第6章 “うち” の論理、“そと”の視線――後篇

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

3 博覧会での植民地パビリオン

 紀元2600年万博計画を1930年代の国内の博覧会と比較していると、もう1つ、興味深い特徴に気づく。植民地パビリオンである。主だった国内博覧会には台湾館や朝鮮館、南洋館、そしてセットのようにして満州館が、必ずといっていいほど建設されている。
 戦前の博覧会で、各種アトラクションと並んでこれら植民地パビリオンは定番コンテンツの一つだった。それがどの程度の広がりをもっていたかを知るために、試みに乃村工藝社ウェブサイト「博覧会資料COLLECTION(1)」をベースに、国内でおこなわれた1930年代の博覧会をチェックしてみよう。列挙したのは、説明文に植民地展示があったと記載されているもの、別の記録からそれが確認できたもの、あるいは植民地そのものがテーマになっているものである。独立したパビリオンが建ったという記載がある場合には☆を付している。

御遷宮奉祝神都博覧会(1930年、三重)☆
全国特産品博覧会(1930年、愛知)
観艦式記念海港博覧会(1930年、兵庫)☆
満蒙博覧会(1930年、長野)
台湾博覧会(1930年、大阪)
国産振興博覧会(1931年、鹿児島)
日満大博覧会(1932年、京都)
満蒙大博覧会(1932年、大阪)
満蒙権益博覧会(1932年、大阪)
産業と観光の大博覧会(1932年、石川)☆
満蒙軍事博覧会(1932年、愛知)☆
満州事変1周年記念伸びゆく日本博覧会(1932年、岡山)
万国子供婦人博覧会(1932年、東京)☆
台湾と南太平洋博覧会(1932年、東京)
第2師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(1933年、宮城)☆
祖国日向産業博覧会(1933年、宮崎)☆
奈良施政35周年記念観光産業博覧会(1933年、奈良)☆
全日本国産洋服博覧会(1933年、大阪)
日満交通産業博覧会(1933年、愛知)
国際産業観光博覧会(1934年、長崎)☆
皇太子殿下御誕生記念 国防大博覧会(1934年、東京)☆
国産振興家庭博覧会(1934年、岡山)☆
全国工芸博覧会(1934年、岡山)☆
日満興産博覧会(1934年、北海道)☆
新興熊本大博覧会(1935年、熊本)
復興記念横浜大博覧会(1935年、神奈川)☆
国防と産業大博覧会(1935年、広島)☆
産業総動員興行大博覧会(1935年、大阪)
楠公600年祭記念 神戸観光博覧会(1935年、兵庫)
伊賀文化産業城落成記念 全国産業博覧会(1935年、三重)☆
皇軍第1線満州国境警備博覧会(1936年、東京)
国産振興四日市大博覧会(1936年、三重)
躍進日本大博覧会(1936年、岐阜)☆
博多築港記念大博覧会(1936年、福岡)☆
輝く日本大博覧会(1936年、兵庫)☆
高山本線開通記念日満産業大博覧会(1936年、富山)☆
伊藤部隊凱旋歓迎 亜細亜大陸博覧会(1936年、愛知)☆
名古屋汎太平洋平和博覧会(1937年、愛知)☆
国際温泉観光大博覧会(1937年、大分)☆
政治博覧会(1937年、東京)☆
北海道大博覧会(1937年、北海道)☆
支那事変博覧会(1938年、広島)☆
神国大博覧会(1938年、松江)☆
聖戦興亜大博覧会(1939年、群馬)☆
聖戦興亜博覧会(1939年、北海道)
世界の黎明・大亜細亜博覧会(1939年、東京)☆
大東亜建設博覧会(1939年、兵庫)☆

 アーカイブに登録された1930年代の国内博覧会は220件ほどで、戦前どれだけ多くの博覧会がおこなわれていたかが数のうえからも確認できる。植民地関連の展示の比率だが、この220件は百貨店などでおこなわれた小さなものも網羅していて、また開催の事実だけを掲載しているものも半数近くある。単にアーカイブのコンテンツ説明に植民地関連の展示の記載がないとか、展示をおこなったのにその記録が存在していないものもあるはずだ。また、30年代末に急増する軍事関連の博覧会では、大陸での戦場の模様がパノラマで再現されることが多く、そこではおのずと植民地やその近郊の紹介も含まれただろう。
 これらを勘案すると、47の博覧会で植民地展示がおこなわれたという記載がなされ、うち単独パビリオンとして植民地館が建設されたものが30という数字は、かなりの比率になるはずである。植民地展示は1930年代を通じて日本全国場所を問わず常におこなわれ、また軍事・観光関連が多いとはいえ、洋服や婦人子ども博などテーマ上あまり関係がない博覧会にも登場していた。アトラクションや娯楽施設と並んで博覧会と深いつながりをもつコンテンツだったのである。さらに、加えて帝国外地、つまり当の植民地でも博覧会はおこなわれていた。植民地と博覧会はまさに切っても切れない関係にある。
 1940年の万博は30年代の博覧会熱の真打ちともいうべきタイミングで、アトラクションや娯楽施設は従来型をさらに発展させた大規模なものが予定されていた。しかし一方の重要なコンテンツである植民地パビリオンは、事前に発表された会場計画には少なくともそれとわかるかたちでは書き込まれていない。これは何を意味しているのだろうか。
 植民地館といっても、厳密にいうと台湾・朝鮮と満洲では位置付けが違う。前者が国内ではないにせよ帝国内に位置するのに対し、後者はあくまでも建前は独立国である。万博計画には、万博事務局の側で設置してそこに出品してもらう外国館と、参加国側が建てる独立した外国特設館という出展のかたちがあり、満州出展は分類上はこのどちらかになったはずである。実際、1937年の名古屋汎太平洋平和博覧会――これは多数の海外出展があったという点で、万博に先んじる事実上の国際博だった――では、満州館は外国特設館として建設された。万博の延期が発表されたのは、海外参加国招致活動がスタートして世界各地で招請使節が説明・勧誘活動をおこなっている最中のことだったから、満州館が計画案にないのは、その意味では不思議ではない。
 しかし一方で、各国参加の勧誘のための亜細亜太平洋使節の旅程に満州は入っておらず、国内の府県向けにおこなわれた出品打ち合わせの延長として、担当者が朝鮮、台湾、関東州に出張して現地当局と打ち合わせをおこなっている。関東州は満州からの租借地なので朝鮮や台湾と並んでいてもおかしくはないが、実態は満州が出展するのと何ら変わりはない。ここには、内実としては帝国の版図と見なしながらも国際的な承認の得られていない満州の、矛盾に満ちたありようが表れている。
 この万博には、計画初期段階から植民地で事業を展開する企業も関心を寄せていた。「万博」(日本万国博覧会協会)の創刊号に掲載された万博協会の評議員には、台湾製糖、台湾銀行、朝鮮銀行、南洋興発といった国策会社が名を連ね、のちには南満州鉄道会社(以下、満鉄と略記)東京支社長の伊藤道雄が役員および顧問、評議員に就任している。ちなみに正会員になるには協会に対して1口100円の出資金を支払う必要があり、口数に応じて特別会員、名誉会員とランクが変わった(日本万国博覧会協会規約第5条)。南満州鉄道会社は最高ランクの名誉会員として、日本銀行などと並んで出資した5法人の1つで、当初から万博に極めて大きな関心を寄せていたことがうかがえる。
評議員は理事会の承認を得る必要があり(第16条)、また会員は万博で優待を受けられることになっていた(第8条)。会員になるメリットについて規約には具体的には書かれていないが、1937年2月にはさらに満州化学工業と日満マグネシウムが入会している。前述の名古屋汎太平洋平和博の満州館には企業の活動を紹介するセクションがあっただけでなく、物産の陳列には多くの企業が名を連ねていて、そこには満州化学工業の名前もあるから(2)、博覧会は宣伝広報活動の一環と考えられていたのだろう。
 朝鮮・台湾の関わり方も、はっきりしない点が多い。当初発表された計画案では外国特設館のほかに、「我国官公体及諸会社等が各自の経費を以て建設」する内国特設館枠が含まれていて、このカテゴリーで台湾・朝鮮の総督府が独自館を建てることは可能だっただろう。しかし最初の計画を縮小するかたちで発表された最終案には内国特設館は含まれておらず、外国館を中心とする5号埋立地エリアに内国即売所敷地と銘打たれた一角があるものの、文字どおりに解せばここは展示館ではなく即売所である。
 名古屋汎太平洋博では、外国館や企業館に並んで国内の特設館も14館が出展していて、地方博でも植民地以外にも国内の自治体が出展することは珍しいことではなかったから、万博で国内向けの特設館がないのは不思議である。国内特設館がないと出品物は出展地別ではなく、各陳列館にそれぞれのテーマに沿って分散して展示せざるをえないが、朝鮮や台湾は文化が異なる外地であり、国内の展示物と同一に並べれば違和感が生じるはずだ。

