暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)
日本では現時点までに5回の万国博覧会が開催されている。いうまでもなく、最初は1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)だが、その後も75年の沖縄国際海洋博覧会、85年の国際科学技術博覧会(つくば科学万博)、90年の国際花と緑の博覧会(花博)と続き、そして2005年には2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)が開催されたことはいまだ記憶に新しい。そして近年、大阪府の関係者が25年前後をめどに2度目の万博招致の可能性をほのめかすなど、「万博の時代は終わった」とさんざんいわれている一方で、万博への関心が再帰しつつあることは確かなようだ。
これら5回の万博のうち、巷間の話題に上る機会が多いのは何といっても大阪万博だろう。大阪万博が開催当時としては史上最高の6,400万人以上もの観客を動員したことはいまなお語り草である。この記録的な成功には、大阪万博が東京オリンピックと並ぶ戦後復興、さらには明治100年という節目を象徴する国家的なイベントとして位置づけられたことが大きくあずかっている。黎明期の万博に参加して先進諸国との国力の差をいやというほど見せつけられた日本にとって、自らがホスト国として万博を開催し、対等の立場で先進諸国を招聘することは積年の悲願だった。しかし、それほどまでに万博が待望されていたということは、長らく万博が開催されてこなかったという歴史的事実の裏返しでもある。実際、明治近代以降の日本では、大阪万博以前に少なくとも3度、万博の開催が計画されながら流産したことがある。この話題については以前拙著『美術館の政治学(1)』でも言及したことがあるのだが、繰り返しをいとわず再度ふれてみよう。
最初に計画されたのが「亜細亜大博覧会」である。これは、西郷隆盛の弟にして農商務大臣であった西郷従道の発案によって、1889年(明治22年)に準備中だった第3回内国勧業博覧会の規模を拡大し、国際博覧会として実施しようとしたものだが、当時の明治政府に大規模な国際博覧会の開催能力などあるはずもなく、構想はあえなく立ち消えとなった。
次いで計画されたのが1912年(明治45年)の「日本大博覧会」である。これもまた、内国勧業博覧会の規模を拡大して国際博覧会として実施しようとしたもので、西園寺公望内閣のもと、青山から代々木一帯の会場計画や各国宛招待状の発送準備まで進んでいたものの、計画は無期延期になってしまう。日露戦争にかろうじて勝利した明治政府は、ロシアからの賠償金を万博開催資金として当て込んでいたのだが、ポーツマス条約によって賠償金なしの講和が成立した結果、資金調達のめどが立たなくなってしまったからである。
そして3度目に計画されたのが、「幻の万博」こと「紀元2600年記念日本万国博覧会」である。これは、関東大震災からの復興と日本の国力誇示を目的に計画されたもので、紀元2600年(1940年/昭和15年)を記念する奉祝行事として京橋区(現中央区)の月島埋立地で開催されることが決定し、会場施設の建設が一部着工し、入場券が発売されるところまで進行したものの、日中戦争の長期化に伴う経済難に加え、国際連盟からの脱退による国際的孤立の結果諸外国の参加が見込めなくなり、延期(事実上の中止)へと追い込まれてしまった。本連載は、この実現を目前にして立ち消えとなった「幻の万博」の実相に迫るべく計画されたものである。
ここで、なぜ私が紀元2600年万博の研究を思い立ったのか、その理由を簡潔に述べておこう。私と江藤光紀の2名は、2011年から14年の3年にわたって大阪万博を主に前衛芸術という観点から考察する研究をおこない、その成果をまとめた共著『大阪万博が演出した未来(2)』を出版した。大阪万博に関する書物が数多くあるなかで、前衛芸術に焦点を合わせたものはほとんどなく、その意味では同書の問題提起によって万博研究に多少なりとも貢献できたものと自負しているが、研究を進める途中で両者は、大阪万博から30年前に実現の機会を逸した「幻の万博」と多くの点で連続していることを実感したのである(1つだけ例を挙げておくと、紀元2600年万博は、公式には「中止」ではなく「延期」と発表された。そのため、正式名称を同じくする大阪万博は延期された「日本万国博覧会」の30年越しの開催と位置づけられ、かつて大量に売り出された紀元2600年万博の入場券がそのまま使用できることになり、実際に約3,000枚が使用された事実が知られている)。「次は幻の万博を研究しよう」。3年がかりの大阪万博研究が一区切りを迎えたとき、両者が新たな研究計画に合意するのにさして時間はかからなかった。
