第12回 『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』を読む

 昨年、川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書、新潮社)を読んでいたが、これについて一度も書く機会がなかったので、今回はこれについて触れてみたい。
  帯に「二十世紀最大の巨匠は、果たしてどちらなのか!?」とあるように、本書は往年のベルリン・フィルの楽団員へのインタビューをもとに、彼らがどちらのシェフを高く評価していたかを検証するものである。結論を先に言うと、この大前提そのものにちょっと無理がある。なぜなら、フルトヴェングラーとカラヤンのどちらが偉大かは言うまでもないことだ。勝負はついている。この本はフルトヴェングラー、カラヤンの双方の時代を体験した元ティンパニ奏者テーリヒェンが著した『フルトヴェングラーかカラヤンか』(高辻知義訳、音楽之友社)の拡大版を狙ったのだろう。しかし、あの本は、カラヤンが生きている間にフルトヴェングラーとカラヤンの内情を知る人物が出版したからこそ意味があったのである。まあ、簡単に言うと、「われわれのようにフルトヴェングラーを体験した者にとってはね、あんた(カラヤン)よりもフルトヴェングラーの方がずっと偉いんだよ」と、こんな感じである。
  このことをカラヤンは百も承知だっただろう。だが、それをはっきりと突き付けられるのは、カラヤンにとっては決して触れられたくない話題だったに違いない。でも、何人かの楽団員が語っているように、彼らは指揮者の要求に応えることが最大の任務である。それに、フルトヴェングラーが偉大だと感じていたところで、その時代が永遠に続くわけでもない。フルトヴェングラーが世を去ってしまえば、それで終わりなのだ。聴き手は死者を懐かしもうが奉ろうが勝手だが、現場の人間はそうはいかない。
  したがって、本書で著者が無理に白黒をはっきりつけさせようとしているのも、いささか強引な印象を受ける。それに、フルトヴェングラーを知らない楽団員に、フルトヴェングラーとカラヤンに対する評価の違いを引き出そうとするのも適切ではないだろう。それ以上に、証言の間にはさまっている著者の素朴な疑問や驚き、あるいは推測などが、的を射ていなくていささか読みづらい部分もある。
  とはいえ、優劣や白黒を題材にしたのではなく、フルトヴェングラーとカラヤン時代の楽団員の貴重な証言集として読むならば、それはそれで十分に興味深いものだ。少なくとも、この2人の指揮者のどちらかに興味のある人には、読んで損はない。
  本の基本的な作りが以上のような内容なので仕方がないが、私はフルトヴェングラー・ファンのひとりとしてもっと聞いてほしいことがたくさんあった。特に戦前から在籍していたバスティアーンやハルトマンらだ。彼らは戦時中の困難な時代、どんな思いで演奏をしていたのか。それに彼らはきっとフルトヴェングラーのベルリン復帰演奏会にも出演していただろう。その最初のリハーサル、楽団員はどんな気持ちでフルトヴェングラーを迎えたのか。そして指揮者が最初に発した言葉は何だったのか。演奏会当日の会場の雰囲気はどのようなものだったか。あるいは、映像が残っているシューベルトの『未完成』はどこで収録したのか、など。
  テーリヒェンは先ほどあげた著作『フルトヴェングラーかカラヤンか』のなかで、カラヤンの目をつぶって指揮をする方法がとてもやりにくく感じたので、カラヤンと一部の楽団員とで話し合いが持たれ、「ある種の折り合いをつけた」と記している。私は本書にあるテーリヒェンの「カラヤンの音楽には感情がない」という過激な発言よりも、この「折り合い」がどんなものだったのかが知りたかった。でも、それはいまとなってはもはや尋ねることができない。テーリヒェンは昨年4月に他界している。

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