第4回 乃木坂46が「内と外」をつなぐ最新舞台公演

香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数)

 この連載の第2回で、乃木坂46が毎年恒例にしている演劇公演「16人のプリンシパル」について考察した。それは、AKB48との差異化や、グループ独自のカラーを演劇に求める意図から始まったこの企画の魅力と、同時に常にともなっている困難についてまとめたうえで、今年(2015年)開催される予定だった4度目の「16人のプリンシパル」を見据えるための論考だった。
 しかし2015年、乃木坂46は恒例になっていた「16人のプリンシパル」の開催をやめ、演劇に関して新機軸を打ち出した。「16人のプリンシパル」のかわりに、2つの新たな演劇公演をおこなったのだ。それらは、本連載第2回で詳述したような、入り組んだ上演形態をもつ「16人のプリンシパル」に比べればずっとシンプルなものだ。あらかじめ配役が固定された戯曲を上演することだけに眼目が置かれた、いわば「普通の」演劇公演である。いま、あえて「普通」という言葉で表現したけれども、その「普通」はきわめて要求する水準が高いものでもある。今回は、この乃木坂46の方針を受けて、2つの演劇公演のうち10月に上演された『すべての犬は天国へ行く』を中心に掘り下げ、乃木坂46が何を切り拓こうとしているのかを考えてみたい。

アイドルグループによる演劇とは

 アイドルグループ主導の演劇が企画される際、当然のようにアイドル自身を魅力的に舞台に乗せることが最優先のポイントになる。つまり、上演される戯曲や、その戯曲にほどこされる演出よりも、演者自身の魅力を引き出すことをメインに据えるのが、通常のアイドル演劇の役割だ。もちろん、そうした出演者第一のあり方はアイドル演劇に限らず日本のいわゆる商業演劇の大きな特徴だし、宝塚歌劇にせよ歌舞伎にせよ、演者のチャームを引き出すことに価値が置かれるのは古典的なことでもある。一定の歴史をもつそれらの演劇ジャンルは、それぞれに演者の技巧やチャームポイントを強調する方法をメソッド化することでクラシックとしての強みを獲得しているし、演者の魅力を引き出すそれらの方法と相乗効果を生み出すことを心がけて戯曲や演出も仕組まれる。アイドル主演の演劇はそうした確固たるジャンルではない分、特定のメソッド群の伝統があるわけではないし、演技そのものを専業としない人々が主演するために、一般的な意味での演技スキルの高さを要求するにはなじまない部分も多い。とはいえ、アイドルグループのメンバーが主演することを大前提とした演劇もまた、一つの歴史を紡いできている。本来ならば、乃木坂46が上演する演劇もその一群に連なるものと考えるのが妥当だろう。
 しかし、今年10月1日から12日に渋谷のAiiA 2.5 Theater Tokyoで上演された乃木坂46主演の舞台『すべての犬は天国へ行く』は、そうしたアイドル演劇の趣向とは少し違う射程をもっていた。第一に、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)の手によるこの戯曲は、乃木坂46が主演することを前提に書かれたものではない。この作品が初演されたのは2001年、KERA主宰の劇団・ナイロン100℃の公演としてだった。KERAが用いる言葉でいうところの「シリアス・コメディ」に分類されるこの作品は、救いのない状況に置かれた人々を、そのシリアスさはシリアスさのままに描きながら、同時にコメディーとして仕上げることによってこそ成立する。つまり、演者個々人のパーソナリティーを魅力的に引き出すためのパートを随所に用意できるような、スタンダードなアイドル演劇になじむタイプの作品ではない。むしろ逆に、この「シリアス・コメディ」を十全に成り立たせるためには、いかに演者たちが役柄に奉仕できるかということのほうが重要になる。
 その要請に応えるために、この演劇企画にはもう1つの特性がある。それは、あくまで乃木坂46というアイドルグループありきの企画でありながらも、出演する外部キャストと乃木坂46メンバーとの間に、主演/助演といったようなポジション的な差を設けていないことだ。このバランス配分はキャリアがある俳優の補助を受けてこの作品を成立させる必要から生まれたものでもあるだろう。そしてまたこのことは、当公演をおこなうことで乃木坂46がどのような発展を目指そうとしているのか、その一端をうかがわせるものでもあった。