もっとも、常識的に考えれば、紀元2600年万博の実相を明らかにすることがひどく困難なのはすぐにわかる。第一に、紀元2600年万博は準備の途中で計画が中止になってしまったため、関連施設が1つとして建設されておらず、当然現存もしていない。強いて挙げるなら計画時に月島地区で架橋された勝鬨橋がそれに相当するが、その後独自の歴史を歩んできたこの橋を万博施設として解釈することにはかなりの無理があるだろう。会場予定地だった月島周辺のフィールドワークをおこなっても、万博の遺構に出合うことはできないのだ。また万博の開催予定時から長い年月が経過した現在、当時のことを知る関係者はすでにほとんど他界しているものと推測される。歴史学の定番であるオーラルヒストリーの可能性も、最初から閉ざされているわけだ。とはいえ、方法がないわけではない。当時の開催予定地にあたる中央区では、いくつかの図書館にまたがって紀元2600年博覧会の開催準備についての資料が多数保管されていて(その資料は学術的にも価値が高いもので、2008年には中央区有形文化財に登録されている)、15年にはそれらの資料が『近代日本博覧会資料集成(3)』として出版されたので、それを参照すれば開催計画についてかなり子細に知ることが可能になる。さしあたりは、『近代日本博覧会資料集成』の読解が研究の端緒となるだろう。
とはいえ、実際に(会期中か終了後かのいかんを問わず)国内外で複数の万博会場を訪ねて回り、多くの作品や遺構に接した経験をもつ私にしてみれば、もっぱら資料に依拠した研究手法が何とも辛気臭く、また物足りなく感じられてしまうことは事実だ。加えて、大阪万博研究のときと同様、今回も主に芸術面に焦点を合わせる予定であるだけに、当時の美術・デザインや音楽についての調査がどうしても欠かせない。そこで思いついたのが、今回も大阪万博研究のときと同様の手法を活用することだった。『大阪万博が演出した未来』で、私と江藤は協議の末に国際比較という視点を導入し、1970年の大阪万博が直近に海外で開催された万博から大きな影響を受けたのではないかとの仮説を立て、58年のブリュッセル万博と67年のモントリオール万博の現地調査をおこない、比較対象を試みた。詳細は『大阪万博が演出した未来』を参照していただきたいが、この仮説は的中し、大阪万博が直近の万博から受けた影響をいくつかの具体例を挙げて指摘することができた。これと同様の視点の導入は、紀元2600年万博研究に対しても大いに有効なものと思われる。
いまさらいうまでもないことだが、紀元2600年万博が計画されていた当時、日本は枢軸国の一翼を担い、同じ陣営のドイツ、イタリアと友好関係にあったが、奇しくもこの3カ国はいずれも同時期に万博の開催を計画し、実現の機会を逸したという点で共通している。この共通点は格好の国際比較の対象ではないか。
まずドイツは、1950年にベルリンにて万博の開催を計画していたことが知られている。開催予定より10年以上も早く第2次世界大戦が本格化してしまったため、開催計画が具体化することはなかったが、その構想は、ナチス政権下で実現された36年のベルリン・オリンピックや37年のパリ万博でのドイツ館の展示などを通じて、断片的に類推することが可能である(そういえば、ベルリンの次回の40年大会をめぐって、東京とローマが招致を争ったことがある。結局ローマが次々回の44年大会招致に目標を切り替え、立候補を辞退したこともあって東京大会の開催が決定したものの、このオリンピックも戦局悪化と国際的孤立が原因で「返上」を余儀なくされ、万博と同様に幻と消えた。このエピソードは、万博とオリンピックの国威発揚イベントとしての類似を如実に物語っているといえよう)。
一方イタリアでは、1942年にローマ万博の開催が計画され、ローマ近郊の第33クアルティエーレに会場予定地であるE42(現在のEUR新都心)が整備されるなど、かなり具体的に準備が進められていたものの、やはり第2次世界大戦の戦局の悪化が理由で頓挫した。その意味では、2015年に開催にこぎ着けたミラノ万博は、イタリアにとって70年越しの悲願といえなくもない。
