第5章 1937年パリ万博での日本館の展示とその背景

寺本敬子(跡見学園女子大学教員。著書に『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』〔思文閣出版〕ほか)

はじめに

 フランスでは19世紀半ばから20世紀前半にかけて合計6回のパリ万博が開催された。第2帝政期に計2回(1855年、67年)、また1870年に成立した第3共和政のもとで計4回(1878年、89年、1900年、37年)にわたって継続的に催された。以上のほかに、1925年アール・デコ博、31年植民地博といった国際博も開催されたが、第6回目の37年パリ万博を最後に、現在までフランスで万博は開催されていない。
 1937年パリ万博の正式名称は「近代生活における芸術と技術の国際博覧会(Exposition internationale des Arts et Techniques dans la Vie moderne)」であり、芸術と技術の調和、産業文化の進歩向上、人類福祉の増進に寄与することを目的としていた。37年パリ万博が、博覧会国際事務局(BIE)の承認を受けたのは、34年10月22日である。開幕は37年5月1日の予定だったが、労働者のストライキなどで会場建設が大幅に遅れ、除幕は同年5月25日にずれこみ、11月25日まで約6カ月間にわたって開催された。
 この1937年パリ万博への各国の参加については、すでに「第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展」で江藤光紀が述べているように、ドイツをはじめ、イタリア、スペインなどファシスト国家の台頭が目覚ましく、さらにソビエト連邦も本格的に出品し、共産主義国家を印象付けた。
 さて、このとき日本はどのような位置を占めていたのだろうか。すでに日本は、1867年パリ万博への最初の公式参加以来すべてのパリ万博に継続的に参加し、20世紀にはいわばパリ万博の参加常連国としての地位を築いていたともいえるだろう。1937年パリ万博での日本館の展示については、これまで主として博覧会場に建設された日本館をめぐる「日本」の表象、日本館内に展示された写真壁画が注目されてきた(1)。とりわけ坂倉準三による日本館の設計に至る経緯については、建築学の観点からも関心を集めてきた(2)。
 しかし、そもそも日本がこの1937年パリ万博に参加した経緯および目的は何だったのか。またフランスで日本の展示は全体としてどのような評価を受けたのか。こうした基本的な問いについては、これまで十分に論じられてこなかったように思われる。
 とりわけ、このパリ万博への参加が、日本にとっては、紀元2600年を記念した初めての日本万博の開催に向けた布石として重視されたことは見逃してはならないだろう。実際、パリ万博の会期中に、1940年日本万博の開催および諸外国の招致に向けて、日本政府は在仏日本大使館を通じてフランス外務省と交渉を重ねていくのである。
 本章では、1937年パリ万博に関わるフランスと日本の外務省記録、公式報告書、雑誌記事などを検討し、日本の参加経緯と展示内容、フランスでの評価を明らかにしていく。また40年の日本万博の実現に向けた日仏間の交渉の内容とその過程を見ていくことにしたい。

日本の参加経緯

 1934年12月、フランス外務省はパリに駐在する60カ国の代表宛に、37年パリ万博への招待状を送付した(3)。これは、国際博覧会条約の第5条で、開催の2年前に外交ルートを通じて正式に諸外国に参同招請をおこなうことが義務付けられていたためである。
 国際博覧会条約は、国際博覧会(万博)の開催条件などを定めた条約であり、1928年11月22日に締結された。1851年ロンドン万博以来、開催国はそのつど新しく組織委員会を設立し、参加国の招請、出品物の分類、褒賞制度などを統轄してきたが、19世紀末から次第に博覧会の濫設や参加国の費用負担が問題になった。こうした問題を協議するため、1907年にパリ、08年にブリュッセル、11年にベルリン、28年に再びパリで国際会議が開かれ、そこでの合意をもとに国際博覧会条約が作成されたのである。このとき、条約に基づいて万博の開催を統括する博覧会国際事務局(BIE)が設置され、本部はパリに置かれた。なお、日本政府も、パリの国際会議に河合博之在仏大使館参事官を委員として派遣し、条約に調印したが、未批准だった。
 さて、日本に対する正式な参加要請は、他国と同様に1934年12月におこなわれた。フランス外務省から在仏日本大使館の佐藤尚武大使宛に12月22日付で招待状が送付されている(4)。これを佐藤大使はすぐさま広田弘毅外務大臣に電信で「今般当国外務省ヨリ正式ニ本邦ノ同博覧会参加ヲ求ムル招請状ヲ送付越セリ(5)」と報告した。この電信で佐藤は、万博の名称が「近代生活ニ於ケル芸術及技術万博覧会」であること、さらに「住宅庭園及家具ノ装飾並ニ劇場、活画、「ラヂオ」及広告ニ関係アル総テノ芸術的並ニ最新式ノ作品」といった出品が求められていることを伝えている。佐藤はこの万博が、日本の工芸美術を紹介する絶好の機会になるとして、日本の参加を強く推奨した。
 その後、日本国内でも、翌1935年3月7日付の書状で在日フランス大使館から広田外務大臣宛に日本の参加が要請され、パリ万博の内容を説明したプログラムなども送付している(6)。