4 国際博での日本と植民地

 しかし2600年博での植民地パビリオンの不在は、国内的な流れからだけでなく国際的な布置からも検討しなければならないだろう。この点を追っていくと、当時の日本が抱えていた複雑な事情が見えてくる。
 満州国はいうまでもなく、満州事変によって関東軍が打ち立てた傀儡政権である。1931年、奉天(瀋陽)で日本の管理下にあった満鉄を、中国軍の仕業と見せかけて爆破した柳条湖事件を機に日中両軍の間に本格的な戦闘が始まり、翌32年には清朝の愛新覚羅溥儀を擁立した満州国の建国が宣言される。国際連盟が派遣したリットン調査団の調査結果に反発し、日本が国際連盟を脱退するのは翌33年である。政治面での国際的な孤立は深まっていくばかりだった。
 国際博での日本の植民地展示も、事態の進展によって異なる国際的な視線のもとに置かれた。そもそも万博は植民地展示と深く結び付いていた歴史があり、ヨーロッパでは1920年から30年代にかけて植民地をテーマにした博覧会も頻繁に開催されていたから、当時の感覚では展示自体が問題というわけではない。遠方の地から運ばれてくる品々、あるいは現地の人々を直接連れてきての生活の展示は、観客のエキゾチックな好奇心を満たすなくてはならないコンテンツだった。ロンドン北部でおこなわれた大英帝国博覧会(1924―25年)、フランス・シュトラスブール(1924年)、ベルギー・アントワープおよびリエージュ(1930年)、パリ(1931年)といった国際博に加え、フランスではさらにマルセイユ(1922年)やアルジェリア植民地化100年記念(1930年)などの国内向けの大規模植民地博もおこなわれている(3)。
 このうちアントワープとリエージュの2都市で1930年に開催された万国科学工業海洋植民地博覧会には日本も出展している。ベルギーからのはたらきかけもあって最終的には日本政府そのものではなく日本産業協会が出品業務にあたった。この協会は博覧会協会と殖産奨励会が合併して21年に設立された団体で、産業奨励、輸出促進などのために見本市や博覧会をおこなうことを主な仕事にしていた。予算も官民共同出資のかたちをとり、鉄道省がいちばん多額の2万円を出資しているが、次に多いのは満鉄で(1万600円)、三菱合資会社(1万円)、三井物産(8,477円)と続く。朝鮮や台湾の総督府の出資はわずか(それぞれ500円、200円)だったが(4)、国際館の割り当てスペースでは手狭だったので、日本産業協会は小規模ながら日本館を建設、さらに台湾総督府ならびに日本蟹缶詰業水産組合連合会と連携して日本館脇に茶店を開き、それぞれ台湾茶、カニ缶詰を提供してかなりの成果を上げた。
 この展覧会では当初、満鉄は3万円の出資を申し出たようで、ほかと比較して国際博に寄せる関心が高かったことがうかがえる。もっともアントワープ・リエージュ博は満州事変以前の開催であり、日本も出展自体にさほど力を入れていなかった。より大規模で興味深いのは、事変後に日本が初参加したシカゴ万博(1933年)である。
 満州“独立”後初の国際的舞台だったから、満州側がプレゼンスを発揮したいと考えたのは当然で、満州出品協会の理事・山下清秀も「満州国の実際を全世界に知らしめ、建国の理念を十分認識せしむると同時に其の産業風俗等を紹介するに絶好の機会(5)」と捉え、在奉天(現・瀋陽)アメリカ総領事館、関東軍の板垣征四郎を訪ねて地ならしをしたあと、東京に向かった。来日していた大会総裁顧問のアルバート博士とはすれ違いで会えなかったが、博士が満州の出品も打診していたため、意を強くした山下は満州に戻り各所から次のような合意を得た。

[1]名前は満州館とすること、ただし満州地方館なる意味を説明すること。
[2]満鉄から9万5,000円(出品費を含む)を補助すること。
[3]満州国から15万5,000円を支出すること。
[4]満州出品協会を責任者とすること。 (以下2項略)

