第6章 戦前の消費社会と幻の万博――前篇

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

1 復興記念横浜大博覧会

 2600年奉祝万博は会場設計段階までいったけれども、実現していたら人々がどんな催事やアトラクションを楽しんだかまでははっきりしない部分が多い。延期の決定は開催2年前で、そろそろ内容の具体化に入るタイミングだったため、催事の詳細や演芸場・野外音楽堂でのイベントについては、ようやく企画作りが緒に就いたところで宙に浮いた。雑誌「万博」(日本万国博覧会協会)には、疑似世界旅行を体験できる「万博大観」、「コドモノクニ」などのアトラクション施設、世界5大サーカス団の招聘などの計画が報告されているものの、すでに決まっていた企画案にしても、実現までに大幅な変更を余儀なくされることも万博では珍しくない。
 それでも当時の社会状況や関連事業から推測して、ある程度の姿を描くことはできる。万博事務局は先行する欧米の事例をよくリサーチしていて、当然のことながら世界標準としての万博の基本は踏襲されただろう。しかし、海外旅行が今日とは比較にならないほど費用も時間もかかる時代だったことを考えれば、多くの国民はそれを世界の万博との比較においてではなく、国内博の延長上にイメージしていたはずである。
 博覧会は当時、都市部に生活する人々にとって身近なメディアだった。開国以来、日本人は国内でも博覧会の経験をこつこつと重ねていて、暮沢剛巳「第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡」がつとに紹介しているように、1930年代にはそうした動きは列島だけでなく台湾や朝鮮など帝国の植民地にまでも広がっていた。日本国博覧会が大枠で欧米諸国の万博と平仄を合わせるものだったとしても、大型の博覧会を開くのに必要なノウハウや人材はすでに国内に蓄積されていて、宣伝広報を介しての動員や催事、アトラクションについてもその経験が生かされたにちがいないのである。
 ここで明治以降の国内博の流れを簡単に振り返っておこう。長年の鎖国のギャップを埋めるため西欧列強の科学技術や文化に並々ならぬ関心を寄せた日本人にとって、世界の最先端の知が集結する万博はこれ以上ない学びの場だった。単に視察にとどまらず、江戸末期の幕藩体制時代から出展も重ねていたが、時々の幕府や藩、政府だけでなく、貿易販路を切り開こうとするたくましい商人たちもこれに積極的に呼応した。
 明治期には海外への出展だけではなく、国内でも国民の教化啓蒙の手段として博覧会が開催されるようになる。1877年(明治10年)に第1回を迎えた内国勧業博覧会は、その後も第5回の京都まで断続的に開催され、のちの博覧会隆盛の礎を築いた。大正・昭和期になると、国内各地で続々と博覧会が開かれていく。テーマも多彩だ。産業博、勧業博を始め、観光博、国防博、鉄道開通記念博、関東大震災からの復興博、さらには婚礼博やこども博など、特定のテーマに沿ったおびただしい数の博覧会が各地で開催されていくのである。
 博覧会の舞台裏は、いわゆるランカイ屋と呼ばれる人々によって支えられていた。戦前の博覧会を数多く手掛けた中川童二によると(1)、ランカイ屋は主に4つのクラスに分かれていた。博覧会の開催が決まると、主催者である県や市、鉄道会社や新聞社などの内部に事務局が組織され、さまざまな部署から人が集められる。しかし彼らには博覧会を開くノウハウがあるわけではない。この素人集団にプロとして入り込むのがAクラスのランカイ屋である。彼らは各地の博覧会を渡り歩いているので、内外の事情に詳しいだけでなく、打ち合わせの仕方や宣伝方法、さらには工事規定などにも精通していて、工事関係者にも顔がきいた。Bクラスは実際の工事を請け負う層で、建設業者や装飾会社がこれにあたる。Cクラスはさらにその下で働く職人たち、すなわちデザイナー、背景画家、大工、ペンキ屋、電気屋といった人々。そしてこのヒエラルキーのいちばん下に位置するのが、Dランクのテキ屋である。テキ屋というとお祭りの出店などが思い浮かぶけれども、博覧会で興行をおこなう者もいて、博覧会の面目にかかわるような場所には入れないことも多かったが、テキ屋のなかには外国のサーカス団を呼んでくるほどの実力をもつ者もいた。逆にAクラスだからといって信頼がおけるともかぎらず、「博覧会が出来上がると、工事担当者から、たんまりとリベートをとって、出品者に供応させ、女看守を誘惑して、開館まぎわにドロン」するような者もいた。
 パビリオンや会場施設の建設は地元の工務店や左官屋が請け負うこともあったが、国外館や奇抜なアイデアなども盛り込んだ博覧会場を短期で完成させるために専門の職人が求められたのも、また自然な流れだっただろう。彼らは博覧会が開かれるところどこにでも駆け付け、朝鮮や台湾、満州など外地の博覧会であっても、仕事を受けて海を渡った。中川の回想記は、開会日に間に合わせるために知恵と力を絞り、次々と起こるトラブルをやり過ごして、つかんだ小金で派手に豪遊するランカイ屋たちの姿を生き生きと伝えている。
 博覧会は地域振興や産業振興に寄与したため、大正期に入ると自治体主導でも多数開催されるようになる。もっとも教育啓蒙というお堅い内容だけでは人は集まらないから、集客のためのさまざまなアトラクションが開発された。すでに明治の勧業博に登場していたウォーターシュートから、パノラマ館、不思議館、メリーゴーラウンド、水族館、海女館、空中回転車などが人気を集めた。盛況が伝えられるとほかも追随し、ランカイ屋たちがコンテンツを全国に売って歩くという一連の流れもパターン化する。新聞社や百貨店による民間主催も増え、1930年代に入ると規模も拡大し、名古屋の汎太平洋平和博のように多数の招待国を擁するミニ万博のような博覧会さえ出現する。日中戦争激化後は軍部主催の博覧会も目立って増え、戦地を再現する大規模なパノラマが半ば国策として制作されていった。
 それらの博覧会はテーマや地域によって異なってはいるものの、ある程度共通する基本フォーマットをもつ。実は2600年博の催事の実際は、ほかの万博との比較よりもむしろこうした先行する国内博と比較してみるほうが、当時の人々が思い描いていただろう姿に近づくことができる。博覧会の成否は何といっても集客にかかっていて、そのための宣伝広報活動や余興、アトラクションの充実は不可欠だった。実際に万博の計画や事前活動を見るかぎり、国内博の先行例とかなりの共通性を有しているのである。
 そこで本章ではまず、関東大震災からの復興を記念した復興記念横浜大博覧会(1935年)の宣伝活動やアトラクションに注目することで、幻の万博の姿を間接的に浮かび上がらせてみよう(2)。2600年博は東京晴海の埋立地と横浜でおこなわれる予定だったから、1935年の横浜の復興博はそれに先行するものと位置づけられる。
 関東大震災では、横浜も甚大な被害を受けた。当時の横浜市の人口は42万人で、東京市の5分の1程度だったにもかかわらず、家屋の全壊棟数は1万6,000戸と東京市をはるかにしのぎ、現在のJR関内駅周辺の住宅密集地では80パーセント以上の家屋がつぶれ、そこから火災が発生して深刻な打撃を受けたのである(3)。その後の復興事業によって1929年4月には記念式典をとりおこなうところまでこぎつけたものの、折からの世界不況のあおりを受けて貿易も停滞し、再び苦境に陥った。そこで市は横浜市長・大西一郎を会長に頂き「帝都の門としての横浜の発展」を目指す博覧会の計画を34年2月に発表した。
 広報は事務局内部に設置された宣伝部が担った。宣伝部はまず各所に勧誘特使を派遣するとともに、新聞雑誌を通じて出品を募った。また、ポスターは時期によって異なるデザインのものを5種類制作したが、第1回の1万5,000枚を全国に配布したのち、第2回以降は図案を一般公募し、157点の応募作から選ばれた4点が第2回から第5回までのポスターに用いられた。
 また視覚的な宣伝だけでなく耳への訴えかけが始まっているのも、ラジオやレコードが普及したこの時代らしい。公募形式はここでも採用され、行進曲調の「唱歌」と流行歌風(ジャズを含む)の「唄」の2部門それぞれに歌詞が募られた。唱歌130点、小唄84点の応募作のなかには曲をつけてくるものまであったという。西條八十が選者になり、入選歌詞による唱歌『復興博の歌』が、1935年1月18日開港記念横浜会館で開催された復興博の夕 音楽舞踏の会で一般公開された。一方、唄の部の1等賞作は社交ダンスのニューステップとして振り付けられた。2等賞作は松竹レコード・スタジオによってレコード化され、博覧会記念として一般頒布されたという。
 音楽を用いた宣伝はこれにとどまらない。紫紅の筆名で明治大正期に劇作で活躍した山崎小三は、震災後は政財界に活躍の場を移し、この時期には横浜の市会議員になっていた。山崎はこの機に『横浜音頭』を作詞、1934年7月に横浜市電気局主催の納涼大会で披露している。
 しかし博覧会を彩り、訪れた人々の心にさらに深く刻まれた音楽は、西條八十作詞、中山晋平作曲『濱をどり』音頭だったのではないだろうか。復興博会場に設置された演芸館では、後述するように『濱をどり』をテーマにした6景からなる舞踊劇が連日上演された。この曲は同じく西條八十作詞による新小唄『港むすめ』(作曲:佐々木俊一)とともにビクターから発売されてヒット、『港むすめ』は東宝の前身の一つ、ピー・シー・エル映画製作所の『旧恋』(監督:矢倉茂雄、1935年)の主題歌にもなったのである(4)。
