばれる「~のように聞こえる」架空のセリフの字幕をつけて楽しむファンの二次創作が盛んだった。滑舌の悪さやオーバーリアクションの面白さから、こうした“ファンが参加する余地”が生まれ、それにほかのユーザーがコメントをつけることで、ますますファン層が広がり、最終的に“本物”を観に劇場に行って、ハマってしまうのだという。えみさんは、「劇団四季(のミュージカル)をよく観にいっていたが、空耳がはやっていて面白かったので、“お笑い”を見にいく感覚で行ってみたら面白くてハマった」と告白している。当然、DVDを勝手にアップするのは違法だが、こうしたストリーミングサイト上の二次創作のシェアが、原作『テニスの王子様』(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)やアニメのファン以外や、公演に足を運べない人など、『テニミュ』の裾野を広げるのに担った役割は大きい。実際、原作ファンで地方在住の高校生だったみふさんは、公演をなかなか観にいけず、ひたすら「ニコ動」で情報を追いかけていたという。

多メディア展開による複合的快楽

 キャラクターのファンだったり、キャスト(=役者)自体のファンだったりと、5人の快楽のツボはさまざまである。それを可能にしているのが、多メディアによる配信と舞台裏映像である。本公演以外に、バックステージと呼ばれる、舞台裏の様子を収めたDVD特典などで、キャラクターを演じるキャストの素顔を垣間見ることができる。ファンは、キャラクターを彼らに幻視し、AくんとBくんは、物語上は他校だけど、楽屋では仲がいい――つまり、物語と現実のギャップを楽しむことや、「バックステージを見て、Cくんがいじめられているのがカワイイと思った」(さやかさん)など、キャストの若い男性たちがワイワイやっている姿を、外から眺めて楽しむこともできる。ライブビューイングと呼ばれる、公演の生中継を映画館などで映像として観る形式もある。ライブビューイングの楽しみの一つは、自宅でテレビをみんなで観ているような気軽さだという。「飲食をしながら、ツッコミをいれながら、みんなで楽しめる気軽さがいい」(ジルさん)というような、本公演では本番中声を発したり、飲食することができないが、ライブビューイングではそれが可能になり、しかもほかの観客=ファンと一緒に、サイリウムを振って応援する一体感がうれしいという。実際あやかさんは、キングブレードと呼ばれるサイリウムを座談会に持参、応援の様子を再現してくれた。ファンにとって、キャラクターのシンボルカラーを覚え、キャラクターの登場に合わせて色を変えることは、キャラクター/キャストとの一体感も味わえる瞬間なのだ。

同担拒否がない比較的平和なコミュニティー(?)

「同担拒否がないので、1人で劇場に行っても、キャラの人形やグッズを持っている人を見ると話しかけられるし、仲良くなれる」(みふさん)。
 同担拒否とは、同じ推しメンを好きな人同士は仲が悪い(一緒にいるのをいやがる)ということを指す。“同じ担当の人を拒否する”という意味で、同担拒否なわけだ。同担拒否は、たとえばジャニーズファンの間ではすでに自明になっているようだが、2.5D舞台/ミュージカルではキャラクターという偶像が介在していることが幸いして同担拒否が起こりにくい環境になっているのかもしれない。みふさんの言葉からは、同じ嗜好をもった者同士が集まる場所という安心感が読み取れる(ただし、同担拒否がまったくないわけではない。成熟したコミュニティーでは、排除も起こりやすい。この問題は改めて議論していきたい)。

ファンの視線の先に

 紙数の関係からすべてを紹介できないが、再現性の高さに対する賞賛やチーム男子へのまなざしを共有し、多メディアで展開されるコンテンツとして、『テニミュ』や2.5D舞台/ミュージカルを楽しむファンたちの姿が垣間見えることは確かだろう。『テニミュ』はとりわけ10年以上の歴史から、バックステージ、ライブビューイング、『ドリームライブ』(本公演以外に展開されるコンサートショーのようなもの)、運動会など多くの実績があるが、昨今の2.5D舞台/ミュージカルでは、本公演以外にライブビューイングや、DVD・BD(ブルーレイディスク)にバックステージやメーキング(稽古の様子)映像を含めるものが多くなっている。
 最初は再現性やチーム男子へのまなざしを重視するファンだが、目が肥えてくるとキャストの熱がこもった演技、舞台装置、物語の演出方法など、キャラクター以外の細部に目がいくようになる。さらに、「推しキャストができたことで、その人が出演するほかの演劇も観にいくようになり、趣味が広がった」(さやかさん)という意見もあり、演劇自体への興味にもつながっている。
 いままで、オリジナルの演劇に対してどこか劣位に置かれていた2.5D舞台/ミュージカルだが、ファンの2.5Dからいわゆる普通の演劇への流れとほぼ同時に、小劇場出身の演出家が2.5D舞台に参加することで、興味深い化学変化と交流が起こっている。

ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”

 第2回で、2.5Dミュージカルに関して藤原麻優子(4)の議論を紹介し、「未完成の美」という要素に言及したが、第1回でも述べたとおり、2.5D舞台は多様化していて、「ジャンル」として規定することがますます困難になってきている。実際筆者は、『テニミュ』系ミュージカルでの①再現性、②チーム男子、③連載上演、に限りなく近いと思い観劇しにいき、いい意味で期待を見事に裏切られた2.5D舞台を体験した。2015年秋に初演し、その人気ゆえに早くも2016年春に再演したハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”(以下、演劇『ハイキュー!!』と略記)である。
 原作『ハイキュー!!』(〔ジャンプコミックス〕、集英社、2012年―)は、「小さな巨人」に憧れて宮城県立烏野高校バレーボール部に入部した主人公・日向翔陽を中心にした高校バレーボール選手たちの青春を描く、古舘春一の漫画である。テレビアニメ化(2014年―)、ゲーム化(2014、16年)など、広くメディアミックス展開もされている人気作品で、2015年に待望の舞台化となったわけである。演劇『ハイキュー!!』は、日向の中学生時代の体験と影山飛雄との出会いから、高校のバレー部入部を経て、強豪・青葉城西高校との試合などを描いている。
 演出は、エジンバラ演劇祭で5つ星を獲得するなど国内外で活躍する気鋭の演出家ウォーリー木下氏。脚本は、2.5D舞台では演劇『ハイキュー!!』のあと、舞台『黒子のバスケ』の脚本・演出も手がけている中屋敷法仁氏である。今回は、演出を手がけたウォーリー木下氏にお話をうかがうことができた。

2.5次元の地平の先へ――ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”の演出家ウォーリー木下さんに聞く

※文中にはいわゆるネタバレが含まれます。
※文中WKはウォーリー木下氏、ASは筆者の略称。

 まず、演劇『ハイキュー!!』で演出をされたウォーリー氏に、率直に2.5Dのイメージについてうかがうと、コンビニなどで2.5D関係の新聞を目にしたり、大阪の稽古場の近くでコスプレシューティング(撮影)している人々を見かけたりするという程度で、特に意識していなかったという。それならば、漫画『ハイキュー!!』の舞台化の依頼に戸惑いはなかったかうかがうと、「それはなかった」ときっぱり。

ウォーリー木下さん

WK:最初に「2.5Dミュージカル」の枠組みのなかで作りたいわけじゃなくて、(略)もっと画期的な、ウォーリーがやりたいと思っている、演劇のもう一歩先というか、演劇は演劇であるんだけども、現在進行形で進んでいるいろんなテクノロジーであるとか、メディアアートみたいなものと、人力を使ったもの(略)を『ハイキュー!!』でやらないか、っていう話だったんです。

 実際、プロジェクションマッピング、ライブカメラ、漫画のコマを使ったスチール、漫画のコマを画面分割に使って背後のスクリーンに投影……など、舞台上であらゆるテクノロジーが使用されている。「人間の身体=実体」が「漫画のコマ=虚構」と交じり合った映像は、実写映画のスクリーン上ではCG技術を使用すれば不可能ではない。しかし、演劇『ハイキュー!!』の卓越したところは、劇場という観客が内包された3次元の閉鎖空間で、身体性を感じる生身の役者の身体表現と、あらゆる種類の映像との巧妙なハイブリッドが展開し、不思議な異空間が演出されている点である。したがって、観客は3次元感覚(物理的な現実認識)と2次元感覚(想像的な虚構認識)をかろうじて隔てていた境界に対する認識が麻痺し、自分がいつのまにかその異空間に入り込んでいる感覚に陥る。しかも、テクノロジーを使った演出だけでなく、白いベールをかぶった黒子が、音楽に乗って日向のアタックのときの跳躍を支えて持ち上げるという、アナログ的な演出なども多数ちりばめられていて、まさに3次元と2次元を行ったり来たりする感覚に包まれるのだ。こうした漫画のコマを使用する意図や表現したかった思いをうかがってみた。