日本の参加表明の遅れ

 こうして日本政府は、フランス外務省と在日フランス大使館から1937年パリ万博への参加要請を受け、その参加の可否を商工省が中心になって検討することになる。しかしこの参加に向けた調整は難航した。日本が正式に参加を表明したのは36年6月3日であり、フランス外務省の参加要請から実に約1年半かかったのである。
 日本の参加表明の遅れは、他国と比べても明らかである。1937年パリ万博には44カ国が参加したが、すでにイタリアは35年3月、ソ連は同年4月、ベルギーは同年6月、イギリスは同年9月の時点で正式に参加を表明していた。
 こうした参加状況を受け、在日フランス大使館は日本外務大臣宛に1935年7月25日付の書状で、日本政府の参加表明を急ぐよう打診している。またフランスでも、フランス外務省と万博組織委員会が佐藤大使に日本の参加の可否を尋ね、速やかに参加表明をおこなうよう要請していた(7)。このような遅滞の理由は、筆者が用いることができた資料からは明らかにならず、今後の研究が待たれる。
 いずれにしても、こうした停滞を打破するのに役割を果たしたのが、日本産業協会会長の星野錫だった。星野は、広田外務大臣宛に1935年6月3日付の建議書を提出した(8)。ここで星野は、万博への参加が「我邦工芸技術ノ進歩向上、輸出貿易ノ進展並我国情文化ノ宣伝ニ加ヘ日仏国交の親善を図ルニ絶好ノ機会ト被存候」と述べた。星野は、同年7月にも37年パリ万博の関係資料を外務省に提出するなど、外務省に万博参加が日本の産業界にもたらす利益・重要性が、とりわけ①技術の進歩向上、②輸出振興、③日本の宣伝にあると説いていた。
 商工省が外務省に応答したのは、同年8月10日付の書状においてである(9)。商工省は、このパリ万博の開催の趣旨が「極メテ適切」とし、日本の参加については「関係諸団体等ノ本博覧会ニ対スル動向並ニ予算関係等ヲモ鋭意考究中」であるとしている。
 これを受け、広田外務大臣は在日フランス大使ピラ宛に、8月29日付の書状で「態度決定次第通報ス(10)」と伝えている。

民間団体からの建議と1940年日本万博

 民間団体は、星野が会長を務めた日本産業協会に加え、日本商工会議所、国際文化振興会、日本貿易協会が1937年パリ万博への日本の参加に重要な役割を果たした。これら4団体は連名で広田外務大臣宛に35年10月16日付で「巴里万国博覧会参加ニ関スル建議」を提出した。

 巴里万博覧会ニ正式参同ヲ為シ本邦独自ノ産業文化ヲ世界各国ニ周知セシメ我ガ国ニ対スル正当ナル認識ヲ与フルト共ニ本邦商品ノ販路開拓ニ資シ更ニ彼我両国ノ関係ヲ一層親密ナラシムルハ我ガ国内外ノ情勢ニ徴シテ極メテ有意義ナリ(11)

 以上のように、パリ万博への参加の意義としては、①日本に対する正当な認識を高め、②輸出貿易の促進、③国際的親善の増進に寄与することが強調されている。さらにここで注目したいのは、上記の文に続く文章である。

 紀元二千六百年記念トシテ我ガ国に於テ万博覧会ヲ開催セントスル関係ヨリ見ルモ此ノ際同博覧会に参加スルコトハ最も緊要ナリ(12)

 このように、紀元2600年記念となる1940年に日本万博の開催を実現するためにも、パリ万博への参加が「緊要」だと明示したのである。
 この建議により、これらの4団体が1937年パリ万博への参加を、40年日本万博への布石として重視していたことが明らかである。実のところ、37年パリ万博の参加を検討していたとき、並行して40年日本万博の開催が検討されていた。この40年日本万博の実現に向けて役割を果たしていたのが、日本商工会議所をはじめとする4団体だった。
 こうした民間からのはたらきかけを受けて、1935年12月にようやく政府の予算閣議でパリ万博への参同費の支出が認可を受けることになる(13)。
 翌1936年2月19日には、日本商工会議所・国際文化振興会・日本産業協会の3団体が「巴里万国博覧会協会(14)」を設立した。このとき、会長には日本商工会議所会長の郷誠之助、副会頭には国際文化振興会副会長の徳川頼貞と、日本産業協会会長の星野錫が就任した。なお、会長職は、郷の日本商工会議所会頭の辞任に伴い後任の門野重九郎が引き継ぎ、副会長も星野の日本産業協会会長の辞任に伴いその後任の黒木三次が引き継いだ。