『すべての犬は天国へ行く』――形骸を守り、破綻していく女性たち

 西部劇をモチーフにした世界観のなか、居酒屋兼売春宿を舞台にした『すべての犬は天国へ行く』は、すでになくなってしまったはずの生活習慣にとらわれ続ける女性たちが、その失われた慣習から脱することなくあくまで守ろうとし、その結果致命的に破綻していく物語だ。この芝居には、虚構の男性の影を除いて男性キャラクターが登場しない。それは、舞台となる町の男性たちが殺し合いに明け暮れて死に絶え、女性しかいなくなってしまったためだ。女給や売春婦として生き、あるいは夫の粗暴な振る舞いの尻拭いをしてきた彼女たちは、いわば男たち中心の社会のなかでは周縁に置かれ、弱者として生きてきたはずである。その彼女たちにとってはしかし、男の絶滅はそこからの解放を意味するものではなかった。これまで生きてきた習性をあくまでなぞり、もはや帰ってくることがない男たちを待ち続け、その形骸の「外」の世界に出ようとする者たちを殺してまで、絶望的なその枠を守ろうとする。現状打破を試みるよりも習慣に身を委ね、変化を選ぶことができず、やがて不可避的に訪れる破綻を静かに待ってしまう。突き放してみれば愚かしくも思えてしまう登場人物たちの営為、そこにこそやるせなさと悲しさがあり、またその愚かしさには現実世界を写し取ったような薄ら寒さが表れている。
 この閉塞した世界をコメディーとして構築するために、キャストは乃木坂46のメンバーであるか外部からの客演であるかを問わず、適材適所を第一として配役されている。もっといえば、乃木坂46の看板を背負った公演でありながら、この芝居をリードするのは客演陣だといっていい。本当は男たちが帰ってくる日などないことを自覚し、それをときおり垣間見せて逡巡をのぞかせる娼婦エリセンダを演じた東風万智子、絶滅した男たちのなかでもシンボル的存在だったアイアン・ビリーの妻カミーラを演じた猫背椿、女たちのなかでもさらに従属的な立場にありながら、彼女たちに屈しない矜持をわが娘に与えようとするエバを演じた柿丸美智恵、あるいは酒場の歌い手として全キャストのなかでもやや特異なかたちでスポットを浴びる娼婦デボアの役を務めた鳥居みゆきなどは、登場人物としてもキーになる者たちである。しかしキャストとしての登場頻度以上に、まだ俳優の入り口にいる乃木坂46メンバーを先導する立場として、彼女たちの重要性はある。だからこそ、乃木坂46の公演であるにもかかわらず、基調としての救いのなさとコメディーとを両立させる空気を作り続けているのは東風、猫背、柿丸、鳥居や山下裕子、ニーコらの客演陣だし、彼女たち自身にとってもチャレンジであるはずのこの作品のなかで、乃木坂46メンバーの仕上がりを見守りながら演じているような趣さえある。
 この公演で唯一、乃木坂46を主役に据えたかに見える場面はエンディング、キャスト全員で披露するダンスシーンに訪れる。出演した乃木坂46の8人のメンバーは、キャスト陣のなかで中央に位置して踊る局面が多く、また普段のアイドル活動の本分であるダンスによって表現されるこの場面は、かろうじて公演の形式的な主軸が誰であるのかを示す時間になっている。けれども、乃木坂46メンバー以外のキャストはここでもやはりバックダンサーにとどまらず、メンバーとほぼ同等の立場にいる。また舞台中央に寄ってのフィニッシュで中央に配置されていたのは乃木坂46の誰かではなく、カミーラ役の猫背だった。つまり、舞台上で乃木坂46が特権的なポジションに置かれないというバランスは、ラストの瞬間まで保持され、キャストたちはみな等しくこの戯曲と演出を生かすためのパーツになっていた。

