第15回 イダ・ヘンデルの存在感

 東京交響楽団のある奏者と話をした際、私が「最近共演したソリストで印象に残っている人はいますか?」と尋ねたら、その人は即座に「イダ・ヘンデル!」と答えていた。「もう80歳を超えているのに着ている物はぜんぜん年寄りくさくないし、ものすごく高さのあるハイ・ヒールをはいていた。オーラのようなものを発していたし、出てくる音のパワーにもびっくりした」
  このときヘンデルはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』を弾いたが、これは私も客席で聴いた。席が若干良くはなかったが、それでも誰の表現にも似ていない、全く独特のものであることは確認できた。
  そのヘンデルが2008年に来日したときにスタジオで収録したアルバム『魂のシャコンヌ』(RCA BVCC-31116)が発売された。解説にもあるように、ヘンデルは録音の際には決してつぎはぎはしないそうだ。つまり、ダメであれば小品なら最初から、ソナタであれば楽章単位で弾き直すというわけだ。確かにこのCDを聴いていると、必要以上に細部のミスにこだわったような雰囲気は感じられない。というよりも、世の多くのディレクターや演奏者が聴けば「よくもこれだけほころびの多い演奏を平気で出せるものだ」と言うに違いない。
  私はそんなに頻繁に録音現場に立ち会ったわけではないが、そこでは往々にして「そんなに細かいところにこだわらなくても」と思うほどわずかなミスやノイズなどを懸命に排除しようという作業がおこなわれている。それに、小節単位、フレーズ単位で細かく分けて収録しているのもときどき目撃しているし、実際、そうした話はよく耳にもする。
  確かに商品であればミスや種々のノイズは許されるべきものではないだろう。しかし、CDを聴く私たちの立場からすれば、そうした細かなほころびよりも、音楽を感じさせてくれない音が多すぎることの方がよほど気になる。
  ヘンデルの演奏に話を軌道修正しよう。高齢の録音ために確かに歯切れが悪いところも散見される。しかし、この独特の歌い回しはヘンデルならではのものだ。たとえば、ブラームスの『ハンガリー舞曲第1番』、短いながらも無二の個性がしっかりと発揮されている。サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』も即興性に溢れ、ジプシーらしい雰囲気も満点である。モーツァルトのソナタも、こんなに遅くて濃厚な味わいは珍しい。また、無伴奏のラロ、バッハも逸品である。
  聴き終わって、久しぶりに「音楽を聴いた」と感じた。ヘンデルは今年も来日が予定されている。最近の調子を持続しているとすれば、聴きに行った方がいいだろう。ただ、こうした高齢の演奏者は、あるときガクッと調子が落ちることもある。ローラ・ボベスコの最後の来日公演がそうだった。でも、仮にヘンデルがそうなったとしても、こればかりは責めるわけにはいかない。
  いずれにせよ、この年まで日本に来てくれて、しかもスタジオ録音までしてくれたのだから、それだけでも十分に感謝しなければならない。

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第14回 予想以上だったパイクのベートーヴェン

 ある雑誌の「2008年度ベストCD5選」のなかに、私はためらわずクン=ウー・パイク(1946年、ソウル生まれ)のベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ全集』(デッカ UCCD-3983~91)をあげた。全集としては近年最も注目すべきものだと思ったからだ。その彼が5年ぶりに来日し、ベートーヴェンを弾くのを知った。しかし、あいにく体調が思わしくなく、行くのをいささか躊躇したが、これは聴いて大正解だった。
  4月3日、東京・四谷の紀尾井ホール、曲目は順に『第30番』『第14番「月光」』、休憩後は『第19番』『第23番「熱情」』だった。『第30番』が始まったとき、CDで聴くような冴えが不足していると感じた。一瞬、「しまった」と思ったが、その次の『月光』はそんな心配を完全に打ち消してしまった。
 『第30番』が終わってパイクは前傾姿勢のまま微動だにしなかった。しばし会場は沈黙に支配されたが、むろん、誰も拍手をする者はいない。やがて両手がゆっくりと鍵盤の上に置かれ、ひっそりとした弱音で『月光』が始まった。ここで私は息を飲んだ。何という暗く悲痛な調べだろうか! 深い深い暗闇の奥底からふつふつとわき上がるような音。こんな『月光』はかつて耳にしたことはない。むろん、CDでも聴いてはいたが、CDにはさすがにここまでの響きは入っていない。柔らかく明滅する第2楽章も見事だった。そして、次の第3楽章は心の中に燃えさかる情熱の炎である。物理的に彼よりも大きな音を出せるピアニストは他にいくらでもいるような気がする。だが、このパイクの音は一つひとつが実に濃密だ。極めて心が強い音と言ってもいいだろう。
  休憩後の『第19番』、これは規模からいっても後半の前口上のようなものだった。最初の『第30番』とは違い、実に渋く落ち着いた音色で歌ってくれた。次はこの日の白眉、『熱情』である。パイクは前半と同じく、『第19番』が終わっても鍵盤の方を向いたままで、立ち上がろうともしなかった。やがて、第1楽章の主題が『月光』のときと同じように、暗くうごめくように奏される。爆発する直前の短い間、ここでも再び息を飲まざるをえなかった。続くフォルテの牙をむくようなすさまじい響き、これは『月光』の第3楽章以上である。第2楽章もよかったはずだが、第3楽章の印象があまりにも強烈なために思い出すことができない。いずれにせよ、この第3楽章は近年聴いたベートーヴェンのなかでも最も忘れがたいものになった。荒れ狂うような音の連続ではあったが、その音が聴き手の心にガツンと太い杭を打つように、体全体に響き渡るのである。その昔、ロックのヒット曲で「黒い炎」というのがあったが、この『熱情』の第3楽章はまさしくそんな感じだった。
  すごかったと感動したが、また一抹の不安がよぎった。まさか、彼がたとえば初期のソナタの一部をアンコールで弾いたりしないだろうかと。もしもパイクがそうしたら、この『熱情』の後味は著しく薄まってしまう。けれど、彼はアンコールを1曲も弾かなかった。これには大きな共感と安堵を抱いた。
  私がパイクを聴いたのはショパンの『ピアノ協奏曲第1番』『第2番』(デッカ UCDD-1095~6)だった。この演奏については拙著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』(青弓社)にも記したが、これはベートーヴェンとは対照的な、驚くほど柔らかく優雅な演奏だった。このショパンとベートーヴェンが同一人物とは、ちょっと信じられない。この人の今後の動向は、もっと注視されるべきだと思う。

