ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第1回)

第1回 現代日本の美術とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

 突然だが、あなたは「日本美術」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。日本画や絵巻物、掛け軸、屏風絵などの墨や岩絵の具を使った絵画、浮世絵などの版画、あるいは漆器や陶磁器、金工、竹細工などの工芸品だろうか。仏像や寺院を思い浮かべる人、着物などの染色や織物を思い浮かべる人もいるかもしれない。では、「日本の現代美術」と聞くとどうだろうか。水玉で埋め尽くされる草間彌生のインスタレーションや、アニメのキャラクターを想起させる村上隆の作品などは、アートに普段なじみがない人でも、目にしたことはあるだろう。これらの「日本の現代美術」には、何らかの共通項があるのだろうか。また「日本の」現代美術は、世界のそのほかの地域の現代美術と何か異なるのだろうか。「日本」というキーワードをめぐる美術作品やその展示というのは、現代の瞬時につながるネット時代のグローバル化した世界でどういった意味をもつのだろうか。また、そうした「日本の現代美術」作品を展示するキュレーターは、日本人である場合とそうでない場合に、何か違いはあるのだろうか。そして「日本の現代美術」の展示を鑑賞する観客が日本人の場合とそうでない場合に、その受け止め方にどのような違いがあるのだろうか。あるいは、そういったことは大差がないことなのだろうか。そもそも日本人向けの展示というものはあるのだろうか。
 ギモン4で、ミシェル・フーコーの言葉を手がかりに作者と作品の関係を考えた際に、「作家」や「作品」をめぐる言説はそれを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景となる時代や文化によって多様な姿を見せている、と駆け足で述べた。本ギモンでは、この点にもう一度立ち返り、日本の文化や歴史、社会的背景と日本の現代美術の関係に焦点を当て、いままでとはまた別の角度から作家、作品、展示、キュレーター、観客にまつわるギモンを捉え直す。そして「日本の現代美術」を日本人のキュレーターが日本の観客に向けて展示することについて、国内外である特定地域の美術に焦点を当てた展覧会のキュレーションの動向なども踏まえながらあらためて考えてみたい。

東京2020と文化プログラム

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、東京2020と略記)の開催が決まった2013年頃から、「インバウンド」というカタカナ言葉をやたら耳にするようになった。インバウンド(inbound)とは、もともとは「本国行きの」「市内行きの」など外側から内側へ向かう移動を意味する英語だが、日本では、もっぱら海外から日本を訪れる旅行、すなわち訪日外国人旅行のことを指す。日本は、07年に観光立国を目指して観光立国基本推進法を制定し、翌08年には観光庁を設置した。これを受けて、ビザの緩和や免税措置などさまざまな振興策が功を奏し、05年に670万人だった訪日外国人旅行者数は、15年には1,973万人を超えるまでに急増した(1)。また20年のオリンピック開催に向けて4,000万人まで全世界からの誘客を目指し、18年から3カ年計画での一大プロモーションが観光庁の旗振りのもとに計画された(2)。
 一方、東京都と文化庁でも、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と緊密に連携をとりながら、それぞれ東京2020に向けて展覧会事業や公演事業などの各種文化プログラムを推進すべく、さまざまな政策をとってきた(3)。2020年春には、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大によって東京大会が21年に延期され、それに伴って各種文化プログラムもその計画の多くは21年に延期され、さらにこの原稿を執筆している時点(2021年5月)でも、3回目となる緊急事態宣言が6都府県に発出され(4)、不透明な状況へと変更を余儀なくされていて、関係者の胸中を察するに余りある事態になっている。だが、この東京2020を契機として進められた文化・観光面での政策やプログラムの数々と、今日のコロナ禍が世界各地の美術展事業にもたらす影響は、現代美術の展示での「日本」というキーワードをめぐるあれこれについて考えるうえで、いくつかの有益なヒントを与えてくれると思われるので、ここで少し詳しく見ていきたい。
 はじめに、そもそもオリンピック開催がなぜ文化プログラムの推進と関係があるかについて疑問に感じた方もいるかもしれないので、まずは簡単におさらいしておこう。国際オリンピック委員会(IOC)が定めた近代オリンピックに関する規約であるオリンピック憲章では、その根本原則でオリンピズムを「人生哲学」と位置づけ、「肉体と意思と知性の資質を高めて融合させた、均衡の取れた総体としての人間を目指すもの」としている。そして同憲章の第5章第39条に、オリンピック競技大会組織委員会は、オリンピック村の開村期間に「複数の文化イベントのプログラムを計画しなければならない」と定めている(5)。つまり、文化プログラムの実施は、オリンピック開催国の義務になっているのだ。また近年の文化プログラムは、オリンピック開催期間を超えて長期化・大規模化していて、なかでも東京2020関係者の多くが参照している第30回のロンドン大会(2012年)での文化プログラムは、開催年に向けて4年間にわたるカルチュラル・オリンピアードという公式プログラムが過去最大規模でロンドンだけでなくイギリス全土で約17万7,000件以上が実施され、観光産業やクリエイティブ産業に大きく貢献したことは記憶に新しい。特にオリンピック開催中を含む12週間にカルチュラル・オリンピアードの締めくくりとして実施されたロンドン・フェスティバルは、200以上のプログラムが美術や音楽、映画、障害者芸術などの多岐にわたる分野で実現され、2,000万人が参加した(6)。
 こうしたロンドンでの大きな成功事例を踏まえ、東京2020でも、文化プログラムをオリンピック開催前から長期にわたって日本国内各地で実施することが東京2020の基本方針にも位置づけられた。また2016年には国の文化審議会で、文化庁の移転や、東京2020を契機とした文化プログラムの推進による遺産(レガシー)の創出という2つの課題を踏まえて文化政策の機能強化について審議され、16年11月には、「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(7)」という答申がとりまとめられた。このなかで、東京2020を世界が日本に注目し、日本から世界に文化発信をする好機と捉えている。さらに東京2020終了後も、そのレガシーの創出までを政策のなかに位置づけて、メディア芸術などを含めた幅広い分野での新たな文化芸術活動への支援や人材育成、基盤整備を進め、「文化芸術立国」を目指すとしている。つまり、この東京2020が契機になって、観光立国と文化芸術立国という国の政策が文化プログラムを通して推進されることになったというわけである。

日本らしさと日本文化発信

 こうして東京2020を取り巻く文化政策は、日本人が考える日本文化をさまざまな文化プログラムを通して海外に向けて発信することを目的として進められている。まず、インバウンドを促すには、ビザの緩和などの法的な整備に加えて、日本の良さ、日本でしか味わえない魅力、日本らしさを海外に向けてアピールすることが肝要であることは言わずもがなだろう。こうした魅力を備えた、いわゆる観光資源のプロモーションのなかで、日本文化が果たす役割は大きい。美術の分野で考えると、文化財などのほか、日本美術のコレクションを擁する美術館や博物館も重要な観光資源である。例えば、東京2020に向けて、公共交通機関や文化財が所在する観光地などに加えて、美術館や博物館も国立博物館・美術館を皮切りに2015年前後から多言語化対応が進められてきた。日本語、英語はもちろんのこと、特に近年急増したアジアからの観光客を意識して中国語、韓国語も含んだ4カ国語による作品解説やキャプション類は、いまでは国立の博物館・美術館では、常設展示だけでなく企画展示でも対応している。解説の文字情報が多い場合は、QRコードから各国語の言語の解説を観客がスマートフォンで読み込んでダウンロードする、といったケースも少なくない。またこうした他言語への翻訳は、外部の翻訳会社などの翻訳者に発注するだけでなく、国立の博物館では各言語を母国語とするスタッフを採用したり、日本美術を専門とする外国人スタッフを採用するなどして、こうしたスタッフが多言語対応にとどまらず、海外の美術館・博物館との人物・学術交流や、国際的な展覧会事業のコーディネートなどを務めている(8)。
 また文化プログラムの一環として、文化庁主催の博物館や芸術祭などの展覧会を開催年に先立って国内外で開催しているほか、東京をはじめとする日本国内各地で、文化庁が中心になって「日本博(9)」という一大文化事業が企画されている。日本博は、総合テーマである「日本人と自然」のもとに「美術・文化財」「舞台芸術」「メディア芸術」「生活文化・文芸・音楽」「食文化・自然」「デザイン・ファッション」「共生社会・多文化共生」「被災地復興」という8つの分野にわたって「縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外へ発信し、次世代に伝えることで、更なる未来の創生」を目的としている。これには文化庁が主催するもの、美術館や博物館と共催するもの、また地方公共団体や民間企業の事業を補助する事業などがあり、2021年現在もコロナ禍によってさまざまな会期・内容変更などがあるものの、実施・計画されている。
 この「日本博」が掲げるテーマと各分野は、現在の日本人が考える日本らしさ、日本の文化、日本の美術を海外から日本に来る外国人に向けて発信する一連の事業であり、各分野でどのような事業を展開しようとしているかという「日本博」のウェブサイトでの説明(10)と、実際にどのような事業が実施・採択されているのかを見渡してみると、大変興味深い。なかでも特に近年現代美術の領域として展覧会が実施されている機会が増加する傾向にある「メディア芸術」が、「美術・文化財」とは切り離されて一つの独立した分野になっているのは、長年「文化庁メディア芸術祭(11)」を実施してきた文化庁や、経済産業省が中心となって官民が連携して推進している「クールジャパン」戦略(12)と無関係ではないだろう。また全体のテーマは縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外に発信、継承していくことを謳っているが、これはあたかも日本の美術が縄文時代から現代にいたるまで、単線的に発展してきたかのような印象を与える。だが、いまの日本の美術を形成している要素の多くは縄文時代よりもずっと後になって中国大陸や朝鮮半島からもたらされた文化の影響が大きく、さらに明治時代の近代化による西洋文化の影響や戦後のアメリカ文化の流入など、さまざまな要素を折衷的に取り入れてきたという事実を、日本のオリジナリティを強調するために都合よく排除しているようにも思われる。
 このように今回の東京2020を契機とした海外に向けて発信する「日本らしさ」や「日本美術」というものは、国を挙げて戦略的にプロモーションされたものだった。この「日本らしさ」や「日本美術」というコンセプトや枠組みは、現代美術の文脈では、日本の現代美術が海外、特に欧米で紹介される際にさまざまな物議を醸してきた。ここで少し時間を巻き戻して、1980年代、90年代の欧米での日本の現代美術の紹介のされ方について、特に現代美術に焦点を当てて見てみよう。