 日本の出品協会の予算規模が国庫支出54万円を含め総額70万円ほど(6)だったから、新興国家・満州がこの出展にどれほど力を入れたかがわかる。
 ところでここでパビリオンの名称に関わる[1]が問題になった。満州建国はアメリカでも大きな関心をもって報道されていて、満州館を名乗ることで反日感情が喚起されることを恐れた外務省が待ったをかけたのである。再び山下の言葉によれば「外務当局は満州問題で列強より白眼視され、併かも未だ承認されざる米国に於いて堂々と満州館を名乗ることの不利を強調し、商工省また産業紹介の見地より自説を固辞して譲らず、遂に参謀本部の意向もあって、名を捨て実をとる趣旨から対外的には満鉄館とし、対内的には満州館として押し通すことに決し(7)」たのだった。建国早々、満州は「うち」の論理と「そと」からの視線の差異に、アイデンティティーの分裂を起こしたのである。それは傀儡国家が本質的に抱える矛盾でもあった。
 もっとも、これを満鉄館の名称のもと日本の附属館としたのは、より実体に即してはいた。実際のところパビリオンは日本館のすぐ脇に建てられ、「切妻破風作り軒裏化粧(8)」の外観は大陸色を抑えたものだった。それもそのはずで、満州出品協会は建設の一切を日本の出品協会に委託し、資材の運送から建築に至るまで日本の協会が取り仕切った(9)。丸投げである。
 パビリオンは満州の宣伝に一役買ったとはいえるだろう。会場には発展著しい大連のジオラマや新京のパネルのほか、農業生活の紹介や特産品が展示された。会場で解説の任にあたったのは2世の日本人娘たちだった。期間中おこなわれた満州週間は企画にも力が入り、大いににぎわった。プライズコンテストでは100万枚のビラをまき、満州の人口、面積、主要産物などのクイズに正解すると抽選で毛皮やパールが当たった。1等の満州旅行に当選したのは美術学校の女学生で、母親とともに立ち寄った東京がいたく気に入り、2週間も滞在を延ばしたとある。これは現地新聞でも大々的に報じられた。
 さらに報告書によれば、1万人を収容する野外大ホールでは満州音楽の夕べがおこなわれ、ジョージ・ダッシュ博士指揮する100人のシカゴ・リットル・シンフォニーオーケストラが80人のウェルシュ合唱団とともに演奏し、NBCなどを通じて全米に放送された。会場でプログラムを配布したのは、こちらも振り袖姿の日本の娘たちだった。演目にはダッシュ博士がオーケストラ用に編曲した満州国国歌が取り上げられた。ほかに写真展、パビリオン前での地元中学校のバンド演奏、晩餐会が企画された(10)。
 このときに雇われたリットル交響楽団は正式名称をThe Little Orchestra of Chicagoといい、指揮をとったダッシュらによって1921年に設立された。ラジオ放送や学校での音楽鑑賞会など、さまざまな活動をおこなっていたようである。ダッシュはセオドア・トマス管弦楽団(現・シカゴ響)のヴァイオリン奏者として活躍したあと、独立して指揮者になった(11)。80人編成は“小楽団”とはいえず、かなりのエキストラが入っていたものと思われるが、現地ではそれなりに知られた団体だったようである。
 名称は1歩譲ったにせよ、満鉄館のアピールは成功し、ひとまず目的は達せられたといっていいだろう。反発もなかったわけではない。会期中、在シカゴの中華系団体・中国慈善協会会長から、アメリカが満州国を承認しないかぎり、日本の展示から満州関連のものを撤去せよという要望書が博覧会当局に数次にわたって出された。これに対して日本側事務局は要望のたびに説明をおこない、事務局長から「博覧会の出品に対し、そう鹿爪らしく考える必要は毫も認めない(12)」という発言を引き出した。川原も「当初よりの方針に些かの変更も加えず、本館設置の目的を達したのである(13)」と誇らしげに報告している。
 とはいえ、関係者の勇ましい発言とは裏腹に、このあと国際的な舞台での満州ならびに植民地展示はぐんとトーンダウンしていく。1937年のパリ博では、満州問題はある程度の落ち着きを見せていたにもかかわらず(14)、出品リストには満州はおろか朝鮮や台湾の名前もない(15)。この万博のテーマは「近代生活における芸術と工芸」で、一見するとエキゾチックな植民地のイメージにはそぐわないようにも思われるが、「第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡」でもふれられているとおり、そもそも当時の満州では、東京の震災復興でもかなわなかった都市改造のアイデアを大胆に取り入れた実験的な試みが次々とおこなわれ、新京では下水道を完備した田園都市さえ実現されていた。そうした最新開発都市を生活の彩りとともに提示すれば、強いアピール力をもったはずだ。
 パリ万博日本館の宣伝部の壁面は、金属製の日本地図やコラージュ写真で飾られた。報告書に掲載された文化宣伝部の写真は部屋全体を写しているわけではないが、少なくともそこに写ったものから判断するかぎり、地図には日本列島だけが示され、壁面写真は鎌倉の大仏や五重塔などといった日本の代表的観光名所などがコラージュしてある。提示されている日本はあくまでも「内地」であり、そこに植民地の姿はない。
 これに対して、1939から40年にかけておこなわれたサンフランシスコ万博にはもう少しはっきりと植民地のイメージが表れていたが、会期中におこなわれた展示替えがこの間のイメージの急速な悪化を示唆している。
 当初、日本館観光部の壁面には電飾を施された観光パノラマ地図が設置されていたが、そこには朝鮮・台湾が日本の領土として示され、日本と満州を結ぶ観光ルートが示されていた。また日本・朝鮮・満州の代表的な風景を描いた壁掛けが飾られ、同じく日本・満州・朝鮮の女性を表す3体の像が設置された。これらの像は互いに手を取り合い、協力と平和をシンボライズしていた(16)。また同博美術品陳列館でおこなわれた「日本古美術展覧会」には内地のほかに朝鮮・台湾、琉球、アイヌの5文化圏の美術品が組み込まれていたという(17)。
