第5章 1937年パリ万博での日本館の展示とその背景

寺本敬子(跡見学園女子大学教員。著書に『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』〔思文閣出版〕ほか)

はじめに

 フランスでは19世紀半ばから20世紀前半にかけて合計6回のパリ万博が開催された。第2帝政期に計2回(1855年、67年)、また1870年に成立した第3共和政のもとで計4回(1878年、89年、1900年、37年)にわたって継続的に催された。以上のほかに、1925年アール・デコ博、31年植民地博といった国際博も開催されたが、第6回目の37年パリ万博を最後に、現在までフランスで万博は開催されていない。
 1937年パリ万博の正式名称は「近代生活における芸術と技術の国際博覧会(Exposition internationale des Arts et Techniques dans la Vie moderne)」であり、芸術と技術の調和、産業文化の進歩向上、人類福祉の増進に寄与することを目的としていた。37年パリ万博が、博覧会国際事務局(BIE)の承認を受けたのは、34年10月22日である。開幕は37年5月1日の予定だったが、労働者のストライキなどで会場建設が大幅に遅れ、除幕は同年5月25日にずれこみ、11月25日まで約6カ月間にわたって開催された。
 この1937年パリ万博への各国の参加については、すでに「第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展」で江藤光紀が述べているように、ドイツをはじめ、イタリア、スペインなどファシスト国家の台頭が目覚ましく、さらにソビエト連邦も本格的に出品し、共産主義国家を印象付けた。
 さて、このとき日本はどのような位置を占めていたのだろうか。すでに日本は、1867年パリ万博への最初の公式参加以来すべてのパリ万博に継続的に参加し、20世紀にはいわばパリ万博の参加常連国としての地位を築いていたともいえるだろう。1937年パリ万博での日本館の展示については、これまで主として博覧会場に建設された日本館をめぐる「日本」の表象、日本館内に展示された写真壁画が注目されてきた(1)。とりわけ坂倉準三による日本館の設計に至る経緯については、建築学の観点からも関心を集めてきた(2)。
 しかし、そもそも日本がこの1937年パリ万博に参加した経緯および目的は何だったのか。またフランスで日本の展示は全体としてどのような評価を受けたのか。こうした基本的な問いについては、これまで十分に論じられてこなかったように思われる。
 とりわけ、このパリ万博への参加が、日本にとっては、紀元2600年を記念した初めての日本万博の開催に向けた布石として重視されたことは見逃してはならないだろう。実際、パリ万博の会期中に、1940年日本万博の開催および諸外国の招致に向けて、日本政府は在仏日本大使館を通じてフランス外務省と交渉を重ねていくのである。
 本章では、1937年パリ万博に関わるフランスと日本の外務省記録、公式報告書、雑誌記事などを検討し、日本の参加経緯と展示内容、フランスでの評価を明らかにしていく。また40年の日本万博の実現に向けた日仏間の交渉の内容とその過程を見ていくことにしたい。

日本の参加経緯

 1934年12月、フランス外務省はパリに駐在する60カ国の代表宛に、37年パリ万博への招待状を送付した(3)。これは、国際博覧会条約の第5条で、開催の2年前に外交ルートを通じて正式に諸外国に参同招請をおこなうことが義務付けられていたためである。
 国際博覧会条約は、国際博覧会(万博)の開催条件などを定めた条約であり、1928年11月22日に締結された。1851年ロンドン万博以来、開催国はそのつど新しく組織委員会を設立し、参加国の招請、出品物の分類、褒賞制度などを統轄してきたが、19世紀末から次第に博覧会の濫設や参加国の費用負担が問題になった。こうした問題を協議するため、1907年にパリ、08年にブリュッセル、11年にベルリン、28年に再びパリで国際会議が開かれ、そこでの合意をもとに国際博覧会条約が作成されたのである。このとき、条約に基づいて万博の開催を統括する博覧会国際事務局(BIE)が設置され、本部はパリに置かれた。なお、日本政府も、パリの国際会議に河合博之在仏大使館参事官を委員として派遣し、条約に調印したが、未批准だった。
 さて、日本に対する正式な参加要請は、他国と同様に1934年12月におこなわれた。フランス外務省から在仏日本大使館の佐藤尚武大使宛に12月22日付で招待状が送付されている(4)。これを佐藤大使はすぐさま広田弘毅外務大臣に電信で「今般当国外務省ヨリ正式ニ本邦ノ同博覧会参加ヲ求ムル招請状ヲ送付越セリ(5)」と報告した。この電信で佐藤は、万博の名称が「近代生活ニ於ケル芸術及技術万博覧会」であること、さらに「住宅庭園及家具ノ装飾並ニ劇場、活画、「ラヂオ」及広告ニ関係アル総テノ芸術的並ニ最新式ノ作品」といった出品が求められていることを伝えている。佐藤はこの万博が、日本の工芸美術を紹介する絶好の機会になるとして、日本の参加を強く推奨した。
 その後、日本国内でも、翌1935年3月7日付の書状で在日フランス大使館から広田外務大臣宛に日本の参加が要請され、パリ万博の内容を説明したプログラムなども送付している(6)。

日本の参加表明の遅れ

 こうして日本政府は、フランス外務省と在日フランス大使館から1937年パリ万博への参加要請を受け、その参加の可否を商工省が中心になって検討することになる。しかしこの参加に向けた調整は難航した。日本が正式に参加を表明したのは36年6月3日であり、フランス外務省の参加要請から実に約1年半かかったのである。
 日本の参加表明の遅れは、他国と比べても明らかである。1937年パリ万博には44カ国が参加したが、すでにイタリアは35年3月、ソ連は同年4月、ベルギーは同年6月、イギリスは同年9月の時点で正式に参加を表明していた。
 こうした参加状況を受け、在日フランス大使館は日本外務大臣宛に1935年7月25日付の書状で、日本政府の参加表明を急ぐよう打診している。またフランスでも、フランス外務省と万博組織委員会が佐藤大使に日本の参加の可否を尋ね、速やかに参加表明をおこなうよう要請していた(7)。このような遅滞の理由は、筆者が用いることができた資料からは明らかにならず、今後の研究が待たれる。
 いずれにしても、こうした停滞を打破するのに役割を果たしたのが、日本産業協会会長の星野錫だった。星野は、広田外務大臣宛に1935年6月3日付の建議書を提出した(8)。ここで星野は、万博への参加が「我邦工芸技術ノ進歩向上、輸出貿易ノ進展並我国情文化ノ宣伝ニ加ヘ日仏国交の親善を図ルニ絶好ノ機会ト被存候」と述べた。星野は、同年7月にも37年パリ万博の関係資料を外務省に提出するなど、外務省に万博参加が日本の産業界にもたらす利益・重要性が、とりわけ①技術の進歩向上、②輸出振興、③日本の宣伝にあると説いていた。
 商工省が外務省に応答したのは、同年8月10日付の書状においてである(9)。商工省は、このパリ万博の開催の趣旨が「極メテ適切」とし、日本の参加については「関係諸団体等ノ本博覧会ニ対スル動向並ニ予算関係等ヲモ鋭意考究中」であるとしている。
 これを受け、広田外務大臣は在日フランス大使ピラ宛に、8月29日付の書状で「態度決定次第通報ス(10)」と伝えている。

民間団体からの建議と1940年日本万博

 民間団体は、星野が会長を務めた日本産業協会に加え、日本商工会議所、国際文化振興会、日本貿易協会が1937年パリ万博への日本の参加に重要な役割を果たした。これら4団体は連名で広田外務大臣宛に35年10月16日付で「巴里万国博覧会参加ニ関スル建議」を提出した。

 巴里万博覧会ニ正式参同ヲ為シ本邦独自ノ産業文化ヲ世界各国ニ周知セシメ我ガ国ニ対スル正当ナル認識ヲ与フルト共ニ本邦商品ノ販路開拓ニ資シ更ニ彼我両国ノ関係ヲ一層親密ナラシムルハ我ガ国内外ノ情勢ニ徴シテ極メテ有意義ナリ(11)

 以上のように、パリ万博への参加の意義としては、①日本に対する正当な認識を高め、②輸出貿易の促進、③国際的親善の増進に寄与することが強調されている。さらにここで注目したいのは、上記の文に続く文章である。

 紀元二千六百年記念トシテ我ガ国に於テ万博覧会ヲ開催セントスル関係ヨリ見ルモ此ノ際同博覧会に参加スルコトハ最も緊要ナリ(12)

 このように、紀元2600年記念となる1940年に日本万博の開催を実現するためにも、パリ万博への参加が「緊要」だと明示したのである。
 この建議により、これらの4団体が1937年パリ万博への参加を、40年日本万博への布石として重視していたことが明らかである。実のところ、37年パリ万博の参加を検討していたとき、並行して40年日本万博の開催が検討されていた。この40年日本万博の実現に向けて役割を果たしていたのが、日本商工会議所をはじめとする4団体だった。
 こうした民間からのはたらきかけを受けて、1935年12月にようやく政府の予算閣議でパリ万博への参同費の支出が認可を受けることになる(13)。
 翌1936年2月19日には、日本商工会議所・国際文化振興会・日本産業協会の3団体が「巴里万国博覧会協会(14)」を設立した。このとき、会長には日本商工会議所会長の郷誠之助、副会頭には国際文化振興会副会長の徳川頼貞と、日本産業協会会長の星野錫が就任した。なお、会長職は、郷の日本商工会議所会頭の辞任に伴い後任の門野重九郎が引き継ぎ、副会長も星野の日本産業協会会長の辞任に伴いその後任の黒木三次が引き継いだ。

巴里万博覧会協会役員(1937年2月6日)
会長 門野重九郎
副会長 徳川頼貞
同 黒木三次
総務部長 依田信太郎
出品部長 佐々木綱雄
宣伝部長 青木節一

 このように1936年2月の巴里万博覧会協会設立をはじめとした産業界の建議を受け、日本政府も「極めて有意義なる措置として参同の必要を認むるに至った(15)」。2・26事件とそれに伴う内閣総辞職によって再び正式な参加表明には時間がかかるものの、新しい広田弘毅内閣の発足のもと、36年6月3日に日本政府は、外務省を通じてフランス政府に正式に参加を表明したのだった。

日本の出品方針

 日本の出品準備は、商工省と巴里万博覧会協会の主導のもとで進められていくことになる。しかし参加表明から1937年パリ万博の開会まですでに1年を切っていたため、急ピッチの準備が必要になった。
 フランス側は、1934年12月の参加要請の時点で、すべての参加国に対してとりわけ「住居、庭園、家具、劇場、映画、ラジオ、広告等ノ芸術的整備ニ関スル出品物(16)」の出品を要請していた。
 ここに出品物として、住居、庭園、家具などと並んで「広告」が記されているのは興味深い。1937年パリ万博では、全14部門の出品分類のうち、第14部門として「宣伝(Publicite)」が立てられた。フランス組織委員会の公式報告書によると、万博で「宣伝」が部門として立てられ、独立した館が建築されたのはこれが初めてであることが明示されている(17)。これまで指摘されているように、20世紀の万博は、「物」を主体とした展示から、映像や出版物を通じた「イメージ」の創出やさらにはプロパガンダも含む広告・宣伝が重視されていくが、その一例がまさに37年パリ万博で顕著になるのである。
 1937年パリ万博の出品分類(全14部門)の内訳は、次のとおりである。第1部門「思想の表現」・「科学的発見の技術的応用」、第2部門「社会問題」、第3部門「芸術的および技術的育成」、第4部門「芸術的技術的拡散」、第5部門「都市生活、建築」、第6部門「絵画および造形芸術」、第7部門「建物」、第8部門「室内装飾および家具」、第9部門「工芸品」、第10部門「出版、書籍および雑誌」、第11部門「装身具」、第12部門「交通および旅行」、第13部門「祭、催物、行列、競技」、第14部門「宣伝」だった。
 以上の要請に基づいて、日本では、①家庭生活部、②科学部、③商店部、④文化宣伝部の4部に分けて展示が準備された。
 また日本側としては、「(1)出品物は原則として日本館に収容展示するの方針の下に選定すること、(2)出品物は本博覧会開催の趣旨に鑑み旦本邦産業文化の精粋を誇示することを基調として極力厳選主義を採ること」を指針として定めている。
 出品物は、従来の一般募集による出品選定ではなく、「日本館・出品物・陳列が一貫した総合計画のもとに調和と統制を保つ方針(18)」がとられた。すなわち政府の統制のもと、商工省と巴里万博協会による指定製作・指定出品の方針が採用されたのである。その背景として、やはり出品準備のための時間が限られていたことがいえるだろう。
 なお、これらの出品物は、パリに向けて発送する前に日本橋高島屋で開催された「日本政府賛同巴里万博覧会日本館出品展示舎」で、1937年1月21日から27日にかけて1週間、一般に展示された。この展示には多くの批判も寄せられたが、少なくとも協会の報告書によると、この「展示舎」への来場者は32万人以上を記録し、「予期以上の好評をもって無事閉会」したとされる。

日本委員のパリ派遣

 こうした出品物の展示にパリで携わった人物についても確認しておこう。1936年9月には、協会の常務理事の団伊能と、嘱託建築技師として板倉準三が、博覧会場の調査・交渉・施工の準備で最初に派遣された。板倉は、フランスに留学し、ル・コルビジェに師事した建築家だった。
 翌1937年2月には、商工省書記官の菅波称事、商工技師の池部宗薫、出品部長の佐々木綱雄、嘱託の真木彰二郎が派遣された(19)。菅波はフランス政府および博覧会当局との交渉、「巴里万博覧会協会巴里出張所事務」の監督にあたった。池部は建築、陳列など、技術関係の監督にあたっている。佐々木は事務長を務め、真木は会計を担当した。
 なお、出品部長の佐々木綱雄は、パリ滞在中に「万博」(日本万国博覧会協会)にたびたび寄稿している。その内容は、パリ万博の費用や展示などである。しかし、これらの寄稿を見ると、佐々木は将来の日本万博を実現するために、実地検分としてパリ万博を観察していた可能性が高い。パリから帰国した佐々木は、1940年日本万博に向けた事務課長に就任することとなる。

日本の展示

 日本館が開館したのは、1937年6月18日だった。日本館の建築の完成は3月末が予定されていたが、フランス労働者の争議頻発や左派政権が導入した1週間40時間労働制などの影響により、労働者の就業能率が著しく低下し、6月上旬にようやく完成した。
 菅波は、開館式でつぎのように述べている。

 今回の出品は従来のそれと其の選を異にし、古典的の趣向を持つ出品に非ざる点に対しては、特に各位の注意を喚起する次第である。従って本館に於て従来参加の日本館に於て見るが如き出品を見出さんとするならば、恐らく幻滅を感ぜらるるものと思ふ。過去70年に亘り日本に於ける文化産業の進捗発達は実に顕著なるものあり、従来の博覧会に出品せるものを以てしては、到底現代日本の姿を伝へ得ざるものである。

 以上のように、菅波はこの日本の展示を通じて「現代日本の姿」を伝えることを最大の目的にしたといえる。
 この開館式に出席した組織委員長ラベは次のように述べた。

  日本が僅か半世紀の短期間に於て列強に互し、然も遜色なき程度に進歩発展せる道程を説明し得るものはない。現代の日本は若人の如き気魂を以て国際社会に列し、光彩陸離たるものあり、今回開催せられたる「近代生活に於ける芸術と技術とを目標とする博覧会」に於ても其の絢爛たる出品をどうどうと陳列して、多年に亘り保持せる伝統に近代的の方法を加味して改善に資せられ昂然たるものあるを観取せられる。貴館に陳列せられたるものは総て先づ品質を第一とし、軽快、巧緻にして実際的のものを製作せられんとする努力の跡を窺ひ得るものにして工芸国民たるの実を示され、日本工芸に於ける「美しき職業」を熱愛するといふ大原則を労働に適用せられ、以て品質を製作の主たる特徴とせられることを得たと確信するものである(20)。

 ラベが冒頭で述べるように、日本の近代化を称賛するとともに、日本の展示に見られる「伝統に近代的の方法を加味」した出品物を評価していることがわかる。
 実際、日本の展示はどのような内容だったのだろうか。まず、「家庭生活部」では、日本の文化生活の様相を示すとともに、「私的生活に漂う和やかな雰囲気の一端」が演出された。日本の中流以上の家庭を想定し、婦人室、応接室、喫茶室を設けられた。いずれの部屋にも机、長椅子、婦人室に立ち姿見、金紗など婦人服地の織り物、小間物類鼈甲細工、象牙細工が置かれた。応接室には陶器製および竹製電気スタンド、漆塗家具、漆応用製品、絹絨毯、ゴブラン風壁掛、高級刺繍、紙糸製壁紙、金銀細工、高級玩具、ブロンズ陶磁器、照明設備などが置かれた。
 次に「商店部」には、主要高級商品の陳列展示。布絹製品、陶磁器、硝子製品、漆器、木竹製品、木通製品、金属製品などが展示された。
「文化宣伝部」は、国際文化振興会が担当した。鉄道省国際観光局も宣伝事務所を開設し、観光客の誘致が目指された。
 この宣伝活動は、日本の「国力に対する正しき認識を与へるため、本邦産業文化の精粋を示し、之を周知せしめることは最も緊要である」として重視された。『事業報告書』によると、「博覧会参加の機会に新聞雑誌等の利用又は其他各種の方法に依り本邦産業文化の紹介を行ひ、且多数の観覧者を日本館に吸引することに努めた」とある。実際の展示では、日本館正面入り口にインフォメーション・デスクが設置され、日本文化の宣伝がおこなわれた。出品物に関する説明冊子ニッポン特集号、出品一覧、科学部出品説明書、鉄道省国際観光局成品の各種観光宣伝冊子が配布された。また出版物だけでなく、活動写真映画として『荒城の月』『日本の陶磁器』『日本の建築』『花草芸術』『参週間の旅』『日本瞥見』などが上映された。
 こうした宣伝活動には、日本の万博協会は手応えを感じたようである。巴里万博協会の『事業報告書』は以下の言葉で締めくくられている。

  繊細巧緻なる出品は、世界に誇る科学出品および文化宣伝出品と相俟って、本邦文化の真髄を把握せしめるに多大なる効果を収めることを得たるのみならず、会期を通じて行はれたる彼我の交歓は両国親善友好関係の増進に寄与するところ大なるものありしは之れ亦看過し得ざるところである。殊に日支事変の勃発に依り動ともすれば疎隔を招来せむとする仏国人心に、本邦文化を紹介して本邦の正しき立場を了解せしめ、之が緩和に寄与し得たるは、本邦参加の意義をして一層深からしめたことを確信するものである(21)。

 ここで指摘されるように、1937年に勃発した日中戦争によって、フランスの一般紙で報じられる日本の情報はほとんどが戦争経過に関わる内容だった。しかし、このパリ万博での日本文化の紹介を通じて、日本イメージの「緩和に寄与」したとし、これを参加意義として掲げたのだった。

フランスの評価

 日本の展示成果は、グランプリ14、名誉賞31、金賞41、銀賞63、銅賞30を獲得し、おおむね成功だったといえる。
 まず、フランスの『公式報告書』には、次のように評価が記載された。

  坂倉は、創造主たちの望む本質的な性格を日本館に付与するために、芸術文化の2つの側面を見事に表現した。すなわちこの国では何よりも国民の生活を規定し、かつ指導するのは古来の影響であり、これを忠実に敬意を表しながら、現在の日本において最も近代的なものを際立たせるということである。
 館の内部は、日本の芸術と科学の産業の発展にあてられている。
 1階は、新商品、布など。また宣伝部が喫茶室に隣接している。ここを出て、外のスロープを通ると、科学部にたどり着く。そこには素晴らしい写真と映像の美しいデモンストレーションが展示されている。
 東京から2万キロメートルも離れて日本の参加を準備するのは離れ業である。パリで収めた成功は、1940年に東京でおこなわれる国際博覧会が成功することを安心して予想できるものであり、そこにフランスは招待されたのだ。

 以上のように、『公式報告書』で日本の展示は、芸術文化で伝統と現代性が融合している姿が評価の対象になったのである。
 1937年パリ万博への日本の参加は、参加表明と出品準備の遅れ、日本館開設の遅延などがあった。また、メディア的にも、当時のフランスのジャーナリズムでの日本に関する言及は日中戦争に関するものが大部分を占め、19世紀のように万博での日本の展示についてはほとんど目立った記述はない。このように、日本の展示については、社会全般にはもはやそれほどのインパクトをもたらさなかったとまとめることも可能かもしれないが、他方で、この万博の枠内では、会場に建築された日本館と出品物に関して、おおむね肯定的な評価がなされたといっていい。
 しかし、実は、この1937年万博への参加には、日本にとってもう一つの目的があった。それは、1940年の日本での万博誘致に向けた交渉という政治的な性質をもったものだった。

1940年日本万博の開催に向けた博覧会国際事務局(BIE)との交渉

 1940年に計画された日本万博の構想・経緯については、近年(2015年)編纂された資料集『近代日本博覧会資料集成』の「解題」で加藤哲郎と増山一成が詳細にまとめている(22)。また日本政府と国際博覧会事務局(Bureau international des Expositions。以下、BIEと略記)の交渉過程については、濵田耕平が日本の外務省記録の分析を通じて明らかにしている(23)。
 まず1937年以前に、日本万博の公式認定をめぐって日本政府とBIEの間でどのような交渉がおこなわれたのか、その経緯を以下に概観しよう。
 1928年11月22日に締結された国際博覧会条約の加盟国は、36年末の時点で、ヨーロッパを中心とする21カ国にとどまっていた。北米、中南米、アジアの多くの国が未加盟であり、日本も未批准だった。非加盟国の日本が、条約加盟国に万博への参加を招請するには、第一にBIEから万博開催の承認を得る必要があった。そのため日本政府は、在仏日本大使館を通じてBIEとの交渉を36年から開始し、その交渉は、杉村陽太郎が駐仏大使に就任した37年7月以降、まさにパリ万博の会期に本格化することになる。
 1928年の条約の規定で、国際博覧会の種別は、人類活動の成果を複数部門で示す「一般博覧会」と、あるテーマ・分野に特化した「特殊博覧会」があったが、日本は「一般博覧会」として開催することを望んでいた。ちなみに条約の適用を受けて最初に開催された37年パリ万博は、いずれも一般博だった。しかし、一般博として開催するにあたって日本にとって弊害になったのは「最近の一般博から少なくとも2年を経過した場合でなければ〔条約加盟国は:引用者注〕参加できない」という制約だった。すでに39年にはアメリカで万博の開催が計画されていたため、次の万博の開催および参同招請ができるのは41年以降だった。なお、アメリカも日本と同様に非加盟国だったが、BIEから万博開催の認定を受けたことにより、条約加盟国は参加招請を受諾した。
 こうした一般博が有する制約に対して、BIEが日本政府に提案したのは「特別博覧会」としての開催だった。特別博は、テーマや規模が限定される代わりに年限規定が緩やかであり、1940年に開催することが可能だった。この提案を受け、日本は「東西文化の融合」というテーマを掲げ、特別博として認定を受ける方法を模索することになる。しかし日本が計画した万博は、複数の展示部門で構成されるなど、実質的には一般博と同等の規模を有していたため、BIE委員長から「東西文化ノ融合ナル名称ハ一般博覧会ノカムフラージュニ他ナラス」と疑義を招くことになった。
 以上の経緯によって日本政府とBIEの間に生じた齟齬により、1938年4月のBIE評議会で日本万博は承認を受けることはできず、同年10月の総会まで結論は先送りされることになった。結果的には日中戦争の長期化によって、日本政府自らが日本万博の「延期」を38年7月15日に表明する結果になった。これによって40年日本万博の計画は頓挫したのだが、そこに至る経緯をフランス側の資料からもう少し詳しくみていこう。

フランス外務省と在仏日本大使館の交渉

 さて、ここで本章が新たに注目したいのは、フランス外務省の記録である。日本万博の認定をめぐっては、前述したとおり在仏日本大使館がBIEとの交渉を担ったが、とりわけフランス外務省を通じて事態を打開しようと試みていた。
 1937年7月に至るまで日本万博の認定をめぐるBIEとの交渉は成果につながらず、杉村駐仏大使は広田外務大臣宛に「専ラ政治的折衝ニ依リ仏国政府ヲ納得セシメ之ヲ通シテ条約事務局側ヲ説伏スルコト最モ実際的ナラスヤ」と述べている。事態を打開するために杉村が支援を求めたのが、フランス上院議員のアンドレ・オノラ(Andre Honnorat, 1868-1950)だった。フランスの外務省記録では、オノラが外務大臣に直接はたらきかけたことが確認できる。
 オノラはもともとは新聞記者として活躍していたが、1899年に海軍省に入省し、1907年にバス=ザルプ県(現在のアルプ=ド=オート=プロヴァンス県)の県会議員に選出されると、政治家としてのキャリアを歩むことになった。オノラは、とりわけ公教育や外交問題に携り、20年には文部大臣に相当する公教育・美術大臣に任命された。大臣を務めたときに、外国人留学生の滞在施設としていまも存続するパリ国際大学都市の創設を提唱し、25年から48年までその会長を務めた。21年にはバス=ザルプ県の上院議員として外交・公教育・公衆衛生に関わる各種委員会の委員を務めた。これらの活動を通じ、諸外国との交流組織の設立・支援にも力を入れ、日本との関係では、00年に創設された日仏協会の会長を35年に務め、フランスでの日本学の普及にも役割を果たした。こうした関係から、杉村はオノラに日本万博開催に向けた支援を求めたと考えられる。
 オノラは、外務大臣宛に1937年6月28日付の書簡を以下のように送っている。

  親愛なる大臣、
 日本は1940年に国際博覧会の開催を計画しています。
 正式には、この国際博を開催できるのは1941年に限られています。というのも、もし思い違いでなければ、国際博は開催ごとに2年を空けなくてはならず、さらに39年にニューヨークで国際博が開かれるからです。
 しかしオリンピックが1940年に東京で開かれる予定であり、1年を空けて、ヨーロッパやアメリカの人々に日本の長距離移動を求めることはできません。日本当局が2つの催しを同時に開こうとするのは当然のように思われました。
 われわれがそれぞれの催しに参加することは間違いありません。ただ、日本政府の招待に対し、最初に返答するのはわれわれであろうことを信じています。
 (略)この点について、われわれがほかの人々の行動に従って同じように行動してしまったり、さらに、日本の世論をわれわれに利するように立て直すための絶好の機会を失ってしまったりすることには、まったく道理がないように私には思われるのですが、それが誤っているか否かについてご判断いただければと思います(24)。

 このように、オノラは日本をめぐる国際情勢を気にかけながら、1940年の日本万博を国際社会での関係改善の好機と捉えることで、開催の認可を求めている。
 これに対する外務大臣の返書(1937年7月22日付)は下記のとおりである。

  ご書状をありがとうございます。私の部局で共有いたしました。これに申し添えますと、現在に至るまで、フランス政府はこの催しに参加する公的な招待状をまだ受け取っておりません。
 (略)フランス政府は返答を控えなくてはならないでしょう。というのも、1928年の国際条約については博覧会国際事務局に前もって照会しなくてはならないからです(25)。

 このように、オノラのはたらきかけがあったものの、すでに見たように、国際博覧会条約の規定上、日本万博の認定と公式参加の可否は、フランス政府内だけでは対応できない性質のものだった。

日本万博への参加招請

 一方、日本では1940年の万博開催に向けた準備が着々と進んでいて、諸外国への招待状の送付は38年3月におこなわれた。
 この招待状を受け取ったフランス政府は、意思決定に際して、外務省、商務省など、関係する省内での調整が必要だった。まず、外務省は3月15日付で、同省のアジア・オセアニア局に、日本から受けた参同招請への対応を照会している。アジア・オセアニア局は、「フランスがこの国際的催しに参加することについて、政治的観点から異議はありません。この催しは、極東でわれわれの芸術・科学・技術の文化に関わるさまざまな側面を一層広める機会になるでしょう」といって、基本的な問題はないという見解を示し、むしろ万博参加に積極的な姿勢を見せている。
 これを受け、外務大臣は商務大臣に対して3月30日付で「政治的にはいかなる異議もない」として今後の対応を照会している。しかし商務大臣の判断は、これと異なるものだった。商務大臣は4月26日付の書簡で、次のように返答している。

  閣下もご存じのとおり、日本は1928年11月22日の国際条約の加盟国ではないため、われわれの参加は、事前に博覧会国際事務局の承認を得ないことには検討することができません(26)。

 このように、先に見たオノラの打診に対する外務大臣の返答と同様に、やはり国際博覧会条約とBIEによる承認がネックになっていたわけである。
 以上のフランス政府内の動きとは別に、日本でも在日フランス大使館を窓口にした交渉がなされていた。在日フランス大使館からは1938年3月29日付の書簡で、40年日本万博の組織委員会会長の藤原銀次郎から書状(3月23日付)を受け取ったことが伝えられている。藤原は、富岡製糸場支配人、王子製紙社長を務めた人物であり、29年からは貴族院議員に在任していた。藤原は、共和国政府が日本万博に公式参加するようにその斡旋をフランス大使に強く申し出たようである。この藤原の書状(フランス語)には以下の文言が見られる。

 閣下〔フランス大使:引用者注〕は、計画された開催年が、パリで批准された1928年の条約の規定に従ってないと思われるかもしれません。しかし、この件について、この条約の規定に起因するすべての問題は、博覧会国際事務局とわれわれの間で最も望ましいかたちで解決したことを、つつしんでお伝えいたします(27)。

 このように、フランス外務省と商務省が把握している情報とは正反対の情報が日本の万博組織委員会から寄せられることになり、これを受けてフランスでは外務大臣が商務大臣に再び5月21日付で次のように問い合わせをおこなっている。

  この書状で〔藤原:引用者注〕会長は〔駐日フランス:引用者注〕大使に、この催しが計画された日時について生じた問題、すなわち国際博に関わる条約の規定に適合していないという問題は、パリの博覧会国際事務局と日本政府の間でおこなわれた調整の結果、解決したと伝えています。
 藤原氏から大使に伝えられたこれらの情報が正確なものかをお知らせくださいますよう、お願いいたします(28)。

 これに対する商務大臣の回答(1938年6月8日)は下記のとおりである。

  閣下〔外務大臣:引用者注〕が尋ねられたことへの回答として、これらの情報は、正確だとは思われないことをつつしんでお伝えいたします。
 1938年4月5日の会議で、博覧会国際事務局の評議会は、この問題については次の会議で結論を出すことに決めました。すなわち10月末頃になります。したがって、日本政府の招待に対する適切な返答は、このときにしかできないということになります(29)。

 上で見た藤原の書状には、1940年の日本万博開催という日程が条約の規定に不適合ではないとした根拠は書かれておらず、BIEと日本政府とのあいだでどのような交渉があったのかは不明である。いずれにしても、日本初の「万博」の開催には、諸外国の参加が不可欠であり、そのためにはBIEの認可を性急に取り付ける必要があったことは確かだろう。とはいえ、BIEが出した結論は、半年先まで議論持ち越しというものであって、これに対するフランス政府の方針は、このBIEの評議会の判断を優先するというものだった。

最後の交渉

 ただし、このあと、フランス政府内では以下のような興味深い動きがあったことを最後に付け加えておこう。実のところ、このとき日本から1940年の万博に向けた参同招請委員の有吉忠一と橋本祐幸が6月3日にパリに到着し、商務大臣と面会していたのである。
 この面会後、6月23日付でフランス首相(閣僚評議会長)が、商務大臣がすでに示したBIEの10月の審議結果次第だというスタンスを把握したうえで、外務大臣に対し、日本万博へのフランスの参加について改めて問い合わせているのである(30)。これを受けて、外務省は再びアジア・オセアニア局に問い合わせをおこない、日本万博参加への前向きな返答をしていいかどうかの判断を尋ねている(31)。
 これらフランス政府内の一連の動きが、どのような経緯で起こったのか、日本側の関与があったのかは不明である。しかし結局、これらの交渉は、日本で決定された「開催延期」によって打ち切られることになる。7月16日付で、杉村駐仏大使は1940年日本万博の延期をフランス外務省に伝えたのだ。そこには次のように延期の理由が示されている。

  この決定は、極東の現在の情勢を考慮したばかりでなく、1928年の国際博覧会条約の批准国が第2種一般博としてこの催しに参加することに関わる困難によるものである。この問題は、東京での博覧会の成功を弱めかねないものだった(32)。

 このように、杉村は、日本万博の延期の決定は、極東情勢ばかりでなく、日本が希望する1940年開催が条約の規定にそぐわないという点によるものだったことを述べている。
 日本にとって初めての万博の開催は念願だったが、日本側が紀元2600年となる「1940年」および一般博の規模での開催に強くこだわったことが、国際博覧会条約への批准を拒む結果になり、また加盟国もこれに公式に参加できないという事態を招いたわけである。万博が国威発揚の場として機能する側面をもつことはあったが、それは国際博覧会条約に基づいた正式な認可を受けてこそなしうるものだったといえるだろう。1933年3月の国際連盟の脱退に続き、38年7月の博覧会国際事務局との交渉の頓挫は、国際関係での日本の孤立をさらに印象付けるものになったとも考えられる。自国の論理を優先したかたちでの万博の開催はそもそも困難だったのである。


(1)1937年パリ万国博での日本の展示については、以下を参照。井上章一「パリ博覧会日本館・1937―─ジャポニズム、モダニズム、ポストモダニズム」、吉田光邦編『万国博覧会の研究』所収、思文閣出版、1986年、佐野真由子「文化の実像と虚像──万国博覧会に見る日本紹介の歴史」、平野健一郎編『国際文化交流の政治経済学』所収、勁草書房、1999年、川畑直道「写真壁画の時代――パリ万国博とニューヨーク万国博国際館日本部を中心に」、五十殿利治編『「帝国」と美術――1930年代日本の対外美術戦略』所収、国書刊行会、2010年
(2)藤木隆男/豊田健太郎「1937年パリ万国博覧会日本館の設計経緯について」「日本建築学会計画系論文集」第63巻第514号、日本建築学会、1998年、三田村哲哉/小林克弘/中原まり「パリにおける博覧会の変遷に関する研究――1855―1937年を対象とした配置計画の分析を中心として」「日本建築学会計画系論文集」第64巻第519号、日本建築学会、1999年
(3)Edmond Labbe, Exposition internationale des arts et techniques dans la vie moderne (1937): rapport general, vol. 1, Imprimerie Nationale, 1938, p. 240.
(4)巴里万博覧会協会『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』1939年、92ページ
(5)日本外務省記録は、外務省外交史料館所蔵の外務省記録『外国博覧会関係雑件 巴里万国博覧会(1937年)』(第1―5巻、1935―39年)を参照した。
(6)同書37ページ
(7)同書128ページ
(8)同書68―69ページ
(9)同書158ページ
(10)同書172ページ
(11)同書96ページ
(12)同書96ページ
(13)同書201ページ
(14)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』134―140ページ
(15)同書93ページ
(16)同書92ページ
(17)Livre d’or, p. 302.
(18)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』160ページ
(19)前掲『外国博覧会関係雑件 巴里万国博覧会(1937年)』96ページ
(20)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』222ページ
(21)同書262ページ
(22)加藤哲郎「幻の紀元2600年万博覧会――東京オリンピック、国際ペン大会と共に消えた「東西文化の融合」」、増山一成「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」、加藤哲郎監修・解説、増山一成編・解説『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」別冊解説)所収、国書刊行会、2015年
(23)濵田耕平「昭和15年の「皇紀2600年奉祝日本万博覧会」計画に関する外務省記録」「外交史料館報」第24号、外務省外交史料館、2009年
(24)MAE, De A. Honnorat au Ministre des Affaires etrangeres, le 28 juin 1937.
(25)MAE, Du Ministre des Affaires etrangeres a A. Honnorat, le 22 juillet 1937.
(26)MAE, Du Ministre du Commerce au Ministre des Affaires etrangeres, le 26 avril 1938.
(27)MAE, De l’Ambassade francaise au Japon au Ministre des Affaires etrangeres, le 29 mars 1938.
(28)MAE, Du Ministre des Affaires etrangeres au Ministre du Commerce, le 21 mai 1938.
(29)MAE, Du Ministre du Commerce au Ministre des Affaires etrangeres, le 8 juin 1938.
(30)MAE, Du president du Conseil, Ministre de la Defense nationale de la Guerre au Ministre des Affaires etrangeres, le 23 juin 1938.
(31)MAE, Note pour la Sous direction d’Asie-Oceanie, le 8 juillet 1938.
(32)MAE, De l’Ambassade japonaise a Paris au Ministre des Affaires etrangeres, le 16 juillet 1938.

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第6章 “うち” の論理、“そと”の視線――後篇

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

3 博覧会での植民地パビリオン

 紀元2600年万博計画を1930年代の国内の博覧会と比較していると、もう1つ、興味深い特徴に気づく。植民地パビリオンである。主だった国内博覧会には台湾館や朝鮮館、南洋館、そしてセットのようにして満州館が、必ずといっていいほど建設されている。
 戦前の博覧会で、各種アトラクションと並んでこれら植民地パビリオンは定番コンテンツの一つだった。それがどの程度の広がりをもっていたかを知るために、試みに乃村工藝社ウェブサイト「博覧会資料COLLECTION(1)」をベースに、国内でおこなわれた1930年代の博覧会をチェックしてみよう。列挙したのは、説明文に植民地展示があったと記載されているもの、別の記録からそれが確認できたもの、あるいは植民地そのものがテーマになっているものである。独立したパビリオンが建ったという記載がある場合には☆を付している。

御遷宮奉祝神都博覧会(1930年、三重)☆
全国特産品博覧会(1930年、愛知)
観艦式記念海港博覧会(1930年、兵庫)☆
満蒙博覧会(1930年、長野)
台湾博覧会(1930年、大阪)
国産振興博覧会(1931年、鹿児島)
日満大博覧会(1932年、京都)
満蒙大博覧会(1932年、大阪)
満蒙権益博覧会(1932年、大阪)
産業と観光の大博覧会(1932年、石川)☆
満蒙軍事博覧会(1932年、愛知)☆
満州事変1周年記念伸びゆく日本博覧会(1932年、岡山)
万国子供婦人博覧会(1932年、東京)☆
台湾と南太平洋博覧会(1932年、東京)
第2師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(1933年、宮城)☆
祖国日向産業博覧会(1933年、宮崎)☆
奈良施政35周年記念観光産業博覧会(1933年、奈良)☆
全日本国産洋服博覧会(1933年、大阪)
日満交通産業博覧会(1933年、愛知)
国際産業観光博覧会(1934年、長崎)☆
皇太子殿下御誕生記念 国防大博覧会(1934年、東京)☆
国産振興家庭博覧会(1934年、岡山)☆
全国工芸博覧会(1934年、岡山)☆
日満興産博覧会(1934年、北海道)☆
新興熊本大博覧会(1935年、熊本)
復興記念横浜大博覧会(1935年、神奈川)☆
国防と産業大博覧会(1935年、広島)☆
産業総動員興行大博覧会(1935年、大阪)
楠公600年祭記念 神戸観光博覧会(1935年、兵庫)
伊賀文化産業城落成記念 全国産業博覧会(1935年、三重)☆
皇軍第1線満州国境警備博覧会(1936年、東京)
国産振興四日市大博覧会(1936年、三重)
躍進日本大博覧会(1936年、岐阜)☆
博多築港記念大博覧会(1936年、福岡)☆
輝く日本大博覧会(1936年、兵庫)☆
高山本線開通記念日満産業大博覧会(1936年、富山)☆
伊藤部隊凱旋歓迎 亜細亜大陸博覧会(1936年、愛知)☆
名古屋汎太平洋平和博覧会(1937年、愛知)☆
国際温泉観光大博覧会(1937年、大分)☆
政治博覧会(1937年、東京)☆
北海道大博覧会(1937年、北海道)☆
支那事変博覧会(1938年、広島)☆
神国大博覧会(1938年、松江)☆
聖戦興亜大博覧会(1939年、群馬)☆
聖戦興亜博覧会(1939年、北海道)
世界の黎明・大亜細亜博覧会(1939年、東京)☆
大東亜建設博覧会(1939年、兵庫)☆

 アーカイブに登録された1930年代の国内博覧会は220件ほどで、戦前どれだけ多くの博覧会がおこなわれていたかが数のうえからも確認できる。植民地関連の展示の比率だが、この220件は百貨店などでおこなわれた小さなものも網羅していて、また開催の事実だけを掲載しているものも半数近くある。単にアーカイブのコンテンツ説明に植民地関連の展示の記載がないとか、展示をおこなったのにその記録が存在していないものもあるはずだ。また、30年代末に急増する軍事関連の博覧会では、大陸での戦場の模様がパノラマで再現されることが多く、そこではおのずと植民地やその近郊の紹介も含まれただろう。
 これらを勘案すると、47の博覧会で植民地展示がおこなわれたという記載がなされ、うち単独パビリオンとして植民地館が建設されたものが30という数字は、かなりの比率になるはずである。植民地展示は1930年代を通じて日本全国場所を問わず常におこなわれ、また軍事・観光関連が多いとはいえ、洋服や婦人子ども博などテーマ上あまり関係がない博覧会にも登場していた。アトラクションや娯楽施設と並んで博覧会と深いつながりをもつコンテンツだったのである。さらに、加えて帝国外地、つまり当の植民地でも博覧会はおこなわれていた。植民地と博覧会はまさに切っても切れない関係にある。
 1940年の万博は30年代の博覧会熱の真打ちともいうべきタイミングで、アトラクションや娯楽施設は従来型をさらに発展させた大規模なものが予定されていた。しかし一方の重要なコンテンツである植民地パビリオンは、事前に発表された会場計画には少なくともそれとわかるかたちでは書き込まれていない。これは何を意味しているのだろうか。
 植民地館といっても、厳密にいうと台湾・朝鮮と満洲では位置付けが違う。前者が国内ではないにせよ帝国内に位置するのに対し、後者はあくまでも建前は独立国である。万博計画には、万博事務局の側で設置してそこに出品してもらう外国館と、参加国側が建てる独立した外国特設館という出展のかたちがあり、満州出展は分類上はこのどちらかになったはずである。実際、1937年の名古屋汎太平洋平和博覧会――これは多数の海外出展があったという点で、万博に先んじる事実上の国際博だった――では、満州館は外国特設館として建設された。万博の延期が発表されたのは、海外参加国招致活動がスタートして世界各地で招請使節が説明・勧誘活動をおこなっている最中のことだったから、満州館が計画案にないのは、その意味では不思議ではない。
 しかし一方で、各国参加の勧誘のための亜細亜太平洋使節の旅程に満州は入っておらず、国内の府県向けにおこなわれた出品打ち合わせの延長として、担当者が朝鮮、台湾、関東州に出張して現地当局と打ち合わせをおこなっている。関東州は満州からの租借地なので朝鮮や台湾と並んでいてもおかしくはないが、実態は満州が出展するのと何ら変わりはない。ここには、内実としては帝国の版図と見なしながらも国際的な承認の得られていない満州の、矛盾に満ちたありようが表れている。
 この万博には、計画初期段階から植民地で事業を展開する企業も関心を寄せていた。「万博」(日本万国博覧会協会)の創刊号に掲載された万博協会の評議員には、台湾製糖、台湾銀行、朝鮮銀行、南洋興発といった国策会社が名を連ね、のちには南満州鉄道会社(以下、満鉄と略記)東京支社長の伊藤道雄が役員および顧問、評議員に就任している。ちなみに正会員になるには協会に対して1口100円の出資金を支払う必要があり、口数に応じて特別会員、名誉会員とランクが変わった(日本万国博覧会協会規約第5条)。南満州鉄道会社は最高ランクの名誉会員として、日本銀行などと並んで出資した5法人の1つで、当初から万博に極めて大きな関心を寄せていたことがうかがえる。
評議員は理事会の承認を得る必要があり(第16条)、また会員は万博で優待を受けられることになっていた(第8条)。会員になるメリットについて規約には具体的には書かれていないが、1937年2月にはさらに満州化学工業と日満マグネシウムが入会している。前述の名古屋汎太平洋平和博の満州館には企業の活動を紹介するセクションがあっただけでなく、物産の陳列には多くの企業が名を連ねていて、そこには満州化学工業の名前もあるから(2)、博覧会は宣伝広報活動の一環と考えられていたのだろう。
 朝鮮・台湾の関わり方も、はっきりしない点が多い。当初発表された計画案では外国特設館のほかに、「我国官公体及諸会社等が各自の経費を以て建設」する内国特設館枠が含まれていて、このカテゴリーで台湾・朝鮮の総督府が独自館を建てることは可能だっただろう。しかし最初の計画を縮小するかたちで発表された最終案には内国特設館は含まれておらず、外国館を中心とする5号埋立地エリアに内国即売所敷地と銘打たれた一角があるものの、文字どおりに解せばここは展示館ではなく即売所である。
 名古屋汎太平洋博では、外国館や企業館に並んで国内の特設館も14館が出展していて、地方博でも植民地以外にも国内の自治体が出展することは珍しいことではなかったから、万博で国内向けの特設館がないのは不思議である。国内特設館がないと出品物は出展地別ではなく、各陳列館にそれぞれのテーマに沿って分散して展示せざるをえないが、朝鮮や台湾は文化が異なる外地であり、国内の展示物と同一に並べれば違和感が生じるはずだ。

4 国際博での日本と植民地

 しかし2600年博での植民地パビリオンの不在は、国内的な流れからだけでなく国際的な布置からも検討しなければならないだろう。この点を追っていくと、当時の日本が抱えていた複雑な事情が見えてくる。
 満州国はいうまでもなく、満州事変によって関東軍が打ち立てた傀儡政権である。1931年、奉天(瀋陽)で日本の管理下にあった満鉄を、中国軍の仕業と見せかけて爆破した柳条湖事件を機に日中両軍の間に本格的な戦闘が始まり、翌32年には清朝の愛新覚羅溥儀を擁立した満州国の建国が宣言される。国際連盟が派遣したリットン調査団の調査結果に反発し、日本が国際連盟を脱退するのは翌33年である。政治面での国際的な孤立は深まっていくばかりだった。
 国際博での日本の植民地展示も、事態の進展によって異なる国際的な視線のもとに置かれた。そもそも万博は植民地展示と深く結び付いていた歴史があり、ヨーロッパでは1920年から30年代にかけて植民地をテーマにした博覧会も頻繁に開催されていたから、当時の感覚では展示自体が問題というわけではない。遠方の地から運ばれてくる品々、あるいは現地の人々を直接連れてきての生活の展示は、観客のエキゾチックな好奇心を満たすなくてはならないコンテンツだった。ロンドン北部でおこなわれた大英帝国博覧会(1924―25年)、フランス・シュトラスブール(1924年)、ベルギー・アントワープおよびリエージュ(1930年)、パリ(1931年)といった国際博に加え、フランスではさらにマルセイユ(1922年)やアルジェリア植民地化100年記念(1930年)などの国内向けの大規模植民地博もおこなわれている(3)。
 このうちアントワープとリエージュの2都市で1930年に開催された万国科学工業海洋植民地博覧会には日本も出展している。ベルギーからのはたらきかけもあって最終的には日本政府そのものではなく日本産業協会が出品業務にあたった。この協会は博覧会協会と殖産奨励会が合併して21年に設立された団体で、産業奨励、輸出促進などのために見本市や博覧会をおこなうことを主な仕事にしていた。予算も官民共同出資のかたちをとり、鉄道省がいちばん多額の2万円を出資しているが、次に多いのは満鉄で(1万600円)、三菱合資会社(1万円)、三井物産(8,477円)と続く。朝鮮や台湾の総督府の出資はわずか(それぞれ500円、200円)だったが(4)、国際館の割り当てスペースでは手狭だったので、日本産業協会は小規模ながら日本館を建設、さらに台湾総督府ならびに日本蟹缶詰業水産組合連合会と連携して日本館脇に茶店を開き、それぞれ台湾茶、カニ缶詰を提供してかなりの成果を上げた。
 この展覧会では当初、満鉄は3万円の出資を申し出たようで、ほかと比較して国際博に寄せる関心が高かったことがうかがえる。もっともアントワープ・リエージュ博は満州事変以前の開催であり、日本も出展自体にさほど力を入れていなかった。より大規模で興味深いのは、事変後に日本が初参加したシカゴ万博(1933年)である。
 満州“独立”後初の国際的舞台だったから、満州側がプレゼンスを発揮したいと考えたのは当然で、満州出品協会の理事・山下清秀も「満州国の実際を全世界に知らしめ、建国の理念を十分認識せしむると同時に其の産業風俗等を紹介するに絶好の機会(5)」と捉え、在奉天(現・瀋陽)アメリカ総領事館、関東軍の板垣征四郎を訪ねて地ならしをしたあと、東京に向かった。来日していた大会総裁顧問のアルバート博士とはすれ違いで会えなかったが、博士が満州の出品も打診していたため、意を強くした山下は満州に戻り各所から次のような合意を得た。