巴里万博覧会協会役員(1937年2月6日)
会長 門野重九郎
副会長 徳川頼貞
同 黒木三次
総務部長 依田信太郎
出品部長 佐々木綱雄
宣伝部長 青木節一

 このように1936年2月の巴里万博覧会協会設立をはじめとした産業界の建議を受け、日本政府も「極めて有意義なる措置として参同の必要を認むるに至った(15)」。2・26事件とそれに伴う内閣総辞職によって再び正式な参加表明には時間がかかるものの、新しい広田弘毅内閣の発足のもと、36年6月3日に日本政府は、外務省を通じてフランス政府に正式に参加を表明したのだった。

日本の出品方針

 日本の出品準備は、商工省と巴里万博覧会協会の主導のもとで進められていくことになる。しかし参加表明から1937年パリ万博の開会まですでに1年を切っていたため、急ピッチの準備が必要になった。
 フランス側は、1934年12月の参加要請の時点で、すべての参加国に対してとりわけ「住居、庭園、家具、劇場、映画、ラジオ、広告等ノ芸術的整備ニ関スル出品物(16)」の出品を要請していた。
 ここに出品物として、住居、庭園、家具などと並んで「広告」が記されているのは興味深い。1937年パリ万博では、全14部門の出品分類のうち、第14部門として「宣伝(Publicite)」が立てられた。フランス組織委員会の公式報告書によると、万博で「宣伝」が部門として立てられ、独立した館が建築されたのはこれが初めてであることが明示されている(17)。これまで指摘されているように、20世紀の万博は、「物」を主体とした展示から、映像や出版物を通じた「イメージ」の創出やさらにはプロパガンダも含む広告・宣伝が重視されていくが、その一例がまさに37年パリ万博で顕著になるのである。
 1937年パリ万博の出品分類(全14部門)の内訳は、次のとおりである。第1部門「思想の表現」・「科学的発見の技術的応用」、第2部門「社会問題」、第3部門「芸術的および技術的育成」、第4部門「芸術的技術的拡散」、第5部門「都市生活、建築」、第6部門「絵画および造形芸術」、第7部門「建物」、第8部門「室内装飾および家具」、第9部門「工芸品」、第10部門「出版、書籍および雑誌」、第11部門「装身具」、第12部門「交通および旅行」、第13部門「祭、催物、行列、競技」、第14部門「宣伝」だった。
 以上の要請に基づいて、日本では、①家庭生活部、②科学部、③商店部、④文化宣伝部の4部に分けて展示が準備された。
 また日本側としては、「(1)出品物は原則として日本館に収容展示するの方針の下に選定すること、(2)出品物は本博覧会開催の趣旨に鑑み旦本邦産業文化の精粋を誇示することを基調として極力厳選主義を採ること」を指針として定めている。
 出品物は、従来の一般募集による出品選定ではなく、「日本館・出品物・陳列が一貫した総合計画のもとに調和と統制を保つ方針(18)」がとられた。すなわち政府の統制のもと、商工省と巴里万博協会による指定製作・指定出品の方針が採用されたのである。その背景として、やはり出品準備のための時間が限られていたことがいえるだろう。
 なお、これらの出品物は、パリに向けて発送する前に日本橋高島屋で開催された「日本政府賛同巴里万博覧会日本館出品展示舎」で、1937年1月21日から27日にかけて1週間、一般に展示された。この展示には多くの批判も寄せられたが、少なくとも協会の報告書によると、この「展示舎」への来場者は32万人以上を記録し、「予期以上の好評をもって無事閉会」したとされる。

日本委員のパリ派遣

 こうした出品物の展示にパリで携わった人物についても確認しておこう。1936年9月には、協会の常務理事の団伊能と、嘱託建築技師として板倉準三が、博覧会場の調査・交渉・施工の準備で最初に派遣された。板倉は、フランスに留学し、ル・コルビジェに師事した建築家だった。
 翌1937年2月には、商工省書記官の菅波称事、商工技師の池部宗薫、出品部長の佐々木綱雄、嘱託の真木彰二郎が派遣された(19)。菅波はフランス政府および博覧会当局との交渉、「巴里万博覧会協会巴里出張所事務」の監督にあたった。池部は建築、陳列など、技術関係の監督にあたっている。佐々木は事務長を務め、真木は会計を担当した。
 なお、出品部長の佐々木綱雄は、パリ滞在中に「万博」(日本万国博覧会協会)にたびたび寄稿している。その内容は、パリ万博の費用や展示などである。しかし、これらの寄稿を見ると、佐々木は将来の日本万博を実現するために、実地検分としてパリ万博を観察していた可能性が高い。パリから帰国した佐々木は、1940年日本万博に向けた事務課長に就任することとなる。