 新聞・雑誌といった印刷メディアも大いに活用された。中核となったのが新聞宣伝で、地方紙にまで広告を打つだけでなく、「ジャパン・イラストレーレッド」などを通じて早い時期から海外広報にも取り組んだ。また大福引デーなどイベント連動型の企画も目を引く。「サンデー毎日」(毎日新聞社)、「アサヒグラフ」(朝日新聞社)、「新青年」(博友社)、「少年倶楽部」(大日本雄弁会講談社)など当時のメジャー雑誌にも積極的な呼びかけをおこない、徳川夢声を特派員として体験記を掲載した雑誌もあったという。
 新聞社主催のイベントも少なくない。「東京朝日新聞」は朝日カメラ館を、また「東京日日新聞」は子供の国を、それぞれ特設館として会場内に設置した。「横浜貿易新報」による標語募集には全国から4,000近い応募があり、「挙(ルビ:こぞ)って横浜へ、揃って復興博へ」が1等に選ばれた。
 宣伝は街頭など都市の生活空間にも入っていった。東京・横浜など五十数カ所にネオンなどで装飾された立て看板が置かれ、地下鉄・電信柱・私鉄・バスにもポスターが掲示された。自動車による街頭宣伝もおこなわれ、『濱をどり』『港むすめ』などを演奏する一団が各地を巡回した。飛行機からのビラまきは今日ではおこなわれないが、個人飛行などのついでに数万から数十万枚の単位で投下された。横浜の女流飛行家が羽田から満州親善飛行に飛び立った際には、事務局は散布ビラのほかに朝鮮総督府、大連や新京の市長などへのメッセージも託している。その効果については、「街頭配布に比して多少劣るかの観あるが、飛行機上からのビラまきは、ビラまきそれ自体に、大衆の注意を集める大きな力がある」と報告書が述べているとおり、話題性は満点だったようだ。
 ラジオ・映画ニュースなども重要な宣伝媒体で、単なる周知・広報にとどまらず、タイアップ型までもが登場している。先ほど述べた映画『旧恋』は、横浜のバーに身をやつした女が相思のまま離別した男と邂逅を遂げるという、原作者・菊池寛お得意のコテコテ恋愛劇なのだが、山手外人街、山下町、波止場などでロケをおこない、「これ程完全に横浜を取り入れた映画は、是が最初」と報告書が絶賛する仕上がりだった。街角の映像を彩る『港むすめ』(このころ国内ではトーキーが普及し始めていた)とともに、港町・横浜は観客の脳裏に強力に刻み込まれたことだろう。
 会期が近づくと、広報活動はありとあらゆる場面で展開された。郵便物は特製スタンプで押印、街頭にはサンドイッチマンが、公園内には大装飾柱が出現した。たすき掛けの宣伝ガールが宣伝マッチを街頭配布したが、このマッチは英語版も用意され、出港する船舶に乗って全世界へと送られた。絵はがき、会場図、リーフレット、英文パンフレットなどの配布物に加え、時事写真が浴場や商店に掲示された。アトラクションに招聘されたアメリカン・ロデオの一団も、明治神宮や宮城を参拝したあと、新聞社や百貨店を訪問して広報に一役買った。前売り入場券は景品付きで、当選すると伊勢神宮、二見、奈良、京都遊覧に招待された。汽車・宿泊・食事・土産付きの当たりくじは500本用意され、これによって実売12万枚という好成績を得ることができた。
 次に、会場でおこなわれたアトラクションについて見ていきたい。博覧会は3月26日から5月24日、2カ月にわたって開催された。催事のメイン会場は演芸館で、開幕日に能楽と『港むすめ』『濱をどり』によるこけら落としをおこなったあと、連日2部構成で有料公演をおこなった。第2部には前述の『濱をどり』を中心とする劇が上演されたが、第1部は客演で、さまざまな内容の出し物が数日から10日程度で入れ替わった。めぼしいものを拾っていこう。4月3日には澤村宗十郎ならびに地方・関内芸妓連による『奴道成寺』が2時間にわたって上演されたあと、ジャズ演奏に移り、アール・ユールス指揮、フロリダ・カレンジアンス伴奏のもとヘレン隅田が歌唱やタップダンスを披露した。ヘレン隅田こと隅田寿美子は日系2世で、外国曲カバーのヒットを受けてレコード会社の招聘で来日したものの、あまりパッとしないままアメリカに帰国した。これは自らのルーツになった国に残した仕事の一つというわけだ。
 彼女がビクターに録音した「ニッポン娘」を聴いたが、「言葉は分からない/なんにもわからない/1人さびしく泣いている(略)船でニッポン来たのよ/はるばる超えてニッポン来たのよ」という歌詞が、舌足らずな歌唱で切々と歌われ哀愁を覚える。戦前、日本はアメリカに多くの移民を送り出しているが、彼らは戦争開始後も敵国人として収容されるなど、文化のはざまでさらなる辛酸をなめることになる。彼女もそうした経緯をたどったのだろうか。
 4月19日から5月14日にかけては、ドイツに渡ってノイエ・タンツを学んだ江口隆哉とその弟・江口乙矢、隆哉の妻・宮操子らの舞踏が繰り広げられた。江口は日本のモダンダンスの礎を築いた人物だが、この日はフーゴ・カウン『若き日』、ベルナウ『3人の踊子』『打楽器による習作』、グスタフ・ランゲ『明』、リヒャルト・シュトラウス『ラインランド風景』を披露した。『ラインランド風景』でピアノ伴奏を受け持った岩田喜代造は、コロムビアの専属管弦楽団で楽長を務めていたピアニストである。
 4月22日から29日には東宝劇壇(ママ)が登場、当時の看板だった美川百合子や大徳寺君枝が独唱やダンス(スパニッシュダンスやタップダンス)、寸劇を演じている。さらに4月30日から5月4日までは、エリアナ・パヴロバによる『白鳥』『タンゴアンダウルサ』『ジプシースパニッシュ』ほかが上演された。パヴロバはサンクトペテルブルクに生まれたが、ロシア革命で国を追われ日本に入国。1937年には日本に帰化するとともに多くのダンサーを育て、日本バレエの母として知られる。パヴロバが日本の地を踏んだのは20年代初頭で、途中に上海やハルビンにも立ち寄っている。租界地・上海では各国からの移住者でインターナショナルな文化が花開く一方、ハルビンは満州事変まではソ連の極東での戦略的要所として文化活動にも力が入れられていた。ここで少しハルビンについて付言しておこう。
 満州事変以前、1930年代初頭に外交官の一家として同地に住んでいたオペラ好きの日本人の回想によれば(5)、当時ハルビンでは鉄道で働くロシア人の慰問のために、モスクワからオペラ座などの客演が頻繁にあったという。『スペードの女王』や『エフゲニー・オネーギン』などの定番作品ばかりでなく、リムスキー・コルサコフやモデスト・ムソルグスキーをはじめとするロシア物、『売られた花嫁』『ホフマン物語』『蝶々夫人』など多様な演目が上演されていた。当時の日本内地では考えられない贅である。
 中心街キタイスカヤ通りは当時「東洋の小パリ」と呼ばれ、石畳の通りの両側にはアールデコ風の建築物が立ち並んで情緒あふれる一角だった。筆者はごく最近ハルビンを旅したが、文化大革命を経て現在はロシア人はおろかかつてのロシア支配の痕跡さえないものの、街並みは昔の面影をよく伝えていた。暮沢の前掲「第7章 満州で考える」にもあるように、満州国時代の日本の建築物も現在でも現役のものが多く、イデオロギーとは別に使えるものは使う、という中国人の実利的な思考がよく表れているように感じられた。この訪問では、キタイスカヤ通りの一角に1913年に建てられたモデルン・ホテルに投宿したが、当時の音楽家やバレリーナたちの写真でロビーが飾られていた。パヴロバも同じ舞台で踊ったのだろうか。
 演芸館の話に戻ろう。これらの催しを第1部として、このあと第2部には唄と踊りからなる劇『濱をどり』が上演された。この催しは6景からなり、まず日本の玄関口・横浜から恵みの御代をことほぐ導入に始まり、東海道の光景、黒船渡来、1923年(大正12年)の震災の猛火、そこからの復興を経て、現代の横浜の繁栄を祝い先述の『濱をどり』が踊られるというものだった。週替わりで神奈川を中心とする各地の芸妓連がその踊りを披露した。
 演芸館以上に大衆の耳目を引いたのは、オートバイ・サーカス、カウボーイ繰馬曲技、ファイヤー・ハイ・ダイビング、さらにはチンパンジーまで加わったアメリカン・ロデオの興行だった。会場になった外国余興場は8,250平方メートル(2,500坪)の敷地に4,290平方メートル(1,300坪)のグラウンド、30メートル(100尺)の高塔を設け、その両側には1,500人収容のスタンドを設置、立ち見を入れると計6,000人が観覧できた。催しは4部からなり、第1部は「ワイルド・ウエスト」と銘打って西部カウボーイとインディアンとの戦いが演じられた。投げ縄や人体の周囲に剣を投げて突き立てるアトラクションに加え、戦の前のインディアンの死のダンスやローマン・レースなどが披露された。これにオートバイの曲芸乗り(球技や横たわった人体の上を跳躍)や射撃などによるオートバイ・サーカス(第2部)、チンパンジーによる食事、喫煙、綱渡りなどの芸(第3部)が続き、ファイヤー・ハイ・ダイビング(第4部)でイベントはクライマックスを迎える。これは猛火に身を包んだ男女が高塔から地上のタンクに飛び込むというもので、大変な人気を呼び、54日間で有料・無料合わせて22万人あまりを集めた。ダイビング中にメンバーが強風にあおられてタンクの縁にあたり重症を負うという事故が起こった。幸いにも大事には至らなかったが、観客もさぞ固唾を飲んでなりゆきを見守ったことだろう。
「東京日日新聞」が中心になって運営した子供の国は1,650平方メートル(500坪)の敷地に山を築き、その斜面に滑り台、さらには3段のひな壇式楕円形トラックを設置して、三輪車、豆電気自動車、子馬を走らせた。入口の門に置かれた象の模型は、綱を引けば耳や鼻が動いて鈴が鳴るという仕掛けで訪れた子どもたちを喜ばせた。