[1]名前は満州館とすること、ただし満州地方館なる意味を説明すること。
[2]満鉄から9万5,000円(出品費を含む)を補助すること。
[3]満州国から15万5,000円を支出すること。
[4]満州出品協会を責任者とすること。 (以下2項略)

 日本の出品協会の予算規模が国庫支出54万円を含め総額70万円ほど(6)だったから、新興国家・満州がこの出展にどれほど力を入れたかがわかる。
 ところでここでパビリオンの名称に関わる[1]が問題になった。満州建国はアメリカでも大きな関心をもって報道されていて、満州館を名乗ることで反日感情が喚起されることを恐れた外務省が待ったをかけたのである。再び山下の言葉によれば「外務当局は満州問題で列強より白眼視され、併かも未だ承認されざる米国に於いて堂々と満州館を名乗ることの不利を強調し、商工省また産業紹介の見地より自説を固辞して譲らず、遂に参謀本部の意向もあって、名を捨て実をとる趣旨から対外的には満鉄館とし、対内的には満州館として押し通すことに決し(7)」たのだった。建国早々、満州は「うち」の論理と「そと」からの視線の差異に、アイデンティティーの分裂を起こしたのである。それは傀儡国家が本質的に抱える矛盾でもあった。
 もっとも、これを満鉄館の名称のもと日本の附属館としたのは、より実体に即してはいた。実際のところパビリオンは日本館のすぐ脇に建てられ、「切妻破風作り軒裏化粧(8)」の外観は大陸色を抑えたものだった。それもそのはずで、満州出品協会は建設の一切を日本の出品協会に委託し、資材の運送から建築に至るまで日本の協会が取り仕切った(9)。丸投げである。
 パビリオンは満州の宣伝に一役買ったとはいえるだろう。会場には発展著しい大連のジオラマや新京のパネルのほか、農業生活の紹介や特産品が展示された。会場で解説の任にあたったのは2世の日本人娘たちだった。期間中おこなわれた満州週間は企画にも力が入り、大いににぎわった。プライズコンテストでは100万枚のビラをまき、満州の人口、面積、主要産物などのクイズに正解すると抽選で毛皮やパールが当たった。1等の満州旅行に当選したのは美術学校の女学生で、母親とともに立ち寄った東京がいたく気に入り、2週間も滞在を延ばしたとある。これは現地新聞でも大々的に報じられた。
 さらに報告書によれば、1万人を収容する野外大ホールでは満州音楽の夕べがおこなわれ、ジョージ・ダッシュ博士指揮する100人のシカゴ・リットル・シンフォニーオーケストラが80人のウェルシュ合唱団とともに演奏し、NBCなどを通じて全米に放送された。会場でプログラムを配布したのは、こちらも振り袖姿の日本の娘たちだった。演目にはダッシュ博士がオーケストラ用に編曲した満州国国歌が取り上げられた。ほかに写真展、パビリオン前での地元中学校のバンド演奏、晩餐会が企画された(10)。
 このときに雇われたリットル交響楽団は正式名称をThe Little Orchestra of Chicagoといい、指揮をとったダッシュらによって1921年に設立された。ラジオ放送や学校での音楽鑑賞会など、さまざまな活動をおこなっていたようである。ダッシュはセオドア・トマス管弦楽団(現・シカゴ響)のヴァイオリン奏者として活躍したあと、独立して指揮者になった(11)。80人編成は“小楽団”とはいえず、かなりのエキストラが入っていたものと思われるが、現地ではそれなりに知られた団体だったようである。
 名称は1歩譲ったにせよ、満鉄館のアピールは成功し、ひとまず目的は達せられたといっていいだろう。反発もなかったわけではない。会期中、在シカゴの中華系団体・中国慈善協会会長から、アメリカが満州国を承認しないかぎり、日本の展示から満州関連のものを撤去せよという要望書が博覧会当局に数次にわたって出された。これに対して日本側事務局は要望のたびに説明をおこない、事務局長から「博覧会の出品に対し、そう鹿爪らしく考える必要は毫も認めない(12)」という発言を引き出した。川原も「当初よりの方針に些かの変更も加えず、本館設置の目的を達したのである(13)」と誇らしげに報告している。
 とはいえ、関係者の勇ましい発言とは裏腹に、このあと国際的な舞台での満州ならびに植民地展示はぐんとトーンダウンしていく。1937年のパリ博では、満州問題はある程度の落ち着きを見せていたにもかかわらず(14)、出品リストには満州はおろか朝鮮や台湾の名前もない(15)。この万博のテーマは「近代生活における芸術と工芸」で、一見するとエキゾチックな植民地のイメージにはそぐわないようにも思われるが、「第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡」でもふれられているとおり、そもそも当時の満州では、東京の震災復興でもかなわなかった都市改造のアイデアを大胆に取り入れた実験的な試みが次々とおこなわれ、新京では下水道を完備した田園都市さえ実現されていた。そうした最新開発都市を生活の彩りとともに提示すれば、強いアピール力をもったはずだ。
 パリ万博日本館の宣伝部の壁面は、金属製の日本地図やコラージュ写真で飾られた。報告書に掲載された文化宣伝部の写真は部屋全体を写しているわけではないが、少なくともそこに写ったものから判断するかぎり、地図には日本列島だけが示され、壁面写真は鎌倉の大仏や五重塔などといった日本の代表的観光名所などがコラージュしてある。提示されている日本はあくまでも「内地」であり、そこに植民地の姿はない。
 これに対して、1939から40年にかけておこなわれたサンフランシスコ万博にはもう少しはっきりと植民地のイメージが表れていたが、会期中におこなわれた展示替えがこの間のイメージの急速な悪化を示唆している。
 当初、日本館観光部の壁面には電飾を施された観光パノラマ地図が設置されていたが、そこには朝鮮・台湾が日本の領土として示され、日本と満州を結ぶ観光ルートが示されていた。また日本・朝鮮・満州の代表的な風景を描いた壁掛けが飾られ、同じく日本・満州・朝鮮の女性を表す3体の像が設置された。これらの像は互いに手を取り合い、協力と平和をシンボライズしていた(16)。また同博美術品陳列館でおこなわれた「日本古美術展覧会」には内地のほかに朝鮮・台湾、琉球、アイヌの5文化圏の美術品が組み込まれていたという(17)。
 しかし翌1940年に始まった同博第2期の展示では、観光名所を描いた壁掛けは撤去され、3人の女性像は羽根つきをする少女の木目込人形に置き換えられてしまった。展示物は日本画・金襴・友禅・絞鹿の子・造花などといった純和風なもので統一された。おそらく逆風が大きかったのだろう。植民地色を出すことでイメージが損なわれてしまうなら、プロパガンダの意味がない。国際情勢も文化的宣伝活動を許さないほどに切迫していたのである。
 ところで、観光パノラマ地図からもわかるように、自ら開催地に足を運んで鑑賞・体験する博覧会は観光とも密接に結び付いていた。そもそも東京万博やオリンピックの誘致の主な狙いの一つが、外国人客の来訪を通じての外貨獲得だったのである。「第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展」でもふれたが、国際観光の推進は当時の世界的な傾向で、それに乗り遅れまいとする施策は議会でも真剣に討議された。1931年に国立公園制度が公布され、翌年から日本各地に国立公園が認定・整備されると、その付近に政府の低利融資を受けた外国人向けホテルが次々に開業する。外国人来日者数は政治情勢に左右されやすく、世界恐慌や満州事変後は大きく落ち込んだが、しばらくすると再び増加に転じ、36年には国際経常収支の黒字額の半分を占めるに至っている(18)。万博はこうして新たに整備された観光名所に外国人を送り込むポンプになるはずだった。
 ジャパン・ツーリスト・ビュロー(現・JTB)は外国人誘致を目的として明治時代に設立されたが、この時代になると日本人の外地旅行も積極的に手掛けるようになる。満州だけでなく中国・朝鮮・台湾の各地に支所網を張り巡らせ、さまざまなサービスが提供されていた。同社観光局満州支部が編纂した1940年の『満支旅行年鑑』(博文館)には、鉄道網だけでなく航路、空路、自動車・バス網が料金とともに表示されていて、大連や新京、奉天では日本旅館だけで各都市40から50館が開業していたことがわかる。そこに修学旅行や視察旅行と称して、日本全国から団体旅行客が詰めかけていた。鉄道旅客の累計数は34年の2,421万2,249人から38年には5,005万552人と倍以上に増えていて、交通網の急激な発展をうかがわせる。ちなみにこの『満支旅行年鑑』は単なる統計集ではなく、観光名所の紹介、入国規則や簡単な会話、観劇の仕方や料理・習俗の違い、さらには満州や中国・蒙疆の諸データまで掲載した400ページを超える書籍で、コンパクトながら読み応えがあり、さながら戦前版『地球の歩き方』(ダイヤモンド・ビッグ社)である。満支旅行は一般にはまだ高価だったとはいえ、手が届かないものではなかったのである。ジャパン・ツーリスト・ビュローは海外万博の日本の出展にも必ずといっていいほど加わっていたから、サンフランシスコ万博で国内の観光名所だけでなく満支ルートも売り込もうと考えたのは自然なことだったのだろう。
 サンフランシスコ博と同じ1939年におこなわれたニューヨーク博でも対外イメージの改善は重要な課題になったが、太平洋を挟んで対岸に位置するサンフランシスコに比べて日本に対する風当たりはより厳しかったようだ。これは満鉄が直前になって出展を取りやめた顛末によく表れている。
 再び山本によれば(19)、満鉄は当初ニューヨーク万国博覧会協会側からの要請もあって参加を予定していた。ニューヨーク・サンフランシスコ両万博で上映する映画の候補作として、満鉄制作の記録映画『草原バルガ』『広原児』『躍進国都』といった具体的な作品名まで挙がっていたというから、かなり話は進んでいたものと思われる。しかし出品内容を鉄道事業と満鉄経営の産業面に限定し、鉄道地図などの展示でも満州国の字句は避けるようにとアメリカ国務省から通告を受け、満鉄側はいったんその条件を受け入れたが、のちに満鉄東京支社長・岡田卓雄が外務省宛に参加中止を伝えている。
 こうした経緯からは、当事者間の興味深い力学の変化が見えてくる。第1次世界大戦の戦火の回復に時間がかかったこともあり1920年代は大型のものは少なかったとしても、ヨーロッパを中心に国際博覧会自体はおこなわれてはいたが、日本はそれほど参加に積極的ではなかった。30年代に入ると万博の国内開催の機運と相まって国際博への関心が育ってくるが、そこで満州をなんとか国際的な場に押し出して認知を得たい満鉄側と、できるだけそっとしておきたい外務省筋の綱引きがあったように思われる。ホスト国の事務局も日本の出品協会にしても、当事者は招致には積極的だったが、日中戦争の激化という事態の推移を受け、ニューヨーク博で満鉄はついに沈黙を余儀なくされた。こうした力学を前提にするなら、30年代の国内向け博覧会には欠かすことができなかった植民地パビリオンが、2600年万博の計画案に姿を現さない理由もおのずと推し量ることができる。
 とはいえ万博熱は外地に住む日本人にも共有されていた。2週間で1万通以上を集めた『万博行進曲』歌詞公募については、「応募者は内地、朝鮮、台湾、満州に及びその中には朝鮮文字を交えて記したもの、全然朝鮮文字で記したもの等、半島の人々の熱誠こめた応募も多数あり、また南洋サイパン島チャランカからはラジオで歌詞募集を知って邦人から電報を以て規定に関する問合せがあり、血判して話題を提供した応募者もあった(20)」という。採用された歌詞には、アジアが、そして大和心の歴史が真っ先に歌われていた(21)。「新方針の趣旨を全国に呼掛ける出品事務局協議会」は全12回がおこなわれたが、うち3回は京城、台北、大連で開催された。6枚つづり5円の大衆券が発売された第2回入場券前売りでは、販売地域を「朝鮮、樺太、関東州の外、満州国まで拡張する方針(22)」がとられた。植民地パビリオンこそ作られなかったが、万博はうちに対しては相変わらず帝国のアイデンティティーを強化するべく作用していたのである。

5 奉祝イベントと近代の超克

 オリンピック返上、万博は無期延期、という決定を受け、バランスを失った国家と国民は右傾化を一気に強め、奉祝イベントは軍国主義・総動員体制を強化する装置そのものと化していく。1940年に実際におこなわれたのは皇室の伝統を全国的に祝う行事で、内閣が主催して皇居外苑で11月10日におこなわれた紀元2600年式典を核として、オリンピックの代替イベントともいうべき東亜競技大会、特別観艦式、奉祝美術展、奉祝演奏会、奉祝芸能祭などさまざまな関連行事がおこなわれた。また国際舞台では苦い思いを味わってきた満州も、このときには国務総理大臣を委員長とする日本紀元2600年慶祝委員会を組織して堂々と奉祝行事をおこなった。目玉は満州国皇帝の来日で、建国神話の地名をもつ戦艦・日向に乗って大連を出発した溥儀は、6月26日、東京駅に出迎えた天皇と5年ぶりに再会して直接祝辞を述べた。奉祝に際しては外国からの特派使節は受け入れない方針だったからことからも(23)、満州がどれほど特別待遇だったかがわかる。
「贅沢は敵だ」などのスローガンが生活のなかに浸透してくると、消費は万世一系の天皇制イデオロギー賛美によってだけ正当化されるようになった。すでに述べたようにツーリズムは外貨獲得・国内消費喚起などの動機に裏付けられて発達したが、建国神話と結び付くことによってこの状況を生きながらえた。各地で組織された勤労奉仕隊が、天皇陵や神社といった聖跡の整備事業に参加した。整備された橿原神宮や宮崎神宮には、神武天皇ゆかりの地として何百万人もの観光客が訪れている。この頃には満州157万人を筆頭に中国、ブラジル、ハワイ、アメリカ、ミクロネシア、フィリピン、ペルー、カナダなど海外に250万人、加えて朝鮮、台湾、樺太に120万人の日本人移民が暮らしていた。皇民化政策は八紘一宇のスローガンのもと植民地でもおこなわれ、紀元2600年奉祝行事に合わせて開催された海外同胞東京大会には、世界各地から代表団約1,400人が結集している(24)。
 国民動員にラジオが活用されたこともよく知られている。11月10日の記念式典の様子は同時中継され、ラジオを所有する国民は近衛文麿首相の発声による「天皇陛下、万歳!」に唱和することができた。しかし次世代メディアとして国際的にも競って研究開発が進められていた新技術テレビジョンについては、あまり知られていないだろう。テレビもまた博覧会と密接な関わりをもちながら発展し、万博・オリンピックを演出する技術から戦時色を強める帝国日本の宣伝・軍事技術へとその性格を変えていく。
 テレビ開発はすでに1920年代後半にはイギリス、アメリカ、ドイツなど各国で始まっていたが、日本でも30年に早稲田大学理工学部の山本忠興、川原田政太郎らのグループが機械式(ニプコー式)テレビの公開実験をおこなったのを皮切りに、30年代を通じて開発が進められた。32年に上野で開催された第4回発明博覧会には早稲田の機械式テレビと高柳健次郎を中心とした浜松高等工業学校(以下、浜松高工と略記)のブラウン管式という2種類のテレビ技術が公開された。特に早稲田は戸塚球場から上野の余興館に向けて野球中継をおこなった。映像はイベントとの親和性が高く、33年の万国婦人子供博覧会(25)ではテレジョン館が設置され、前述の横浜復興博でもテレビジョン電話が公開されるなど、その技術は各種の博覧会・展覧会を通じて人々の目にふれるところになっていくのである。
 この流れに拍車をかけたのが、36年のベルリン・オリンピックだった。映像精度はまだ高くはなかったが、市内25カ所に加え、無線博覧会や選手村、ポツダムやライプチヒにまで競技映像を届けたドイツの成果に、日本の関係者は衝撃を受けた。東京オリンピックまでにはテレビ放送の実用化にこぎつけたい行政の後押しで、逓信省公務局にオリムピック準備委員会が、電信電話学会に通信機器国産化委員会が設置され、37年には日本放送協会(NHK)技術研究所が浜松高工の高柳健次郎を招聘し開発に本腰を入れていく。東京電気、松下電器、日本ビクターなどのメーカーが受信機の開発を競い、テレビジョン調査委員会は東京40カ所、大阪30カ所、名古屋20カ所と、ベルリンを大幅にしのぐ公開テレビの設置を発表した(26)。
 万博の延期とオリンピック返上は、テレビジョン調査委員会の解散など、研究上の大きな障害を引き起こしたが、1939年、高柳らはNHK技術研究所で、新しい放送会館の落成に合わせて実験放送の実現にこぎつける。テレビ技術開発もまた日本の科学技術の粋を天下に示すという当初の目標から、ラジオと並ぶ宣伝用兵器、国威発揚のシンボルへと意味合いを変えることによって、時局の変化を乗り越えたのである。
奉祝年の4月には、日本初のホームドラマ『夕餉前』(NHK、1940年)が放映されている。これは父を失った、母と兄妹からなる3人家族の夕飯前のひとときを描いた作品で、出演した原泉子(母役。のちの原泉。中野重治の妻)、野々村潔(兄役。岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻で寺尾聰の母)はいずれも新協劇団の出身だった。新協劇団は日本プロレタリア演劇同盟が解散したあと、その流れを受けてできた劇団で、当初は当局から執拗な監視を受けたが、特別高等警察に自ら赴き国民精神総動員運動への賛意を表明したことで活動の幅を広げた(27)。
 この年の秋の「電信70年電話50年放送15年 記念展覧会」で放映されたホームドラマ第2作『謡と代用品』(NHK)には子役として中村メイコが出演し、各種演芸ではビクター歌手の歌謡指導番組や、江口隆哉・宮操子によるノイエ・タンツも放映された。それまでのものに比べて画像は格段に洗練され、また会場にはほかにもファクシミリ、プッシュホン式電話、航空無線、無線電話、テレックスなどの最新装置が展示された。会場になった日本橋三越には開場時から人が詰めかけ、新しい技術の数々に目を丸くした(28)。
 奉祝年が過ぎると、いよいよ本放送に向けての準備が始まったが、1941年7月の日本軍の南部フランス領インドへの南進と、それに対するアメリカ・イギリス・中国・オランダの経済制裁、いわゆるABCD包囲網によって物資の欠乏が叫ばれ、テレビ技術は徐々に軍事へと転用されていく。メディアに「国防テレビ」と報じられた低価格の小型テレビが完成し、普及への期待の声も高まったものの、12月8日の太平洋戦争勃発によってテレビ実用化はその最終段階で頓挫、開発を率いてきた高柳も電波兵器の研究へと向かい(29)、戦争があらゆるものを飲み込んでいく。

 紀元節奉祝は1930年代初めから叫ばれてはいたが、時を経るにつれてそれはイベントの口実から主たる目的へと変わっていった。22年に政権を取ったベニート・ムッソリーニとファシスト党、33年のアドルフ・ヒトラーとナチ党は旧体制を批判することでユートピアへと向かう歴史を歩み始めたのに対し、日本では万世一系のイデオロギーと古来から続く道徳的な価値観が称揚された(30)。しかし、過去に対する態度は異なるにせよ、博覧会や党大会、イベントを通じて自らの出自を祝った点で3つの国家は共通しているし、その表象で最新テクノロジーと復古的な表現が奇妙なかたちで接合しているのも興味深い。これをふまえながら、事実とフィクションの間にぼんやりと漂う神武の建国神話とそれをめぐる熱狂について、最後に筆者の感想を記しておこう。
 奈良の橿原神宮、畝傍山東北陵(神武天皇陵)の拡張整備事業と並んで、宮崎の神宮境域拡張整備の一環として『八紘之基柱』が建設されたことは「第2章 肇国記念館と美術館――紀元2600年万博の展示計画」で述べられているとおりだが、ここを訪れた際、正面の階段を上った踊り場のあたりを観察していたら、石の1つひとつに「山東省済南三州会」とか「北支杉山山本隊」などの文字が刻まれているのに気がついた。朽ち果てて読み取れないものも多いのだが、はたしてこれは塔の建設に際して各地から寄せられた献石だった。腐食の度合いがまちまちなのも、送られた場所によって石の質が異なっているからだろう。寄贈された1,879個の礎石の内訳は1990年代以降に継続的に調査されていて(31)、送り元は内地にとどまらず、八紘一宇の理念そのままに中国198、朝鮮123、台湾40、ほかに樺太・パラオ・カナダ・アメリカ・フィリピン・ドイツ・ペルー・シンガポールの(主に日本人)団体にも及んでいた。中国からの献石が多いのは、軍や師団ごとに所在地付近の石を送るよう、相川勝六宮崎県知事が知己の関東軍の板垣征四郎に依頼したからである。
 紀元節奉祝にあたって日名子実三が宮崎で手掛けたのは『八紘之基柱』だけではない。南へ下った神武天皇の皇宮には『皇軍発祥之碑』があり、さらにもう1つ、日豊本線で北上した小さな港町・美々津にも『日本海軍発祥之地碑』が立っている。碑文は海軍大将・米内光政の書になるものだ。神武天皇のおひざもとの軍隊を皇軍と呼ぶのはまだわからないではないが、神武のお船出を明治以降の近代海軍と結び付けるのはこじつけのようにも思える。
 美々津。日豊線のこの小さな無人駅で降りて海軍碑がある立磐神社に向かう途中、江戸時代の街並みを残した一角に立ち寄った。耳川の河口に位置する美々津は江戸時代には材木の積み替え港としてたいへんなにぎわいを見せたが、明治時代に日豊線が整備されると、地の利を失い急速にすたれたという。そのさびれ方があまりにも早かったため、再開発の機会もないまま街並みが残されて、それがいまでは市の景観保存地区になったのだ、と古屋を改造した資料館の年配女性が田舎の人のよさで教えてくれた。
資料館の奥は展示室になっているのだが、足を踏み入れると「おきよ丸漕舟大航軍記念」と大書された青地のフラッグが目に飛び込んできた。展示を見ながら、美々津と紀元節のつながりの深さに驚いた。
 美々津では古くからおきよ祭りという夏祭りがおこなわれているが、祭りの起源は神武の船出である。天気の都合で急遽出立が早まったために、村人たちは早朝から「起きよ、起きよ」と家々の戸を叩いて回り、献上する餅を準備したという。奉祝年に美々津の人々はお船出伝説にあやかって古代舟を建造、おきよ丸と名付けられたこの船を、大阪毎日新聞社が海軍協会・大日本海洋少年団と共催して、各地の聖蹟をたどりながら橿原神宮まで航海させた。大阪毎日新聞社が刊行した記念帖には「宮崎神宮の神璽ならびに橿原神宮に納め参らす神盾を奉安した軍船おきよ丸を、屈強の若者80名が黒鉄(くろがね)の双腕に24丁櫓を操りつつ時に疾風猛雨にたたかれ狂瀾怒涛にもまれるなど、幾多の試練に遭遇したが天祐神助に恵まれた上に、漕手一同が腹の底から唱える“おきよ”の掛声に不倒不堯の勇猛心を奮い起こしてよくこれを乗り切り意義深き大航軍を見事に完遂したのである」と記されている。89人の漕ぎ手は宮崎と大分の若者だったが、うち34人が美々津出身者である。記念フラッグもそのときのものだ。
 近代化の波に取り残され急速にさびれていた村に突如訪れた奉祝ブームは、神風にも似た熱波をもたらしたのだろう。ちなみに『日本海軍発祥之地碑』の碑文は、戦後アメリカ軍によって消されたが、1969年に地元の強い要望を受けて復元されたという。戦争も戦後もないかのように、この地にはお船出伝説と奉祝の余韻がいまだに息づいている。
 ところで、おきよ丸の回遊航路を記した地図を眺めているうちに、神武伝説と奉祝行事を結ぶ作品が浮かんできた。東京音楽学校の教師として『海ゆかば』を作曲した信時潔の代表作『海道東征』である。紀元節を祝ってさまざまな作曲家によって多くの管弦楽曲が書かれたが(32)、晩年の北原白秋が精魂を込めたテキストに付曲した全8楽章の本作は、なかでも最も規模が大きく、最も頻繁に上演された作品だった。テノールの木下保が指揮する東京音楽学校の管弦楽団と合唱団は、この曲をもって関西・北陸・信越・中部の主要都市を巡回しただけでなく、1942年には満州建国十周年を祝い旅順、大連、新京、ハルビン、奉天、京城、平壌にまで演奏旅行に出ている(33)。
 高千穂の建国からお船出を経て、豊予海峡・宇佐・広島安芸・吉備を通り即位に至る道のりを描いた『海道東征』は、満州での五族協和、大東亜新秩序での八紘一宇の理念の核心にある神話を音によって追体験する格好の作品だった。追体験といっても、音楽的な質を伴わなければむしろ逆効果である。信時は西洋音楽の手法をベースに置きながら五音音階や民謡音階を取り入れ、日本語としての美しさに留意しながら、劇的かつ格調高い音楽を作り上げた。
『海道東征』は戦後、華々しく取り上げられることこそなかったものの、木下らの努力によって細々と再演され続けていて、ここにきて公演の機会も増えている。2015年には東京音楽学校の後身にあたる東京芸術大学のメンバーが奏楽堂で、同大では戦後初となる再演をおこなった。「いたずらに編成と規模を広げた冗漫な作品(34)」という戦後に貼られてきたレッテルとは裏腹に、朴訥だが力強いメロディーラインに乗った日本語は聴き取りやすく、民族的伝統に加え近代唱歌の経験なども十分に生かされているように思われた。全体的にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルやフランツ・ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオを日本流に発展させたものという印象だ。
 バリトン歌手の畑中良輔は戦後、機能和声のシンプルな終止を主とする信時の歌曲を「非常に保守的であり古典的」「およそ稚拙と呼んでいいほどの無技巧派」と評しながら、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ヨハネス・ブラームスへの信時のあまりにも深い敬慕が一種の信仰のような魅力を作品に与えている(35)、と述べている。なるほど信時はプロテスタントの牧師の父をもつクリスチャンだった。しかし音楽的には保守的かつ古典的で、精神のルーツも多分に西洋的なものを併せ持っていたにもかかわらず、『海ゆかば』や『海道東征』のシンプルであるがゆえの荘重な祝祭性は、西洋に接ぎ木された日本なるものではなく、万世一系の日本の表象として意識的に、あるいは無意識のうちに“誤読”されたのではなかろうか。
 戦争を直接体験した世代が戦後長らくこういう作品を忌み嫌ってきた気持ちもわからないではないが、そう考えるならこれは一種の“誤読の誤読”であって、問題なのは『海道東征』がはらんでいるこうした歴史性をどう解きほぐし理解するかである。そしてこの視点からすると日名子実三の『八紘之基柱』にしても、あるいは西洋建築に日本式の瓦屋根をかぶせた帝冠様式にしても、根底には同じ構造を見いだすことができる。それは西欧をどう受け止め、どう乗り越えるかという、開国以降日本の知識人が悩み続けてきた課題が、時局と重なり合いながら表現へと結実し、熱狂的な受容を生み出していくプロセスである。さらにいえば、それは明治以来万博という場で西洋の技術と文化に驚嘆し、自国での開催に繰り返し挑んできた歴史、そして土壇場でそれを紀元節奉祝イベントへとすり替えた心性そのものでもある。
 日名子が彫刻家としてだけでなく、大陸にまで渡って満州事変や日中戦争の戦死者の慰霊塔を手掛けたことは「第2章 肇国記念館と美術館」で述べられているとおりだが、この点で日名子の創作もヨーロッパと強く結び付いている。1927年にパリに留学した日名子は早々に第1次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪れ、さらに帰国前にはヨーロッパ各地を巡る周遊旅行に出ている。これらの旅先で日名子が関心を寄せたのがその土地その土地の歴史をふまえた記念碑、とりわけ戦争記念碑だった。なかでも、当時ヨーロッパ最大といわれたライプチヒの『諸国民戦争記念碑』からは大きな影響を受けたといわれている(36)。
『諸国民戦争記念碑』は戦争の100周年を記念して、ウィーン分離派のシンボリスト、フランツ・メッツナーとドレスデンの芸術アカデミーに所属していたクリスティアン・ベーレンスが1913年に設計したものだ。巨大な記念碑の周囲には兵士の彫刻が据えられていて、入口には大天使ミカエルの巨大レリーフがそびえている。雄々しく屹立するミカエルはユーゲントシュティル風の光背や鷲に彩られていて、訪れるものを圧倒する。重厚ななかにモダンを巧みに取り込んだスタイルは、日名子が訪れた28年はまだ目新しいものだっただろう。第1次世界大戦は、近代ヨーロッパが経験した無数の戦争のなかでも最大規模のもので、20年代は戦没者を祀る記念碑が続々と建てられた時代でもあった。日名子はヴェルダンをはじめ各地で落成したばかりの記念碑を巡っている。
『八紘之基柱』は建立の趣意書によれば「石造り堅牢の純日本式にして崇高壮大なる万古不易」の塔として構想され、神主がお祓いに用いる御幣の形を模したといわれている。しかし柱の基部や周囲に配置された4体の信楽焼の彫像をライプチヒの記念碑と、とりわけ荒御霊と大天使を並べてみると、そこはかとないフェイク感を覚えずにはいられない。ほかの文化や様式を模しているからではなくて(そんなことをいいだしたらほとんどの芸術は模造である)、ヨーロッパに和の衣を着せて日本式といっているところが、である。
 断っておくが、これは『八紘之基柱』や『海道東征』の作品としての評価とは別次元の話である。取るに足らない作品ならば、同じ塔がそのまま『平和の塔』と名前だけ変えて市民の憩いの場として親しまれているとか(37)、忘却のなかからしぶとくよみがえって母校の音楽堂に響き渡るなどということはないだろう。
 仮に万博やオリンピックが開催されていたら、これらの作品もまた違った文脈で作られ、受容されただろう。巨大国際イベントが消えたあと、大陸の戦線は泥沼のように拡大し、アメリカとの戦争もいよいよ現実味を帯び始めていた。日本社会が強固な共同性を確認するには、紀元節奉祝というテーマしか残っておらず、そこには国際親善もエンターテインメントも入る余地はない。そもそも皇紀自体が西暦を意識して作られたフィクションを多分に含んだ概念であるにもかかわらず、フィクションがさらなるフィクションを招き、ついには虚構を事実と錯覚させてしまう強力な磁場が形成されていったのではないか。この磁場では東亜の盟主として立たなければならないという帝国の欲望が、あたかも個人の欲望のように語られる。それは西欧コンプレックスに悩まされてきた知識人を近代のダブルバインドから解き放ち、国家との一体感のなかへと絡め取ったのである。
 伝統に帰依しながら、同時に民族の優越性を表象する――こうした目的のために選び出される芸術はモダニズムではない(38)。日名子や信時はこの命題に適ったアーティストだった。だからこそ同じ虚構のなかに集団催眠のように閉じ込められた人々から歓喜をもって迎えられたのだろう。


(1)乃村工藝社の「博覧会資料COLLECTION」(https://www.nomurakougei.co.jp/expo/)は、寺下勍のコレクションをもとにしている。寺下は戦前にディスプレイを請け負うくろふね装飾社(のちのくろふね工芸社)に入社、住み込みで学びながら「博覧会でジオラマとかパノラマを造る時に、わら半紙を貼った上から膠で溶いた絵の具を塗る手伝いなどをして3年間を過ごし」(「インタビュー 寺下勍一代記」、「日本の博覧会――寺下勍コレクション」「別冊太陽」第133号、平凡社、2005年、225ページ)、戦後は日本美術展覧会で活躍した。博覧会アーカイブは創設後も各所から寄贈を受けてコレクションを拡大している。
(2)名古屋汎太平洋平和博覧会編『名古屋汎太平洋平和博覧会会誌』下、名古屋汎太平洋平和博覧会、1938年、1312ページ
(3)パトリシア・モルトン『パリ植民地博覧会――オリエンタリズムの欲望と表象』長谷川章訳、ブリュッケ、2002年、363ページ、注(1)
(4)日本産業協会編『白耳義国独立百年記念安土府殖民海洋万国博覧会日本産業協会参同事務報告』日本産業協会、1931年、66―67ページ
(5)山下清秀編『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書――全』進歩一世紀市俄古万国博覧会満洲出品参加残務整理事務所、1934年、4ページ
(6)河原茂太郎編『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』1934年、131ページ
(7)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』5ページ
(8)前掲『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』207ページ
(9)同書274―275ページ
(10)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』71―75ページ
(11)パンフレット「The Little Symphony Orchestra of Chicago」“Iowa Digital Library,”(http://digital.lib.uiowa.edu/cdm/ref/collection/tc/id/34911)[2017年4月24日アクセス]
(12)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』81ページ
(13)前掲『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』289ページ
(14)1933年5月の塘沽協定によって、満州事変は中国との間に停戦が成立している。
(15)巴里万国博覧会協会編『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万国博覧会協会事務報告』巴里万国博覧会協会、1939年、161―170ページ
(16)商工省監理局編『紐育金門万国博覧会政府参同事務報告書』商工省監理局、1941年、122―123ページ、山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象』森話社、2012年、34―35ページ
(17)同書87ページ
(18)古川隆久『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年、75―77ページ
(19)前掲『戦時下の万博と「日本」の表象』124ページ
(20)「万博」1938年3月号、日本万国博覧会協会
(21)「若き亜細亜の黎明(しののめ)に 命輝く 新日本 見よ悠久を 貫ける 大和心の その精華」『万博行進曲』1番歌詞
(22)「万博」1938年6月号、日本万国博覧会協会
(23)ヒトラーは使節派遣を申し出たが、親善使節による親書を送るにとどまった(『天業奉頌』紀元2600年奉祝会、1943年、190ページ)。
(24)ケネス・ルオフ「海外日本人と祖国――海外同胞大会」『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』木村剛久訳(朝日選書)、朝日新聞出版、2010年
(25)満州をめぐる国際的な調停が不調に終わるなか開催されたこの博覧会は、子どもと婦人に焦点を当てながら、消費を喚起すると同時に、国防館や東郷館が建てられるなど、日本を賛美する展示がちりばめられた。他方、「万国博覧会」をうたっていることからもわかるように、3つの外国館が建てられ各国デーがおこなわれるなど、国際色も豊かな博覧会だった。当時の社会情勢を色濃く反映しているが、なかでも最も人気を呼んだ出し物が、ドイツのハーゲンベック・サーカス団だった(以上、川口仁志「「万国婦人子供博覧会」についての考察」「松山大学論集」第20巻第5号、松山大学総合研究所、2008年、参照)。この団体は1940年の「世界5大サーカス団」の1つにも挙げられている
(26)飯田豊『テレビが見世物だったころ――初期テレビジョンの考古学』青弓社、2016年、255―246ページ。日本のテレビ開発の経緯についても同書を参照した。
(27)森田創『紀元2600年のテレビドラマ――ブラウン管が映した時代の交差点』講談社、2016年、150ページ
(28)同書202―205ページ
(29)森田創「『その日』までテレビは続いた」、同書、参照
(30)前掲『紀元2600年』16ページ
(31)この詳細は「八紘一宇」の塔を考える会編著『新編 石の証言――「八紘一宇」の塔「平和の塔」の真実』(〔みやざき文庫〕、鉱脈社、2015年)の巻末資料にまとめられている。
(32)皇紀2600年奉祝会が国際委嘱した奉祝曲が有名で、リヒャルト・シュトラウス(ドイツ)、イルデブランド・ピツェッティ(イタリア)、ヴェレシュ・シャーンドル(ハンガリー)、ジャック・イベール(フランス)の作品が東京歌舞伎座で初演された。『海道東征』は日本文化中央連盟の委嘱で書かれ、ほかに山田耕筰、宮城道雄の委嘱作とともに初演された。この年、奉祝をめぐってほかにも数多くの新曲が書かれ、初演されている。
(33)橋本久美子「《海道東征》を歌った東京音楽学校の3年間」、CD『信時潔――交聲曲「海道東征」他』(NYCC-27300)ブックレット所収
(34)佐々木光「音楽家と戦争責任――戦時下の諸問題」、日本音楽舞踊会議編『近代日本と音楽』所収、あゆみ出版、1976年、166ページ
(35)新保祐司『信時潔』構想社、2005年、86―88ページ。『日本歌曲全集――信時潔作品集』からの引用による。
(36)広田肇一『日名子実三の世界――昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版、2008年)の「ヨーロッパ留学」(46ページ以降)および「記念碑」(109ページ以降)の章を参照。
(37)1945年12月15日のGHQの通達で「八紘一宇」の語の使用が禁じられたため、当初『八紘之基柱』も撤去されるだろうと考えられていたが、碑文・武神像などの消去・撤去ですんだ。その後、63年に武神像が再設置され、65年には「芸術性を高める」という理由で「八紘一宇」の文字が復元された。前掲『新編 石の証言』第4章「戦後の「八紘一宇」の塔」参照。
(38)ただし、このことは当時の日本に様式としてのモダニズムがなかったということを意味しない。ナチは理念や様式としてのモダニズムを「退廃」として排除したが、日本の公安は主題性は問うても、その芸術のスタイルまでには目を向けなかった。音楽創作に関していうと、今世紀に入ってNaxosからリリースされている『日本作曲家選集』によって戦前の日本の作曲の動向が明らかになってきたが、そこには保守的な信時、あるいはロマン派以降の音楽から影響を受けた山田のような作曲家だけでなく、モダニズムを吸収・消化したうえで新たな方向を模索する多様な試みが見られる。
 なぜこうした試みが戦後、断絶されたまま顧みられてこなかったのかは、前衛音楽の祭典となった1970年の大阪万博の音楽シーンを世代論から読み解くうえで興味深いテーマだが、詳細な検討は別の機会に譲り、ここでは次の点を指摘するにとどめる。
東京音楽学校の作曲科にいた信時や橋本国彦は、戦後は公的に活躍する機会もなく創作活動も減退する。旺盛な活動を続けた代表は山田だが、戦争責任論は付いて回った。沈黙するにせよ非難されながら活動するにせよ、この世代は戦前のおのれの振る舞いに関してある程度の社会的な制裁を受けたといえるが、その下限はどこにあるのだろうか。
 片山杜秀は日本の近代音楽史上、1907年を注目すべき年だと論じている(CD『深井史郎――パロディ的な4楽章、ジャワの唄声ほか』〔Naxos 8.5576881〕ライナーノート)。この年には呉泰次郎、深井史郎、小船幸次郎、松平頼則、平尾貴四男、大澤寿人、須賀田礒太郎、長谷川良夫といった作曲家が生まれている。彼らの世代には大正から昭和初期のモダニズムに育まれた自由な気風が共通しているが、その作品の大半は今日、やはり顧みられることがほとんどなく、Naxosのプロジェクトが始まるまで事実上、忘却されていたといえるだろう。
 一方、1970年の大阪万博に参加した著名作曲家のうち、最年長にあたるのは14年生まれの伊福部昭である。満州事変以降に青年期を迎える伊福部は07年世代を「民族的矜持がない」と批判していたが(前掲『深井史郎』ライナーノート)、民族を掲げた伊福部が残りモダニズムが忘れられたのは、やはり世代の違いだろうか。「3人の会」の芥川也寸志・団伊玖磨・黛敏郎が20年代生まれであることを考えると、戦前と戦後の分水嶺は1907年世代と伊福部の間に引くことができそうである。

 