「アイドルが出演する必然がない舞台」の意義

 あるいはここで視点を変えれば、この公演はケラリーノ・サンドロヴィッチ作品の上演としては不満が残るものであるかもしれない。『すべての犬は天国へ行く』に出演した8人の乃木坂46メンバーは、作品の世界を作ることに成功しながらも、率直にいえばまだ客演女優陣と演技の水準をそろえるところまでには至っていない。演劇作品それだけの評価として考えるならば、ともすれば乃木坂46が主要キャストを務める必然は薄くなるだろう。
 しかし、これがアイドル演劇としての試みであることを思い起こすとき、今回の『すべての犬は天国へ行く』には、その作品上の陰惨さや閉塞とは対照的に、晴れやかな希望を見いだすことができる。乃木坂46は、アイドルグループとして大別すればAKB48などと同様に、多人数かつメンバーが循環していくタイプの組織である。やがてメンバーが巣立っていく性質をもつアイドルグループの常として、グループは彼女たちにとって芸能者として将来の活路を見いだすためのステップのための場所になる。アイドルグループがしばしば企画する演劇公演には概して、グループ卒業以降に向けた演者としての経験値を積むという意味合いがある。そのとき、グループに所属しながらも「アイドル演劇」の枠組みに則らない基準の演劇に参加することは、やがて巣立っていくための準備として、有効なプロセスになる。
 アイドル個々人の魅力をクローズアップすることに重点が置かれず、その戯曲をいかに生かすかが焦点になる『すべての犬は天国へ行く』のような作品の場合、専業俳優を中心とした客演キャストに比べて、乃木坂46メンバーの俳優としての未熟さがストレートにあらわになる。それは作品単体にとっては、明らかな不足点だ。けれども実のところ、そうすることでこそ乃木坂46メンバー自身が現在、アイドルという枠組みを外れたときに舞台俳優としてどのような水準にいるのかを確かめることができる。グループの恒例公演「16人のプリンシパル」について、それ特有の魅力を連載第2回で考察したが、それはあくまでアイドルグループの催しとしてという但し書きがつくものだったし、そこでメンバーが垣間見せる思わぬ適性も、あくまで比較基準はグループ内に限られる話だった。それに対して、『すべての犬は天国へ行く』は大前提として、「アイドルグループが主導する必然がない舞台」である。そしてそのため、彼女たちがいかに未熟であるかを公に示すものになった。そのような身も蓋もない場だからこそ、そこでときおり見せるメンバーたちの輝きは、舞台俳優としての適性を探る直接的な手がかりになる。
『すべての犬は天国へ行く』に出演したメンバーのうち、とりわけ作品の世界になじみながら際立った成果を見せていたのが、井上小百合と桜井玲香の2人だった。町の部外者である早撃ちエルザを演じた井上は、ニーコ演じる少年リトルチビとの交流や酒場でのやや傍観者的な立場での振る舞いに、間のとり方の巧みさを見せた。医者の妻キキを演じた桜井は、噛み合わない会話を飄々と続けることで生まれるおかしみを適切に表現して、酒場のシーンの潤滑油になった。両者とも特にコメディーのニュアンスを表現することにセンスを見せ、そうやすやすと成立させることができない「シリアス・コメディ」に食らい付いていた。彼女たちがかろうじてコメディーシーンで他の俳優に伍していたさまはまた、救いのなさと笑いとを両立させることの難しさを観る者にも印象づける。「アイドルグループが主導する必然がない舞台」では、アイドル個々のパーソナリティーによってコメディーを成立させることはできない。そうした場で適性を発揮した井上や桜井の成果は、アイドルの「外」の世界に乃木坂46メンバーが打って出る際の基準点を示している。
 井上が演じたエルザも桜井が演じたキキも、作中世界では形骸化した慣習にからめとられてついには滅んでいく人々だ。キキは男たちがいた頃の習性を維持するために亡き夫を装い、売春宿での振る舞いまでをトレースして、そのためにやがて死んでいく。また作中で唯一、町の「外」からやってきたエルザは、本来ならば町の女性たちが守り続ける檻に付き合う必要がなかった人物である。男たちなどとっくにいなくなっていることに気づき、町の女性たちの振る舞いが演技的なものであることに気づいていたが、その演技的な振る舞いに飲み込まれて虚実さえわからなくなったカミーラに撃たれて絶命する。慣れ親しんだ枠に固執し続けることが招く悲劇が、最後までこの町を貫いていた。
 しかし、形骸にとらわれて「外」の世界に触れることができずに滅んでいく役を演じながら、井上や桜井が体現したのはむしろ対照的に、アイドルグループ主導の演劇公演の枠内にいながらにして、「外」の世界への活路を切り拓くことだった。彼女たちにとってあまりに手ごわい戯曲をあえて上演したからこそ、そうした境地を生み出すことができたのだし、それは優れた戯曲を活用する、一つのまっとうなあり方だろう。かねてから演劇を志向してきた乃木坂46にとって、こうしたチャレンジはようやくたどり着くことができたステップだったし、また「演技の乃木坂46」を世に打ち出すためには必然的なプロセスだった。すなわち、「アイドルが出演する必然がない舞台に出演する」という必然である。