 しかし翌1940年に始まった同博第2期の展示では、観光名所を描いた壁掛けは撤去され、3人の女性像は羽根つきをする少女の木目込人形に置き換えられてしまった。展示物は日本画・金襴・友禅・絞鹿の子・造花などといった純和風なもので統一された。おそらく逆風が大きかったのだろう。植民地色を出すことでイメージが損なわれてしまうなら、プロパガンダの意味がない。国際情勢も文化的宣伝活動を許さないほどに切迫していたのである。
 ところで、観光パノラマ地図からもわかるように、自ら開催地に足を運んで鑑賞・体験する博覧会は観光とも密接に結び付いていた。そもそも東京万博やオリンピックの誘致の主な狙いの一つが、外国人客の来訪を通じての外貨獲得だったのである。「第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展」でもふれたが、国際観光の推進は当時の世界的な傾向で、それに乗り遅れまいとする施策は議会でも真剣に討議された。1931年に国立公園制度が公布され、翌年から日本各地に国立公園が認定・整備されると、その付近に政府の低利融資を受けた外国人向けホテルが次々に開業する。外国人来日者数は政治情勢に左右されやすく、世界恐慌や満州事変後は大きく落ち込んだが、しばらくすると再び増加に転じ、36年には国際経常収支の黒字額の半分を占めるに至っている(18)。万博はこうして新たに整備された観光名所に外国人を送り込むポンプになるはずだった。
 ジャパン・ツーリスト・ビュロー(現・JTB)は外国人誘致を目的として明治時代に設立されたが、この時代になると日本人の外地旅行も積極的に手掛けるようになる。満州だけでなく中国・朝鮮・台湾の各地に支所網を張り巡らせ、さまざまなサービスが提供されていた。同社観光局満州支部が編纂した1940年の『満支旅行年鑑』(博文館)には、鉄道網だけでなく航路、空路、自動車・バス網が料金とともに表示されていて、大連や新京、奉天では日本旅館だけで各都市40から50館が開業していたことがわかる。そこに修学旅行や視察旅行と称して、日本全国から団体旅行客が詰めかけていた。鉄道旅客の累計数は34年の2,421万2,249人から38年には5,005万552人と倍以上に増えていて、交通網の急激な発展をうかがわせる。ちなみにこの『満支旅行年鑑』は単なる統計集ではなく、観光名所の紹介、入国規則や簡単な会話、観劇の仕方や料理・習俗の違い、さらには満州や中国・蒙疆の諸データまで掲載した400ページを超える書籍で、コンパクトながら読み応えがあり、さながら戦前版『地球の歩き方』(ダイヤモンド・ビッグ社)である。満支旅行は一般にはまだ高価だったとはいえ、手が届かないものではなかったのである。ジャパン・ツーリスト・ビュローは海外万博の日本の出展にも必ずといっていいほど加わっていたから、サンフランシスコ万博で国内の観光名所だけでなく満支ルートも売り込もうと考えたのは自然なことだったのだろう。
 サンフランシスコ博と同じ1939年におこなわれたニューヨーク博でも対外イメージの改善は重要な課題になったが、太平洋を挟んで対岸に位置するサンフランシスコに比べて日本に対する風当たりはより厳しかったようだ。これは満鉄が直前になって出展を取りやめた顛末によく表れている。
 再び山本によれば(19)、満鉄は当初ニューヨーク万国博覧会協会側からの要請もあって参加を予定していた。ニューヨーク・サンフランシスコ両万博で上映する映画の候補作として、満鉄制作の記録映画『草原バルガ』『広原児』『躍進国都』といった具体的な作品名まで挙がっていたというから、かなり話は進んでいたものと思われる。しかし出品内容を鉄道事業と満鉄経営の産業面に限定し、鉄道地図などの展示でも満州国の字句は避けるようにとアメリカ国務省から通告を受け、満鉄側はいったんその条件を受け入れたが、のちに満鉄東京支社長・岡田卓雄が外務省宛に参加中止を伝えている。
 こうした経緯からは、当事者間の興味深い力学の変化が見えてくる。第1次世界大戦の戦火の回復に時間がかかったこともあり1920年代は大型のものは少なかったとしても、ヨーロッパを中心に国際博覧会自体はおこなわれてはいたが、日本はそれほど参加に積極的ではなかった。30年代に入ると万博の国内開催の機運と相まって国際博への関心が育ってくるが、そこで満州をなんとか国際的な場に押し出して認知を得たい満鉄側と、できるだけそっとしておきたい外務省筋の綱引きがあったように思われる。ホスト国の事務局も日本の出品協会にしても、当事者は招致には積極的だったが、日中戦争の激化という事態の推移を受け、ニューヨーク博で満鉄はついに沈黙を余儀なくされた。こうした力学を前提にするなら、30年代の国内向け博覧会には欠かすことができなかった植民地パビリオンが、2600年万博の計画案に姿を現さない理由もおのずと推し量ることができる。
 とはいえ万博熱は外地に住む日本人にも共有されていた。2週間で1万通以上を集めた『万博行進曲』歌詞公募については、「応募者は内地、朝鮮、台湾、満州に及びその中には朝鮮文字を交えて記したもの、全然朝鮮文字で記したもの等、半島の人々の熱誠こめた応募も多数あり、また南洋サイパン島チャランカからはラジオで歌詞募集を知って邦人から電報を以て規定に関する問合せがあり、血判して話題を提供した応募者もあった(20)」という。採用された歌詞には、アジアが、そして大和心の歴史が真っ先に歌われていた(21)。「新方針の趣旨を全国に呼掛ける出品事務局協議会」は全12回がおこなわれたが、うち3回は京城、台北、大連で開催された。6枚つづり5円の大衆券が発売された第2回入場券前売りでは、販売地域を「朝鮮、樺太、関東州の外、満州国まで拡張する方針(22)」がとられた。植民地パビリオンこそ作られなかったが、万博はうちに対しては相変わらず帝国のアイデンティティーを強化するべく作用していたのである。