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第6章 戦前の消費社会と幻の万博――前篇

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

1 復興記念横浜大博覧会

 2600年奉祝万博は会場設計段階までいったけれども、実現していたら人々がどんな催事やアトラクションを楽しんだかまでははっきりしない部分が多い。延期の決定は開催2年前で、そろそろ内容の具体化に入るタイミングだったため、催事の詳細や演芸場・野外音楽堂でのイベントについては、ようやく企画作りが緒に就いたところで宙に浮いた。雑誌「万博」(日本万国博覧会協会)には、疑似世界旅行を体験できる「万博大観」、「コドモノクニ」などのアトラクション施設、世界5大サーカス団の招聘などの計画が報告されているものの、すでに決まっていた企画案にしても、実現までに大幅な変更を余儀なくされることも万博では珍しくない。
 それでも当時の社会状況や関連事業から推測して、ある程度の姿を描くことはできる。万博事務局は先行する欧米の事例をよくリサーチしていて、当然のことながら世界標準としての万博の基本は踏襲されただろう。しかし、海外旅行が今日とは比較にならないほど費用も時間もかかる時代だったことを考えれば、多くの国民はそれを世界の万博との比較においてではなく、国内博の延長上にイメージしていたはずである。
 博覧会は当時、都市部に生活する人々にとって身近なメディアだった。開国以来、日本人は国内でも博覧会の経験をこつこつと重ねていて、暮沢剛巳「第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡」がつとに紹介しているように、1930年代にはそうした動きは列島だけでなく台湾や朝鮮など帝国の植民地にまでも広がっていた。日本国博覧会が大枠で欧米諸国の万博と平仄を合わせるものだったとしても、大型の博覧会を開くのに必要なノウハウや人材はすでに国内に蓄積されていて、宣伝広報を介しての動員や催事、アトラクションについてもその経験が生かされたにちがいないのである。
 ここで明治以降の国内博の流れを簡単に振り返っておこう。長年の鎖国のギャップを埋めるため西欧列強の科学技術や文化に並々ならぬ関心を寄せた日本人にとって、世界の最先端の知が集結する万博はこれ以上ない学びの場だった。単に視察にとどまらず、江戸末期の幕藩体制時代から出展も重ねていたが、時々の幕府や藩、政府だけでなく、貿易販路を切り開こうとするたくましい商人たちもこれに積極的に呼応した。
 明治期には海外への出展だけではなく、国内でも国民の教化啓蒙の手段として博覧会が開催されるようになる。1877年(明治10年)に第1回を迎えた内国勧業博覧会は、その後も第5回の京都まで断続的に開催され、のちの博覧会隆盛の礎を築いた。大正・昭和期になると、国内各地で続々と博覧会が開かれていく。テーマも多彩だ。産業博、勧業博を始め、観光博、国防博、鉄道開通記念博、関東大震災からの復興博、さらには婚礼博やこども博など、特定のテーマに沿ったおびただしい数の博覧会が各地で開催されていくのである。
 博覧会の舞台裏は、いわゆるランカイ屋と呼ばれる人々によって支えられていた。戦前の博覧会を数多く手掛けた中川童二によると(1)、ランカイ屋は主に4つのクラスに分かれていた。博覧会の開催が決まると、主催者である県や市、鉄道会社や新聞社などの内部に事務局が組織され、さまざまな部署から人が集められる。しかし彼らには博覧会を開くノウハウがあるわけではない。この素人集団にプロとして入り込むのがAクラスのランカイ屋である。彼らは各地の博覧会を渡り歩いているので、内外の事情に詳しいだけでなく、打ち合わせの仕方や宣伝方法、さらには工事規定などにも精通していて、工事関係者にも顔がきいた。Bクラスは実際の工事を請け負う層で、建設業者や装飾会社がこれにあたる。Cクラスはさらにその下で働く職人たち、すなわちデザイナー、背景画家、大工、ペンキ屋、電気屋といった人々。そしてこのヒエラルキーのいちばん下に位置するのが、Dランクのテキ屋である。テキ屋というとお祭りの出店などが思い浮かぶけれども、博覧会で興行をおこなう者もいて、博覧会の面目にかかわるような場所には入れないことも多かったが、テキ屋のなかには外国のサーカス団を呼んでくるほどの実力をもつ者もいた。逆にAクラスだからといって信頼がおけるともかぎらず、「博覧会が出来上がると、工事担当者から、たんまりとリベートをとって、出品者に供応させ、女看守を誘惑して、開館まぎわにドロン」するような者もいた。
 パビリオンや会場施設の建設は地元の工務店や左官屋が請け負うこともあったが、国外館や奇抜なアイデアなども盛り込んだ博覧会場を短期で完成させるために専門の職人が求められたのも、また自然な流れだっただろう。彼らは博覧会が開かれるところどこにでも駆け付け、朝鮮や台湾、満州など外地の博覧会であっても、仕事を受けて海を渡った。中川の回想記は、開会日に間に合わせるために知恵と力を絞り、次々と起こるトラブルをやり過ごして、つかんだ小金で派手に豪遊するランカイ屋たちの姿を生き生きと伝えている。
 博覧会は地域振興や産業振興に寄与したため、大正期に入ると自治体主導でも多数開催されるようになる。もっとも教育啓蒙というお堅い内容だけでは人は集まらないから、集客のためのさまざまなアトラクションが開発された。すでに明治の勧業博に登場していたウォーターシュートから、パノラマ館、不思議館、メリーゴーラウンド、水族館、海女館、空中回転車などが人気を集めた。盛況が伝えられるとほかも追随し、ランカイ屋たちがコンテンツを全国に売って歩くという一連の流れもパターン化する。新聞社や百貨店による民間主催も増え、1930年代に入ると規模も拡大し、名古屋の汎太平洋平和博のように多数の招待国を擁するミニ万博のような博覧会さえ出現する。日中戦争激化後は軍部主催の博覧会も目立って増え、戦地を再現する大規模なパノラマが半ば国策として制作されていった。
 それらの博覧会はテーマや地域によって異なってはいるものの、ある程度共通する基本フォーマットをもつ。実は2600年博の催事の実際は、ほかの万博との比較よりもむしろこうした先行する国内博と比較してみるほうが、当時の人々が思い描いていただろう姿に近づくことができる。博覧会の成否は何といっても集客にかかっていて、そのための宣伝広報活動や余興、アトラクションの充実は不可欠だった。実際に万博の計画や事前活動を見るかぎり、国内博の先行例とかなりの共通性を有しているのである。
 そこで本章ではまず、関東大震災からの復興を記念した復興記念横浜大博覧会(1935年)の宣伝活動やアトラクションに注目することで、幻の万博の姿を間接的に浮かび上がらせてみよう(2)。2600年博は東京晴海の埋立地と横浜でおこなわれる予定だったから、1935年の横浜の復興博はそれに先行するものと位置づけられる。
 関東大震災では、横浜も甚大な被害を受けた。当時の横浜市の人口は42万人で、東京市の5分の1程度だったにもかかわらず、家屋の全壊棟数は1万6,000戸と東京市をはるかにしのぎ、現在のJR関内駅周辺の住宅密集地では80パーセント以上の家屋がつぶれ、そこから火災が発生して深刻な打撃を受けたのである(3)。その後の復興事業によって1929年4月には記念式典をとりおこなうところまでこぎつけたものの、折からの世界不況のあおりを受けて貿易も停滞し、再び苦境に陥った。そこで市は横浜市長・大西一郎を会長に頂き「帝都の門としての横浜の発展」を目指す博覧会の計画を34年2月に発表した。
 広報は事務局内部に設置された宣伝部が担った。宣伝部はまず各所に勧誘特使を派遣するとともに、新聞雑誌を通じて出品を募った。また、ポスターは時期によって異なるデザインのものを5種類制作したが、第1回の1万5,000枚を全国に配布したのち、第2回以降は図案を一般公募し、157点の応募作から選ばれた4点が第2回から第5回までのポスターに用いられた。
 また視覚的な宣伝だけでなく耳への訴えかけが始まっているのも、ラジオやレコードが普及したこの時代らしい。公募形式はここでも採用され、行進曲調の「唱歌」と流行歌風(ジャズを含む)の「唄」の2部門それぞれに歌詞が募られた。唱歌130点、小唄84点の応募作のなかには曲をつけてくるものまであったという。西條八十が選者になり、入選歌詞による唱歌『復興博の歌』が、1935年1月18日開港記念横浜会館で開催された復興博の夕 音楽舞踏の会で一般公開された。一方、唄の部の1等賞作は社交ダンスのニューステップとして振り付けられた。2等賞作は松竹レコード・スタジオによってレコード化され、博覧会記念として一般頒布されたという。
 音楽を用いた宣伝はこれにとどまらない。紫紅の筆名で明治大正期に劇作で活躍した山崎小三は、震災後は政財界に活躍の場を移し、この時期には横浜の市会議員になっていた。山崎はこの機に『横浜音頭』を作詞、1934年7月に横浜市電気局主催の納涼大会で披露している。
 しかし博覧会を彩り、訪れた人々の心にさらに深く刻まれた音楽は、西條八十作詞、中山晋平作曲『濱をどり』音頭だったのではないだろうか。復興博会場に設置された演芸館では、後述するように『濱をどり』をテーマにした6景からなる舞踊劇が連日上演された。この曲は同じく西條八十作詞による新小唄『港むすめ』(作曲:佐々木俊一)とともにビクターから発売されてヒット、『港むすめ』は東宝の前身の一つ、ピー・シー・エル映画製作所の『旧恋』(監督:矢倉茂雄、1935年)の主題歌にもなったのである(4)。
 新聞・雑誌といった印刷メディアも大いに活用された。中核となったのが新聞宣伝で、地方紙にまで広告を打つだけでなく、「ジャパン・イラストレーレッド」などを通じて早い時期から海外広報にも取り組んだ。また大福引デーなどイベント連動型の企画も目を引く。「サンデー毎日」(毎日新聞社)、「アサヒグラフ」(朝日新聞社)、「新青年」(博友社)、「少年倶楽部」(大日本雄弁会講談社)など当時のメジャー雑誌にも積極的な呼びかけをおこない、徳川夢声を特派員として体験記を掲載した雑誌もあったという。
 新聞社主催のイベントも少なくない。「東京朝日新聞」は朝日カメラ館を、また「東京日日新聞」は子供の国を、それぞれ特設館として会場内に設置した。「横浜貿易新報」による標語募集には全国から4,000近い応募があり、「挙(ルビ:こぞ)って横浜へ、揃って復興博へ」が1等に選ばれた。
 宣伝は街頭など都市の生活空間にも入っていった。東京・横浜など五十数カ所にネオンなどで装飾された立て看板が置かれ、地下鉄・電信柱・私鉄・バスにもポスターが掲示された。自動車による街頭宣伝もおこなわれ、『濱をどり』『港むすめ』などを演奏する一団が各地を巡回した。飛行機からのビラまきは今日ではおこなわれないが、個人飛行などのついでに数万から数十万枚の単位で投下された。横浜の女流飛行家が羽田から満州親善飛行に飛び立った際には、事務局は散布ビラのほかに朝鮮総督府、大連や新京の市長などへのメッセージも託している。その効果については、「街頭配布に比して多少劣るかの観あるが、飛行機上からのビラまきは、ビラまきそれ自体に、大衆の注意を集める大きな力がある」と報告書が述べているとおり、話題性は満点だったようだ。
 ラジオ・映画ニュースなども重要な宣伝媒体で、単なる周知・広報にとどまらず、タイアップ型までもが登場している。先ほど述べた映画『旧恋』は、横浜のバーに身をやつした女が相思のまま離別した男と邂逅を遂げるという、原作者・菊池寛お得意のコテコテ恋愛劇なのだが、山手外人街、山下町、波止場などでロケをおこない、「これ程完全に横浜を取り入れた映画は、是が最初」と報告書が絶賛する仕上がりだった。街角の映像を彩る『港むすめ』(このころ国内ではトーキーが普及し始めていた)とともに、港町・横浜は観客の脳裏に強力に刻み込まれたことだろう。
 会期が近づくと、広報活動はありとあらゆる場面で展開された。郵便物は特製スタンプで押印、街頭にはサンドイッチマンが、公園内には大装飾柱が出現した。たすき掛けの宣伝ガールが宣伝マッチを街頭配布したが、このマッチは英語版も用意され、出港する船舶に乗って全世界へと送られた。絵はがき、会場図、リーフレット、英文パンフレットなどの配布物に加え、時事写真が浴場や商店に掲示された。アトラクションに招聘されたアメリカン・ロデオの一団も、明治神宮や宮城を参拝したあと、新聞社や百貨店を訪問して広報に一役買った。前売り入場券は景品付きで、当選すると伊勢神宮、二見、奈良、京都遊覧に招待された。汽車・宿泊・食事・土産付きの当たりくじは500本用意され、これによって実売12万枚という好成績を得ることができた。
 次に、会場でおこなわれたアトラクションについて見ていきたい。博覧会は3月26日から5月24日、2カ月にわたって開催された。催事のメイン会場は演芸館で、開幕日に能楽と『港むすめ』『濱をどり』によるこけら落としをおこなったあと、連日2部構成で有料公演をおこなった。第2部には前述の『濱をどり』を中心とする劇が上演されたが、第1部は客演で、さまざまな内容の出し物が数日から10日程度で入れ替わった。めぼしいものを拾っていこう。4月3日には澤村宗十郎ならびに地方・関内芸妓連による『奴道成寺』が2時間にわたって上演されたあと、ジャズ演奏に移り、アール・ユールス指揮、フロリダ・カレンジアンス伴奏のもとヘレン隅田が歌唱やタップダンスを披露した。ヘレン隅田こと隅田寿美子は日系2世で、外国曲カバーのヒットを受けてレコード会社の招聘で来日したものの、あまりパッとしないままアメリカに帰国した。これは自らのルーツになった国に残した仕事の一つというわけだ。
 彼女がビクターに録音した「ニッポン娘」を聴いたが、「言葉は分からない/なんにもわからない/1人さびしく泣いている(略)船でニッポン来たのよ/はるばる超えてニッポン来たのよ」という歌詞が、舌足らずな歌唱で切々と歌われ哀愁を覚える。戦前、日本はアメリカに多くの移民を送り出しているが、彼らは戦争開始後も敵国人として収容されるなど、文化のはざまでさらなる辛酸をなめることになる。彼女もそうした経緯をたどったのだろうか。
 4月19日から5月14日にかけては、ドイツに渡ってノイエ・タンツを学んだ江口隆哉とその弟・江口乙矢、隆哉の妻・宮操子らの舞踏が繰り広げられた。江口は日本のモダンダンスの礎を築いた人物だが、この日はフーゴ・カウン『若き日』、ベルナウ『3人の踊子』『打楽器による習作』、グスタフ・ランゲ『明』、リヒャルト・シュトラウス『ラインランド風景』を披露した。『ラインランド風景』でピアノ伴奏を受け持った岩田喜代造は、コロムビアの専属管弦楽団で楽長を務めていたピアニストである。
 4月22日から29日には東宝劇壇(ママ)が登場、当時の看板だった美川百合子や大徳寺君枝が独唱やダンス(スパニッシュダンスやタップダンス)、寸劇を演じている。さらに4月30日から5月4日までは、エリアナ・パヴロバによる『白鳥』『タンゴアンダウルサ』『ジプシースパニッシュ』ほかが上演された。パヴロバはサンクトペテルブルクに生まれたが、ロシア革命で国を追われ日本に入国。1937年には日本に帰化するとともに多くのダンサーを育て、日本バレエの母として知られる。パヴロバが日本の地を踏んだのは20年代初頭で、途中に上海やハルビンにも立ち寄っている。租界地・上海では各国からの移住者でインターナショナルな文化が花開く一方、ハルビンは満州事変まではソ連の極東での戦略的要所として文化活動にも力が入れられていた。ここで少しハルビンについて付言しておこう。
 満州事変以前、1930年代初頭に外交官の一家として同地に住んでいたオペラ好きの日本人の回想によれば(5)、当時ハルビンでは鉄道で働くロシア人の慰問のために、モスクワからオペラ座などの客演が頻繁にあったという。『スペードの女王』や『エフゲニー・オネーギン』などの定番作品ばかりでなく、リムスキー・コルサコフやモデスト・ムソルグスキーをはじめとするロシア物、『売られた花嫁』『ホフマン物語』『蝶々夫人』など多様な演目が上演されていた。当時の日本内地では考えられない贅である。
 中心街キタイスカヤ通りは当時「東洋の小パリ」と呼ばれ、石畳の通りの両側にはアールデコ風の建築物が立ち並んで情緒あふれる一角だった。筆者はごく最近ハルビンを旅したが、文化大革命を経て現在はロシア人はおろかかつてのロシア支配の痕跡さえないものの、街並みは昔の面影をよく伝えていた。暮沢の前掲「第7章 満州で考える」にもあるように、満州国時代の日本の建築物も現在でも現役のものが多く、イデオロギーとは別に使えるものは使う、という中国人の実利的な思考がよく表れているように感じられた。この訪問では、キタイスカヤ通りの一角に1913年に建てられたモデルン・ホテルに投宿したが、当時の音楽家やバレリーナたちの写真でロビーが飾られていた。パヴロバも同じ舞台で踊ったのだろうか。
 演芸館の話に戻ろう。これらの催しを第1部として、このあと第2部には唄と踊りからなる劇『濱をどり』が上演された。この催しは6景からなり、まず日本の玄関口・横浜から恵みの御代をことほぐ導入に始まり、東海道の光景、黒船渡来、1923年(大正12年)の震災の猛火、そこからの復興を経て、現代の横浜の繁栄を祝い先述の『濱をどり』が踊られるというものだった。週替わりで神奈川を中心とする各地の芸妓連がその踊りを披露した。
 演芸館以上に大衆の耳目を引いたのは、オートバイ・サーカス、カウボーイ繰馬曲技、ファイヤー・ハイ・ダイビング、さらにはチンパンジーまで加わったアメリカン・ロデオの興行だった。会場になった外国余興場は8,250平方メートル(2,500坪)の敷地に4,290平方メートル(1,300坪)のグラウンド、30メートル(100尺)の高塔を設け、その両側には1,500人収容のスタンドを設置、立ち見を入れると計6,000人が観覧できた。催しは4部からなり、第1部は「ワイルド・ウエスト」と銘打って西部カウボーイとインディアンとの戦いが演じられた。投げ縄や人体の周囲に剣を投げて突き立てるアトラクションに加え、戦の前のインディアンの死のダンスやローマン・レースなどが披露された。これにオートバイの曲芸乗り(球技や横たわった人体の上を跳躍)や射撃などによるオートバイ・サーカス(第2部)、チンパンジーによる食事、喫煙、綱渡りなどの芸(第3部)が続き、ファイヤー・ハイ・ダイビング(第4部)でイベントはクライマックスを迎える。これは猛火に身を包んだ男女が高塔から地上のタンクに飛び込むというもので、大変な人気を呼び、54日間で有料・無料合わせて22万人あまりを集めた。ダイビング中にメンバーが強風にあおられてタンクの縁にあたり重症を負うという事故が起こった。幸いにも大事には至らなかったが、観客もさぞ固唾を飲んでなりゆきを見守ったことだろう。
「東京日日新聞」が中心になって運営した子供の国は1,650平方メートル(500坪)の敷地に山を築き、その斜面に滑り台、さらには3段のひな壇式楕円形トラックを設置して、三輪車、豆電気自動車、子馬を走らせた。入口の門に置かれた象の模型は、綱を引けば耳や鼻が動いて鈴が鳴るという仕掛けで訪れた子どもたちを喜ばせた。

 復興記念横浜博の宣伝・集客の手法には、押さえておくべきポイントがいくつかある。第一に、大衆消費イベントの祖型は戦後を先取りするかたちですでにできあがっているという点である。博覧会事務局は新聞・雑誌・ラジオ・映画などの各種メディアを用いて、盛んに宣伝広報をおこなった。1930年代半ばには軍事関連の博覧会も目立ち始めてはいるが、少なくとも横浜博に関するかぎり皇国主義的な要素はほとんど見られない。開催の動機は繁栄を願う地元団体の声に後押しされた自治体の地域復興にあり、それゆえ動員にあたっては福引で射幸心をあおるとか、街角から祭りの気分を醸成していくとか、演芸や派手なアトラクションで観客を楽しませるという手法がとられたのである。これは万博でも踏襲されていく。また、日系アメリカ人によるタップダンスやジャズ、ドイツ仕込みのモダンダンス、ロシア亡命バレリーナの踊り、アメリカン・ロデオなど、出し物には豊かな国際色も見られる。昭和初期の博覧会は啓蒙・教育を目的とした明治時代の内国勧業博のようなスタイルからは脱却し、消費社会のイベントへと進化を遂げている。
 これと関連するが、2点目に大衆動員にあたって参加型を巧みに取り入れていることにも着目しておきたい。福引はわかりやすい例だが、「復興博の歌」やスローガン制作(「挙って横浜へ、揃って復興博へ」)で積極的におこなわれた公募スタイルは、万博宣伝でも踏襲されていく。こうした公募型の楽曲制作は『満州行進曲』『肉弾三勇士の歌』などに見られるように、満州事変後、国威発揚という観点からもおこなわれていたが、それは必ずしも国家から強制されたものではなく、民間の宣伝イベントとしての性格を帯びながら自発的におこなわれていた。1937年には国民精神総動員の閣議決定を受け、内閣情報部が公募した『愛国行進曲』やNHKが信時潔に委嘱した『海ゆかば』が国民歌として制定されて、国民歌の公募は広がりを見せていくのだが(6)、そこには単なる上からのお仕着せとは言い切れない、大衆の側からの積極的な応答もあった。各種メディアを媒介としたこの2つの動きの絡まり合いが、やがて日中戦争の激化、太平洋戦争開戦を経て、国体という強力な共同幻想を生み出していったのではないだろうか。
 3つ目に、博覧会は大衆消費社会を前提としたスタイルに発展していたとはいえ、都市と農村部の格差はまだ大きかったという点も指摘しておきたい。そのかぎりでは博覧会はあくまでも都市のものだったし、新聞やラジオはまだしも、映画館も依然として都市の娯楽だった。1938年の時点では、全国の映画館の半数、観客の7割は東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡の7都市に集中していて、市町村の95パーセントには常設の映画館はなかったという(7)。これは博覧会開催地とも相関関係にあり、東京、神奈川だけでなく愛知(汎太平洋平和博覧会、1937年)、京都(大礼記念京都大博覧会、1928年)、大阪(大礼記念奉祝交通電気博覧会、1928年)、兵庫(観艦式記念海港博覧会、1930年ほか多数)、福岡(博多築港記念大博覧会、1936年)と、これらの都市は例外なく大型博の開催地になっている。
 一方で、農村部には依然として貧困が偏在していた。移民政策とは、いってみれば急速な人口増によって生じた農村部の貧困の輸出だった。1920年代以降、アメリカやカナダが日本人移民の受け入れに難色を示し始めると、帝国領土内への移民が奨励され、満州国建国以降は「王道楽土」をスローガンに、政府は厳しく痩せた土地への100万人もの移住政策を推進していくのである。
 のちに述べるように、満州館や朝鮮館、台湾館といった植民地パビリオンは、当時の国内博で広く見られた展示館だった。しかしこれらの展示は多くの場合、現地の資源や農産物などと急ピッチで開発された近代都市の紹介にとどまり、同胞が悪戦苦闘しながら開墾に明け暮れている場所という感覚は希薄である。この妙に他人事のような展示の印象は、関わっていた総督府や満州鉄道の意向にとどまらず、大衆消費社会として発展する都市部と、発展から取り残される農村部という格差からも生じているのではないだろうか。博覧会はあくまでも都市の娯楽であり、厳しく苦しい現実の紹介は忌避される傾向にあった。

2 紀元2600奉祝博――興行の計画案とその宣伝

 ポスターやチラシ、新聞・ラジオ・映画などのメディアを大胆に活用し、先行イベントをさまざまに企画することで大衆の期待値を高めていくという宣伝法は、すでに1930年代には完成されたスタイルを示している。そこには、参加型の関連企画を導入するなどの戦略的なアプローチも見られたのである。このような宣伝法は万博でも用いられた。
 会場計画が固まった1938年に入ると、出品勧誘と並んで宣伝広報が一気に具体化する。これを担ったのは万博宣伝委員会で、その第一回会合は同年2月14日に東京会館でもたれた(8)。戦後、参議院議員として大阪万博実現を主導した豊田雅孝が商工省商務局博覧会監理課長という肩書で参加しているのがまず目につき、時局を反映して陸海軍将校が入ったほかに、後述の奉戴イベントを主導したと見られる東京音楽学校長・乗杉嘉壽、兄・松次郎とともに松竹を創業した大谷竹次郎、国際文化振興会理事で美術史家・政治家としても活躍した團伊能、阪急電鉄の創業者にして宝塚少女歌劇団など数々の事業を手掛けた小林一三などの名前も見える。また日本航空や日本郵船といった交通機関を扱う企業のほかに、大日本製乳協会も参画した。
 この会合で確認されたのは、以下の6点である。

 1)国防、殊に広義国防、思想戦に備うる十分なる考慮を出品の上にも取り入れること
2)外国からの鑑賞者を収容するホテル設備につき万全を期すること
3)外客誘致につき観光団を組織、連絡を図ること
4)映画演劇方面と十分なる提携を計ること
5)菓子類其他とも同様密接なる連携を計ること
6)内閣関係其他各種の印刷物をできる限り利用すること

 第1項では国防、思想戦をキーに、万博を通じて国内の動員体制を強化しようとする軍部の思惑が、第2・3項には国外に宣伝活動を広げて外貨を獲得したいという経済・商業界の本音が表れている。第4・5項は大衆層をターゲットにした興行の重視である。「菓子類」が出てくるのは、子どもへの訴求力を考えてのことだろう。子ども向けアトラクションもこの時期の博覧会の重要なコンテンツだが、1930年代の日本は年率6パーセントから7パーセントの割合で人口が爆発的に増加する若い社会だった。
 万博でテーマや理念の提示が一般化するのは戦後のこととはいえ、表向きは紀元節奉祝をうたってはいても、それが宣伝委員会の確認事項で全くふれられていないということも、その本質が大衆娯楽イベントだったことを示唆している。延期という最終決定も、万博はどちらかといえばエンターテインメントという認識があったからだろう。
「映画演劇方面と十分なる提携を計ること」という第5項に関して、当時の興業界の勢力図にふれておこう。宣伝委員会に松竹の大谷竹次郎と阪急の小林一三という業界の両巨頭が入っていたことは、すでに述べたとおりである。小林は1920年前半には歌舞伎を旧態依然として事業の軸に据える松竹への批判を繰り返していた(9)。その批判は歌舞伎システムの閉鎖性や経済合理性の欠如に向けられていて、根底にはより民衆に近い新しい劇を育て普及させたいという思いがあった。それはまた、宝塚少女歌劇の成功からくる自信に裏打ちされてもいたのだろう。実際に小林は理念の実現に取り組んでいる。民衆に近い大劇場として建設された宝塚大劇場(1924年完成)は貴賓席を設けず、席数も公称4,000席(実際は3,000席あまり)と大きかった。これによってチケット単価を下げ、また宝塚歌劇を3組体制にして入れ替わりで公演を打つことで、ビジネスとしても成立させようとしたのである。さらに26年には国民劇の普及を目指して中劇場を拠点とした劇団・宝塚国民座を創設する。
 俳優だけでなく、脚本、演出、舞台美術、衣装、さらにはオーケストラまでをも専属で備える宝塚方式は、当時の日本では画期的なものだった。劇場という箱だけでなくマネージメント機能や専属劇団も擁し、コンテンツ制作までをパッケージでおこなって、日替わりで公演を打つというスタイルは、世界的な劇場大国ドイツに見られるレパートリーシステムに近い。これを小林は、貴族や国家、自治体の支援によるのではなく、資本主義的な経済システムのなかでおこなおうとしたのである。しかし、高い志のもとに始まった国民座は旗揚げして3年で行き詰まり、小林は松竹が1920年代から手掛けていた映画制作に関心を移していく。民衆のエンターテインメントを追求した結果、演劇と映画を組み合わせた総合会社という松竹の経営モデルへ向かうのである。
 1930年代に入り、東京宝塚劇場、すなわち東宝の設立と劇場建設を足掛かりとして宝塚少女歌劇が東京に進出する。これを契機に横浜、松本、広島などに宝塚の名前を冠した劇場が続々とオープンした。また同時に日比谷映画劇場を開館させ、松竹から帝国劇場の経営権を譲り受けることで、30年代半ばには小林の事業は松竹と比肩しうるものへと発展を遂げていたのである。
 小林はもともと宝塚線・箕面支線の開通に際して動物園や温泉を用いて集客するという、私鉄沿線開発の元祖だった。宝塚線は大都市間を結んでおらず、畑のなかを走るような田舎路線だったため、付加価値を高めないと人々を引き付けられなかったのである。実はこの際、集客の目玉として活用されたのが博覧会だった。婦人博覧会(1913年3―5月)、婚礼博覧会(1914年4月―閉幕不明)、家庭博覧会(1915年3月―閉幕不明)、芝居博覧会(1916年3―5月)、宝塚こども博覧会(1918年開催月不明)と、開通当初、宝塚新温泉は毎年のように博覧会でにぎわっている(10)。ベッドタウンとしての宝塚線の利用者層を意識して、婦人・家庭・子どもをテーマにしているのも特徴的だ。婚礼博覧会の折に、娯楽場「パラダイス」のプールを改装した舞台で披露されたのが、宝塚少女歌劇だったのである。
 1920年代には宝塚大劇場の建設と運営に注力したためか博覧会は開催されていないようだが、30年代には博覧会ラッシュのなかで再び頻繁におこなわれるようになる。大阪日本新聞社主催の創立25周年記念婦人子供博覧会(1932年10―11月)、大阪毎日新聞社主催の皇太子誕生奉祝宝塚小国民博覧会(1934年3―5月)、宝塚逓信文化博覧会(1935年3月―閉幕不明)、宝塚皇国海軍博覧会(1935年3―5月)、日本婚礼進化博覧会(1936年開催月不明)である。規模を別にすれば、宝塚は日本で最も博覧会がおこなわれた場所の一つだったのである。
 小林が少女歌劇や演劇、映画といった事業に本格的に乗り出す前、動物園や温泉と並んで博覧会が集客の基盤にあったという事実は、新しく出現した都市大衆層にとって博覧会がいかに深く生活や娯楽と結び付いていたかを物語る。新たな試みに次々とチャレンジすることで人々の余暇を近代化した小林は、いまや国家の博覧会で自らが育ててきた事業をアピールする機会を手にしようとしていた。積年のライバルだった松竹の大谷とともに宣伝委員会に出席した小林の感懐はどのようなものだっただろうか。

 もともと外貨獲得や地域振興などの経済的な目的を主眼としてはじまった万博計画ではあったが、皇紀奉祝という“開催意図”は、日中戦争という時局が国民の生活に影を落とすにつれて強い意味を帯びていくことになった。開催反対論を押さえ込むうえで、皇室ブランドは効果的だったのである。総裁には昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁親王が選ばれ、1938年4月21日には盛大な奉戴式が挙行された。これは万博が単に東京や横浜という地域のためのものではなく、国家規模の祭典であることを印象づけるものだった。
 奉戴をめぐる一連の式典はまさに“プレ万博催事”の相を呈していて、万博の文化行事がどのようにとらえられていたのかを推測するうえで興味深い。翌22日には、公募作品の発表会である万博行進曲発表の夕が日比谷公会堂でおこなわれた。プログラムは以下のようなものだった。

 開会
国家「君が代」奉唱 帝国海軍軍楽隊
挨拶 日本万国博覧会宣伝部長 池園哲太郎
演奏曲目
第1部
1.吹奏楽 指揮 内藤清五
2.合唱  指揮 澤崎定之
(イ)愛国行進曲 無伴奏 内閣情報部選定/演奏会用編曲 橋本国彦
(ロ)大島節(民謡に拠る) 無伴奏 信時潔作曲
(ハ)さくら ピアノ伴奏  下総皖一作曲
3.合唱並吹奏楽  指揮 内藤清五
 紀元二千六百年記念日本万国博覧会行進曲
   日本万国博覧会撰歌/東京音楽学校作曲/下総皖一編曲
   合唱 東京音楽学校生徒  吹奏楽 帝国海軍々楽隊
 万国行進曲 唱和 東京音楽学校教授 澤崎定之
       指導 海軍々楽長 内藤清五
(休憩)

 第2部
4.筝曲 山田流 中能島欣一 外15名
  花三題 古今集より中能島欣一作曲
5.筝曲 生田流 宮城道雄 外30名
  うてや鼓  島崎藤村作詞 宮城道雄作曲
6.長唄 桜咲く国
吉住小三郎・稀音家六四郎補導 外百余名 囃子望月長之介・望月太左吉
       長唄研精会撰歌 吉住小三郎・稀音家六四郎作曲
      邦楽演奏東京音楽学校職員生徒
閉会

「万博行進曲発表会」と銘打ってはいるが、内実は東京音楽学校が総力を挙げた奉戴祝賀だったといえる。
 第1部は洋楽で、内藤清吾と澤崎定之が振り分けている。内藤は海軍軍楽隊に入隊したあと、東京音楽学校に学び、この時期には同校嘱託として教鞭をとってもいた。テノール歌手の澤崎定之、合唱曲の作編曲をおこなった橋本国彦、信時潔、下総皖一はすべて東京音楽学校の教師陣である。橋本、下総は信時の弟子筋にあたり、ドイツ流作曲の系譜にある。
 第2部が邦楽だが、こちらは時局をより反映している。東京音楽学校では、長らく実習だけをおこなう選科で筝曲が教えられていただけで、カリキュラムは洋楽を中心に組まれていた。こうした流れが大きく変わるのは、1928年、文部省で社会教育を提唱する乗杉嘉壽が校長に就任してからである。
 乗杉は着任早々から皇族を学校行事に積極的に招くと同時に、余芸のように扱われていた邦楽の校内での地位向上に着手する(11)。選科には長唄(1929年)、生田流筝曲(1930年、それまでは山田流だけ)が加えられた。能楽は1912年から選科として教えられていたが、33年にはさらに仕舞、囃子が追加されている。
 役人出身の乗杉は、マスコミに情報を流して世論を誘導するという、メディア使いの先駆者だったようだ。政治家との太いパイプも活用し、並の音楽家には不可能な改革を実現していく。時の文部大臣・松田源治は、帝国美術院を創設して美術界の一元化をおこなった1935年の“松田改組”の主導者として知られるが、乗杉は松田の国粋主義的な方向性に乗ることで、36年、念願だった邦楽科の設立にこぎつけた。万博行進曲発表の夕べでトリを務めた唄の吉住小三郎、三味線の稀音家六四郎(杉本金太郎)は、邦楽科設立の際に増員された教授ポストに採用された邦楽家で、その演奏のもと全校生徒職員が総出で歌う長唄は、洋楽中心の東京音楽学校の重心の転換を印象づけただろう。すでに述べたように乗杉は万博宣伝委員でもあったが、この奉戴式典を万博だけでなく新しい東京音楽学校をアピールする絶好の機会と考えたはずだ。
 東京での催しに続いて、翌23日には横浜開港記念館で総裁宮奉戴式奉祝音楽会がおこなわれている。洋楽のあと邦楽が続くという構成は東京と同じだが、前半の洋楽の内容が東京と少し異なり、ア・カペラ、無伴奏による合唱曲(『愛国行進曲』『大島節』『さくら』)に管弦楽演奏(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『フィデリオ序曲第三番』)が続き、さらにその伴奏で信時潔の『海ゆかば』、そして『万博行進曲』が歌われた。合唱指揮を担当した木下保は、オペラや独唱、合唱指揮などで戦後も活躍したテノール界の花形歌手である。東京音楽学校でも要職にあって信時の信頼も厚く、この少しあとに奉祝記念として書かれた信時の代表作、カンタータ『海道東征』の初演を任されてもいる。
 奉戴式の関連行事は、続いて大阪、福岡、名古屋でも開かれた。5月30日に大阪・中之島の中央公会堂でおこなわれた演奏会には東京音楽学校の教職員150人が出演、会場には3,000人の観客が詰めかけ、わずか30分で満員になった。こちらには邦楽科のメンバーは参加せず、『愛国行進曲』や『万博行進曲』のほか、フレデリック・ショパンのバラード、ジョルジュ・ビゼーの『真珠採り』のアリア、さらにベートーヴェン『ミサ曲ハ長調』から2楽章が演奏されるなど、バラエティーに富んだクラシックのプログラムになっている。
 福岡(6月6日)と名古屋(6月8日)は同一プログラムで、福岡の九州劇場では昼夜2回公演で3,000人近い動員があった。名古屋市公会堂での公演は、開場2時間半前から人が押し寄せたため開場時間を早め、最終的に3,500人が集まった。それぞれ市の産業課長が挨拶したあと、最初に『万博ニュース』『軍艦旗に栄光あれ』の2本の映画が上映された。事務局報道部長の池園の万博の説明ののち、コロムビア・オーケストラが『青空』『ジプシーの嘆き』を演奏、『万博行進曲』『万博をどり』が歌われた。このあと独唱・独奏に移り、霧島昇が『敵前上陸』『軍国の兄弟』『雨の降る夜は』『赤城しぐれ』を披露、バイオリン独奏(宗知康による『タバチーナ』)から、ミス・コロムビア(松原操)が『おぼろ月夜』『19の春』『春はうれしや』『婦人愛国の歌』を歌って、柳谷権太楼が落語で締めた。
 中心になって公演を企画したのはレコード会社のコロムビアで、東京音楽学校は影を潜め、娯楽色が強まっている。霧島昇は前年『赤城しぐれ』をコロムビアからリリースして大ヒット。覆面歌手としてデビューしたミス・コロムビアこと松原操も1年の休養を経てカムバックした直後で、『19の春』は彼女の人気曲の一つだった。霧島と松原はコロムビアの看板歌手として活躍し、この年の9月にリリースされた2人のデュエット『旅の夜風』は映画『愛染かつら』(監督:野村浩将、1939年)の主題歌として爆発的な人気を呼ぶことになる。
 このように福岡、名古屋での集客には、映画・人気歌手・落語というエンターテインメントが大きく寄与していた。多数のメンバーを東京から巡業させるには物理的な難しさもあっただろうが、そもそも芸術家の一元化をもくろんだ松田改組に対しても美術家たちは大きな不満を抱いていたし、松田=乗杉ラインで政治的に実現された邦楽科設立も邦楽界の反応は冷めたものだったというから、万博や皇室ブランドの受け止め方も地域によってかなりの温度差があったとしても不思議はない。むしろここで注目すべきは、霧島やミス・コロムビアの選曲に、『敵前上陸』『軍国の兄弟』『婦人愛国の歌』といった戦意高揚歌が含まれていることだ。行進曲調の勇ましい『敵前上陸』はもちろん、故国の兄に向けて弟が「百人斬りの 念願も/ようやく半分 すぎました」(『軍国の兄弟』)などとのどかな曲調に乗せて歌うほうが、お仕着せの祝祭よりも大衆には響くものがあったのではないか。国家総動員法の制定をきっかけにした国民歌の普及についてはすでにふれたが、これらはもともと民間の動きにその根をもっている。
 奉戴式の模様はJOAK(東京放送局)によって中継され、海外でも北アメリカ、カナダ西部、ハワイ、オーストラリア、中国、南洋、インド、ヨーロッパ、南アメリカと順次放送された。レコード会社もこぞって関連レコードを発売した。A面は「万博行進曲」で統一されていたが、B面にはそれぞれに持ち味を生かした多彩な楽曲が収録された。コロムビアは「万博行進曲」に澤崎定之指揮東京音楽学校をキャスティング、B面には霧島、ミス・コロムビアに加え松平晃、二葉あき子という人気歌手を結集し、小関裕而作曲「万博をどり」を収録した。キングはA面に看板テノール永田紘次郎、戦後自らの歌劇団を創立した長門美保を起用。裏面は管弦楽版「万博行進曲」を収録したほか、別に児童用レコードの吹き込みもおこなった。テイチクはA面を「青い山脈」で有名な藤山一郎に託し、Bは古賀政男作曲「躍進日本行進曲」を入れている。ほかにB面に細田義勝作編曲「万博音頭」を収録したビクターやタイヘイ、ポリドールがレコードを制作し、それらは全国で販売された。
 万博事務局は出品要請のための使節団を全世界に派遣するとともに、国内の協力動員体制の構築にも手をつけている。5月19日には、全国の観光業者が集まる日本観光連盟の総会に合わせて、観光事業関係者招待会を上野精養軒で開き、また丸の内東京会館では5月12、15、23日の3回にわたって東西技芸代表者懇談会と称してのべ40人以上の落語家を食事に招待、意図を周知し協力を求めた。大阪の記念演奏会の翌日5月31日には新大阪ホテルで漫才代表者懇談会を開催したが、これには漫才師のほか吉本興業支配人と広報部長も参加している。6月7日には東京会館にて演劇・舞踏・演芸懇談会が開催され、松竹、東宝、新興、大都、新橋演舞場、日本舞踏協会、吉本興業の関係者が集まった。
 演芸関連の企画立案体制が急ピッチで構築されていく一方、アミューズメント施設の設計も具体化していった。メインになるのは万博大観で、これはスフィンクス、ノートルダム大聖堂、小便小僧、寝大仏、ピサの斜塔、自由の女神、モスクワの鐘、オランダの風車、大石像など世界各地の名跡を再現し、それぞれのなかにパノラマやジオラマを設置、夜間はこれをライトアップすることで世界一周気分を味わうというものである。この詳細については、まず「万博」1938年5月号(日本万国博覧会協会)が3月22日の懇談会を報じていて、和田三造、藤田嗣治、吉屋信子といった画家や作家に加え、小林一三や豊田雅孝も参加し、三越と高島屋の装飾部への委嘱が決まった。一足先にデザインを完成させた三越に対し、高島屋は5案を提示し物量で応じた。「万博」1938年6月号(日本万国博覧会協会)に「理想案」として提示されているのは、巨大な地球型ドーム内部でパノラマやジオラマを駆使し、名跡だけでなく前世紀のシベリア、深海、オーロラやフィヨルドといった大自然の光景までも再現する意欲的なものだった。また奉戴式と同じころ、会場模型の地方巡回展がおこなわれ、東京・横浜会場と肇国記念館の模型が東京・三越本店を皮切りに大阪、京都、名古屋、神戸、静岡を巡回した。
 娯楽関連施設のうち演芸館、映画館、野外音楽堂は設計が終わっていて、最大で3,500人を収容できる野外音楽堂では、陸海軍軍楽隊のほか、管弦楽や吹奏楽の無料コンサートをはじめ各種大会がおこなわれる予定だった。図案からはギリシャ・ローマの野外円形劇場が想起されるが、入場門や舞台袖などには日本建築風の装飾が施されている。洋風と日本風の折衷スタイルは、帝冠様式として国内だけでなく帝国領土内に広く建設された。1937年に竣工した東京国立博物館本館は現代に残る代表作だが、野外音楽堂はその劇場版になったのではないか。
 明治座と東京劇場の長所を取り込んだ演芸館は、1,100人から1,200人を収容するはずだった。演劇、舞踏、音楽や競技、競演を国内だけでなく国外からもラインアップし、そのコンテンツについては松竹、東宝、大日本俳優協会、日本舞踏協会、新橋演舞場、各映画会社が企画制作をおこなうことになっていた。
 横浜会場には水族館が建設される予定だった。日本は四方を海に囲まれた海洋・水産国であるにもかかわらず、水族館の技術はすでに100年近い経験をもつ欧米に大きく離されていた。世界の水族館事情を視察した万博工営部技師・野間貞吉は、当時の国内事情を「之を世界水族館の番付に乗せると、堺大浜のを以てしても尚且つ前頭四五枚目と云う所で三役には一寸ほど遠い」と述べている。計画の詳細は定かではないが、万博を契機として最新鋭の水族館を建設して、欧米との距離を一気に縮める意図があったようだ。
 関連施設のなかでもひときわ娯楽色が強いのは、子ども向けのアミューズメントパーク・コドモノクニだろう。森永製菓が立案を受注して2案を提示、万博事務局が検討し、最終案に近いところまでいった。万博事務局側からは児童庭園デザイナーで日本庭園協会主事の高村弘平、和田三造とその弟子の青木滋芳らが入り、森永側の関係者としては若き建築家の前川国男が入っているのが目につく。前川は戦後のブリュッセル博でも日本館を手掛けて高い評価を得て、日本を代表する建築家になっていく。
 コドモノクニは埋め立て第4号地から第5号地へと渡る架橋の右前方に確保された8,000坪以上の土地に建設されることになっていた。王冠を頂いた王様が正門の上に座り、『アラビアンナイト』のような雰囲気を醸している。その正門をくぐって鉛筆の森、本の山、インクの滝などを通ると、うつぶせになった巨大なキングが大きく口を開けて待ち構えている。ここから始まる体内迷路は、子どもたちが体の各器官のはたらきを学ぶことができるよう、歯型の模型に始まって食道、胃、心臓、腸などの部屋を通っていくという趣向だった。この時代の子ども向け娯楽には今日のような純粋なアミューズメントはまだ少なく、「面白く、ためになる」が基本精神だった。体内迷路の出口には大プールが開けていて、観客はウォーターシュートに乗って、飛沫をかぶりながら小便のように押し出される。ウォーターシュートは明治時代から人気を博していた博覧会の名物アトラクションだ。
 桃太郎島、子供温泉、砂遊び場、相撲土俵などの先にコドモ科学館が見えてくる。館内には数学、天体、動植物などの部屋が、また入り口付近にはキリンの姿に装飾されたクレーンが設置され、子どもたちが落下傘で遊べるように計画されていた。また本博覧会のオリジナルなアトラクションとして、大記念塔には「人間コリントゲーム」「ブラッシュスキー」「メリーゴーランド」などが予定されていた。さらに野外劇場では、子どもたちが動物の形のベンチに座って童話劇や紙芝居、音楽などを楽しみ、古代から現代に至る沿革展のパノラマを見たあと、最後にコドモ郵便局で絵はがきにスタンプを押したり、出征兵士に向けて手紙を書いたりできるように設計された。臨時郵便局や会場のパビリオンを描いた絵はがきの販売もまた、当時の博覧会になくてはならないものだった。

 万博の宣伝やアトラクションを見ると、先行する地方大型博を国家レベルへと拡大させたものという全体像が浮かんでくる。ポスター・新聞などの視覚・文字情報だけでなく、ラジオやレコードなどの最新メディアを活用し、事前イベントによって祝祭気分を醸成していく。教育、産業振興とうたいながらも、会場には大衆の心を駆り立てるファンタジックなアトラクションもふんだんに用意されていた。博覧会に軍が関わることは当時としては決して珍しいことではなかったが、広報は意外なまでに軍事色が薄く、民間の企画のほうにむしろ積極的な反応が見られた。また皇紀奉祝がテーマだとはいっても、宣伝広報にそのことが強く反映しているようにも思われない。皇室関連の博覧会はそれ以前にもあり、昭和天皇即位時には東京、名古屋、京都、大阪などで大礼記念博がおこなわれたが、万博構想の発端の動機はあくまで経済的なもので、皇室ブランドの活用は博覧会が満州事変などによって先送りされるなか、むしろ後付けのように出てきたアイデアだった(12)。
 こうして帝都東京に出現した大衆消費社会は、おのれの夢と欲望を万博という場にいよいよ開陳しようとしていた。しかし計画が具体化し始めた矢先の1938年7月16日、支那事変の激化を理由に開催延期の声明が発表される。ヨーロッパを中心に世界大戦が深刻化するなか、国際交流の象徴である万博が残した巨大なヴォイドは、紀元奉祝の御旗のもと国家の祝祭という強力なブラックホールと化して国民を飲み込んでいく。万博を心待ちにしていた大衆の多くが数年ののちに命を落とし、帝都は焦土と化して、万博の実現が30年後の大阪になろうなどと、当時は誰一人想像だにしえなかっただろう。万博延期後、奉祝イベントがどう変貌していったかをもう少し追っていくことにしよう。


(1)中川童二『ランカイ屋一代――わが博覧会100年史』講談社、1969年、10―12ページ
(2)以下の博覧会の開催詳細については、記載がないかぎり、復興記念横浜大博覧会編『復興記念横浜大博覧会誌』(復興記念横浜大博覧会、1936年)によっている。
(3)「1923(大正12)年関東大震災――揺れと津波による被害」(http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou039_20-21.pdf)[2017年3月29日アクセス]
(4)横浜開港資料館「資料よもやま話2 横浜の新民謡」(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/05.html)[2017年3月29日アクセス]
(5)岩野裕一『王道楽土の交響楽――満洲―知られざる音楽史』音楽之友社、1999年、78―79ページ
(6)戸ノ下達也『音楽を動員せよ――統制と娯楽の15年戦争』(「越境する近代」第5巻)、青弓社、2008年、152―153ページ
(7)高岡裕之「15年戦争期の「国民音楽」」、戸ノ下達也/長木誠司編著『総力戦と音楽文化――音と声の戦争』所収、青弓社、2008年、37―38ページ
(8)本節での万博準備状況についての情報は、断り書きをしないかぎり、津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『復刻版 近代日本博覧会資料集成』(〔「紀元2600年記念日本万国博覧会」第2巻「万博」第20号―第43号〕)、国書刊行会、2015年)によっている。
(9)以下の小林の劇場経営については、主に徳永高志「商業的大劇場の思想と公共性」(『公共文化施設の歴史と展望』晃洋書房、2010年)を参照した。
(10)乃村工藝社「博覧会資料COLLECTION」(https://www.nomurakougei.co.jp/expo/?#tabset)[2017年3月29日アクセス]。以下同。
(11)以下の乗杉の改革に関しては、酒井健太郎「東京音楽学校と邦楽――昭和11年の邦楽科開設を中心に」(「研究紀要」第34号、昭和音楽大学、2015年、32―44ページ)。
(12)古川隆久「紀元2600年(1940)に向けて」『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年。本連載の暮沢剛巳「第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景」も参照のこと。

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第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

はじめに

 2016年の9月、中国東北部を旅行した。大連、長春、ハルビンの3都市に滞在し、各市内の旧跡をめぐる計6泊7日の慌ただしい旅だった(当初は瀋陽にも滞在する予定だったのだが、残念ながらどうしても日程の都合がつかなかったため今回は断念した)。仕事柄海外出張の機会が多い私だが、専門領域や調査対象の関係でどうしても目的地は欧米に偏りがちである。その点で、タクシーの運転手や飲食店の店員にさえ英語が通じないことが多々あった今回の出張は、多くの驚きに満ちたものだった。
 そういう次第で、かつて満州と呼ばれていたこの地域に対する私の知識は微々たるもので、せいぜいベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー(1)』のような映画、あるいは安部公房の「終りし道の標べに(2)」や村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル(3)』のような小説の舞台になった場所という程度のことしか知らなかった。そんな私が、数年前からこの地域に強い関心を寄せるようになり、ついには現地への旅行を思い立ったのは、本連載のテーマである万博との兼ね合いで大いに触発されるところがあったからだ。それにしても、満州がどのようにして万博につながるというのか、まずは両者の関係から説明する必要があるだろう。
 周知のように、かつてこの地域には満州国という国家が存在した。建国が宣言されたのが1932年3月1日、滅亡したのが45年8月18日だから、この国家が地上に存続した期間はわずか13年5カ月にすぎなかった。もっとも、満州事変を機に中華民国からの独立を宣言した満州国だが、その実態が「満蒙は日本の生命線」という石原莞爾の妄想に端を発する日本の傀儡国家にすぎなかったことは衆目の一致するところだ(それゆえ現在の中華人民共和国政府は一貫して満州国の存在自体を認めず、偽満州国と称している。恥ずかしながら私がそのことを知ったのはほんの数年前のことだ)。だが、曲がりなりにも独立国家としての体裁を与えられ、「五族協和」や「王道楽土」という理念を掲げた国家運営をおこなったことによって、満州は日本本土はもちろん、正真正銘の植民地だった朝鮮や台湾とも異なる独自の実験的な性格を帯びることになった。
 私が見るところ、満州国の実験的な性格は都市計画の分野で最も顕著だったように思う。くしくも、今回の旅行で私が滞在した大連、長春、ハルビンの3都市はどれも19世紀末以降に急速に開発が進められた歴史が浅い「人工都市」であり、ここを舞台にさまざまな美術や映像作品が生み出され、また博覧会が開催された。当時、朝鮮や台湾といった植民地では博覧会が盛んに催されていたので、満州での博覧会も同じ枠組みで考えることができるだろうが、博覧会、とりわけ万博が仮設の未来都市を舞台にさまざまな実験が展開されるエフェメラルなイベントであることを思えば、13年半という短い存続期間のうちに、「人工都市」を舞台にさまざまな実験が展開された満州国という国家そのものが巨大な万博のような存在だったともいえるのではないか。満州というテーマはあまりに巨大すぎて到底私の手には負えないが、万博との関係に焦点を絞れば何かを語れるかもしれない。日本で紀元2600年万博が構想・準備されていたのと全く同時期に、海を隔てた中国東北部で展開されていた満州国のさまざまな実験を検討し、両者の並行関係について考察することは、万博研究にとっても大いに有益だと思った次第である。

大連――租界のなかの満州

 2016年9月2日、私は前月末から滞在していた北京を発って空路大連へと向かった。大連は日露戦争によってロシアから租借権が譲渡されて以降、関東州の行政機構に組み込まれたため、厳密には1932年に「独立」した満州国の領土には含まれないが、事実上の開発機関だった満州鉄道のターミナル駅が所在し、大連港が大陸への玄関口としての役割を果たすなど、実質的には満州の一都市として位置づけられるため、ここでも同じ前提で論を進めていく。
 飛行機を降りた私は、手荷物を受け取ると、5月に開通したばかりの地下鉄に乗って市内中心部の中山広場駅で下車し、一路宿泊先のホテルに向かった。中山とは辛亥革命の指導者・孫文を意味する言葉だが、この広場は戦後になってそのように改称される以前の日本統治時代は大広場、さらにそれ以前のロシア統治時代にはニコライフスカヤ広場と呼ばれていたという(4)。私はこの直径約200メートルの円形の広場に、大連という「人工都市」の短い歴史が凝集されているような気がした。
 大連は現在でこそ約600万人の人口を擁する大都市だが、19世紀末までは青泥窪という名の寂れた寒村にすぎなかった。急な発展のきっかけは、1898年にロシアが日清戦争後の三国干渉の見返りとして遼東半島を租借したことに始まる。シベリア鉄道の起点だったウラジオストクが冬期には流氷によって閉ざされるため、1年を通じて使用できる不凍港を欲していたロシアは、遼東半島の先端に位置していたこの寒村に目を付けダーリニー(ロシア語で「遠方」の意味)と命名、東清鉄道(満州に敷設されたシベリア鉄道の支線)の引き込み工事をおこない、商港の開発に着手する。市街地を行政市街、ヨーロッパ市街、中国市街の3つに分け、また中心部に円形広場を設けるなど、その都市計画は優れてヨーロッパ的なものであった。
 1905年5月、日露戦争の攻防を経てダーリニーは日本の支配下に入り、大連と改称される。ロシア同様、日本にとってもダーリニーは重要な拠点であり、戦後のポーツマス条約によってこの都市の租借権と南満州鉄道(長春以南の東清鉄道。以下、満鉄と略記)の権利を手に入れた日本は、さっそく戦争で荒廃した大連の復興に着手した。
 戦争によって計画が頓挫してしまったものの、大連はロシアが巨費を投じて都市開発を進めていた都市であり、市街には多くの洋風建築が残されていた。満鉄は旧ダーリニー市役所を本社として使用し、またダーリニー・ホテルがヤマトホテルへと転用されるなど、日本はロシアが残した建物を引き継いで有効活用しようとした。一方で、開発が中途だった部分も少なくなかったため、道路の敷設や橋の架け替えなどが急ピッチで進められた。
 開発の中心になったのが、市街地の中心に位置していた円形広場である。前述のようにこの広場は大広場と改称され、その周囲を取り巻くように大連民生署、大連ヤマトホテル、大連市役所、関東逓信局、朝鮮銀行大連支店、東洋拓殖大連ビルなどが続々と建設された。日本資本によって建てられたこれらのビルを設計したのはいずれも日本人建築家であり、ルネサンス様式やゴシック様式など洋風の外観に和風の意匠が取り入れられるなどの工夫が施されている。これらのビル群には、ロシアの都市計画を引き継ぎながらも、新たに日本的な要素を示す意図が込められていたといえるだろう。
 満鉄の本社機能が早々と移転してきたのとは裏腹に、仮設駅に代わる新駅舎の建設は遅れに遅れ、竣工したのは1937年のことだった。現在も使われているその駅舎のスクエアで左右対称な外観は、上野駅や小樽駅の駅舎に似ていることがしばしば指摘される。設計を担当した太田宗太郎は、親族に宛てた手紙でこの駅舎を「代表作」と記したという。また、ロシアが不凍港としての重要性を見いだした大連港はもちろん日本にとっても重要であり、開発を手掛ける満鉄は港の整備にも巨費を投入した。とりわけ、港に臨む大連埠頭事務所は、26年の竣工当時は市内随一の高層建築であった。並行して、病院や市街地の整備も着々と進められた。
 大連は、もともとロシアが重要性を見いだし開発を進めた都市であった。帝政ロシアは、当時世界の海洋の覇権を制していた大英帝国と対峙すべく、ダーリニーを香港やシンガポールに匹敵する大都市へと成長させることをもくろんでいたのである。そして、日露戦争以降その開発は日本へと引き継がれたが、ロシア風のダーリニーを日本風の大連として更新するためには、ダーリニーの市街地をより緻密でスケールの大きな都市計画によって上書きする必要があった。そのため、日本は満州の玄関口である大連に巨費を投じて、ロシアに対抗するかのように建設を進めた。日露戦争後に松田松韻が設計した大連消防署が、ロシアがハルビンにアール・ヌーヴォー調の建物を数多く建設したことを強く意識して同様のデザインを採用したエピソードには、日本のロシアへの対抗意識が露呈している。西澤泰彦は、これを「建築の日露戦争(5)」と称している。砲艦外交としての日露戦争はすでにポーツマス条約によって決していたが、建築や都市計画の分野では、満州を戦場として両国のつばぜり合いが続いていたのである。