 復興記念横浜博の宣伝・集客の手法には、押さえておくべきポイントがいくつかある。第一に、大衆消費イベントの祖型は戦後を先取りするかたちですでにできあがっているという点である。博覧会事務局は新聞・雑誌・ラジオ・映画などの各種メディアを用いて、盛んに宣伝広報をおこなった。1930年代半ばには軍事関連の博覧会も目立ち始めてはいるが、少なくとも横浜博に関するかぎり皇国主義的な要素はほとんど見られない。開催の動機は繁栄を願う地元団体の声に後押しされた自治体の地域復興にあり、それゆえ動員にあたっては福引で射幸心をあおるとか、街角から祭りの気分を醸成していくとか、演芸や派手なアトラクションで観客を楽しませるという手法がとられたのである。これは万博でも踏襲されていく。また、日系アメリカ人によるタップダンスやジャズ、ドイツ仕込みのモダンダンス、ロシア亡命バレリーナの踊り、アメリカン・ロデオなど、出し物には豊かな国際色も見られる。昭和初期の博覧会は啓蒙・教育を目的とした明治時代の内国勧業博のようなスタイルからは脱却し、消費社会のイベントへと進化を遂げている。
 これと関連するが、2点目に大衆動員にあたって参加型を巧みに取り入れていることにも着目しておきたい。福引はわかりやすい例だが、「復興博の歌」やスローガン制作(「挙って横浜へ、揃って復興博へ」)で積極的におこなわれた公募スタイルは、万博宣伝でも踏襲されていく。こうした公募型の楽曲制作は『満州行進曲』『肉弾三勇士の歌』などに見られるように、満州事変後、国威発揚という観点からもおこなわれていたが、それは必ずしも国家から強制されたものではなく、民間の宣伝イベントとしての性格を帯びながら自発的におこなわれていた。1937年には国民精神総動員の閣議決定を受け、内閣情報部が公募した『愛国行進曲』やNHKが信時潔に委嘱した『海ゆかば』が国民歌として制定されて、国民歌の公募は広がりを見せていくのだが(6)、そこには単なる上からのお仕着せとは言い切れない、大衆の側からの積極的な応答もあった。各種メディアを媒介としたこの2つの動きの絡まり合いが、やがて日中戦争の激化、太平洋戦争開戦を経て、国体という強力な共同幻想を生み出していったのではないだろうか。
 3つ目に、博覧会は大衆消費社会を前提としたスタイルに発展していたとはいえ、都市と農村部の格差はまだ大きかったという点も指摘しておきたい。そのかぎりでは博覧会はあくまでも都市のものだったし、新聞やラジオはまだしも、映画館も依然として都市の娯楽だった。1938年の時点では、全国の映画館の半数、観客の7割は東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡の7都市に集中していて、市町村の95パーセントには常設の映画館はなかったという(7)。これは博覧会開催地とも相関関係にあり、東京、神奈川だけでなく愛知(汎太平洋平和博覧会、1937年)、京都(大礼記念京都大博覧会、1928年)、大阪(大礼記念奉祝交通電気博覧会、1928年)、兵庫(観艦式記念海港博覧会、1930年ほか多数)、福岡(博多築港記念大博覧会、1936年)と、これらの都市は例外なく大型博の開催地になっている。
 一方で、農村部には依然として貧困が偏在していた。移民政策とは、いってみれば急速な人口増によって生じた農村部の貧困の輸出だった。1920年代以降、アメリカやカナダが日本人移民の受け入れに難色を示し始めると、帝国領土内への移民が奨励され、満州国建国以降は「王道楽土」をスローガンに、政府は厳しく痩せた土地への100万人もの移住政策を推進していくのである。
 のちに述べるように、満州館や朝鮮館、台湾館といった植民地パビリオンは、当時の国内博で広く見られた展示館だった。しかしこれらの展示は多くの場合、現地の資源や農産物などと急ピッチで開発された近代都市の紹介にとどまり、同胞が悪戦苦闘しながら開墾に明け暮れている場所という感覚は希薄である。この妙に他人事のような展示の印象は、関わっていた総督府や満州鉄道の意向にとどまらず、大衆消費社会として発展する都市部と、発展から取り残される農村部という格差からも生じているのではないだろうか。博覧会はあくまでも都市の娯楽であり、厳しく苦しい現実の紹介は忌避される傾向にあった。

