第4章 ローマ万博の「夢」――展示空間のなかの経験

鯖江秀樹(人間・環境学博士〔京都大学〕。専攻は近代芸術論、イタリア文化史)

 昨年2015年8月末、ミラノで開催された万国博覧会を訪れた。これがわたしの人生初の万博体験となった。会場内では、とにかく「待つ」という経験を痛いほど味わった。各国パヴィリオンに入場するために長蛇の列に並び、炎天下のなかぐっとこらえて待つ――そのときの感覚が強く身体に刻み込まれることになった。
 こんな恨み節(?)めいた体験談を持ち出したのはほかでもない――もしかしたら73年前のローマにも、同じように万博会場で長い列に耐える人たちがいたかもしれないからだ。
 ベニート・ムッソリーニ率いる時のファシズム政権は、1942年の万博に向けて準備を進めていたが、戦火の影響で開催は見送りを余儀なくされた。すでに完成していたいくつかの建物はそのまま放棄され、戦後は廃墟のような様相を呈していたという。その後、60年のローマ・オリンピックをきっかけに再建事業が本格化し、いまもなお、新たな副都心としてさらなる再開発が進められつつある。この地区は、「エウル(EUR)」と呼ばれるが、それはもともと「ローマ万国博覧会(Esposizione Universale di Roma)」の略号だった。
 本章では、今回のミラノ万博での個人的な体験をきっかけに、ローマ万博が観衆に与えたかもしれない「経験」の質を探ってみたい。ローマ万博は、例えばアドルフ・ヒトラー(とアルベルト・シュペーア)が構想したベルリンの都市改造案「ゲルマニア計画」と同じように、独裁者による誇大妄想の産物だと片づけてしまうわけにはいかない。もちろん新都市の建設を兼ねていたという点で「ゲルマニア計画」とローマ万博は共通するのだが、「絵空事」と断じてしまうことができないほどに多くのことが決定され、多くのものが造り出され、多くのものが遺されているからである。
 これら遺された記録・史料に依拠して、特にローマ万博の展示空間を再構成する。そうすることで、幻と化した万博が、来訪者に何を伝え、何を感じさせようとしたのかを捉え直してみよう。ローマ万博についてはこれまで、イタリア国内外で数多く研究事例があるものの、体制の文化事業に対するイデオロギー的分析、戦後の都市開発の展開を対象とする都市建築論、政権との癒着や確執のなかで活動した建築家への個別研究などが大半を占めていて、展示会場の内部空間にまで踏み込んだ検討は十分にはなされていない(1)。それに対して本章は展示空間について考察を進めるのだが、冒頭に述べたような「個の経験」をできるかぎり導き出そうとする。よく知られるように、万博は経済振興や国威発揚など、国民国家の形成や社会の近代化といった課題と分かちがたく結び付く巨大事業である(だからこそ、今世紀に入ってからその存在意義が根底から揺らいでいると言える)。また、このイベントの成否は、興行収益や来場者数に基づいて判断される場合が多い。多くの難題を抱え込んでしまった万博の現状があるからこそ、ここではあえて「個の経験」を着目してみたいのだ。
 とはいえ、いくら「個の経験」を問題にするにせよ、ローマ万博が実現されなかった以上、観衆の証言は残されていない。そのために、ひとまずローマ万博の構想、計画、準備、中止決定までの経緯を振り返ったあとで、会場全体のプランニング、主要建築群の様式や特徴、その内部で予定された展示企画のリストなどを手がかりにして、主催者たちが理念とした「壮大さ(grandiosità)」や「記念碑性(monumentalità)」は、実際にはどのように演出されようとしていたのか、その方法や仕組みを明らかにする。そのあと、いまなおエウルの地にそびえ立つ《イタリア文明館(Palazzo della civiltà italiana)》(以下、《文明館》と略記)とそこで開催されるはずだった「イタリア文明展(Mostra della civiltà italiana)」(以下、「文明展」と略記)を一つの事例として検討する。この建築物と展覧会は、ローマ万博の理念を集約的に伝えるという、最も重要な役回りを期待された。そのため、早い段階から準備が進められ、議事録や草案、組織図だけでなく、会場内の様子を描いた図面も多く残されている。この展覧会の内実――ひいてはその仕組みが生み出そうとする経験の質――を明らかにするには、体制の文化政策の一環として開かれた先行の展覧会や美術展を参照するとともに、建築的構成のなかで展示品を鑑賞する行為そのものを理論的に考察することも必要になる。ここでは特に、トニー・ベネットの考察を援用しながら、文明館の展示空間がどのような経験を観衆にもたらそうとしたのかを考察する。このように、幻の万博を構成する歴史と場と空間という3つの観点から「あったかもしれない経験」をあぶりだしてみたい。