大連と博覧会

 ちなみに、日本租界時代の大連では、二度大規模な博覧会が開催されている。どちらも宗主国だった日本との緊密な関係のもとに開かれた博覧会であり、ごく簡単に概要を記しておこう(6)。
 最初が、1925年8月10日から9月18日にかけて開催された大連市主催の「市制10周年記念大連勧業博覧会」である。この博覧会は、日華両国の共存共栄と産業貿易の振興を目的に開催されたもので、市内中心部の西公園(現:労働公園)が第1会場、満鉄所有の大連電気公園が第2会場であった。会場面積は約7万平方メートル(約7ヘクタール)、両会場は跨線橋で結ばれ、夏季開催ということもあって、会場は夜間まで電飾がともっていたという。
 第1会場には5つの本館が並び、大連、満州、関東州、朝鮮及び日本の各府県の文物が展示された。国内の大企業や植民地の主要企業も数多く参加したが、中華民国の特設館は作られず、日華両国の共存共栄の理念は実現されなかった。展示は全般に娯楽色が強く、当時の大連の人口の4倍近い約79万人の観客を動員するなど、興行としては成功したものの、その大半は日本人によって占められ、満州の多様な人口構成を反映したものとはいいがたかった。
 次が、1933年7月23日から8月30日にかけて開催された同じく大連市主催の「満州大博覧会」である。これは、前年の満州国建国と翌年の市制20周年を記念して「日満両国の経済的提携」をうたって開催されたものである。会場としては市内南部の白雲山麓に約116万平方メートル(約116ヘクタール)の敷地が確保され、直営の展示館が1号館から5号館までの計5館建設された。それらの展示館はすべて白亜のセセッション様式(幾何学的構成を重んじる様式。ウィーン分離派〔セセッション〕の建築に端を発することからこのように呼ばれる)で統一され、最大級の施設だった3号館には満州、関東州、大連市の物産がまとめて展示された。そのほか別館として、建国館、機械工業館、貿易館、建築館、教育衛生館、土木館、土俗館といったテーマ別の展示館が並んだほか、朝鮮館、台湾館などの植民地館、三井、三菱、住友などの企業館などがそれぞれ創意工夫を凝らした展示をおこない、また会期がちょうど夏休みと重なっていたこともあってか、「コドモの国」や「子供の国防館」など子ども向けの展示もおこなわれた。この展示計画は、紀元2600年万博のそれともかなり共通している部分が多い。また紀元2600年万博との共通点として、ポスターの図案や宣伝課の懸賞募集や、新しいメディアだったラジオを用いた広報活動がおこなわれたことが挙げられる。
 だが、主催者が2万枚のパンフレットを印刷し、「アカシアの大連よ、風の大連よ」と大々的なキャンペーンをおこない、地方自治体の視察団や修学旅行の小・中学生を幅広く募ったにもかかわらず、満州国内の観光客も、日本からの観光客も反応はいまひとつ鈍く、博覧会の動員数は約47万人にとどまり、前回の市制10周年博を大きく下回った。これは、この年の3月に国際連盟を脱退したことに伴う国際的な孤立(すでに述べたように、この孤立は紀元2600年博を「延期」に追い込んだ最大の要因でもあった。この博覧会の不入りは、「幻の万博」の予兆だったのかもしれない)によって外国からの客足が鈍ったことに加え、日本の傀儡国家でありながら独立国として振る舞わなければならなかったホスト国としての位置取りの難しさが、博覧会の盛り上がりに水を差してしまったためとも考えられる。
 ところで、前述のキャッチコピーは博覧会にかぎらず観光客の誘致に広く用いられ、満州観光は大いに盛り上がり、奉祝の年である1940年にピークを迎える。関東軍が強い勢力を誇っていた満州では、日清戦争や日露戦争の古戦場があたかも神武天皇の戦跡のように聖地化され、とりわけ日露戦争の攻囲戦の戦地として一番人気を誇っていた旅順の近隣に位置する大連は格好の観光拠点だったのである(7)。はたして紀元2600年万博が予定どおり開催されていたとして、満州大博覧会のような不入りに終わったのか、それとも聖地観光のような盛り上がりを見せたのか、いまとなってはもう知るすべはない。

長春――城塞都市から人工都市へ

 9月5日の夕方、私は大連駅で長春行きの切符を購入し、高速鉄道のプラットフォームに向かった。上野駅と類似した外観がしばしば話題にのぼる大連駅だが、すべての路線の昇降口がまとめられたコンコースはシンプルで見晴らしがよく、セキュリティーの厳しさのわりに電車の乗り降りが非常にスムーズであった。この導線のデザインはほかの駅とも共通していて、日本の駅にもぜひ導入してほしいと思った。
 大連から長春には、高速鉄道で向かった。2007年に開通した高速鉄道は、新幹線をはじめ、フランスのTGVやドイツのICEなどを参考に、中国が独自開発した鉄道である。11年には100人以上の死者を出す大事故を起こすなど、安全性にはやや不安もあったのだが、長春までの旅はいたって快適で、また長春駅に着いて間もなく、約4時間の移動時間中ただの一度もトンネルを通過しなかったことに気づき、中国大陸の広大さにいまさらながら驚いた。
 そういえば、満州国の時代には、日本が独自開発した特急あじあ号が同じ大連―長春間を走っていた。まだ鉄道が電化されていなかった当時、蒸気機関車が牽引する列車が約700キロの両都市間を8時間半で結んでいたというのだからその技術力の高さにも驚かされるが、当時の旅客の目に、中国大陸の広大さはどのように映っていたのだろうか。
 長春は吉林省の州都であり、現在約750万の都市圏人口を誇る大都市である。しかし、長らくこの地域の中心に君臨していた都市は省の名前ともなっている吉林であり、小さな城塞都市だった長春が現在の地位を占めるようになったのは20世紀のことにすぎない。それはやはり、満州国の建国が決定的な要因であった。
 日露戦争の講和の結果、日本はロシアから長春以南の東清鉄道を譲渡されるが、この鉄道はロシアが清朝に対して沿線の排他的な行政権や沿線から数百メートルも離れたところに位置している鉱山などを開発する権利を認めさせた「鉄道付属地」を伴っていた。鉄道と同時に広大な「鉄道付属地」を手に入れた日本は、これを機に長春の開発を本格化させていく。
 開発を担当した満鉄は、まず買収によって「鉄道付属地」を拡張し、次いで市街地を造成する手法をとった。具体的には、長春駅の南側約2キロの地点に円形広場を設け、その広場を横断するように長春大街という大通りを通し、この通りを中心に格子状の街路を整備しようとしたのである。これは、ヨーロッパではバロック的都市計画と呼ばれる手法だが、大連やハルビンと異なりロシアによる開発が進められていなかった長春では、満鉄は一から市街地を整備していかなければならなかった。
 一方、建設される建物の多くにはアール・ヌーヴォー調の意匠が施された。その典型が長春ヤマトホテルである。この建物を設計したのは東大建築学科を卒業したばかりの市田菊治郎という若手建築家だが、彼は建物の外観だけでなく内装にもアール・ヌーヴォー調の装飾を導入した(ヤマトホテルは満鉄が乗客の宿泊用に満鉄各地に建設したリゾートホテルだが、いち早く建設された長春をはじめ、高級感を演出するためにどこに建てられる場合もアール・ヌーヴォー調の意匠を導入している)。当時帝政ロシアの支配下にあったハルビンでは、アール・ヌーヴォー調の建物が数多く建てられていた。長春が日本とロシアの接点に位置していたこともあり、日本はロシアへの対抗意識もあってアール・ヌーヴォー調の施設建設を進めた。本場ヨーロッパではアール・ヌーヴォーは1910年代以降にはピークを過ぎて下火になるのだが、同時期の満州ではむしろ盛期を迎えたのである。
 1932年、満州国が中華民国からの独立を宣言した際、長春が新京と改名され首都になることが公布された。満鉄による開発が進められていたとはいえ、当時の長春は人口約13万人の一地方都市にすぎなかった。それが、瀋陽(奉天)やハルビンのような大都市、吉林のような古都を押しのけて首都に指名されたのには、広大な満州国の国土のほぼ中心に位置していたこと(この点で瀋陽は南に、逆にハルビンは北に寄りすぎていた)、満鉄の起点だったこと(吉林は満鉄の沿線からは遠かった)、ほかの都市よりロシアの影響力が弱く、また地価が安くて開発が進めやすいなど、いくつかの理由が重なってのことだった。首都指名を受け、満州国政府はただちに「国都建設計画」に着手し、長春の都市開発は新たな段階を迎えることになる。
 この計画は、満州国で展開された都市計画のなかでもひときわ大規模なものだった。その規模の大きさは、何より新首都名に明らかである。「新京」という首都名は、明治新政府が遷都に際して江戸を「東の京」としたのと同様に、満州国政府が建国に際して長春を「新しい京」へと生まれ変わらせようとしたことを物語っているからだ。
 ところで、長春=新京を舞台とする「国都建設計画」のルーツをさかのぼると、後藤新平へとたどり着くことになる(8)。後藤は台湾総督府長官、満鉄総裁、東京市長などを歴任し、植民地経営などで活躍した人物だが、彼を近代日本の巨人の一人たらしめている最大の業績といえば、やはり関東大震災の直後に内務大臣として立案した震災復興計画(帝都復興計画)であろう。オスマンによる19世紀のパリ再開発を参考に立案された、大規模な区画整理と公園や幹線道路の整備を柱とする震災復興計画は、巨額の予算を必要とし、議会の猛反対にあった結果大幅な縮小を余儀なくされたものの、現在ではこの計画があってはじめて早期の帝都復興が可能だったと評価する意見も少なくない。
 一方、後藤の理念を現場で実践しようした中心人物が佐野利器である。佐野は世界で初めて耐震構造学を提唱し、震災復興計画について立案、宣伝、実施、技術者養成などの各方面で貢献した行動派の建築家であった。後藤は佐野に全幅の信頼を寄せていて、佐野もまたしばしば「後藤さんの志を継ぎたい」と公言していたという。後藤は1929年に帝都復興半ばにして没するが、その数年後に「国都建設計画」のプランナーに就任した佐野が「帝都復興計画で後藤さんがやろうとしてできなかったことを、ぜひここで実現してみせる」と意気込んだとしても決して不自然ではないだろう。
 そうした佐野の意気込みが日の目を見た実例として1点だけ、ここでは治水事業を挙げておきたい。開発を進めている最中、満鉄付属地は絶えず水不足に悩まされていた。もともと降雨量も地下水量も十分でなかったことに加え、中国現地政府の妨害にあって、付属地の外に水源を求めることができなかったからだ。その解決策として、川をせき止めて貯水池が作られた。現在多くの市民の憩いの場としてにぎわう南湖も、もとは貯水目的で作られた人造湖だったのである。また下水道に関しては、佐野の強い要望によって新市街では全域水洗化が実現されることになった(9)。東京でさえ水洗便所が普及するのは1960年代以降のことだし、ましてや当時の中国には汲み取り式の便所さえさして普及しておらず何とも不衛生な状態だったのだから、このことがどれほど画期的だったかわかろうというものだ。
 話を元に戻すと、満州事変が勃発した当時の長春には、南から順に長春城、商埠地(清朝が指定した外国人居留地)、満鉄付属地、東清鉄道付属地という4つの市街地が存在していた。それまでの日本の都市開発はもっぱら満鉄付属地を対象にしていたが、新首都建設にあたっては、ほかの市街地もその対象に含める必要があった。
 経済活動が活発になっていた当時の長春は、満鉄付属地、商埠地、長春城が1つの都市を形成しつつあった。しかし中国人主体で自然に形成された都市は、当然ながら「五族協和」や「王道楽土」を理念として掲げる満州国の首都としてふさわしくない。そのため「国都建設計画」では、都市の軸線とした大同大街と順天大街という新たな2本の幹線道路を整備し、それと長春大街が交差する場所に円形広場を設け、そこから斜線を引くという方法が採用された。こうして市街地化された満鉄付属地が拡張され、多くのビルの建設が進められた結果、長春城は跡形もなく消滅してしまった。こうして、小さいながらもそれなりの歴史を有していた吉林省の城塞都市・長春は、満州国という人工国家の人工首都・新京へと変貌を遂げたのである。

満州国美術展覧会

 新京は満州での美術の中心地でもあった。ごく手短にその概要を確認しておこう(10)。
 美術館がほとんどなかった戦前の日本では、美術展は主に百貨店の催事場などで公募形式の団体展として開催されていた。そのなかでも頂点に位置付けられていたのが、文部省主催の官製公募展「帝展」である。このシステムは植民地にも導入され、朝鮮や台湾でも官製の公募展である「朝鮮美術展(鮮展)」「台湾美術展(台展)」が開催された。体裁としては独立国家だった満州も例外ではなく、首都となった新京はその拠点であった。
 日本が主導するかたちで実現した満州発の本格的な美術展が、1937年に新京で開催された訪日宣昭美術展である。これは、1935年に日本を訪れた溥儀が帰国後に満州国の基本的な在り方を示した詔書を発布したことへの慶祝行事として開催された展覧会で、図録に掲載された序文には「満州国建国以来、軍事、民俗、外交、財政、交通、産業の整備をある程度、文化方面を振興する施設の必要性を痛感した」と開催の理由が述べられ、以後の美術展開催へのレールが引かれた。美術に政府のプロパガンダとしての役割が期待されている以上、その目的に適した官製公募展「満州美術展覧会」が満州国へと導入されたのは至って自然な流れだったといっていい。
 こうして、満展こと満州国美術展覧会は、翌1938年に第1回が開催されたのを皮切りに、1945年にまでに計8回にわたって開催された(ただし最後の8回目は、会場設営まで終了していたもののソ連軍の侵攻によって公開されなかったとされる)。展覧会のシステムは原則として日本の官製公募展のそれと同様だが、やや異なる部分もあった。例えば、満展では東洋画/西洋画/彫刻工芸/法書(書)という出品区分が採用されていた。同時期の帝展の出品区分は日本画/洋画/彫刻/工芸だから、日本画が東洋画に変更されていることと、書がいち早く導入されている点で異なっている(帝展に書部門が設けられたのは、日展と改称された戦後のことである)。これはおそらく、「五族協和」の建国理念をふまえ、日本人以外の作家にも出品を促すことが大きな目的であった。特に「法書」は、清朝出身の著名な書家や収集家を役員や審査員に招くなど、満州人や漢人への懐柔策としての側面を有していた。
 また満展では、審査員、審査相談役、美術委員という三層構造の審査員制度が採用されていた。こちらも同様に五族協和を意識してか、審査委員長には漢人の官僚を据えていたが、展覧会の中核を占める東洋画と西洋画では日本の画壇の大物作家が相談役として招かれるなど、宗主国である日本が展覧会を主導していた印象は否めない。
 現在、満展に出品されたことが確認されている作品は1点も発見されていない。大半の作品はもはや現存していないと推測されるので、展示の様子は図録の不鮮明な図版などを通して類推するしかないのだが、作品の質はお世辞にも高いとはいえなかったことは確かなようだ。加えて、当時の時勢もあってか、過激な作品は審査の段階で出品を拒絶されていた可能性が高い。満州国のプロパガンダが展覧会の大きな目的だったことを思えば、この「検閲」は当然だったのかもしれない。第2章では、国内の奉祝美術展や海外の万博の美術展示を例にとり、紀元2600年展での美術展示が実現した場合、どの部門にも国内の画壇の序列がそのまま持ち込まれ、前衛美術はほとんど排除されていたのではないかという仮説を提唱したが、同時期の満州での美術の状況もまたこの仮説を裏付けているように思われる。

満映と甘粕正彦

 長春市内南部の南湖公園の近くに、長影旧址博物館と呼ばれる施設がある。ここには過去の映画に関するさまざまな資料が展示されているほか、シネマコンプレックスや音楽ホールの機能も備えたテーマパーク型の博物館で、日本でいえば京都の太秦映画村などに相当する施設だが、実は戦前には満州映画協会(以下、満映と略記)の活動拠点であった。
 満鉄に映画部が設けられるなど、以前から満州国関係者の絵以外に対する関心は高く、映画制作がおこなわれていた。当時の関係者は満州国の正統性を対外的にPRする必要に迫られていて、映画という新しいメディアがもつプロパガンダ機能に期待が寄せられていたのだろう。満映は満鉄から独立するかたちで1937年に創設され、清朝の王族を理事に迎え映画制作に乗り出すが、なかなか実績が上がらなかったため、翌年に当時満州国総務庁参事だった武藤富雄と次官だった岸信介は思い切った人事を断行する。甘粕正彦を2代目理事長として抜擢したのである。
 甘粕正彦といえば、数奇な運命をたどったことで知られる軍人である。その名を聞いて、映画『ラスト・エンペラー』に甘粕役で出演していた坂本龍一の姿を思い起こす読者もいるかもしれない。警官の息子として生まれた甘粕は、陸軍士官学校を卒業して憲兵となり(のちの首相・東條英機は、士官学校時代の恩師であった)、関東大震災の混乱期にアナキストだった大杉栄らを殺害する、いわゆる「甘粕事件」を起こし(なおこの事件は、目撃者が不在なうえ甘粕の供述も二転三転し、また非力な甘粕が柔道の猛者だった大杉を素手で殺害したとされるなど、不自然な点が少なくない)、懲役10年の判決を受けて服役する。3年で仮出獄した甘粕はすぐに結婚して渡仏し2年間の遊学ののちに帰国、今度は大川周明の推薦によって満州に渡る。満州では数回の謀略に参画し、溥儀の満州国皇帝即位にも一役買い、満州国建国後は民政部警務司長、満州国協和会理事、中央本部総務部長などの役職を歴任する。武藤と岸から満映理事長への就任を打診されたのは、それからしばらくしてのことだった。
 甘粕の理事長就任が発表された当初、甘粕の前歴を知る者たちの間では、「満映が右翼に牛耳られる」と畏怖する声が大半だったという。しかし甘粕はスタッフの待遇を改善し、日本人・満州人ともに給料を大幅に引き上げたほか、女優を酒席に同席させることを禁止するなどの改革を断行し、たちまちその評判は向上した。李香蘭を看板スターとする体制を確立したのも甘粕が理事長だった時期である。甘粕の理事長着任によって満映の業績が大きく向上したのは紛れもない事実であり、甘粕が実務家として有能だったことは間違いない。
 もっとも、いくら実務家として有能だったとはいえ、甘粕はしょせん映画制作については素人であり、現場のスタッフが甘粕の素人ぶりを嘲笑することもあったという。とはいえ、そんなことは十分想定の範囲内であり、甘粕もそれで目くじらを立てたりはしなかった。それよりも気になるのは、なぜ武藤と岸は甘粕に畑違いの満映理事長就任を打診したのだろうか、また甘粕も青天の霹靂ともいうべき要請を受諾したのだろうかということだ。
 このうち、前者は比較的容易に想像がつく。すでに述べたように、満州国政府は満映に対してプロパガンダ戦略への貢献を大いに期待していた。映像制作は現場のスタッフやキャストの仕事としても、その配給や公開には有能な実務家の手腕が必要とされる。その点で、満州での多くの謀略で実績を挙げた甘粕はこれ以上ない適任者だったのだろう。加えて、武藤も岸も「甘粕事件」の判決に対して懐疑的であり、彼の満州での功績にふさわしいポストを用意してやりたいという温情もはたらいていたものと推測される。一方後者に関しては、やや意外な事実に注目する必要がある。当時の満州国の関係者の間でどの程度知られていたのかはわからないが、実は甘粕は日本では昭和初期に流行したプロキノ映画をほとんど観ていて、また遊学先のフランスでも多くの映画を観るなど、無類の映画好きであった。武藤が甘粕の抜擢を決断したきっかけも、同じ使節団の一行として渡独してウーファ社のスタジオを視察した際に、甘粕の映画に対する深い造詣を知って感心したことだったという。
 一方で、甘粕の映画好きは、満映にまた別の一面をもたらすことになった。中国本土では中華電影との合作映画を除いては満映作品を公開しない方針だったため、その公開範囲は必然的に満州国及び日本租界に限定されることになった。必然的にその作品は日本人の嗜好に合わせざるをえなくなり、多くの日本人スタッフ・キャストをそろえる必要に迫られたが、その一方で「五族協和」という理念にも最低限配慮しなければならなかった。日本人だった山口淑子が李香蘭という中国名でスターとなり、戦後になって漢奸の嫌疑をかけられるはめになったのも、以上のような満映特有の事情が関係している。
 こうして満映には日本から多くの映画人が参加することになるのだが、実のところ彼らの多くは、当時の会社の方針と折り合いが悪かったため、日本では映画を撮る機会に恵まれず、やむなく渡満してきた左翼であった。右翼の憲兵隊長として畏怖されていた甘粕のもとに左翼の映画人が多数参集したというのはいささか意外な事実である。しかし、プロキノ映画出身でバリバリの左翼だった木村荘十二や北川哲夫は、甘粕がマルクス主義やロシア共産党の話を聞いても平然としていたことを振り返っていて、また同じくプロキノ映画出身で戦後には帰国して『血槍冨士(11)』や『宮本武蔵(12)』などの大作を手掛けた内田吐夢も、甘粕が自分よりもスケールが大きい人間であることを認める発言をしている(13)。何しろ甘粕には、恩師の東條を公然の不仲だった石原莞爾に堂々と引き合わせたというエピソードさえ存在するのだ。もちろん満映には、左翼ばかりでなく右翼の映画人も少なからず参加していた。甘粕の清濁併せのむスケールの大きさが、満州の地に多くの映画人を引き寄せたといえるだろうか。
 もっとも、多士済々な映画人が参画していた満映だが、多くの作品は日本映画の二番煎じだったとされ、お世辞にも評価が高いとはいえない。また作品のよしあし以前の問題として、島津保次郎の『私の鶯』(しかもこの作品は東宝との合作で、満映独自の作品ではない)を除くすべての作品が散逸してしまったとされ、長らく見ることもできない状態だった。だが1994年6月、ロシア国立映像資料館から多数の満映作品が発掘された。発掘された作品は約300本、上映時間にして約38時間。これらの作品は、映画好きだったスターリンの指示によって保管されていたという。その多くは未編集の記録映像(もちろん、そこに映っているさまざまな式典や満州国の人々の日常の様子は、資料として極めて貴重なものだ)だが、それに加えて李香蘭主演の『迎春花』や森繁久彌ナレーションの啓蒙映画『北の護り』、アニメ映画『蚤はこわい』なども残存していた(14)。松竹、日活、新興、芸術映画社などの国内各社から多くの撮影技師、映写技師、照明技師などを招聘し(戦後プログラムピクチャーの職人監督として活躍する加藤泰もその一人であった)、またドイツからウーファ社の優れた映像技術を導入し、アグファ社からフィルムの供給を受けるなど、甘粕は最新の映像技術への関心が強かった。半面制作現場には一切口を出さない方針だったため、満映の制作スタッフは、日本では到底不可能な映像実験に取り組むことが可能だったのである。
 甘粕は満州国が滅亡した翌々日の1945年8月20日に服毒自殺を遂げ、10月には満映は中国共産党によって接収され中国電影公司となる。それ以降はその後身である長春電影制片廠(旧名:東北電影公司)が長春映画撮影所として長らく使い続け、現在のような博物館となったのは2014年9月とごく最近のことだ。博物館の展示はほとんど戦後の中国映画にさかれていて、とりわけ、戦後間もない1940年代から50年代の中国映画はほぼ抗日戦争もの一辺倒といってよく、いまさらながらあの戦争が残した傷跡の深さを思い知らされるのだが、エントランスの近くに設置されている数枚の解説パネルとわずかな展示品は、かつてここが満映だったことを教えてくれる。椹木野衣は満映のさまざまな映像実験が戦後の大阪万博のハイテク映像の先駆となったことを指摘しているが(15)、同時代に開催されるはずだった紀元2600年博にもダイレクトな影響を及ぼしたのではないかと感じるのは私だけだろうか。

大東亜建設大博覧会

 また、新京で満州国建国10周年を記念する大規模な博覧会が開催されていたことにもふれておかなければならないだろう。1942年8月10日から9月30日にかけて、「大東亜建設大博覧会」と題する展覧会が開催された。会場は新京特別市内の百道松原、満州新聞社、康徳新聞社、満州日日新聞社の3社が主催者として名を連ねている。
 会場には屋外大パノラマ・ジャングル地帯、陸軍館、海軍館、航空館、武勲館、馬事館、大東亜戦時館、新興産業館・科学館、総力奉公館、通信交通館、特設館(朝鮮館・台湾館・満州館・華北交通館)、盟主日本館、映画館・芸能奉仕館といった展示館が設置された。すでに日米が開戦していた時期の開催ということもあり、建国神廟や対イギリス・アメリカ戦の戦利品など、全体としては大東亜共栄圏を鼓舞するようなプロパガンダ的な色彩が強かったが、「五族協和」を意識してか、オロチョン族など少数民族関連の展示がおこなわれたという。観客動員は100万人を突破するなど好調に推移したが、現在ではすっかり忘れ去られてしまっている観がある。プロパガンダ色が強い博覧会は当時国内でも盛んに催されていたし、それと比べてもこの博覧会にはこれといって特筆すべき内容がなかったように思われる(16)。

ハルビン――満州北部の人工都市

 わずか1泊の長春滞在のあと、9月6日の夕方、私はまたしても高速鉄道に乗車し、今度は黒竜江省の州都ハルビンへと向かった。鉄道の旅は快適で、1時間半もしないうちに目的地に着いてしまった。現在、ハルビンの都市圏人口は1,000万人を超え、満州でも最大級の規模を誇る。かつてのあじあ号の終点であり、また安重根による伊藤博文の暗殺現場でもあるハルビン駅の駅前広場は、無数の群衆でごった返していて足の踏み場もないありさまだった。
 漢字の哈爾浜よりカタカナのハルビンのほうがなじみ深いことに明らかなように、ハルビンはヨーロッパ的な色合いが濃い都市である。その独特の雰囲気は、ロシアやモンゴルにほど近い地理的環境はもとより、ロシアによって開発が進められ、またかつてはユダヤ人のゲットーが存在した歴史的経緯も相まって形成されたものだ。
 ハルビン市の北部には松花江という大きな河川が町を横断するように流れていて、その南側を並行するように鉄道の路線が走っている。松花江と鉄道の間隔は約2キロ、両者の間には多くのヨーロッパ風建築が立ち並ぶ中央大街が走っていて、一方、駅前広場から南に延びる紅軍街の先には巨大な円形広場が待ち構えている。ロシアがこの一帯の開発に乗り出し、ハルビンにアール・ヌーヴォー調の東清鉄道の駅を設けたのは1896年のことだが、この広場に初のロシア正教会であるニコライ聖堂が建設されたのは、それからわずか2年後の98年のことだった。市街地にロシア正教の教会を設けるのはロシアの都市計画の典型だが、それを市の交通の要衝に設ける手法には、明らかにオスマンのバロック的都市計画の手法を見て取ることができる。もっとも、ニコライ聖堂は文化大革命の渦中にあった1966年に近衛兵によって破壊されてしまったため、現存していない。現存する教会のうち最も著名なのは07年に建てられた聖ソフィア教会だが、外観こそ見事なビザンチン様式を保っているものの、すでに教会としての機能は失われ、現在はハルビン建築芸術館として活用されている。
 一方、北川の中央大街はかつてキタイスカヤ(中国人街)と呼ばれ、ロシアや日本が建てた多くの欧風建築が立ち並んでいた。中国の都市に中国人街があるのも妙な話だが、それはそれでハルビンという都市の国際的な性格を強く物語っているといえるだろう。旧秋林洋行、モデルン・ホテル、旧ハルビン市公署、旧ユダヤ国民銀行、旧松浦洋行などのビルはいまでも現役で使用されていて、ロシア人が姿を消して久しいこの街の景観を依然として国際色豊かなものにしている。ロシアの都市計画をもとに大きく上書きした大連と異なり、ロシアが残した街路や建物をほぼそのまま引き継いだハルビンの都市景観に、日本的な要素はあまり認められない。ただ日本が整備した中央広場にはロシア正教会のような宗教施設がなく、そこにははっきりとした差異が認められる。また、ハルビンには傳家甸(フーシャンテン)と呼ばれる中国人の居住区があり、ここでヨーロッパ的とも日本的ともいいがたい独自の建築様式が発達した。その独自のデザインは現在では「中華バロック」と呼ばれていて、ロシアや日本の支配に対する中国人の抵抗を見て取ることができるかのようだ。
 ハルビンといえば、あの731部隊の拠点だった都市でもある。中心部から南側約20キロに位置する「侵華日軍第731部隊遺址」にはボイラー塔の残骸が残され、また現在でも終戦直後に破壊された施設の遺構の発掘が進められているほか、2015年8月に開館した罪証陳列館では、731部隊の蛮行を物語る多くの物品が展示されていた。ベルリンのユダヤ博物館をほうふつとさせる空間や過剰とも思える演出が施された数々の展示には、当然ながら強烈なプロパガンダ的な意図がうかがわれたが、そのことを割り引いてもなお、当時の満州でいかなる悪夢が起こったのかを想像するには十分すぎるほどだった。万博というテーマからかけ離れているので、これ以上展示の詳細には立ち入らないが、731部隊がおこなったとされるさまざまな実験に、満州国という人工国家の実験的な側面が極端なかたちで露呈していることは確かだろう。

大東亜戦争完遂哈爾浜大博覧会

 日本の支配下にあった時期が短かったこともあり、大連や長春に比べて日本の色彩が薄いハルビンだが、戦時中にはこの都市でも博覧会が開催されたことがある。1943年8月1日から9月20日にかけて、松英江河畔の道理公園で開催された「大東亜戦争完遂記念哈爾浜大博覧会」である。展示館は国防産業館、戦時生活館、大東亜旅行館の3館だけで、当時の戦局を反映してか、兵站や配給などに焦点を合わせた戦時色が強い展示がおこなわれたようだ。61万人の観客を動員したということだが、この博覧会についての資料は乏しく、「博展」で長谷川一郎が執筆したレポート以外にこれといった報道も見当たらない(17)。当時はすでに戦局が悪化していて、ハルビンを訪れる観光客の客足も落ちていたものと推測される。大本営発表ではないが、この動員数にもいささか誇張が含まれていたのかもしれない。

おわりに

 こうして、6泊7日の満州滞在を終えた私は、9月8日早朝にハルビンを発って北京経由で日本へと戻ってきた。瀋陽を訪れる機会を逸したのは返す返すも残念だったが(幸いこの都市は日本とも直行便で結ばれていて、近いうちにぜひ訪れたいと思っている)、満州族の故地であり、清朝建国の祖であるヌルハチが王宮を構え、現在も陵墓に眠る瀋陽は、今回訪れた3都市とは異なって長い歴史がある「自然都市」である。結果論とはいえ、本稿の目的に即せば、今回の訪問先を3つの「人工都市」に限定できたことは諒とすべきなのかもしれない。さて、日本へと戻ってきた私は、あらためて今回の満州滞在を振り返ってみて、最も強いインパクトを受けていたのは長春の景観だったことを再認識した。
 長春駅に到着した当日はすでに夜だったためにわからなかったのだが、翌日の出発時に駅舎の南側を見た私は、大通り(人民大街)が一直線に市街地を貫いていることに気がついた。また帰国後に長春の地図を見返した私は、それが完璧な人工都市であることをあらためて実感した。鉄道と運河に沿って整理された区画、市内に点在する公園、要所要所に設けられた広場とそれらを結ぶように走る幹線道路。池までが人造湖で、手つかずの自然や昔からの集落が放置されていた要素がほとんど見当たらない。繰り返すが、満州国時代の首都「新京」は、文字どおり「新しい京」として構想された都だったのである。
 満州国の首都として整備された長春=新京には、当然のように多くの首都機能を備えた施設が建てられた。駅から人民広場を抜けて南側に延びる人民大街と、それと並行するように文化広場と新民広場を結んで走る新民大街という2本の大通りの沿道に集中しているそれらの施設は、みな一様に鉄筋コンクリートの躯体の上に東洋風の意匠の屋根を頂いていた。
 1920年代の日本国内では、西洋風の躯体に日本風の屋根を載せる和洋折衷の様式による官公庁の建築が流行したことがある。帝冠様式と呼ばれるこの様式は、西洋の先端技術に日本趣味を融合して日本精神の優越性を打ち出すことを大きな目的としていた。これと同様の意図は、当然長春の施設群にも認められる。ヤマトホテルのような民間の建物とは異なり、官庁舎は意匠の面でも日本支配を示す必要があるからだが、その一方で「五族協和」という理念を表象するためには屋根の意匠に中国的な要素を取り入れる必要もあり、建物の細部は日本国内の帝冠様式とは微妙な違いをはらむことになった。これらの施設群の様式は、現在では興亜様式と呼ばれている。
 9月6日の日中、私は新民広場から新民大街と人民大街を北上して、長春駅を目指して歩いた。沿道の多くの部分には公園が整備されていて、そのところどころに旧満州国時代の建物が深い緑のなかに埋没するかのように点在している。それらの建物はどれも強いインパクトを残すが、なかでもひときわ異彩を放っていたのが、それぞれ日本の国会議事堂と天守閣を中華風にアレンジした趣の「偽満州国国務院旧址」と「旧関東軍本部」であった。帝冠様式がヨーロッパと日本のアマルガムだとすれば、そこにさらに中華趣味も加えたものが興亜様式だといえるだろうか。もちろん、私はいままでにこんな奇怪な建物をほかのどの場所でも見たことがないし、これからも見ることはないだろう。だがこれらの建物が佐野利器の指導によって建てられたこと(18)を事前に知っていた私は、ふと彼が肇国記念館コンペの審査委員長を務めていたことを思い出し、紀元2600年万博が開催されていたら、満州以外の世界のどこにもないはずの建物が、ひょっとしたら月島界隈に出現していたのかもしれないという不思議な感慨に囚われた。
 1945年8月18日、皇帝・愛新覚羅溥儀の退位によって満州国は滅亡した。日本の降伏からわずか3日後のあえない最期だった。すでにふれたように、満州国が日本の傀儡国家であり、短期間で滅びる運命にあったことは誰の目にも明らかだったが、にもかかわらず(あるいはそれゆえに)この人工国家では他国では到底不可能なさまざまな実験が展開され、一部の人間にとってはつかの間のユートピア、文字どおりの「王道楽土」たりえていたこともまた否定しきれない事実なのだ(19)。その雰囲気は、例えば和田三造の『興亜曼荼羅』(1940年)が伝えるとおりである。そして、つかの間のユートピアという性格は、当然ながら万博に対してもあてはまる。6泊7日の慌ただしいスケジュールのなかで、私が接した満州国時代のさまざまな実験の痕跡は、同時代の紀元2600年万博計画と深くシンクロしているように感じられた。私は満州国という国家そのものが巨大な万博のような存在だったのではないかという従前の仮説を訂正する必要は一切ないと感じているし、また今後もさらに検討を重ねて、その仮説をさらに補完していきたいと考えている。


(1)『ラスト・エンペラー』監督:ベルナルド・ベルトルッチ、1987年
(2)安部公房「終りし道の標べに」『安部公房全作品』第1巻、新潮社、1972年
(3)村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』全3部、新潮社、1994年
(4)西澤泰彦『図説「満洲」都市物語――ハルビン・大連・瀋陽・長春 増補改訂版』(ふくろうの本)、河出書房新社、2006年、52ページ。以後、各都市の市街地の歴史に関しては原則として同書に依拠する。
(5)同書70ページ
(6)満州での博覧会の概要は、山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』(風響社、2008年)に依拠する。
(7)ケネス・ルオフ『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』木村剛久訳(朝日選書)、朝日新聞出版、2010年、20ページ
(8)例えば、越澤明『満州国の首都計画』(〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2002年)14ページには、「満州事変前の満鉄時代の長春都市計画は、近代日本都市計画の産みの親である後藤新平の都市計画に対する情熱の基をつくった原体験であること、そして満州事変後の満州国時代の新京都市計画は、それまで日本の都市計画が消化し、蓄積してきた理念と技術を全面的に適用した一大実験場であったということである」と記載されている。
(9)同書175ページ
(10)満展については、崔在★火偏に赫★「満洲国の美術 1932―45年」(北澤憲昭/佐藤道信/森仁史編『美術の日本近現代史――制度・言説・造型』所収、東京美術、2014年、377―389ページ)を参照した。
(11)『血槍冨士』監督:内田吐夢、1955年
(12)『宮本武蔵』監督:内田吐夢、1961年
(13)山口猛『幻のキネマ満映――甘粕正彦と活動屋群像』(平凡社ライブラリー)、平凡社、2006年、103ページ。なお、満映についての概要は同書に依拠している。
(14)『私の鶯』(監督:島津保次郎、1944年)、『迎春花』(監督:佐々木康、1942年)、『北の護り』(1942―44年)、『蚤はこわい』。これらの発掘映像については、『満州の記録――満映フィルムに映された満州』(集英社、1995年)を参照のこと。
(15)椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年、251ページ
(16)同博のリアルタイムな反響としては、西澤捷「満洲建国十周年記念 大東亜建設博覧会を観る」(「博展」第26号、日本博覧会協会、1942年、8―11ページ〔津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成編・解説『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」第4巻)、国書刊行会、2015年、426―429ページ〕)が挙げられる。もっともこの記事は展示の紹介ともろもろの困難を克服して開催にこぎ着けた主催者の奮闘を称えることに終始していて、内容についての踏み込んだ言及は見られない。
(17)長谷川一郎「哈爾浜博作品の展望」(「博展」第37号、日本博覧会協会、1943年、8―9ページ〔前掲『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」第4巻)、636―637ページ〕)。なお乃村工藝社アーカイヴが所蔵するこの博覧会の資料は絵はがき3点とスタンプシール1点だけであり、前掲『近代日本の植民地博覧会』にもこの博覧会については一切記載されていない。
(18)前掲『満州国の首都計画』248ページ
(19)その一例として、先に述べたように、満映に左翼の映画人が多数流入したことなどが挙げられる。またルイーズ・ヤングは、満州に渡った日本の左翼知識人にとって、そこ(満州)が「日本とは異なり、新しい考え方に寛容であり、社会的な実験を呼び込み、都市計画家・芸術家・写真家・左派の学者などが創造的な活動をするのにふさわしい、開かれたフィールド」だったことを指摘している(ルイーズ・ヤング『総動員帝国――満州と戦時帝国主義の文化』加藤陽子ほか訳、岩波書店、2001年、178ページ)。

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第2章 肇国記念館と美術館――紀元2600年万博の展示計画

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

紀元2600年万博の展示計画

「第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景」で述べたとおり、紀元2600年万博の開催計画は、数回の修正を経て1937年10月に最終決定された。とりあえず、『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』(以下、『概要』と略記)に掲載されている会場計画の鳥瞰図と会場図面を参照しながら開催計画の概要をたどってみよう(1)。
 まず会場として想定されているのは、月島埋立地4号地と5号地、さらに6号地の一部と防波堤、当時すでに史跡に指定されていた第3台場公園で、総面積は約45万坪である。計画最大時の約330万平方メートル(約100万坪)からは半減したため、当初予定されていた飛行場やスカイライドはとりやめになった。また第2会場として、横浜市の山下町と山下公園の一角約9.9平方メートル(約3万坪)が確保された。
 次にブロックごとの計画をみていこう。4号地には勝鬨橋の正面に建国(肇国)記念館が立ち、向かって右に「主として精神文化」に関わる陳列館(パビリオン)が、左には主として経済に関わる陳列館が集まっている。この一帯は日本趣味を基調とするものとされ、中心に位置する肇国記念館前の広場は朱色の柱が立ち並ぶ回廊によって囲われていた。他方5号地は、産業に関わる展示や海外の展示が多くを占めることから、4号地とは対照的に洋風の「自由な近代的建築様式」が採用されることになった。またここでは、足元から水流を池に落とす噴水塔をランドマークにする計画だった。そして第2会場の横浜には、「開港都市の面目を発揮せしめる」ことを目的に、「水」に関係のある展示館を集めることになった。
 次に、陳列館の概要をみておこう。陳列館の出展計画は、1935年2月に発表された「日本万国博大博覧会」構想の時点で大まかな素案が固まっていたこともあり、その素案を敷地面積の縮小などに合わせて修正するかたちで決定された。主催者である博覧会協会の直営陳列館は以下のとおりである(2)。

東京会場
1  建国記念館  2  生活館
3  社会館    4  保健衛生館
5  教育館    6  美術館
7  文芸館    8  経済館
9  燃料館    10  海外発展館
11  鉱山館    12  土木建築館
13  通信交通館  14  観光館
15  科学発明館  16  印刷写真館
17  農業館    18  林業館
19  食料館    20  紡織館
21  蚕糸館    22  化学工業館
23  製作工業館  24  工芸館
25  航空館    26  機械館
27  電気館    28  外国館

横浜会場
1  海洋館     2  水産館
3  水族館

 開設が予定されていた陳列館は東京会場28、横浜会場3の総計31だが、会場計画によると、それ以外にも「世界大サーカス」のような大規模な催事や「万国大観」「野外音楽堂」「子供の国」「演芸館」「野外演芸館」「映画館」などの開設が計画されていたようだ。本章では、これらの陳列館のなかでも肇国記念館と美術館へと焦点を合わせていく。

肇国記念館

 4号埋立地の正面に陣取り、また『概要』でも真っ先に名を挙げられている建国記念館は、構想の初期段階から博覧会のシンボルとして位置づけられ、また博覧会終了後は別の場所に移築して「永久記念館」として残すことが想定されていた陳列館である。ホスト国の基幹施設という意味では、大阪万博や愛知万博での日本館に相当する。
 同館の建設にあたっては、特定の建築家に委ねるのではなく、懸賞付きの競技設計(ルビ:コンペティション)を実施して設計者を選出する方法が採用された。競技規定には「本館ハ本博覧会ノ主標トシテ紀元2600年ヲ記念スルニ足ルベキ重要建築物ナルヲ以テ其ノ建築様式ハ日本精神ウヲ象徴シタル荘厳雄大タルモノナルベシ(3)」という指標が示された。具体的には、「日本趣味」を基調として、勾配がある屋根を被せることをはじめ、総工費は150万円で、陳列室のほか便殿(天皇の休息所)、貴賓室、総裁室、委員会室、食堂、2,000人規模の集会ホール、絵画室、屋上展望所などを設けることが決定されたのである。このコンペには、1937年8月24日から11月1日の応募期間中に総計108通の応募が寄せられた。
 コンペの審査員を務めたのは、審査委員長の佐野利器(元東京帝国大学教授、清水建設副社長)をはじめ、武田五一(元京都帝国大学教授)、内田祥三(東京帝国大学教授)、佐藤功一(日本女子大学教授)、大熊喜邦(大蔵省)、長倉利隈(商工省)、長衣斐清香(東京市土木局長)といった面々である。1等賞には賞金3,000円、2等には1,500円、3等には800円が用意された。
 1937年11月11、12日の両日、佐野委員長を中心とする審査会が開催され、1等1人、2等1席1人、同2席1人、3等1席から4席4人、選外佳作6人の受賞者が決定された。広報も審査も周知徹底していたようで、入選作はどれも競技規定に忠実な意匠の作品だった。
 108通の応募のなかから、1等と2等1席に当選したのが高梨勝重である。審査結果を報じる「万博」の記事によると、高梨は東京麹町出身、早稲田高等工学校建築科(現・早稲田大学理工学部建築学科)を卒業後、建築事務所勤務を経て自らの事務所を構えた当時29歳の若手建築家だった(4)。1等に当選した高梨の作品は、切り妻屋根の母屋の中央後方にこれまた切り妻屋根の高い塔がそびえる左右対称の造形で、また正面入り口の真下には階段が、その両脇にはバリアフリーのような緩やかなスロープが取り付けられていた。高梨自身は、審査結果を報じる「万博」の記事で「日本建築様式創始時代の姿を留むる神殿造りの崇高雅典なる形式を構想の主眼とした(5)」と語っていて、また佐野も審査の選評で、高梨の案が「日本古来の神社の極簡素な、荘厳雄大な心持を基本にして出来た(6)」ことを絶賛している。
 佐野の選評を参考に、ほかの案もいくつか一瞥してみよう。3等1席となった佐藤重夫は戦後広島大学教授として原爆ドームの保存工法を研究した人物だが、彼の案も古代日本の建築からヒントを得た、左右対称の母屋の中央に塔がそびえる「奇抜で賑やか」なものだった。3等4席となった阿部庄吉は前年(1936年)に実施された朝鮮総督府始政25周年記念博物館のコンペ(佐野はここでも審査員を務めていた)で2等に入選した実績の持ち主で、低層の神社建築のような案は「難は少いが、迫力に乏しい」と評されるなど、無難な印象を与えたようだ。佳作となった山本延次は主に商店や百貨店を手掛けていた建築家で、神社と西洋の教会を融合させたような建物の正面に高いポールがそびえているのが特徴である。同じく佳作の望月長與は三鷹市の市章をデザインした人物で、その案は宝形屋根のホールの前に2つの塔がそびえているのが特徴だが、入選作品のなかで最も洋風の印象が強い。佐野は「日本味」と「雄大な気」に注目して6点の佳作をすくい上げたという(7)。
 入選作品決定後の1937年12月21日に開催された第7回計画委員会では、展示館の名が建国記念館から肇国記念館と改められ、1等に当選した高梨案から中央の塔を取り除いた意匠で建てられることが決定された。その後翌年にも2度の計画委員会が開催され、実施設計や模型による確認観覧がおこなわれ、神武天皇の即位をテーマとする壁画が描かれることが決定され、万博会場全体の地鎮祭もとりおこなわれたのだが、万博の開催が「延期」されたことに伴い、肇国記念館が月島の地に姿を現すことはなかった。

肇国記念館での「国史」の展示

 では、施設の意匠こそ決定されたものの、実際に建てられることがなかった肇国記念館では何が展示される予定だったのだろうか。この万博で出品物を選定する役割を果たしていた組織が出品部類目録委員会である。出品部類目録委員会は、田澤義鋪貴族院議員を委員長とし、1937年4月30日に第1回が開催されて以来計6回の委員会を開催し、同年末には万博会場に設置される陳列館の名称に合わせるかたちで総計25部の出品部類が決定された。その内訳は以下のとおりである(8)。

第1部 国史      第2部 生活
第3部 政治及社会   第4部 保健衛生
第5部 教育及宗教   第6部 美術及工芸
第7部 文芸      第8部 学術
第9部 発明      第10部 出版、印刷及写真
第11部 通信      第12部 交通
第13部 経済      第14部 農業
第15部 林業及狩猟   第16部 水産業
第17部 鉱山及冶金   第18部 機械工業
第19部 蚕糸業     第20部 紡織工業
第21部 電気工業    第22部 化学工業
第23部 食料工業    第24部 製作工業
第25部 土木及建築