WK:漫画をテキストにして、舞台化しようって思ったときに、普段僕がやる作業としては、なんというか、手術みたいに1個1個取り出して、横に並列してばーって並べるんですよ。作業としては。(略)それをもとに役者と一緒に共同作業するんですけど、わりと僕、集団創作が多いんですよ。演出家が立って、右行って、左行ってとかってじゃなくて、俳優さんと一緒に、こういうものがあって、これをじゃあ、セリフで読んでみてほしい、もしくは逆にセリフで読まずに体で表現してほしい、っていうのもやったりとかする集団創作っていうのをやって、(略)その作業のなかで、漫画のコマ割りっていうのが、すごく興味が出てきちゃって、(略)いやこれはこのまま使ったほうが面白いって、あるとき思ったんですよ。なんでそう思ったのか記憶はあまりないんですけど、とにかく直感で思って、漫画のコマ割りのなかに、実際の役者のリアルな顔を、今回の再演の場合、生カメラで入れたりしてるんですけども[AS:あれはとても面白かったです]。要するにリズムなんですって、コマって。(略)じゃ、リズムであれば、演劇もリズムが8割くらいだと思っているので、リズムのなかで音が出てくれば、ドンって使い方すれば、何か新しいものにならないかなと思ってやってみました。だから、『ハイキュー!!』を舞台化するうえで、あのコマのリズムみたいなものとかデザインというものが、有効に生きるんじゃないかなという判断で、選択したうちの一つです。

解体作業、ポエトリー化、そして……

 ウォーリー氏はさらに、原作を「ピンセットで1枚1枚剥がすような」という解体作業、そして「いったん抽象化する」=“「ポエトリー」(詩情)化”し、「具体化」=再構築していく、という興味深い創作プロセスを語ってくださった。

WK:漫画を立体化したいわけでなくて、その漫画を演劇化したいわけなんですよ。演劇化するって何かっていうと、1回抽象化することだと思うんですよ。(略)たとえば、わかんないですけど、少年時代のもやもやした葛藤みたいなものがあったとして、この2人[日向と影山]がもしかしたら双子かもしれないと。同じお母さんから生まれてきた2人がいまこうなっているかもしれないと。……わかんないですよ、でもそうやって抽象化していくというか。たとえば、太陽と影。たとえば、彼が太陽で、彼が影だったら、その真ん中に誰かいるんじゃないか、つまり物体がないと影ができないじゃないかとか、そうやって1個1個、あえてポエトリーにしていくというか、ということを1回して、それをさらに具体化することで演劇ってできると僕は思っていて……

 おそらく、それは抽象的世界観を作り上げていく、まさに虚構を具象化していく緻密な作業なのだ。その結果として選ばれたテクノロジーの使用とアナログな身体表現のハイブリッドが絶妙な加減で、再演パンフレットでウォーリー氏が「『ハイキュー!!』の根っこに近づきたかった(5)」と言及しているとおり、“根っこ”というまさに根幹に流れる精神(ルビ:エーソス)を表現しているのだろう。
 また、ウォーリー氏は声についての演出は高低や速度以外は役者におまかせだったとのこと。アニメの声優の声はキャラクターを同定させるひとつの重要な要素だが、たとえ声が声優に似ていなくても、役者がキャラクターとしてすでに現前してしまっているのは、「『ハイキュー!!』の根っこ」を中心とした世界観が忠実に再現されているからだろう。実際、2.5Dものに特有の「○○君そっくり!」というファンの感想が「Twitter」で多く見受けられたので、声や動作をアニメに寄せている演出もされているかもしれない、という筆者の予測は見事に覆された。

1ミリ、1秒という計算された動き

 しかし、だからといって役者が完全に自由に表現しているというわけではないという。やはり、プロジェクションマッピングやライブカメラを成功させるには、非常に高度な技術が要求される。