ローマ万博の歴史――戦争と平和の交錯

 最初に、ローマ万博の構想から途絶にいたるまでの過程を振り返っておこう。
 シカゴ万博(1933年)、ブリュッセル万博(1935年)、パリ万博(1937年)、ニューヨーク万博(1939年)など、各国で次々に開かれた大規模博覧会(またはその計画)に触発されて、統帥ムッソリーニは、1935年春、世界に向けて「自己の理想に具体的な認識を与えるために」、ローマでの万博博覧会開催を提案した。翌年6月、国際博覧会事務局(BIE)の承認を得て、イタリアは開催を勝ち取ることになる。この段階ではBIEの規定に基づいて41年の開催が求められていたが、(22年のローマ進軍によって誕生した)ファシズム政権樹立20周年に合わせて、なかば強引に42年に開催がずらされることになった。ちなみに32年、政権樹立10周年を記念して、ローマ中心部に位置する「展示館(Palazzo dell’esposizione)」を舞台に「ファシスト革命展」が開催された。つまり、革命暦が採用されていたファシズム時代のイタリアでは10年ごとに節目を祝う国民行事が企画されていたことになる。「暦の一致」を図ることで、国家統一をいっそう強固なものしようとするねらいがあった。
 BIEの承認以後、開催に向けた準備が本格化した。ヴェネト州出身の実業家で、ムッソリーニが推薦した上院議員ヴィットリオ・チーニ(Vittorio Cini 1885-1977)が万博事務局長となり、事業全体を統括することになった。地中海覇権をもくろむ統帥の「海へ向かって(Verso il Mare)」という帝国主義的なスローガンに重ね合わせるようにして、ティレニア海を臨むオスティアとローマ中心部の間に会場を設け、縦横に軸線となる幹線道路を通したシンメトリックな都市計画が決定した。会場の中央を走る直線道路は、「帝国通り(Viale imperiale)」と名づけられたが(現クリストフォ・コロンボ通り)、コロッセオから延びて万博会場を貫き、その後ティレニア海沿岸部にまで達するという計画だった。時の政権は、万博を皮切りに、ローマから海へ舌のように延びていく大都市を建設するという壮大な野望を抱いていたのである。

[1]ローマ万博の主要建築
 メイン会場の決定と並行して、主要な建築物の設計競技会が政府主催で次々に開かれ、1938年以降、順次着工した。最も早い段階から工事が始められた代表的な建物を紹介しておこう。《文明館》は、その形態から「四角いコロッセオ」と称された。それと向かい合わせに位置する《レセプション会場兼会議場(Palazzo dei ricevimenti e congressi)》は「新たなパンテオン」と形容される。また「イタリア文明館」の南西の丘で会場全体を見渡すように、《サン・ピエトロ・エ・パオロ聖堂(Chiesa dei SS. Pietro e Paolo )》が建設された。カトリックの総本山の再建にあたって、かつてミケランジェロが提示した集中式プランによるこの教会は、さながら新都市のサン・ピエトロ聖堂のようでもある。万博会場の要所に、新たなコロッセオ、パンテオン、サン・ピエトロ大聖堂を模した建物を据えることで、ローマ中心部との建築的アナロジーが演出されていたのである。このように、既存のモニュメントや建築物、さらには展覧会などの国家事業を別の文化的イベントのなかで再活用するというやり方は、ある意味でイタリア・ファシズムの文化政策の常套手段となっていたように思われる。
 先に紹介した3つの建築物を含む会場の施設は一様に、鉄筋コンクリート構造で建設され、建物の外壁はトラバーチンや大理石、花崗岩のパネルでおおわれることになった。全体を統一的にデザインすることで文字どおり「白亜の都市」が広がるという趣向だった。「古代ローマ帝国の再来」を自称したムッソリーニの独裁国家が、古代ローマのフォルムに見立てて視覚化されつつあったのである。この万博建築の統一化を牽引したのが、マルチェッロ・ピアチェンティーニ(Marcello Piacentini 1881-1960)である。ブレシアやトリノといったイタリア各地の都市計画や、1936年に完成したローマ大学都市の全体統括など、政権の建築・都市政策に最も深く関与した建築家だった。また、会場内の建築物に付随する大理石の彫刻像や壁画など、美術品や装飾について決定権を握っていたのは、画家で批評家のチプリアーノ・エフィジオ・オッポ(Cipriano Efisio Oppo 1891-1962)である。ファシズム体制の庇護のもとで始まった美術展、「ローマ・クアドリエンナーレ(Quadriennale di Roma)」の事務局長を務めたオッポは、一部で「イタリア美術の大審判者」と揶揄されるほど、当時の美術界で絶大な権威を誇っていた。両者は、作品の指定、選択、認定を指揮することで、様式や傾向、世代も異なる建築家・芸術家の役割を調整しながら、「古代ローマの継承者」というファシズムのイデオロギーに即した古典様式で会場を統一していった。