 このうち、肇国記念館が第1部の「国史」を対象にしていたことはいうまでもない。そもそも発案された頃から、同館は「建国以来我国ノ発展過程ヲ歴史的ニ絵画、遺物、関係参考品等(音楽、演劇ヲ含ム)ノ陳列ニ依テ現ハシ日本精神ノ作興ニ資スルト共ニ館自体ヲ我国最高文化ノ粋ヲ集メタル記念トス(9)」ことを目的にしていたのだから当然だ。とはいえ、計画が決定されてから間もなく万博の「延期」が決定されてしまったため、肇国記念館の展示計画は具体化されないまま消滅してしまった。
 肇国記念館ではどのような展示がおこなわれるはずだったのか、計画が具体化しなかった以上は類推するしかない。国家パビリオンでの歴史展示は万博の定番の一つといってよく、例えば大阪万博の日本館でも、縄文から現代に至る日本の歴史を概観する展示がおこなわれた。紀元2600年博であれば、当然1940年前後の時勢を反映した歴史展示がおこなわれていただろう。ここで思い起こしておきたいのが国史館構想である。「第1章 幻の紀元2600年万博」では、第2回の祝典評議会で紀元2600年万博を含む6つの奉祝行事が列挙された報告書が提出されたことについてふれたが、国史館もまたそのなかの1項目として挙げられていた。この国史館もまた実現されることはなかったのだが、同館の展示構想が、同時期に同じテーマでの展示を予定していた肇国記念館のそれと大いに重なり合っていることは容易に想像がつく。
 国史館は、もともとは麹町区内幸町(現・千代田区霞が関1丁目)に建設が予定されていた歴史博物館である。記紀神話に代表される「国体史観」を系統立てて展示しようとする、国立としては初の大規模な歴史博物館構想だった(10)。
 この国史館構想には、阪谷芳郎や牛塚虎太郎らも関与していた。万博実現に向けた彼らの尽力についてはすでにふれたが、2人はまた、系統立った国史の博物館建設も同様に紀元2600年の奉祝にふさわしい事業だと思っていたのである。そして、彼らに加えてもう1人名を挙げるべきキーパーソンが歴史学者の黒板勝美である。
 黒板は日本古代史と古文書学を専門とし、1905年に母校の東京帝国大学に着任して以来約30年間にわたって教鞭をとり、明治末期から昭和初期にかけて斯界の権威として君臨していた歴史学者である。35年春に東京帝国大学を定年退官した黒板は、同年11月に首相の諮問機関である紀元2600年祝典準備委員会委員に任命されるが、この任命は彼にとっても渡りに船だった。当時日本最大の博物館だった帝室博物館(現・東京国立博物館)が関東大震災からの復興後に美術館としての性格を強めたことに不満を抱いていた黒板は、それとは別種の歴史博物館を建てる必要をしばしば訴えていて、その実現に向けての拠点を欲していたからだ。黒板が考える国史館のあり方は、「単に日本の2600年間の歴史的なものを陳列いたす陳列場」ではなく「其の国史館を中心として日本精神の作興運動という意味に於て社会的な国民教育の上に一大貢献をさせたい(11)」という本人の言葉からも読み取れる。以後、祝典準備委員会は黒板の原案をもとに国史館の構想をまとめていく。
 1936年2月20日、祝典準備委員会の第7回幹事会で「国史館建設に関する件」が提案される。これは初めての具体的な建設計画だった。その計画案の文面では、「文化進歩の由来を明かにし、以て国民をして尊厳なる我が国体と優秀なる我が文化とを的確に認識せしめん」とナショナリズムが強調され、その一方で、「彼の帝室博物館が専ら東洋美術品を陳列して美術発達の迹を示し、科学博物館が天産物機械等を陳列して近代科学に関する知識の普及を図るに対し、夙に歴史博物館とも言ふべき施設の今日まで見る能はざりしは寔に遺憾とするところ」との記述は、黒板の認識ともほぼ重なり合っている。なお、この計画案には「日本万国大博覧会に於ける建国記念館を採り入れ計画するを適当なりと認む」という一文が記載されていたが、このようなかたちで明記された国史館と建国記念館の関係はあとあと議論を呼ぶことになる。
 この計画案は、その後準備委員会と文部省がそれぞれ個別に修正し、それぞれ「紀元記念国史館建設計画案」「国史館建設計画案」としてまとめられた。前者は、国史館を万博の一施設として開館し、万博終了後は財団法人に運営を委託することを計画し、「御歴代天皇の宸影・宸翰・御遺品」などの展示を予定していた。一方後者は、万博と奉祝会の共同経営とし、その解散後は文部省の所管とすることや、「皇室関係資料」「祭祀・信仰」「教育・思想」「学術」「政治・軍事」「社会事業」「産業・交通・土木」「外国関係」などの展示を計画するなど、前者と比べてより総合博物館的な性格の強いものになっていた。
 1936年7月1日、祝典準備委員会は祝典評議委員会に改組されるが、その特別委員会で問題視されたのが「国史館」の名称である。「建国記念館」とするのがいいのではとの意見に対し、黒板は「建国」という概念が古来から存在していたわけではないことを理由に強く反対し、国史館とすることを譲らなかった。結局名称の問題は決着を見ず、国史館という仮称によって建設計画を進めることになった。11月9日、「第1章 幻の紀元2600年万博」でもふれたように万博をはじめとする奉祝六大事業が決定し、国史館も正式に建設が決定されたのだが、黒板はそれからわずか2日後に脳溢血で倒れ、長い闘病生活の末現場に復帰することなく亡くなった。
 ここであらためて万博と国史館の関係に注目してみよう。万博と国史館の関係が初め明示されたのは先述の「国史館建設に関する件」だが、両者を一体と見なす考え方はそれ以前から存在していた。例えば、1935年10月14日の祝典準備委員会委では、牛塚が万博の主要展示館である建国記念館を大いに活用して、「国史の博物館」をそのなかに含めようという趣旨の発言をしている。欧米列強から博物館という思想が輸入されて間もなかった当時の日本では、帝室博物館が湯島博覧会を機に創建されたのをはじめとして、新たな博物館を創建するためには博覧会の開催が必須とされていた。牛塚の発言はこうした当時の常識に即したものだったが、黒板はこの発言への不快の念を隠さなかった。国史館が万博の一部門として従属させられることが不満だったことに加え、万博の主会場だった月島ではなく、宮城(皇居)付近か帝室博物館などがある上野公園への建設を望んでいたからである。建国記念館と国史館を一体化して進めようとする牛塚と、国史館単独での建設を求める黒板との溝はその後も埋まらず、結局この件は、両者の間に入った阪谷が、国史館と万博の建国記念館は別個に建てるが、万博終了後建国記念館を国史館に合併して一本化することと、内幸町の帝国議会議事堂跡地をその予定地とすることを提案し、一応の決着を見た。奉祝6大事業が正式決定したのは、その翌月のことだった。だが、1938年7月には万博の「延期」が決定したため、すでに建築意匠も決定していた肇国記念館の構想はその時点でストップしてしまう。
「万博」を参照するかぎり、肇国記念館の展示計画が発案時から深められた形跡は見当たらない。ただ国史館とのせめぎ合いなどから察するに、具体的に検討されていたとしたら、大いに紛糾していたことは必至だろう。だが一例として先の「紀元記念国史館建設計画案」を「国史館建設計画案」を比較すると、少なくとも万博という期間限定の催事の展示としては前者のほうがより現実的だったことは間違いない。一貫して肇国記念館と国史館の分離を主張していた黒板も、万博会場での「御歴代天皇の宸影・宸翰・御遺品」の展示であれば首肯していたのではないだろうか。
 その後の顛末にも少しだけふれておこう。肇国記念館の頓挫も影響してか、国史館構想は結局紀元2600年の奉祝イベントとしては実現しなかった。奉祝の大義名分を失ったこともあってか、その後関係者の熱意が急速に薄れ、戦局が悪化するなかいつしか立ち消えになったが、戦後しばらくたってから構想が再燃し、紆余曲折の末に1981年4月に千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館として開館する。同館の初代館長を務めた井上光貞は黒板の孫弟子にあたる歴史学者で、83年3月の一般公開直前に亡くなったことも、国史館構想の半ばで病に倒れた黒板との奇妙な因縁を感じさせる。「考古、歴史、民俗」の3分野を柱とする同館の展示方針は、国体史観の展示を目指していた国史館のそれとは全く異質だが、National Museum of Japanese Historyという館の英名は、紛れもなく同館が国史館の後継施設であることを示している。

美術館の展示計画

 次に美術館の展示計画を見てみよう。万博で初めて「美術館」の設置が発案されたのは、肇国記念館と同様に1935年2月の「日本万国大博覧会」の会場計画案でだが、この時点では美術館は「絵画、彫刻、美術、工芸、写真、書、篆刻ヲ展示ス」ことになっていた。ところが2年後の4月30日に決定された出品部類では、美術館の展示対象は「美術及工芸」だけに減らされている。これは、会場計画の縮小に加え、写真、書、篆刻の展示が新たに建てられることになった「写真印刷館」へと移設されたためだろう。そのため、ここでの「美術」とは「絵画及彫刻」を指すものと考えられる。他方、当初の計画案にあった「建築館」がなくなっていることから、そこでの展示が予定されていた「建築様式、建築材料、家具並室内装飾用品等」の一部が、陶磁器、漆器、金工、染織などと合わせて「工芸」へと編入されたものと推測される。
 出品区分はおよそ以上のとおりとして、次に気になるのは美術館にはどのような作品が展示されるはずだったのか、ということだ。肝心の出品目録が存在しない以上、何を書いても憶測の域を出ないのだが、類推の手がかりがないわけではない。紀元2600年に相当する1940年には全国各地でさまざまな奉祝行事が開催されたが、そのなかには多くの美術展も含まれていた。万博もまた奉祝行事である以上、その美術展示がこれらの奉祝美術展と似通ったものになっただろうことは容易に想像がつく。多くの奉祝美術展のなかでも、真っ先に参照すべきなのが「紀元2600年奉祝美術展覧会(12)」である。

「紀元2600年奉祝美術展覧会」

「紀元2600年奉祝美術展覧会」は、1940年秋に2期にわたって東京府美術館(現・東京都美術館)で開催された美術展である。主催は文部省と紀元2600年奉祝会。10月1日から22日の前期には油彩、水彩、パステル、創作版画(これらの日本画以外の絵画は、とりあえず「洋画」と見なしうる)、彫塑が計989点、11月3日から24日の後期には日本画と美術工芸が計870点展示され、前後期合わせて30万人以上の観客を動員するなど、当時としては空前絶後の規模だった。出品作家に関しても、例えば日本画では当時日本画壇の3巨頭と目されていた横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂の3人がそろいぶみしたのをはじめ多くの作家が出品し、一方の洋画も当時洋画壇の頂点に位置していた梅原龍三郎、安井曾太郎、藤島武二らがそろって出品を果たした。当時の画壇では、毎年秋に開催される帝国美術院展覧会(以下、帝展と略記)を頂点とするヒエラルキーが形成されていたのだが、それをあえて休止して同じ会場で開催された同展には、有力団体の所属作家はもとより、多くの在野作家も出品していて、まさに画壇の総力を挙げた一大行事だった。
 だが画壇の総力を結集したこの展覧会には、実のところ「和高洋低」とでも呼ぶべき偏向が潜んでいた。そのことは、「日本画」と「それ以外」というかたちで分けられた絵画の出品区分1つとっても明らかである。そうした主催者の意図は観客にも伝わっていたようで、開催期間がほぼ同じにもかかわらず、後期の観客動員は前期の倍近くに達した。偏向していたのは作品に対する評価も同様だ。例えば横山大観は、同展に『日出處日本』という大作を出品している。墨一色で描かれた霊峰富士の隣に深紅の旭日を配したこの作品は、奉祝という展覧会の意図に即していたこともあって、同年の『日本美術年鑑』で「筆技を超へた大観の優作」「奉祝の誠意を吐露した作品(13)」と絶賛された。一方の洋画は、梅原や安井ら大家の作品こそ例外的に称賛されているものの、全体に対しては「未だ全面的に吾が国独自の様式を樹立するに至らず」と大いに辛口だ。開国からまだ100年も経過していないこの時期、輸入絵画である洋画が「独自の様式を樹立するに至らず」なのは当然なのだが(またそれをいうなら、日本画も明治期にアーネスト・フェノロサと岡倉天心によって創始された歴史の浅い様式なのだが、そのことは意図的に無視されている。また逆説的なことに、展覧会のあとに本格化した戦争で、「作戦記録画」として重宝されたのは洋画のほうだった)、その当然の前提があえて批判の対象にされたことは、奉祝という目的のために、日本独自の様式によってナショナリズムを表象することが何より優先されたことを物語っている。その意味で、同展で奉祝という意図に忠実な大観の作品が頂点に位置づけられ、その一方で海外の最新動向から影響を受けた前衛美術が一切排除されていたのは当然のことだったといえるだろう。

ニューヨーク万博とサンフランシスコ万博

 もっとも、目的を同じくするとはいえ、奉祝美術展と万博の美術展示には1つ大きな違いがあることに注意しておかなければならないだろう。前者がもっぱら国内の観客向けであるのに対し、後者は行事の性質上どうしても海外の視線や反響を強く意識せざるをえないことである(14)。
 その意味で注目に値するのが、近い時期に開催された海外の万博での日本館の展示である。そのうち、1937年のパリ万博については寺本敬子の考察に譲るとして、ここでは1939年に開催されたニューヨーク万博とサンフランシスコ万博に注目してみたい(15)。「万博」や「博展」でもしばしば記事に取り上げられるなど、日本の関係者がアメリカの2つの万博に寄せる関心は高かった。日米関係は当時すでに相当悪化していたが、それでも多くの関係者は紀元2600年博を成功させるためにはやはりアメリカの参加が不可欠であり、そのためにはまず日本がアメリカの万博に参加する必要があると考えていたのだろう。またすでにふれたとおり、紀元2600年博の「延期」が決定されたあとも、日本政府はこの2つの万博への参加をとりやめることはなかった。あるいは、一部の関係者が月島で実現の機会を逸した展示をニューヨークとサンフランシスコで再現しようと意気込んでいたのかもしれない。
 山本佐恵は、多くの資料を駆使してこの2つの万博に参加した日本の足跡、特に美術展示に関して詳細に調べ上げた研究書を著している(16)。紙幅の制約もあってここではごく手短にしかふれられないが、以下、同書に依拠しながらこの2つの万博の美術展示を検討してみたい。
 ニューヨーク万博は1939年4月30日から10月31日にかけて、同市クイーンズ区フラッシングメドゥで開催され、翌年に再展示がおこなわれた博覧会で、会期中はゼネラル・モータースの企業パビリオン・フューチャラマが特に高い人気を博した。日本がこの万博への参加計画を提出したのは、すでに紀元2600年博の開催が危ぶまれていた38年5月のことだ。出品調査委員は正木直彦(元東京美術学校長)、川合玉堂、横山大観、岡田三郎助(東京美術学校教授)、津田信夫(同)の5人で、ほかに工芸部門の調査委員だった和田三造(同)も会合に出席していた。出品にあたっては、絵画には「文展入選作品中特に秀逸にして新傾向のもの」、工芸には「商工省主宰工芸展の入選作品其の他中亦特に秀逸にして新傾向のものを成るべくいわゆるサロン出品の方法により展示すること」という条件が設けられていて、実際に出品した画家も藤島武二、梅原龍三郎、中澤弘光、南薫造、石井柏亭、橋本関雪ら全員が帝国美術院会員によって占められていた。この顔ぶれを一瞥するだけで、文展を指標として「国家代表」にふさわしい作家が選出されるなど、国内の画壇のヒエラルキーがそのまま持ち込まれていることがわかる。また出品作全22点の内訳は日本画16点、洋画6点であり、翌年の再展示では日本画だけが出品されるなど、ここにも「日本」の表象を意識した「和高洋低」の傾向を見て取ることができる。
 ところが万博の開幕後には、日本館の展示作品に対する反響が乏しい半面、別の施設に展示されていた池上秀畝と八木岡春山の作品が高い評価を受けるという事態が発生した。池上と八木岡はともに帝国美術院の会員ではなく、当時の画壇では傍流に位置していた作家である。国内と国外の評価基準の違いの前に、万博を通じて官展や美術院の権威を高めようという画壇のもくろみははずれてしまったのである。
 一方の工芸は、国井喜太郎(商工省工芸指導所長)、秋月透(商工省陶磁器試験所長)、和田三造、宮下孝雄(東京高等工芸学校教授)らが審査員を務めた。選定条件は先に述べたが、実際にはそれ以外にも審査員が全国各地を回って探し出してきたものや、輸出用の工芸品を制作している企業や研究所からも出品されていた。とはいえ、出品作品70点の多くは一品制作の工芸品であり、「出品物は極力厳選主義に依ること」という原則は堅持された。この70点の出品作の大半は、同年のサンフランシスコ万博のそれと重複している。出品基準も審査員も同じなのだから無理もない。明治以来工芸品を主力輸出商品の1つに位置づけ、万博をそのプロモーションに活用してきた日本にとっては、量産が効かない一品制作の作品を展示の軸に据えたことは方針の転換でもあったが、政府は日本の文化水準の高さを示すことを優先したのである。
 日本館の造作にも注目してみよう。ホールの中央には漆塗りの大衝立と美術工芸品、日本画を配置する計画だった。これらはどれも★傍点:日本固有★のものであり、日本の伝統を表象しようとする意図が込められていた。その周囲には洋画や産業工芸品が並べられ、こちらには近代日本の優れた技術力を示すことが期待されていたことがわかる。
 美術工芸品を制作したのは村越道守、堆朱揚成、各務鑛三、松田権六、羽野禎三ら官展の常連作家であり、調査委員だった津田も自ら出品している。当時の日本にはすでにバウハウスなどのモダンデザインも紹介されていたのだが、こと万博では「国の粋」を追求することが最優先された。その最も象徴的な出品物が、高さ一丈一尺(3メートル30センチ)、奥行き五尺(1メートル50センチ)、幅四尺(1メートル20センチ)で、表面に日本を中心とする世界地図、裏面には尾形光琳を模したカキツバタが描かれ、中央に配置された日本漆工会出品の『漆塗大衝立』である。光琳は近代になって海外での評価が高まった絵師であり、「西欧に伍することのできる日本の画家の象徴」として取り上げられたのである。また「伝統文化の真価」を示すために、この衝立の制作には古来の技法を用いることが検討されたが、限られた制作時間で完成させるためには、近代的な技法にも依拠せざるをえなかったという。欧米では、白磁を「China」というのと同様に、漆器を「Japan」という――いまとなっては事実誤認だったことは明白だが、当時は多くの工芸関係者がこの流言を真実と思い込んでいたことも、この漆の衝立が中央に配置された大きな理由だったようだ。しかし、当時漆芸の原料の多くは輸入に頼っていて、「国の粋」としての要件を欠いていたのである。
 一方のサンフランシスコ万博は、1939年2月18日から10月29日にかけてサンフランシスコ湾内の人工島トレジャーアイランドで開催され、これまた翌年に再展示がおこなわれた博覧会である。同博の規模はニューヨーク万博よりも小さく、参加国も少なかったが、現地に多数の移民が在住するなどの事情もあってか、ニューヨーク万博とほぼ同規模のパビリオンを設けるなど、日本の同博に対する意気込みは並々ならぬものがあった。
 日本館のなかで最も大きな面積を占めていたのは観光部の展示だった。日米関係の悪化は承知のうえで、日本政府はこの万博を通じて観光客の誘致をはたらきかけたのである。ここには絵画は出品されず、翌年の再展示時にはじめて荒井寛方、田中青坪、池田遥邨、畠山錦成、松本姿水、不二木阿古らの日本画が展示された。ニューヨーク万博のときと同様、いずれも文展、帝展の常連作家ばかりであり、展示にあたっては「春」「夏」「秋」「冬」の四季に応じて分類された。美術工芸部に展示されたのは工芸だけで、絵画は展示の中心と考えられてなかったことがわかる。
 また美術品陳列館では、「日本古美術展覧会」が開催された。これは、ニューヨーク万博にはない新機軸であり、決して広くはない会場に414点の古美術品が展示された。そのなかには、台湾や朝鮮、アイヌや琉球の美術や民芸など、明らかに「古美術」の枠を超えるものだった。これらの展示を主導した国際文化振興会には柳宗悦や矢代幸雄が関わっていたことが判明しているが、彼らの意向がどの程度まで展示に反映されていたのかまでは明らかではない。
 ニューヨーク万博で、梅原は『霧島』と題する作品を出品している。京都出身の梅原がこれといって縁のない霧島を描いたのは、霧島の景観がかつて訪れたナポリのそれに似ていたことに感銘を受けたからとされるが、その神々しい景観描写は彼の地を舞台とする高千穂の天孫降臨伝説をも連想させる。また藤島の『朝陽』という作品も、万博出品にあたって『東海旭光』と改称され、「旭日昇天」のイメージが一層強調されている。梅原も藤島も翌年の紀元2600年奉祝美術展に出品を果たしていて、その前年に開催されたこの万博に参加した時点で、両者がすでに「奉祝」を念頭に置いていたとしても不思議ではないが、そうした展示に対する海外の観客の反応はなんとも冷淡なものだった。
 2つの万博でおこなわれた美術展示は、一言でいえば、国内画壇の頂点に位置する作家たちが、「日本」を表象する作品を出品することだった。国内の奉祝美術展の図式がそっくりそのまま輸出されたわけだが、それは画壇の影響力と奉祝の求心力がいずれも国内に限定されていることを示す結果となった。仮に紀元2600年博の美術展示が実現していたら、国内の観客と海外の観客の間にはどのような落差が生じていたのだろうか。

日名子実三と八紘一宇の塔

 最後に、実現しなかった「美術館」への展示が夢想される作家の1人である日名子実三についていくばくかの検討を加えてみたい。今日実三の名は、もっぱら日本サッカー協会(JFA)のエンブレムに用いられている八咫烏を描いたデザイナーとして引き合いに出されるが、彼の本領はあくまで彫刻にあり、ここでも彫刻家としてのキャリアに注目していく。
 日名子実三(本名:実蔵)は1893年10月24日、大分県臼杵市に5人兄弟の末っ子として生まれた。若い頃から美術家を志し、慶應義塾大学理財科を中退して東京美術学校彫刻科に入学、合わせて同郷の彫刻家・朝倉文夫の私塾に住み込みの弟子として入門する。美術学校を首席で卒業し、朝倉塾でも塾頭に抜擢されるなど、実三は短期間で高い技量を身につけるが、朝倉が実三を帝展の特選に推さなかったことや、独断で彫塑団体の解散を発表したことなどが重なって両者の関係は急速に悪化し、実三は1925年に朝倉塾を退塾する。厳格な写実主義者で、塑像にこだわっていた朝倉に対して、実三は塑像だけでなくメダルや記念碑も手掛け、建築にも強い関心を示すなど、より広い視野からの制作を強く望んでいた。両者が決別に至ったのは、いくつかの行き違いに加え、彫刻観の違いが決定的な原因だったといえるだろう。
 朝倉と袂を分かった実三は、1926年に盟友の斉藤素厳らと構造社を結成、翌27年の第1回展には彫刻29点に加えメダル14点を出品、旺盛な創作意欲を発揮する。また同年11月から約1年間のヨーロッパ留学に出発、当時の最先端の動向を目の当たりにし、帰国後はより一層メダルと記念碑の制作に力を注ぐようになる。
 1932年のロサンゼルスオリンピックに際して美術委員に選出されるなど、実三はスポーツ界との縁が深く、スポーツ関連のメダルを多数制作した。これらのメダルは相撲の開祖とされる野見宿祢や『出雲風土記』の八束水臣津野臣などがモデルとされている。現在の実三の代名詞である日本サッカー協会(旧・蹴球協会)の八咫烏の図案もこの当時制作されたものだ。また八咫烏は、1939年に制作された『志那事変従軍記章』の図案としても用いられている。そもそも八咫烏は神武東征の際に熊野国から大和国への道案内を務めたとされる架空の動物である。その神話的なモチーフは実三の大いに好むところだった。
 同じく実三の好みのモチーフとして挙げておかなければならないのが金鵄である。金鵄は1934年に制作された『昭和6年乃至9年事変従軍記章』に用いられているほか、37年の『陸上競技会メダル』では、神武天皇の肩に止まる八咫烏に加え、飾板には金鵄も描かれるなど、2つの鳥がそろいぶみしている。金鵄もまた、神武東征での長髄彦との戦いで神武天皇の勝利に貢献したとされる架空の動物であり、古代日本をほうふつとさせる神話的なモチーフは多くの局面で用いられた。ここではなんといっても、紀元2600年万博の宣伝ポスターなどに数多く用いられた中山文孝の『赤色地富嶽金鳶図』に、富士山を背景に翼を大きく広げた金鵄の飛翔する姿が描かれていたことにふれておかなければならないだろう(17)。広田肇一は、実三が記紀神話に登場する武人などのモチーフを好んだのは、ヨーロッパ留学時に国家や英雄をテーマとした作品に数多く接し、自らの出自である「日本」を強く意識するようになった結果ではないかと推測している(18)。こうした「日本」の表象が、万博のテーマだった奉祝とも深く通底していることはいまさらいうまでもない。
 1932年に斉藤が構造社を退会すると、それに続くように実三も退会、一時期は朝倉が不在だった帝展に復帰するもののすぐに脱退し、35年には第3部会を設立し、以後はそこを活動の拠点にするようになる。それ以降の代表作は、なんといっても『八紘之基柱(ルビ:あめつちのもとはしら)』(通称:『八紘一宇の塔』)だろう。
 1938年10月13日、相川勝六宮崎県知事を会長とする紀元2600年宮崎奉祝会は五代記念行事を決定したが、その目玉に位置づけられたのが「神武天皇の聖蹟保存顕彰」「八紘一宇の御柱の建立」だった。相川は神武天皇が高千穂に降臨したとする宮崎の皇祖発祥神話に強い関心を抱いていて、その記念碑の建設を強く望んでいたのである。このことを知った実三は相川を訪ね、「これを引き受けられれば一代の名誉である。報酬はいらないから自分にやらせてほしい」と率先して自らを売り込み、了承を得た。武人の造形に長じていた実三はその手腕を見込まれて37年に陸軍省と満州国恩賞局の嘱託に就任し、また39年には『南京表忠塔』を南京に建てるなど、当時は軍部と密接な関係にあって「日本」を表象する作品をしばしば手掛けていた。「八紘一宇の御柱の建立」はそうした活動の集大成でもあったのである。相川は「日向の雄大な山容を仰ぎ、明媚な風向に接し、太古の響きを今に伝える波濤を聞き、県下到るところに残る聖蹟古墳を拝して、そこから自然に沸き起こる霊感をまとめて頂きたい」という要望を出し、それを受けた実三は椎葉村や高千穂峡など、皇祖発祥神話に関連する県内の名所史跡を回って作品の構想を固め、制作に着手した。
 それから約2年が経過した1940年11月25日、宮崎市の丘陵地帯の一角に高さ36.4メートルの巨大な柱が竣工した。この柱はあたかも尖ったひな壇のようであり、日本趣味と西洋風のモダニズムとが入り混じった形状はなんともいえず独特である。この塔は忠霊塔でも忠霊碑でもなく、あくまで「象徴」として建てられたもので、塔の正面には秩父宮から下賜された手跡(この手跡は現在も厳室に保管されている)をもとにした「八紘一宇」の縦文字が刻まれ、基柱の四隅には、高さ4.5メートルの信楽焼製の『荒御霊(武人)』『和御霊(商人)』『奇御霊(漁人)』『幸御霊(農人)』の陶像が配された。また基壇部には厳室(ルビ:いつむろ)が設けられた。入り口には神武天皇が東征に出発する様子をモチーフとしたレリーフの銅扉が取り付けられ、一方室内には『天孫降臨』『鵜戸の産屋』『国土奉還』『紀元元年』『明治維新』『紀元2600年』などの作品が石膏の原型の状態で収められるなど、紀元2600年の歴史が圧縮されている観がある(19)。延べ作業人員6万6,500人、総工費67万円を費やして建てられたおよそ比類のない威容は、まさに畢竟の大作と呼ぶにふさわしい。
 一方で、『八紘一宇の塔』は皇祖発祥神話だけでなく、アジア・太平洋戦争の負の記憶を現在に伝える記念碑でもある(20)。『八紘一宇の塔』の本体は鉄筋コンクリート製だが、その基壇や周囲には総計1,879個の石が用いられている。そのうち海外から送られてきた石は372個で、その大半は中国、朝鮮、台湾産だった。塔の建設当時、これらの海外産の石は「献石」と呼ばれていたが、送り主の大半は当時現地に出征していた日本軍の部隊であり、その実態は植民地や占領地からの「戦利品」にほかならなかった。またかつて塔の背面には「大日本帝国ハ神国ナリ」で始まり、「聖戦既24歳、皇威ノ及ブ所北ハ黒竜江畔ヨリ(略)北中南支ヲ連ネテ、遠ク南海ニ至ル」とその領土が記された「大日本国勢記」が刻まれた大理石の板が設置されていた。その文面に象徴される「八紘一宇ノ大理想」が敗戦によって根底から否定されてしまったことはいうまでもない。
 塔の建設当時八紘台と呼ばれていた周囲の丘陵地帯は戦後市民公園として造成され平和台と呼ばれるようになり、その名もいつの間にか「平和の塔」と改称され、現在も同じ場所にそびえている。もっとも、戦後間もない1946年1月には、GHQの圧力によって「八紘一宇」の縦文字をはじめ、「荒御霊」「定礎の辞」「大日本国勢記」「由来記」が取り外されたものの、このうち縦文字と「荒御霊」は1965年1月の復元工事によって往時の姿を取り戻したが、「美術工芸品としての塔の完全復元」という名目で実施されたこの工事は、黒木博知事が県議会の承認を得ないまま独断で強行したものだった。とはいえ、「大日本国勢記」に象徴される「八紘一宇ノ理想」と戦後民主主義的な平和の理念が到底相容れないものであることは誰の目にも明らかだ。いずれにせよ、戦後になって二転三転した塔の数奇な運命――とりわけ、一連のとりはずしと復元が、どれも民主的とはいえない決定によってなされたこと――には、先の大戦をめぐるさまざまな記憶の混乱が凝集されている観がある。
 その後の実三の動向にも少しだけふれておこう。実三は1941年には『八紘一宇の塔』の近くに『皇軍発祥之地』碑、翌42年には日向市美々津港に『日本海軍発祥之地』碑(この作品も一時期碑文の文字が消去されたものの、のちに復元された)を建立している。いうまでもなく、どれも皇祖発祥神話をテーマとした作品だ。ほかにも、中国大陸まで赴いて先述の『南京表忠塔』や『上海海軍陸戦隊表忠塔』などの記念碑を制作したが、これらの作品はもはや現存せず、また国内にあっても、物資が不足していた戦時中、金属供出によって失われてしまった実三の作品は少なくない。その後戦争激化に伴い実三は44年の秋に茅ヶ崎の別荘に疎開、翌45年4月25日に終戦を待つことなく脳溢血で死去する。享年51だった。
 1940年9月3日から15日、東京府美術館で第三部会の彫塑展が開催され、実三は同展に『八紘之基柱』『航空表忠塔』『上海海軍陸戦隊表忠塔』の3点を出品している。この3点はどれも当時制作中だった記念碑の模型で、特に竣工間近だった『八紘之基柱』の宣伝が大きな目的だったものと推測されるが、あえてこの時期に展覧会を開催したということは、その直後に開催された紀元2600年奉祝美術展に参加する意思がなかったことを物語るものといえる。東京から遠く離れた宮崎にあって制作に専念していたことに加え、袂を分かった朝倉の影響下にあった帝展からは徹底して距離を置いていたのだから無理もない。その帝展での序列が出品作家の選出基準だったことを思えば、仮に万博の美術展示が実現していたとしても、実三が参加を要請される可能性も、あるいは参加の要請に応諾する可能性もほとんどなかったことは間違いない。
 2016年の春、私は宮崎と大分を周遊し、以前からの念願だった『八紘一宇の塔』を初めて訪れた。近くで見たときにはさすがに表面の風化や腐食が目立ったが、遠くから見たときにはその威容に圧倒されるばかりだった。ほかにも、実三の出身地である臼杵に立ち寄ったり、1年前に開館したばかりの大分県立美術館の収蔵庫に眠る実三のメダルを数多く実見したりする機会も得た。もちろん多くの発見があったが、ここで万博研究の文脈と無関係に実三の作品について云々するのは控えよう。だが1点、金鵄や八咫烏、そして何より『八紘一宇の塔』の圧倒的な威容にうかがわれる実三の精神性は、奉祝の意図にこのうえなく即したものだったのではないか、万博の美術展示に最もふさわしいものだったのではないか、と感じたことだけは断っておきたい。当時の時勢に対応した造形作品として、それはよくも悪くも一つの極限的な到達点を示している。


(1)『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』紀元2600年記念日本万国博覧会事務局、1938年、1―3ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔別巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、59―61ページ)。万博の会場計画に関しては、橋爪紳也『あったかもしれない日本――幻の都市建築史』(紀伊国屋書店、2005年)を合わせて参照した。
(2)前掲『紀元2600年日本万国博覧会概要』16―17ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、184―185ページ)
(3)日本万国博覧会『紀元2600年記念日本万国博覧会肇国記念館競技設計図集』洪洋社、1938年、ページ記載なし(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、230ページ)
(4)「万博」1937年12月号、日本万国博覧会協会、5ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第1巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、645ページ)。また高梨の遺族や関係者に取材した夫馬信一は、高梨の父も建築家だったことや、戦後は田中角栄との縁を通じて建築の仕事に携わっていたことなどを詳しく紹介している(夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』原書房、2016年、106―108ページ)。
(5)前掲「万博」1937年12月号、4ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』第1巻、644ページ)
(6)同誌4ページ(同書644ページ)
(7)同誌5ページ(同書645ページ)
(8)「紀元2600年記念日本万国博覧会ニ関スル方針要綱」27―34ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、117―124ページ)
(9)日本万国博覧会『紀元2600年記念日本万国大博覧会』日本万国博覧会協会、1935年、6ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻)
(10)金子淳『博物館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2001年、77ページ。以下、国史館構想の概要については同書に依拠する。
(11)第3回祝典準備委員会での発言。同書80ページ
(12)「紀元2600年奉祝美術展覧会」に関しては、山野英嗣「紀元2600年奉祝美術展覧会とその周辺」(津金澤聰廣/有山輝雄編著『戦時期日本のメディア・イベント』所収、世界思想社、1998年)と林洋子「紀元2600年奉祝美術展覧会――「帝展改組」と「東京美術学校改革」のはざまで」(「1926―1970 東京府美術館の時代」展図録所収、東京都現代美術館、2005年)に依拠した。ただしどちらの論考でも検討の対象は絵画に限られている。
(13)美術研究所編『日本美術年鑑』美術研究所、1940年
(14)林洋子は、藤田嗣治と紀元2600年万博との関係について興味深い視点を提示している。確かに、当時世界的な名声を確立していたほとんど唯一の日本人画家である藤田が万博に参加していたらという仮説は魅力的だが、本文で検討しているように、万博では何より「日本」を表象することが強く求められていたことをふまえれば、その可能性は極めて低かったといわなければならないだろう(林洋子「万国博覧会と藤田嗣治――1900年パリ、1937年パリ、そして1940年東京」、佐野真由子編『万国博覧会と人間の歴史』所収、思文閣出版、2015年)。
(15)両者の正式名称はNew York World’s FairとGolden Gate International Expositionであり、ともに国際博覧会協会(BIE)から正規の認証を受けた第一種認定博としての万国博覧会(Universal Exposition)ではないが、ここでは当時の慣例にならってどちらも万博と表記する。
(16)山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象』森話社、2012年
(17)中山文孝は1937年に実施されたポスター図案の懸賞で1等と3等1席に入選したが、その後の広報には、なぜか1等の『赤色地黒色古代甲冑人物図』ではなく、3等の金鳶(金鵄)の図案が用いられた。理由は明らかにされていないが、甲冑をまとった人物の後ろ姿が神武天皇をほうふつとさせることが問題視されたものと推測される。当の中山は、入選発表に際して「何れも御趣旨を重んじて出来得る限り日本的にということが念願でありました」と、2つの図案を同じ意図のもとに制作したことを語っている(「万博」1937年7月号、日本万国博覧会協会、10ページ〔前掲『近代日本博覧会資料集成』第1巻、536ページ〕)。
(18)広田肇一『日名子実三の世界――昭和初期彫刻の鬼才』思文閣出版、2008年、46ページ
(19)坂口英伸は、神話と科学が調和的に描かれたこれらのレリーフが保管された厳室をタイムカプセルになぞらえている(坂口英伸『モニュメントの20世紀――タイムカプセルが伝える〈記録〉と〈記憶〉』〔シリーズ近代美術のゆくえ〕、吉川弘文館、2015年、30ページ)。
(20)『八紘一宇の塔』の負の記憶に関しては、「八紘一宇」の塔を考える会編著『新編石の証言――「八紘一宇」の塔「平和の塔」の真実』(〔みやざき文庫〕、鉱脈社、2015年)を参照のこと。同書では、『八紘一宇の塔』を戦争遺産として認定し、平和台公園に歴史資料館を建設することを提唱している。

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第4章 ローマ万博の「夢」――展示空間のなかの経験

鯖江秀樹(人間・環境学博士〔京都大学〕。専攻は近代芸術論、イタリア文化史)

 昨年2015年8月末、ミラノで開催された万国博覧会を訪れた。これがわたしの人生初の万博体験となった。会場内では、とにかく「待つ」という経験を痛いほど味わった。各国パヴィリオンに入場するために長蛇の列に並び、炎天下のなかぐっとこらえて待つ――そのときの感覚が強く身体に刻み込まれることになった。
 こんな恨み節(?)めいた体験談を持ち出したのはほかでもない――もしかしたら73年前のローマにも、同じように万博会場で長い列に耐える人たちがいたかもしれないからだ。
 ベニート・ムッソリーニ率いる時のファシズム政権は、1942年の万博に向けて準備を進めていたが、戦火の影響で開催は見送りを余儀なくされた。すでに完成していたいくつかの建物はそのまま放棄され、戦後は廃墟のような様相を呈していたという。その後、60年のローマ・オリンピックをきっかけに再建事業が本格化し、いまもなお、新たな副都心としてさらなる再開発が進められつつある。この地区は、「エウル(EUR)」と呼ばれるが、それはもともと「ローマ万国博覧会(Esposizione Universale di Roma)」の略号だった。
 本章では、今回のミラノ万博での個人的な体験をきっかけに、ローマ万博が観衆に与えたかもしれない「経験」の質を探ってみたい。ローマ万博は、例えばアドルフ・ヒトラー(とアルベルト・シュペーア)が構想したベルリンの都市改造案「ゲルマニア計画」と同じように、独裁者による誇大妄想の産物だと片づけてしまうわけにはいかない。もちろん新都市の建設を兼ねていたという点で「ゲルマニア計画」とローマ万博は共通するのだが、「絵空事」と断じてしまうことができないほどに多くのことが決定され、多くのものが造り出され、多くのものが遺されているからである。
 これら遺された記録・史料に依拠して、特にローマ万博の展示空間を再構成する。そうすることで、幻と化した万博が、来訪者に何を伝え、何を感じさせようとしたのかを捉え直してみよう。ローマ万博についてはこれまで、イタリア国内外で数多く研究事例があるものの、体制の文化事業に対するイデオロギー的分析、戦後の都市開発の展開を対象とする都市建築論、政権との癒着や確執のなかで活動した建築家への個別研究などが大半を占めていて、展示会場の内部空間にまで踏み込んだ検討は十分にはなされていない(1)。それに対して本章は展示空間について考察を進めるのだが、冒頭に述べたような「個の経験」をできるかぎり導き出そうとする。よく知られるように、万博は経済振興や国威発揚など、国民国家の形成や社会の近代化といった課題と分かちがたく結び付く巨大事業である(だからこそ、今世紀に入ってからその存在意義が根底から揺らいでいると言える)。また、このイベントの成否は、興行収益や来場者数に基づいて判断される場合が多い。多くの難題を抱え込んでしまった万博の現状があるからこそ、ここではあえて「個の経験」を着目してみたいのだ。
 とはいえ、いくら「個の経験」を問題にするにせよ、ローマ万博が実現されなかった以上、観衆の証言は残されていない。そのために、ひとまずローマ万博の構想、計画、準備、中止決定までの経緯を振り返ったあとで、会場全体のプランニング、主要建築群の様式や特徴、その内部で予定された展示企画のリストなどを手がかりにして、主催者たちが理念とした「壮大さ(grandiosità)」や「記念碑性(monumentalità)」は、実際にはどのように演出されようとしていたのか、その方法や仕組みを明らかにする。そのあと、いまなおエウルの地にそびえ立つ《イタリア文明館(Palazzo della civiltà italiana)》(以下、《文明館》と略記)とそこで開催されるはずだった「イタリア文明展(Mostra della civiltà italiana)」(以下、「文明展」と略記)を一つの事例として検討する。この建築物と展覧会は、ローマ万博の理念を集約的に伝えるという、最も重要な役回りを期待された。そのため、早い段階から準備が進められ、議事録や草案、組織図だけでなく、会場内の様子を描いた図面も多く残されている。この展覧会の内実――ひいてはその仕組みが生み出そうとする経験の質――を明らかにするには、体制の文化政策の一環として開かれた先行の展覧会や美術展を参照するとともに、建築的構成のなかで展示品を鑑賞する行為そのものを理論的に考察することも必要になる。ここでは特に、トニー・ベネットの考察を援用しながら、文明館の展示空間がどのような経験を観衆にもたらそうとしたのかを考察する。このように、幻の万博を構成する歴史と場と空間という3つの観点から「あったかもしれない経験」をあぶりだしてみたい。

ローマ万博の歴史――戦争と平和の交錯

 最初に、ローマ万博の構想から途絶にいたるまでの過程を振り返っておこう。
 シカゴ万博(1933年)、ブリュッセル万博(1935年)、パリ万博(1937年)、ニューヨーク万博(1939年)など、各国で次々に開かれた大規模博覧会(またはその計画)に触発されて、統帥ムッソリーニは、1935年春、世界に向けて「自己の理想に具体的な認識を与えるために」、ローマでの万博博覧会開催を提案した。翌年6月、国際博覧会事務局(BIE)の承認を得て、イタリアは開催を勝ち取ることになる。この段階ではBIEの規定に基づいて41年の開催が求められていたが、(22年のローマ進軍によって誕生した)ファシズム政権樹立20周年に合わせて、なかば強引に42年に開催がずらされることになった。ちなみに32年、政権樹立10周年を記念して、ローマ中心部に位置する「展示館(Palazzo dell’esposizione)」を舞台に「ファシスト革命展」が開催された。つまり、革命暦が採用されていたファシズム時代のイタリアでは10年ごとに節目を祝う国民行事が企画されていたことになる。「暦の一致」を図ることで、国家統一をいっそう強固なものしようとするねらいがあった。
 BIEの承認以後、開催に向けた準備が本格化した。ヴェネト州出身の実業家で、ムッソリーニが推薦した上院議員ヴィットリオ・チーニ(Vittorio Cini 1885-1977)が万博事務局長となり、事業全体を統括することになった。地中海覇権をもくろむ統帥の「海へ向かって(Verso il Mare)」という帝国主義的なスローガンに重ね合わせるようにして、ティレニア海を臨むオスティアとローマ中心部の間に会場を設け、縦横に軸線となる幹線道路を通したシンメトリックな都市計画が決定した。会場の中央を走る直線道路は、「帝国通り(Viale imperiale)」と名づけられたが(現クリストフォ・コロンボ通り)、コロッセオから延びて万博会場を貫き、その後ティレニア海沿岸部にまで達するという計画だった。時の政権は、万博を皮切りに、ローマから海へ舌のように延びていく大都市を建設するという壮大な野望を抱いていたのである。

[1]ローマ万博の主要建築
 メイン会場の決定と並行して、主要な建築物の設計競技会が政府主催で次々に開かれ、1938年以降、順次着工した。最も早い段階から工事が始められた代表的な建物を紹介しておこう。《文明館》は、その形態から「四角いコロッセオ」と称された。それと向かい合わせに位置する《レセプション会場兼会議場(Palazzo dei ricevimenti e congressi)》は「新たなパンテオン」と形容される。また「イタリア文明館」の南西の丘で会場全体を見渡すように、《サン・ピエトロ・エ・パオロ聖堂(Chiesa dei SS. Pietro e Paolo )》が建設された。カトリックの総本山の再建にあたって、かつてミケランジェロが提示した集中式プランによるこの教会は、さながら新都市のサン・ピエトロ聖堂のようでもある。万博会場の要所に、新たなコロッセオ、パンテオン、サン・ピエトロ大聖堂を模した建物を据えることで、ローマ中心部との建築的アナロジーが演出されていたのである。このように、既存のモニュメントや建築物、さらには展覧会などの国家事業を別の文化的イベントのなかで再活用するというやり方は、ある意味でイタリア・ファシズムの文化政策の常套手段となっていたように思われる。
 先に紹介した3つの建築物を含む会場の施設は一様に、鉄筋コンクリート構造で建設され、建物の外壁はトラバーチンや大理石、花崗岩のパネルでおおわれることになった。全体を統一的にデザインすることで文字どおり「白亜の都市」が広がるという趣向だった。「古代ローマ帝国の再来」を自称したムッソリーニの独裁国家が、古代ローマのフォルムに見立てて視覚化されつつあったのである。この万博建築の統一化を牽引したのが、マルチェッロ・ピアチェンティーニ(Marcello Piacentini 1881-1960)である。ブレシアやトリノといったイタリア各地の都市計画や、1936年に完成したローマ大学都市の全体統括など、政権の建築・都市政策に最も深く関与した建築家だった。また、会場内の建築物に付随する大理石の彫刻像や壁画など、美術品や装飾について決定権を握っていたのは、画家で批評家のチプリアーノ・エフィジオ・オッポ(Cipriano Efisio Oppo 1891-1962)である。ファシズム体制の庇護のもとで始まった美術展、「ローマ・クアドリエンナーレ(Quadriennale di Roma)」の事務局長を務めたオッポは、一部で「イタリア美術の大審判者」と揶揄されるほど、当時の美術界で絶大な権威を誇っていた。両者は、作品の指定、選択、認定を指揮することで、様式や傾向、世代も異なる建築家・芸術家の役割を調整しながら、「古代ローマの継承者」というファシズムのイデオロギーに即した古典様式で会場を統一していった。

[2]万博と戦争
 ところで、こうした一連の準備が深刻な時局のなかで進められていたことを忘れるべきではない。時代の符牒を合わせておけば、エチオピア戦争(1935年5月)を経て、ムッソリーニが「帝国宣言」を発表したのが、1936年5月9日だった。このエチオピア戦争の開始と万博開催の提案、そして「帝国宣言」と万博開催承認はそれぞれ見事に符合する。思い出しておこう――万博の理念を決定づけた「海へ向かって」という統帥のスローガンは、かつての古代ローマのように地中海制覇を目指したファシズムの帝国主義的政策によって現に実行されつつあったのである。こうした政治と文化の一致はいたるところに見いだすことができる。1936年夏、スペイン内戦に介入したドイツが、ベルリン・オリンピックを開催し、五輪では初めて聖火リレーをおこなった。一方、ムッソリーニは、自国で開催される万博をほかでもなく「文明のオリンピック(Olimpia della civiltà)」と呼ぶことになる。さらに翌37年、パリ万博でドイツ館とソヴィエト館がにらみをきかせるように向かい合うなか、会場ではピカソの『ゲルニカ』が公開された。このときローマ郊外では、万博会場の工事がすでに始まっていたのだ。政治と文化、戦争と万博はこうした表裏一体の関係を結んでいる。その後、ニューヨーク万博が開幕したさなか、39年5月の独伊同盟が締結され、9月にはドイツ軍によるポーランド侵攻が始まった。この背景が、ローマ万博に「平和」という理念を強く訴えさせることになる。万博事務局長チーニは、万博の理念をこう説いている――「イタリアが文明のために行動するなら、苦境に立たされたヨーロッパ諸国の平和、労働、真の時代が間もなく到来するという希望は、まったく失われることはない(2)」。戦争の裏返しとして平和を望むという理念の逆説は、くしくも万博準備のさなかに他界した思想家、アントニオ・グラムシ(Anitonio Gramsci 1881-1937)が獄中でノートに記した一節を思い出させる。曰く、「未来に投影されるのは反転した過去なのである(3)」。
 さて、世界大戦が勃発してなお、万博会場の準備は続いた。当時撮影された航空写真から判断すると、この段階で、国際パヴィリオンの区画は更地のままだったが、開催国の主要建築物のうちおよそ四分の一が完成ないしは着工を果たしていたと考えられる。だが結局、開幕が予定された1942年のうちに開催延期――中止ではない――が発表された。だからこそというべきだろうか。43年9月にイタリアが連合国に降伏してから半年がたった頃、「1943年12月31日までの博覧会事務局および公社の活動報告書(4)」が作成されている。驚くべきことに、ムッソリーニが処刑され、ファシズム政権が壊滅状態にあるなか、会場工事が一部で継続されていたというのである。

[3]ローマ万博の場――会場の全体像
 ここで万博会場に目を転じて、敷地内のプランニングや建築物の配置を確認していこう。そうすることで、この万博が観衆に与えようとした経験に迫ってみたい。
「ローマ万博全体平面図(Pianimetria generale dell’Esposizione Universale di Roma)」を見ると、周囲に環状道路を巡らせることによって全体が五角形でプランニングされていたことがわかる。もともとこの場所は湿地帯で開発が進んでいなかったことも手伝って、こうした幾何学的な造営が可能となったと考えられる。広さはおよそ400ヘクタールで、万博の理念の一つである「壮大さ」が、この広大な敷地面積によって具現化している(ちなみに今回のミラノ万博は広さが110ヘクタールで、東西方向に延びるような横長の会場の端から端まで歩くのに20分ほどを要した。このことからも、ローマ万博の「壮大さ」を推しはかることができる)。
 このまま五角形に見立てて会場の平面プランを解説すると、底辺の部分には、ローマ中心部に近いメインゲート「帝国門」が置かれていた。それに対して、反対側の先端部が矢印のように海を指している。前章で指摘したとおり、そこからテーヴェレ河に沿ってティレニア海へ向かう街道が延びることになっていた。この平面図が示唆する方向性は、あたかも海へと進出していく軍の陣形のようでもある。実際、縦横に幹線道路を直交させた会場の中心部は、古代ローマ軍に由来する「四方陣形(castro)」を模したものだという指摘もある(5)。
 さらに重要なのは、この会場を準備した政府の思惑だろう。万博開催が発案された直後の草案では、仮設会場が想定されていたが、かなり早い段階で閉幕後もこの「新都市」に建築物をそのまま残すという方針に切り替わっている。例えば、すでに紹介した三つの主要建築物のほかにも、劇場、銀行、郵便局、地下鉄などの公共施設、さらには人工池や公園、遊園地、レストランといった娯楽・遊興施設の恒久化が定められた。万博会場の準備は同時に、新たな都市のインフラ整備を兼ねていたのである。