WK:実は(舞台)『ハイキュー!!』って立ち位置とか、このカウントでここに立つとか、このカウント内でジャンプするとか、1ミリずれたらダメですっていう感じの制限がとても多い舞台で、役者にかかっているストレスは大きくて、まあ、さらに八百屋(6)だし、本物のボールも出てくるし、そういうふうにしたんですね。それは難しい決まりごとで毎回本番をやることで、つまり、手の抜ける本番にしたくないというか、ちょっとでも気が緩んだら事故るっていうのを全員が認識して(やってもらっています)……スポーツってそうじゃないですか。(略)
AS:緻密な計算があるんですね。
WK:そうなんです。(略)だからキャラクターが自由に見えるなかで、本当に100%なりきって演じてたら、絶対できないんですよ。っていうたぶんそれが、見てる側からすると、あの人たちは自由にやってるなあ、と逆に思われるんじゃないかと思うんですよ。本当に自由にやっていると、あんまり自由に見えない……なんか変な言い方ですけど。

 束縛があるからこそ、生き生きとしたキャラクターが現前する。あの不思議な空間は、抽象化(ポエトリー化)を通って具現化した世界観のなかで、緻密に計算された立ち位置やタイミングがすべて組み合わさったところで実現しているのだ。筆者が体験した(おそらく多くの観客も体験しただろう)舞台を観たときの緊張感と感動は、こうしたなかで生まれていた。

つねに予想を超えていく

 2.5D舞台/ミュージカルのファンの行動として、休憩や終演後すぐに感想をツイートするというのも一つの特徴だが、最後に、観客の反応についてうかがってみると、あまり見ないとのことだった。

WK:逆にお客さんが、次に音駒高校が登場したらマッピングでこんなことやるんだろうなとか、仮に書いていたとしたら、絶対それをしたくないと思うんですよ。だって、予想していたものが舞台上に出てきても、お客さんは何の感動もないし、だからたぶんある程度そこは超えていかないといけないと思うから、大変だなと思うんですけどね。

 私たちの予想を越えて進化する演劇『ハイキュー!!』。大千秋楽5月8日のライブビューイングで、新作ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“烏野、復活!”の発表がおこなわれた。今年の秋に、またあの不思議空間に迷い込める。

【謝辞】
ご多忙にもかかわらず、インタビューを快諾してくださったウォーリー木下様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、関係者のみなさまに大変お世話になりました。心から感謝いたします。


(1)2016年には10年ぶりに新作が上演予定。
(2)ただし、担当キャラクター以外でキャストされた声優もいる。
(3)どの2.5D舞台でも、物販で中身がわからない缶バッチや生写真セットが販売されていることが多いが、同じものがかぶると公演前後のロビーや屋外でトレードが自然とおこなわれている。
(4)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、68―75ページ
(5)ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”再演パンフレット、42ページ
(6)傾斜がついた舞台のこと。八百屋の店先の傾斜がついた台に野菜が並んだ様子から。

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第2回 事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

アニメといえば日本!……2.5次元ミュージカル/舞台といえば?

“2.5次元”という用語をアニメ・漫画ファン以外にも認知させたのは、やはり2.5次元(以下、2.5Dと略記)ミュージカル/舞台だろう。第1回連載でも言及したとおり、2014年に日本2.5次元ミュージカル協会(以下、2.5D協会と略記)が設立され、漫画、アニメ、ゲームなどの“2次元”を原作にした日本発のミュージカル(とストレートプレイ)を世界へ発信し、世界標準を目指した活動が始まった。ディズニー/ピクサーなどのアメリカのフルアニメーションや3DCGアニメーションと並んで、日本のセルタイプの2D(リミティッド)アニメがいまや「世界標準」となっている(つまり、「アニメといえば、日本」という共通認識)ことを考えると(1)、アメリカのブロードウェー、イギリスのイーストエンドのミュージカルに対し、2.5Dミュージカル/舞台は日本オリジナルのものだと世界で周知されるのもそう遠くはないかもしれない。実際2014年、ヨーロッパ最大の日本に関するオンリーイベント「ジャパン・エキスポ」(パリ郊外)でおこなわれたミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のキャンペーンで、セーラー戦士とタキシード仮面が登場すると、その場にいた観客が一斉にカメラを構えた(画像1)。メインナンバーを歌うキャストに、若者だけでなくいい大人たちが大きな声援を送っていたのを、筆者は驚きとともに目撃している(画像2)。コンテンツの力、そして後述する“キャラ”の力は、メディア領域を超えて拡大し続けている。