5 奉祝イベントと近代の超克

 オリンピック返上、万博は無期延期、という決定を受け、バランスを失った国家と国民は右傾化を一気に強め、奉祝イベントは軍国主義・総動員体制を強化する装置そのものと化していく。1940年に実際におこなわれたのは皇室の伝統を全国的に祝う行事で、内閣が主催して皇居外苑で11月10日におこなわれた紀元2600年式典を核として、オリンピックの代替イベントともいうべき東亜競技大会、特別観艦式、奉祝美術展、奉祝演奏会、奉祝芸能祭などさまざまな関連行事がおこなわれた。また国際舞台では苦い思いを味わってきた満州も、このときには国務総理大臣を委員長とする日本紀元2600年慶祝委員会を組織して堂々と奉祝行事をおこなった。目玉は満州国皇帝の来日で、建国神話の地名をもつ戦艦・日向に乗って大連を出発した溥儀は、6月26日、東京駅に出迎えた天皇と5年ぶりに再会して直接祝辞を述べた。奉祝に際しては外国からの特派使節は受け入れない方針だったからことからも(23)、満州がどれほど特別待遇だったかがわかる。
「贅沢は敵だ」などのスローガンが生活のなかに浸透してくると、消費は万世一系の天皇制イデオロギー賛美によってだけ正当化されるようになった。すでに述べたようにツーリズムは外貨獲得・国内消費喚起などの動機に裏付けられて発達したが、建国神話と結び付くことによってこの状況を生きながらえた。各地で組織された勤労奉仕隊が、天皇陵や神社といった聖跡の整備事業に参加した。整備された橿原神宮や宮崎神宮には、神武天皇ゆかりの地として何百万人もの観光客が訪れている。この頃には満州157万人を筆頭に中国、ブラジル、ハワイ、アメリカ、ミクロネシア、フィリピン、ペルー、カナダなど海外に250万人、加えて朝鮮、台湾、樺太に120万人の日本人移民が暮らしていた。皇民化政策は八紘一宇のスローガンのもと植民地でもおこなわれ、紀元2600年奉祝行事に合わせて開催された海外同胞東京大会には、世界各地から代表団約1,400人が結集している(24)。
 国民動員にラジオが活用されたこともよく知られている。11月10日の記念式典の様子は同時中継され、ラジオを所有する国民は近衛文麿首相の発声による「天皇陛下、万歳!」に唱和することができた。しかし次世代メディアとして国際的にも競って研究開発が進められていた新技術テレビジョンについては、あまり知られていないだろう。テレビもまた博覧会と密接な関わりをもちながら発展し、万博・オリンピックを演出する技術から戦時色を強める帝国日本の宣伝・軍事技術へとその性格を変えていく。
 テレビ開発はすでに1920年代後半にはイギリス、アメリカ、ドイツなど各国で始まっていたが、日本でも30年に早稲田大学理工学部の山本忠興、川原田政太郎らのグループが機械式(ニプコー式)テレビの公開実験をおこなったのを皮切りに、30年代を通じて開発が進められた。32年に上野で開催された第4回発明博覧会には早稲田の機械式テレビと高柳健次郎を中心とした浜松高等工業学校(以下、浜松高工と略記)のブラウン管式という2種類のテレビ技術が公開された。特に早稲田は戸塚球場から上野の余興館に向けて野球中継をおこなった。映像はイベントとの親和性が高く、33年の万国婦人子供博覧会(25)ではテレジョン館が設置され、前述の横浜復興博でもテレビジョン電話が公開されるなど、その技術は各種の博覧会・展覧会を通じて人々の目にふれるところになっていくのである。
 この流れに拍車をかけたのが、36年のベルリン・オリンピックだった。映像精度はまだ高くはなかったが、市内25カ所に加え、無線博覧会や選手村、ポツダムやライプチヒにまで競技映像を届けたドイツの成果に、日本の関係者は衝撃を受けた。東京オリンピックまでにはテレビ放送の実用化にこぎつけたい行政の後押しで、逓信省公務局にオリムピック準備委員会が、電信電話学会に通信機器国産化委員会が設置され、37年には日本放送協会(NHK)技術研究所が浜松高工の高柳健次郎を招聘し開発に本腰を入れていく。東京電気、松下電器、日本ビクターなどのメーカーが受信機の開発を競い、テレビジョン調査委員会は東京40カ所、大阪30カ所、名古屋20カ所と、ベルリンを大幅にしのぐ公開テレビの設置を発表した(26)。
 万博の延期とオリンピック返上は、テレビジョン調査委員会の解散など、研究上の大きな障害を引き起こしたが、1939年、高柳らはNHK技術研究所で、新しい放送会館の落成に合わせて実験放送の実現にこぎつける。テレビ技術開発もまた日本の科学技術の粋を天下に示すという当初の目標から、ラジオと並ぶ宣伝用兵器、国威発揚のシンボルへと意味合いを変えることによって、時局の変化を乗り越えたのである。
奉祝年の4月には、日本初のホームドラマ『夕餉前』(NHK、1940年)が放映されている。これは父を失った、母と兄妹からなる3人家族の夕飯前のひとときを描いた作品で、出演した原泉子(母役。のちの原泉。中野重治の妻)、野々村潔(兄役。岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻で寺尾聰の母)はいずれも新協劇団の出身だった。新協劇団は日本プロレタリア演劇同盟が解散したあと、その流れを受けてできた劇団で、当初は当局から執拗な監視を受けたが、特別高等警察に自ら赴き国民精神総動員運動への賛意を表明したことで活動の幅を広げた(27)。
 この年の秋の「電信70年電話50年放送15年 記念展覧会」で放映されたホームドラマ第2作『謡と代用品』(NHK)には子役として中村メイコが出演し、各種演芸ではビクター歌手の歌謡指導番組や、江口隆哉・宮操子によるノイエ・タンツも放映された。それまでのものに比べて画像は格段に洗練され、また会場にはほかにもファクシミリ、プッシュホン式電話、航空無線、無線電話、テレックスなどの最新装置が展示された。会場になった日本橋三越には開場時から人が詰めかけ、新しい技術の数々に目を丸くした(28)。
 奉祝年が過ぎると、いよいよ本放送に向けての準備が始まったが、1941年7月の日本軍の南部フランス領インドへの南進と、それに対するアメリカ・イギリス・中国・オランダの経済制裁、いわゆるABCD包囲網によって物資の欠乏が叫ばれ、テレビ技術は徐々に軍事へと転用されていく。メディアに「国防テレビ」と報じられた低価格の小型テレビが完成し、普及への期待の声も高まったものの、12月8日の太平洋戦争勃発によってテレビ実用化はその最終段階で頓挫、開発を率いてきた高柳も電波兵器の研究へと向かい(29)、戦争があらゆるものを飲み込んでいく。