日本の展示

 日本館が開館したのは、1937年6月18日だった。日本館の建築の完成は3月末が予定されていたが、フランス労働者の争議頻発や左派政権が導入した1週間40時間労働制などの影響により、労働者の就業能率が著しく低下し、6月上旬にようやく完成した。
 菅波は、開館式でつぎのように述べている。

 今回の出品は従来のそれと其の選を異にし、古典的の趣向を持つ出品に非ざる点に対しては、特に各位の注意を喚起する次第である。従って本館に於て従来参加の日本館に於て見るが如き出品を見出さんとするならば、恐らく幻滅を感ぜらるるものと思ふ。過去70年に亘り日本に於ける文化産業の進捗発達は実に顕著なるものあり、従来の博覧会に出品せるものを以てしては、到底現代日本の姿を伝へ得ざるものである。

 以上のように、菅波はこの日本の展示を通じて「現代日本の姿」を伝えることを最大の目的にしたといえる。
 この開館式に出席した組織委員長ラベは次のように述べた。

  日本が僅か半世紀の短期間に於て列強に互し、然も遜色なき程度に進歩発展せる道程を説明し得るものはない。現代の日本は若人の如き気魂を以て国際社会に列し、光彩陸離たるものあり、今回開催せられたる「近代生活に於ける芸術と技術とを目標とする博覧会」に於ても其の絢爛たる出品をどうどうと陳列して、多年に亘り保持せる伝統に近代的の方法を加味して改善に資せられ昂然たるものあるを観取せられる。貴館に陳列せられたるものは総て先づ品質を第一とし、軽快、巧緻にして実際的のものを製作せられんとする努力の跡を窺ひ得るものにして工芸国民たるの実を示され、日本工芸に於ける「美しき職業」を熱愛するといふ大原則を労働に適用せられ、以て品質を製作の主たる特徴とせられることを得たと確信するものである(20)。

 ラベが冒頭で述べるように、日本の近代化を称賛するとともに、日本の展示に見られる「伝統に近代的の方法を加味」した出品物を評価していることがわかる。
 実際、日本の展示はどのような内容だったのだろうか。まず、「家庭生活部」では、日本の文化生活の様相を示すとともに、「私的生活に漂う和やかな雰囲気の一端」が演出された。日本の中流以上の家庭を想定し、婦人室、応接室、喫茶室を設けられた。いずれの部屋にも机、長椅子、婦人室に立ち姿見、金紗など婦人服地の織り物、小間物類鼈甲細工、象牙細工が置かれた。応接室には陶器製および竹製電気スタンド、漆塗家具、漆応用製品、絹絨毯、ゴブラン風壁掛、高級刺繍、紙糸製壁紙、金銀細工、高級玩具、ブロンズ陶磁器、照明設備などが置かれた。
 次に「商店部」には、主要高級商品の陳列展示。布絹製品、陶磁器、硝子製品、漆器、木竹製品、木通製品、金属製品などが展示された。
「文化宣伝部」は、国際文化振興会が担当した。鉄道省国際観光局も宣伝事務所を開設し、観光客の誘致が目指された。
 この宣伝活動は、日本の「国力に対する正しき認識を与へるため、本邦産業文化の精粋を示し、之を周知せしめることは最も緊要である」として重視された。『事業報告書』によると、「博覧会参加の機会に新聞雑誌等の利用又は其他各種の方法に依り本邦産業文化の紹介を行ひ、且多数の観覧者を日本館に吸引することに努めた」とある。実際の展示では、日本館正面入り口にインフォメーション・デスクが設置され、日本文化の宣伝がおこなわれた。出品物に関する説明冊子ニッポン特集号、出品一覧、科学部出品説明書、鉄道省国際観光局成品の各種観光宣伝冊子が配布された。また出版物だけでなく、活動写真映画として『荒城の月』『日本の陶磁器』『日本の建築』『花草芸術』『参週間の旅』『日本瞥見』などが上映された。
 こうした宣伝活動には、日本の万博協会は手応えを感じたようである。巴里万博協会の『事業報告書』は以下の言葉で締めくくられている。

  繊細巧緻なる出品は、世界に誇る科学出品および文化宣伝出品と相俟って、本邦文化の真髄を把握せしめるに多大なる効果を収めることを得たるのみならず、会期を通じて行はれたる彼我の交歓は両国親善友好関係の増進に寄与するところ大なるものありしは之れ亦看過し得ざるところである。殊に日支事変の勃発に依り動ともすれば疎隔を招来せむとする仏国人心に、本邦文化を紹介して本邦の正しき立場を了解せしめ、之が緩和に寄与し得たるは、本邦参加の意義をして一層深からしめたことを確信するものである(21)。