1980年代から90年代の欧米での日本の現代美術の紹介

 海外での大々的な日本美術の紹介はギモン1でも少し触れたが、古くは19世紀の万国博覧会が大きな役割を果たした。これを戦後の現代美術の分野に絞ってみると、日本の場合は、1952年に初参加したヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする国際展への参加が主な舞台だったと言えるだろう。その後も66年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展などいくつか日本の現代美術に焦点を当てた展覧会は開催されたものの、その評価は「日本の現代美術は欧米の模倣である(13)」という見方を長く欧米の美術関係者に印象づけるものだった。それが80年代に入って、日本がバブル経済で国際的な経済大国として注目を浴びるようになった時期と同じくして、日本の現代美術を紹介する展覧会が欧米の美術館で盛んに実施されるようになり、そのなかで日本の現代美術に対するアプローチも多様化した。日本の現代美術を海外で紹介することについては、72年に外務省の監督のもとに国際文化交流事業を通して国際相互理解の増進と国際友好親善の促進をおこなうことを目的に設立された国際交流基金のはたらきも大きい。ここでは紙幅の関係上、詳細は割愛するが、国際交流基金は、現在もヴェネチア・ビエンナーレ日本館の主催者であり、また特に80年代から90年代にかけては、海外の美術館などと共催して日本の美術を紹介する展覧会事業を数多く手がけてきた(14)。なかでもパリのポンピドゥー・センターで86年に実施された「前衛芸術の日本 1910-1970展(Japon des avant-gardes 1910-1970)」は、戦前から戦後にいたる日本の美術を絵画や彫刻、インスタレーションのほか、建築、デザイン、工芸、写真など多岐にわたるジャンルの作品を通して包括的に紹介した大規模な展覧会であった。また94年に横浜美術館で開催され、その後グッゲンハイム美術館やサンフランシスコ近代美術館に巡回した「戦後日本の前衛美術展 空へ叫び(Japanese Art after 1945: Scream against the Sky)」は、約100人の作家による絵画、彫刻、写真、ビデオ、インスタレーションなど180点の作品が展示されるという、戦後日本の前衛美術の流れを展観するニューヨークでは過去最大規模の日本美術展になった(15)。研究者の光山清子は、その著書『海を渡る日本現代美術』で戦後から95年までの日本の現代美術の海外での受容について、欧米で実施されてきた展覧会を詳細に分析・考察している。ここでは光山が取り上げたなかでも、欧米の日本美術研究者にいまでもよく参照されている「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」の2つの重要な展覧会について、彼女の分析と考察を参照しながら、少し見ていこう。

「前衛芸術の日本」展での日本の美術とその受容

「前衛芸術の日本」については、そのキュレーションについては、「展覧会は国際交流基金との共催であったが、このような包括的なもの〔視覚芸術だけでなくそれと関連した領域を取り込んだアプローチ:引用者注〕を提案し、全行程を通じてイニシャティヴをとったのはポンピドゥー・センター」であり、こうした包括的アプローチは「企画当初からの重要な原則であった(16)」という。この展覧会に先立って、ポンピドゥー・センターでは「パリ―ニューヨーク 1908-1968」(1977年)や「パリ―モスクワ 1900-1930」(1979年)などパリを中心とするフランスと他国の都市とのある時代の文化的関連に焦点を当てるような展覧会を催していた。したがって「前衛芸術の日本」も、日本がどのように西洋の前衛運動と関わったかを検証することを目的としていた。だが、そのアプローチは、特に日本の批評家や美術関係者からは、ヨーロッパ中心主義であるとの批判を受けることになった。この展覧会で扱う年代の区切りである1910年から70年という設定は、あくまでも国際的な前衛運動に対して設けられたものであり、日本のそれとは関係がない。またこの展覧会では、彼らが用いた「前衛」の概念に基づいて、ヨーロッパ的な観点からの日本美術紹介になったことが問題視された(17)。ここで興味深いのは、光山が指摘するように、こうした日本での批判に対して同展に関わった高階秀爾と千葉成夫が「この展覧会はフランスのイニシャティヴによってフランスの観客のために企画されたものであると述べてこれを擁護している(18)」ことである。つまり、フランス人のキュレーター(19)たちは、この展覧会がフランスの観客にとっては初めて20世紀の日本美術を包括的に紹介する展覧会となることを重要視し、観客が「慣れ親しんだヨーロッパ前衛美術運動の歴史に沿うかたちをとること」で、「日本美術には不案内な観客にも参照事項を与えられるだろうと考えた(20)」。しかし結果的には、こうしたキュレーター側の意図とは裏腹に、観客の大半は、この展覧会を通して、日本の前衛美術はヨーロッパの前衛美術の模倣であると受け止める結果になった(21)。

「ガイジン」のキュレーションによる「戦後日本の前衛美術」

 1995年は、第二次世界大戦後50周年を迎える節目の年だったが、それに先立つ1年前の94年に「戦後日本の前衛美術」展が横浜美術館で企画され、その後94年から95年にかけてニューヨークとサンフランシスコに巡回した。この展覧会のキュレーションを担当したのは、当時ニューヨークと東京を拠点に活動していた20世紀の日本美術研究者でインディペンデント・キュレーターであったアメリカ人のアレクサンドラ・モンローだった。本展でモンローは日本の前衛美術がいかに「西洋美術の範疇で分類されることを拒み、理論の構築を「自己」の内に求めた(22)」かを描き出そうとし、日本国内の美術関係者のなかでもそれまでになかった視点を持ち込み、日本で大きな論争を引き起こした。それに対してモンローは、この展覧会が「ガイジン」によってキュレーションされたという「誤解」があったと弁明し、そうではなく、主催者である横浜美術館の学芸員との協議を踏まえながらキュレーションをおこなったと主張した(23)。だが、この点については、光山も指摘するように、本展のカタログに記載された主要テキストの大半を執筆したのはモンロー自身であり、「日本側がコンセプトのレヴェルで展覧会に本質的な貢献をしたとは考えにくい(24)」。光山は、モンローの高い日本語能力と日本文化に関する豊富な知見に根ざしたキュレーションによる本展とそれを支えてきた研究について、「戦後日本美術史の構成・修正に大きく寄与するところがあった(25)」と高く評価している。例えば、書や陶芸など、いわゆる伝統美術の分野で活動する前衛作家は、日本国内でも、戦後美術史の文脈のなかで見落とされてきていたが、この展覧会では墨人会(26)や走泥社など前衛書家や前衛陶芸家のグループに属する作家たちの作品も紹介され、こうした動きを再評価した。つまりこの展覧会は、日本のことをよくわかっていない「ガイジン」ではなく、日本研究を専門とするアメリカ人キュレーターが企画したものであり、日本美術の展覧会企画で、必ずしも日本人だけが優れた企画、より日本美術の実態に忠実なオーセンティックな(本物らしい)企画ができるとはかぎらないことを立証することになった。
 このように海外で日本の現代美術を紹介した記念碑的な2つの展覧会である「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」は、性格は異なるものの、いずれも欧米出身のキュレーターが主導した展覧会であり、これまでにない切り口とスケールで欧米の観客に日本の現代美術を紹介することになった。しかしその手法に対して、現地だけでなく、(後者は横浜美術館で展覧されたこともあるが)、日本国内の美術関係者が物議を醸したことは興味深い。そこには、やはり日本美術のことは欧米人よりも日本人のキュレーターのほうがよりオーセンティックな企画ができるという幻想があったように思われる。それは、特に1990年代にアジアやアフリカなどの非西洋、非欧米地域(27)の現代美術を欧米に紹介する展覧会で、当の欧米諸国でも美術関係者の間でさまざまな物議を醸した動きとも関係している。そこで議論の中心になったのは、誰が誰(あるいは何)を誰のために表象するのか、といった問題だった。これは展覧会の場合で言えば、どこの国や地域出身のキュレーターが、どの国や地域の美術をどこの国や地域にいる観客に向けて企画するのか、という問題である。第2回では、ある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会で、特に90年代に現代美術関係者の間で大きな問題になった「他者」の表象に関する論争から見ていこう。