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思索し続けるということ――『SF映画とヒューマニティ――サイボーグの腑』を書いて

浅見克彦

  書き物にタイトルをつけようとして、あーでもないこーでもないといろいろ考えていると、しばしば出口のない袋小路に入り込んでしまう。だが、今回の「サイボーグの腑」という副題は、構想の「詰め将棋」に疲れてベッドに体を横たえたときに、何げなく湧き出てきた。恐らくは、デヴィッド・クローネンバーグの世界に接しながら思考を紡ぎ出そうとしていたことが影響したのだろう。とはいえ、このタイトルに魅力を覚えたのは、それがサイボーグ表象に頻出する「ヒューマニティ」の色合いを、微妙に表していたからだ。サイボーグ表象に織り込まれた人間性は、メタリックでエレクトロニックなその身体に「腑」がおさまっているような矛盾を抱えていると同時に、その奥底には私たちが嫌悪する内臓と同じように、「ヒューマニティ」を否定する内実が潜んでもいる。しかも「腑」は、どれほど徹底して否定しようとしても、人間が捨てさることができない存在の基本でもある。
 つまり、この少々異様な副題が意味するところは、サイボーグ表象を通じて人間の現在を考えるということにほかならない。サイボーグ表象には現代文化を生きる人間存在の実情が投影されている、という理解が本書の骨格をなしているということだ。実を言えば、こうした理解の枠組みそのものは、決して目新しいものではない。ジェームズ・G・バラードはフランス語版『クラッシュ』に寄せた序文で、SFが描き出す世界には現代人の心の状態が映し出されていると書いていたし、室井尚の『情報宇宙論』(岩波書店)にも同様の主旨の分析を見ることができる。そして、押井守が『イノセンス 創作ノート』(徳間書店スタジオジブリ事業本部)で提出している「人間はなぜ人形に惹かれるのか」「人間にとって他者とは何か」という問いも、同じ枠組みのなかに位置づけられるものだ。その意味では、この書物は少なくとも20年以上も前から問われ続けてきた古い問題を扱っていると言うべきだろう。ただし、そうした自己の鏡像を描き出す物語やサイボーグ存在を、人間がなぜ繰り返し生み出すのか、そしてそうした表象のディスクールが人間をどのような自己意識に導くのかという問いには、これまで十分な答えが出されてこなかった。この本は、この痒いところを掻いてみたい、という主旨の書き物だと言っていい。問題が古かろうと新鮮味がなかろうと、十分な答えが出ていなければ思考し、文字を連ねていく。書き手なる者、とりわけ理論に携わる者は、こうした課題に背を向けてはならないと思う。
  最後にもう一つ。今回は、自分のこれまでの書き物に色気がなかったことを反省し、文字どおり色彩のイメージ世界が立ち上がるような文章を目指した。とりわけ、映像作品を批評するさいにこの点に心を配ったつもりだ。首尾のほどは読者の評価を待つしかないが、文章が映像の迫力を伝えきれていない個所があることは認めなければなるまい。だが、絵と文字というのは、互いの緊張関係のなかで独特の匂いを発するということもある。書き物が映像と相似的になることではなく、映像に寄り添いながらもそれとは違う変異体を生み出すことが大事なのではないだろうか。もちろん、あえてこの緊張の強度を高めながら、映像への「不可能」な介入を仕掛けることは、書き手が諦めてはならない刺激的な冒険なのだけれども。