画像1
画像2

2.5次元ミュージカル/舞台の特徴

「じゃあ、既存のミュージカル(ブロードウェーや劇団四季などのミュージカル)と2.5次元ミュージカルってどう違うの?」
 当然の疑問である。
 はたして、2.5次元ミュージカル/舞台を、既存のミュージカルや演劇と一線を画しているものとは何だろうか。そんな問いに対する答えを探るため、筆者は2015年から「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」を開催し、研究者や学生、関係者、一般の方々と意見を交換している。記念すべき第1回は、15年2月5日(木)の奇しくも2.5次元の日!(注:ねらってその日に設定したわけではありません、念のため)におこなわれた。日本2.5Dミュージカル協会代表理事/ネルケプランニング代表取締役松田誠氏とウェリントン・ヴィクトリア大学(ニュージーランド)のコスプレ研究者エメラルド・キング先生をお迎えし、「2.5次元ミュージカルとコスプレにおける女性の文化実践」をテーマに、お話をうかがった。松田氏は、15年は2.5次元ミュージカル/舞台の紹介の年と位置づけ、2.5Dミュージカル/舞台の詳細、2.5D協会の目的などを紹介された。一方、キング氏は、主に女性のコスプレイヤーが男性から受けるセクハラ問題、女性レイヤーが陥った自己顕示と承認/非承認問題などを話された。コスプレについては、この連載でいずれ詳しく取り上げるつもりなので今回は深く触れないが、コスプレと2.5次元ミュージカル/舞台の関係は非常に親密だということを特記するにとどめておく。これは後述する“キャラ”という要素にも密接に関わってくる。
 第2回は、2016年2月6日(土)「声、キャラ、ダンス」というテーマでおこなわれた。大妻女子大学の田中東子先生は、“キャラ”とファンに関する興味深い指摘をされ、早稲田大学演劇博物館招聘研究員の藤原麻優子先生は、既存のミュージカルと2.5Dミュージカルの違いを細かく解説された。お2人の発表内容にも言及しながら、先に掲げた問い「2.5Dミュージカルの特徴とは」を解明していこう。

“キャラ”、キャスト、コンテンツ

 キャラクターとは、一義的には創作物の登場人物のことである。しばしばキャラクターは「キャラ」と略して使用され、近年ではコンテキストによってその意味は多様化している。キャラとキャラクターに関する議論は非常に複雑である。今年のセンター試験にも出題された土井隆義の『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』(〔岩波ブックレット〕、岩波書店、2009年)に代表されるように、ある一定の個性を強調した個体(「いじられキャラ」「エロキャラ」などコミュニティーのなかでの役割分担のようなもの)がキャラと呼ばれる場合、コミュニケーション学や社会学の文脈でしばしば語られる。この文脈では「キャラがかぶる」(例えば「メガネキャラ」などメガネをかけているクール系がクラスに2人もいると、都合が悪いわけである。アニメや漫画でもその傾向は顕著だ。)や、「キャラが立つ」(個性の強さがあり、唯一絶対の個体として認識できる)などの言い回しになる。しかし、漫画の“キャラ”とキャラクターの概念の差異を丁寧に考察し定義している伊藤剛や東浩紀などが示すように、“キャラ”は単なるキャラクターの略語ではないことも、いまでは自明となっている(2)。しかし、便宜的に今回は「キャラ」は、キャラクター(登場人物)、その性質や個性という意味で使用し、論を進めていく。
 このキャラ(キャラクター)の議論にはコスプレの回で再訪するとして、2.5Dミュージカルでのキャラに話を戻して考えてみよう。前述したシンポジウムで田中は、小田切博のキャラクターの定義を引用して、「外見、性格、記号的意味(3)」がキャラクターの構成要素であるが、そのうち一つさえあれば、存在がゆらぐことはないという小田切の考え方を、キャラクターの“増幅”としてとらえていた(4)。二次創作によるパロディーはもちろん、地上波で一次作品をもとに世界観や設定を変えて創作する二次的な作品でも、キャラはキャラとしてブレない。『科学忍者隊ガッチャマン』(フジテレビ系、1972―74年)をギャグ短篇アニメにした『おはよう忍者隊ガッチャマン』(日本テレビ系列、2011―13年)や、『おそ松くん』(毎日放送系、1966―67年、フジテレビ系、1988―89年)のキャラたちが成人してニート生活を送っているという設定で、6つ子に強烈な個性を与えたパロディアニメ『おそ松さん』(2015―16年)など、二次創作手法が一つの作品として認知されている。余談だが、『妖狐×僕SS(5)』(MBSテレビ、2012年)など、コメディー風にキャラが突然“チビキャラ”としてデフォルメされたり、ねんどろいどに代表されるようにカワイくデフォルメされたフィギュアが愛好されたりと、キャラの“増幅”は無限である(果ては擬人化ならぬ“(擬)モノ化”〔人間キャラが動物になったり、モノになったり〕しても、キャラとして設定や個性があれば、キャラの自律はゆるがない)。
 2.5Dミュージカル/舞台も、キャラの“増幅”の範疇にあるなら、三次元の身体を借りた“パロディー”としてとらえることが可能だろう。まず、この“キャラ”の問題が、既存の戯曲(テキスト)の翻案ミュージカルとの重要な差異の一つである。