 ここで指摘されるように、1937年に勃発した日中戦争によって、フランスの一般紙で報じられる日本の情報はほとんどが戦争経過に関わる内容だった。しかし、このパリ万博での日本文化の紹介を通じて、日本イメージの「緩和に寄与」したとし、これを参加意義として掲げたのだった。

フランスの評価

 日本の展示成果は、グランプリ14、名誉賞31、金賞41、銀賞63、銅賞30を獲得し、おおむね成功だったといえる。
 まず、フランスの『公式報告書』には、次のように評価が記載された。

  坂倉は、創造主たちの望む本質的な性格を日本館に付与するために、芸術文化の2つの側面を見事に表現した。すなわちこの国では何よりも国民の生活を規定し、かつ指導するのは古来の影響であり、これを忠実に敬意を表しながら、現在の日本において最も近代的なものを際立たせるということである。
 館の内部は、日本の芸術と科学の産業の発展にあてられている。
 1階は、新商品、布など。また宣伝部が喫茶室に隣接している。ここを出て、外のスロープを通ると、科学部にたどり着く。そこには素晴らしい写真と映像の美しいデモンストレーションが展示されている。
 東京から2万キロメートルも離れて日本の参加を準備するのは離れ業である。パリで収めた成功は、1940年に東京でおこなわれる国際博覧会が成功することを安心して予想できるものであり、そこにフランスは招待されたのだ。

 以上のように、『公式報告書』で日本の展示は、芸術文化で伝統と現代性が融合している姿が評価の対象になったのである。
 1937年パリ万博への日本の参加は、参加表明と出品準備の遅れ、日本館開設の遅延などがあった。また、メディア的にも、当時のフランスのジャーナリズムでの日本に関する言及は日中戦争に関するものが大部分を占め、19世紀のように万博での日本の展示についてはほとんど目立った記述はない。このように、日本の展示については、社会全般にはもはやそれほどのインパクトをもたらさなかったとまとめることも可能かもしれないが、他方で、この万博の枠内では、会場に建築された日本館と出品物に関して、おおむね肯定的な評価がなされたといっていい。
 しかし、実は、この1937年万博への参加には、日本にとってもう一つの目的があった。それは、1940年の日本での万博誘致に向けた交渉という政治的な性質をもったものだった。

1940年日本万博の開催に向けた博覧会国際事務局(BIE)との交渉

 1940年に計画された日本万博の構想・経緯については、近年(2015年)編纂された資料集『近代日本博覧会資料集成』の「解題」で加藤哲郎と増山一成が詳細にまとめている(22)。また日本政府と国際博覧会事務局(Bureau international des Expositions。以下、BIEと略記)の交渉過程については、濵田耕平が日本の外務省記録の分析を通じて明らかにしている(23)。
 まず1937年以前に、日本万博の公式認定をめぐって日本政府とBIEの間でどのような交渉がおこなわれたのか、その経緯を以下に概観しよう。
 1928年11月22日に締結された国際博覧会条約の加盟国は、36年末の時点で、ヨーロッパを中心とする21カ国にとどまっていた。北米、中南米、アジアの多くの国が未加盟であり、日本も未批准だった。非加盟国の日本が、条約加盟国に万博への参加を招請するには、第一にBIEから万博開催の承認を得る必要があった。そのため日本政府は、在仏日本大使館を通じてBIEとの交渉を36年から開始し、その交渉は、杉村陽太郎が駐仏大使に就任した37年7月以降、まさにパリ万博の会期に本格化することになる。
 1928年の条約の規定で、国際博覧会の種別は、人類活動の成果を複数部門で示す「一般博覧会」と、あるテーマ・分野に特化した「特殊博覧会」があったが、日本は「一般博覧会」として開催することを望んでいた。ちなみに条約の適用を受けて最初に開催された37年パリ万博は、いずれも一般博だった。しかし、一般博として開催するにあたって日本にとって弊害になったのは「最近の一般博から少なくとも2年を経過した場合でなければ〔条約加盟国は:引用者注〕参加できない」という制約だった。すでに39年にはアメリカで万博の開催が計画されていたため、次の万博の開催および参同招請ができるのは41年以降だった。なお、アメリカも日本と同様に非加盟国だったが、BIEから万博開催の認定を受けたことにより、条約加盟国は参加招請を受諾した。
 こうした一般博が有する制約に対して、BIEが日本政府に提案したのは「特別博覧会」としての開催だった。特別博は、テーマや規模が限定される代わりに年限規定が緩やかであり、1940年に開催することが可能だった。この提案を受け、日本は「東西文化の融合」というテーマを掲げ、特別博として認定を受ける方法を模索することになる。しかし日本が計画した万博は、複数の展示部門で構成されるなど、実質的には一般博と同等の規模を有していたため、BIE委員長から「東西文化ノ融合ナル名称ハ一般博覧会ノカムフラージュニ他ナラス」と疑義を招くことになった。
 以上の経緯によって日本政府とBIEの間に生じた齟齬により、1938年4月のBIE評議会で日本万博は承認を受けることはできず、同年10月の総会まで結論は先送りされることになった。結果的には日中戦争の長期化によって、日本政府自らが日本万博の「延期」を38年7月15日に表明する結果になった。これによって40年日本万博の計画は頓挫したのだが、そこに至る経緯をフランス側の資料からもう少し詳しくみていこう。