(1)JTB総合研究所「インバウンド」「観光用語集」(https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/inbound/
(2)観光庁「訪日旅行促進事業(訪日プロモーション)」(https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kokusai/vjc.html
(3)本稿では、詳しく紹介できなかったが、東京都が進めている文化プログラムについては、「Tokyo Tokyo FESTIVAL」事業を参照されたい(https://tokyotokyofestival.jp)。
(4)東京都、大阪府、京都府、兵庫県の4都府県に2021年4月25日から5月11日まで発出。5月12日からは愛知県と福岡県も加わり、5月31日までの延長が決まった。緊急事態宣言に追加される県は2021年5月現在も増加傾向にあり、5月31日に解除される見通しも立っていない。
 また5月12日からの延長に際して、当初、東京国立博物館、東京国立近代美術館、国立新美術館、国立科学博物館、国立映画アーカイブの国立館5館は開館、都の美術館・博物館は31日まで臨時休館延長となり、国と都での対応が異なるというちぐはぐな状況が生じた。これについて都からの要請を受けて、国立5館も休館を継続することが5月12日に決まった。
(5)オリンピック憲章と文化プログラムの関係については、文化審議会第14期文化政策部会(第2回)議事次第資料1-1文化庁説明資料参照。「文化プログラムの実施に向けた文化庁の取組について――2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を契機とした文化芸術立国実現のために」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/14/02/pdf/shiryo1_1.pdf
(6)“Reflections on the Cultural Olympiad and London 2012 Festival”(http://www.beatrizgarcia.net/wp-content/uploads/2013/05/Reflections_on_the_Cultural_Olympiad_and_London_2012_Festival.pdf
(7)文化審議会第14期「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(答申)――「新・文化庁」を目指す機能強化と2020年以降への遺産(レガシー)創出に向けた緊急提言」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_16/pdf/bunkageijutsu_rikkoku_toshin.pdf
(8)例えば、東京国立博物館では、2018年の時点では中国人2人、韓国人2人、アメリカ人1人のスタッフが国際交流室という部署で業務にあたっている(東京国立博物館「多言語対応から感じた日本と中国の美意識」〔https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/06/29/多言語対応/〕)。
(9)日本博については、文化庁ウェブサイト「「日本博」について」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/nihonhaku/pdf/r1413086_02.pdf)を参照のこと。「日本博」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp
(10)例えば、「美術・文化財」と「メディア芸術」のそれぞれの分野の説明を比較して読んでみると、「メディア芸術」が「美術・文化財」から不自然に切り離されているような印象を受けるのは、私だけだろうか。文化庁「美術・文化財」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/art_and_cultural_treasures/)、「メディア芸術」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/media_arts/
(11)文化庁メディア芸術祭は、「アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門において優れた作品を顕彰するとともに、受賞作品の鑑賞機会を提供するメディア芸術の総合フェスティバル」であり、1997年から実施されている。詳細については文化庁「文化庁メディア芸術祭」(https://j-mediaarts.jp)を参照のこと。
(12)クールジャパン戦略については、内閣府の知的財産推進事務局による以下のウェブサイトを参照のこと。内閣府「クールジャパン戦略」(https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html
(13)光山清子『海を渡る日本現代美術――欧米における展覧会史 1945~1995』勁草書房、2009年、65ページ
(14)国際交流基金に関しては拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)でも詳しく紹介しているので、参照されたい。
(15)両展覧会のデータについては、国際交流基金文化事業部編『国際交流基金展覧会記録――1972-2012』(国際交流基金、2013年)を参照した。
(16)前掲『海を渡る日本現代美術』158ページ
(17)同書159ページ
(18)同書161―162ページ
(19)同展では「コミッショナー」という呼称を使用しているが、キュレーターとほぼ同義なので、本文では便宜上、キュレーターと記す。
(20)前掲『海を渡る日本現代美術』162ページ
(21)同書162ページ
(22)同書167ページ
(23)同書166ページ
(24)同書166ページ
(25)同書168ページ
(26)墨人会は1952年に京都で結成された書家のグループ。走泥社は、48年に京都で結成された陶芸家のグループ。いずれもモンローが本展で紹介したことで、日本の現代美術史の文脈のなかに彼らの活動が位置づけられる大きなきっかけになった。例えば走泥社については、2019年に森美術館で特集展示が組まれ、本展示の共同企画者であったアーティストの中村裕太が、1950年代から60年代の現代陶芸に呼応する新作インスタレーションを発表するなど、ユニークな試みがおこなわれている。森美術館ウェブサイト「MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに」(https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch007/index.html
(27)本稿では、便宜上、「西洋」「欧米」といった用語を使用するが、「西洋」や「欧米」といった場合に、同じ西洋のなかでも正確には特に西欧諸国、また北米だけを指しており、東欧や北欧、中南米は、アジアやアフリカ諸国同様に長らく周縁地域とみなされていたことに留意することは重要である。

 

Copyright Sachiko Namba
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

防犯のAI化と犯行手口の進化――『万引き――犯人像からみえる社会の陰』を出版して

伊東ゆう

「万引きする人って、そんなにたくさんいるんですか?」
 初めて会う人が私のキャリアを知ると、必ずといっていいほどに驚かれる。そのほとんどが犯罪とは無縁の人たちだから、至極当然のことだろう。その一方で、過去の悪事を告白してくる人も珍しくない。
「学生のころ、捕まったことあるよ。ほしいけど高くて買えないもの、平気で盗(と)っていた」
 万引きは軽く思われがちだからなのだろうか、あの店やこの店であんなものやこんなものまで盗っていたのだと、泥棒自慢をされることもある。
「このくらい、いいじゃないか」
「みんな、やっていることだ」
「捕まらないようにうまくやればいい」
 これこそが万引き行為に至る被疑者の心理といえる。しかしながら悪い心を完璧に隠すのは難しく、その多くは挙動に表れ、いずれ私たちの目に留まることになる。万引きの成功体験をどんなに多くもっていても、絶対に捕まらないという保証はどこにもないのだ。
「万引きという言葉が軽いから、いっこうに減らないのではないか。万引きと呼ばずに窃盗と呼べばいい」――そんな意見をよく耳にする。万引きとは商業施設内での窃盗の形態や手口を表す言葉で、スリや空き巣、置引、ひったくりなどと同じように使われている。被害届や逮捕手続書などの罪名欄を見れば一目瞭然、「窃盗(万引き)」と記載されるのだ。「万引きは窃盗だ」と声高に叫ぶ人もいるが、そんな当たり前のことを周知する必要性は感じたこともない。万引きが悪いことだと知らない人は、まずいない。それに万引きを窃盗と呼ぶことになれば、調書などの罪名欄が「窃盗(窃盗)」になってしまう。現場知識がないための意見だろうが、耳にするたびに「そうじゃないんだよ」と説明したくなってくる。
 同様の例を挙げると、オレオレ詐欺を特殊詐欺、盗撮行為を迷惑防止条例違反と呼んでいるが、被害が減るなどの変化は見られない。たとえ万引きを店内窃盗などに言い換えても、目に見える防犯効果は期待できないだろう。
 ちなみに、私自身は捕まえた被疑者との会話で万引きという言葉を極力使わないようにしている。そのかわりに「泥棒」だとか「盗みにきた」という厳しめの言葉を多用する。再犯防止のために、少しでもいやな記憶を残してやりたいのだ。その日を最後にしてくれるなら、多少恨まれてもいい。これからも、そんな気持ちで被疑者と接していくつもりでいる。
 最先端の防犯機器を用いた万引き防止対策は、ここ数十年でかなり進化している。防犯機器を導入する予算がある商店に限られるが、特に顔認証技術は向上していて、常習者情報の共有範囲を拡張する動きも盛んになってきた。防犯カメラ映像の解像度は急速に向上していて、人物の特定はもちろん、手にしている商品や紙幣、小銭までも明瞭に記録できる。映像検証による被害の特定が容易になった結果、被害届が受理される確率は高まり、その後の捜査で逮捕に至るケースも増えた。しかしながら、その多くは大量または高額の被害で、毎日一つだけ盗んでいくような高齢常習者までは対応できていない。私が推奨する「店内声かけ」は、こうした高齢常習者に対して効果的な万引き抑止対策の一つなのだが、新型コロナウイルスの影響で店内で他人と対話する機会は失われ、声をかけることさえもが難しい状況だ。犯行を思いとどまらせるすべは目合わせくらいで、それに気づかないままに実行されてしまえば、たとえ後期高齢者でも被疑者ならば捕捉するしかないのである。
 防犯システムがめざすところは、無人店舗での防犯のAI(人工知能)化のようだ。多様化する精算方式に合わせて、各種セルフレジのほか、精算端末付きのカートを導入している商店も現れ、店舗の無人化を見据えた動きは加速している。支払いに利用する電子マネーなどには身分確認を経た個人情報が保管されていて、そうした状況下で犯行に及ぶとすればホームレスなどによる緊急避難的な行為しか思い浮かばない。そのような人の多くは電子マネーを利用できる環境になく、店舗への入場さえ許されないこともあり、人権問題にまで発展する可能性もある。万引きさせない店づくりの完成形といえるかもしれないが、人間味がなくなると商店としての魅力が欠けることは確かで、そのあたりの調整が難しそうだ。いずれにせよ、近い将来には店内でのすべての行動が記録されるようになることは間違いなく、私たちの仕事が形を変える日もすぐだろう。そうはいっても、万引きは社会情勢や時流に影響を受けやすい側面がある。犯行手口も進化することを忘れてはならない。
 本書の多くは、2018年3月からウェブサイト「サイゾーウーマン」に隔週で連載してきた「オンナ万引きGメン日誌」をリライトして、現実の事件に近づけて再現したものだ。ここで初めて話すことだが、「オンナ万引きGメン日誌」の主人公である澄江のモデルは実在するが、その内容のほとんどは私自身の体験談なのである。女性向けサイトでの連載なので、読者が感情移入しやすいように考えてキャリア40年のベテランオンナGメン澄江を創作して書き始めたのだ。近頃は、澄江の話を聞きたいと各メディアから取材を申し込まれるまでになり、どこか心苦しく感じていた。そろそろ実情を告白しようかと思っていたところ、公私ともに深くお付き合いしている香川大学の大久保智生准教授から青弓社の矢野恵二さんを紹介してもらって、タイミングよく出版オファーを受けた。連載当初から「いつか書籍にしたい」と思いながら書いてきたが、こんなに早く実現するとは予想もしていなかった。自分を主人公にして書き直したいという気持ちもあったので、二つ返事で引き受けた次第だ。サイト内のアクセスランキングで1位になりそこそこ話題になった作品も複数所収しているので、ぜひお楽しみいただきたい。