2 紀元2600奉祝博――興行の計画案とその宣伝

 ポスターやチラシ、新聞・ラジオ・映画などのメディアを大胆に活用し、先行イベントをさまざまに企画することで大衆の期待値を高めていくという宣伝法は、すでに1930年代には完成されたスタイルを示している。そこには、参加型の関連企画を導入するなどの戦略的なアプローチも見られたのである。このような宣伝法は万博でも用いられた。
 会場計画が固まった1938年に入ると、出品勧誘と並んで宣伝広報が一気に具体化する。これを担ったのは万博宣伝委員会で、その第一回会合は同年2月14日に東京会館でもたれた(8)。戦後、参議院議員として大阪万博実現を主導した豊田雅孝が商工省商務局博覧会監理課長という肩書で参加しているのがまず目につき、時局を反映して陸海軍将校が入ったほかに、後述の奉戴イベントを主導したと見られる東京音楽学校長・乗杉嘉壽、兄・松次郎とともに松竹を創業した大谷竹次郎、国際文化振興会理事で美術史家・政治家としても活躍した團伊能、阪急電鉄の創業者にして宝塚少女歌劇団など数々の事業を手掛けた小林一三などの名前も見える。また日本航空や日本郵船といった交通機関を扱う企業のほかに、大日本製乳協会も参画した。
 この会合で確認されたのは、以下の6点である。