この同時期のドイツとイタリアの万博計画との国際比較を通じて、紀元2600年万博の実相をより複合的に捉えることができるのではないか。また芸術面での相似と相違にもある程度迫ることができるのではないか。大雑把にいえば、それが本連載のもくろみである。とはいえ、この仮説に沿って研究を進めるには、少なくとも五カ国語(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語)の文献に目を通す必要があるなど、以前にもまして広範な視野と見識が求められるため、私と江藤の2人だけでは到底実現不可能だった。そこで、パリ万博を中心に近代の日仏交渉史を研究する寺本敬子とファシズム時代のイタリア芸術を専門とする鯖江秀樹の2人を新たなメンバーとして迎え、研究態勢の充実を図ることにした。4人の関心や専門領域はそれぞれ異なっているが、少なくともこの研究を遂行するにあたっては理想的な布陣ではないかと思っている。
以下、本連載の構成についてごく簡単に述べておこう。
まず第1回では、紀元2600年記念博覧会の開催計画とその背景について概観する。前述の『近代日本博覧会資料集成』には、内国勧業博覧会や海外での日本の万博参加に関与してきた関係者が組織した「博覧会倶楽部」が1929年に万博開催を求める建議書を当時の内閣に提出してから、38年に博覧会の「延期」が閣議決定されるまでのプロセスが年代順にまとめられている。『近代日本博覧会資料集成』に収録されている資料を当時の社会的背景をふまえながらさまざまな角度から詳しく紹介し、万博の開催計画の青写真を描き出すことが同回の目的である。合わせて、同じく40年に開催が決定しながら同様の理由で「返上」を余儀なくされた東京オリンピックにも注目し、2つの大規模な奉祝行事の開催準備を都市計画やインフラ整備といった観点から考察してみたい。
第2回では、肇国記念館と美術館の展示計画に焦点を合わせる。紀元2600年万博では、会場である月島埋立地に24の展示館を建設する計画が進められていたが、このなかでも、研究の種子との兼ね合いで特に重要と考えられるのが、国史の展示を目的にした肇国記念館と美術展の開催を目的にした美術館の2つの展示館である。同回では、『近代日本博覧会資料集成』に記録されている展示計画に加え、同時期の歴史展示や美術展などを参考に幻に終わったその展示計画を類推してみようと思う。研究にあたっては、同じく幻に終わった国史館構想や戦後になって大きく装いを改めて開館した国立歴史民俗博物館、あるいは当時開催されたさまざまな奉祝美術展とその展示作品、中山文孝の図案や日名子実三と構造社の活動などが手掛かりになるだろう。
第3回は、ベルリン・オリンピックと1937年パリ万博について考察する。ナチスは政権奪取後に国内で再軍備から戦時体制に至る準備を着実に進めていく。しかしこの間、国内向けだけでなく対外政策でも、中欧の政治的安定をアピールするために強力なプロパガンダ活動を進めた。その際、大きなアピールの場になったのが、36年のベルリン・オリンピックと、37年のパリ万博である。ここでナチスは、政治的な安定を望むと同時に共産主義の勢力伸長を恐れるフランスから、巧みに宥和策を引き出すことに成功する。同回では、ニュルンベルクのナチ党大会にはじまる一連の巨大イベントによって「政治の芸術化」をおこない、国民を熱狂的なユーフォリアへと巻き込み、また同時に諸外国を欺いて再軍備のための時間を稼いだ文化プロパガンダの方策を概観し、さらに50年のベルリン万博を招来したかもしれない首都改造計画の構想をたどっていく。
第4回では、1942年の幻のローマ万博での幻の展示空間を考察する。現在のEUR新都心がその痕跡をとどめているが、ローマ万博会場は、偽古典的な建築が立ち並ぶ、ファシズム・イデオロギーの表象の場だった。同回では特に、(あまり研究が進んでいない)建築物の内部空間や個々の装飾モチーフに着目する。ローマ万博は、産業博というよりはむしろ、多数の美術展を擁する美の祭典として準備されつつあった。芸術を通じて権力はどのように行使されるはずだったのか。この問題を、建築家と画家の「装飾論争」、景観や文化財の保護とその活用といった文脈のなかで考察する。2015年のミラノ万博や紀元2600年万博にもふれながら、これまでとはやや違った角度から、万博の相貌を浮かび上がらせてみたい。