 

テュケーを追いかけて――『アニメと声優のメディア史――なぜ女性が少年を演じるのか』を出版して

石田美紀

 少年役を演じる女性声優の歴史を記述することは、長く苦しい体験でした。もともと遅筆の筆者ですが、今回はそれだけではなかったように思います。声は人間にとって基本的な表現手段のひとつです。そのため、声優と呼ばれる声の演技者の活動領域は多岐にわたります。
 1963年に放送が始まった連続テレビアニメの原点『鉄腕アトム』(フジテレビ系)も、声優という職業の出発点ではありません。テレビの黎明期である50年代初頭から、声優は海外テレビドラマや洋画の吹き替えで活躍すると同時に、連続人形劇でもさまざまなキャラクターを演じてきました。さらにテレビが登場する以前の声のメディアであるラジオも、声優なしでは成立しませんでした。特に敗戦後の連合国軍の占領期には、女性声優たちが自分とは性別も年齢も異なる少年役を演じ、連続ラジオドラマという新しいジャンルを日本に根づかせ、花開かせました。
 声の表現者たちの調査は、本書の執筆開始当初には想定もしなかった時代とメディアへと、筆者を誘っていきました。新しい領域にさしかかるたびに筆にはブレーキがかかり、議論の方向も変わっていきました。そのため、本書を担当した編集者のおふたりの手をずいぶん焼かせてしまいました。
 そしていま、本書の執筆で経験した紆余曲折は、「幸運の女神」を追いかける道のりだったと感じています。「幸運の女神には前髪しかない」という有名な警句があります。チャンスはそれが訪れた瞬間につかまなければものにできないよ、ということですが、ここで言っている幸運の女神とは、古代ギリシャでテュケーと呼ばれた運命の女神です。実は、本書の出発点のひとつになった発表で、筆者はテュケーと遭遇しています。なんとまあ大げさな、と思われるかもしれませんが、いましばらくお付き合いください。
 2018年2月、ドイツのある大学で、現代の大衆文化のなかのキャラクターを主題にシンポジウムが開かれていました。ヨーロッパ各地やブラジル、そして日本から参加した研究者が、アメリカのコミックスからマーベル映画、はたまた『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー、1818年)に代表されるゴシック小説まで、それぞれが関心をもつ領域・メディアのなかのキャラクターを考察し、意見交換をおこないました。
 筆者は1990年代のアニメを選び、キャラクターを構成する絵と声がアクロバティックな関係を取り結びながら、ジェンダーとセクシュアリティの多様性を切り開いていったことを発表しました。分析の中心になったのは、少年役から青年役を得意とする緒方恵美さんが演じた女性キャラクターである天王はるか/セーラーウラヌスです。「らしさ」を華麗に一蹴するこの女性キャラクターが、女性が演じる少年役という日本の連続テレビアニメの慣習と、そこに蓄積された声の演出から生まれたことを論じました。
 発表のあと、聴衆のひとりが「あなたはテュケーを追いかけているんですね」とコメントをくれました。それは思いもかけない感想だったのですが、すぐに、ああ、と腑に落ちました。この方は、アニメというシステムを確実に作動させるために少年役を演じる女性声優の声が、システムが予期しなかった女性キャラクターを生み出したことを、不意に現れる幸運の女神になぞらえていたのです。
 テュケーという名を聞いて、画家アルブレヒト・デューラーが16世紀に描いた運命の女神の姿が頭に浮かびました。このデューラーの銅版画は『ネメシス(運命)』と題しているとおり、描かれているのはテュケーではありませんが、ネメシスはテュケーとともに運命をつかさどる存在です。
 デューラーの手になる運命の女神は、球体に乗って空中を移動しています。不安定な球体は、予測不能な運命の寓意です。筆者にはこの球体が回転しているように見えるのですが、回転という運動は規則的であり、予測を裏切ることはありません。予測がつかない運命の女神の乗り物がこのうえもなく安定した運動を見せるのなら、彼女は安定したアニメのシステムから生まれた型破りな女性キャラクターのもうひとつの姿かもしれない。そう筆者は考えました。
 たしかに、これはネメシスとテュケーの区別もつけない乱暴な思い込みでしょう。ただ、そのときから筆者にとって、アニメのシステムと少年役を演じる女性声優について考えることは、まるでテュケーをつかまえるかのようでした。もちろん簡単にことは運びません。なにしろ相手は運命の女神ですから、あっちに行ったかと思えば、こっちに戻ってしまう。それを何度も繰り返し、ようやく記述がまとまったのは、新型コロナウイルスに翻弄された2020年が終わろうとする頃、つまりこの文章を書いている四カ月前のことです。
 はたして、運命の女神はこの本のなかに収まっていてくれるのだろうか。不安はいまでも絶えないのですが、その一方で、気まぐれな女神はいつかどこかに行ってしまうだろうと覚悟も決めています。

 