 1)国防、殊に広義国防、思想戦に備うる十分なる考慮を出品の上にも取り入れること
2)外国からの鑑賞者を収容するホテル設備につき万全を期すること
3)外客誘致につき観光団を組織、連絡を図ること
4)映画演劇方面と十分なる提携を計ること
5)菓子類其他とも同様密接なる連携を計ること
6)内閣関係其他各種の印刷物をできる限り利用すること

 第1項では国防、思想戦をキーに、万博を通じて国内の動員体制を強化しようとする軍部の思惑が、第2・3項には国外に宣伝活動を広げて外貨を獲得したいという経済・商業界の本音が表れている。第4・5項は大衆層をターゲットにした興行の重視である。「菓子類」が出てくるのは、子どもへの訴求力を考えてのことだろう。子ども向けアトラクションもこの時期の博覧会の重要なコンテンツだが、1930年代の日本は年率6パーセントから7パーセントの割合で人口が爆発的に増加する若い社会だった。
 万博でテーマや理念の提示が一般化するのは戦後のこととはいえ、表向きは紀元節奉祝をうたってはいても、それが宣伝委員会の確認事項で全くふれられていないということも、その本質が大衆娯楽イベントだったことを示唆している。延期という最終決定も、万博はどちらかといえばエンターテインメントという認識があったからだろう。
「映画演劇方面と十分なる提携を計ること」という第5項に関して、当時の興業界の勢力図にふれておこう。宣伝委員会に松竹の大谷竹次郎と阪急の小林一三という業界の両巨頭が入っていたことは、すでに述べたとおりである。小林は1920年前半には歌舞伎を旧態依然として事業の軸に据える松竹への批判を繰り返していた(9)。その批判は歌舞伎システムの閉鎖性や経済合理性の欠如に向けられていて、根底にはより民衆に近い新しい劇を育て普及させたいという思いがあった。それはまた、宝塚少女歌劇の成功からくる自信に裏打ちされてもいたのだろう。実際に小林は理念の実現に取り組んでいる。民衆に近い大劇場として建設された宝塚大劇場(1924年完成)は貴賓席を設けず、席数も公称4,000席(実際は3,000席あまり)と大きかった。これによってチケット単価を下げ、また宝塚歌劇を3組体制にして入れ替わりで公演を打つことで、ビジネスとしても成立させようとしたのである。さらに26年には国民劇の普及を目指して中劇場を拠点とした劇団・宝塚国民座を創設する。
 俳優だけでなく、脚本、演出、舞台美術、衣装、さらにはオーケストラまでをも専属で備える宝塚方式は、当時の日本では画期的なものだった。劇場という箱だけでなくマネージメント機能や専属劇団も擁し、コンテンツ制作までをパッケージでおこなって、日替わりで公演を打つというスタイルは、世界的な劇場大国ドイツに見られるレパートリーシステムに近い。これを小林は、貴族や国家、自治体の支援によるのではなく、資本主義的な経済システムのなかでおこなおうとしたのである。しかし、高い志のもとに始まった国民座は旗揚げして3年で行き詰まり、小林は松竹が1920年代から手掛けていた映画制作に関心を移していく。民衆のエンターテインメントを追求した結果、演劇と映画を組み合わせた総合会社という松竹の経営モデルへ向かうのである。
 1930年代に入り、東京宝塚劇場、すなわち東宝の設立と劇場建設を足掛かりとして宝塚少女歌劇が東京に進出する。これを契機に横浜、松本、広島などに宝塚の名前を冠した劇場が続々とオープンした。また同時に日比谷映画劇場を開館させ、松竹から帝国劇場の経営権を譲り受けることで、30年代半ばには小林の事業は松竹と比肩しうるものへと発展を遂げていたのである。
 小林はもともと宝塚線・箕面支線の開通に際して動物園や温泉を用いて集客するという、私鉄沿線開発の元祖だった。宝塚線は大都市間を結んでおらず、畑のなかを走るような田舎路線だったため、付加価値を高めないと人々を引き付けられなかったのである。実はこの際、集客の目玉として活用されたのが博覧会だった。婦人博覧会(1913年3―5月)、婚礼博覧会(1914年4月―閉幕不明)、家庭博覧会(1915年3月―閉幕不明)、芝居博覧会(1916年3―5月)、宝塚こども博覧会(1918年開催月不明)と、開通当初、宝塚新温泉は毎年のように博覧会でにぎわっている(10)。ベッドタウンとしての宝塚線の利用者層を意識して、婦人・家庭・子どもをテーマにしているのも特徴的だ。婚礼博覧会の折に、娯楽場「パラダイス」のプールを改装した舞台で披露されたのが、宝塚少女歌劇だったのである。
 1920年代には宝塚大劇場の建設と運営に注力したためか博覧会は開催されていないようだが、30年代には博覧会ラッシュのなかで再び頻繁におこなわれるようになる。大阪日本新聞社主催の創立25周年記念婦人子供博覧会(1932年10―11月)、大阪毎日新聞社主催の皇太子誕生奉祝宝塚小国民博覧会(1934年3―5月)、宝塚逓信文化博覧会(1935年3月―閉幕不明)、宝塚皇国海軍博覧会(1935年3―5月)、日本婚礼進化博覧会(1936年開催月不明)である。規模を別にすれば、宝塚は日本で最も博覧会がおこなわれた場所の一つだったのである。
 小林が少女歌劇や演劇、映画といった事業に本格的に乗り出す前、動物園や温泉と並んで博覧会が集客の基盤にあったという事実は、新しく出現した都市大衆層にとって博覧会がいかに深く生活や娯楽と結び付いていたかを物語る。新たな試みに次々とチャレンジすることで人々の余暇を近代化した小林は、いまや国家の博覧会で自らが育ててきた事業をアピールする機会を手にしようとしていた。積年のライバルだった松竹の大谷とともに宣伝委員会に出席した小林の感懐はどのようなものだっただろうか。

 もともと外貨獲得や地域振興などの経済的な目的を主眼としてはじまった万博計画ではあったが、皇紀奉祝という“開催意図”は、日中戦争という時局が国民の生活に影を落とすにつれて強い意味を帯びていくことになった。開催反対論を押さえ込むうえで、皇室ブランドは効果的だったのである。総裁には昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁親王が選ばれ、1938年4月21日には盛大な奉戴式が挙行された。これは万博が単に東京や横浜という地域のためのものではなく、国家規模の祭典であることを印象づけるものだった。
 奉戴をめぐる一連の式典はまさに“プレ万博催事”の相を呈していて、万博の文化行事がどのようにとらえられていたのかを推測するうえで興味深い。翌22日には、公募作品の発表会である万博行進曲発表の夕が日比谷公会堂でおこなわれた。プログラムは以下のようなものだった。