フランス外務省と在仏日本大使館の交渉

 さて、ここで本章が新たに注目したいのは、フランス外務省の記録である。日本万博の認定をめぐっては、前述したとおり在仏日本大使館がBIEとの交渉を担ったが、とりわけフランス外務省を通じて事態を打開しようと試みていた。
 1937年7月に至るまで日本万博の認定をめぐるBIEとの交渉は成果につながらず、杉村駐仏大使は広田外務大臣宛に「専ラ政治的折衝ニ依リ仏国政府ヲ納得セシメ之ヲ通シテ条約事務局側ヲ説伏スルコト最モ実際的ナラスヤ」と述べている。事態を打開するために杉村が支援を求めたのが、フランス上院議員のアンドレ・オノラ(Andre Honnorat, 1868-1950)だった。フランスの外務省記録では、オノラが外務大臣に直接はたらきかけたことが確認できる。
 オノラはもともとは新聞記者として活躍していたが、1899年に海軍省に入省し、1907年にバス=ザルプ県(現在のアルプ=ド=オート=プロヴァンス県)の県会議員に選出されると、政治家としてのキャリアを歩むことになった。オノラは、とりわけ公教育や外交問題に携り、20年には文部大臣に相当する公教育・美術大臣に任命された。大臣を務めたときに、外国人留学生の滞在施設としていまも存続するパリ国際大学都市の創設を提唱し、25年から48年までその会長を務めた。21年にはバス=ザルプ県の上院議員として外交・公教育・公衆衛生に関わる各種委員会の委員を務めた。これらの活動を通じ、諸外国との交流組織の設立・支援にも力を入れ、日本との関係では、00年に創設された日仏協会の会長を35年に務め、フランスでの日本学の普及にも役割を果たした。こうした関係から、杉村はオノラに日本万博開催に向けた支援を求めたと考えられる。
 オノラは、外務大臣宛に1937年6月28日付の書簡を以下のように送っている。

  親愛なる大臣、
 日本は1940年に国際博覧会の開催を計画しています。
 正式には、この国際博を開催できるのは1941年に限られています。というのも、もし思い違いでなければ、国際博は開催ごとに2年を空けなくてはならず、さらに39年にニューヨークで国際博が開かれるからです。
 しかしオリンピックが1940年に東京で開かれる予定であり、1年を空けて、ヨーロッパやアメリカの人々に日本の長距離移動を求めることはできません。日本当局が2つの催しを同時に開こうとするのは当然のように思われました。
 われわれがそれぞれの催しに参加することは間違いありません。ただ、日本政府の招待に対し、最初に返答するのはわれわれであろうことを信じています。
 (略)この点について、われわれがほかの人々の行動に従って同じように行動してしまったり、さらに、日本の世論をわれわれに利するように立て直すための絶好の機会を失ってしまったりすることには、まったく道理がないように私には思われるのですが、それが誤っているか否かについてご判断いただければと思います(24)。

 このように、オノラは日本をめぐる国際情勢を気にかけながら、1940年の日本万博を国際社会での関係改善の好機と捉えることで、開催の認可を求めている。
 これに対する外務大臣の返書(1937年7月22日付)は下記のとおりである。

  ご書状をありがとうございます。私の部局で共有いたしました。これに申し添えますと、現在に至るまで、フランス政府はこの催しに参加する公的な招待状をまだ受け取っておりません。
 (略)フランス政府は返答を控えなくてはならないでしょう。というのも、1928年の国際条約については博覧会国際事務局に前もって照会しなくてはならないからです(25)。

 このように、オノラのはたらきかけがあったものの、すでに見たように、国際博覧会条約の規定上、日本万博の認定と公式参加の可否は、フランス政府内だけでは対応できない性質のものだった。