〈人々の暮らし〉へのこだわり――『戦時グラフ雑誌の宣伝戦――十五年戦争下の「日本」イメージ』を書いて

井上祐子

  昨今の経済状況は〈100年に1度の危機〉と言われている。前回の経済危機(世界恐慌)はちょうど80年前の1929年、アメリカの株価の大暴落に始まり、今回同様急速に世界各国に波及していった。1930年代は世界各国が恐慌から抜け出そうともがくなかでファシズム国家が台頭して国際体制を揺るがし、国際政治的にも危機に陥る時代であり、最終的には第二次世界大戦へ突入していく。日本もまた例外ではなく、その渦中にあった。本書はその時代の日本の社会、戦争、そして日本とアジアの人々の暮らしを写して海外に「日本」を伝えていたグラフ雑誌を紹介したものである。
  私は15年前に戦時下の社会について勉強したいと思って大学院に入ったが、そのときにはこのような研究をすることになろうとは予想もしていなかった。研究分野を決めかねている私に、「広告とかどう?」と勧めてくださったのは、当時の指導教授であり、以来ずっとお世話になっている恩師赤澤史朗先生である。純粋芸術よりも大衆文化的なものの方が好きな私は、「それはいいかも」と思い、飛び付いた。それから戦時下の広告やポスター、漫画などいろいろな印刷メディアを眺める日々が始まる。グラフ雑誌についても国内向けの「アサヒグラフ」「写真週報」「同盟グラフ」などには一通り目を通し、海外向けの「FRONT」を含めて、論文にも少し書いた。
  拙稿に目を留めてくださった青弓社から当初提案された企画は『「NIPPON」と「FRONT」』というタイトルで、2002年から復刻版の刊行が始まった「NIPPON」を題材にして、「FRONT」と比較考察しながらグラフ雑誌が展開した対外宣伝について論じるというものだった。「アサヒグラフ海外版」の存在を知ったのがいつだったか覚えていないが、私はそこに「アサヒグラフ海外版」も入れ、むしろ「アサヒグラフ海外版」を軸に書きたいと申し出た。青弓社編集部の矢野未知生氏には快諾をいただき、「アサヒグラフ海外版」を引き継いでアジア・太平洋戦争期に出される「太陽」、ジャワ現地で出されていた「ジャワ・バルー」、毎日新聞社が発行していた「SAKURA」も入れて、新聞社のグラフ雑誌を軸として、歴史的経緯を踏まえながら各グラフ雑誌を比較考察していくという本書のスタイルが決まった。
  新聞社、そのなかでも朝日新聞社のグラフ雑誌を軸にした理由は、論文風に硬く言えば、「FRONT」や「NIPPON」とは異なる特質をもち、〈宣伝〉と〈記録〉の間で揺れ動く新聞社のグラフ雑誌を取り上げることで戦時下のグラフ雑誌がもっていた可能性と問題性に関する考察を深めたかったからということになるだろう。しかし、これはいささか格好よすぎる答えで、ザックバランに本音を言えば、スマートでおしゃれな「FRONT」や「NIPPON」よりも、社会や生活の〈記録〉にも力を注ぎ、日本とアジアのさまざまな人々の暮らしを取り上げた泥臭い「アサヒグラフ海外版」の方が私の性に合っていたというのがいちばん大きな理由である。
  思い出話で恐縮だが、私が歴史に興味をもちはじめたのは小学校6年生のときである。当時の担任の先生は、教育熱心な青年教師だった。歴史の宿題は年表の作成だったが、その年表が普通とは少し違っていた。普通の年表のように大きな事件や政治や経済、外交上の出来事を書く欄もあったのだが、それに加えて「農民など人々の暮らし」という欄があって、その欄の方がむしろ大きかった。そこを埋めるには教科書だけでは足りず、参考書や百科事典を調べては書き込んでいた。ちなみにテストも普通のテストではなく、「~について述べよ」という記術式で、「大変よろしい」という二重丸の評価をいただくのがその頃の私の密かな喜びだった。先生は、大きな歴史の流れの背後にある一般の人々の暮らしを見つめることが大切で、両者を結びつけて理解していくことが歴史を学ぶということだと教えたかったのだろう。〈歴史〉といえば〈人々の暮らし〉と思ってしまう習い性は、このときに形成されたのだと思う。
  このようなわけで〈人々の暮らし〉がふんだんに掲載されている朝日新聞社のグラフ雑誌を見ることは、私には興味深い作業だった。しかし、その後が大変だった。内容を追いかけるばかりでは論にはならないのだが、内容に興味をそそられるあまりその紹介に傾斜して、論を組み立てることから離れていく。書いては消し、消しては考え、問題意識を確認し、軌道修正を繰り返した。
  試行錯誤のなかでようやく書き上げた拙い著作ではあるが、図版は豊富に入れることができたので、戦時下の社会を身近に感じていただけるのではないかと思っている。歴史に興味をおもちの方にはもちろん読んでみていただきたいし、「歴史はあんまり……」と思っている方にも一度当時の日本やアジアの人々の姿をのぞいてみていただけたらうれしい。本書がみなさんと戦時下のグラフ雑誌、そしてそのなかに写し出された人々とを結ぶメディア(媒介物)になれば幸いである。