[4]海へ向かう「新都市計画」
 それと呼応するかのように、この時期、万博会場とティレニア海の間に位置する「オスティア遺跡(Ostia antica)」に対する考古学調査が本格化した。このことを見逃すわけにはいかない。政府は万博=新都市の建設をさらに「海へ向かって」拡張しようとしていたのだ。その途上にあったのがオスティア遺跡である。ローマ中心部では、ムッソリーニの執務室があった「ヴェネツィア宮」とコロッセオを結ぶ直線道路「帝国通り(現フォーリ・インペリアーリ通り)」を開通させるために、フォロ・ロマーノ遺跡とその周辺部が無慈悲に取り壊されてしまった。スラム・クリアランスも兼ねた1932年のこの考古学的悲劇と同じような事態が、オスティア遺跡にも迫りつつあったと考えられるのである。この危機が現実味を帯びていたからこそ、1939年というタイミングで「芸術ならびに歴史遺産保護法(Tutela delle cose di interesse artistico e storico)」と「自然美保護法(Protezione delle bellezze naturali)」が制定されたのではないだろうか。政府による開発という名の「破壊」に歯止めをかけるかのようなこれらの法律制定に尽力したのが、ローマ進軍以来、ムッソリーニの右腕としてファシズム政権を支えたジュゼッペ・ボッタイ(Giuseppe Bottai 1895-1959)だった(6)。
 さて、あらためて万博会場の中心部分に目を向け直してみよう。前述の平面図では各施設が用途ごとに塗り分けられている。それによると、恒久化を想定したイタリア側の主要施設がメインゲート付近に集中していた。そこから会場の中央を貫く「帝国通り」を南に向かって進むと、各国パヴィリオンが人工湖の手前に立ち並ぶことになっていたようだ。このゾーンを取り囲むようにして、左側(東)にイタリア側の経済・商業関連施設が、右側(西)に美術関連施設が配置されていることがわかる。人工池の向こう側には、虹のように弧を描く巨大なアーチ「帝国のアーチ(L’Arco Imperiale)」が築かれるはずだった。ちなみに、このアーチをモチーフにしたジョルジョ・クアローニ(Giorgio Quaroni )の絵は万博の公式ポスターに採用され、世界に発信されていた(ただしこのシンボルは、当時の技術的水準では到底実現できなかったと予想される)。
 以上のような会場プランから、観衆の目に飛び込んでくるはずだった光景をある程度まで想像することができる。メインゲートをくぐり抜けると、白亜の古代風建築と荘厳な彫刻像に出迎えられる。中央通りに歩を進めると、両側に各国の旗がはためくプロムナードが現れ、その先に目をやれば、東と西、「経済」と「芸術」をつなぐ巨大な「虹」が出現する。あるいは、地下鉄に乗り、会場の中央から出てきたとするなら、水面に映る巨大なアーチや緑豊かな公園が観衆を魅了したにちがいない。
 しかしながら、この架空の光景のうち、開催までに実現したのは、メインゲート付近の擬古典的な建築群にすぎない。会場全体の中核の担うこのゾーンは、20世紀の時代によみがえった古代ローマのフォルムのような様相を呈していただろう。それを実現させるために、各施設の設計コンクールで提出された建築案の検討や調整を図っていたのが、建築委員会だった。なかでも、当時の体制内の建築界で絶大な権威を誇ったマルチェッロ・ピアチェンティーニの意向が強くはたらいたのは、先に述べたとおりである。

[5]1930年代のイタリア・パヴィリオン
 すでにふれたとおり、ピアチェンティーニは、万博の準備にとりかかる前に、ローマ大学キャンパスの建設という一大事業を成し遂げていた。この経験が、万博会場の計画実施に生かされていたはずである。その意味で、ローマ大学都市は、ローマ万博の「前哨戦」と見なすことができる。それと関連して見逃せないのが、1937年のパリ万博でイタリア・パヴィリオンを設計したのが、ほかでもなくピアチェンティーニだったということである。
 このイタリア館は2つのユニットで構成されていた。1つは、屋上端部に計24体の彫刻像を並べた6階建ての方形のビルディングであり、それに付随するもう1つの建物は、セーヌ河に面したガラスのファザードを角柱の連なりが持ち上げてピロティを形成している。当時の絵はがきを見ると、あたかもローマ万博でいち早く実現した《文明館》と《レセプション会場兼会議場》を接合して横に並べたような形態をとっていることがわかる。さらに見逃せないのは、ガラスや鉄骨、あるいはピロティのような近代建築の造形言語が、石材でおおわれることなくそのまま剝き出しにされているということである。言い換えれば、1937年のパリでは、ローマ万博のように建築物が古代風に統一されていたわけではなかったのである。
 この特徴を、1930年代の博覧会に見られる歴代のイタリア・パヴィリオンとのつながりのなかで捉え直してみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。例えば1935年のブリュッセル万博。このときのイタリア館で目を引くのは、「リットリオ様式(Stile Littorio)」と称される、「権標(fasci)」を模した4本の巨大な柱からなるファザードである。これは32年の「ファシスト革命展」のファザードとまったく同じ形状だった。ファシズムの力強さや雄々しさを視覚的に印象づける鋼鉄の柱は、国家の近代性をたたえるシンボルと解されていたのである。一方、39年のニューヨーク万博では一転してまったく異なるパヴィリオンが実現した。両翼に神殿のようなアプローチを備えたコの字型の建物で、中央の階段状の塔から滝が流れ落ちる――見ようによってはかなりキッチュな様相を呈していた。ただ全体的な印象としては、あくまで「古代風」」であり、その内部ではパネルや擬人像、大型の壁画を並べ、新しい国家建設に向けて公共事業に邁進するイタリアの姿が紹介されていた。
 このように、イタリア・パヴィリオンの趨勢に目を向けてみるとき、建築による国家表象の力点が近代的なものから古代風のものへと変化していたことがわかる。その流れのなかで、先に見たパリ万博のパヴィリオンは、いわば過渡期の産物だった。その変化の最終地点が、ローマ万博の古代風建築たちだった。ファシズム史研究で知られるエミリオ・ジェンティーレが述べるように、「ファシズムを古代ローマ化したのは古代ローマではなく、ファシズムこそが古代ローマをファシズム化した」のだとすれば、ローマ万博ほどそのことをはっきり示す舞台はほかにないだろう。ただし、ニューヨーク万博のイタリア・パヴィリオンがそうだったように、彫刻像を含めた会場の造形作品たちは、ややもすれば安っぽい「まがいもの」のように映ってしまう。「壮大さ」や「記念碑性」というよりは、「ハリウッドの映画監督が想像したかのような古代ローマ」、すなわち撮影セットを眺めるような印象を観衆たちに与えたとも考えられるのだ(7) 。

[6]不気味な都市――映画とモードの舞台
 この指摘を受けて、万博跡地「エウル」がたたえる独特の雰囲気にふれておいたほうがいいだろう。いまでは企業オフィスやマンションが立ち並ぶこの地区は、それでもなお、現実味を欠いたような、どこか不気味な空気を漂わせている。今回のミラノ万博との関連イベントとして企画展「ローマ万国博覧会 新しい都市――ファシズムから1960年代まで(Esposizione Universale di Roma: una città nuova dal fascismo agli anni 60)」(2015年3―6月)が開催されたが、そのカタログで各論者が共通して指摘するのも、まさしくそのことである。もちろん、ローマ万博という野心的なプロジェクトを抱いたファシズムの記憶を色濃く残す街区であるのはまちがいないが、それ以上に、形而上画家ジョルジョ・デ・キリコが描く都市に例えられるほど、「亡霊的」で「超現実的」な雰囲気がエウルには充満しているのである。そのことを敏感に察知していたのが、戦後に活躍したイタリアを代表する映画監督たちだろう。最もよく知られるのが、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1959年)だが、それ以外にも、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960年)や『夜』(1961年)、ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』(1970年)といった作品のロケ地となったのも、ほかならぬエウルだった。また、1950年代以後、女性向けモード雑誌のグラビア撮影の舞台となったのが、あとで詳しく紹介する《文明館》だった。かつてのファシズムの「帝都」は、ファインダー越しに眺められる被写体となり、写真―映画を介して戦後の観衆を魅了することになった。映像化されたエウルは、夢と現実が交錯すると同時に、都市に対する洗練されたイメージを大衆に提供したと言えるだろう。戦後に浮かびあがってきたこうした側面は、イデオロギーの浸透やプロパガンダを眼目とする政治的祝祭の場としてローマ万博を捉える視点からは取り逃がされてしまうだろう。では、ローマ万博ははたして、観衆たちに何を経験させ、どのような夢を与えようとしたのだろうか。

ローマ万博の空間――イタリア文明展

 結局中止されたとはいえ、ローマ万博の展示空間については、一部で実現に向けてかなり具体的な案が出されていた。なかでも注目してみたいのが、《文明館》の展示である。直近のニューヨーク万博を象徴するのが、天を突くような三角錐の塔「トライロン」と、巨大な白い球「ペリスフィア」だったとするなら、先に紹介した「帝国のアーチ」と《文明館》こそが、ローマ万博のシンボルとなるはずだったにちがいない(8)。ただ、前者が着工さえされなかった以上、後者は万博のシンボル・タワーであり、その記念碑とみなされていたはずだ。実際、このシンボルは他館よりも優先して準備が進められた。最も早く完成した建築物の一つで、建設工事が1938年6月に始まり、40年11月には落成式が挙行されている。あとで詳しく述べるが、ここで予定された展示は、万博の理念を集約的に示す目玉企画だった。そのため、「文明館」を分析することは、ローマ万博の展示の全貌とその特徴を理解することにつながると考えることができる。
 文明館に議論を移す前に、ひとまず予定されていた展示企画の全体像を確認しておこう。そこで参考になるのが、1941年1月に博覧会公社が発表した「組織編成図(Scheda di raggruppamento)」である。それによると、展示企画が10のセクションに分類され、全体で70から80前後の展示(mostra)が開かれる予定だったことわかる。それらを逐一列挙することは控えるが、この編成図が、図書館にある「図書分類区分表」を思い出させると言えば、少しイメージしやすくなるだろうか。農林水産業、近代と伝統産業、科学、教育、宗教、芸術など、およそ考えられる万物が漏れなく展示の対象となっていて、各展示は、「科学都市」「芸術都市」「展示都市」「共同組合経済都市」と名づけられた四つのゾーンに割り振られていた。これら四つの「都市」のなかで、万物が競演する「文明のオリンピック」が開催されるという趣向だった。展示企画が集合して一つの「都市」を形成する。その光景はまさしく「展示複合体(exhibitionary complex)」と呼ぶにふさわしいだろう。文化政策研究で知られるトニー・ベネットによると、「展示複合体が織りなす表象空間は、歴史、美術史、考古学、地質学、生物学、人類学など、新しい諸学問の配列関係によって形成される」のであり、「展覧会とそれに隣接する出し物が連動することで、ひとつの道筋を与える。会場のレトリックを形成する展示複合体と規律と知が、その道筋を通じて、広い範囲に社会的影響を及ぼすようになる(9)」のだ。
 まさしく「知の総合」とでもいうべきこうした展示構成のなかで、「文明展」は「展示都市(Città delle mostre varie)」の一角を占めていたが、数ある展示のなかで最も重要なプロジェクトだった。すでに述べたように、この建物自体が、万博閉幕後も恒久的な博物館として利用されることは、設計コンペの募集段階すでに決定していた。コンペの告知文には以下のように記されている。「本館は、その起源から現在に至るイタリア文明の総体を明快かつ包括的に表現し、際立たせるべきである。それは芸術、技術、歴史的出来事、法、さらには哲学、政治、宗教などの思想の総体となるだろう。その総体を表明することが、結果としてイタリアの真髄の統一性と継続性、さらにはそれがもたらす人類の進歩への絶えざる貢献となる(10)」
 この一節からもわかるように、《文明館》は、ローマ万博のメイン・パヴィリオンになることが期待されていた。その設計競技会では、建築史的観点からしていくつかの興味深い事実――より近代的な別案や選考委員たちの思惑や駆け引き、選考決定後の改変――があったのだが、このことに子細にふれる余裕はない。結果としてコンペを勝ち抜いたのは、ほとんど実績がなかったジョヴァンニ・グエッリーニ(Giovanni Guerrini 1887-1972)、エルネスト・ラ・パドゥーラ(Ernesto La Padula 1902-68)、マリオ・ロマーノ(Mario Romano)のチームだった。
《文明館》の外観を押さえておこう。小高い丘に立つこの建物は、万博会場全体を視野に収めるとともに、会場のどの地点からも仰ぎ見ることができるシンボル・タワーだった。その特徴は、何といっても強迫的とも言える反復性にある。やや縦長のキューブ型で、6つの階層すべてに形状も大きさも同一の9つのアーチが連続している。古代都市ローマの飛躍的な発展――公共施設の充実とその高層化――を支えたアーチ構造によって「古代ローマ以来絶えることなく伝承されていたイタリア性」を表現する。それとともに、「イタリアの真髄」の「総体性」や「統一性」を理念的に補強するべく、建物の上部には次のような銘が刻まれている――「詩人、芸術家、英雄、聖人、思想家、科学者、航海者、移動者たる人民」、と。ムッソリーニの演説からとられたこのフレーズと連続アーチは、建物の四方すべてで寸分たがわず反復されている。このある種異様な反復性には、設計者たちの次のような意図が込められていた。「整然と並ぶアーチは、イタリア文明に典型的な要素であり、古代ローマ以後、何世紀にもわたり――ゴシックの時代を経てなお――かたくなに遵守されてきた。そのために本館で、アーチが誇る永遠性の感覚は、純粋に構築的なかたちで残されているのである。つまり、ある特定の時代や様式を想起させてしまうようなどのようなアクセントもなく、アーチは透徹したリズムでどの面でも繰り返されることで、永遠なるものの本質が露わになるのだ(11)」。言い換えれば、同一モチーフの執拗な反復には、それが絶え間なく続くという「永遠性」を喚起させるという意図がはたらいているのだ。とはいえ、グエッリーニらの計画はそのまま実行に移されたわけではない。石積みによる高層化は、工期と予算の制約によって断念され、鉄筋コンクリート造りで、トラバーチンのパネルによって全体が被覆されることになった。また、先に紹介した銘文や1階の各アーチに並び立つ擬人像たちは、設計段階では設置予定がなかった。

[1]「イタリア文明展」の再構成
 この《文明館》の館内で開かれるはずだった「文明展」で、どのような空間が広がろうとしていたのか。この展示会は、一言で言えば、古代ローマからムッソリーニの時代にまで連綿と続くイタリア文明の豊かな伝統を、偉大な歴史上の人物たちの足跡を通じて紹介するというものだった。その展示の様子は、展示企画の構想、そこで実現すべき理念を示した公式文書、完成した姿を示唆するデッサンという三つの史料から再構成することができる。

「文明展」の構想
 まずは、「文明展」がどういう経緯を経て構想されたのかを確認しておこう。興味深いことに、この展示はそもそも、万博のために考案されたオリジナルの企画ではなく、数年前のある展示企画を焼き直したものだった。もとの企画とは、「イタリア文明展 アウグストゥスの時代からムッソリーニの時代まで(Mostra della civiltà italica dai tempi di Augusto ai tempi di Mussolini)」と題された展覧会で、ボンピアーニ出版社の創始者ヴァレンティーノ・ボンピアーニ(Valentino Bompiani 1898-1992)が政府に提案したプロジェクトだった。提案された1935年の段階では、この展覧会はローマ中心部での開催が予定されていたが、そのころローマ総督の任にあったボッタイが、万博事務局長のチーニに対して、ボンピアーニ案を万博会場で開催するよう進言したのである。以後、チーニやオッポといった事務局側の要人、それに「魔術的リアリズム」で知られる作家マッシモ・ボンテンペッリ(Massimo Bontempelli 1878-1960)が中心となって草案が徐々に固まっていくことになった。この経緯を追っていると、予想以上に早い段階で「文明展」の大枠が決まっていたこと、さらにはローマ万博が「ファシズム革命20周年展」を祝う国家行事として準備されていたことがわかる。ボンピアーニの企画案は、もとはと言えばこの革命展のために出されたものだったからだ(12)。

「文明展」の理念
 この準備段階をもう少し追跡してみよう。1938年1月、「文明展」の内容をさらに吟味するために、組織委員会が立ち上げられている。この委員会は、ローマ大学の教授陣やイタリア・アカデミー会員など、高名な学者たちで構成された。古代ローマ法を専門とするローマ大学総長ピエトロ・デ・フランチッシ(Pietro De Francisci 1883-1971)、ベネデット・クローチェと並ぶイタリア観念論の代表的哲学者ジョヴァニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentilie 1875-1944)、アカデミーからは美術批評家のウーゴ・オイエッティ(Ugo Ojetti 1871-1946)など、いずれも体制に協力的な立場をとった錚々たる顔ぶれである。彼らは38年から40年にかけて50回もの会合を開き、イタリア史全体を5つの時代――古代ローマ、中世、ルネサンス、16世紀から18世紀、19世紀からムッソリーニ――に分節し、それぞれの時代を代表する偉人にスポットを当てて展示空間を構成するというグランド・デザインを決定した(13)。この最終案は、「イタリア文明展 展示会規範(Mostra della civiltà italiana. Criteri fondamentali per la presentazione della mostra)」(以下、「最終案」と略記)として39年付で公開された。このことからひとまず確認できるのは、「文明展」がイタリア国内の知を結集して練り上げられた企画であり、学者側からすれば「時代ごとに、その細部にまで踏み込んだ新たな研究成果」を公にする機会になるはずだった、ということである。
 この「最終案」は、「本展は何よりもまず「総合性(sinteticità)」という条件に合致しなければならない」という一文から始まる。当然予想されるように、イタリア文明が誇る「美点」や「進歩」、それが全世界に及ぼす「有益な影響」をたたえ、展覧会が結果的に「人間性の高度な学校」となるべきだとし、大衆教化的な側面が強調されている。ただし、「最終案」としては意外とも思えるような指摘が含まれている。例えば次のような箇所である。

  本展は、かつてないほど多様な趣味、傾向、教養をもつ観衆の訪問を受けることになる。主催者の課題は、この観衆(外国人を含む)の想像力を刺激することである。彼らの大多数が望むのは、わが国の歴史の各時代を子細に注視することではなく、3,000年の歴史をもつイタリア文明という巨大な現象に対する造形的かつ視覚的な気分(sensazione)を抱くことだろう。(略)
 本展の主要な目的はそのため、教育することだけではない。むしろ来訪者の感受性や好奇心を刺激し、彼らの興味を強く掻き立てることである。わが国の文明の礎石たるローマは常に、多様かつ複合的な素材の永遠なる中心地となるだろう(14)。

 万博博覧会はその誕生以来、美術館とともに群衆を国民に編成し、彼らを教化するという役割を期待されてきた。だが、ローマ万博の中核となる「文明展」の照準を合わせるのは、「教育」ではなくむしろ観衆の「感受性」や「好奇心」など、感覚的次元だという。裏を返せば、展示物をつぶさに吟味し、歴史理解を深めようとする観衆の存在は構想の段階から想定されていなかったということになる。ローマ万博が思い描いた理想の観客像は、文字どおりその場の「気分」に浸りきることができる者だったのだ。
 では、その「気分」をどのような仕掛けを通じて生み出そうとしたのか。ひとまず手がかりになるのが、先の引用文のなかで「気分」が「造形的かつ視覚的なもの」だとされていることだ。そのこととの関連で重要なのが、文明展は「前もって定められた単一の表現手段」ではなく、五つのテーマそれぞれに適合する「多彩な表現法」に訴えるべきだという「最終案」の一節である。具体的な方法として提案されているのは、地図やジオラマ、ダイヤグラム、図表など、グラフィックな造形物をふんだんに活用すること、高名な作家や政治家、芸術家の名言を拡大して壁面を装飾すること、法典や出版物、記念碑、美術作品などの複製写真を積極的に用いること、などだった。一方、「最終案」は、美術作品の実物を会場内に持ち込むことは極力控えるよう促している。また、写真複製の使用を推奨しながらも、ダダイズムやシュルレアリスムなど、前衛芸術の領域で実験された「フォトモンタージュ」の手法は、ファシズムの時代に固有の「具体性」や「明瞭性」をそぐことになるとしている。フォトモンタージュに対するこの否定的見解に沿うならば、1932年のファシズム革命展の一室を飾った、ジュゼッペ・テッラーニ(Giuseppe Terragni 1904-43)の手になる「O室」のような前衛的な内部装飾は歓迎されなかったと考えられる(15)。

「文明展」の予想図
 会期が迫っていたこともあってか、ここまで検討してきた「最終案」は、展示構成に対してかなり突っ込んだ注文をつけていたことがわかる。では一連の要請を受けて、実際にどのような展示空間が設計されていたのだろうか。最終案の策定にも深く関与したオッポが監督役を務めて、今度は実行委員会が組織され、会場のプランニングが1939年から本格的に始まった。会場デザインは《文明館》を設計した3人の建築家が引き続き担当することになった。
 彼らは、《文明館》の内部構成について興味深い案を出していた。それは、建物の中央部にエレベーターを設け、観衆を最上階まで一気に運び上げ、傾斜床で下におりながら各階を巡覧するという仕組みである(16)。その螺旋状のルートは、さながら『神曲』で描かれるダンテの地獄巡りのようだったはずなのだ。この画期的な案は結局、階段による下階からの一般的な巡覧ルートに変更されたが、この時代、テッラーニが設計した「ダンテウム」を筆頭に、ダンテがいかに神話化され、文学だけでなく政治や建築といったさまざまな領域で着想の源になっていたかを物語っている(17)。
 では、肝心の展示空間は、どのように具体化されつつあったのか。それを知るてがかりとなる2種類の図面がある。1つは平面図やテーマ配置図であり、もう1つが、ラ・パドゥーラが中心になって制作した各部屋の完成予想図である(18)。
 前者のうち6階の配置図を参照してみよう。展示スペースは、(ほかの階でも同じだが)正方形の四辺をぐるりと囲むように設けられていて、中央に設置された階段からこの階に到達した観衆たちは左回りに各展示をたどっていく。この階では、ロビーから順に、「ペトラルカ」「ボッカッチョ」「フィレンツェの芸術と文学」「人文主義の教皇たち」「トスカーナ地方の絵画・彫刻・建築」「マキアヴェッリとグイッチャルディーニ」といったテーマ室を抜け、最後に「コロンブスの間」へと達する。つまりこの階は、14世紀から16世紀まで、各分野の傑出した才能とその文化的背景の両方を紹介しながら、通時的にルネサンス人文主義の栄光を上演しようとしていたのである。
 他方、《文明館》のなかで観衆の感覚を刺激することはかなり困難だったと予想できる。問題は建物内部の空間構成そのものにあった。平面プランはほぼ正方形で、中央に階段やエレベーターなどの機能を集中させ、その周囲に展示スペースを設けていた。個室で空間が分節されていないため、幅約10メートルのギャラリーを一周するという、ある意味では伝統的な鑑賞スタイルが求められる。つまり、建築それ自体が幾何学的な形態をとっているため、最終案があらかじめ懸念を表明していた「単調さ(monotonia)」が勝ってしまうことになりかねないのである。それを打開するために、壁やパーテーションによって空間をゆるやかに分割したり、円塔状の仮設小部屋を四隅に設けるといった工夫が施されようとしていたようだ。
 もう一つ有力な手かがりを提供してくれるのは、完成予想を示す多数のパースである。それを見ると、地図やジオラマ、ダイヤグラム、図表、各時代を象徴する名言などを積極的に取り入れようとしていることがわかる。また、各階のテーマに応じて、作品の配置や壁の構成を変えることで、「多彩な表現法」を与えようとしている。その点では、「最終案」が提起した方法に忠実だったと言えるだろう。例えば、「先史時代の間」と題されたパースでは、天井を半筒ヴォールトでおおい、そこに壁画模様を描いてみせ、「教会の創設」の透視図では、巨大な十字架を中央に配し、ゆるやかに湾曲させた天井に拡大した文字をレタリングしている。別のパースでは、同じ大きさのパネルを一定間隔で掛けるという方法も提案している。さらに、複数の仮設の仕切り壁の端部を重ね合わせ、部屋を斜めに横切るようにジグザグに置くという仕掛けは、明らかに先にふれたテッラーニ「O室」を意識したものである。
 これら一連のイメージから、ラ・パドゥーラをはじめとする実行委員会のメンバーたちが、展示空間に多様な変化を与えることに苦心したことがわかる。そもそも《文明館》それ自体が、永遠性を喚起させることをねらいとして、同一モチーフの反復にこだわった抽象的な四角い箱だった。だからこそ、内部の展示空間は、その「対旋律」として、異なるリズムや印象を与えようとしたのである(19)。あまりに統一的で均質な空間は、観衆の感覚を次第に鈍化させ、万博という舞台の「気分」をそぐことになりかねないという懸念があったのではないだろうか。
 展示の未来予想図には、もう一つ、ある共通点を見いだすことができる。それは壁面や天井に高密度に展示物を設置する一方で、来訪者たちの通過の妨げになりうる立体的な展示物が極端に少ないということである。誇張して描かれた広いスペースに、わずかにガラスの陳列ケースが並べられている程度で、パースのなかで描かれた人々は、あたかもウィンドーショッピングを楽しんでいるかのようである。
 現代の消費文化の一面を切り取ったかのようなこの光景は、くしくも今年2016年はじめに再現されることになった。有名ファッションブランド、フェンディが《文明館》を本社ビルとして活用することが決まったのである。そのお披露目として、展覧会「新しいローマ――エウルとイタリア文明館(Una Roma Nuova: l’Eur e il Palazzo della civiltà taliana)」が開催された。この展覧会は、戦後映画やファッション雑誌の舞台を提供し、副都心として復興を遂げたエウルの姿を写真パネルで紹介するものだが、ローマ万博準備期間に制作された図面やポスター、模型、家具調度類なども多数展示された。無論、ファシズムという暗い過去の記憶を批判的に捉え直すという意図は稀薄ではあるものの、ローマ万博が観衆に与えようとした経験を読み解くヒントを与えてくれているように思えてならない。

[2]イメージから導き出される「万博体験」
 最後にあらためて文明展の「最終案」に立ち戻ろう。そこでは、万博全体を一冊の書物になぞらえて、文明展を、会場の「要約」ないしは「目次」と例えている(20)。この比喩にそってローマ万博、とりわけ大量に描かれた完成予想図たちを見ていると、あることに気づかされる。ラ・パドゥーラたちが描いたパースやデッサンは、会場のほかの施設や展示の完成予想図と不思議なほどよく似ているのだ。もちろんそれぞれの制作者は異なる。しかも、会場を古典様式で統一したピアチェンティーニでさえもが、イルミネーションで照らし出された幻想的な透視図を描いているのである。展示空間の完成予想図は、古代ローマを髣髴とさせる壮大で厳粛な雰囲気ではなく、楽しげな「気分」を助長するかのようなイメージに満たされている。その絵だけを見れば、人々の憧れを誘うスタイリッシュで洗練されたライフ・スタイルを提示しているようにも思えてくるのである。あるいは、1930年代に量産された「白い電話(telefoni bianchi)」と呼ばれるイタリア製メロドラマ映画の室内デザインを思い出させる(21)。フェンディによる企画展は、ローマ万博とモードや映画の世界で理想化された「生の形式」とのつながりを図らずも暗示してくれるのである。
 そうしたイメージの連鎖によって浮かび上がってくる「軽やかさ」は、帝国主義や集産主義といった重々しい政治的イデオロギーと対極をなしている。たしかに、ローマ万博は、地中海制覇の野望と、戦火における平和への訴えといった理念に支えられていた。だが、その万博が観衆に与えようとした一方で、観衆自身も望んでいたのは、古代ローマとムッソリーニのローマを重ね合わせた堂々たる威容ではなく、手に届きそうで届かない生の形式=ライフ・スタイルだったのかもしれない。
 19世紀に登場した公共美術館や万国博覧会は、美術作品であれ商品であれ、大量のモノを観衆の目に供するイベントだった。だが、その展示の本質をなすのは、大量の事物を目撃する者=観衆がその場に居合わせているということではないだろうか。冒頭でふれたミラノ万博の体験とは、人々が同じように並び、同じように――熟慮することなく――展示空間を通過し、その「気分」を味わう経験だった。トニー・ベネットが述べるように、それは「意識そのものではなく、個人の挙措を展示構成に合わせて調整する規律や訓練の効果(22)」を暗に含んでいるのである。
 してみればローマ万博が観衆に与えようとした経験とは、政治的イデオロギーをあからさまに刷り込まれるのでも、体制への賛美を一丸となって表明させるものでもなく、便利で快適な生活という夢を直感的に共有させるものではなかったか。その夢のなかに観衆が大挙してみずから進んでいく姿は、はたして大衆扇動なのか、あるいは戦後消費文化の先触れだったのだろうか。エウルは、この疑問にはっきりとした答えを示さないまま、いまもなお万博の夢を抱懐しているように思えてならない。この都市が感じさせる現実味を欠いた虚ろな「気分」はそうした夢の記憶に由来するのかもしれない。

注記:本章で考察対象とした図版や写真は、版権の都合もあって併載することができなかったが、かわりにウェブ検索を想定して、人名や歴史的事実など、固有名はできるかぎり原語で表記した。


(1)ローマ万博に関連する文献として以下の2点を挙げておく。田之倉稔『ファシストを演じた人びと』青土社、1990 年、鵜沢隆監修『ジュゼッペ・テラーニ――時代を駆けぬけた建築』(INAX叢書)、INAX出版、1998年。前者はイタリア・ファシズム文化の総論となっていて、その終章「イデオロギー都市とファシズムの終焉」にローマ万博についての考察が含まれる。後者は、ローマ万博の設計競技会で不遇のときを迎えていたジュゼッペ・テッラーニに関する論文集だが、万博前後のイタリア建築について詳しく知ることができる。また、近年邦訳された、ファシズム時代に焦点を合わせた建築論もあわせて紹介しておく。ジョルジョ・チゥッチ『建築家とファシズム――イタリアの建築と都市 1922―1944』鹿野正樹訳、鹿島出版会、2014年、パオロ・ニコローゾ『建築家ムッソリーニ――独裁者が夢見たファシズムの都市』桑木野幸司訳、白水社、2010年
(2)Eugenio Garin, “La città italiana nell’Esposizione del 1942”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, a cura di Tullio Gregory e Achille Tartaro, Marsilio, 1987, p. 4.
(3)Antonio Gramsci, Quaderni del carcere, a cura di Valentino Gerratana, Einaudi, 1975, p. 1131.
(4)Emilio Garroni e Pietro Montani, “L’Esposizione universale del 1942 e la «Città dell’arte» ” in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, p. 27.
(5)Claudio Parisi Presicce, “La visione classica, ma moderna, modernissima… che ispirò il piano urbanistico dell’ E42”, in Esposizione Universale Roma: Una città nuova dal fascismo agli anni 60, a cura di Vittorio Vidotti, De Luca, 2015, pp.11-12.
(6)ボッタイとローマ万博とのつながりは、体制末期の文化政策を考察するうえで、一筋縄ではいかない興味深い論点を含んでいるのだが、それについては、以下の拙論を参照。鯖江秀樹「ローマ万博の光と影――ジュゼッペ・ボッタイのまなざし」「ディアファネース――芸術と思想 京都大学大学院人間・環境学研究科岡田温司研究室紀要」第1号、京都大学大学院人間・環境学研究科岡田温司研究室、2014年、33―50ページ
(7)Emilio Gentile, Fascismo di pietra, Laterza, 2007, p. 258.
(8)海野弘『万国博覧会の二十世紀』(平凡社新書)、平凡社、2013年、149―170ページ
(9)Tony Bennett, The Birth of the Museum: history, theory, politics, Routledge, 1995, p. 75.
(10)引用は以下の展覧会カタログから。Paola Cagiano de Azevedo, “Il Palazzo della civiltà italiana”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 2, a cura di Maurizio Calvesi e Enrico Guidoni e Simonetta Lux, Marsilio, 1987, p. 354.
(11)Ibid.
(12)Anna Maria Sorge, “Mostra della civilità italiana”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, p. 118.
(13) Ibid., pp. 118-119.
(14)“Mostra della civiltà italiana. Criteri fondamentali per la presentazione della mostra”, in Ibid., p. 158.
(15)ここでふれたテッラーニによる「O室」と1932年の革命展については拙著に詳しく紹介した。鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』水声社、2011年、83―92ページ
(16)Azevedo, op. cit. , pp. 354-355.
(17)「ダンテウム」計画については以下の文献を参照。Thomas L.Schumacher, Terragni’s Danteum: Architecture, Poetics, and Politics under Italian Fascism, Princeton Architectural Press, 1980.
(18)「文明展」のデッサンや下絵は、現在、「ブルーノ・フィリッポ・ラ・パドゥーラ文書館(Archivio B.F. La Padula)」に所蔵されている。本章で参照した平面図と主なデッサンは以下の文献による。Michele Vajuso, E42. La gestione di un progetto complesso, Palombi, 2007, Azevedo, op. cit. , pp. 353-360.
(19)Azevedo, op. cit. , p. 356.
(20)Sorge, op. cit. , p. 118.
(21)「白い電話」については以下の研究論文を参照。石田美紀「ファシスト政権期イタリア映画における「白」の視覚――「白い電話」と白い砂漠」「美学」第56巻第2号、 2005年、美学会、41―54ページ
(22)Bennett, op. cit. , pp. 218-219. なお、ベネットはここで、1988年に開催されたブリスベン国際レジャー博覧会を検討しているが、近代的な娯楽施設が地方都市住民の自己形成に与える作用を指摘する点で、ローマ万博の考察にとってもきわめて示唆的だった。

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第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

鈴木俊一の夢

 2010年5月14日、鈴木俊一が亡くなった。享年99の大往生だった。1959年から67年にかけては東龍太郎東京都知事のもとで2期8年の間副知事を務め、また79年から95年にかけては4期16年にわたって自ら都知事を務めた鈴木は、長く東京に君臨した文字どおり「地方自治の巨星」(石原慎太郎)だったが、その輝かしいキャリアは栄光にばかり彩られているわけではない。とりわけ、都知事時代の末期に自ら開催の音頭をとった世界都市博覧会(以下、都市博と略記)に強く固執し、開催前年に任期を終えた鈴木のあとに都知事に就任した青島幸雄が選挙時の公約どおりに都市博の開催中止を決定した際、「都政にサリンをばらまかれたようだ」と吐き捨てたことは、しばしば晩節を汚すものとして否定的に語られる。都市博は、96年に臨海副都心地区を舞台に開催が予定されていた大型博覧会だが、「失われた10年」とも称されたバブル崩壊後の長期の景気低迷によって計画時のもくろみははずれ、当初参加を発表していた国家や企業の多くが参加を辞退することは確実視されていた。私事で恐縮だが、私も当時ある企業パビリオンの計画に携わっていて「これは失敗するだろうな」という予感がしたものだ。多くの東京都民がその開催を歓迎していなかったことは、各種の世論調査の結果や開催中止を公約した青島が都知事選に圧勝したことからも明らかだった。にもかかわらず、なぜ鈴木は評判が悪かった都市博開催に固執したのだろうか。
 その理由としてしばしば指摘されるのが、大阪万博の成功体験である。いまとなっては知る人も少ないだろうが、実は鈴木は副知事を退任後、大阪万博の事務総長に就任し、開催計画の指揮をとっていた。だが鈴木にとって、この役職は必ずしも本意ではなかったらしい。東京育ちで直前まで副知事を務めていた鈴木は、オリンピックに次ぐ国家事業である万博も東京での開催を強く望んでいたのだが、当時の佐藤栄作内閣は地域バランスを優先して大阪開催を決定したからである。そのときの無念を忘れなかった鈴木は、都知事として絶大な権力を掌中に収めた後年、大型博覧会の首都圏開催に強く執着するようになったというわけだ。だが、鈴木と万博の接点は、さらに以前にさかのぼることができる。
 1933年に東京帝国大学法学部を卒業した鈴木は内務省に入省し、地方事務官や内務事務官を歴任したあと38年に出征し、その後41年まで満州に滞在して現地の地方自治を担っていたが、ちょうどこれは開催が計画されていた紀元2600年万博の「延期」が決定し、その事後処理がおこなわれていた時期に相当する。後述するように、当時の満州では実験的な都市計画が展開されていて、鈴木もそれに関与していた。鈴木が一東京市民として開催を心待ちにしていた紀元2600年万博が、同時に一若手官僚として格好の実験場に映ったことは想像に難くないし、その「延期」は大いに無念だったことだろう。いずれも幻に終わった紀元2600年万博と都市博がともに月島埋立地を主会場に予定していたことは、決して単なる偶然の一致ではない(1)。

3度目の正直 万博構想のスタート

 では、あるいは鈴木が関与していたかもしれない幻の万博の開催計画はどのようなものだったのか。時系列に従ってみていこう(2)。
 紀元2600年万博の開催計画は、1929年6月22日に博覧会倶楽部のメンバーが田中義一首相以下各省大臣に万博開催を求める建議を起こしたことに始まる。25年に結成された博覧会倶楽部は内国勧業博覧会や海外の万博などに携わってきた有識者の集まりで、土木学会の重鎮である古市公威が会長を、内閣書記官長などを歴任した平山成信男爵が理事長を務めていた。「はじめに」ですでに述べたように、明治新政府成立後の日本では、明治中期の亜細亜大博覧会構想と明治末期の日本大博覧会構想がいずれも実現に至らず流産していた。とりわけ後者の挫折は、多くの関係者の間に、日本が欧米列強と肩を並べるためには是が非でも万博開催を成功させなければならないという共通了解を生み出した。この建議書には、万博開催を待望する関係者の強い意向がにじんでいたのである。
 翌1930年5月23日には万国博覧会協議会が結成される。この協議会には、博覧会倶楽部をはじめ、東京府、東京市、東京商工会議所、東京実業組合連合、神奈川県、横浜市、横浜商工会議所、横浜実業組合連合、日本産業協会の各団体が参画して議論を重ね、8月28日には前年の建議書をさらに発展させ、芝浦埋立地と京浜地区の沿岸を会場とし、35年に約7カ月の期間で開催する計画を浜口雄幸首相以下各大臣へと提案している。この計画では「世界大戦終結20周年 関東大震災12周年」というテーマを掲げ、表向きは国際協調と震災からの復興をうたっていたが、実質的には世界恐慌の結果した悪化した景気へのカンフル剤にすることも大きな目的だった。2,500万円と見積もられた開催経費の大部分は、入場料で賄う計画だった(3)。
 翌1931年3月26日には、国会で「日本万国博覧会開催ニ関スル建議」が採択され、4年後の万博開催が正式に決定される。しかし同年9月18日には柳条湖事件を機に満州事変が勃発し、また翌32年5月には5・15事件が発生して犬養毅首相が暗殺されるなど、社会の空気は急速にきなくささを増していった。また海外へと目を向けてみると、33年にはシカゴで万博の開催が予定されていて、それからわずか2年後では参加国も海外からの来場者もともに多くを見込めそうになく、開催計画は早くも暗礁に乗り上げてしまう。だがここで、万博開催を5年後の40年に延期しようという主張が現れ始める。最初に日本産業協会の副総裁だった阪谷芳郎が、次いで第2会場として予定されていた京浜地区を擁する横浜市が提案したこの延期案は、やがて政府内でも大勢を占めるようになる(4)。この案が多くの支持を集めたのは、もちろん延期の5年間を通じて財源の確保や開催準備を進め、また万博ムードの盛り上げが図れるのではというもくろみがあってのことだが、同時にちょうどこの年が皇紀2600年の節目にあたることも大きかった。仕切り直しの結果40年に開催されることになった万博は、必然的に奉祝行事としての色合いを強めることにになったのである。

皇紀と奉祝

 もっとも、「皇紀」や「奉祝」といってもピンとこない読者も少なくないと思われるので、最低限の説明は必要だろう。
『古事記』と『日本書紀』にはいずれも神武天皇の創建神話が描かれているが、皇紀とはこの神武天皇の即位年をもって開始される紀年法のことで、その元年は西暦より660年も古く、日本の古来の伝統や万世一系の正統性を強調するうえではうってつけだった。とはいえ、皇紀が法制化されたのは1872年11月15日と明治維新以後のことにすぎず、それ以前に皇紀の節目に祝賀行事が催された記録は一切存在しない。言うなれば皇紀は「作られた伝統」の典型であり、そのとってつけたような権威を正統化するべく、政府はさまざまな手段を講じる必要に迫られたのである。「奉祝」と呼ばれる、節目の年に挙行される多くの祝賀行事もその一環だった。
 皇紀が法制化されて以来最初の節目らしい節目の年といえば、紀元2550年に相当する1890年である。政府はこの年にいくつかの奉祝行事を計画し、神武天皇を祀る橿原神宮の創建、同じく神武天皇の東征に倣った金鵄勲章の制定、宮中での舞楽の上演などがおこなわれた。だが最大の目玉と位置付けられていた行事は結局実現しなかった。「はじめに」でも挙げた亜細亜大博覧会である。当時まだ不平等条約を改正できずにいた日本に、欧米列強と対等の立場で万博を開催するだけの国力は備わっていなかったのである。後年になって紀元2600年万博が政府内で多くの支持を集めたのは、約半世紀前の挫折の経験と決して無縁ではないだろう。

東京オリンピック――もう一つの奉祝行事

 次なる節目の年は、当然紀元2600年に相当する1940年ということになるが、10年前の30年頃から、この年に奉祝行事を開催しようとするムードが生じ始める。例えば紀元2550年を記念して創建された橿原神宮の拡張整備計画もその一つだが、世界恐慌の影響による財源難に加え、地域(奈良県)の住民の支持が乏しかったこともあり、31年に国会に提出された整備計画の建議書は一応可決されたものの、実現されることなく立ち消えとなる(5)。
 一方、多くの国民の関心を引き付けたのが、同じくこの時期に浮上した東京オリンピックの開催計画である。1896年にアテネで第1回大会がおこなわれて以降、4年おきに開催される近代オリンピックは、当時世界最大のスポーツの国際大会に成長していた。1912年のストックホルム大会に初参加した日本は、28年のアムステルダム大会で2個の金メダルを獲得するなど、その競技実績を着実に向上させていて、それと並行して国民の関心も大いに高まりつつあった。
 東京オリンピック開催のムードも、こうした関心の高まりのなかから生まれてきたもので、早いところでは、日本の陸上競技チームの総監督だった山本忠興が1930年7月のヨーロッパ遠征の際にスウェーデンで国際陸上競技連盟のエストドローム会長と会見し、東京オリンピック開催の可能性について打診した記録が残っている(6)。このオリンピック開催の機運に敏感に反応したのが、当時の東京市長・永田秀次郎である。32年に開催されたロサンゼルスオリンピックの祝賀会の席上で、女子平泳ぎ200メートルで銀メダルを獲得した前畑秀子を「君はなぜ金メダルをとらなかったのだ。悔しくてたまらない」と詰問した逸話が示すように、永田は大のオリンピック好きであり、アジア初のオリンピック招致に成功すれば奉祝行事の大きな目玉になることを確信していた。山本から招致実現の可能性があるとの報告を受けた永田は、同年12月4日に40年大会への立候補の意向を表明し、翌31年10月28日の東京市議会でこの意向が満場一致で可決される。その議事録には「開国2600年にあたりこれを記念する」という一文が盛り込まれていて、オリンピックを奉祝行事の目玉に位置付けたいという意向が招致活動の大きな動機だったことがわかる。
 以下、招致決定までのプロセスをごく簡単にたどってみよう。1940年大会の招致に名乗りを挙げていたのは、ほかにはローマ、バルセロナ、ヘルシンキ、ブダペスト、アレクサンドリア、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、ダブリン、トロントの9都市で、アジア初のオリンピック開催という大義名分を掲げた東京は、当初から最有力候補の1つだった。
 ほかの9都市のなかで、東京の最大のライバルとみられていたのは、ベニート・ムッソリーニ首相がオリンピック開催を熱望していたローマである。ローマがオリンピック招致に乗り出したのは、同盟国ドイツがベルリンオリンピックの招致に成功したことに刺激を受けたのに加え、1942年に万博開催を計画していたこととも連動していたものと推測される。そのため、奉祝行事としての40年開催に固執する東京の関係者は、早い時期からムッソリーニに接触し、「1940年はわれわれに譲ってほしい。かわりに、東京は44年のローマオリンピック開催を支持する」との意向を伝え、これを受諾したローマはいったん立候補辞退を表明する。しかし、辞退を不服とする関係者がいたことに加え、IOC(国際オリンピック委員会)本部があるローザンヌが44年大会に立候補する可能性が浮上し、このままでは勝ち目が薄いとみたローマは辞退を撤回、結局35年のIOC総会では開催都市が決まらず、東京、ローマにヘルシンキを加えた3都市であらためて開催権を争うことになった。
 その後も事態は二転三転する。翌1936年、第2次エチオピア戦争が開戦したことを受けてローマが再度立候補を辞退し、東京開催を支持することを表明する。その後ロンドンが急遽立候補の意向を表明するも撤回し、36年のベルリンオリンピック開幕直前に開催されたIOC総会で、東京はヘルシンキを36対27で破り次期大会の開催権獲得に成功し、以後オリンピックは奉祝行事の目玉として位置付けられることになったのである。
 以上のように、ほぼ同時期に奈良と東京で浮上した奉祝行事の計画ははっきりと明暗を分けることになった。初代天皇とされる神武天皇を祀った橿原神宮は、天皇主権の近代国家である日本にとって国民統合の象徴であるはずの存在だが、その神社の拡張計画に対する政府や地域の冷淡な反応は、スポーツの国際大会であるオリンピックに対する熱狂とは何とも対照的だ。これは、国民統合という一見内発的な問題が、実は海外からの視線に多くを依拠していることの証左なのかもしれない。そしてこのことはもちろん、海外からの多くの参加国や来場者を見込んだ万博の開催計画にも大きく影響することになる。

紀元2600年万博開催に向けて

 ここであらためて万博へと戻ろう。当初は5年間の延期の提案でしかなかった1940年の万博開催が初めて具体的に検討されたのは、32年7月29日に開催された協議会の席上においてである。この時期に1年半ぶりに協議会が開催されたのは、満州事変が一段落したことに加え、最初に延期を提案した阪谷の強い意向によるものだった(7)。この協議会では、紀元2600年奉祝を趣旨として、40年3月から10月までの8カ月間、月島、新越中島埋立地を主会場として開催する案が検討されている。新越中島埋立地が会場として手狭だったこと、開催経費としては、計上されていた2,500万円の倍額はかかるのではないかと見積もられたことなど、阪谷主導のこの案には多くの不備が指摘された。そのため、開催計画のマトリックスとも呼ぶべきこの案は、その後多くの修正を余儀なくされていく。また40年の開催理由として、当時すでに招致活動が始まっていた東京オリンピックが挙げられていたことにも注目しておきたい。以後紀元2600年万博の開催計画は、オリンピックと足並みをそろえるかたちで奉祝行事としての色彩を強めていく。
 次の転機は1934年、日本万国博覧会協会が結成されたことだろう。これは、先述の協議会に関連の官公庁が加わって発足した任意団体であり、初代会長には永田秀次郎の次代の東京市長である牛塚虎太郎が就任した。市長在任中の牛塚は、山口貯水池(狭山湖)や小河内貯水池(奥多摩湖)の造成や千歳村と砧村の世田谷区合併を実現するなど、都市計画や都市開発の分野で実績を上げたが、博覧会協会会長を兼務した彼はこれを新たな都市開発の好機ととらえ、月島埋立地へと万博を誘致し、会期終了後にはその跡地に東京市庁舎を建設する計画を構想した(8)。その構想案が初めて公表され、JOAK(現在のNHK)を通じて全国に放送されたのは翌35年2月11日のことである。博覧会協会の発表した構想案によると、月島第5号埋立地(現在の豊洲)、第6号埋立地(現在の東雲)、第10号埋立地(現在の有明)、第11号埋立地(東雲)からなるメイン会場の面積は約330万平方メートル(約100万坪)に達し、数年前に阪谷が提案した原案のほぼ2倍の大規模なものだった。「紀元2600年記念日本万国大博覧会」という正式名称が決定されたのもこのときだ。
 翌1936年2月13日には、岡田啓介首相の諮問機関として設立された皇紀2600年祝典準備委員会が万博を正式な記念事業として認定、以後万博は国家主導のプロジェクトとしての色彩を強めていく。37年5月25日には王子製紙社長の藤原銀次郎が社団法人化された博覧会協会会長に、商工省商務局長の副島千八が事務総長に就任し、続いて秩父宮雍人親王が万博総裁に就任する。親王の主な役割は広報宣伝であり、アジア初の万博を海外に積極的に発信していくことが期待されていた。他方、準備が進むにつれて当初計画されていた約百万坪の敷地は広大すぎるということになり、月島第4号埋立地(現在の晴海)と第5号埋立地を中心に、第6号埋立地の一部と防波堤、第3台場公園を含む約150万平方メートル(約45万坪)の会場計画が固まった。第2会場しては、横浜の山下公園を中心とする約10万平方メートル(約3万坪)の敷地が確保された。また規模の縮小に応じて、博覧会の正式名称も「大」をはずした「紀元2600年日本万国博覧会」に変更された。
 開催準備は、その後も粛々と進められた。1936年7月1日には、「内閣紀元2600年祝典事務局」と「紀元2600年祝典評議委員会」が設立され、同年8月25日には、万博協会を発行元とした、財源確保のための割増金付き前売り券の発売が承認された。同じく8月27日には商工省商務局内に「博覧会監理課」が設置され、11月7日には商工大臣を会長とする「紀元2600年記念日本万国博覧会監理委員会」が設置されるなど、万博の管理体制も整えられていく。また同年11月9日に開催された祝典評議委員会の第2回総会では、奉祝行事として40年に日本万博が開催されることが全会一致で承認された。ちなみに、このときに用いられた標語の一つが、近衛文麿内閣が国民精神総動員のスローガンの一つとして掲げた「八紘一宇」である。評議委員長だった阪谷芳郎から広田弘毅首相に提出された報告書の題目は以下のとおり。