第31回 轟悠退団の衝撃

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 昨年来のコロナ禍は一年たってもまだまだ沈静化する様子はありませんが、感染拡大防止策を徹底するなかでさまざまな活動が再開され、社会全体がずいぶん落ち着いてきた印象。コロナ禍の宝塚を総括した『宝塚イズム42』を1月に刊行、次号の『宝塚イズム43』刊行の7月ごろには東西の行き来ももう少し楽になればと願うきょうこのごろです。
 宝塚歌劇団も、感染拡大防止に最大の神経を使いながら徐々に正常な状態に戻りつつあります。宝塚大劇場では4月の花組公演からオーケストラの生演奏が再開、5月の月組公演からはこれまで受け付けを中止していた団体の申し込みも再開し、ほぼ通常の形態になろうとしています。とはいえ、まだまだ油断は禁物。
 そんななか、3月に入って、この20年間、トップ・オブ・トップスとして君臨してきた専科のスター・轟悠が、今年(2021年)10月1日をもって退団することがわかりました。昨年9月に宝塚きっての舞姫だった専科の松本悠里が退団を発表し1月に退団したばかりのタイミングでの発表は、ファンだけでなく関係者にも大きな衝撃をもって迎えられました。
 轟は、1997年から2002年まで雪組のトップスターを務め、その後専科入りし、トップ・オブ・トップスという特別待遇で文字どおり宝塚を代表するスターとして、今日まで男役一筋で活躍してきました。雪組時代に演じた『エリザベート』初演(1996年)のルキーニ、雪組トップ時代の『凱旋門』(2001年)のラヴィック、トップ時代と専科時代を通じて何度も演じた『風と共に去りぬ』のレット・バトラーなど、豪快ななかにも繊細な心理の表現は誰にもまねができないものがあり、近年も『For the people ――リンカーン 自由を求めた男』(花組、2016年)、『ドクトル・ジバゴ』(星組、2018年)、『チェ・ゲバラ』(月組、2019年)と轟でなければ宝塚では上演できなかったであろう作品群に主演して存在感を強めていただけに、退団の発表は誰もが青天の霹靂でした。
 宝塚歌劇団は、トップスターになれば数年後に退団して次世代につなぐというのが通常パターンで、トップを極めた後、専科に残って活躍するという例は、宝塚の至宝といわれた天津乙女や春日野八千代を除くときわめてまれなケースです。『ベルサイユのばら』初演(1974年)でオスカルを演じて人気となり『ベルばら』四天王といわれた榛名由梨が月組でトップになり、その後専科入りしたものの数年で退団しています。轟がトップを退いて専科入りしたのは、歌劇団が2014年に100周年を迎えるにあたって歌劇団を代表するスターとして轟に白羽の矢を立て「春日野八千代のような存在に」と残留を要請、宝塚を愛し、男役を愛した轟がこれを受ける決意を固めたからです。
 残留にあたって歌劇団と轟の間にどんな条件が交わされたのかはつまびらかではありませんが、その後の轟の活躍ぶりからみると、年1回の各組への別格扱いでの特別出演や外部劇場での主演公演、ディナーショーの開催などが確約されたと思われます。轟の各組への特別出演は原則的に新トップスターのお披露目公演の次の公演で、2003年の春野寿美礼トップ時代の花組公演『野風の笛』を皮切りに、雪組『青い鳥を捜して』(2004年)、星組『長崎しぐれ坂』(2005年)、月組『暁のローマ』(2006年)、宙組『黎明(れいめい)の風』(2008年)と各組を一巡しました。その後も、雪組『風の錦絵』(2009年)にゲスト出演、100周年の14年には星組『The Lost Glory――美しき幻影』に続いて18年の雪組『凱旋門』に主演しています。
 そのほかにも『風と共に去りぬ』はじめ数々の外箱公演に主演、宝塚の男役の手本として、後輩の道標的存在になってきました。毎年暮れに各組のスターが勢ぞろいして開催される『タカラヅカスペシャル』では常に中央に君臨、各組のトップスターのまとめ役でした。「春日野八千代のような存在」に限りなく近づく「雲の上の存在」になっていきました。
 昨年はコロナ禍で公演が中止や延期になり、暮れに予定していた『タカラヅカスペシャル』も中止になってしまいました。とはいえ、暮れには延期されていた轟主演の星組公演『シラノ・ド・ベルジュラック』公演が実現、年明け2月には同期生の真琴つばさ、愛華みれ、稔幸を迎えての4人のコンサートが宝塚ホテルで開催されるなど、活躍ぶりが伝えられていた矢先の退団発表でした。
 3月18日におこなわれた退団会見で轟は「昨年9月ごろに退団の意思を固めた」と明言しましたが、実際はそれよりも前、劇団の理事を退任、特別顧問に就任したというニュースがあったころから何らかの動きがあったのではないかと考えられます。その後のコロナ騒ぎですっかり隠れてしまいましたが、ここ数年12月を飾ってきたスターカレンダーの2021年版から轟の姿が消えたことがその証明でしょう。
 いずれにしても、春日野同様、宝塚に骨をうずめる覚悟だと誰もが思っていた轟の退団は、ファンにとってもなんともいえない喪失感なのではないでしょうか。下級生のころは舞台でもオフでもずいぶん突っ張っていた印象があり、それはトップになったころに頂点に達し、なにか近寄りがたいオーラがありました。しかし専科になってからは、周囲を見る目が穏やかになり、演技も円熟味を増し、名実ともに宝塚を代表する存在になったと思います。
 思い出深い役は数多くあります。初期のころでは『JFK』(雪組、1995年)のキング牧師や『アナジ』(雪組、1996年)のアナジがありますが、やはりなんといっても『エリザベート』初演のルキーニでしょう。「キッチュ」の独特のハスキーな歌声はいまも耳について離れません。近年では『リンカーン』『ドクトル・ジバゴ』『チェ・ゲバラ』と続く原田諒とのコンビ作で、原田のリアリズム演出に轟が究極の男役演技で応えたことで宝塚の男役像そのものの幅を広げたことは大きな功績になったと思います。そして、この成果が昨年暮れの『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノ役で男役の完成形につながっていったのだと思います。
 轟の退団が今後の宝塚歌劇団にどんな影響をもたらすのかはまだわかりませんが、宝塚の一つの流れが変わる節目になるのは間違いありません。『宝塚イズム43』は、轟を筆頭に月組トップコンビの珠城りょう、美園さくら、そして花組の華優希という4人の退団者に対する惜別のメッセージがメイン特集です。雪組のトップコンビも交代、宝塚は大きく様変わりするなか、今後の宝塚の動向を占う興味深い論考が期待できそうです。刊行はもう少し先ですが、楽しみにお待ちください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第11回 イェリ・ダラニ(Jelly〈Yelly〉d’Aranyi、1893-1966、ハンガリー→イギリス?)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ハンガリーの名花

