第3回 乃木坂46ドキュメンタリーにみる「異界」としてのアイドルシーン

香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数)

 この連載は、「AKB48の公式ライバル」という社会的に最も通りがいいキャッチフレーズに着目しながら、乃木坂46というグループについての観察をスタートした。イメージ戦略としてAKB48とは違う方向を開拓しつつあるこのグループが、ある一面ではどこまでも「AKB48の公式ライバル」という言葉に拘束されているように見える。そのことが連載の出発点だった。ここまで、AKB48と乃木坂46双方のプロデュースを手がける秋元康の舞台演劇への憧憬にその源泉を求め、その秋元の憧れがそれぞれ別のかたちをとったものとして両グループを捉えてきた。舞台演劇的な機構を備えながら「アイドルソング」の上演を志向するAKB48と、舞台となる拠点を与えられてはいないがコンテンツに「演劇」を強くにじませる乃木坂46。そのそれぞれが、秋元の憧憬が具体的なかたちをとったものである。そこにAKB48と背中合わせの存在として乃木坂46を位置づけてみた。
 けれどもそれは、いってしまえばはっきりと表明されることがない一つの見立てでしかない。「AKB48」といわれれば、それはしばしば「国民的」と冠をつけられるほどに日本社会に浸透し、現在のグループアイドルの基準をつくっている一大組織だし、そのAKB48の「公式ライバル」であるならば、このモンスター的な組織に対抗し肩を並べる、つまり「競う」ための何かとして認識される。しかし、AKB48に対抗するアイドルグループとしての肩書をあらかじめ背負わされた乃木坂46は、「ライバル」であるにはあまりにもAKB48と非対称な立場からスタートせざるをえなかった。
 その姿はたとえば、7月から公開されている乃木坂46初のドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(監督:丸山健志、2015年。以下、『悲しみの忘れ方』と略記)に垣間見ることができる。今回はこのドキュメンタリー作品を起点にして、乃木坂46とAKB48との「距離」について考えてみたい。

アイドルのドキュメンタリーが映すもの

 ところで、アイドルのドキュメンタリーというものについても、現在その基準になるのはAKB48である。芸能生活を送る者としての日常を追い、その横顔にクローズアップするのはこうしたドキュメンタリーの常だが、AKB48によってイメージづけられたのはアイドルのドキュメンタリーがことさらに苦悩や苛烈な環境を映し出すということだ。そのイメージの先鞭をつけたのは高橋栄樹監督による2012年のAKB48ドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』だろう。西武ドームコンサートの舞台裏や選抜総選挙を追った映像が映し出した、メンバーたちのあからさまな疲弊は、AKB48のファンの外にまで反響を呼び、「AKBドキュメンタリー」の性格を広く知らしめた。
 同様に高橋が手がけた翌年以降のAKB48ドキュメンタリー群でも、過剰に大きくなっていくグループの社会的な位置や「アイドル」というジャンルがもつ理不尽な慣習にメンバーたちが翻弄される姿は随所に映されていく。そのような、ときに恣意的にしつらえられたような難題を起点にして、アイドル本人の思考や決断をありありと見せていくことで、アイドルのドキュメンタリーのスタンダードを確立した。
 ついでにいうならば、ドキュメンタリーというコンテンツと相乗効果をなして拍車をかけるのは、本連載初回でも見たようなSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及である。複数のSNSを次々に導入して各メンバーがそれぞれに絶えず日々の断片や思考を発信していくことで、彼女たちは自分なりのブランディングを模索していく。自分たちが置かれた「アイドル」というジャンルの枠組みを通して己の歩む方向を探り、そしてそのさまがリアルタイムでファンに開かれる。ステージの上での姿もSNSでの姿も地続きになり逐一アウトプットされていくことで、アイドルとしての活動自体が常にドキュメンタリー的な消費を促すものになる。そしてそれぞれがその環境を乗りこなし、アウトプットの見え方までもコントロールしながらセルフプロデュースしていく場が現代のアイドルシーンだといえる。そのジャンル内でどう生きるかを常に見せ続けるのが今日のアイドルだし、だからこそ個々人の「アイドルであること」へのスタンスも浮き彫りになる。
 こうした意味で、ドキュメンタリーというコンテンツはアイドルシーンときわめて相性がいい。ただしまた別の言い方をすれば、わざわざドキュメンタリーという映像の体裁をとらずとも、アイドルのコンテンツ全般がアイドルのパーソナルなドキュメンタリーとしての性格をもっている。それだけに、グループ全体を扱うドキュメンタリー作品はしばしば、アイドルの個に密着するよりもむしろやや俯瞰してその姿を切り取るものにもなる。