「食」から広がる世界――『もんじゃの社会史――東京・月島の近・現代の変容』を書いて

武田尚子

 「もんじゃ」を切り口に、「食を考えるおもしろさ」を味わっていただきたいと思い、この本を書いた。私たちの頭のなかのグルメ・リストをチェックしてみると、なぜか地名とフードが一緒になってインプットされている場合が多いことに気がつく。月島もんじゃをはじめ、仙台の牛タン、宇都宮の餃子、尾道ラーメンなど、全国レベルで知られているもの、地方レベルで浸透しているものなどさまざまだが、たぶん誰でもすぐに2、3は名前を挙げることができるだろう。ローカルな地名がつくと特別の味わいであるように思われ、食欲をそそられる。
  このようなタイプのローカル・フードは、かつて高度成長期に生協などによって流通ルートが開かれて、地方の農産物が都市の消費者に直接届けられるようになった産直品タイプのローカル・フードとは異なる性格のものである。また、おみやげとして持ち帰る地方名産の郷土菓子とも異なるものである。グルメの時代に新たに登場してきたのは、ある程度の規模の都市で、そこの飲食店に腰をおろして味覚を楽しむローカル・フードである。供される空間やローカルな雰囲気もエンジョイする大事な要素である。だから、アクセスが不便な田舎のローカル・フードではなく、アクセスがいい土地のローカル・フードが有名になりやすい。グルメの時代に登場してきたローカル・フードは、利便性がいい都市におけるローカル・フードとしてプロデュースされたもので、外部から集客するための「媒体(メディア)」として、効果を発揮している。
  「ローカル」と「外部」を媒介しているローカル・フードは、詳しく考えてみるに値する味わい深い食品である。「月島もんじゃ」もこのようなローカル・フードの1つである。単純に昔ながらのローカル色を維持しているだけでは、メジャーにはなりにくい。適度にローカルなテイストを残しながら、外部から来た人をキャッチする何か「旨み」が必要とされる。つまり、ローカル・フードは、もともとその地域に根ざす何か由来があったわけだが、オリジナルなテイストは徐々に変化し、異なる「旨み」が加わり、メジャー化にいたるという、変化の過程があったと考えられる。この本で描きたかったのはその変化の過程であった。
  現代社会は、それぞれの人の好みに合わせた消費が楽しめる高度消費社会である。「食」に関する情報量は増え、流通ルートも多様化し、「食」の「媒介」機能は高まっている。「食」は、高度消費/レジャー社会の重要なアイテムの1つとなっていて、「食」に対する現代人の関心をじょうずに利用することが重要になっている。「食」の「媒介」機能の高まりは、情報・商品の流通、交通機関など社会的基盤の整備、ツーリズム/ビジネスによる人の移動の活発化など、マクロ社会の変化によって促進されている。私たち個々人は、このような環境のマクロ社会のなかで、「食」について恒常的に刺激されつづけている消費者であり、情報を取捨選択して、自分なりの食の楽しみの世界を創り出しているフード・ハンターでもある。「味わう」ことが、生活の楽しみを増す時代に私たちは生きている。味わうことによって、身体にエネルギーが満ち、活力が充実する。自分をとりまく社会についても関心が高まる。一石ン鳥の「食」の楽しさを堪能するメニューはいろいろある。『もんじゃの社会史』を読んだ方々の楽しみの世界がひろがるとうれしい。