[2]万博と戦争
 ところで、こうした一連の準備が深刻な時局のなかで進められていたことを忘れるべきではない。時代の符牒を合わせておけば、エチオピア戦争(1935年5月)を経て、ムッソリーニが「帝国宣言」を発表したのが、1936年5月9日だった。このエチオピア戦争の開始と万博開催の提案、そして「帝国宣言」と万博開催承認はそれぞれ見事に符合する。思い出しておこう――万博の理念を決定づけた「海へ向かって」という統帥のスローガンは、かつての古代ローマのように地中海制覇を目指したファシズムの帝国主義的政策によって現に実行されつつあったのである。こうした政治と文化の一致はいたるところに見いだすことができる。1936年夏、スペイン内戦に介入したドイツが、ベルリン・オリンピックを開催し、五輪では初めて聖火リレーをおこなった。一方、ムッソリーニは、自国で開催される万博をほかでもなく「文明のオリンピック(Olimpia della civiltà)」と呼ぶことになる。さらに翌37年、パリ万博でドイツ館とソヴィエト館がにらみをきかせるように向かい合うなか、会場ではピカソの『ゲルニカ』が公開された。このときローマ郊外では、万博会場の工事がすでに始まっていたのだ。政治と文化、戦争と万博はこうした表裏一体の関係を結んでいる。その後、ニューヨーク万博が開幕したさなか、39年5月の独伊同盟が締結され、9月にはドイツ軍によるポーランド侵攻が始まった。この背景が、ローマ万博に「平和」という理念を強く訴えさせることになる。万博事務局長チーニは、万博の理念をこう説いている――「イタリアが文明のために行動するなら、苦境に立たされたヨーロッパ諸国の平和、労働、真の時代が間もなく到来するという希望は、まったく失われることはない(2)」。戦争の裏返しとして平和を望むという理念の逆説は、くしくも万博準備のさなかに他界した思想家、アントニオ・グラムシ(Anitonio Gramsci 1881-1937)が獄中でノートに記した一節を思い出させる。曰く、「未来に投影されるのは反転した過去なのである(3)」。
 さて、世界大戦が勃発してなお、万博会場の準備は続いた。当時撮影された航空写真から判断すると、この段階で、国際パヴィリオンの区画は更地のままだったが、開催国の主要建築物のうちおよそ四分の一が完成ないしは着工を果たしていたと考えられる。だが結局、開幕が予定された1942年のうちに開催延期――中止ではない――が発表された。だからこそというべきだろうか。43年9月にイタリアが連合国に降伏してから半年がたった頃、「1943年12月31日までの博覧会事務局および公社の活動報告書(4)」が作成されている。驚くべきことに、ムッソリーニが処刑され、ファシズム政権が壊滅状態にあるなか、会場工事が一部で継続されていたというのである。