 開会
国家「君が代」奉唱 帝国海軍軍楽隊
挨拶 日本万国博覧会宣伝部長 池園哲太郎
演奏曲目
第1部
1.吹奏楽 指揮 内藤清五
2.合唱  指揮 澤崎定之
(イ)愛国行進曲 無伴奏 内閣情報部選定/演奏会用編曲 橋本国彦
(ロ)大島節(民謡に拠る) 無伴奏 信時潔作曲
(ハ)さくら ピアノ伴奏  下総皖一作曲
3.合唱並吹奏楽  指揮 内藤清五
 紀元二千六百年記念日本万国博覧会行進曲
   日本万国博覧会撰歌/東京音楽学校作曲/下総皖一編曲
   合唱 東京音楽学校生徒  吹奏楽 帝国海軍々楽隊
 万国行進曲 唱和 東京音楽学校教授 澤崎定之
       指導 海軍々楽長 内藤清五
(休憩)

 第2部
4.筝曲 山田流 中能島欣一 外15名
  花三題 古今集より中能島欣一作曲
5.筝曲 生田流 宮城道雄 外30名
  うてや鼓  島崎藤村作詞 宮城道雄作曲
6.長唄 桜咲く国
吉住小三郎・稀音家六四郎補導 外百余名 囃子望月長之介・望月太左吉
       長唄研精会撰歌 吉住小三郎・稀音家六四郎作曲
      邦楽演奏東京音楽学校職員生徒
閉会