「枠の中」から目指す「枠の外」への回路

 こうした乃木坂46の志向には、前年にすでに萌芽がある。過去の「16人のプリンシパル」を中心とした乃木坂46の演劇企画で最も存在感を示し、『すべての犬は天国へ行く』にも出演していたメンバーに、若月佑美がいる。昨年10月、その若月が送り込まれた外部出演の舞台が、前田司郎作・演出の『生きてるものはいないのか』だった。2008年に岸田國士戯曲賞を受賞した同作は、人々が原因不明のまま次々と死んでいくさまを描写する不条理演劇だ。それまで歩んできた生の文脈のなかで区切りよく訪れてくれるわけでもなく、ヒロイックに締めくくらせてくれるわけでもない、唐突にやってくる死の累積。わかりやすいストーリーをもたない死、および「死に方」だけが提示されることによって、名残としてだけ浮かび上がる「生きていた」ことの意味の不確かさ。不条理で滑稽な死が何げない日常を淡々と襲うそのコンセプトが絶対的な主役になるこの作品は、出演者の固有名やアイドル性が意識されることになじまない。そのため、「乃木坂46・若月佑美」というキャスティングは、配役発表時にはやや唐突にも感じられた。しかし、アイドルグループのメンバーであることが意味をなさない作品への出演は、振り返ってみれば乃木坂46が、「アイドルが演劇に出演する」ことの幅を広げるための布石であったようにも思える。
 一方で乃木坂46はメンバー主演のミュージカルや、『帝一の國』(2014―15年)、『ヴァンパイア騎士(ルビ:ナイト)』(2015年)といった、アイドル的な若手俳優との相性もいいいわゆる2.5次元舞台にコンスタントにメンバーを送り込み、アイドルにとってより自然な演劇出演のキャリアを拓いている。若月もまた、乃木坂46随一の舞台演劇系メンバーとして『ヴァンパイア騎士』に出演しているが、その若月が一方で『生きてるものはいないのか』に出演していることは、乃木坂46の独特の振り幅を、身をもって示しているようで興味深い。
 そしてグループ全体が主導するかたちでその新たな振り幅を実現したのが、今回取り上げた『すべての犬は天国へ行く』だった。『生きてるものはいないのか』が、「アイドルが出演する必然がない舞台」への外部出演という方法を通じての挑戦だったとすれば、『すべての犬は天国へ行く』はその発展形として、「アイドルが出演する必然がない舞台」をアイドルグループ主導でおこなうことによる、アイドルという枠組みの充実である。同種の舞台公演が、今後も乃木坂46によって企画されるとして、おそらく当面はメンバーの技量的な未熟さ、客演俳優との演技水準の差という課題はついて回るはずだ。ただし、この企画に関していえば、そうした課題点が明らかになること自体が、正当な効果の表れでもある。アイドルの「外」の世界へと回路を拓き続けることが乃木坂46のオリジナルな試行であるはずだし、そうした試みをたとえば「アイドルの枠を超える」といった安易なクリシェとしてではなく、アイドルという枠組みを尊重しながら続けることに、乃木坂46というグループ特有のバランスもありそうだ。

 

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