 イェリ・ダラニは戦後、目立った活躍がほとんどなかったせいで、ずいぶん昔のヴァイオリニストのように思われている。ダラニは1893年5月30日、アディラ(1886年生まれ、ヴァイオリニスト)、ホルテンス・エミリア(1887年生まれ、ピアニスト)の三姉妹の末っ子として生まれる。祖父は大ヴァイオリニスト、ヨゼフ・ヨアヒムの兄妹ヨハンナと結婚したため、ヨアヒムとは親戚関係になる。イェリは最初ピアノを学び、6歳のときに初めてのコンサートを開いた。しかし、姉アディラが習っていた教師グルンフェルト(グルンフィールドの表記もあり)がイェリの手を見てヴァイオリニストに転向すべきと進言、イェリはそのグルンフェルトとイェネ・フバイのもとでヴァイオリンを学んだ。10歳のとき、ヨアヒムの前でルイ・シュポアの『ヴァイオリン協奏曲』を弾き、ヨアヒムは相応の年になったら再度指導してみたいと申し出たが、その前に他界してしまった。
 1909年、三姉妹はロンドンに移住、特にイェリはアディラとたびたび共演した。10年、イェリはロンドンで最初のリサイタルを開く。ロンドン滞在中にさまざまな作曲家と交遊が生まれ、バルトークはダラニに『ヴァイオリン・ソナタ第1番』(1922年)、同『第2番』(1923年)の2曲を献呈し、ラヴェルは『ツィガーヌ』(1924年)を同じくダラニに捧げ、レイフ・ヴォーン=ウィリアムスの『コンチェルト・アカデミコ』はダラニによって初演されている。また、グスターヴ・ホルストはアディラ&イェリ姉妹のために『2つのヴァイオリンのための協奏曲』(1929年)を書き上げている。
 1927年11月から翌28年3月まで、ダラニは最初のアメリカ・ツアーをおこなう。このとき同行したのはピアニストのマイラ・ヘスだが、のちにダラニとヘスは三重奏曲を録音することになる。30年代の中盤、ダラニは健康を害するが、38年、シューマンの『ヴァイオリン協奏曲』のイギリス初演を果たした。第二次世界大戦中はチャリティ・コンサートを多数おこなうが、なぜか戦後の活動についてはほとんど知られていない。
 ダラニは姉アディラとともに晩年をイタリアのフィレンツェで過ごし、最後のコンサートは1965年10月5日と記されている。66年3月30日、死去。
 献呈されたバルトークやラヴェルの作品の録音が残っていないのはかえすがえすも残念だが、それでもラッパ吹き込みから電気録音の時代に小品を中心として、それなりに正規録音がそろっている。
 まず、音として聴きやすい電気録音のなかでは、トマソ・ヴィタリの『シャコンヌ』(レオポルド・シャルリエ編)(イギリス・コロンビア 9875、1929年録音、ピアニスト不詳)がすばらしい。しなやかで、しっとりしていて、気品があふれている。いかにもなだらかな感じはダラニならではで、この曲のなかでも忘れがたい名演である。こんな演奏にLPもCDも復刻がないのは、とても残念だ。
 10インチのSPで聴けた小品は以下のようなものがある。まず、フランティシェク・ドルドラの『思い出』(イギリス・コロンビア 5681、ピアニスト不詳)、これまた柔らかく繊細で、ふわっと香るような甘さが何とも言えない。裏面はブラームス(ヨアヒム編)の『ハンガリー舞曲第8番』、機敏で切れ味がいいのだが、常に流麗さが感じられる。ヨアヒムが聴いても、きっと太鼓判を押したにちがいない。
 ベートーヴェン(フリッツ・クライスラー編)の『ロンディーノ』(イギリス・コロンビア 5427、ピアノ:コーエンラド・V・ボス)は、ささっと小走りに去るような風情だが、ウィーン情緒をしっかりと描き出している。裏面はクリストフ・ヴィリバルト・グルック(クライスラー編)のメロディー。ダラニの柔らかな音色はこの曲にぴったりだ。レオ・ドリーブ(グルエンベルク編)の「パスピエ」(『歓楽の王』より)、イェネー・フバイの『ハンガリーの詩』(イギリス・コロンビア 2042D、ピアノ:コーエンラド・V・ボス)、ガッティの『バガテル』、コルティの『グラーヴェ』(イギリス・コロンビア DB361、ピアニスト不詳)などは曲がちょっとなじみは薄いものの、音もいいので、それなりに楽しめる。
 ラッパ(アコースティック)録音のなかで最も重要なものはモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第3番』である(イギリス・ヴォカリオン A0242~44、スタンリー・チャップル指揮エオリアン管弦楽団)。これはカデンツァこそ含まれてはいないが、この曲の世界初録音でもあった。単独でのCDはないが、『名ヴァイオリニストと弦楽四重奏団』(〔「モーツァルト・伝説の録音」第1巻〕、飛鳥新社、2014年)のセットのなかに入っている。解説書には「1925年11月録音」とあるが、この数字は初発売であり、録音データではないはずだ。でもまあ、CDで聴けるのはありがたい。演奏は決して先を急がない、とても優雅でおっとりしている(特に第1楽章)。最近の古楽演奏とは真反対といってもいいだろう。この協奏曲やヴィタリの『シャコンヌ』なんかを聴くと、ダラニが弾いたバルトークやラヴェルがどんなであっただろうかと、残念な気持ちがますますわき上がってくる。
 以下は、室内楽曲。同じくモーツァルトの『メヌエット』(イギリス・ヴォカリオン D02103)、これまた優雅の極みである。こんな演奏を生で聴きたいものだ。裏面はパガニーニの『奇想曲第24番』。バリバリ弾いても、どことなくほんのり甘いのがダラニらしい(ピアノはエーセル・ホブデイ)。
 アディラ&イェリ姉妹の共演では、以下のものを聴くことができた。ヘンリー・パーセル(コンスタント・ランバート編)の「アリア」(『インドの女王』より)、ジャン=マリー・ルクレールの『ソナタ作品9の3』(イギリス・ヴォカリオン K05168)、バッハの「協奏曲」第3楽章(『ハープシコード協奏曲BWV1060』より)、ニコロ・パガニーニ(モファット編)の『ソナタ』第1楽章(イギリス・ヴォカリオン K05110)、ルイジ・ボッケリーニ(モファット編)の『2つのヴァイオリンのためのソナタ』第1楽章、ガエターノ・プニャーニ(モファット編)の『2つのヴァイオリンのための6つのソナタ』第2楽章、第3楽章(イギリス・ヴォカリオン K05142)、パーセル(モファット編)の『黄金ソナタ』(イギリス・ヴォカリオン K05177)、ゴダールの『6つのヴァイオリン二重奏作品18の5、6』(イギリス・ヴォカリオン K05260)。ラッパ吹き込みだし、なじみのない曲ばかりなので、何となく気が進まないで鳴らし始めたが、これがけっこう面白かった。特にパガニーニ(K05110)とボッケリーニ(K05142)は親密な姉妹の会話を盗み聞きしたような背徳感と妖艶さがあって、ぞくぞくしてしまった。
 合わせ物ではブラームスの『ピアノ三重奏曲第2番』(イギリス・コロンビア LX497~500、1935年録音)を聴けた。ダラニのヴァイオリン、マイラ・ヘスのピアノ、ガスパール・カサドのチェロである。ちょっとモゴモゴした音だが、流麗で美しい。合わせ物ゆえにダラニの個性はそれほど強烈には感じられないが、それでもいい音色があちこちにちりばめられている。カサドも、とてもいい音がしている。
 シューベルトの『ピアノ三重奏曲第1番』(イギリス・コロンビア 9509-12、1927年)は未聴。このチェロはカサドではなくフェリックス・サルモンド。このシューベルトはLP復刻がある(Harmony HL7119)。
 なお、ダラニの表記について、その昔にハンガリー大使館に問い合わせた際は「イエーリ・デ・アラニ」がいちばん日本語表記に近いという回答を得た。ただ、「デ・アラニ」としてしまうと、しばしば使用されている「ダラニー」「ダラニィ」「ダラーニ」と違いすぎてしまうので、ここでは「ダラニ」にしておいた。あと、いろいろ調べてみると、「ダラーニ」はちょっと違うような気がする。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第30回 雪組トップ、望海風斗・真彩希帆のサヨナラ公演開幕! そして、正月演目に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 コロナ禍のなか一カ月遅れで完成にこぎつけた『宝塚イズム42』が年明けに刊行され、おかげさまで読者からの反響も上々で苦労が報われた思いです。怒涛の2020年宝塚歌劇を振り返る特集は、予想だにしなかった現実に直面した書き手の宝塚歌劇への熱い思いが詰まっていて、いつも以上に読み応えがありました。読者のみなさんはいかがでしたでしょうか。忌憚のないご感想をお待ちしています。
 さて2021年も早くも一カ月が過ぎようとしていますが、第3波の感染拡大はとどまるところを知らずまだまだ先行きは不透明。劇場街が再び閉鎖という事態にいつ陥ってもおかしくない状況が続いています。ただ、演者も含めた作り手も観客側も、この異常事態の処し方に慣れてきたみたいなところが見受けられ、決められた予防対策を守りながら前向きに行動していこうという姿勢が大勢を占めていることは、表現の自由を守るという意味でも大いに結構なことだと思います。それが危険と表裏一体ということを肝に銘じなければいけないのは自明なのですが。
 そんななか、宝塚大劇場では元日から望海風斗、真彩希帆の雪組トップコンビのサヨナラ公演が開幕しました。もともとは昨年(2020年)7月に上演されるはずの公演が半年遅れでようやく実現、オーケストラの生演奏再開はまだ実現していませんが、チケットは通常どおりの販売で、連日満席の人気に沸いています。演目はミュージカル・シンフォニア『fff――フォルティッシッシモ』(作・演出:上田久美子)とレビュー・アラベスク『シルクロード――盗賊と宝石』(作・演出:生田大和)の二本立て。次代の宝塚歌劇を担うであろう2人の実力派演出家の競作になりましたが、いずれも従来の宝塚の枠を超えたレベルが高い異色作で、宝塚の未来を象徴する2本になりました。望海と真彩という強力なコンビがいたからこそ実現した作品だともいえますが、正月気分の軽い気持ちで観劇したファンは、いい意味でも悪い意味でも、頭から水をぶっかけられたような気分になったのではないでしょうか。当然、初日のロビーでは賛否両論が渦巻きましたが、私としては、宝塚もようやくここまできたかと、ひそかに留飲が下がりました。
 ひと昔前の宝塚歌劇の正月演目といえば、まずは春日野八千代の新年をことほぐ日舞がある日本物レビューと軽いミュージカルコメディーというような華やかな二本立てが定番でしたが、ここ最近は、『眠れない男ナポレオン――愛と栄光の涯(はて)に』『ポーの一族』『ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ)』などの大作一本立てや、『Shakespeare――空に満つるは、尽きせぬ言の葉』『グランドホテル』のような硬派のミュージカルが年頭を飾るようになってきました。元日には鏡開きがあったりしてまだなんとなく正月らしい華やかな雰囲気はあったのですが、今回はちょっと違いました。
『fff』は楽聖ベートーベンの半生を描いた作品ですが、そのアプローチがこれまでの宝塚の作品とは全く異なっているのです。フランス革命後の混乱の時代を生きたベートーベンの創作の秘密を追求、家族や恋人、親友に裏切られ、作曲家の命である耳が聞こえなくなるという八方ふさがりのなかから見いだしたものは何か、そんな深い命題をもった作品に仕上げています。家族愛や夫婦愛といったところに落とし込む作品とは異なった、精神性に訴えた作品なのです。そしてこれを、望海の決して順風ではなかった宝塚人生や、コロナ禍で辛酸を強いられている人々へのエールにダブらせたあたりがただものではありません。しかもミュージカルとしての体裁もきっちり整っているのです。1時間40分あまりの上演時間に詰め込まれた深いメッセージには、観終わった後、すぐに座席を立てないほどの余韻がありました。ただ難点は、暗い、重い、しんどいという生理的な嫌悪感です。宝塚歌劇に何を求めるか、観る側の価値観の違いによって評価が分かれることになったのではないかと思います。
『シルクロード』も、いつもの定番レビューではなく物語性があって、衣装もいつになく地味。前物で十分おなかがいっぱいになって、すっきりしたデザートをと思っているところに、またまたステーキを出されたような感覚です。幻想シーンなど突き抜けた場面とかがあると面白かったのですが、生田大和の生真面目な性格がレビューに映し出されたような気がしています。それ自体はなかなかユニークで文句はないのですが、『fff』の後なので何も考えずに楽しめるいつもの定番レビューが観たかったというのが本音でしょう。とはいえ、こちらもいつもの枠を超えてレベルが高いのは事実です。
 新年早々、この二本立てを観て、いい意味で宝塚歌劇も変わったなあと感慨を深くし、宝塚の未来図を垣間見たような気がしたというのは大げさでしょうか。宝塚らしさを排除して外の世界でも通用する舞台芸術を作り上げることが是なのか、かっこいい男役を前面に出した華やかで甘い従来の宝塚らしさを強調した作品を作り続けていくのが是なのか。その両方をいかにミックスさせるかを試行錯誤してきたのが先達だったと思うのですが、そんなことを考えずに作品づくりをすることが新しい行き方とすれば、今回の二本立てはまさにそのスタート地点に立った重要な作品になったのではないかと思います。望海、真彩という宝塚史上でも類をみない実力派コンビのサヨナラ公演というのがなんとも意義深いものがあります。今回たまたま偶然だったのかもしれませんが、ふとそんなことを考えさせられた公演でした。
 夏に刊行予定の『宝塚イズム43』では、月組のトップコンビ、珠城りょうと美園さくらのサヨナラ特集に加えて、そんな宝塚歌劇の変貌、生き残りをかけた将来の予想図などを特集するのも面白いかなあと思う今日この頃です。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