ジャンケレヴィッチファン倍増のために――『哲学教師ジャンケレヴィッチ』を訳して

原 章二

  ジャンケレヴィッチのファンは欧米ばかりか日本にも結構たくさんいる。だからその著作も15冊以上邦訳されている。しかし、この希有な哲学者・音楽家・音楽学者の人となり、その哲学と音楽観の相貌を身近から全体的に語ったもの、特にフランスでジャンケレヴィッチがどのように受け取られていたかをフランス人が語ったもの、しかもできるだけ哲学用語を使わずにその本質を語ったものは、これまで日本語で読むことができなかった。
 その意味で、どうみても不肖の弟子にすぎない私にとって、この翻訳はこの歳になってでもやるしかなかった。考えてみれば、師事というと大げさで、単に修士論文と博士論文を見てもらったうちの一人にすぎないのだが、ともあれその一員となったときの先生の歳に自分が近づいている。往事茫々とはいうが、先生のことは昨日のように、その華やいだ顔、話し方、口調、そのトーンまでいきいきと蘇る。こちらがまだ20代の若造で、なんでも吸収するだけの柔軟性をもっていたから当然だが、それにしても誰にとっても、この本のなかでも語られているように、先生の存在は鮮烈なまでに印象的だ。
 そんなわけで勇んで翻訳にとりかかった。本を手にした方はおわかりだと思うが、3分の1くらいのところまでは文字どおり先生の人となりを語っているので、懐かしく思い出しながら、また私と同世代で同じゼミナールに通っていた著者の文なので訳しやすかった。その余勢をかって、ほぼ半分まではよかった。しかし、そこからが大変だった。理由は私の怠惰もあるとはいえ、もう少しまともな理由もある。
 著者が「はじめに──感謝のしるしとしての不実」で明らかにしているように、ジャンケレヴィッチの著作からの引用と、著者がとった講義のノート・メモ(これがそもそもジャンケレヴィッチの実際に述べたことなのか、先生の話を聞きながら著者が思いついたことなのかがわからない)と、そして著者の地の文とが、入り乱れて区別のしようがないのだ。
  むろん、フランス語の原文では、前二者は引用の体裁をとっていて二重鍵括弧でくくられている(ただし、フランス語の本に通例の校正ミスがよくあって括弧の具合がよくわからないところもある)。それでもフランス語としてはまあ読めるのだが、そのまま日本語に訳すと文章の続き具合がどうもうまくいかない。
 これにはほんとうに難渋し、往生した。結局、予想外の年月がかかってしまった。どのように先の難所をクリアしたかといえば、著者が「はじめに」で述べていることを訳者もある程度おこなったのだ。つまり、訳出の過程で、自分も著者と同じ世代で、しかも同じころ同じ教室で講義を受けていたからには、自分がこの本を書いているつもりになって、そこから勢いをもらったのだ。たぶん、それは間違いではなかっただろうと思っている。ともかく、この本のおかげで先生の存在をふたたび身近に感じ、自分がいかに影響されていたかを思い知った。日本のジャンケレヴィッチのファンが少しでも増えて、若い人々をも巻き込んで、難しそうな硬い言葉をふりまわして観念遊戯に耽って学問しているつもりのお偉方が、おのれのカルタの城の心もとなさに少しは愕然とする契機になってくれればいいと思う。それは日本が変わることでもあるだろう。
 ジャンケレヴィッチが言うとおり、この本のなかでも繰り返されているとおり、「誰々がどう言った。だからどうしたというのだ。人生はそんなことのためにあるのではない」。
  まったくこの〈現代思想〉とやらの周辺をめぐって精妙な思索を展開しているつもりのお歴々の空疎さに対する一服の清涼剤としての役割だけは、この本が果たすことができるだろう。ただし、後半はゆっくり読まないとかなり面倒な記述もある。訳者としてはわかりやすく訳したつもりだが、2、3回読んでわからなかったら気にせずに、そこにジャンケレヴィッチの逆説が隠れているのだろう、著者リュブリナもよく消化せず、訳者もうまく訳せなかったのだろう、くらいに思って先に進み、本を閉じてそれで終わりにせずにジャンケレヴィッチのつぎの本に進んでくれたらありがたい。つぎにどれを読むかは「訳者あとがき」に書いておいた。
  最後になるが、著者の略歴はいろいろ調べてみたが、原書に記載されていることしかわからない。いかにもジャンケレヴィッチの弟子らしい振る舞いだ。そこで訳者も同じように年齢を記さなかった。リュブリナも書いているとおり、歳の上下など関係ない。若くても年寄りくさい連中はたくさんいる。歳をとってもジャンケレヴィッチのように若い人間もたくさんいる。