根拠なき「公式ライバル」

 さて、そうした趨勢のなかで、乃木坂46のドキュメンタリーはメンバーのどのような姿に焦点を当てていくのか。『悲しみの忘れ方』のなかで、乃木坂46というグループが初めて外部の風にさらされるのは、2012年1月にTOKYO DOME CITY HALLでおこなわれた「AKB48 リクエストアワーセットリストベスト100 2012」の舞台裏である。AKB48グループが顔をそろえる大きな恒例イベントの一つであるリクエストアワーを観察したこのシーンでまず映し出されるのは、48グループが垣根を超えて大きな円陣を作り、開演に向けてテンションを高めていく姿だ。AKB48のドキュメンタリーでもしばしばこうした舞台裏のシーンは用いられ、AKB48メンバーのパーソナリティーに近づく瞬間として切り取られる。
 しかし、その同じような舞台裏の場面が『悲しみの忘れ方』では、乃木坂46にとってのハードな壁として立ち現れる。AKB48のドキュメンタリーのなかでは逡巡や苦悩を見せる人々であっても、はたから見ればすでに多大な知名度を獲得したグループでポジションを争うプロフェッショナルたちである。その48グループの円陣を、隅の小さなスペースで見守る乃木坂46メンバーたちの姿は、物理的な意味でも象徴的な意味でも、圧倒的に小さい。それもそのはず、この時点で乃木坂46というグループはまだ、実績は皆無に等しい。映画のなかでメンバーの生田絵梨花は「ライバルです、っていったって全然経験もないし、ほぼ素人だし。ライバルだけど、“ライバル”って自分たちの口からとても言えない」と振り返る。またキャプテンの桜井玲香も「公式ライバルであることの意味っていうか、重要性とか自分たちの存在がどういうものなのかということすら何も〔わからなかった:引用者注〕」と、この時期の困難を語る。活動実績もほとんどなく、アイドルになることへの構え方も定まっていない人々が「AKB48の公式ライバル」という看板だけを背負わされて、この巨大組織にいきなり対峙することになる不条理な光景がここにはある。先に映し出されていた48グループのそれに比べればごくごく小さな円陣を組み、さっきまでAKB48がファンを前にパフォーマンスをしていたそのステージでデビュー曲を披露する。フォーカスされるメンバーたちは形だけの笑顔を浮かべながらも、その笑顔はまだパフォーマーとしての余裕も矜持もおぼつかない不安定なものだ。楽曲披露後にセンターポジションに立つ生駒里奈がおこなうスピーチでは、ほとんど崩壊と紙一重の彼女の表情が見てとれる。もちろんそれはただ生駒一人のものではない。国内随一の影響力をもつアイドルグループの競争相手という大きすぎる肩書を与えられた彼女たちには、そこに立つだけの根拠がまだ何もない。芸能人として人前に立つことにさえなじんでいない彼女たちは、アイドルシーンの最も大きな流れに放り込まれて、自身の足場さえ見つけられないでいた。
 もちろん、これは乃木坂46の3年半あまりを追ったドキュメンタリーの、時系列的にいえばごく序盤の頃を記録した映像である。現在では彼女たちの知名度も顔立ちも大きく変わり、AKB48系列のグループのなかでは本家のAKB48に次ぐセールスを記録するようになっている。いまや疑いなくアイドルシーンの中核に乃木坂46というグループはある。
 しかし、キャリアを重ねるにつれて彼女たちがAKB48のようにアイドルシーンの慣習を内面化してきたのかといえば、このドキュメンタリー作品が切り取っているのはそうした順応の過程とは少し様子が違う。むしろ、ある意味ではどこまでもその慣習にコミットしていないとさえ見える姿がそこにはある。あるいはそれが、このグループの特異さの一面を表しているのかもしれない。