私たち一人ひとりができる対策をとろう――『図書館の新型コロナ対策ガイド』を出版して

吉井 潤

 私が予想していたように、新型コロナウイルス感染症の感染者が11月・12月になってから増えている。7月初旬に柏原寛一さんとの共著『絵本で世界を学ぼう!』(青弓社)が印刷工程に進んだ頃のことである。私は、これから夏本番が近づくのにかなりの感染者数が出ていることから、寒くて乾燥しはじめる11月以降には感染者が一気に増加するだろうと思った。そこで、普通なら本を1点出すと一息つくが、実務に役立つ新型コロナウイルス感染症対策本がまだなかったので、青弓社の矢野恵二さんに相談した。そのときの記憶では9月1日に脱稿し、12月までに出版予定だった。だが脱稿後にスケジュールを聞くと、書店発売日は10月26日と私が想定していたよりかなり早かった。
 このように特急で出版まで進めてもらったのは初めてだ。出版社内で原稿の制作を複数人で鋭意進めてくれていたと推測する。書店発売日とここ数日の感染拡大の状況をふまえると、発売を早めてよかったと思う。青弓社のみなさんに感謝している。
 本書を手に取った知人から、第2章「新型コロナウイルス感染症とは何か」を書くにあたってどのように情報を収集し整理したのか、と聞かれることが多い。私が研究の対象にしている図書館情報学は、図書館に関係することだけではなく、情報やメディア、それらの生産から蓄積、検索、利用までを対象とする幅が広い学問だ。検索は得意なほうで、何を見なければならないのかもある程度はわかっていたので、仕事を終えた平日の夜中と土・日、お盆休みは部屋にこもって調べた。そのあと、集めた情報をどのように整理すればいいのか考えながら組み立てていた。とはいうものの、本書で初めて医学の知識が必要になることから、一般書レベルとしては間違っていないように専門家と医師の2人に脱稿前に確認してもらった。医師には図表が入ったあとの1回目のゲラも確認のため見てもらっている。
 新型コロナウイルス感染症の流行は現在進行形でもあることから、青弓社からゲラを受け取ったときには情報が更新されている場合もあり、それをどこまで修正するかも迷った。たとえば、3.1.4「感染が疑われる場合の対応フローチャートを作成する」では、4ページにわたって本人に感染の疑いがある場合と家族または同居人に感染の疑いがある場合の2パターンでフローチャートを作成した。
 朝から自宅で医師と2つのフローチャートを確認したが終わらなかった。近くのカフェで昼ごはんを食べたらすぐにゲラをテーブルに出して続きをおこない、「ここは変わらないけど、こっちの矢印は違う」などと言い合い、2つの図だけでほぼ1日費やしてしまった。「PCR検査して陰性だった場合はこちらに進むけど」という私たちの会話は、近くの席にいたお客にとっては気になったかもしれない。
 もともと図があった箇所が赤線と赤字だらけになって、受け取った青弓社のみなさんは驚き困ったと思う。私が見たかぎりではコロナ関係本でこのようなフローチャートはまだなく、図書館に限らずどこの職場でも応用できるので、ぜひ活用してほしい。今後、家庭内感染がさらに増えることが予想されるので、どのように判断すればいいのか迷うときに手元にあると安心だろう。
 最後に2点、新型コロナウイルス感染症の今後数カ月の予想を記す。1点目はインフルエンザの流行であり、2点目は緊急事態宣言のことである。
 1点目、インフルエンザの流行は、おそらくマスコミがあおるほどではないと予想している。理由は2つある。1つ目は、現時点では外国からそれほど人が訪れていないからである。流行している国や地域から日本に渡航してくる人が多ければそれだけ、インフルエンザが持ち込まれるリスクは高い。けれども、現在は日本に来ている外国人が少ないから、持ち込まれる確率は下がる。インフルエンザの流行はあるが、思っていたよりも少ないだろう。2つ目は、新型コロナウイルス感染症対策とインフルエンザ対策は基本的に同じだからである。手指衛生、うがい、換気、3密を避けるなどはインフルエンザにも効果的である。医療機関によっては予防接種のワクチンが不足していることを報じていて、マスコミの影響力はすごいと思う。
 2点目の政府による緊急事態宣言の発出は、おそらくないだろう。というのも、4月のときのように緊急事態宣言を発出することで倒産する企業、閉店する飲食店などが増えて、景気が一気に悪くなる。休業と補償がセットになっているのが理想だが、国債の発行でしのげるのかは不透明だ。現時点でも、テレビでは東京都の1日の新規感染者数が速報として画面に表示される。毎日500人以上になるのに時間はかからず、そればかりか人口規模を考えれば1,000人いてもおかしくはない。政府が緊急事態宣言を出すほどに感染拡大が進まないよう、私たち一人ひとりができる対策をとるしかない。
 1年間に2点も青弓社から出版することができた。次回は明るいテーマで企画から進めることができれば、と思っている。

 

刊行後のよしなしごと――『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』を出版して

永吉雅夫

 この年齢になって、ようやく単著を一冊まとめた。それが本書である。かなりの原稿量になっていることはわかっていたが、500ページを超えるものになろうとは思いもよらなかった。しかし、いわば古参の初陣としては、それぐらいでかえって見苦しくなかったのではないかと、いまは思っている。
 刊行後のよしなしごとのあれこれを記してみよう。
 ちょうど、定年退職を1年前倒しして2020年度末での退職を伝えた時期でもあったのでいい区切りの一冊にはなったが、わたしに退職記念という意識はそもそもない。しかし、知人たちは、なるほど退職するんだと受け止め、そのように言ってくる人もあったので、いやいや、そうではありません、これを最初の一歩としてこれから……と応じると、ニコニコ顔であきれられた。
 あきれるというと、出版した本が『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』であることに多くの知人がオドロイタ、そのことに、かえってわたし自身が驚かされた。なにも、読んで拍案驚奇、一読三嘆というような話ではない。知友諸氏の多くが、わたしを近世の文学・芸能の徒と見なしていたらしく、その男の出版物なら、いまの関心からいけば石川五右衛門か歌舞伎を扱ったものにちがいないと思ったらしい。確かに、大学での担当科目ということで言えば、近世文学関係のシラバスが同僚諸氏の目には触れることが多かったのだ。それが、「戦時昭和」で「芥川賞」だったから、友人が面食らったというのも無理はない面はある。しかし、わたし自身はずっと日本文学近世・近代を守備範囲と決めて、そのように文章も書いてきたつもりだったから、諸氏のそうした反応にこちらが驚かされたのである。主観と客観のズレ、というと大仰にすぎるが、しかし、セルフ・イメージと第三者の眼というものはなかなか一致し難いものかもしれない。
 それとは少しズレるが、まして、ご時世、自己の信念の前では第三者にどう見えるかなど塵、芥、そんなものにこだわるのは信念薄弱か、へたをすると単なる八方美人の風見鶏だと思われかねない。その結果、第三者の眼を仮構して自己を検証するという、オトナなら当然の自己省察までがスキップされてしまい、逆に確固たる自恃が疑われるような事態が出来しているのではないだろうか。
 たとえば、「教養がじゃまをする」という言い回しを聞かなくなって久しい。こういうふうにすれば自分が得をする、有利になるということはわかりきっているのだが、そうであるからこそかえってそのように振る舞うのははばかられる、自分で許せない、そんなとき苦笑交じりに「教養がじゃまをして」とつぶやいて、結局、みずから自分の得や有利を取り逃がしてしまう。現在では絶滅危惧を通り越して絶滅、はっきりと死語になってしまったとみえる。その言い回しには教養の一種の特権化のにおいもあって、現在ではそれはある程度、平準化されたから、という面もあるだろうが、それ以上に、大学の教育課程に占めていた教養部の解体を通じて教養の時代の終わりを促し後押しした結果、加速された現象かもしれない。
 かわりに台頭したのが「効率」だろう。それは「教養がじゃまをして」というような対処を、目的合理性を欠いた行動とみなす立場の展開である。目的が定まれば、精神的・物理的、そして時間的にいかにローコストでそれを実現し、成果を手に入れるか、その最短性こそがなにより優先され、二者択一の選択を繰り返す場に、教養というかたちのその人のいわば人間が投企されることはないのだろう。そう考えなければ、わたしのような昔人間には理解不能な出来事が、わたしの職場から永田町に至る日本だけでなくアメリカをはじめ世界規模で頻発している。「戦時昭和」の人間模様はけっして過去のことではない。
 コロナの時代でなかったなら、友人諸氏はきっとそれぞれに祝杯の誘いをかけてくれたことだろう。いつもなら飲もうと言う人たちも、まあ、高齢者同士だからお互い誘うのがはばかられるのだ。といって、オンライン飲み会のような新様式にはとてもなじめない。東京大空襲のあと、焼け出された永井荷風は、勝山(岡山)に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねる。先輩に対する谷崎夫婦の接遇は、宿や酒食から切符の手配に至るまで実に行き届いているばかりか、許されるかぎりの贅をつくしたものだった。荷風は、なかなかお目にかかれなくなった白米や牛肉そして日本酒に、涙を流さんばかりに「欣喜」する。モノがない時代ゆえの欣喜落涙でもあるが、戦火をくぐり抜けてともにする知己との飲食なればこその感慨も大きかったにちがいない。いまは、幸いモノはある。しかし、人間関係の一次的な直接性がおびやかされている。知己を目の当たりに実感する荷風の欣喜落涙は、現在、我々にどのように可能だろうか。

 