第13回 感動の力作『大指揮者カール・シューリヒト 生涯と芸術』

 シューリヒトに関する国内での初めてのまとまった文献が発売された。それはミシェル・シェヴィ『大指揮者カール・シューリヒト――生涯と芸術』(扇田慎平/塚本由理子/佐藤正樹訳、アルファベータ)である。
  シューリヒトについて、これまでは略歴程度のことしか知られていなかった。ダンツィヒに生まれるが、父はすでに他界、その後家計を支えた伯父も破産するなど、非常に厳しい生活を余儀なくされた。そんななかでも彼は音楽を生きる糧とし、才能を育んだ。本の虫と自負するほど読書をし、堪能な語学は8カ国語もあった。一時は作曲家になるか指揮者になるかで悩むが、「指揮は作曲と同等の創造的行為」と判断、指揮者への道を歩み始める。しかし、そんなシューリヒトも2度の戦争で大きな打撃を受けた。彼自身はゲシュタポにおびえ、また彼が育てたヴィースバーデンの人々も本拠地も失われた。さらに、私生活では3度も結婚に失敗している。だが、戦後はアンセルメの手助けによってスイスに住み、徐々にその活動を広げていく。そのスイスでシューリヒトはアンセルメ、フルトヴェングラーと親しく交わっていたことはあまり知られていない。
  本書はシューリヒトの生涯をたどりながら、多くの証言や批評などを引用して、彼の人間像や芸術を浮き彫りにしようとしたものである。その調査は実に詳細でありながら、重箱の隅をつつきすぎることなく、明解で変化に富み、読み手を飽きさせない。また、こうした評伝はえてしてレコードの情報が手薄になりがちだが、その点に関しても完璧に調査し(日本のキングインターナショナルが発売したシューリヒトの作品集にも言及している)、要所にそうした記述を取り込んでいる。しかも、未発表の録音についても多数触れており、これらがマニア心をくすぐることも間違いない。
  出世欲よりも音楽への愛を大切にしたシューリヒト。風邪をひきやすく、関節の持病を持っていた彼は、特に晩年は両腕を支えられながら舞台に登場したこともあったようだ。こうした彼の気質や健康がシューリヒトを華やかな舞台から遠ざけた一因にもなったが、シューリヒトの功績は明らかだった。本書に登場する多くの批評を読むと、誰もが彼の一途な姿勢、そしてその音楽の素晴らしさを心から賞賛していることが痛いほど伝わってくる。
  いつも気さくでおだやかなシューリヒトだが、彼はあてがわれた条件をいつもにこやかに受け入れたわけではなかった。むしろ彼は自分の要求が認められないときは、一切手を出そうとはしなかった。特に合唱や独唱を要するような大所帯の上演のときがそうだった。彼はオペラとも無縁と思われていたが、条件さえ整えば喜んで指揮をした。R・シュトラウスの『サロメ』やウェーバーの『魔弾の射手』などを戦後に手がけたようで、モーツァルトの『フィガロの結婚』も指揮したという記述がある(この『フィガロ』は録音が残っていないものだろうか?)。
  もうひとつ重要なのは、彼が自分のパート譜を使用していたことだ。シューリヒトはスコアに細かく書き込みをした。このスコアからパート譜にその指示を転記するのだが、この重要な作業を誰がやったか、それは本書を読んで確かめていただきたい。
  その他、弟子のアタウルフォ・アルヘンタやガブリエル・サーブのこと、あるいは1968年の東京オリンピックのときにシューリヒトが来日する可能性があったことなど(もしも彼が日本に来たのならば、この語学の天才はきっと日本語を勉強しただろう)、これまで知られていなかったことが山ほど書かれている。
  訳文はこなれていて非常に読みやすい。批評の多くは文学的・抽象的な表現が多いので、訳出の際の苦労が多かったと察せられる。また、人名の表記も最も一般的なものに準じており、この点に関しても全く問題はない。原書でも触れているとおり、各国の批評は語学に堪能だったシューリヒトにあやかって全部原語で記されているという。この批評の訳文と本文との統一も、さぞかし難題だっただろう。また、邦訳では削除されがちな人名索引(しかも欧文も併記)がついているのもありがたい。
  読み終わっての感想、これはひとりの指揮者の評伝というよりも、偉大な音楽作品から受けた感動にも等しい、そう思った。シューリヒトのファンはむろんのこと、フルトヴェングラー・ファンにも強くお勧めする。あるいは、戦前戦後のヨーロッパの音楽界の動向について知るためにも、非常に有意義な一冊である。

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第12回 『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』を読む

 昨年、川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書、新潮社)を読んでいたが、これについて一度も書く機会がなかったので、今回はこれについて触れてみたい。
  帯に「二十世紀最大の巨匠は、果たしてどちらなのか!?」とあるように、本書は往年のベルリン・フィルの楽団員へのインタビューをもとに、彼らがどちらのシェフを高く評価していたかを検証するものである。結論を先に言うと、この大前提そのものにちょっと無理がある。なぜなら、フルトヴェングラーとカラヤンのどちらが偉大かは言うまでもないことだ。勝負はついている。この本はフルトヴェングラー、カラヤンの双方の時代を体験した元ティンパニ奏者テーリヒェンが著した『フルトヴェングラーかカラヤンか』(高辻知義訳、音楽之友社)の拡大版を狙ったのだろう。しかし、あの本は、カラヤンが生きている間にフルトヴェングラーとカラヤンの内情を知る人物が出版したからこそ意味があったのである。まあ、簡単に言うと、「われわれのようにフルトヴェングラーを体験した者にとってはね、あんた(カラヤン)よりもフルトヴェングラーの方がずっと偉いんだよ」と、こんな感じである。
  このことをカラヤンは百も承知だっただろう。だが、それをはっきりと突き付けられるのは、カラヤンにとっては決して触れられたくない話題だったに違いない。でも、何人かの楽団員が語っているように、彼らは指揮者の要求に応えることが最大の任務である。それに、フルトヴェングラーが偉大だと感じていたところで、その時代が永遠に続くわけでもない。フルトヴェングラーが世を去ってしまえば、それで終わりなのだ。聴き手は死者を懐かしもうが奉ろうが勝手だが、現場の人間はそうはいかない。
  したがって、本書で著者が無理に白黒をはっきりつけさせようとしているのも、いささか強引な印象を受ける。それに、フルトヴェングラーを知らない楽団員に、フルトヴェングラーとカラヤンに対する評価の違いを引き出そうとするのも適切ではないだろう。それ以上に、証言の間にはさまっている著者の素朴な疑問や驚き、あるいは推測などが、的を射ていなくていささか読みづらい部分もある。
  とはいえ、優劣や白黒を題材にしたのではなく、フルトヴェングラーとカラヤン時代の楽団員の貴重な証言集として読むならば、それはそれで十分に興味深いものだ。少なくとも、この2人の指揮者のどちらかに興味のある人には、読んで損はない。
  本の基本的な作りが以上のような内容なので仕方がないが、私はフルトヴェングラー・ファンのひとりとしてもっと聞いてほしいことがたくさんあった。特に戦前から在籍していたバスティアーンやハルトマンらだ。彼らは戦時中の困難な時代、どんな思いで演奏をしていたのか。それに彼らはきっとフルトヴェングラーのベルリン復帰演奏会にも出演していただろう。その最初のリハーサル、楽団員はどんな気持ちでフルトヴェングラーを迎えたのか。そして指揮者が最初に発した言葉は何だったのか。演奏会当日の会場の雰囲気はどのようなものだったか。あるいは、映像が残っているシューベルトの『未完成』はどこで収録したのか、など。
  テーリヒェンは先ほどあげた著作『フルトヴェングラーかカラヤンか』のなかで、カラヤンの目をつぶって指揮をする方法がとてもやりにくく感じたので、カラヤンと一部の楽団員とで話し合いが持たれ、「ある種の折り合いをつけた」と記している。私は本書にあるテーリヒェンの「カラヤンの音楽には感情がない」という過激な発言よりも、この「折り合い」がどんなものだったのかが知りたかった。でも、それはいまとなってはもはや尋ねることができない。テーリヒェンは昨年4月に他界している。