 紀元節奉祝は1930年代初めから叫ばれてはいたが、時を経るにつれてそれはイベントの口実から主たる目的へと変わっていった。22年に政権を取ったベニート・ムッソリーニとファシスト党、33年のアドルフ・ヒトラーとナチ党は旧体制を批判することでユートピアへと向かう歴史を歩み始めたのに対し、日本では万世一系のイデオロギーと古来から続く道徳的な価値観が称揚された(30)。しかし、過去に対する態度は異なるにせよ、博覧会や党大会、イベントを通じて自らの出自を祝った点で3つの国家は共通しているし、その表象で最新テクノロジーと復古的な表現が奇妙なかたちで接合しているのも興味深い。これをふまえながら、事実とフィクションの間にぼんやりと漂う神武の建国神話とそれをめぐる熱狂について、最後に筆者の感想を記しておこう。
 奈良の橿原神宮、畝傍山東北陵(神武天皇陵)の拡張整備事業と並んで、宮崎の神宮境域拡張整備の一環として『八紘之基柱』が建設されたことは「第2章 肇国記念館と美術館――紀元2600年万博の展示計画」で述べられているとおりだが、ここを訪れた際、正面の階段を上った踊り場のあたりを観察していたら、石の1つひとつに「山東省済南三州会」とか「北支杉山山本隊」などの文字が刻まれているのに気がついた。朽ち果てて読み取れないものも多いのだが、はたしてこれは塔の建設に際して各地から寄せられた献石だった。腐食の度合いがまちまちなのも、送られた場所によって石の質が異なっているからだろう。寄贈された1,879個の礎石の内訳は1990年代以降に継続的に調査されていて(31)、送り元は内地にとどまらず、八紘一宇の理念そのままに中国198、朝鮮123、台湾40、ほかに樺太・パラオ・カナダ・アメリカ・フィリピン・ドイツ・ペルー・シンガポールの(主に日本人)団体にも及んでいた。中国からの献石が多いのは、軍や師団ごとに所在地付近の石を送るよう、相川勝六宮崎県知事が知己の関東軍の板垣征四郎に依頼したからである。
 紀元節奉祝にあたって日名子実三が宮崎で手掛けたのは『八紘之基柱』だけではない。南へ下った神武天皇の皇宮には『皇軍発祥之碑』があり、さらにもう1つ、日豊本線で北上した小さな港町・美々津にも『日本海軍発祥之地碑』が立っている。碑文は海軍大将・米内光政の書になるものだ。神武天皇のおひざもとの軍隊を皇軍と呼ぶのはまだわからないではないが、神武のお船出を明治以降の近代海軍と結び付けるのはこじつけのようにも思える。
 美々津。日豊線のこの小さな無人駅で降りて海軍碑がある立磐神社に向かう途中、江戸時代の街並みを残した一角に立ち寄った。耳川の河口に位置する美々津は江戸時代には材木の積み替え港としてたいへんなにぎわいを見せたが、明治時代に日豊線が整備されると、地の利を失い急速にすたれたという。そのさびれ方があまりにも早かったため、再開発の機会もないまま街並みが残されて、それがいまでは市の景観保存地区になったのだ、と古屋を改造した資料館の年配女性が田舎の人のよさで教えてくれた。
資料館の奥は展示室になっているのだが、足を踏み入れると「おきよ丸漕舟大航軍記念」と大書された青地のフラッグが目に飛び込んできた。展示を見ながら、美々津と紀元節のつながりの深さに驚いた。
 美々津では古くからおきよ祭りという夏祭りがおこなわれているが、祭りの起源は神武の船出である。天気の都合で急遽出立が早まったために、村人たちは早朝から「起きよ、起きよ」と家々の戸を叩いて回り、献上する餅を準備したという。奉祝年に美々津の人々はお船出伝説にあやかって古代舟を建造、おきよ丸と名付けられたこの船を、大阪毎日新聞社が海軍協会・大日本海洋少年団と共催して、各地の聖蹟をたどりながら橿原神宮まで航海させた。大阪毎日新聞社が刊行した記念帖には「宮崎神宮の神璽ならびに橿原神宮に納め参らす神盾を奉安した軍船おきよ丸を、屈強の若者80名が黒鉄(くろがね)の双腕に24丁櫓を操りつつ時に疾風猛雨にたたかれ狂瀾怒涛にもまれるなど、幾多の試練に遭遇したが天祐神助に恵まれた上に、漕手一同が腹の底から唱える“おきよ”の掛声に不倒不堯の勇猛心を奮い起こしてよくこれを乗り切り意義深き大航軍を見事に完遂したのである」と記されている。89人の漕ぎ手は宮崎と大分の若者だったが、うち34人が美々津出身者である。記念フラッグもそのときのものだ。
 近代化の波に取り残され急速にさびれていた村に突如訪れた奉祝ブームは、神風にも似た熱波をもたらしたのだろう。ちなみに『日本海軍発祥之地碑』の碑文は、戦後アメリカ軍によって消されたが、1969年に地元の強い要望を受けて復元されたという。戦争も戦後もないかのように、この地にはお船出伝説と奉祝の余韻がいまだに息づいている。
 ところで、おきよ丸の回遊航路を記した地図を眺めているうちに、神武伝説と奉祝行事を結ぶ作品が浮かんできた。東京音楽学校の教師として『海ゆかば』を作曲した信時潔の代表作『海道東征』である。紀元節を祝ってさまざまな作曲家によって多くの管弦楽曲が書かれたが(32)、晩年の北原白秋が精魂を込めたテキストに付曲した全8楽章の本作は、なかでも最も規模が大きく、最も頻繁に上演された作品だった。テノールの木下保が指揮する東京音楽学校の管弦楽団と合唱団は、この曲をもって関西・北陸・信越・中部の主要都市を巡回しただけでなく、1942年には満州建国十周年を祝い旅順、大連、新京、ハルビン、奉天、京城、平壌にまで演奏旅行に出ている(33)。
 高千穂の建国からお船出を経て、豊予海峡・宇佐・広島安芸・吉備を通り即位に至る道のりを描いた『海道東征』は、満州での五族協和、大東亜新秩序での八紘一宇の理念の核心にある神話を音によって追体験する格好の作品だった。追体験といっても、音楽的な質を伴わなければむしろ逆効果である。信時は西洋音楽の手法をベースに置きながら五音音階や民謡音階を取り入れ、日本語としての美しさに留意しながら、劇的かつ格調高い音楽を作り上げた。