ブロードウェーでも2.5次元?

「いや、ブロードウェーでもアニメーションのミュージカル化があるじゃないか。ディズニーの『ライオン・キング』『リトルマーメイド』『アラジン』、マーベルの『スパイダーマン』……あれって、2.5次元じゃないの?」
 これも当然の疑問である。
 星野太は、2.5次元は、2次元/3次元という次元の位相の差異ではなく、キャラクターと観客をベースとしたときに浮上すると述べている。「二次元/三次元の相克は、厳密にはそのメディウムの次元で生じているのではなく、むしろその「キャラクター」と「俳優の身体」のあいだで生じている(6)」のだ。漫画、アニメ、ゲームなどの虚構の世界のキャラが、あたかも人格をもった存在として観客の認識にあり、目の前で展開されるキャラそっくりの俳優たちの身体に、観客はキャラを「幻視」し「二重写し」にするとき2.5次元空間という位相が生じるという(7)。
 星野の議論は、2.5次元空間を成立させる私たちのキャラに対する認識と劇場内での参加(物理的にも認知的にも)が不可欠要素であることを担保している。しかし、例えば、スパイダーマンなど、パロディーや“増幅”が多いアメコミキャラの舞台は、はたして2.5Dミュージカルといえるのだろうか。
 藤原麻優子は、ディズニーアニメやアメコミのキャラクターたちが、キャラとして成立しているにもかかわらず、なぜ日本の2.5次元舞台と異なるのかを、①再現性、②物語構造、③ミュージカルナンバー(曲)の役割の3点から分析している(8)。

①再現性
 まず藤原は、レーマン・エンゲル(9)を引用して、既存のミュージカルが原作に忠実か否かは問題ではなく、翻案者が自分の方法で表現することが大前提だとしていると強調する。これに対し、2.5Dミュージカル/舞台は、2次元の世界観をそのまま再現することに重きを置いていることを挙げる。もちろん、藤原が指摘する二項対立図式にすべての漫画、アニメ、ゲーム原作のミュージカルが当てはまるとはかぎらないが、最近の2.5Dミュージカル/舞台に、アニメキャスト(声優)の声、ビジュアル、原作のセリフ、世界観をなるべく再現しようという傾向が強いことはまちがいない。したがって、ディズニーアニメの舞台を観て、「あ、アラジンがそこにいる!」「アリエルそっくり!」という感覚はあまり実感できないだろう(『ライオン・キング』はそもそも動物がキャラクターだから忠実な再現性は不可能だ)。

②物語構造
 また、物語構造も異なる。藤原は、起承転結という日本の物語構造の典型に対して西洋には「対立―衝突―解決」という文法があるが、2.5Dには、連続上演という必ずしも一つの上演作品内で完結しないシリーズ化という特徴があることを指摘する(10)。既存のミュージカルには、必ずドラマ(「(一連の)出来事を通して描かれる人物の視点の衝突や変容の起伏(11)」)があるが、2.5Dミュージカルは、ドラマは前景にあまり出てこない。