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第11回 ナージャ健在!!!

 ぶったまげた! その言葉がいちばん似合う。2月7日、東京交響楽団の定期演奏会に出演したナージャ・サレルノ=ソネンバーグである。弾いたのはブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』、指揮は秋山和慶。
  ともかく、こんな破天荒なブルッフは全く初めてだ。第1楽章の冒頭、オーケストラの短い序奏のあと、ヴァイオリンが聴こえるかいなかというほどの最弱音で始まる。しかも、始まったばかりなのに、いまにも止まりそうなほど遅いテンポだ。そこから徐々にペースを上げていくのだが、その後テンポはジェット・コースターのように激変するし、間の取り方も一定ではない。ヴィブラートのかけ方も濃淡をはっきりさせ、危なっかしい音程にも遠慮なしに強烈なヴィブラートをかける。その自由奔放さは水を得た魚という程度ではとても追いつかない。音楽に合わせてナージャは所狭しと動き回る。仁王立ちになったかと思うと急に前かがみになり、激しいトリルではそれと同期するように床を靴でコツンコツンと鳴らす。オーケストラの部分になるとリズムに合わせて身体を揺らし、次にソロが出てくる個所では背筋をピンと伸ばし、楽器をやや上に向けて弾き始めたりする。音楽をするのが楽しくて仕方がない、といった彼女の気持ちがこれでもかと伝わってくる。指揮の秋山もよく彼女についていっていた。というよりも、客席で見ていると秋山もこの大波小波を楽しんでいるかのようだった。
  ナージャは1994年のクリスマス、自宅で友人を招いてパーティーを開いていた。彼女はタマネギを切っていたが、そのとき誤って左手の小指を切ってしまった。その傷はあと数ミリ大きければ一生小指が動かなかったであろう、という恐ろしいものだった。そこから長いトンネルが始まった。一時は別の仕事も考えたそうだが、彼女は気を取り直して3本の指で練習したりしたそうだ(このあたりの経緯については『ナージャ/ユモレスク』、ノンサッチWPCS5095のCDに詳述した)。だが、結果としてこの試練が彼女を一回り成長させたのである。
  しばらくナージャのことを聞かなくなって間もないころ、彼女は自主製作のCDを出し始めた。ひとつはチャイコフスキーとアサドの『ヴァイオリン協奏曲』(エイベックス AVCL25111)、そしてもう一つは『白熱のリサイタル』(同AVCL25112)である。ともに2004年のライヴだが、もうすっかり復活したというよりも、以前にもまして音楽は熱っぽくなっていた。むろん、ライヴ収録ということもあるだろうが、これほど生き生きとした音がCDから出てくるという例はあまりない。その後、彼女は2005年から翌年にかけて録音した『メリー・クリスマス』(同AVCL25181)も発売したが、これもいかにもナージャらしいにぎやかなアルバムだった。
  でも、その自主制作から3年から5年も経過している。2月7日の公演もひょっとしたらすっかり変質したナージャを聴かされるのではという心配もあった。だが、演奏は最初に述べたとおりだ。この原稿を書いていても、第3楽章のスリリングさを思い出して胸が高鳴ってくる。EMIに録音していた頃は不良少女が突っ張っていたような雰囲気があったが、いまやその自由なスタイルを完全に独自のものとして消化してしまっている。ふと、ナージャが1988年に録音したブルッフの『ヴァイオリン協奏曲』(EMI)を久しぶりに鳴らしてみた。その当時は十分に個性的と感じていたが、このたびの演奏とは落差がありすぎる。むろん、生演奏とスタジオ収録との差はあるのだが、表現の練り具合や突き詰め方が全く異なっている。
  こんな演奏をする人が、わずか2回の公演だけで(もうひとつは翌2月8日、川崎での公演)、リサイタルもない。これは全く惜しいことだ。次はいつ来るのか、具体的な予定は立っていないという。おそらくこの公演は、私にとって2009年の最高の演奏会のひとつになるだろう。
  実はこの日の公演、そのわずか2、3日前にエイベックス・クラシックスの担当者から「いま、ナージャが日本に来てますよ。週末に東京交響楽団の定期に出ます」という電子メールを受け取って、初めて知った。彼がメールをくれなかったら、この日の演奏を間違いなく聴き逃していただろう。