「母の視点」とアイドルシーンへの距離感

『悲しみの忘れ方』という映画の色合いを決める大きな要素にナレーションがある。ナレーターを務める西田尚美が読み上げるのは、乃木坂46メンバーの母親たちがつづった言葉である。ここで特徴的なのは、母親たちはどちらかといえばポジティブなエールではなく、自身の娘が芸能の世界で活動することへの、いくぶん後ろ向きな感慨を吐露していることだ。この1年半ほどの間に乃木坂46の代表的なアイコンの一人に成長した西野七瀬の母親は、娘にオーディションを勧め、結果として彼女が乃木坂46のメンバーに選ばれたことを振り返り、「とりかえしのつかないことをしてしまった」という言葉を選んでいる。ある母親は娘の仕事に関して親の力の及ばないところにいってしまったことへの寂しさを語り、ある母親はかつての娘との心理的な距離を振り返る。それは自身の子どもが屈指のメジャーアイドルグループの主要メンバーであることに順応するというよりは、どうにか折り合いをつけているような風情も感じさせる。
 そして、メンバーたち自身のスタンスもまた、こうした親たちの語りと同期するように、アイドルシーンに順応するよりも、自身がいるジャンルに対していささかの距離や違和感をにじませる。これが、AKB48のドキュメンタリー作品群との間にある大きな差でもあるように思う。
 AKB48のメンバーがドキュメンタリー作品のなかで追われるとき、もちろん葛藤や疲弊をカメラの前で見せながらも、彼女たちは現在のアイドルシーンにごく当然のようにコミットしているふうに映ることが多い。それは今日のこのジャンルのスタンダードを作り続け、どこまでも「体制」として存在するグループの一員としての必然なのかもしれないし、知らず身につけているトップランナーの一員としての矜持の表れなのかもしれない。それに対して『悲しみの忘れ方』では、乃木坂46メンバーたちの足場は、常に「アイドル」を一歩引いて見る、あるいはあくまで異界として触れるような位置にある。アイドルになるまでの来歴を振り返るくだりがそのようなルックになるのは自然なことでもあるが、この映画の場合、社会的には順調にグループが成長し、AKB48に次ぐレベルの勢いを獲得している現在を語るその姿も、どこかアイドルシーンに染まりきることから距離をとっているように感じられるのだ。あるメンバーは、自身がアイドルになったことへの実感できなさを語るその直後に、このグループでの外部活動を経ていかに「卒業」後にそれをつなげていくのかというビジョンへと話を展開する。乃木坂46がセールスも知名度も急上昇させているなかでも、グループの内部への結束に傾斜するよりも、個人の人生にとって乃木坂46あるいはグループアイドルシーンをどう位置づけるのかのほうが前面に押し出される。このスタンスが総体としてのユニークさを彩ってもいる。
 そしてこうしたメンバーたちのスタンスに、あくまで一般人の視点としての「母親」の語りが交錯する。メンバーたち当人は、それでもまだ現在のアイドルシーンの慣習や独特の規制をそれぞれに引き受けながら歩んでいる。しかし、母親たちにとってみればそれらは少なからず、わが子に降りかかる理不尽でしかない事柄である。だから「母親」たちはごく自然にその理不尽さに困惑する。映画にとって俯瞰的な役割を演じることになるナレーションがこのように一般人としての立場をとっていることで、映画は基本的な視点を芸能界にではなく一般世界に置くことになる。そしてそれは、心理的にはアイドルシーンに距離をとっているようなメンバー本人たちの語りとも共振しているように見える。AKB48のドキュメンタリーとの比較でいうならば、AKB48ドキュメンタリーがアイドルシーンの真ん中に軸足を置いているとすれば、乃木坂46のドキュメンタリーはその軸足があくまでアイドルというジャンルからは外れたところにあるかのようだ。