 紀元2600年奉祝記念行事ニ関スル件
 紀元2600年奉祝記念行事ハ大体左記方針ニ依リ之ヲ実施スルヲ適当ト認ム
 第1 左ニ掲グル事業ヲ奉祝記念事業トシテ施行スルコト
 1、 橿原神宮境域並畝傍山東北陵参道ノ拡張整備
 2、 神武天皇聖蹟ノ調査保存顕彰
 3、 御陵参拝道路ノ改良
 4、 日本万国博覧会ノ開催
 5、 国史館ノ建設
 6、 日本文化大観ノ編纂出版

 この題目を見ていて、いくつか気になる点がある。1つは、最大の目玉だったはずの東京オリンピックが含まれていないこと。これはおそらく、初期のオリンピック(1900年パリ大会と04年セントルイス大会)が万博の余興扱いされた経緯から、IOCが万博との同時開催をひどく嫌っていたことへの配慮だろう。とはいえ、いくら体裁を取り繕ったところで、オリンピックが奉祝行事の目玉であることは周知の事実だった。次に、いったんは棚上げされたはずの橿原神宮の拡張計画が復活していること。この事業がさして地域住民の関心を引かなかったことはすでに述べたが、やはり国民統合の象徴としての重要性が考慮されたのだろう。また「国史館」とは、東京帝国大学名誉教授の国史学者・黒板勝美が構想していた国史の総合博物館で、「日本文化大観」は、官僚OBや華族、財界人の有志から成る組織日本文化中央連盟が国民教化策の一環として提唱した大規模な出版事業であり、これらの事業が採用された背景には、「作られた伝統」としての紀元2600年をさまざまな角度から正統化しようとする意図がうかがわれる。37年4月23日の第3回総会では「紀元2600年奉祝会ノ監督オヨビ援助ニ関スル件」を議決、この総会を母胎として奉祝会が設立され、秩父宮が総裁に、広田首相が副総裁に、徳川家達元貴族院議長が会長に、阪谷と郷誠之助日本経済連盟会長が副会長に就任、以後万博は紀元2600年奉祝事業の目玉として位置付けられ、準備が進められていく。

事業計画の概要

 紀元2600年万博は1936年11月の祝典評議委員会で正式に奉祝行事として開催が決定し、翌12月には3,500万円の開催経費のうち1,200万円を国庫補助金から支出することが示されたほか、東京市と横浜市が損失を負担する方針が確認されたが、以前に開催経費には5,000万円は必要なのではないかとの試算が示されるなど、依然として資金面の不安は拭えない状態だった。
 膠着していた事業が進展し始めたのは、それまで商工大臣が兼務することが慣例だった博覧会協会会長の座に財界人の藤原が就任してからだった。藤原の会長就任後初めて開催された帝国議会では、彼の尽力もあって、「紀元2600年万国博覧会抽籤券付回数入場券発行に関する法律」が可決され、発行総額3,650万円に達する前売り券の売り上げを開催資金にあてられる見込みが立ったのである。
 では総額3,500万円とも5,000万円とも見積もられた万博の事業計画はどのようなものだったのか。その会場計画は開催決定までに何度か変更されるのだが、ここでは資料をもとに最終決定された開催計画をごく簡単にみてみよう。
 紀元2600年博の会場計画案が最終的に決定されたのは1937年10月のことだ。その計画案によると、「紀元2600年記念日本万国博覧会」は、東京会場約150万平方メートル(約45万坪)、横浜会場約10万平方メートル(3万坪)となっている。厳しい財源や正式名称から「大」がはずれたことを反映してか、最大時の約100万坪からはほぼ半減している。また、開催期間は40年3月15日から8月31日の170日間、入場者数は約4,500万人を見込んでいた。過去に開催された万博と比べてみると、開催期間がごく標準的であるのに対して入場者数は多めに予測されているが、これは「アジア初」の大義名分に加え、オリンピックとの相乗効果を見込んだものだろう。
 開催趣旨としては、「悠遠の過去を有する我国の絢爛たる文化活動の成果を政治、教育、学芸、交通、財政、経済等各般の分野に亘り、之を最も進歩した形態に於て展示し、以て光輝ある紀元2600年を奉祝記念せんとする」ことが、また目的としては、「内外産業文化の精華を収集展示し以て東西文化の融合・・・・・・・に資し、世界産業の発展及国際平和の増進に貢献すること(9)」(傍点は引用者)がうたわれていた。この目的にある「東西文化の融合」が万博のテーマとして定められたのは、万博の開催計画と「八紘一宇」や「五族協和」など当時の内閣が掲げていたスローガンとのバランスを図ったものと推測される。

 会場図面によると、東京会場は月島第4号埋立地、第5号埋立地、第6号埋立地の一部と防波堤、第3台場公園が、また横浜会場は中区山下町と山下公園の一角があてられている。東京会場は当初の予定より西側に移動しているが、これは4号埋立地を日本館エリア、5号埋立地を外国館中心のエリアと分け、「東西文化の融合」を強調する意図があってのことだろう。同様に、横浜会場にも、臨海会場の特徴を生かすべく、陳列館(海洋館、水産館、水族館)を設けることが計画されていた。
 建築面積(建坪)でいうと、東京会場は陳列館(28館)、外国特設館、私設陳列館、スタジアムなど総計約20万平方メートル(約6万坪)、横浜会場は約1万平方メートル(約3,200坪)が予定されていた。
 万博は国内外からの多くの来場者が見込まれるイベントである。会場内ではそうした人々に向けた多くの催し物が開かれるため、会場計画にはそのことを盛り込む必要もあった。「世界大サーカス」や、約5,000坪(約1万6,500平方メートル)の大規模な施設で世界一周旅行を疑似体験できる「万国大観」などがその筆頭だ。ほかにも、各種の音楽を演奏する「野外音楽堂」、子ども向けの「子供の国」、全国各地の園芸を催す「演芸館」や「野外演芸館」、映画の上映施設である「映画館」などの開設が計画されていた(10)。
 1936年3月、日本万博協会は万博事業に関わる職制を制定した(11)。これによって、以後の万博関連の事務はすべて「紀元2600年記念日本万国博覧会事務局」の管轄に置かれることになり、事務局職制、事務分掌規程、服務規程、文書取扱規定、出張旅費規程、会計規定などはすべて事務局の差配によって決定された。万博の組織は総裁を筆頭に以下副総裁、会長、副会長、事務総長、事務次長の縦割りになっていて、事務次長の下に総務部、財務部、出品部、事業部、宣伝部、工営部が設けられていた。その組織図の外には会長と同位の名誉会長が置かれ、また会長の諮問機関である専門委員会には会場計画員会、交通委員会、出品部類目録委員会、出品調査委員会、宣伝委員会などが設けられ、準備の中心的役割を担っていた。

万博の会場計画、交通計画、出品計画――広報・宣伝態勢

 会場計画委員会が設置されたのは1937年1月のことだ。万博会場内の主要な建築物、道路、橋梁、庭園の配置計画や様式の決定が主な仕事だった。会場内に建設される各種施設の配置改革や様式の決定には、塚本靖、伊東忠太、佐野利器、武田五一、内田祥三、佐藤功一、大熊喜邦らの建築家が委員として深く関わり、その方向性が決定されていった。第4号埋立地には荘厳な日本風の建築を、対照的に第5号埋立地には欧風の建築を作ることにしたのも、「東西文化の融合」というテーマをふまえた会場計画委員会の決定である。また第4号埋立地の正面には、建国記念館(のちに肇国記念館と名称変更)を配置することが決定され、競技設計がおこなわれた。この点に関して、詳しくは第2章を参照されたい。
 少し遅れて1937年7月に設置された交通委員会では、東京会場の交通計画が進められた。この会場計画の目玉は、何といっても勝鬨橋だろう。第4号埋立地と銀座・築地方面を結ぶ勝鬨橋は、当時東洋一の開閉橋と呼ばれ、また紀元2600年万博関連で構想されていた会場施設のうち、現存する唯一の建造物である。ほとんど前例がなかった開閉式の橋を架けるためには、周囲の交通状況を的確に把握する必要があったため、大規模な調査が実施され、その結果33の既存の橋梁のチェックやバスのダイヤの大幅改正などがおこなわれた。約4,500万人という推定入場者数も交通委員会の見積もりによるもので、1日平均26万6,000人、混雑日はその倍の53万200人、混雑時の1時間入場者が約8万人というのがそのより詳細な内訳だった。
 出品部類目録委員会では、陳列館に出品されるさまざまな展示品の選択基準の審議がおこなわれ、特に「東西文化の融合」というテーマに沿った出品部類目録を編纂することが目指された。1937年12月に商工大臣の認可を受けた『出品部類目録』はその成果である。この目録には陳列館の類別に即した陳列体系が示されていて、「2600年の歴史と伝統に培われた日本」と「躍進する産業立国」を明示した構成になっている。ここには、欧米諸国の視線を念頭に、すでに海外でも定着した伝統的な日本観を踏襲する一方で、産業立国としての新たな日本像を打ち出したいという二重の欲望が露呈している。
 陳列体系が明文化されたあとは、その体系に即した展示品を選ぶ作業が控えている。そのため、1938年1月には「出品調査委員会」が設置され、出品が申し込まれる全国各地の多くの産品を審議し、前述の2つの体系に即して展示品を選定する作業にあたった。この基準による出品物は「直営出品物」「館長出品物」「指定出品物」の3種に大別され、委員会の審査に合格した産品だけが展示されることになった。
 万博の趣旨や開催の周知徹底を図るには、精力的な広報・宣伝活動が欠かせない。1935年2月11日、牛塚虎太郎万博協会会長がJOAKの全国放送で紀元2600年万博を告知したが、おそらくこれが最初の宣伝・広報にあたるものと思われる。JOAKにはその後も藤原万博協会会長や吉原眞棹万博協会宣伝部長が出演し、広報媒体として活用された。
 万博関連の印刷物は、1938年3月10日に全国いっせいに発売された抽選券付き回数入場券を機に急増した。先述のとおり、この入場券は財源の確保が主目的だったが、これはパリ万博(1889年、1900年)やシカゴ万博(33年)の成功に倣った手法だった。また広報誌「万博」をはじめ、ポスター、パンフレット、絵はがきなどが多数頒布されたが、これらの印刷媒体で最も著名なのが、万博公式ポスターの懸賞で当選した2等1席の図案と3等1席の図案だろう。この両者には、ともに金鵄が用いられているという共通点があり、なかでも3等1席の図案には富士山も描かれていて、「日本」の表象という明快な意図をもっていた。
 1937年4月に英文パンフレットが発行されたのを機に、海外向けの宣伝・広報活動も活発化していくことになった。欧米を主なターゲットにしていたこともあり、英語のほかフランス語やイタリア語のパンフレットも制作された。
 1937年8月3日、藤原万博協会会長は外務省を通じてフランスの博覧会国際事務局(BIE)に「第二種一般博覧会」の開催承認書類を提出して正式な承認を受け、38年3月には在外公館を通じて各国に招待状を発送した。開催を2年後に控え広報活動にもますます力が入ろうとしていた。ところが、その後事態は急転直下し、38年7月15日の閣議決定で開催延期が決定され、紀元2600年万博の開催の可能性はこの時点で事実上消滅する。2度あることは3度あるというように、日本の万博開催はまたしても幻に終わってしまったわけだが、その最大の原因は、前の年に始まった日中戦争だった。

漂う暗雲――日中戦争開戦

 1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件を機に、日中両国は交戦状態に突入する。7月11日は日中の現地軍同士で停戦協定が結ばれるなど、当初この紛争はすぐに終結する兆候が見られたのだが、7月15日に毛沢東が蒋介石に国共合作による徹底抗戦を呼びかける一方、日本軍も7月28日には華北地域で本格的な軍事行動を開始するなど、戦局は一転して長期化の様相を呈する。
 当初は、この紛争が奉祝行事に何らかの影響を及ぼすものとはほとんど考えられていなかった。政府関係者をはじめ、多くの日本人がこの紛争が半年か、遅くとも1年以内には日本の勝利によって安定するものと思っていたからだ。その証拠に、7月24日に召集された特別議会では日中戦争関連の案件は全く議題に上らず、前述の万博抽選券付き回数入場券の発売が承認されるなど、万博の準備が粛々と進められることになった。しかし、紛争が本格化した9月3日の第72臨時議会では、臨時軍事特別会計、輸出入品等臨時措置法、臨時資金調達法、軍需工業動員法の適用に関する法律などが続々と承認され、9月9日には内閣訓令によって国家総動員体制への準備が始まるなど、時局は一気に戦時色を強めていく。当初の予想に反して戦争は長期化を避けられない見通しとなり、その影響がにわかに奉祝行事の計画にも及び始める。
 最初に日中戦争の影響が表れたのが、オリンピック返上問題である。1940年大会の招致成功後、東京市オリンピック委員会、体育協会、組織委員会などが準備を進めていたが、8月25日に陸軍省が馬術競技への陸軍現役将校の出場とりやめを発表した。日中戦争が長期化するなかで、貴重な戦力をオリンピックには割けないという判断だった。また9月7日には、政府がオリンピックの開催権を返上する意向だとする政府高官の発言が報道され、オリンピックの返上問題が一挙に表面化した。その後、日中戦争の長期化に伴って物資の不足が深刻化すると、軍部からはオリンピックの返上を公然と求める意見が相次ぎ、また海外でも、開催権を争ったフィンランドや中国大陸に利権をもち、日中戦争に反対していたイギリス、オーストラリア、アメリカなどからオリンピックの東京開催に反対する意見が続出した。国内の物資不足と海外の開催反対の意見に挟み撃ちにされ、オリンピック返上問題は抜き差しならない状況になってしまう。
 一方の万博は、1937年9月には会場予定地である月島埋立地の地質調査が実施されていたので、少なくともこの時点では開催を前提に準備が進められていたようだ。しかし9月23日には、政府の意向によって前述の法案で承認され、印刷も進められていた前売り券の発売が延期され、また肇国記念館の工事着工も先延ばしになり、にわかに開催が危ぶまれ始めた。
 その後の数カ月、これといった動きは見られない。ただ万博協会が発行していた機関誌「万博」の表紙裏には、明治期の内国勧業博覧会が西南戦争や日清戦争の合間にも開催されていたことやドイツが東京の万博開催を支持していることを紹介する無署名の記事が掲載されていて、開催に向けた関係者の強い意志がうかがわれる(12)。
 1937年12月12日に国民党政府の首都・南京が陥落し、翌38年1月16日には、近衛文麿首相が講和条件として蒋介石の下野を求める。これに伴い、停滞していた万博の準備も再開されることになった。
 まず1月10日、前年に延期されていた入場券の発売が3月に実施されることが決定した。これ以上発売を延期すると工事が間に合わないという判断のもと、商工大臣が万博協会の要請を認可した。入場券は全国のプレイガイドや金融機関などで12枚つづり1組10円で販売され、好評のうちに完売した。当時の10円は現在の物価水準に換算すると数万円に相当するが、高額な入場券が売れ行き好調だったのは、軍需によって景気が好調だったことも一因である。

万博の「延期」とオリンピックの「返上」

 ともあれ、入場券の売上によって資金調達のめどが立ったこともあり、1938年4月には各地に招請施設が派遣され、また5月16日には月島埋立地で地鎮祭が開かれ、会場建設工事が正式に着工した。
 他方、東京市は1938年2月中旬に、3年間の継続事業としてオリンピックと万博の関連施設の土木費として1,090万円を割り当てている。36年の東京市の土木支出が約2,600万円だったのから、この2つの事業だけで総予算の8割を占めるなど、その巨額さがうかがわれる。
 しかし、いったん沈静したかと思ったオリンピック返上問題は、杉山元陸軍大臣が、日中戦争が終結しないかぎりオリンピックは開催できないという趣旨の発言をしたことで再燃する。加えて、明治神宮と内務省神社局が、主会場として予定されていた明治神宮外苑競技場をIOCの要望どおり収容人員10万人規模に改修することは不可能と難色を示したため、会場計画も見直しを余儀なくされた。結局、選手村の建設予定地だった駒沢ゴルフ場に新たに競技場を建設することが決定されたが、それに伴って当然、新たに多額の施設費が発生した。
 加えて、肝心の日中戦争は、イギリスの支援を受けながら首都を重慶に移した蒋介石の徹底抗戦によって停戦のめどが立たない状態だった。戦争遂行と軍備拡充のために物動計画の縮小を余儀なくされる一方、国際的な孤立も深まった日本は徐々に追い詰められていく。
 オリンピックに関しては、物資の不足が深刻化した結果鉄鋼の配給が統制され、10万人規模のスタジアムの建設が不可能になった時点で、事実上開催不可能となった。万博に関しても、現実的な選択肢は大幅に規模を縮小してでも開催を強行するか、もしくは中止するかの2つに1つに限られていた。
 結局、1938年7月15日の閣議で、オリンピックの「返上」と万博の日中戦争終了までの「延期」が正式に決定された。注意しなくてはならないのが、いずれも「中止」ではないことだ。万博の場合、後述の諸事情もあって「中止」とはできなかったのだが、日中戦争の終わりやその後の国際関係の修復が見通せない状況での「延期」は、事実上の中止に等しかった。またオリンピックは、最後まで大会招致を争ったヘルシンキで代替開催されることになったが、39年9月にヨーロッパで第2次世界大戦が始まったため、大会そのそのものが中止になってしまった。周知のように、その後東京が晴れてオリンピックの開催にこぎ着けたのは、第2次世界大戦からしばらくたった64年のことだ。
「延期」の理由として、池田成彬蔵相兼商工務相は「今や挙国一致、物心両面ともに総動員して長期戦の体制を取り聖戦の目的の達成に邁進しつつある重大時局に再開したるおり、予定のごとく昭和15年に本博覧会を開催するも、初期の成果を上げがたい(13)」ことを挙げている。この「返上」と「延期」のほうはすぐに外国にも伝えられ、同盟関係にあったドイツとイタリアはともに「遺憾の意」を表明したが、大多数の国は歓迎の意向を表した。当時の日本の国際的な孤立を如実に物語るものといえるだろう。
 こうして、万博とオリンピックは事実上の中止が決定し、組織委員会などの関連組織は大幅に縮小され、万博監理局も1939年6月に商工省の組織が改組された時点で廃止された。件の40年には、11月10日に宮城外苑(現在の皇居外苑)で内閣主催の紀元2600年式典が催されたのを筆頭に各地で多くの奉祝行事が開催されたほか、橿原神宮をはじめとする皇室関連史跡に多くの観光客が殺到し、朝鮮や満州の観光も盛り上がりを見せたが(14)、万博とオリンピックという最大の目玉が失われた喪失感はいかんともしがたかっただろう。

「延期」後の万博

 万博の開催計画は、明治新政府の樹立以後欧米列強と肩を並べることを悲願としてきた日本の近代化のプロセスを通じて浮上してきたものだが、2度の流産のあと3度目の万博として計画された紀元2600年万博には、奉祝行事と関東大震災からの復興という側面も加わることになった。最終的には1937年に開戦した日中戦争が原因でオリンピックともども事実上の中止に追い込まれた紀元2600年万博だが、当時の資料を当たると、経済的にも対外的にも追い詰められたあとも、38年の上期まではまだ開催の可能性が模索されていたことがわかる。長年の悲願をそう簡単に諦められなかったことに加え、すでに入場券が売り出されていたことや、皇族を名誉総裁に奉戴していたことなどが中止の決断にブレーキをかけたのだろう。閣議決定では「中止」ではなく「延期」と位置付けられたのも、そうした妥協の産物だ。実際、「延期」が決定したあとも万博開催の可能性を模索する動きがなかったわけではないのだ(15)。
 もっとも、「延期」によってすべての事業がすぐさま中止になったわけではなかった。会報「万博」は1941年2月の第56号まで、その後続誌である「博展」は44年3月の第34号まで刊行が継続されたほか、抽選券付き回数入場券の抽選、万博事務局新庁舎の陸軍病院への転用、1939年に開催されたサンフランシスコ万博とニューヨーク万博への参加などの事業はそのまま継続されることになった。また「はじめに」でふれたように、発売ずみの入場券は戦後になって開催された大阪万博や愛知万博でも使用することが認められたのである。椹木野衣は『戦争と万博』で、70年の大阪万博が文字どおり「延期」された紀元2600年万博の「復興」だった(16)との見解を示しているが、一連の経緯を振り返ると、その指摘はいたって適切なものと思われてくる。
 2014年11月上旬のある日、中央区の郷土天文館で紀元2600年万博関連の常設展示を見た私は、晴海通りを抜けて月島方面へと向かった。紀元2600年万博の開催予定地だったこの一帯も、現在ではもはや開かなくなって久しい勝鬨橋がわずかに当時の面影を忍ばせるにすぎない。だがその日の私の目には、小雨交じりの天候にも影響されたのか、いかにも現代的なウォーターフロントの光景がかつての未来都市の光景とダブって見えたような気がした。都知事時代、臨海副都心の再開発に熱心に取り組んでいた鈴木俊一の目にも同様の光景が映っていたはずだと邪推するのは、はたして私だけだろうか。


(1)東京湾岸のバスツアーについて取り上げた「日本経済新聞」2014年3月8日付の記事には「1996年には台場で世界都市博覧会(都市博)の開催が予定されていた。当時の鈴木俊一知事は幻となった1940年万博の再現を目指した、とも伝わっている」との一文がある。
(2)以下、紀元2600年記念万国博覧会の開催計画については、「紀元2600年記念日本万国大博覧会」「紀元2600年記念日本万国博覧会概要」「紀元2600年記念博覧会ニ関スル方針要綱」「出品ニ関スル方針要綱」「紀元2600年記念博覧会概要」「紀元2600年記念博覧会 International exposition of Japan」(いずれも津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔別巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年〕に所収)に依拠する。
(3)増山一成「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」、同書所収、26ページ
(4)「東京朝日新聞」1931年2月27日付夕刊には、「待たれた万国博 昭和十年は見合わせ 十五年に延期さる」という記事が掲載されている。
(5)古川隆久『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年、68―69ページ
(6)橋本一夫『幻の東京オリンピック――1940年大会招致から返上まで』(講談社学術文庫)、講談社、2014年、20ページ。以後、オリンピック招致と返上の経緯については同書に依拠する。
(7)前掲『皇紀・万博・オリンピック』78ページ
(8)機関誌「万博」の第1号の巻頭で、牛塚は博覧会協会会長の肩書で「即ち此の年に於て、我国には未だ嘗てない万国博覧会を開催し、遠く建国の昔を回顧して皇祖の御偉業を賛仰し、国民精神を作興すると共に、洽く海外を招請して現代産業文化の精髄を展列し、愈々進んで産業経済の発展充実を促進せんとすることは実に絶好の記念事業であると信じます」と万博開催の意気込みを語っている(「万博」第1号、日本万国博覧会協会、2ページ〔津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第1巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、4ページ〕)。
(9)『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』紀元2600年記念日本万国博覧会事務局、1938年、1―4ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、65―66ページ)
(10)前掲「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」49ページ
(11)前掲『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』7ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、69ページ)
(12)「世界一万国博覧会の開設を待つ」「万博」第27号、日本万国博覧会協会、2ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第2巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、278ページ)
(13)「東京朝日新聞」1938年7月16日付
(14)紀元2600年関連の観光ブームについては、ケネス・ルオフ『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳〔朝日選書〕、朝日新聞出版、2010年)を参照のこと。
(15)串間努の『まぼろし万国博覧会』(小学館、1998年)では、紀元2600年万博の代替企画として、1942年に「大東亜共栄博覧会」の構想があったことが指摘されている。
(16)椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年、148ページ

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第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

「巴里通信」

 1930年代になると第1次世界大戦の傷跡からヨーロッパもようやく立ち直り、万博開催の機運が世界的に広がってくる。29年から30年にかけてのバルセロナ万博を皮切りに、シカゴ(33―34年)、ブリュッセル(35年)、さらには37年のパリ万博、39年のニューヨーク万博と続き、皇紀2600年に合わせて開催されるはずだった東京万博へと至る。日本万国博覧会協会が発行していた雑誌「万博」は、国内での準備状況を記録するだけでなく、こうした万博の世界的な流れもリアルタイムでキャッチしている。
 日本産業協会主事として1920年代からパリの博覧会の日本出展に関わってきた佐々木綱雄は、37年のパリ万博を視察、同年「万博」5月号から「巴里通信」を計6信寄せていて、来る日本での開催を見据え、パリ万博の特性から予算や建築まで詳細な分析を加えている。帰国後、佐々木は日本万国博覧会の事業部部長に就任した。39年のニューヨーク万博は開催時期が近く、日本が大きな示唆を受けた直近の万博は、この37年のパリ万博だったと思われる。
 その第一信はフランス政府の支出総額、ならびに主要参加国の支出の記録から始まっている。それによればフランスの万博事務局の公表予算総額は11億5,000万フラン(以下、単位はフラン)、外国側はドイツ4,000万、イタリア1,500万、ソビエト連邦(ソ連・ロシア)1,300万、ベルギー1,200万、アメリカ800万、イギリス800万、日本300万、その他が2,600万(1)。外国出展ではアドルフ・ヒトラー政権下のドイツが他を圧していて、同じくファシズムのイタリアと、共産国であるソ連がほぼ同額というあたりが、政治情勢を生々しく反映している。
 帰国後の報告「巴里万博より帰りて」では、これらの予算額が各国間の競争になって平均約5割増しになったとある。佐々木は1939年のニューヨーク万博、41年のローマ万博と、日本と競合する万博の宣伝運動に対し、日本は歴史性や地の利の問題からも不利、普及運動も立ち遅れているとして、「乃ち難関突破の計画としては凡ての計画が全国総動員的の規模を持ち、又全国民をして自分自身の仕事である様に凡ての点から見て多大の関心と絶大の興味とを持たせる様に仕向けて行かねばならぬ(2)」と結んでいる。日中戦争が泥沼化し総力戦の様相を呈していくなか、佐々木にとって万博は文化の総力戦だったのだろう。
 ところで37年博当時のフランスは左派が政権を握っていたが、毎年のように首相が変わり、政情は安定していない。36年6月に人民戦線政府として誕生したレオン・ブルム政権は、前政権から万博計画を引き継ぐ一方、週40時間労働など大胆な労働改革にも取り組んだ。しかし1日8時間労働、週休2日制で働くフランス人労働者に、佐々木は「博覧会の様な忙しい仕事に従事せる労働者が土、日、2日の休日を取って平然と致居候」、5月1日の開会も20日ほど遅れるだろうと述べている。一方、外国勢ではドイツが断然トップにあり、材料職工一切を自国から調達している(3)と報じている。
 ドイツの万博への参加は早くから検討されていたとはいえ、正式参加表明は開催前年の10月、さらにドイツ館の建設がスタートするのはようやく1937年1月になってからのことだった。しかし佐々木の報告にもあるように、ドイツは資材・職人を本国から送り込み3交代制のシフトを敷いて、わずか5カ月の工期でパビリオンを完成させている。オープニングは3週間遅れの5月25日だったにもかかわらず、フランスの関係パビリオンのほとんどはまだ建設途中だった。遅れてスタートしたドイツ館が期日どおりに完成したこと、そしてそれが金賞をとるほどに高い評価を得るものだったことは、政情が不安定な左派フランスと盤石な右派ナチとの対比を、訪問者たちに印象付けたはずだ。
 緊張感を帯びつつあった国際情勢を背景に、万博という場にはさまざまな政治的な磁力がはたらいていた。それはまさに、国家の威容を可視化する装置だったのである。シャイヨー宮のテラスからセーヌ川を挟みエッフェル塔を臨む37年博会場の写真(図1)は、そうした力学をはっきりと映し出している。向かって左にそびえるのがドイツ館で、その突端にはナチのエンブレムである鷲が止まっている。向かい合って立つのがソビエト館で、こちらは鎌と槌を掲げる男女の像を頂いている。

図1 パリ万博会場

 会場の最も重要な場所を占めるこの2つのパビリオンを、誰もがファシズムと共産主義というこの時代の二大政治思潮の対峙として理解した。エッフェル塔は2つの強烈な磁場に引っ張られて股裂きになっている。実際、フランスの政治家や知識人たちの心は揺れていた。伝統的に左派思想が強い国ではあるが、共産主義革命のような急進的で極端な変革は彼らの恐れるところでもあった。強い結束力のもと快進撃を続けるファシズムを魅力的な政治的選択肢ととらえる人々も少なくなかったのである。

「文化による友好」というまやかし

 とはいえ、ファシズム勢力による国際協調体制の侵犯は日増しに明白かつ大胆になり、ドイツの対フランス政策も強硬路線を突き進んでいた。ブルム政権成立直前の1936年3月には、ドイツ軍はヴェルサイユ条約とロカルノ条約をほごにして非武装地帯のラインラントに進駐している。第1次大戦で苦い勝利を得たフランスにとって、これは重大な約束違反であり脅威だった。さらに同年7月には、スペインの人民戦線に対しフランシスコ・フランコ率いる反乱軍が蜂起し、ファシズム諸国の支援を受けながら内戦へと突入していく。国際問題だけではない。35年9月にはユダヤ人の公民権を否定するニュルンベルク法が成立するなど、強化される人種差別に対しても、国際的な非難は高まっていた。
 1937年の万博は、新たな世界大戦が具体性を帯びていくなかで開催された。とするならば、左派ブルム人民戦線政府が開催する万博に、ドイツがこれほどまでに注力したのはかなり奇異に映る。ドイツのパリ万博出展はなぜ可能になり、どうしてここまで大規模なものになったのだろうか。
 それは戦争を回避したいフランスと、戦争までの時間を稼ぎたいドイツとの、奇妙な協調関係だった。そもそも1920年代にナチは、アーリア人がスラヴ、黒人、ユダヤ人といった“劣等人種”と競うことや、自らを苦しめている連合国の選手との国際競技に反対していて、また35年のブリュッセル万博も出展をとりやめている。ヒトラーは当初、オリンピックにも万博にも関心がなかったといわれるが、ラインラント進駐やスペイン内乱のただなか、36年1月にはミュンヘン近郊で冬季オリンピックが、8月にはベルリンで夏季オリンピックが開催されている。明確な方向転換には、ドイツが他国と協調ができ、平和を愛する、信頼に足る国家であることを示し、批判の矢をかわす狙いがあった。
 とはいえあくまでそれは相手の目を欺くための擬態にすぎなかった。1936年1月、ドイツ南部の町ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは、夏のベルリン大会に先立ってオリンピック冬季大会がおこなわれたが、この町は反ユダヤ主義が渦巻く場所として知られていた。すぐ北部のオーバーアマガウでは、キリストがユダヤ人の密告によって殺される受難劇が毎年伝統行事としておこなわれている。開催の直前までガルミッシュの町なかは反ユダヤの新聞、プラカードや落書きがあふれかえり、町議会はユダヤ人を追放することを決めていた。これが全世界に報道されれば、冬季の成功に影が差すどころか、夏のオリンピックさえ不可能になるかもしれない。懸念を抱いたドイツのオリンピック組織委員の後押しで、35年12月3日にはユダヤ問題に対する掲示やポスターを撤去する総統令が出された。外国からやってきた報道記者は最新の通信設備、秘書や案内人、食事が供されるなど、さながらVIP扱いだったという(4)。国際社会は安堵した。しかしオリンピックが終わると、町にはかつてのように反ユダヤの標識が戻ってきた。同じことは、夏のベルリンでも繰り返された。
 こうした偽装は功を奏し、反対を叫ぶ一部のユダヤ人団体やマスコミを除き、ナチの支持者はフランス内にも増えていった。右翼系新聞の発行部数は、1930年代後半には左翼系のそれの2倍以上に及んだという。20年代に両国の外相アリスティード・ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマンがドイツ・フランスの融和路線を築いて以降、ドイツ・フランス間では公的なものから民間まで数多くの合同行事がおこなわれていて、友好こそがフランスにとっての確実な安全保障だという考え方も根強かった。フランスがドイツ誘致に積極的だったのも、こうした背景があったからだ。ワイマール共和国からナチ政権への変遷を目の当たりにしたフランス在ドイツ大使アンドレ・フランソワ=ポンセは、36年から37年にかけてドイツ・フランス間でおこなわれた数々の友好イベントを、「軽食やお菓子が供される幕間の休憩時間」で、そのあとに「悲劇が再開された(5)」と述べている。草の根レべルでの交流は政治的な決定には影響を及ぼさず、結果的に戦争へ向けてのつなぎにしかならなかった。
 ドイツの万博参加をめぐるパリの万博委員会とナチとの交渉プロセスは、両者の同床異夢ぶりを見事に示している。参加についてのドイツ側の具体策の協議は、すでに1934年4月には始まっていた。フランスからの正式な招待が届くのは同年12月のことで、その後パリのドイツ大使館、外務省、経済省などナチの複数のチャンネルを通じて、ベルリン・オリンピックへのフランスの参加と引き換えにドイツ出展を促すなどの駆け引きがおこなわれた。その際、最も大きな懸案事項は費用だった。当初、参加外国館に対して支出されるフランス側の補助金は1平方メートルあたり600フラン、割り当て面積上限が1,000平方メートルだったので、60万フランが総額の上限だった。一方、ドイツがパビリオン建設に求めた予算は2,000万フラン。フランス産業省はこれに対し、2国間で結んだ特別な貿易決済システムを使い、いわば迂回するかたちで毎月150万フランを10カ月にわたってドイツに送金することを決め、さらに不足分はパリ万博会場の設営材をドイツから購入することでまかなおうとした。万博の目玉、「光の祭典」の高価なアトラクション設備もまたドイツ製だったのである。
 ブルム政権下でおこなわれたデノミネーションは、こうした費用をさらに押し上げた。ドイツはフランス側の建築主任をドイツに招いてさまざまな援助を引き出し、それでも不足とわかると今度は万博委員会に接近した。2国間決済システムを通じた送金は200万フランに引き上げられ、フランス企業が手掛けるはずだった会場設備や資材を用意する仕事もドイツに渡った。国内企業から上がった不満の声に対する建築部門長の答えは、週40時間労働とたび重なるストライキによって、フランスには設営を完遂する力がない、というものだった。ドイツの要求を黙認し続けた結果、ドイツ出展の費用の多くが、フランス側から引き出されたのだった(6)。
 ナチが政権をとって以降、多くのユダヤ人や左翼活動家がフランスに亡命していたが、これに対する万博委員会の対応も、ナチにとってまことに都合がいいものだった。1937年1月、フランスの亡命者たちが発行する新聞「新日記」で、トーマス・マンが亡命左翼とユダヤ人たちにパリ万博出展を呼びかけた。これに対するドイツ側の激しい反発を受けて万博委員会は、そのような計画は関知していないし、ドイツ出身者の万博の参加はドイツ本国との公式ルートを通さないかぎり許可しない、と答えた。首相のブルムがユダヤ系だったにもかかわらず、である。ドイツの参加を最優先したい主催者にとって、亡命左翼もユダヤ人も騒擾要因でしかなかったのだろう。
 この数カ月後には、ドイツ出身のアーティストに対しても、たとえそれがフランスの出展部門だろうと、公式ルートの許可なしには作品を展示することはできないという制限が課された(7)。「現代生活における芸術と技術」をテーマに掲げたこの博覧会では、ラウル・デュフィが電気館に巨大壁画『電気の精』を制作したのをはじめ、フェルナン・レジェやロベール・ドローネーというフランスのモダニズム画家たちが展示会場を飾っている。一方ドイツ国内では、ナチの政権奪取後から、各地の美術館でビルダーシュトゥルム(絵画嵐)と呼ばれるモダニズム絵画排斥運動が激化し、前衛画家たちは次々と要職を解かれ、亡命を余儀なくされた。そうしたアーティストたちは、また万博でも参加の機会を奪われたのである。これが左派政権下でおこなわれた万博の実態だった。

ドイツ館とその展示内容

 パリ万博でのドイツの出展はナチ体制が参加した唯一の万博だが、フランス側の全面協力もあって、その内容は極めて多岐にわたり、ヒトラーのもとで“花開いた”文化や産業のショーウインドーの役割を果たした。内容は人文・思想、社会問題、芸術・技術教育、都市建築、美術など14ジャンル114クラスに分類されていて、メインパビリオンであるドイツ館を中心に、国際館(鉄・ガラス・プラスチックなどの加工技術から家具・文房具・繊維品といった日用品などを展示)、新装なったトロカデロ/シャイヨー宮(図書館学や記念碑保存についての展示)、近代美術館で展示がおこなわれたほか、旅行館、鉄道館、安全館(国家財や国民の健康の保全に関する展示)、教育館(教材などを展示)、広報館、プレス館、皮革製品館、版画・彫刻館などに加え、水上スポーツに関連した帆走ヨット館にも参加している。
 なかでも最大のものは、アルベルト・シュペーアが設計したドイツ館(図2)である。正面には7本の列柱に支えられた高さ65メートルの塔がそびえる。塔の下部にしつらえられたエントランスを抜けると、幅19メートル、奥行き140メートル、高さ15メートルに及ぶ展示会場が開けてくる。パビリオンに向かい合って立つと、来場者はまず垂直方向に視線をはわせてその威容に圧倒され、ホールに入ると水平方向に伸びる奥行きに引き込まれる。

図2 ドイツ館

 平面図・側面図から建物と会場構成が、また展示カタログから具体的な展示内容や出品物がわかるが、会場内部の写真からもまた実際の雰囲気を感じ取ることができる。そうした写真を追っていくと、ハインリッヒ・ホフマンという名前によくぶつかる。ニュルンベルクの隣町フュルト出身のこの写真家は、第1次大戦後すぐにヒトラーと個人的な親交を結び、そのポートレートを刊行して大成功を収めた。パリ万博でも大活躍したようである。
 ホフマンはまた立体写真機を用いてパリ万博の会場を撮影し、『パリ1937年万博(8)』というタイトルのポートフォリオにまとめている。立体写真というのは左右の2つのカメラレンズから同時に撮影した写真で、視差を調整し2つの像を重ね合わせると、被写体が浮かび上がって見えてくる。慣れれば裸眼でもできるが、写真集には立体視眼鏡が付いていて、写真を所定の位置にセットして眼鏡をかけると、意識的な調整をせずに立体写真が鑑賞できる。
 写真集は「帝国写真報道家」という肩書のホフマンの写真100枚と、E・P・フランクという人物による会場散策のエッセーからなっている。ドイツ語・フランス語・英語の3カ国語で掲載されたこのエッセーの著者は、パリ在住というほかに詳細は不明だが、テキストを片手に各館の立体写真を眺めていくと、バーチャルな万博旅行を楽しんだ気分になった。その印象は暗雲立ち込める大戦前の国際関係を反映したようなものでは全くなく、主要国が力を入れたパビリオンを通じて、世界各国のさまざまな生活や文化、食事を楽しんで回る、現代の万博と基本的にはさして変わらないものだった。
 写真集ではほとんどのパビリオンが1枚で紹介されているのに対し、ドイツ関連の展示には多くの枚数が割かれている。国際館のドイツ部門を写したものが2枚。ドイツ館とともにケルン館(直前になって市として特別出展した)を写したものが1枚。後者の奥に写り込んでいるシャイヨー宮はまだ建設途中で足場が組まれていて、これらの写真がオープニング後の早い時期に撮影されたとわかる。さらにドイツ館の外観や会場内を写した写真が17枚ほど続く。写真集をもとに公式カタログ(9)やフィス、ジゲル(10)らの先行研究の情報を加えながら、約80年前の展示会場を歩いてみることにしよう。
 ドイツ館は、エッフェル塔からイエナ橋を渡ってセーヌ川を越えたすぐの場所に、川に沿ったかたちでソ連館と向かい合って立っていた。鉤十字の紋章をつかんだ鷲を頂く長い塔の下に立つと、エントランスへと続く正面階段と、その両脇に設置された群像彫刻が来場者を出迎える。これはヨゼフ・トーラクの『友情』『家族』で、左側の『友情』は2人の男ががっちりと握手する後ろに女が立ち、右側の『家族』では男女のペアの背後に女性が、いずれも三角形の安定した構図を成すように立っている。力強い体躯をもった裸身像である。階段を上り柱を抜けると、正面扉の前のホワイエにあたるところに、ゲオルグ・コルベの『受胎告知の精霊』が置かれている。柔和な曲線美をもった裸体の女性像で、右手を脇に突き出し、左手は頭の上に掲げ、巨大な石の台座の上で片膝をついている。トーラクもコルベもナチ時代の代表的な彫刻家だ。ホフマンのポートフォリオには、この広間から後ろを振り返ったショットもあって、向かいのソ連館の屋上に設置されたヴェラ・ムーヒナの『労働者とコルホーズの女性』が、ちょうど柱によって額縁に収められたように写っている。来場者はこれらの建築や彫刻がもつ壮大なスケール感に、古典古代へとタイムスリップするような感覚を味わったにちがいない。
 ホワイエの向こうには3枚の扉が並び、ここを通って本会場に入る。内部はブレーメンの内装建築の専門家ヴォルデマール・ブリンクマンが担当した。観客は建築マケット・総統の建築のモデル(後述)の出迎えを受け、その奥の細長い展示スペースへと入っていく(図3)。光は天井に設置された窓からとられ、ほかに8本の置き型ランプ、それぞれが3トンもある12個の豪華なシャンデリア、さらに24の壁付け型ランプが会場を照らし出した。側面壁には一定の間隔に沿って柱が立ち、その間にドイツの国内の様子を描いた絵画が掲げられている。

図3 ドイツ館内部

 細長いホールには左右2列に一定間隔で展示ケースが設置され、陶器、革製品、化学繊維、防虫剤などの化学製品といったこまごまとした日用品から、宝石やハンドバックなどの装飾品、楽器や書籍、さらには伝統産業としてのおもちゃや人形も展示されていた。実演制作もおこなわれ、職人がガラス管を熱して器用に曲げ、ガラス細工を作り出すと観客から大きな拍手が起こったという。これらの工芸品はそのまま販売された。
オシログラフやレントゲンをはじめとする機械製品、ツァイス社、アグファ社などの光学製品も最先端の技術力を示すものとして展示され、その結晶として、会場の中心線に沿ってツァイス社の望遠鏡、世界記録をたたき出したメルセデス・ベンツのスポーツカー、蒸気機関やツェッペリン社のモーターといった大型機器が並べられた。
 次に絵画を見ていこう。入口にいちばん近いところ、総統の建築のモデルが置かれた両側の壁面に向かい合って掲げられたのはマックス・シュヴァルツァーの連作モザイク画『労働』と『歓喜力』で、『労働』では、それぞれ槌、シャベル、歯車とシャフト、縄とのこぎりを持った4人の男たちが台座の上に立っている。いずれも上半身裸で、その肉体は厚い胸板と隆起する筋肉に覆われている。一方、『歓喜力』は同じ構図で4人の女性を描いている。両端の女性は円盤とタンバリンを持ち、古代ギリシャの競技を連想させる。中央の2人のうち1人はギターを持ち、もう1人は腰にブーケを着け、手に杖を持って、ハイキングのいでたちである。
 タイトルの『歓喜力Kraft durch Freude』は、ナチのレジャー促進組織の名称でもある。ナチはアウトバーンの建設や再軍備によって新たな労働市場を創出し、この時期には完全雇用を達成、国民の強力な支持を取り付けていた。しかし戦争準備が進むにつれ、労働は過酷になっていったといわれる。歓喜力行団は、国民にスポーツや音楽、イベント、旅行などを提供することで、レジャーを管理して不満を解消し、国民をまとめ上げるという役割を担っていた。
 この個所を通り一定間隔に置かれた柱の間に展示されていた絵画は、フォーマットが同一なのでドイツ館の展示を前提として制作されたものだろう。E・P・フランクのエッセーによれば、「風景、都市、産業的もしくは歴史的意義をもった出来事、重要な公共労働」などをテーマにしたもので、バイロイト音楽祭を描いた絵画は楽器の展示の近くに掲げられるなど、展示品との関連も配慮されていた。同定されている作品は、優れた指導者のもと躍動する国家の力と一致団結した国民の姿を伝えている。ヴォルフ・パニッツァの『雪の中のアウトバーン交差路』は雪に覆われた大地からアウトバーンがくっきりと浮かび上がっている。フリッツ・ヤコブセンはクルップ社の鉄工場、ロイナの化学工場や総合燃料プラントを描き、活力を取り戻しつつある重工業を表象した。エーリッヒ・メルカーは光の聖堂 Lichtdom(後述)の脇を歩くニュルンベルク党大会のヒトラーを描いた。主題としてはいずれも引き伸ばし写真で代用できるような内容なので、ナチの芸術に対する独特な考え方が表れているともいえる。
 展示会場を一通り歩いていくと、会場のいちばん奥まったところが一段高くなり、礼拝堂の内陣のようになっている。階段を上ると、そこにはオープンになったばかりのミュンヘンの芸術の家(後述)のマケットが、神体か何かのように設置されていて、後部正面の窓には巨大な鉤十字と鷲をあしらったステンドグラスが埋め込まれていた。このステンドグラスはベルリンのアウグスト・ヴァーグナーの工房で制作されたもので、広げられた鷲の翼の下には労働に従事する4人の男が描かれ、また下3分の1には各地の紋章がはめ込まれた。同じ鷲と鉤十字のモザイク画が入口の3枚扉の上部にも設置されていて、最後の区画にたどり着いた鑑賞者が帰ろうとして後ろを向くと、140メートル離れた向かいの壁にもう一度、ナチのシンボルを発見するという仕掛けになっていた。
 この階段上部の左右の壁面には大きな群像画も掲げられていた。ルドルフ・ヘングステンベルクの油彩画『同志』は、大きなテーブルの上で設計図を開く建築家の周りにのこぎりや槌を持った労働者が集い、背後には団結して木造建造物の建設に取り組む男達が見える。向かいに掲げられたもう1枚は、1936年12月に帝国造形美術院総裁に就任したばかりのアドルフ・ツィーグラーの『四元素』の構図を元に作られたタペストリーである。原作は三幅対の大きな油彩画で、火、土、水、風を表す4人の裸婦が新古典主義調のタッチで描かれている。ミュンヘンの総統官邸に掲げられ、「大ドイツ芸術展」のオープニングにも展示された作品で、美学的にもその描かれている内容でも、ナチの芸術理念を代表する例と見なされていた(11)。
 先端技術と、伝統や共同体との強い結び付きを思わせる復古的なスタイルとの奇妙なアマルガムが、ドイツ館から受ける印象である。流線形のスポーツカー、最新型の天体望遠鏡やエンジンが展示される一方で、古典主義的な人体彫刻にはじまり、フレスコ画、モザイク、ステンドグラスなど、技法のレベルから古典古代を思わせる表象が混在している。そうした異質なもののミックスを最も強く感じさせるのが、展示会場の最奥部だ。階段を上れば荘厳ささえ感じさせる祭壇のような場所に至るが、下りれば上映室へと続き、テレフンケン社が開発した高性能テレビ装置(走査線数375本、50枚/秒)を用いて、映画や野外公演が放映されていた。
 ラジオは1920年代から一般的な情報網として普及し始めるが、テレビもその頃から実験放送が各国でおこなわれていて、30年代になると徐々に実用段階に入ってくる。オリンピックや万博はそうした最新技術の格好のお披露目の場になった。日本では23年に浜松口頭工業学校の高柳健次郎が開発に着手し、26年には電子式ブラウン管テレビ上に「イ」の字を映し出す送受信実験を世界に先駆けて成功させた。34年にはソ連出身のウラジーミル・ツヴォルキンがアメリカでアイコノスコープ(撮像管)を実用化させる。その技術はドイツでさらに改良を加えられていく。
 もともとドイツでは1929年から帝国郵便の旗振りでテレビ放送が試験的におこなわれ、パリ万博の2年前からはベルリン市内に設置されたテレビ塔で2つの放送局が映像配信を始めている。それは放送展示会などを通じ発展していくが、なんといっても36年のベルリン・オリンピックが果たした役割が大きい。市内各所に設置された受像機から流れる映像を、人々は無料で見ることができた。このときに用いられた受信機は走査線数180本、25枚/秒という解像度だったので、翌年のパリ万博で大きく進歩していることがわかる。
 またテレビ電話システムの開発も進められ、ドイツ館ではこの体験ブースも設けられた。わずかに間をおいて設置された2つのブースには電話機とテレビ画面が設置され、2人の訪問者が交わすやりとりとその画面を、観客は同時に眺めることができたのである(12)。
 ちなみに日本でも、東京万博、オリンピックに向けてテレビ開発は進められていて、高柳はNHK技術研究所に招かれ、走査線本数441本、25枚/秒という性能のテレビ放送を標準として実用化が図られた。オリンピックや万博が返上や中止になるなか、研究自体も1941年には中止されているが(13)、世界的イベントが技術の競争と普及に与えるインパクトの大きさがよくわかるエピソードだ。ナチの大衆操作でも、ラジオやテレビは決定的な役割を果たしている。
 さて、鑑賞を終えた観客は再びエントランスにまで引き返すが、その両脇には階段が、高い塔を支える柱の内部にはエレベーターが設置されていて、上ると屋上テラスに出る。ここは憩いと癒しのスペースで、花壇に日よけのための植物棚やパラソルがしつらえられるなか、提供されたグラフ雑誌を片手に人々はリクライニング・シートに寝そべってくつろぎ、レストランやバーではドイツ料理に舌鼓を打った。テラスには旅行ポスターが張り出され、観るものを旅情へ誘った。