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第10回 ムラヴィンスキーを愛した大野弘雄さん、逝く

 大野弘雄(おおの・ひろお)さんが1月23日に亡くなった。享年68。大野さんはアルトゥスから発売されたムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルの来日公演の音源提供者だった。
  大野さんがムラヴィンスキーの公演を録音しようとしたきっかけは、レニングラード・フィルの楽団員からの依頼だったという。ムラヴィンスキーが生前発表した録音は非常に数が限られていた。ある時期は10年以上も全く新譜が出ていなかったこともあった。おそらく、楽団員にとっても自分たちの成果を音として聴く機会も極めてまれだったに違いない。大野さんはレニングラード・フィルの楽団員と直接の交流があり、その楽団員を自宅に招いた際に録音のことを切り出されたらしい。楽団員にとってはツアーの合間の日本観光もおおいに興味があっただろう。しかし、旧ソ連の国家の代表として来日し、特別な思いを込めて演奏したに違いない彼らにとって、その日本公演の音も聴きたいという思いは十分に理解できる。
  かくして、数多くの日本公演が大野さんの手によって保管されていたが、むろん日の目を見ることはなかったし、私もそのような噂すら耳にしたこともなかった。それが公になったのは日本ムラヴィンスキー協会主催の、ムラヴィンスキー夫人来日歓迎会の席だった。夫人は言うまでもなくレニングラード・フィルの首席フルート奏者で、公私ともどもムラヴィンスキーを支えていた人物である。夫人はこうもらした。「私の夫はときどき録音をしても、聴いたあとすぐに消せと命令していました。いまにして思うと、録音をした人が主人の言いつけを守らずに、とっておいてくれたらどんなによかっただろうと思います」。そのあと大野さんは、夫人に保管していた録音のことを伝えたようだ。むろん夫人は怒るどころか、望外の喜びだったという。
  こうして、この一連の来日公演はCD化されることになった。特に、私のようにその演奏を体験した人間にとっては、興味津々どころの話ではない。そのムラヴィンスキーの来日公演については「クラシックジャーナル」第020号に詳述したのでそれを参考にしていただきたいが、ここではそのなかでも最も印象的なところだけを書きとめておきたい。
  まず、シューベルトの『未完成』(ALT053、1977年)である。このとき、私は東京文化会館の最前列右側で、ムラヴィンスキーを見ていた。ムラヴィンスキーは一礼したあと、旧配置の左に陣取る低弦の方を見ていた。しかし、じっと彼らを見ているだけで、演奏がいつになっても始まらない。なぜ始まらないのだろうと思った次の瞬間、低弦奏者たちの左手のポジション移動が見えた。なんと、すでに演奏は始まっていたのだ。空恐ろしいピアニッシモだった。CDを聴くとこのときの様子がはっきりと思い出せる。しかし、実演に接していない人にとって、強弱が極端に激しく、またテープ・ヒスの多い録音という印象を受ける可能性が高いが、これは仕方あるまい。
  ベートーヴェンの『田園』交響曲(ALT063、1979年)も忘れることができない。しかも、このCDは当日のプログラムがそっくり1枚に入っている。この『田園』は霧のような柔らかい響きが千変万化する演奏だった。しかし、録音で聴くとやたらに筋肉質な演奏に思えてしまう。最も不思議に思ったのは第4楽章の「嵐」である。ここはものすごく弱く柔らかい音で一貫されていたと固く信じていた。その間、約3分半だったが、私は「なんと風変わりな嵐だろう」と感じていた。だが、このCDで聴くとごく普通にガツンと演奏している。この差は、いまでも全くわからない。そのときは夢でも見ていたのだろうか、とさえ思う。
  このCDの最後の『ワルキューレの騎行』は生の演奏にかなり近い。けれども、実際に響いた演奏はこのCDの数百倍もすごかった。私はショックのあまり、終わってもすぐに拍手はできなかった。
  ムラヴィンスキー夫人は「日本での演奏は特別なものだった」と語っていたが、実際、あれこれと比較してみると地元レニングラードでの演奏よりも優れたものが多いような気もする。いずれにせよ、二度と聴くことはあるまいとあきらめていた日本公演、これがCDとして聴けるということは、私にとっては言葉に言い表せぬほどの感激である。大野さんの努力に対し、改めて感謝を捧げるとともに、ご冥福をお祈りしたい。

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