③ミュージカルナンバー(曲)の機能
 このことは、ミュージカルナンバー(曲)の機能と密接な関係がある。既存のミュージカルでは、「歌とダンスが物語に対して一定の機能を担い、作品のテーマを有機的に描き出していく(12)」ので、ミュージカルナンバーに物語の人物の説明、心情をテーマに沿うように乗せてくる。それに対し、2.5Dミュージカルには状況説明の曲が多いとされ、限りなく非ミュージカル的だという。しかも2.5Dミュージカルは、非ミュージカルだということを自分から告白するかのように、キャラクターが突然歌い出すというミュージカルをミュージカルたらしめている文法に、キャラクター自身がツッコミを入れたり、ちゃかしたりする「自己言及性(13)」が強いという(例として、藤原はミュージカル『テニスの王子様』〔通称『テニミュ』〕で菊丸が試合途中に歌いだし、試合に負けた原因を「なんで歌っちゃったんだろう」と、歌によってスタミナがなくなったと言及している点を指摘している)。確かに、アニメや漫画原作にキャラが物語のなかで歌っている場面はないので、ミュージカルナンバーは、違和感=「キャラに合わない」はずである(余談だが、この2.5Dミュージカルはアニメにも影響を及ぼしている。アニメ『スタミュ(高校星歌劇)』〔2015年〕や、『Dance with Devils』〔通称『ダンデビ』、2015年)などでは物語中キャラが歌いだす。『ダンデビ』に至っては、ミュージカルアニメーションと銘打たれ、2016年に舞台化もされている)。
  
ミュージカル『テニスの王子様』の衝撃

 以上、主要3要素から既存のミュージカルと比較してみると、2.5Dミュージカルは、明らかに独自性をもっている。キャラ中心にドラマ、曲、ダンスさえもキャラの自律化へ従属していく。また、藤原は、既存のミュージカルからみると積極的な余白、つまり“不完全性”があること、そして派手な舞台装置があまり必要とされないことも、キャラ中心主義に寄与する要素だとしている(14)。これはミュージカル『テニスの王子様』を嚆矢とする“『テニミュ』系”2.5Dミュージカルが典型である。『テニミュ』系とは、①無名俳優の起用によるキャラ再現性の優先、②チーム男子の採用、③連載上演を特徴としている作品群と定義しよう。
『テニミュ』は2003年から現在まで続く、2.5Dミュージカルという分野のパイオニアであり、最長寿作品である。したがって、2.5Dミュージカルの原点として取り上げられる作品である(15)。『テニミュ』はアニメ化もされた漫画「テニスの王子様」(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)が原作である。絶対に無理といわれたスポーツ漫画のミュージカル化を成功させたプロデューサー片岡義朗は、読者がコマとコマの間を補完する漫画と、観客の想像力に依存する演劇との類似性を早くから指摘していたし(16)、松田誠も「脳内補完」という実に妙を得た用語で端的に指摘する(17)。集客力がある有名俳優をキャストするのではなく、一貫してあえて無名俳優を起用し、キャラの再現性を最優先させたことも、他作品と一線を画す点である。「まるで漫画から抜け出たみたい」というキャラを中心とする感覚という意味の“2.5次元”がここに結実する。しかも、2次元キャラでは味わうことができない、息づかい、汗、匂い、筋肉などを、舞台では体験できるのだ(むろん、キャラが汗をかくのは見たくないというファンもいるだろうが、汗はキャストの一生懸命さが伝わってきて、かなり感動する)。
 また、よく指摘されることだが、『テニミュ』では女性キャラクター(物語のなかでは、竜崎スミレ監督と監督の孫・竜崎桜乃は主要女性キャラクター)を排除し、「チーム男子」(イケメンだけの集団)の世界を構築したことも大きな勝因である。これは、男性のスポーツ漫画にはレギュラー以外にも対戦相手に男性キャラが多いため、同人誌でBL的な多様なカップリング創作が多発したチーム男子流行の流れの一つだった。これを逆転したのが、チーム女子化した新作ミュージカル『美少女戦士セーラームーンLa Reconquista』(2013年)と続篇『Petite Etrangere』(2014年)、『Un Nouveau Voyage』(2015年)である。『セーラームーン』のミュージカル版は、実は『テニミュ』以前、アニメ放映の翌年1993年から2005年まで上演されたロングラン作品である。しかしオール女性キャストにしたのは新作からで、男性キャラは、タキシード仮面の大和悠河はじめ、元宝塚出身が多く、ヅカファンを2.5Dのほうへ引き寄せた第一人者的2.5Dミュージカルでもある。
 そして、藤原も指摘しているように、一つの舞台で物語が完結せず、漫画やテレビアニメ連載よろしく、連載上演(ただし一つの舞台で一試合)がなされているのも『テニミュ』や『テニミュ』系作品の特徴である。同じアニメーションや漫画原作でも、ディズニーミュージカルは一つの完成した作品としてのアニメーション映画を、『スパイダーマン』などのアメコミは連載ではあるが一話完結物(一つの事件の発生と解決)をそれぞれもとにしているため、形態の相違が生じるのは必然なのだ。