日本万博への参加招請

 一方、日本では1940年の万博開催に向けた準備が着々と進んでいて、諸外国への招待状の送付は38年3月におこなわれた。
 この招待状を受け取ったフランス政府は、意思決定に際して、外務省、商務省など、関係する省内での調整が必要だった。まず、外務省は3月15日付で、同省のアジア・オセアニア局に、日本から受けた参同招請への対応を照会している。アジア・オセアニア局は、「フランスがこの国際的催しに参加することについて、政治的観点から異議はありません。この催しは、極東でわれわれの芸術・科学・技術の文化に関わるさまざまな側面を一層広める機会になるでしょう」といって、基本的な問題はないという見解を示し、むしろ万博参加に積極的な姿勢を見せている。
 これを受け、外務大臣は商務大臣に対して3月30日付で「政治的にはいかなる異議もない」として今後の対応を照会している。しかし商務大臣の判断は、これと異なるものだった。商務大臣は4月26日付の書簡で、次のように返答している。

  閣下もご存じのとおり、日本は1928年11月22日の国際条約の加盟国ではないため、われわれの参加は、事前に博覧会国際事務局の承認を得ないことには検討することができません(26)。

 このように、先に見たオノラの打診に対する外務大臣の返答と同様に、やはり国際博覧会条約とBIEによる承認がネックになっていたわけである。
 以上のフランス政府内の動きとは別に、日本でも在日フランス大使館を窓口にした交渉がなされていた。在日フランス大使館からは1938年3月29日付の書簡で、40年日本万博の組織委員会会長の藤原銀次郎から書状(3月23日付)を受け取ったことが伝えられている。藤原は、富岡製糸場支配人、王子製紙社長を務めた人物であり、29年からは貴族院議員に在任していた。藤原は、共和国政府が日本万博に公式参加するようにその斡旋をフランス大使に強く申し出たようである。この藤原の書状(フランス語)には以下の文言が見られる。

 閣下〔フランス大使:引用者注〕は、計画された開催年が、パリで批准された1928年の条約の規定に従ってないと思われるかもしれません。しかし、この件について、この条約の規定に起因するすべての問題は、博覧会国際事務局とわれわれの間で最も望ましいかたちで解決したことを、つつしんでお伝えいたします(27)。

 このように、フランス外務省と商務省が把握している情報とは正反対の情報が日本の万博組織委員会から寄せられることになり、これを受けてフランスでは外務大臣が商務大臣に再び5月21日付で次のように問い合わせをおこなっている。

  この書状で〔藤原:引用者注〕会長は〔駐日フランス:引用者注〕大使に、この催しが計画された日時について生じた問題、すなわち国際博に関わる条約の規定に適合していないという問題は、パリの博覧会国際事務局と日本政府の間でおこなわれた調整の結果、解決したと伝えています。
 藤原氏から大使に伝えられたこれらの情報が正確なものかをお知らせくださいますよう、お願いいたします(28)。

 これに対する商務大臣の回答(1938年6月8日)は下記のとおりである。

  閣下〔外務大臣:引用者注〕が尋ねられたことへの回答として、これらの情報は、正確だとは思われないことをつつしんでお伝えいたします。
 1938年4月5日の会議で、博覧会国際事務局の評議会は、この問題については次の会議で結論を出すことに決めました。すなわち10月末頃になります。したがって、日本政府の招待に対する適切な返答は、このときにしかできないということになります(29)。

 上で見た藤原の書状には、1940年の日本万博開催という日程が条約の規定に不適合ではないとした根拠は書かれておらず、BIEと日本政府とのあいだでどのような交渉があったのかは不明である。いずれにしても、日本初の「万博」の開催には、諸外国の参加が不可欠であり、そのためにはBIEの認可を性急に取り付ける必要があったことは確かだろう。とはいえ、BIEが出した結論は、半年先まで議論持ち越しというものであって、これに対するフランス政府の方針は、このBIEの評議会の判断を優先するというものだった。

最後の交渉

 ただし、このあと、フランス政府内では以下のような興味深い動きがあったことを最後に付け加えておこう。実のところ、このとき日本から1940年の万博に向けた参同招請委員の有吉忠一と橋本祐幸が6月3日にパリに到着し、商務大臣と面会していたのである。
 この面会後、6月23日付でフランス首相(閣僚評議会長)が、商務大臣がすでに示したBIEの10月の審議結果次第だというスタンスを把握したうえで、外務大臣に対し、日本万博へのフランスの参加について改めて問い合わせているのである(30)。これを受けて、外務省は再びアジア・オセアニア局に問い合わせをおこない、日本万博参加への前向きな返答をしていいかどうかの判断を尋ねている(31)。
 これらフランス政府内の一連の動きが、どのような経緯で起こったのか、日本側の関与があったのかは不明である。しかし結局、これらの交渉は、日本で決定された「開催延期」によって打ち切られることになる。7月16日付で、杉村駐仏大使は1940年日本万博の延期をフランス外務省に伝えたのだ。そこには次のように延期の理由が示されている。