第5回では、1937年に開催された、目下のところ最後のパリ万博について扱う。この万博は44カ国が参加した大規模なもので、ナチスドイツとソ連のパビリオンが向かい合って立ち、スペイン館にピカソの『ゲルニカ』が展示されるなど全般に戦時色が濃かったことに加え、日本では坂倉準三が設計した日本館パビリオンがグランプリを受賞したことによっても知られている。同回では、当時の議事録、報告書、書簡などをもとに、パリ万博を組織したフランス万博高等委員会と日本の博覧会事務局がどのような交渉によって「日本」の展示を作ったのかを明らかにすると同時に、フランス側の評価もより多角的に分析し、当時3年後の開催が計画されていた紀元2600年万博への影響を考察する。
第6回は、1930年代の奉祝音楽と、その展開を通じて完成されていく音楽界の組織化と動員体制について考察する。音楽の分野でもこの間、イタリアのドーポラボーロやドイツの歓喜力行団などを参考にしながら、翼賛体制は国民の余暇活動にまで及んでいく。紀元2600年についても奉祝行事が数多く企画・開催され、外交ルートで各国の著名作曲家たちに新しい管弦楽曲が委嘱されたほか、国内でも奉祝曲をめぐるコンクールや作品発表演奏会が開催されるなどの興味深い出来事があった。こうした行事を通じて、音楽が体制強化にどのように作用し、万博とどのようにつながっていこうとしたのかを考察する。
第7回は、満州へと焦点を合わせる。中国やソ連との関係が緊張感を増した1930年代、満州を生命線と見なす日本は、20世紀初頭に滅亡した清朝最後の皇帝溥儀を担いで満州国という傀儡国家を建国し、かの地で大規模な移民政策や都市開発をおこなった。「王道楽土」や「五族協和」という満州国のスローガンは万博の理念とも通底しているし、また万博会場がつかの間の未来都市であるとすれば、当時の満州はそのスケールアップ版とでもいうべき側面を有していた。芸術においても満州国美術展覧会(満展)や満州映画協会(満映)による実験的表現が数多く展開され、その影響は戦後の大阪万博にも及んでいることが知られている。同回では、当時の満州の状況に主に芸術面から注目し、万博計画に対して直接および間接に与えた影響を探っていく。
以上の各回は、今後順次青弓社のウェブサイト上に発表される予定であるが(第5回をのぞく)、発表は不定期であり、また必ずしも目次順とはかぎらない。また今後の研究の進展によって、当初の計画から内容が変化していくことも十分ありうるだろう。また研究の性格上数回の海外調査が欠かせないが、その一部はすでに実施ずみであり、いまだ実施していないいくつかの調査に関しても、今後順次着手していく予定である。いずれにせよ、その成果は何らかのかたちで各回に織り込んでいく。また、前著からの問題の継起や4人のメンバーの関心の所在もあって、本研究は万博という巨大イベントのなかでも特に「芸術」の問題に照準を合わせたものであることを繰り返し強調しておきたい。4人の共著ということもあって、結論というかたちで統一見解を明らかにすることは想定していないが、紀元2600年万博と同時期の海外の万博計画との関連を明らかにすることができれば、ひとまず本連載の意図は達成されたことになるだろう。
*本連載は、科研費研究プロジェクト「万博に見る芸術の政治性――紀元2600年博の考察と国際比較を中心に」(区分:基盤(C)、研究代表:暮沢剛巳、Research Project Number:26370118)の研究成果報告として発表される。記して関係各位にお礼申し上げる。
注
(1)暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2007年
(2)暮沢剛巳/江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』青弓社、2014年
(3)津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ)、国書刊行会、2015年
[編集部から]
本連載に加筆・修正して『幻の万博――紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』を刊行しました。ご興味がある方は、ぜひお読みください。
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