「万博行進曲発表会」と銘打ってはいるが、内実は東京音楽学校が総力を挙げた奉戴祝賀だったといえる。
 第1部は洋楽で、内藤清吾と澤崎定之が振り分けている。内藤は海軍軍楽隊に入隊したあと、東京音楽学校に学び、この時期には同校嘱託として教鞭をとってもいた。テノール歌手の澤崎定之、合唱曲の作編曲をおこなった橋本国彦、信時潔、下総皖一はすべて東京音楽学校の教師陣である。橋本、下総は信時の弟子筋にあたり、ドイツ流作曲の系譜にある。
 第2部が邦楽だが、こちらは時局をより反映している。東京音楽学校では、長らく実習だけをおこなう選科で筝曲が教えられていただけで、カリキュラムは洋楽を中心に組まれていた。こうした流れが大きく変わるのは、1928年、文部省で社会教育を提唱する乗杉嘉壽が校長に就任してからである。
 乗杉は着任早々から皇族を学校行事に積極的に招くと同時に、余芸のように扱われていた邦楽の校内での地位向上に着手する(11)。選科には長唄(1929年)、生田流筝曲(1930年、それまでは山田流だけ)が加えられた。能楽は1912年から選科として教えられていたが、33年にはさらに仕舞、囃子が追加されている。
 役人出身の乗杉は、マスコミに情報を流して世論を誘導するという、メディア使いの先駆者だったようだ。政治家との太いパイプも活用し、並の音楽家には不可能な改革を実現していく。時の文部大臣・松田源治は、帝国美術院を創設して美術界の一元化をおこなった1935年の“松田改組”の主導者として知られるが、乗杉は松田の国粋主義的な方向性に乗ることで、36年、念願だった邦楽科の設立にこぎつけた。万博行進曲発表の夕べでトリを務めた唄の吉住小三郎、三味線の稀音家六四郎(杉本金太郎)は、邦楽科設立の際に増員された教授ポストに採用された邦楽家で、その演奏のもと全校生徒職員が総出で歌う長唄は、洋楽中心の東京音楽学校の重心の転換を印象づけただろう。すでに述べたように乗杉は万博宣伝委員でもあったが、この奉戴式典を万博だけでなく新しい東京音楽学校をアピールする絶好の機会と考えたはずだ。
 東京での催しに続いて、翌23日には横浜開港記念館で総裁宮奉戴式奉祝音楽会がおこなわれている。洋楽のあと邦楽が続くという構成は東京と同じだが、前半の洋楽の内容が東京と少し異なり、ア・カペラ、無伴奏による合唱曲(『愛国行進曲』『大島節』『さくら』)に管弦楽演奏(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『フィデリオ序曲第三番』)が続き、さらにその伴奏で信時潔の『海ゆかば』、そして『万博行進曲』が歌われた。合唱指揮を担当した木下保は、オペラや独唱、合唱指揮などで戦後も活躍したテノール界の花形歌手である。東京音楽学校でも要職にあって信時の信頼も厚く、この少しあとに奉祝記念として書かれた信時の代表作、カンタータ『海道東征』の初演を任されてもいる。
 奉戴式の関連行事は、続いて大阪、福岡、名古屋でも開かれた。5月30日に大阪・中之島の中央公会堂でおこなわれた演奏会には東京音楽学校の教職員150人が出演、会場には3,000人の観客が詰めかけ、わずか30分で満員になった。こちらには邦楽科のメンバーは参加せず、『愛国行進曲』や『万博行進曲』のほか、フレデリック・ショパンのバラード、ジョルジュ・ビゼーの『真珠採り』のアリア、さらにベートーヴェン『ミサ曲ハ長調』から2楽章が演奏されるなど、バラエティーに富んだクラシックのプログラムになっている。
 福岡(6月6日)と名古屋(6月8日)は同一プログラムで、福岡の九州劇場では昼夜2回公演で3,000人近い動員があった。名古屋市公会堂での公演は、開場2時間半前から人が押し寄せたため開場時間を早め、最終的に3,500人が集まった。それぞれ市の産業課長が挨拶したあと、最初に『万博ニュース』『軍艦旗に栄光あれ』の2本の映画が上映された。事務局報道部長の池園の万博の説明ののち、コロムビア・オーケストラが『青空』『ジプシーの嘆き』を演奏、『万博行進曲』『万博をどり』が歌われた。このあと独唱・独奏に移り、霧島昇が『敵前上陸』『軍国の兄弟』『雨の降る夜は』『赤城しぐれ』を披露、バイオリン独奏(宗知康による『タバチーナ』)から、ミス・コロムビア(松原操)が『おぼろ月夜』『19の春』『春はうれしや』『婦人愛国の歌』を歌って、柳谷権太楼が落語で締めた。
 中心になって公演を企画したのはレコード会社のコロムビアで、東京音楽学校は影を潜め、娯楽色が強まっている。霧島昇は前年『赤城しぐれ』をコロムビアからリリースして大ヒット。覆面歌手としてデビューしたミス・コロムビアこと松原操も1年の休養を経てカムバックした直後で、『19の春』は彼女の人気曲の一つだった。霧島と松原はコロムビアの看板歌手として活躍し、この年の9月にリリースされた2人のデュエット『旅の夜風』は映画『愛染かつら』(監督:野村浩将、1939年)の主題歌として爆発的な人気を呼ぶことになる。
 このように福岡、名古屋での集客には、映画・人気歌手・落語というエンターテインメントが大きく寄与していた。多数のメンバーを東京から巡業させるには物理的な難しさもあっただろうが、そもそも芸術家の一元化をもくろんだ松田改組に対しても美術家たちは大きな不満を抱いていたし、松田=乗杉ラインで政治的に実現された邦楽科設立も邦楽界の反応は冷めたものだったというから、万博や皇室ブランドの受け止め方も地域によってかなりの温度差があったとしても不思議はない。むしろここで注目すべきは、霧島やミス・コロムビアの選曲に、『敵前上陸』『軍国の兄弟』『婦人愛国の歌』といった戦意高揚歌が含まれていることだ。行進曲調の勇ましい『敵前上陸』はもちろん、故国の兄に向けて弟が「百人斬りの 念願も/ようやく半分 すぎました」(『軍国の兄弟』)などとのどかな曲調に乗せて歌うほうが、お仕着せの祝祭よりも大衆には響くものがあったのではないか。国家総動員法の制定をきっかけにした国民歌の普及についてはすでにふれたが、これらはもともと民間の動きにその根をもっている。
 奉戴式の模様はJOAK(東京放送局)によって中継され、海外でも北アメリカ、カナダ西部、ハワイ、オーストラリア、中国、南洋、インド、ヨーロッパ、南アメリカと順次放送された。レコード会社もこぞって関連レコードを発売した。A面は「万博行進曲」で統一されていたが、B面にはそれぞれに持ち味を生かした多彩な楽曲が収録された。コロムビアは「万博行進曲」に澤崎定之指揮東京音楽学校をキャスティング、B面には霧島、ミス・コロムビアに加え松平晃、二葉あき子という人気歌手を結集し、小関裕而作曲「万博をどり」を収録した。キングはA面に看板テノール永田紘次郎、戦後自らの歌劇団を創立した長門美保を起用。裏面は管弦楽版「万博行進曲」を収録したほか、別に児童用レコードの吹き込みもおこなった。テイチクはA面を「青い山脈」で有名な藤山一郎に託し、Bは古賀政男作曲「躍進日本行進曲」を入れている。ほかにB面に細田義勝作編曲「万博音頭」を収録したビクターやタイヘイ、ポリドールがレコードを制作し、それらは全国で販売された。
 万博事務局は出品要請のための使節団を全世界に派遣するとともに、国内の協力動員体制の構築にも手をつけている。5月19日には、全国の観光業者が集まる日本観光連盟の総会に合わせて、観光事業関係者招待会を上野精養軒で開き、また丸の内東京会館では5月12、15、23日の3回にわたって東西技芸代表者懇談会と称してのべ40人以上の落語家を食事に招待、意図を周知し協力を求めた。大阪の記念演奏会の翌日5月31日には新大阪ホテルで漫才代表者懇談会を開催したが、これには漫才師のほか吉本興業支配人と広報部長も参加している。6月7日には東京会館にて演劇・舞踏・演芸懇談会が開催され、松竹、東宝、新興、大都、新橋演舞場、日本舞踏協会、吉本興業の関係者が集まった。
 演芸関連の企画立案体制が急ピッチで構築されていく一方、アミューズメント施設の設計も具体化していった。メインになるのは万博大観で、これはスフィンクス、ノートルダム大聖堂、小便小僧、寝大仏、ピサの斜塔、自由の女神、モスクワの鐘、オランダの風車、大石像など世界各地の名跡を再現し、それぞれのなかにパノラマやジオラマを設置、夜間はこれをライトアップすることで世界一周気分を味わうというものである。この詳細については、まず「万博」1938年5月号(日本万国博覧会協会)が3月22日の懇談会を報じていて、和田三造、藤田嗣治、吉屋信子といった画家や作家に加え、小林一三や豊田雅孝も参加し、三越と高島屋の装飾部への委嘱が決まった。一足先にデザインを完成させた三越に対し、高島屋は5案を提示し物量で応じた。「万博」1938年6月号(日本万国博覧会協会)に「理想案」として提示されているのは、巨大な地球型ドーム内部でパノラマやジオラマを駆使し、名跡だけでなく前世紀のシベリア、深海、オーロラやフィヨルドといった大自然の光景までも再現する意欲的なものだった。また奉戴式と同じころ、会場模型の地方巡回展がおこなわれ、東京・横浜会場と肇国記念館の模型が東京・三越本店を皮切りに大阪、京都、名古屋、神戸、静岡を巡回した。
 娯楽関連施設のうち演芸館、映画館、野外音楽堂は設計が終わっていて、最大で3,500人を収容できる野外音楽堂では、陸海軍軍楽隊のほか、管弦楽や吹奏楽の無料コンサートをはじめ各種大会がおこなわれる予定だった。図案からはギリシャ・ローマの野外円形劇場が想起されるが、入場門や舞台袖などには日本建築風の装飾が施されている。洋風と日本風の折衷スタイルは、帝冠様式として国内だけでなく帝国領土内に広く建設された。1937年に竣工した東京国立博物館本館は現代に残る代表作だが、野外音楽堂はその劇場版になったのではないか。
 明治座と東京劇場の長所を取り込んだ演芸館は、1,100人から1,200人を収容するはずだった。演劇、舞踏、音楽や競技、競演を国内だけでなく国外からもラインアップし、そのコンテンツについては松竹、東宝、大日本俳優協会、日本舞踏協会、新橋演舞場、各映画会社が企画制作をおこなうことになっていた。
 横浜会場には水族館が建設される予定だった。日本は四方を海に囲まれた海洋・水産国であるにもかかわらず、水族館の技術はすでに100年近い経験をもつ欧米に大きく離されていた。世界の水族館事情を視察した万博工営部技師・野間貞吉は、当時の国内事情を「之を世界水族館の番付に乗せると、堺大浜のを以てしても尚且つ前頭四五枚目と云う所で三役には一寸ほど遠い」と述べている。計画の詳細は定かではないが、万博を契機として最新鋭の水族館を建設して、欧米との距離を一気に縮める意図があったようだ。
 関連施設のなかでもひときわ娯楽色が強いのは、子ども向けのアミューズメントパーク・コドモノクニだろう。森永製菓が立案を受注して2案を提示、万博事務局が検討し、最終案に近いところまでいった。万博事務局側からは児童庭園デザイナーで日本庭園協会主事の高村弘平、和田三造とその弟子の青木滋芳らが入り、森永側の関係者としては若き建築家の前川国男が入っているのが目につく。前川は戦後のブリュッセル博でも日本館を手掛けて高い評価を得て、日本を代表する建築家になっていく。
 コドモノクニは埋め立て第4号地から第5号地へと渡る架橋の右前方に確保された8,000坪以上の土地に建設されることになっていた。王冠を頂いた王様が正門の上に座り、『アラビアンナイト』のような雰囲気を醸している。その正門をくぐって鉛筆の森、本の山、インクの滝などを通ると、うつぶせになった巨大なキングが大きく口を開けて待ち構えている。ここから始まる体内迷路は、子どもたちが体の各器官のはたらきを学ぶことができるよう、歯型の模型に始まって食道、胃、心臓、腸などの部屋を通っていくという趣向だった。この時代の子ども向け娯楽には今日のような純粋なアミューズメントはまだ少なく、「面白く、ためになる」が基本精神だった。体内迷路の出口には大プールが開けていて、観客はウォーターシュートに乗って、飛沫をかぶりながら小便のように押し出される。ウォーターシュートは明治時代から人気を博していた博覧会の名物アトラクションだ。
 桃太郎島、子供温泉、砂遊び場、相撲土俵などの先にコドモ科学館が見えてくる。館内には数学、天体、動植物などの部屋が、また入り口付近にはキリンの姿に装飾されたクレーンが設置され、子どもたちが落下傘で遊べるように計画されていた。また本博覧会のオリジナルなアトラクションとして、大記念塔には「人間コリントゲーム」「ブラッシュスキー」「メリーゴーランド」などが予定されていた。さらに野外劇場では、子どもたちが動物の形のベンチに座って童話劇や紙芝居、音楽などを楽しみ、古代から現代に至る沿革展のパノラマを見たあと、最後にコドモ郵便局で絵はがきにスタンプを押したり、出征兵士に向けて手紙を書いたりできるように設計された。臨時郵便局や会場のパビリオンを描いた絵はがきの販売もまた、当時の博覧会になくてはならないものだった。