余白、未完成性の美学

 舞台装置も簡素。ブロードウェーミュージカルなどの派手な演出もない。むしろ、キャラを際立たせる演出が優先されるため、完全に作り込まない「余白」こそが2.5Dミュージカル/舞台を楽しむ重要な要素である。
『テニミュ』の「空耳」がはやったのがその証左だ。「空耳」とは、まったく関係ないが、“そう聞こえる”セリフを映像に字幕としてつけ、「ニコニコ動画」などの動画投稿サイトにアップして楽しむビデオのことだ。キャストの滑舌の悪さ(つまり未完成なミュージカル俳優)にツッコミを入れ、ファンたちが楽しむわけなのだ。また、セリフを噛んだり、間違えたり(「カムヒ」=セリフを噛む日と呼ぶらしい)、ウィッグがずれるなどのアクシデントが起こったりと、一回性の体験は実に「おいしい」。観客たちは、ここぞとばかりに「ツイッター」やブログで情報発信し、楽しむのだ。未完成だからこそ、観客がツッコミを入れる余地があり、そのことによってパフォーマンスに参加できる。
 ストレートプレイでも、楽屋ネタやアドリブを入れたり舞台裏を披露したりといったお笑いショー的な要素があると、観客は一挙に引き込まれていく。キャラとしてキャラの個性や設定を逸脱しない程度に笑いを作っていくのは、二次創作的な演出といえるだろう。
 こうした“未完成”性は、決して既存のミュージカルや舞台に対しての優劣で語るような要素ではない。一つの特徴なのだ。観客参加型の文化が主流になってきている現在、2.5Dミュージカル/舞台の心地よい未完成こそが、人を引き付けてやまないのである。


(1)アニメーションとアニメの差異については、津堅信之『日本のアニメは何がすごいのか――世界が惹かれた理由』(〔祥伝社新書〕、祥伝社、2014年)を参照。
(2)伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年、東浩紀編著『網状言論F改――ポストモダン、オタク、セクシュアリティ』青土社、2003年
(3)小田切博『キャラクターとは何か』(ちくま新書)、筑摩書房、2010年、120ページ
(4)田中東子「次元を超える愛――ファンたちは2.5次元キャラクターをどう愛好しているのか?」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(5)藤原ここあの同名漫画(2009―14年)が原作のアニメ。アニメの場合は声が統一されていることもキャラの自律性を担保する。漫画という視覚情報だけでもキャラの普通バージョンとチビバージョンで、読者の認識に混乱が生じることはほぼない。
(6)星野太「キャラクターの召喚――二・五次元というカーニヴァル」、「特集 2.5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、62ページ
(7)同論文65ページ
(8)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」、前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、68―75ページ、藤原麻優子「Does it Work?――2.5次元ミュージカルとアダプテーション」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(9)Lehman Engel, The Making of a Musical: Creating Songs for the Stage, Lomelight, 1986, p.98.
(10)前掲「Does it Work?」
(11)前掲「「なんで歌っちゃったんだろう?」」69ページ
(12)同論文70ページ
(13)同論文70ページ
(14)前掲「Does it Work?」
(15)『テニミュ』以前の漫画や、アニメ原作ミュージカル/舞台、2.5Dミュージカル/舞台の系統別リストについては前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号巻末のやまだないと/上田麻由子+PORCh「2.5次元ステージキーワードガイド」(ただし2014年まで)を、キャストを含めた詳細は「特集 2.5次元へようこそ!」「ダ・ヴィンチ」2016年3月号(KADOKAWA、16―61ページ)を参照のこと。
(16)片岡義朗「アニメミュージカルの生みの親&「テニミュ」立役者 片岡義朗インタビューinニコニコミュージカル」「オトメコンティニュー」第3号、太田出版、2010年、81―91ページ
(17)松田誠「日本2.5次元ミュージカル協会代表理事松田誠インタビュー」、前掲「ダ・ヴィンチ」2016年3月号、61ページ

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第1回 2.5次元文化とは何か?

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 いま、2.5次元が熱い。

 2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
 いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
 そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
 2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
 しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
 では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
 テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
 MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
 そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
 このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
 また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
 そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
 紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。

 また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」

*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。


(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。