個人であること、グループであること

 ただし、このようなスタンスは決して「アイドル」に対する否定ではない。彼女たちの発言の端々には、グループから離れた外部活動の数々もまた、AKB48の公式ライバルとしての大きさをあらかじめ背負っているからこそ得られるということへの自覚がある。さらにいえば、そもそも個々がグループに所属しているメリットを介して外部活動をすること自体、メジャーなアイドルグループの最も大きな意義の一つであり、またこの立場の正当な「利用」の仕方である。いまやモンスターグループとしての存在が定着したことで見えづらくなっているが、AKB48は所属しているメンバーそれぞれがこの場所を個人として活動するためのステップとして位置づけられている。グループとしてのインパクトが強大になった現在でもそのコンセプトは変わっていないし、社会のなかで大きな存在になったからこそステップとしての価値もまた増大している。その意味で、『悲しみの忘れ方』に見えるメンバーたちの視線は、グループアイドルの生き方として、きわめて自然なありようではあるのだ。AKB48系のグループに入ることの長期的な意味を、『悲しみの忘れ方』は乃木坂46というグループ独特のシーンへの距離感を通じて浮かび上がらせているといえるだろう。
 この作品中ただ一人、いまはもう乃木坂46には所属していない元メンバーが撮り下ろしインタビューでフィーチャーされるシーンがある。すなわち、今年2015年春まで乃木坂46の兼任メンバーだったSKE48の松井玲奈である。松井は乃木坂46というグループの性質を「何か、透明なところ」という言葉で表現するが、彼女は続けて「グループとしてまだ自分たちの方向性が見いだせてないから、それも透明な感じがする」と言う。文字だけで受け取れば、ともすればネガティブな評価にも見えかねない言葉だが、これはまた、強くアイドルシーンに身をゆだねるよりも、個々人の人生の模索の束がグループになっているような乃木坂46のあり方を細やかに感受したような言い回しでもある。
 松井は乃木坂46にとって、単にかつての在籍メンバーであるだけではなく、グループにアイドルシーンの息遣いを教える存在であり、また乃木坂46の誰よりも芸能人として大きな舞台を経験してきた先輩である。また、SKE48という、AKB48系のなかでも個人活動よりもグループとしてのアイデンティティーが強く押し出される印象が強い組織のなかで、グループから足を半歩ずらして個としての俯瞰した視点を保っているような人物でもある。その松井が示唆した「グループとしての方向性が見いだせていない」という言葉は興味深い。もちろん、グループとしての凝集力が強いSKE48と対比すればそれは弱さでもあるはずだが、その特徴を語る松井の姿に苦言めいた色はなく、むしろ何かそれを楽しんでいるようにも見える。
『悲しみの忘れ方』終盤に配置されたその松井の語りを起点にして、映画は乃木坂46メンバーの個人活動が充実期に入ったような場面を矢継ぎ早に押し出していく。それぞれのキャリア形成にもつながる個人活動をこそ強く意識することで、それこそが乃木坂46の、グループアイドルとしての統一した色になり、グループのブランディングに寄与する。一見、通常とは逆のベクトルが強調されているようだが、グループに在籍することの意義をきわめてまっとうしているし、それは究極的にはAKB48の目的とも合致するものだ。「AKB48の公式ライバル」たる乃木坂46は、AKB48と同じほうを向いてしのぎを削ることではなく、そこから距離をとりながら走ることを通じて、AKB48の意義と同じものを体現している。これは『悲しみの忘れ方』全体に通底する、個々の人生がある種の異物として他者的にアイドルシーンを見据えながら関わっているような、ユニークな手触りによって浮かび上がるものだろう。AKB48の「裏」としての存在感は、そんな独特の手続きを通じても表れているのかもしれない。

 

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