  この決定は、極東の現在の情勢を考慮したばかりでなく、1928年の国際博覧会条約の批准国が第2種一般博としてこの催しに参加することに関わる困難によるものである。この問題は、東京での博覧会の成功を弱めかねないものだった(32)。

 このように、杉村は、日本万博の延期の決定は、極東情勢ばかりでなく、日本が希望する1940年開催が条約の規定にそぐわないという点によるものだったことを述べている。
 日本にとって初めての万博の開催は念願だったが、日本側が紀元2600年となる「1940年」および一般博の規模での開催に強くこだわったことが、国際博覧会条約への批准を拒む結果になり、また加盟国もこれに公式に参加できないという事態を招いたわけである。万博が国威発揚の場として機能する側面をもつことはあったが、それは国際博覧会条約に基づいた正式な認可を受けてこそなしうるものだったといえるだろう。1933年3月の国際連盟の脱退に続き、38年7月の博覧会国際事務局との交渉の頓挫は、国際関係での日本の孤立をさらに印象付けるものになったとも考えられる。自国の論理を優先したかたちでの万博の開催はそもそも困難だったのである。


(1)1937年パリ万国博での日本の展示については、以下を参照。井上章一「パリ博覧会日本館・1937―─ジャポニズム、モダニズム、ポストモダニズム」、吉田光邦編『万国博覧会の研究』所収、思文閣出版、1986年、佐野真由子「文化の実像と虚像──万国博覧会に見る日本紹介の歴史」、平野健一郎編『国際文化交流の政治経済学』所収、勁草書房、1999年、川畑直道「写真壁画の時代――パリ万国博とニューヨーク万国博国際館日本部を中心に」、五十殿利治編『「帝国」と美術――1930年代日本の対外美術戦略』所収、国書刊行会、2010年
(2)藤木隆男/豊田健太郎「1937年パリ万国博覧会日本館の設計経緯について」「日本建築学会計画系論文集」第63巻第514号、日本建築学会、1998年、三田村哲哉/小林克弘/中原まり「パリにおける博覧会の変遷に関する研究――1855―1937年を対象とした配置計画の分析を中心として」「日本建築学会計画系論文集」第64巻第519号、日本建築学会、1999年
(3)Edmond Labbe, Exposition internationale des arts et techniques dans la vie moderne (1937): rapport general, vol. 1, Imprimerie Nationale, 1938, p. 240.
(4)巴里万博覧会協会『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』1939年、92ページ
(5)日本外務省記録は、外務省外交史料館所蔵の外務省記録『外国博覧会関係雑件 巴里万国博覧会(1937年)』(第1―5巻、1935―39年)を参照した。
(6)同書37ページ
(7)同書128ページ
(8)同書68―69ページ
(9)同書158ページ
(10)同書172ページ
(11)同書96ページ
(12)同書96ページ
(13)同書201ページ
(14)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』134―140ページ
(15)同書93ページ
(16)同書92ページ
(17)Livre d’or, p. 302.
(18)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』160ページ
(19)前掲『外国博覧会関係雑件 巴里万国博覧会(1937年)』96ページ
(20)前掲『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万博覧会協会事務報告』222ページ
(21)同書262ページ
(22)加藤哲郎「幻の紀元2600年万博覧会――東京オリンピック、国際ペン大会と共に消えた「東西文化の融合」」、増山一成「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」、加藤哲郎監修・解説、増山一成編・解説『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」別冊解説)所収、国書刊行会、2015年
(23)濵田耕平「昭和15年の「皇紀2600年奉祝日本万博覧会」計画に関する外務省記録」「外交史料館報」第24号、外務省外交史料館、2009年
(24)MAE, De A. Honnorat au Ministre des Affaires etrangeres, le 28 juin 1937.
(25)MAE, Du Ministre des Affaires etrangeres a A. Honnorat, le 22 juillet 1937.
(26)MAE, Du Ministre du Commerce au Ministre des Affaires etrangeres, le 26 avril 1938.
(27)MAE, De l’Ambassade francaise au Japon au Ministre des Affaires etrangeres, le 29 mars 1938.
(28)MAE, Du Ministre des Affaires etrangeres au Ministre du Commerce, le 21 mai 1938.
(29)MAE, Du Ministre du Commerce au Ministre des Affaires etrangeres, le 8 juin 1938.
(30)MAE, Du president du Conseil, Ministre de la Defense nationale de la Guerre au Ministre des Affaires etrangeres, le 23 juin 1938.
(31)MAE, Note pour la Sous direction d’Asie-Oceanie, le 8 juillet 1938.
(32)MAE, De l’Ambassade japonaise a Paris au Ministre des Affaires etrangeres, le 16 juillet 1938.

Copyright Noriko Teramoto
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。