そのほかの展示や催し

 この時代、旅行は有力な外貨獲得のための手段だった。実際に公式カタログ巻末には、出展した企業の広告に交じり、都市や観光局の広報が多いのが目につく。デュッセルドルフ(この年の秋に開かれる産業博の広報)、ライン川下り、ベルリン、ダルムシュタット、エッセン、バーデン・バーデン、ドレスデン……。ニュルンベルクは落成なったツェッペリン広場の党大会会場の柱廊をあしらった一面広告を打っている。小さい枠の広告も合わせると、相当な数の都市が自らの魅力を、多くはドイツ語・フランス語・英語3カ国語でアピールしている。
 また帝国鉄道もドイツ館に加え、旅行館や旧アンヴァリッド駅に設置された鉄道館にも出展した。展示パンフレットには、電気式の特急からディーゼルエンジンや連絡系統に関する最新設備が紹介され、最終ページは石炭式車両と煙突がない新型車両を上下に並べ「ドイツ鉄道100周年」という言葉で締めくくっている(14)。
 アトラクション公園にはプラネタリウムを設置し、人体の解剖学的モデルであるグラス・マンを展示した。宇宙と、その対極のミクロコスモスを対比させるという意図だろう。グラス・マンといってもガラスでできているわけではなく、透明なプラスチック素材を用いているのだが、両手を広げて天を仰ぐマネキンの皮膚や筋肉組織は透明で、骨格、神経系、内臓、血管が透けて見える。もともと1930年にドレスデンの衛生美術館で制作されたあと、各国に輸出されるほど好評だった。プラネタリウムもグラス・マンもパリ万博で最も来場者数の多いアトラクションとなった(15)。
 ところで、現在でも万博では日や期間を区切って特定の国に焦点を合わせた催しがおこなわれているが、37年パリ万博でも国際芸術フェスティバルと銘打たれ、イギリス、スイス、パレスチナが独自の「芸術週間」を開いたのを筆頭に、ソ連もゴーリキー劇場の引っ越し公演をおこなうなど、世界各地の有名オーケストラや劇場、バレエ団がこぞってパリの土を踏んだ。音楽に加え劇作品も加わったことで、バラエティーも豊かになった。
 なかでも質量ともに群を抜いていたのはドイツの芸術週間だった。9月3日から13日にかけておこなわれたプログラムは、まず映画、ダンス、ポピュラーも含めたリーダーアーベントが一夜ずつおこなわれたあと、6日からはベルリン国立歌劇場によるオペラ『ばらの騎士』『ヴァルキューレ』『トリスタンとイゾルデ』『ナクソス島のアリアドネ』、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『交響曲第9番』の上演がおこなわれた。『ばらの騎士』『ナクソス島』は作曲者であるリヒャルト・シュトラウスがタクトをとり、リヒャルト・ワーグナーの2作はバイロイト音楽祭で制作された新演出が採用された。これはナチ体制下で音楽界に君臨していた指揮者でもあるハインツ・ティーティエンによるもので、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・エルメンドルフといった人気指揮者も参加する、総力を挙げての引っ越し公演だった(16)。自主運営組織だったベルリン・フィルが、ナチの政権掌握後国有化され、プロパガンダの先兵として主要なイベントや演奏旅行に送り出されていたとことは、近年かなり紹介が進んだが、オペラもその例に漏れなかったわけである。
 芸術面についてさらに見ていこう。ドイツ館に掲げられた絵画は、国土や国民の活動を示すために制作されたものだったが、版画・彫刻館ではドイツ絵画が体系的に展示された。ドイツ館に『四元素』を展示したツィーグラーは、版画・彫刻館でおこなわれた造形美術グループ・ドイツ部門の展示カタログにも帝国美術院総裁として巻頭言を寄せている。
 ツィーグラーはドイツ絵画の伝統を古代や中世までさかのぼってことほぐことから始め、「ここ数年、これほど多くの驚くべき創造を可能にしたドイツの文化保護のしばしば誤解されている秘密は、ある民族の創造的本質が花開いていて、そしてそれは、正しく語りかけられればどんな時代にあっても作用し始めるのだ、という認識にある。このような語りかけが成功し、作用し始めているのだ。だから当然のことながら、ドイツでの新しい基本的な生の諸潮流のもとでは、いわゆる芸術のトレンドとか、あれやこれやの知的イズムなどはもはや存在しないし、存在しえない。こうした古くさいものさしで新しいドイツ芸術を測ろうとすれば、過ちを犯すことになるだろう(17)」。そうしてドイツ芸術の開花をもたらした偉大なる庇護者として、アドルフ・ヒトラーの名前を挙げるのである。
 この展覧会には絵画19点、版画45点を中心に、彫刻、硬貨、メダルなどが展示されていた。私見だが、ツィーグラーが「同時代の最良の創作」と呼んだその内容は、カタログに掲載されている作品から推測するかぎり、いずれもドイツの伝統にのっとっているという以上に、デューラーやホルバインの肖像画、ブリューゲルの風刺画、さらには主題こそ穏当なものになっているが表現主義や新即物主義のスタイルまで、発想元が透けて見える亜流の焼き直しばかりである。ヒトラーが芸術に大きな関心を寄せていたのは事実だとしても、3年や4年で新しいスタイルができあがるわけがない。ツィーグラーが非難した「芸術のトレンド」「知的イズム」とは、退廃芸術展に至る流れのなかで息を止められた前衛芸術を指しているが、「創造的本質」という言葉のもと提示されたのは、単なる過去の反復であり、そこには彼らが忌避したスタイルが含まれているようにさえ見える。
 ヒトラーが直接関わったプロジェクトには、その審美意識が比較的はっきりと表れているが、ナチの芸術政策を全体として見ると、一貫性を欠いた場当たり的なところも多く、統一的な基準を見いだすことは難しい(例えばヨーゼフ・ゲッベルスは表現主義を肯定的にとらえていた)。そのことが最もよく表れたのが、ツィーグラーを中心に組織された「ドイツ大芸術展」である。これはパリ万博開催中に落成したミュンヘンの芸術の家(そのマケットがドイツ館最奥部に展示された)で1937年以降開催された展覧会で、ワイマール時代の絵画潮流の克服を目標に、現存のドイツ画家たちから広く公募されたものだった。
 展覧会場の事前視察でヒトラーは、しかしツィーグラーらの審査によって選ばれた作品80点あまりを自らの手でとりはずしたといわれている。そこには急進的な傾向をもった作品が含まれていたからだろう。結果、19世紀の牧歌的風景画や農民の肖像画、また筋骨隆々とした男性像、優美な裸身を献身的に差し出すポーズの裸婦像などが主たるテーマになり、1944年の第8回までの主なトレンドを規定することになる(18)。
 パリ万博のオープニングにヒトラーは代理人を送っているので、版画・彫刻館のセレクションは見ていないはずで、そこには人によって異なるちぐはぐな〈好み〉も表れていたといえそうだ。

ヒトラーとシュペーア

 次にドイツ館の建設プロセスについてみていこう。設計はシュペーアの手になるとはいえ、そこにはヒトラーの意向も強くはたらいていた。これはヒトラーとシュペーアが残した一連の仕事のなかで理解されるべきものだ。
 1934年の段階で招待がありドイツ側も検討はしていたにもかかわらず、ようやく開催前年の10月になってから正式参加が表明されたが、これはヒトラーが当初のドイツ館のプランに満足しなかったためで、結局その役はシュペーアに回ってきた。彼はパリ事前視察旅行の際、極秘となっているソ連館のプランが展示されている部屋に偶然迷い込み、その群像を超える高さの塔のデザインに思い至ったと述べている(19)。もっともシュペーアのコレクションにはフランス語で表記されたソ連館のスケッチが残されているため、シュペーアはフランス人の協力者(外国館の建設にはフランス人建築家の参加が必須条件だった)からソ連館の情報を手に入れたのではないかと、フィスは疑義を投げている(20)。いずれにしてもシュペーアは36年8月に設計を打診されたあと、9月にパリに飛び、10月にヒトラーが正式受諾にゴーサインを出す、というかなり急なスケジュールでことは動いていった。
 この急展開はシュペーアに対するヒトラーの厚い信任を裏付けている。政権掌握当時、総統官邸や芸術の家などの主要なプランを任されていた建築家パウル・トローストが1934年に没すると、ベルリンの官邸改装で評価を得ていたシュペーアが党主任建築家に登用される。もともと芸術家志望だったヒトラーは、シュペーアの建築だけでなくその人柄にも魅了されたようで、その後のナチの大きなプロジェクトで彼は中心的な役割を担っていく。
 シュペーアの名声を高めることになった最初の仕事は、1934年にニュルンベルクでおこなわれた第6回ナチ党大会である。この年の6月にはヒトラーが親衛隊を使って突撃隊幹部たちを虐殺する、いわゆるレーム粛清事件が起こっている。大統領と首相を兼務することでドイツの全権を掌握した直後のこの党大会には国防軍も参加し、国家のオーセンシティーによって血なまぐさく不穏な空気はぬぐわれていった。シュペーアは会場演出に忙しく立ち回り、その様子はレニ・リーフェンシュタール監督の『意思の勝利』(1935年)に記録された。“真正なドキュメンタリー”といううたい文句とは裏腹に、この映画では巧みな編集によってヒトラーのカリスマ化が図られている(21)。統率がとれたナチ党員と、それを熱狂的に迎える市民の姿をとらえた『意思の勝利』は、優れたカメラワークと映像美から国際的にも大きな反響を呼び、ベネチア・ビエンナーレに続きパリ万博でもグランプリを受賞した。
 1934年の党大会の終了後、シュペーアは11平方キロメートルに及ぶニュルンベルク党大会会場の総合プランニングを任されることになる。ドゥツェント湖を中心としたこの一帯は19世紀から都市近郊の憩いの場としてにぎわい、20世紀に入るとバイエルンの摂政王子ルイトポルトの名にちなんだ公園や動物園、工場なども作られた。第1次大戦後には戦没者慰霊堂や巨大なスタジアムが建設されている。33年にはドツェント湖の北西に5万人を収容できるコングレスホールの建設計画も決定していた(設計はルートヴィヒ・ルフによる)。
 シュペーアが描いた会場案は次のようなものだ。慰霊所が置かれた北側の広場ルイトポルトハインは、ヒトラーの政権掌握後から整備が始められ、すでに党大会のメイン会場になっていたが、そこから幅60メートル、長さ2キロの直線の大通りがゲレンデを貫いた。6万枚の花こう岩を敷き詰めたこの通りは、旧市街地の中心に向けて伸びることで、中世と現代のニュルンベルクをシンボリックに結び付けることが意図された。通りの東側、飛行船ツェッペリン号が着陸したことにちなんでつけられたツェッペリン広場には、ギリシャ・ペルガモン祭壇を範にしたトリビューネ(閲覧所)を設置。また通りの東南端には955×610メートルという広大な演習場が設置される。軍神マルスの名前にちなんだこのメルツフェルト(3月広場)は、24本の塔によって囲まれ、25万人を収容できるという巨大なものだった。さらに大通りの南東部には、40万人を収容する世界最大のドイツ・スタジアムが建設されることになっていた(22)。
ニュルンベルクの党大会会場建設計画は、パリ万博のドイツ館ともつながりをもっている。ドイツ館の訪問客が7本の柱廊からなるエントランスを通り、本会場に足を踏み入れたとき、真っ先に目にすることになるのが、この党大会ゲレンデのマケットだった(総統の建築のモデル)。広大な敷地の模型が置かれた区画には、前述のシュヴァルツァー作のモザイク画『歓喜』『労働』が掲げられていた。これらが一体化されることで、観客の脳裏に「ナチ党の指導のもと一致団結した国民の幸せな労働と生活」というイメージが生み出されることになる。
 すでに述べたように、細長い本会場の奥の一段高くなった部分には、トローストが設計し、ちょうどこの時期に竣工した芸術の家のマケットが設置されていた。つまりドイツ館の展示はヒトラーが愛した建築に始まって終わっているのである。
 もう一つ、見逃せないのが夜間ライトアップである。万博で電気を用いた演出が初めておこなわれたのは1889年のパリ万博といわれている。この年に竣工したエッフェル塔をサーチライトで照らし出して以来、光によるショーアップは観客動員のための不可欠なエレメントと化し、1937年の万博では音や水を連動させた総合芸術「光の祭典」へと結実する。フランスの万博組織委員会がとりわけ力を入れたこの祭典のために、木々や地面、エッフェル塔に設置されたスピーカー、さらにはセーヌ川に設けられた噴水からも音が出て、一帯を包括するサウンド・システムが構築された。フランスを代表する18人の作曲家の手になる音楽がこのシステムを通じて流れ、花火やイルミネーション、噴水と連動するという大掛かりなイベントは、平均20万人近い来場者を集めたという(23)。それは夜間であるがゆえに「現代生活における芸術と技術」という万博のテーマを十全に体現しえた、シンボリカルなものだった。
華やかな夜のイベントを楽しむ観客の背後で、各国もまた自国パビリオンに光の演出を施した。ドイツ館はエントランスを内側から照らし出したが、こうすると水平に伸びた後部のメイン展示会場が闇に沈み、垂直に伸びるエントランスの塔部分だけが浮かび上がる。それだけではない。暗闇では塔の柱とその間隙が逆転し、柱の間の空間が光の筋となって浮かび上がる。これもシュペーアが得意とする空間演出だった。
 それはのちに光の聖堂Lichtdomと呼ばれるもので、1936年の党大会の際にツェッペリン広場を152台の軍用の投光器を用いて演出したのが始まりだった(図4)。第1次大戦中に開発されたフラック投光器は、この時期には改良されて12キロから15キロの射程を誇った。ゲーリングは防空が手薄になるとサーチライトの使用に難色を示したが、ヒトラーは逆にそれだけ集めれば敵はひるむだろうと答えた。シュペーアは回想する。「12メートル間隔で飛行場の周囲に並べられた130台の鋭い光線は、6,000ないし8,000メートルの上空に達し、そこに一面の淡い光の海を作った。それぞれの光線が夢幻に高くそびえ立つ外壁の列柱となっている一戸の巨大な空間という感じだった。ときどきこの光の束の中を雲が通り過ぎると、壮大な光景にシュールレアリスム的非現実感を添えた(24)」。

図4 光の聖堂

 ドイツ館のライトアップは、光の聖堂の一種のバリエーションといえる。もっとも夜間の万博会場で最も目立ったのはドイツ館ではなかったし、サーチライトの使用はシュペーアの創出でもなかったようだ。セーヌ川の反対側に立つエッフェル塔は30台から40台のサーチライトによってトリコロールの色に染め上げられ、海を渡ってル・アーヴル港に入港した旅行客もその光を見ることができたという。万博の広報雑誌やドイツ国内を走ったトレイン・エクスポには、開催のかなり前から投光器によってライトアップされたエッフェル塔の様子が掲載されていた(25)。

ゲルマニア計画とその影響

 とはいえ、党大会ゲレンデとパリ万博のドイツ館(この建築はソ連館とともに金賞を受賞した)の相次ぐ成功によって、シュペーアはいまや押しも押されぬ党の顔となった。ヒトラーはいよいよこの建築家に積年の夢であるベルリンの都市改造、ゲルマニア計画を託す。
 1938年に発表されたプランは次のようなものだ。現在のフリードリヒ通りを整備して南北を走る幅156メートルの巨大幹線道路にする一方、市内中心部を占めるティアガルテン公園を突き抜けて走る東西道路(6月17日通り)をウンター・デン・リンデンに向けて東に延ばす。直交する南北・東西の道路を、環状道路であるアウトバーンが囲む。核となる南北道路の北端には15万人を収容する巨大なドーム、その周辺には官庁街が配され、そこから凱旋門を経て南駅へと続き、その先に住宅地が置かれることになっていた(26)。
 ゲルマニア計画はナチの都市改造計画のなかでも最重要かつ最大のものである。ヒトラーは1933年の芸術の家定礎式で、ベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ブレーメン、ライプツィヒ、ケルン、エッセン、ケムニッツの8都市の改造を宣言、さらに40年にはベルリン、ハンブルク、ニュルンベルク、ミュンヘン、リンツの5都市を総統都市に指定して、優先的に改造をおこなおうとした。37年にはベルリンの都市改造のために帝国首都総監督という役職が設けられ、シュペーアが任命される。これは総統直属の役職で、独立して計画を進める極めて強い権限をもっていた。すでにヒトラーは計画の基本骨子を決め部局との折衝をおこなっていたので、個々のエレメントの検討と設計というのが総監督の主な役割だった(27)。
 シュペーアの役は補佐的なものだったとはいえ、それだけでも作業は膨大である。モニュメントの意匠の細部にわたるまで、ヒトラーの満足のいく仕上げにしなければならない。彫刻家アルノ・ブレーカーはオリンピック・スタジアム敷地内の彫刻で銀賞を得て以来、ナチの中心的なアーティストとなるが、回顧録によると、総統官邸の中庭に設置する彫像を皮切りに、南北幹線道路の円形広場の噴水を彩る彫刻など、短期間に“途方もない量”の注文がシュペーアから降ってきたという。ちなみにこの噴水のためにブレーカーが選んだのは、4頭立ての二輪馬車を駆って水面から駆け上がるアポロンで、実在する10種競技のドイツ人選手をモデルにしたものだった。
 ブレーカーは書いている。「私の計画は全て、ヒトラーの承認を得ていた。計画の審美面、形式面であれ、主題の選択であれ、命令的な指示は私には一切なかった。(略)従わなければならなかったただ一つの要請といえば、都市ベルリンの刷新にひたすら一身を捧げてほしいということだった(28)」。総統直轄のプロジェクトに関しては、ヒトラーの趣味はアーティストの選択を通じて反映されていたといえるだろう。ヒトラーのトップダウン方式がよく表れているエピソードである。
 第2次大戦が始まってからもこの計画には莫大な予算が投じられたが、さらに意外なところ――枢軸国として共闘していたイタリア・ファシズムの都市計画エウルにも影響を及ぼしていく。
 一党独裁体制を先に敷いていたファシスト党から、ナチはプロパガンダの手法や国民動員のための体制作りなど多くの手法を取り入れた。ヒトラー・ユーゲントはイタリアの少年団バリラを、歓喜力行団はリクリエーション組織・ドーポラボーロを範に仰いでいたし、文化活動の国家による一元化もイタリアに先例があった。
 1930年代半ば、ナチの体制が整ってくるにつれ、こうした一方的な影響関係が変わってくる。そのメルクマールとなるのが、37年9月、ベニート・ムッソリーニのベルリン訪問である。ムッソリーニはエウルの建設計画にゴーサインを出したばかりだったが、ベルリン訪問の際に都市改造計画を目にし、本質的な変更を考えるようになったという(29)。最終計画案の詳細は本連載の鯖江秀樹の論文に譲るが、万博をきっかけにしたこの新都市エウルもまた、中心となる道路を軸に、古典様式の建物をシンメトリカルに配した中心部を環状道路が取り囲む。こうした基本構想は、ベルリンの計画案とある程度の関連性をもっている。
 エウルの設計に力をもっていたマルチェッロ・ピアチェンティーニはシュペーアと情報を交換していただけでなく、ムッソリーニもヒトラーと個人的なコンタクトをもっていた。ドイツは出展を直前まで渋ったパリ万博とは対照的に、1938年10月にはローマ万博への参加を表明し、ドイツ館の計画案も公開した。それは列柱に囲まれた中庭をもつ、3つの部分からなる左右対称の建物で、万博期間が終了したのちにはイタリアでのドイツの文化・政治活動のセンターとして用いられることになっていた。ジゲルはこの案を、個々のボキャブラリーはナチ建築のものだが、全体としてはバロックの宮殿や式典建築を思わせると述べている(30)。おそらくシュペーアは、ピアチェンティーニからもエウルの全体構想に関して何らかの情報を受けていただろう。ヒトラーはローマ万博でドイツに大きなアドバンテージを与えた返礼として、都市改造後のベルリンにムッソリーニの名前を冠した広場や駅を作ると表明した(31)。

ドイツ館は何を表象したか

 こうした計画が進められる一方、ヒトラーの対外拡張政策はテンポを速めていく。1938年にはチェコスロバキアに対しスデーテン地方の割譲を要求。戦争準備をちらつかせて、9月のミュンヘン協定でイギリス・フランスから融和政策を引き出すことに成功した。このときには一度は踏みとどまった全面戦争も、しかし翌年のポーランド侵攻によって現実のものとなる。戦争が激化するとゲルマニアもエウルも暗礁に乗り上げ、ファシズム政権の崩壊によって計画も頓挫する。
 本章を結ぶにあたって、ドイツ館が提示していた価値とはどのようなものだったのか、もう一度考えてみたい。建築でも芸術でも、ナチ様式と呼べるようなはっきりとしたものがあったかどうかは疑わしい。例えばナチ建築は新古典主義的ではあるが、新古典主義がナチ固有のものだったとはいえない。それはイタリアはおろか、パリやワシントン、ロンドン、果てはモスクワにまで広がったスタイルだった(32)。とはいえ、ドイツ館の展示にはある種の意識が通底していたようにも思われる。それは、進歩や変化を前提とし機能を優先するモダニズムに対し、伝統や永続的な価値、永遠なるものを尊重する意識であり、そうした価値はカリスマ的な指導者のもと、優秀なテクノクラートや先端技術によって実現されるはずだという信念である。
 そのことがよく表れているのが、ヒトラーとシュペーアとの関係である。ヒトラーは確かに都市を自らの審美眼と理念に沿って構築しようとした。ベルリンの外観を、単にパリやロンドンと匹敵するように豪華に塗り替えるのではなく、動線を軸に構想することで、都市をよりダイナミックな活動の場へと変容させようとした。その中心にはヒトラーの命令一下、迅速かつ効率的に動く実行機関、テクノクラートが必要だ。と同時に、大衆を引き付け自らの影響力を行使するには壮麗さや威厳も欠かせない。まして欧州制覇のあかつきには、ベルリンはその中心都市になるのだから。ゲルマニア計画はヒトラーの思考を視覚化したものだといえる。
 シュペーアはそうした意図を着実に実行できる最高のテクノクラートだったが、ときとしてヒトラーが考えている以上のものを加えることもできた。そのことが表れているのがニュルンベルクのツェッペリン広場である。小山明は、党大会の会場、広場でもなければスタジアムでもない場所を、通常の建築の類型に当てはまらないとして、トリビューネについて「オーダー(列柱)をもった、一見古典的な建築に見えるこの建築は、しかしその構成エレメントが異常な統合の中に配列された、未知の形式の建築」で、「144本の列柱は梁以外の荷重を支えているわけでもなく、ただひたすら横に広がりながら空中を走」り、「『柱』の概念だけを漂わせながら、しかし唐突に、くさび形の桟敷と組み合わされる(33)」と述べている。ドイツ館でともに展示されたトローストの芸術の家の列柱が通常の列柱の使用の域を出ていないのに対し、ツェッペリントリビューネでは列柱というファサードの形式が観覧席に用いられることで、見るものと見られるものという関係が両義的な相に置かれるのである。
 夜になると出現した光の聖堂も、そうした発想の延長で理解できるだろう。スタジアムとも広場ともつかないこの場所は、サーチライトが生む「光の柱」によって概念の領域に移行し、聖堂はバーチャルな空間に生み出される。柱はもはや支えるべき梁さえもたない。人々が集う場で、これほどのスペクタクルはあるだろうか。それを目の当たりにしたものは興奮し熱狂し、陶酔する。これがヒトラーの統治を根底で支えた「政治の芸術化」である。
 こうした点からパリ万博のドイツ館を見てみると、面白いことに気づく。正面の塔の柱は機能の点からは奇妙なことこのうえない。この柱もまた支えるべき重量をもたず、65メートルの高さにまで引っ張り上げられている。しかし夜になり内側からライトアップされると、柱とその間隙の意味が逆転し、実在の柱は存在感を失って、合間から光の柱が現れる。党大会の演出を通じてシュペーアの実力を知悉していたヒトラーは、ドイツ館がもつこうした効果についても手応えを感じていたにちがいない。
 計画を確実に遂行する力だけではなく、インスピレーションを加えることで計画に新しい次元を付与していく。シュペーアのこうした力をこそ、ヒトラーは買っていたのではないだろうか。戦争が始まりゲルマニア計画が棚上げになったのちも、シュペーアは事故死したフリッツ・トートの後を受けて軍需大臣に抜擢されている。

 ヒトラーは自らのプロジェクトが数世紀の星霜に耐えることを夢見ていたし、シュペーアも自分の仕事を、ギリシャやローマの遺跡に接したときのような時間的遠方から顧みていたことを告白している。パリは万博を重ねるたびにその跡を組み込むかたちで相貌を変えてきたが、ナチの建築ははたして時間の試練に耐えたのだろうか。党大会会場となったニュルンベルクのゲレンデを歩きながら、そんな疑問が湧いてきた。
 外周を区切る24本の塔のうち半分ほどが完成したところで工事が中断したメルツフェルトは、戦後ニュルンベルク市の人口増に対応するために住宅地となった。1920年代に整備されたスタジアムは何度か建て替えられ、現在はサッカーチームFCニュルンベルクの本拠地となっている。基礎工事だけで中止された世界最大のドイツ・スタジアムの土台の溝には、爆撃によって生じた市内のがれきが集められ、山ができた。山と接した湖は残りの窪地に地下水が湧き出したもので、がれきから有毒物質が流れ込んでいるため遊泳は禁止されている。ツェッペリントリビューネのハーケンクロイツはアメリカ占領軍によって爆破され、60年代には老朽化が進み危険という理由で列柱部分も破壊された。現在は下部の観覧席が残るだけだが、こちらも老朽化が進み、最近も市が予算を入れて整備するかどうかという話題がメディアをにぎわせていた。
 一方、花こう岩を敷き詰めた大通りは壮大なプロジェクトの名残をとどめていた。この通りを北西に歩くと、ルフが設計したコングレスホールが見えてくる。ローマのコロッセウムを模したこのホールも表面が花こう岩で覆われていて、遠目に見るとなかなかに壮観だ。
 未完に終わったホールの一部は現在、ナチの所業を記録する博物館、そしてニュルンベルク交響楽団の本拠地として使われているが、U字型のアレーナの開口部には守衛所なども設置されておらず、内部は文字どおり工事途中で打ち捨てられた建設現場だった。足を踏み入れると、丁寧に磨かれた外観とはまるで正反対の、レンガ積みの安っぽい壁面が見えてきた。それはギリシャやローマの古代建築が見せる廃墟というよりは、うら寂しい場末の街角という形容がぴったりくる風景だった。風雪にさらされたレンガは、少し触れただけで、ぼろぼろ、ぐずぐずと指先から崩れ落ちるのだった。


(1)「万博」1937年5月号、日本万国博覧会協会(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ〕、国書刊行会、2015年、468ページ)
(2)同誌(同書634ページ)
(3)同誌(同書469ページ)
(4)デイヴィッド・クレイ・ラージ「冬季オリンピック」『ベルリン・オリンピック1936――ナチの競技』高儀進訳、白水社、2008年
(5)Karen Fiss, Grand Illusion, The University of Chicago Press, 2009, p. 1.
(6)Ibid, pp. 48-51.
(7)Ibid, p. 52.
(8)Heinrich Hoffmann (Raumbild-Aufnahmen), E. P. Frank (Text), “Die Weltausstellung Paris 1937”, Diessen am Ammersee, 1937.
(9)Der Reichskommissar für die internationale Ausstellung Paris 1937 (hrsg.): “Deutsche Abteilung”, 1937.
(10)Paul Sigel, Exponiert: Deutsche Pavillons auf Weltausstellungen, Bauwesen, 2000.
(11)関楠生『ヒトラーと退廃芸術――〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』河出書房新社、1992年、81―91ページ
(12)展示パンフレット Der Fernsehschau der deutschen Reichspost auf der internationalen Ausstellung Paris 1937, 1937.
(13)夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』原書房、2016年、152ページ
(14)展示パンフレット Die deutsche Reichsbahn auf der internationalen Ausstellung Paris 1937 (hrsg. v. der deuschen Reichsbahn), 1937.
(15)Fiss, op. cit., pp. 73-74.
(16)井上さつき「1937年パリ万博における音楽」「愛知県立芸術大学紀要」第39号、愛知県立芸術大学、2009年、7―9ページ
(17)Adolf Ziegler, “Bildende Kunst in Deutschland”, im Katalog “Internationale Ausstellung in Paris 1937, Gruppe: Bildende Kunst, Deutsche Abteilung,” 1937.
(18)関楠生「芸術選別の迷走」「大ドイツ芸術展」、前掲『ヒトラーと退廃芸術』、参照
(19)アルベルト・シュペーア『第三帝国の神殿にて――ナチス軍需相の証言』上(中公文庫)、中央公論新社、2001年、149―150ページ
(20)Fiss, op. cit., p. 60.
(21)芝健介「『意思の勝利』の虚構性」『ヒトラーのニュルンベルク――第三帝国の光と闇』(歴史文化ライブラリー)、吉川弘文館、2000年、参照
(22)会場詳細についてはニュルンベルク州文化局が開設しているサイトを参照した。各施設に関する数字はシュペーアの回想録とはかなり異なるものがあるが、ここではサイトに依拠している。“Geländeinformationssystem ehemaliges Reichsparteitagsgelände”(http://www.reichsparteitagsgelaende.de/index.htm)[2016年4月25日アクセス]
(23)前掲「1937年パリ万博における音楽」10―11ページ
(24)前掲『第三帝国の神殿にて』109ページ
(25)Anne Krauter, “Die Schriften Paul Scheerbarts und der Lichtdom von Albert Speer – ‘Das große Licht’,” Dissertation, 1997, S. 162-164. (http://www.ub.uni-heidelberg.de/archiv/4903)
(26)八束はじめ/小山明『未完の帝国――ナチス・ドイツの建築と都市』福武書店、1991年、173―174ページ
(27)同書167―168ページ
(28)アルノ・ブレーカー『パリとヒトラーと私――ナチスの彫刻家の回想』高橋洋一訳、中央公論新社、2011年、43ページ
(29)Nicola Timmermann, “Repräsentative ‘Staatsbaukunst’ im faschistischen Italien und im nationalsozialistischen Deutschland: der Einfluss der Berlin-Planung auf die EUR,” Thesis/dissertation, 2001, S. 4.
(30)Siegel, a. a. O., S. 145.
(31)Timmermann, a. a. O., S. 7.
(32)前掲『第三帝国の神殿にて』150ページ
(33)前掲『未完の帝国』206―208ページ

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はじめに 幻の紀元2600年記念万国博覧会

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

 日本では現時点までに5回の万国博覧会が開催されている。いうまでもなく、最初は1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)だが、その後も75年の沖縄国際海洋博覧会、85年の国際科学技術博覧会(つくば科学万博)、90年の国際花と緑の博覧会(花博)と続き、そして2005年には2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)が開催されたことはいまだ記憶に新しい。そして近年、大阪府の関係者が25年前後をめどに2度目の万博招致の可能性をほのめかすなど、「万博の時代は終わった」とさんざんいわれている一方で、万博への関心が再帰しつつあることは確かなようだ。

 これら5回の万博のうち、巷間の話題に上る機会が多いのは何といっても大阪万博だろう。大阪万博が開催当時としては史上最高の6,400万人以上もの観客を動員したことはいまなお語り草である。この記録的な成功には、大阪万博が東京オリンピックと並ぶ戦後復興、さらには明治100年という節目を象徴する国家的なイベントとして位置づけられたことが大きくあずかっている。黎明期の万博に参加して先進諸国との国力の差をいやというほど見せつけられた日本にとって、自らがホスト国として万博を開催し、対等の立場で先進諸国を招聘することは積年の悲願だった。しかし、それほどまでに万博が待望されていたということは、長らく万博が開催されてこなかったという歴史的事実の裏返しでもある。実際、明治近代以降の日本では、大阪万博以前に少なくとも3度、万博の開催が計画されながら流産したことがある。この話題については以前拙著『美術館の政治学(1)』でも言及したことがあるのだが、繰り返しをいとわず再度ふれてみよう。
 最初に計画されたのが「亜細亜大博覧会」である。これは、西郷隆盛の弟にして農商務大臣であった西郷従道の発案によって、1889年(明治22年)に準備中だった第3回内国勧業博覧会の規模を拡大し、国際博覧会として実施しようとしたものだが、当時の明治政府に大規模な国際博覧会の開催能力などあるはずもなく、構想はあえなく立ち消えとなった。
 次いで計画されたのが1912年(明治45年)の「日本大博覧会」である。これもまた、内国勧業博覧会の規模を拡大して国際博覧会として実施しようとしたもので、西園寺公望内閣のもと、青山から代々木一帯の会場計画や各国宛招待状の発送準備まで進んでいたものの、計画は無期延期になってしまう。日露戦争にかろうじて勝利した明治政府は、ロシアからの賠償金を万博開催資金として当て込んでいたのだが、ポーツマス条約によって賠償金なしの講和が成立した結果、資金調達のめどが立たなくなってしまったからである。
 そして3度目に計画されたのが、「幻の万博」こと「紀元2600年記念日本万国博覧会」である。これは、関東大震災からの復興と日本の国力誇示を目的に計画されたもので、紀元2600年(1940年/昭和15年)を記念する奉祝行事として京橋区(現中央区)の月島埋立地で開催されることが決定し、会場施設の建設が一部着工し、入場券が発売されるところまで進行したものの、日中戦争の長期化に伴う経済難に加え、国際連盟からの脱退による国際的孤立の結果諸外国の参加が見込めなくなり、延期(事実上の中止)へと追い込まれてしまった。本連載は、この実現を目前にして立ち消えとなった「幻の万博」の実相に迫るべく計画されたものである。
 ここで、なぜ私が紀元2600年万博の研究を思い立ったのか、その理由を簡潔に述べておこう。私と江藤光紀の2名は、2011年から14年の3年にわたって大阪万博を主に前衛芸術という観点から考察する研究をおこない、その成果をまとめた共著『大阪万博が演出した未来(2)』を出版した。大阪万博に関する書物が数多くあるなかで、前衛芸術に焦点を合わせたものはほとんどなく、その意味では同書の問題提起によって万博研究に多少なりとも貢献できたものと自負しているが、研究を進める途中で両者は、大阪万博から30年前に実現の機会を逸した「幻の万博」と多くの点で連続していることを実感したのである(1つだけ例を挙げておくと、紀元2600年万博は、公式には「中止」ではなく「延期」と発表された。そのため、正式名称を同じくする大阪万博は延期された「日本万国博覧会」の30年越しの開催と位置づけられ、かつて大量に売り出された紀元2600年万博の入場券がそのまま使用できることになり、実際に約3,000枚が使用された事実が知られている)。「次は幻の万博を研究しよう」。3年がかりの大阪万博研究が一区切りを迎えたとき、両者が新たな研究計画に合意するのにさして時間はかからなかった。
 もっとも、常識的に考えれば、紀元2600年万博の実相を明らかにすることがひどく困難なのはすぐにわかる。第一に、紀元2600年万博は準備の途中で計画が中止になってしまったため、関連施設が1つとして建設されておらず、当然現存もしていない。強いて挙げるなら計画時に月島地区で架橋された勝鬨橋がそれに相当するが、その後独自の歴史を歩んできたこの橋を万博施設として解釈することにはかなりの無理があるだろう。会場予定地だった月島周辺のフィールドワークをおこなっても、万博の遺構に出合うことはできないのだ。また万博の開催予定時から長い年月が経過した現在、当時のことを知る関係者はすでにほとんど他界しているものと推測される。歴史学の定番であるオーラルヒストリーの可能性も、最初から閉ざされているわけだ。とはいえ、方法がないわけではない。当時の開催予定地にあたる中央区では、いくつかの図書館にまたがって紀元2600年博覧会の開催準備についての資料が多数保管されていて(その資料は学術的にも価値が高いもので、2008年には中央区有形文化財に登録されている)、15年にはそれらの資料が『近代日本博覧会資料集成(3)』として出版されたので、それを参照すれば開催計画についてかなり子細に知ることが可能になる。さしあたりは、『近代日本博覧会資料集成』の読解が研究の端緒となるだろう。
 とはいえ、実際に(会期中か終了後かのいかんを問わず)国内外で複数の万博会場を訪ねて回り、多くの作品や遺構に接した経験をもつ私にしてみれば、もっぱら資料に依拠した研究手法が何とも辛気臭く、また物足りなく感じられてしまうことは事実だ。加えて、大阪万博研究のときと同様、今回も主に芸術面に焦点を合わせる予定であるだけに、当時の美術・デザインや音楽についての調査がどうしても欠かせない。そこで思いついたのが、今回も大阪万博研究のときと同様の手法を活用することだった。『大阪万博が演出した未来』で、私と江藤は協議の末に国際比較という視点を導入し、1970年の大阪万博が直近に海外で開催された万博から大きな影響を受けたのではないかとの仮説を立て、58年のブリュッセル万博と67年のモントリオール万博の現地調査をおこない、比較対象を試みた。詳細は『大阪万博が演出した未来』を参照していただきたいが、この仮説は的中し、大阪万博が直近の万博から受けた影響をいくつかの具体例を挙げて指摘することができた。これと同様の視点の導入は、紀元2600年万博研究に対しても大いに有効なものと思われる。
 いまさらいうまでもないことだが、紀元2600年万博が計画されていた当時、日本は枢軸国の一翼を担い、同じ陣営のドイツ、イタリアと友好関係にあったが、奇しくもこの3カ国はいずれも同時期に万博の開催を計画し、実現の機会を逸したという点で共通している。この共通点は格好の国際比較の対象ではないか。
 まずドイツは、1950年にベルリンにて万博の開催を計画していたことが知られている。開催予定より10年以上も早く第2次世界大戦が本格化してしまったため、開催計画が具体化することはなかったが、その構想は、ナチス政権下で実現された36年のベルリン・オリンピックや37年のパリ万博でのドイツ館の展示などを通じて、断片的に類推することが可能である(そういえば、ベルリンの次回の40年大会をめぐって、東京とローマが招致を争ったことがある。結局ローマが次々回の44年大会招致に目標を切り替え、立候補を辞退したこともあって東京大会の開催が決定したものの、このオリンピックも戦局悪化と国際的孤立が原因で「返上」を余儀なくされ、万博と同様に幻と消えた。このエピソードは、万博とオリンピックの国威発揚イベントとしての類似を如実に物語っているといえよう)。
 一方イタリアでは、1942年にローマ万博の開催が計画され、ローマ近郊の第33クアルティエーレに会場予定地であるE42(現在のEUR新都心)が整備されるなど、かなり具体的に準備が進められていたものの、やはり第2次世界大戦の戦局の悪化が理由で頓挫した。その意味では、2015年に開催にこぎ着けたミラノ万博は、イタリアにとって70年越しの悲願といえなくもない。
 この同時期のドイツとイタリアの万博計画との国際比較を通じて、紀元2600年万博の実相をより複合的に捉えることができるのではないか。また芸術面での相似と相違にもある程度迫ることができるのではないか。大雑把にいえば、それが本連載のもくろみである。とはいえ、この仮説に沿って研究を進めるには、少なくとも五カ国語(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語)の文献に目を通す必要があるなど、以前にもまして広範な視野と見識が求められるため、私と江藤の2人だけでは到底実現不可能だった。そこで、パリ万博を中心に近代の日仏交渉史を研究する寺本敬子とファシズム時代のイタリア芸術を専門とする鯖江秀樹の2人を新たなメンバーとして迎え、研究態勢の充実を図ることにした。4人の関心や専門領域はそれぞれ異なっているが、少なくともこの研究を遂行するにあたっては理想的な布陣ではないかと思っている。

 以下、本連載の構成についてごく簡単に述べておこう。
 まず第1回では、紀元2600年記念博覧会の開催計画とその背景について概観する。前述の『近代日本博覧会資料集成』には、内国勧業博覧会や海外での日本の万博参加に関与してきた関係者が組織した「博覧会倶楽部」が1929年に万博開催を求める建議書を当時の内閣に提出してから、38年に博覧会の「延期」が閣議決定されるまでのプロセスが年代順にまとめられている。『近代日本博覧会資料集成』に収録されている資料を当時の社会的背景をふまえながらさまざまな角度から詳しく紹介し、万博の開催計画の青写真を描き出すことが同回の目的である。合わせて、同じく40年に開催が決定しながら同様の理由で「返上」を余儀なくされた東京オリンピックにも注目し、2つの大規模な奉祝行事の開催準備を都市計画やインフラ整備といった観点から考察してみたい。
 第2回では、肇国記念館と美術館の展示計画に焦点を合わせる。紀元2600年万博では、会場である月島埋立地に24の展示館を建設する計画が進められていたが、このなかでも、研究の種子との兼ね合いで特に重要と考えられるのが、国史の展示を目的にした肇国記念館と美術展の開催を目的にした美術館の2つの展示館である。同回では、『近代日本博覧会資料集成』に記録されている展示計画に加え、同時期の歴史展示や美術展などを参考に幻に終わったその展示計画を類推してみようと思う。研究にあたっては、同じく幻に終わった国史館構想や戦後になって大きく装いを改めて開館した国立歴史民俗博物館、あるいは当時開催されたさまざまな奉祝美術展とその展示作品、中山文孝の図案や日名子実三と構造社の活動などが手掛かりになるだろう。
 第3回は、ベルリン・オリンピックと1937年パリ万博について考察する。ナチスは政権奪取後に国内で再軍備から戦時体制に至る準備を着実に進めていく。しかしこの間、国内向けだけでなく対外政策でも、中欧の政治的安定をアピールするために強力なプロパガンダ活動を進めた。その際、大きなアピールの場になったのが、36年のベルリン・オリンピックと、37年のパリ万博である。ここでナチスは、政治的な安定を望むと同時に共産主義の勢力伸長を恐れるフランスから、巧みに宥和策を引き出すことに成功する。同回では、ニュルンベルクのナチ党大会にはじまる一連の巨大イベントによって「政治の芸術化」をおこない、国民を熱狂的なユーフォリアへと巻き込み、また同時に諸外国を欺いて再軍備のための時間を稼いだ文化プロパガンダの方策を概観し、さらに50年のベルリン万博を招来したかもしれない首都改造計画の構想をたどっていく。
 第4回では、1942年の幻のローマ万博での幻の展示空間を考察する。現在のEUR新都心がその痕跡をとどめているが、ローマ万博会場は、偽古典的な建築が立ち並ぶ、ファシズム・イデオロギーの表象の場だった。同回では特に、(あまり研究が進んでいない)建築物の内部空間や個々の装飾モチーフに着目する。ローマ万博は、産業博というよりはむしろ、多数の美術展を擁する美の祭典として準備されつつあった。芸術を通じて権力はどのように行使されるはずだったのか。この問題を、建築家と画家の「装飾論争」、景観や文化財の保護とその活用といった文脈のなかで考察する。2015年のミラノ万博や紀元2600年万博にもふれながら、これまでとはやや違った角度から、万博の相貌を浮かび上がらせてみたい。
 第5回では、1937年に開催された、目下のところ最後のパリ万博について扱う。この万博は44カ国が参加した大規模なもので、ナチスドイツとソ連のパビリオンが向かい合って立ち、スペイン館にピカソの『ゲルニカ』が展示されるなど全般に戦時色が濃かったことに加え、日本では坂倉準三が設計した日本館パビリオンがグランプリを受賞したことによっても知られている。同回では、当時の議事録、報告書、書簡などをもとに、パリ万博を組織したフランス万博高等委員会と日本の博覧会事務局がどのような交渉によって「日本」の展示を作ったのかを明らかにすると同時に、フランス側の評価もより多角的に分析し、当時3年後の開催が計画されていた紀元2600年万博への影響を考察する。
 第6回は、1930年代の奉祝音楽と、その展開を通じて完成されていく音楽界の組織化と動員体制について考察する。音楽の分野でもこの間、イタリアのドーポラボーロやドイツの歓喜力行団などを参考にしながら、翼賛体制は国民の余暇活動にまで及んでいく。紀元2600年についても奉祝行事が数多く企画・開催され、外交ルートで各国の著名作曲家たちに新しい管弦楽曲が委嘱されたほか、国内でも奉祝曲をめぐるコンクールや作品発表演奏会が開催されるなどの興味深い出来事があった。こうした行事を通じて、音楽が体制強化にどのように作用し、万博とどのようにつながっていこうとしたのかを考察する。
 第7回は、満州へと焦点を合わせる。中国やソ連との関係が緊張感を増した1930年代、満州を生命線と見なす日本は、20世紀初頭に滅亡した清朝最後の皇帝溥儀を担いで満州国という傀儡国家を建国し、かの地で大規模な移民政策や都市開発をおこなった。「王道楽土」や「五族協和」という満州国のスローガンは万博の理念とも通底しているし、また万博会場がつかの間の未来都市であるとすれば、当時の満州はそのスケールアップ版とでもいうべき側面を有していた。芸術においても満州国美術展覧会(満展)や満州映画協会(満映)による実験的表現が数多く展開され、その影響は戦後の大阪万博にも及んでいることが知られている。同回では、当時の満州の状況に主に芸術面から注目し、万博計画に対して直接および間接に与えた影響を探っていく。

 以上の各回は、今後順次青弓社のウェブサイト上に発表される予定であるが(第5回をのぞく)、発表は不定期であり、また必ずしも目次順とはかぎらない。また今後の研究の進展によって、当初の計画から内容が変化していくことも十分ありうるだろう。また研究の性格上数回の海外調査が欠かせないが、その一部はすでに実施ずみであり、いまだ実施していないいくつかの調査に関しても、今後順次着手していく予定である。いずれにせよ、その成果は何らかのかたちで各回に織り込んでいく。また、前著からの問題の継起や4人のメンバーの関心の所在もあって、本研究は万博という巨大イベントのなかでも特に「芸術」の問題に照準を合わせたものであることを繰り返し強調しておきたい。4人の共著ということもあって、結論というかたちで統一見解を明らかにすることは想定していないが、紀元2600年万博と同時期の海外の万博計画との関連を明らかにすることができれば、ひとまず本連載の意図は達成されたことになるだろう。

*本連載は、科研費研究プロジェクト「万博に見る芸術の政治性――紀元2600年博の考察と国際比較を中心に」(区分:基盤(C)、研究代表:暮沢剛巳、Research Project Number:26370118)の研究成果報告として発表される。記して関係各位にお礼申し上げる。


(1)暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2007年
(2)暮沢剛巳/江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』青弓社、2014年
(3)津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ)、国書刊行会、2015年

 

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