第29回 宝塚のWith CORONA

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 2020年初頭から猛威を振るう新型コロナウイルス感染拡大の波は、いったん収まったかに見えたものの再び感染者増加のきざしをみせ、予断を許さない状況に陥っています。宝塚歌劇団は4カ月間の休演ののち再開、宝塚大劇場、東京宝塚劇場、系列の梅田芸術劇場を中心に感染拡大に細心の注意を払いながら公演をおこなっています。『宝塚イズム』は次号で42号を迎え、コロナ禍のなかでいかに宝塚歌劇が生き残りをかけたか、スターたちの思いなどをくみ取りながら、各組の現況を特集するなど、現在、21年1月刊行に向けての編集作業が鋭意進んでいるところです。
 そんななか11月7日から宙組公演、ミュージカル『アナスタシア』(脚本・演出:稲葉太地)が宝塚大劇場で開幕しました。この作品は葵わかなと木下晴香のダブルキャストで3月から4月にかけて東京と大阪で上演される予定だったブロードウェイミュージカル『アナスタシア』と連動して、5月に宝塚でも上演されるはずの大作でした。しかし先行したミュージカルバージョンが緊急事態宣言によって東京公演途中で打ち切りとなり、大阪公演も中止。宝塚版もいったん公演が延期され、ようやく11月に上演される運びになったものです。半年遅れの公演となって話題性はなんとなくそがれた感じにはなりましたが、自粛期間中の長めの自主稽古が功を奏し、開幕した舞台は充実した仕上がりになりました。
 怪我の功名というには気が引けますが、『アナスタシア』に限らず、長い自粛期間のあとに再開した各組の舞台はいずれも緊張感がみなぎり、歌もダンスもエネルギッシュで、観ているこちらにまでその熱意がダイレクトに伝わってくるようなテンションの高さが印象的でした。再開初日に花組の柚香光、雪組の望海風斗、月組の珠城りょう、星組の礼真琴、そして宙組の真風涼帆がそれぞれフィナーレのあいさつで述べたのは、「当たり前に舞台に立てることの幸せをかみしめ、舞台が好き、宝塚が好きだということにあらためて思い至りました」という同じ言葉でした。
 7月の花組の客席は1席空けでの公演でしたが、9月の月組公演からは通常に戻り、11月の宙組公演も最前列だけ空席でしたが、あとは通常どおりの公演でした。ただ、舞台上は3密を避けるために出演人数を少なくして、下級生はA班、B班の2班構成。演奏も録音で、オケピットに指揮者が入って出演者に歌のきっかけを指示していました。
 とはいえ、客席には熱心なファンが連日大勢詰めかけ、大劇場は盛況が続いています。宝塚ファンの熱い思いが新型コロナも吹き飛ばしてくれるといいのですが、これから冬季に入って、再び感染が拡大しないとは誰も言い切れません。宝塚歌劇はすでに来年8月までのスケジュールを発表しています。ベートーベンの半生を描く雪組の『fff――フォルティッシッシモ』(作・演出:上田久美子)で新年を開け、フレンチミュージカルのヒット作を再演する星組の『ロミオとジュリエット』(潤色・演出:小池修一郎、演出:稲葉太地)やローマ皇帝の生涯を描いた花組の新作『アウグストス――尊厳ある者』(作・演出:田渕大輔)など話題作が並びます。感染が拡大して再び緊急事態宣言が出て公演延期などということにならないように祈るばかりです。
 新年刊行の『宝塚イズム42』の特集は、激動の2020年を振り返るというテーマで、各組がコロナ禍のなかでどんな活動をしてきたかをまとめています。トップ披露公演開幕直前で公演が延期に次ぐ延期となり、結局4カ月遅れで開幕したものの、感染者が出て再び休演という憂き目にあった花組の柚香光。同じく東京でのトップ披露公演が感染拡大で中止、延期になった星組の礼真琴。サヨナラ公演の日程がずれて、退団日が大幅にずれこんだ雪組の望海風斗と月組の珠城りょう。公演中止こそまぬがれたものの、公演スケジュールがずたずたになった宙組の真風涼帆。5組すべてがたどった大変な一年を愛を込めて記録しています。
 一方、2018年初頭に上演され、エポックメイキングな話題を呼んだ『ポーの一族』(脚本・演出:小池修一郎)が21年、退団した明日海りおの主演によって本格的なミュージカルとして再演されることになりました。トップスターが退団後、外部で宝塚での当たり役を再び演じるというのは『AIDAアイーダ』(2009年)の安蘭けい、『るろうに剣心』(2018年)の早霧せいなに次いで3人目。最近のトップ経験者の通過儀礼的なイベントになりつつあります。そのことの是非も含めて、『ポーの一族』再演への期待を特集しました。
 ほかにも64年間の宝塚生活にピリオドを打つ日舞のベテラン、専科の松本悠里の功績のまとめ、そしてOGインタビューは昨年、惜しまれながら退団した元月組の美弥るりかが登場、コロナ禍の活動など近況をたっぷり聞きました。
 毎回好評の公演評も、新人公演評はありませんが、大劇場公演評、外箱対談、OG公演評など、できるかぎり多くの公演を所収しています。お手元に届くのは新年早々になりますが、ご期待のうえ、お楽しみに。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンをめぐって――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を出版して

桑原ヒサ子

 10月1日掲載の「原稿の余白に」ではナチス機関誌「女性展望」の全号を入手するまでの顛末を記したが、今回はナチ時代の女性の髪形について書きたい。
『ナチス機関誌「女性展望」を読む』のカバーには長い三つ編みを頭部に巻いた若い女性の絵を掲載している。全国女性指導者のゲルトルート・ショルツ=クリンクも同じヘアスタイルであることから、あの髪形には何かナチ的決まりごとがあるのではないか。もしそうであれば不可解なことがある、と知人から質問があった。「キリストの幕屋」という宗教団体に所属する女性たちが同じ髪形をしている、というのである。その団体はキリスト教団体であるものの、ユダヤ教を基軸にしているそうで、反ユダヤ主義を掲げたナチスと同じヘアスタイルをするのはおかしいのではないかとのことだった。
 この疑問に私は答えることはできない。しかし、あの髪形はナチスが考案したわけでも、ナチスの専売特許でもないから、ナチズムとは関係なくあの伝統的な髪形にこだわることは大いにありうる。

 髪形としての三つ編みの歴史はきわめて古く、古代エジプトの絵画や古代ギリシャの彫像にもお下げ髪は見られる。ルネサンス期の複雑な編み方を駆使したヘアスタイルを別にすれば、中世以降、お下げ髪であれ、三つ編みを頭部に巻くスタイルであれ、三つ編みは身分の高い女性の髪形というよりも、農村女性や下働きの女性、結婚前の若い女性の髪形だった。
 労働や家事をする際に長い髪を束ねたり結い上げたりすることは、動きやすさや安全性、衛生面でも理にかなっていただろう。そのうえ、三つ編みには装飾性もあった。少女たちがお下げ髪をする一方で、腰まで髪が伸びると、ようやく三つ編みを頭部に巻けるようになる。後者のヘアスタイルをドイツ語では「三つ編みの冠」(両耳脇から2本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)あるいは「農民の王冠」(1本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)と呼んだ。

 ナチ時代には、「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンがあった。この表現では、一定のヘアスタイルの推奨というより、政治的な主張が髪形の違いに象徴的に込められている。「三つ編み」という表現には、長い髪という伝統的女性像と、ナチズムが重要視した農業を女性性として捉える意味合いが合体されている。しかし、ショルツ=クリンクとお下げ髪の少女のわずかな数の写真を除けば、三つ編みが見られるのは民族衣装をまとった農村女性を描く絵画がほとんどである。絵画はアーリア人的な金髪の三つ編みに碧眼のイデオロギーを真面目に描いたが、本書に掲載した写真に写る中産階級の女性たちのヘアスタイルには「三つ編みの冠」も「農民の王冠」も全く見られない。「三つ編み」という言葉には「時代遅れ」の意味もあった。若いナチ女性たちは、時代遅れの三つ編みではなく、流行の髪形、すなわちウエーブがかかったショートヘアを好んだのである。ウエーブをつける電気器具やエッセンスなど多種多様な宣伝広告が「女性展望」には載っている。どんなにナチ指導部がイデオロギーの発信をしても、流行を求める女心には届かず、「ユダヤ人的」ヘアスタイルのほうが好まれたのだった。ショルツ=クリンクは、全国女性指導者という立場から手本を示すために「三つ編みの冠を被った」のだろう。
「ショートヘアはユダヤ人的」という表現も、ドイツ革命によって誕生したヴァイマル共和国を批判する道具でしかない。社会主義者にユダヤ人が多かったことに加えて、ヴァイマル政府の政治家にもユダヤ系ドイツ人がいたし、男女同権を謳ったヴァイマル憲法もユダヤ系の憲法学者によって起草された。そうした女性解放の空気のなかで、ショートヘアにミニスカートの「新しい女性」が登場した。もちろん、ショートヘアの「新しい女性」がみなユダヤ人だったわけではなかった。しかし、それは問題ではなく、ショートヘアはユダヤ的ヴァイマル共和国、ヴァイマル憲法を表象していたのである。

「農村のヴィーナス」1939年
ヨーゼフ・ゲッベルスが1万5,000マルクで購入した。

 本書のカバーに掲載した三つ編みの女性の絵のタイトルは「赤い首飾り」である。画家はゼップ・ヒルツで、ナチ時代に農村画家として一世を風靡した。たびたびミュンヘンの「ドイツ芸術の家」における大ドイツ美術展で作品が展示され、1939年の「農村のヴィーナス」(図参照)で農村画家として不動の地位を築いた。ヒルツはヒトラーのお気に入りの画家のひとりで、総統はヒルツの作品をいくつも購入し、画家に土地を与えて、ベルクホーフの別荘を設計したアロイス・デガーノにヒルツのアトリエを建てさせている。さらにヒルツを「天分豊かな人々のリスト」に加え、召集を免除した。42年に「ドイツ芸術の家」に展示された「赤い首飾り」もヒトラーが5,000マルク(当時の高校教員の年収はおよそ4,000マルクだった)で購入した作品だった。「赤い首飾り」は現在、ベルリンのドイツ歴史博物館に所蔵されている。