『海道東征』は戦後、華々しく取り上げられることこそなかったものの、木下らの努力によって細々と再演され続けていて、ここにきて公演の機会も増えている。2015年には東京音楽学校の後身にあたる東京芸術大学のメンバーが奏楽堂で、同大では戦後初となる再演をおこなった。「いたずらに編成と規模を広げた冗漫な作品(34)」という戦後に貼られてきたレッテルとは裏腹に、朴訥だが力強いメロディーラインに乗った日本語は聴き取りやすく、民族的伝統に加え近代唱歌の経験なども十分に生かされているように思われた。全体的にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルやフランツ・ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオを日本流に発展させたものという印象だ。
 バリトン歌手の畑中良輔は戦後、機能和声のシンプルな終止を主とする信時の歌曲を「非常に保守的であり古典的」「およそ稚拙と呼んでいいほどの無技巧派」と評しながら、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ヨハネス・ブラームスへの信時のあまりにも深い敬慕が一種の信仰のような魅力を作品に与えている(35)、と述べている。なるほど信時はプロテスタントの牧師の父をもつクリスチャンだった。しかし音楽的には保守的かつ古典的で、精神のルーツも多分に西洋的なものを併せ持っていたにもかかわらず、『海ゆかば』や『海道東征』のシンプルであるがゆえの荘重な祝祭性は、西洋に接ぎ木された日本なるものではなく、万世一系の日本の表象として意識的に、あるいは無意識のうちに“誤読”されたのではなかろうか。
 戦争を直接体験した世代が戦後長らくこういう作品を忌み嫌ってきた気持ちもわからないではないが、そう考えるならこれは一種の“誤読の誤読”であって、問題なのは『海道東征』がはらんでいるこうした歴史性をどう解きほぐし理解するかである。そしてこの視点からすると日名子実三の『八紘之基柱』にしても、あるいは西洋建築に日本式の瓦屋根をかぶせた帝冠様式にしても、根底には同じ構造を見いだすことができる。それは西欧をどう受け止め、どう乗り越えるかという、開国以降日本の知識人が悩み続けてきた課題が、時局と重なり合いながら表現へと結実し、熱狂的な受容を生み出していくプロセスである。さらにいえば、それは明治以来万博という場で西洋の技術と文化に驚嘆し、自国での開催に繰り返し挑んできた歴史、そして土壇場でそれを紀元節奉祝イベントへとすり替えた心性そのものでもある。
 日名子が彫刻家としてだけでなく、大陸にまで渡って満州事変や日中戦争の戦死者の慰霊塔を手掛けたことは「第2章 肇国記念館と美術館」で述べられているとおりだが、この点で日名子の創作もヨーロッパと強く結び付いている。1927年にパリに留学した日名子は早々に第1次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪れ、さらに帰国前にはヨーロッパ各地を巡る周遊旅行に出ている。これらの旅先で日名子が関心を寄せたのがその土地その土地の歴史をふまえた記念碑、とりわけ戦争記念碑だった。なかでも、当時ヨーロッパ最大といわれたライプチヒの『諸国民戦争記念碑』からは大きな影響を受けたといわれている(36)。
『諸国民戦争記念碑』は戦争の100周年を記念して、ウィーン分離派のシンボリスト、フランツ・メッツナーとドレスデンの芸術アカデミーに所属していたクリスティアン・ベーレンスが1913年に設計したものだ。巨大な記念碑の周囲には兵士の彫刻が据えられていて、入口には大天使ミカエルの巨大レリーフがそびえている。雄々しく屹立するミカエルはユーゲントシュティル風の光背や鷲に彩られていて、訪れるものを圧倒する。重厚ななかにモダンを巧みに取り込んだスタイルは、日名子が訪れた28年はまだ目新しいものだっただろう。第1次世界大戦は、近代ヨーロッパが経験した無数の戦争のなかでも最大規模のもので、20年代は戦没者を祀る記念碑が続々と建てられた時代でもあった。日名子はヴェルダンをはじめ各地で落成したばかりの記念碑を巡っている。
『八紘之基柱』は建立の趣意書によれば「石造り堅牢の純日本式にして崇高壮大なる万古不易」の塔として構想され、神主がお祓いに用いる御幣の形を模したといわれている。しかし柱の基部や周囲に配置された4体の信楽焼の彫像をライプチヒの記念碑と、とりわけ荒御霊と大天使を並べてみると、そこはかとないフェイク感を覚えずにはいられない。ほかの文化や様式を模しているからではなくて(そんなことをいいだしたらほとんどの芸術は模造である)、ヨーロッパに和の衣を着せて日本式といっているところが、である。
 断っておくが、これは『八紘之基柱』や『海道東征』の作品としての評価とは別次元の話である。取るに足らない作品ならば、同じ塔がそのまま『平和の塔』と名前だけ変えて市民の憩いの場として親しまれているとか(37)、忘却のなかからしぶとくよみがえって母校の音楽堂に響き渡るなどということはないだろう。
 仮に万博やオリンピックが開催されていたら、これらの作品もまた違った文脈で作られ、受容されただろう。巨大国際イベントが消えたあと、大陸の戦線は泥沼のように拡大し、アメリカとの戦争もいよいよ現実味を帯び始めていた。日本社会が強固な共同性を確認するには、紀元節奉祝というテーマしか残っておらず、そこには国際親善もエンターテインメントも入る余地はない。そもそも皇紀自体が西暦を意識して作られたフィクションを多分に含んだ概念であるにもかかわらず、フィクションがさらなるフィクションを招き、ついには虚構を事実と錯覚させてしまう強力な磁場が形成されていったのではないか。この磁場では東亜の盟主として立たなければならないという帝国の欲望が、あたかも個人の欲望のように語られる。それは西欧コンプレックスに悩まされてきた知識人を近代のダブルバインドから解き放ち、国家との一体感のなかへと絡め取ったのである。
 伝統に帰依しながら、同時に民族の優越性を表象する――こうした目的のために選び出される芸術はモダニズムではない(38)。日名子や信時はこの命題に適ったアーティストだった。だからこそ同じ虚構のなかに集団催眠のように閉じ込められた人々から歓喜をもって迎えられたのだろう。