 万博の宣伝やアトラクションを見ると、先行する地方大型博を国家レベルへと拡大させたものという全体像が浮かんでくる。ポスター・新聞などの視覚・文字情報だけでなく、ラジオやレコードなどの最新メディアを活用し、事前イベントによって祝祭気分を醸成していく。教育、産業振興とうたいながらも、会場には大衆の心を駆り立てるファンタジックなアトラクションもふんだんに用意されていた。博覧会に軍が関わることは当時としては決して珍しいことではなかったが、広報は意外なまでに軍事色が薄く、民間の企画のほうにむしろ積極的な反応が見られた。また皇紀奉祝がテーマだとはいっても、宣伝広報にそのことが強く反映しているようにも思われない。皇室関連の博覧会はそれ以前にもあり、昭和天皇即位時には東京、名古屋、京都、大阪などで大礼記念博がおこなわれたが、万博構想の発端の動機はあくまで経済的なもので、皇室ブランドの活用は博覧会が満州事変などによって先送りされるなか、むしろ後付けのように出てきたアイデアだった(12)。
 こうして帝都東京に出現した大衆消費社会は、おのれの夢と欲望を万博という場にいよいよ開陳しようとしていた。しかし計画が具体化し始めた矢先の1938年7月16日、支那事変の激化を理由に開催延期の声明が発表される。ヨーロッパを中心に世界大戦が深刻化するなか、国際交流の象徴である万博が残した巨大なヴォイドは、紀元奉祝の御旗のもと国家の祝祭という強力なブラックホールと化して国民を飲み込んでいく。万博を心待ちにしていた大衆の多くが数年ののちに命を落とし、帝都は焦土と化して、万博の実現が30年後の大阪になろうなどと、当時は誰一人想像だにしえなかっただろう。万博延期後、奉祝イベントがどう変貌していったかをもう少し追っていくことにしよう。


(1)中川童二『ランカイ屋一代――わが博覧会100年史』講談社、1969年、10―12ページ
(2)以下の博覧会の開催詳細については、記載がないかぎり、復興記念横浜大博覧会編『復興記念横浜大博覧会誌』(復興記念横浜大博覧会、1936年)によっている。
(3)「1923(大正12)年関東大震災――揺れと津波による被害」(http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou039_20-21.pdf)[2017年3月29日アクセス]
(4)横浜開港資料館「資料よもやま話2 横浜の新民謡」(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/05.html)[2017年3月29日アクセス]
(5)岩野裕一『王道楽土の交響楽――満洲―知られざる音楽史』音楽之友社、1999年、78―79ページ
(6)戸ノ下達也『音楽を動員せよ――統制と娯楽の15年戦争』(「越境する近代」第5巻)、青弓社、2008年、152―153ページ
(7)高岡裕之「15年戦争期の「国民音楽」」、戸ノ下達也/長木誠司編著『総力戦と音楽文化――音と声の戦争』所収、青弓社、2008年、37―38ページ
(8)本節での万博準備状況についての情報は、断り書きをしないかぎり、津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『復刻版 近代日本博覧会資料集成』(〔「紀元2600年記念日本万国博覧会」第2巻「万博」第20号―第43号〕)、国書刊行会、2015年)によっている。
(9)以下の小林の劇場経営については、主に徳永高志「商業的大劇場の思想と公共性」(『公共文化施設の歴史と展望』晃洋書房、2010年)を参照した。
(10)乃村工藝社「博覧会資料COLLECTION」(https://www.nomurakougei.co.jp/expo/?#tabset)[2017年3月29日アクセス]。以下同。
(11)以下の乗杉の改革に関しては、酒井健太郎「東京音楽学校と邦楽――昭和11年の邦楽科開設を中心に」(「研究紀要」第34号、昭和音楽大学、2015年、32―44ページ)。
(12)古川隆久「紀元2600年(1940)に向けて」『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年。本連載の暮沢剛巳「第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景」も参照のこと。

Copyright Mitsunori Eto
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。