(1)乃村工藝社の「博覧会資料COLLECTION」(https://www.nomurakougei.co.jp/expo/)は、寺下勍のコレクションをもとにしている。寺下は戦前にディスプレイを請け負うくろふね装飾社(のちのくろふね工芸社)に入社、住み込みで学びながら「博覧会でジオラマとかパノラマを造る時に、わら半紙を貼った上から膠で溶いた絵の具を塗る手伝いなどをして3年間を過ごし」(「インタビュー 寺下勍一代記」、「日本の博覧会――寺下勍コレクション」「別冊太陽」第133号、平凡社、2005年、225ページ)、戦後は日本美術展覧会で活躍した。博覧会アーカイブは創設後も各所から寄贈を受けてコレクションを拡大している。
(2)名古屋汎太平洋平和博覧会編『名古屋汎太平洋平和博覧会会誌』下、名古屋汎太平洋平和博覧会、1938年、1312ページ
(3)パトリシア・モルトン『パリ植民地博覧会――オリエンタリズムの欲望と表象』長谷川章訳、ブリュッケ、2002年、363ページ、注(1)
(4)日本産業協会編『白耳義国独立百年記念安土府殖民海洋万国博覧会日本産業協会参同事務報告』日本産業協会、1931年、66―67ページ
(5)山下清秀編『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書――全』進歩一世紀市俄古万国博覧会満洲出品参加残務整理事務所、1934年、4ページ
(6)河原茂太郎編『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』1934年、131ページ
(7)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』5ページ
(8)前掲『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』207ページ
(9)同書274―275ページ
(10)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』71―75ページ
(11)パンフレット「The Little Symphony Orchestra of Chicago」“Iowa Digital Library,”(http://digital.lib.uiowa.edu/cdm/ref/collection/tc/id/34911)[2017年4月24日アクセス]
(12)前掲『進歩一世紀市俄古万国博覧会満州出品報告書』81ページ
(13)前掲『1933年市俄古進歩一世紀萬國博覧出品協會事務報告』289ページ
(14)1933年5月の塘沽協定によって、満州事変は中国との間に停戦が成立している。
(15)巴里万国博覧会協会編『1937年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万国博覧会協会事務報告』巴里万国博覧会協会、1939年、161―170ページ
(16)商工省監理局編『紐育金門万国博覧会政府参同事務報告書』商工省監理局、1941年、122―123ページ、山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象』森話社、2012年、34―35ページ
(17)同書87ページ
(18)古川隆久『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年、75―77ページ
(19)前掲『戦時下の万博と「日本」の表象』124ページ
(20)「万博」1938年3月号、日本万国博覧会協会
(21)「若き亜細亜の黎明(しののめ)に 命輝く 新日本 見よ悠久を 貫ける 大和心の その精華」『万博行進曲』1番歌詞
(22)「万博」1938年6月号、日本万国博覧会協会
(23)ヒトラーは使節派遣を申し出たが、親善使節による親書を送るにとどまった(『天業奉頌』紀元2600年奉祝会、1943年、190ページ)。
(24)ケネス・ルオフ「海外日本人と祖国――海外同胞大会」『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』木村剛久訳(朝日選書)、朝日新聞出版、2010年
(25)満州をめぐる国際的な調停が不調に終わるなか開催されたこの博覧会は、子どもと婦人に焦点を当てながら、消費を喚起すると同時に、国防館や東郷館が建てられるなど、日本を賛美する展示がちりばめられた。他方、「万国博覧会」をうたっていることからもわかるように、3つの外国館が建てられ各国デーがおこなわれるなど、国際色も豊かな博覧会だった。当時の社会情勢を色濃く反映しているが、なかでも最も人気を呼んだ出し物が、ドイツのハーゲンベック・サーカス団だった(以上、川口仁志「「万国婦人子供博覧会」についての考察」「松山大学論集」第20巻第5号、松山大学総合研究所、2008年、参照)。この団体は1940年の「世界5大サーカス団」の1つにも挙げられている
(26)飯田豊『テレビが見世物だったころ――初期テレビジョンの考古学』青弓社、2016年、255―246ページ。日本のテレビ開発の経緯についても同書を参照した。
(27)森田創『紀元2600年のテレビドラマ――ブラウン管が映した時代の交差点』講談社、2016年、150ページ
(28)同書202―205ページ
(29)森田創「『その日』までテレビは続いた」、同書、参照
(30)前掲『紀元2600年』16ページ
(31)この詳細は「八紘一宇」の塔を考える会編著『新編 石の証言――「八紘一宇」の塔「平和の塔」の真実』(〔みやざき文庫〕、鉱脈社、2015年)の巻末資料にまとめられている。
(32)皇紀2600年奉祝会が国際委嘱した奉祝曲が有名で、リヒャルト・シュトラウス(ドイツ)、イルデブランド・ピツェッティ(イタリア)、ヴェレシュ・シャーンドル(ハンガリー)、ジャック・イベール(フランス)の作品が東京歌舞伎座で初演された。『海道東征』は日本文化中央連盟の委嘱で書かれ、ほかに山田耕筰、宮城道雄の委嘱作とともに初演された。この年、奉祝をめぐってほかにも数多くの新曲が書かれ、初演されている。
(33)橋本久美子「《海道東征》を歌った東京音楽学校の3年間」、CD『信時潔――交聲曲「海道東征」他』(NYCC-27300)ブックレット所収
(34)佐々木光「音楽家と戦争責任――戦時下の諸問題」、日本音楽舞踊会議編『近代日本と音楽』所収、あゆみ出版、1976年、166ページ
(35)新保祐司『信時潔』構想社、2005年、86―88ページ。『日本歌曲全集――信時潔作品集』からの引用による。
(36)広田肇一『日名子実三の世界――昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版、2008年)の「ヨーロッパ留学」(46ページ以降)および「記念碑」(109ページ以降)の章を参照。
(37)1945年12月15日のGHQの通達で「八紘一宇」の語の使用が禁じられたため、当初『八紘之基柱』も撤去されるだろうと考えられていたが、碑文・武神像などの消去・撤去ですんだ。その後、63年に武神像が再設置され、65年には「芸術性を高める」という理由で「八紘一宇」の文字が復元された。前掲『新編 石の証言』第4章「戦後の「八紘一宇」の塔」参照。
(38)ただし、このことは当時の日本に様式としてのモダニズムがなかったということを意味しない。ナチは理念や様式としてのモダニズムを「退廃」として排除したが、日本の公安は主題性は問うても、その芸術のスタイルまでには目を向けなかった。音楽創作に関していうと、今世紀に入ってNaxosからリリースされている『日本作曲家選集』によって戦前の日本の作曲の動向が明らかになってきたが、そこには保守的な信時、あるいはロマン派以降の音楽から影響を受けた山田のような作曲家だけでなく、モダニズムを吸収・消化したうえで新たな方向を模索する多様な試みが見られる。
 なぜこうした試みが戦後、断絶されたまま顧みられてこなかったのかは、前衛音楽の祭典となった1970年の大阪万博の音楽シーンを世代論から読み解くうえで興味深いテーマだが、詳細な検討は別の機会に譲り、ここでは次の点を指摘するにとどめる。
東京音楽学校の作曲科にいた信時や橋本国彦は、戦後は公的に活躍する機会もなく創作活動も減退する。旺盛な活動を続けた代表は山田だが、戦争責任論は付いて回った。沈黙するにせよ非難されながら活動するにせよ、この世代は戦前のおのれの振る舞いに関してある程度の社会的な制裁を受けたといえるが、その下限はどこにあるのだろうか。
 片山杜秀は日本の近代音楽史上、1907年を注目すべき年だと論じている(CD『深井史郎――パロディ的な4楽章、ジャワの唄声ほか』〔Naxos 8.5576881〕ライナーノート)。この年には呉泰次郎、深井史郎、小船幸次郎、松平頼則、平尾貴四男、大澤寿人、須賀田礒太郎、長谷川良夫といった作曲家が生まれている。彼らの世代には大正から昭和初期のモダニズムに育まれた自由な気風が共通しているが、その作品の大半は今日、やはり顧みられることがほとんどなく、Naxosのプロジェクトが始まるまで事実上、忘却されていたといえるだろう。
 一方、1970年の大阪万博に参加した著名作曲家のうち、最年長にあたるのは14年生まれの伊福部昭である。満州事変以降に青年期を迎える伊福部は07年世代を「民族的矜持がない」と批判していたが(前掲『深井史郎』ライナーノート)、民族を掲げた伊福部が残りモダニズムが忘れられたのは、やはり世代の違いだろうか。「3人の会」の芥川也寸志・団伊玖磨・黛敏郎が20年代生まれであることを考えると、戦前と戦後の分水嶺は1907年世代と伊福部の間に引くことができそうである。

 

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