[3]ローマ万博の場――会場の全体像
 ここで万博会場に目を転じて、敷地内のプランニングや建築物の配置を確認していこう。そうすることで、この万博が観衆に与えようとした経験に迫ってみたい。
「ローマ万博全体平面図(Pianimetria generale dell’Esposizione Universale di Roma)」を見ると、周囲に環状道路を巡らせることによって全体が五角形でプランニングされていたことがわかる。もともとこの場所は湿地帯で開発が進んでいなかったことも手伝って、こうした幾何学的な造営が可能となったと考えられる。広さはおよそ400ヘクタールで、万博の理念の一つである「壮大さ」が、この広大な敷地面積によって具現化している(ちなみに今回のミラノ万博は広さが110ヘクタールで、東西方向に延びるような横長の会場の端から端まで歩くのに20分ほどを要した。このことからも、ローマ万博の「壮大さ」を推しはかることができる)。
 このまま五角形に見立てて会場の平面プランを解説すると、底辺の部分には、ローマ中心部に近いメインゲート「帝国門」が置かれていた。それに対して、反対側の先端部が矢印のように海を指している。前章で指摘したとおり、そこからテーヴェレ河に沿ってティレニア海へ向かう街道が延びることになっていた。この平面図が示唆する方向性は、あたかも海へと進出していく軍の陣形のようでもある。実際、縦横に幹線道路を直交させた会場の中心部は、古代ローマ軍に由来する「四方陣形(castro)」を模したものだという指摘もある(5)。
 さらに重要なのは、この会場を準備した政府の思惑だろう。万博開催が発案された直後の草案では、仮設会場が想定されていたが、かなり早い段階で閉幕後もこの「新都市」に建築物をそのまま残すという方針に切り替わっている。例えば、すでに紹介した三つの主要建築物のほかにも、劇場、銀行、郵便局、地下鉄などの公共施設、さらには人工池や公園、遊園地、レストランといった娯楽・遊興施設の恒久化が定められた。万博会場の準備は同時に、新たな都市のインフラ整備を兼ねていたのである。

[4]海へ向かう「新都市計画」
 それと呼応するかのように、この時期、万博会場とティレニア海の間に位置する「オスティア遺跡(Ostia antica)」に対する考古学調査が本格化した。このことを見逃すわけにはいかない。政府は万博=新都市の建設をさらに「海へ向かって」拡張しようとしていたのだ。その途上にあったのがオスティア遺跡である。ローマ中心部では、ムッソリーニの執務室があった「ヴェネツィア宮」とコロッセオを結ぶ直線道路「帝国通り(現フォーリ・インペリアーリ通り)」を開通させるために、フォロ・ロマーノ遺跡とその周辺部が無慈悲に取り壊されてしまった。スラム・クリアランスも兼ねた1932年のこの考古学的悲劇と同じような事態が、オスティア遺跡にも迫りつつあったと考えられるのである。この危機が現実味を帯びていたからこそ、1939年というタイミングで「芸術ならびに歴史遺産保護法(Tutela delle cose di interesse artistico e storico)」と「自然美保護法(Protezione delle bellezze naturali)」が制定されたのではないだろうか。政府による開発という名の「破壊」に歯止めをかけるかのようなこれらの法律制定に尽力したのが、ローマ進軍以来、ムッソリーニの右腕としてファシズム政権を支えたジュゼッペ・ボッタイ(Giuseppe Bottai 1895-1959)だった(6)。
 さて、あらためて万博会場の中心部分に目を向け直してみよう。前述の平面図では各施設が用途ごとに塗り分けられている。それによると、恒久化を想定したイタリア側の主要施設がメインゲート付近に集中していた。そこから会場の中央を貫く「帝国通り」を南に向かって進むと、各国パヴィリオンが人工湖の手前に立ち並ぶことになっていたようだ。このゾーンを取り囲むようにして、左側(東)にイタリア側の経済・商業関連施設が、右側(西)に美術関連施設が配置されていることがわかる。人工池の向こう側には、虹のように弧を描く巨大なアーチ「帝国のアーチ(L’Arco Imperiale)」が築かれるはずだった。ちなみに、このアーチをモチーフにしたジョルジョ・クアローニ(Giorgio Quaroni )の絵は万博の公式ポスターに採用され、世界に発信されていた(ただしこのシンボルは、当時の技術的水準では到底実現できなかったと予想される)。
 以上のような会場プランから、観衆の目に飛び込んでくるはずだった光景をある程度まで想像することができる。メインゲートをくぐり抜けると、白亜の古代風建築と荘厳な彫刻像に出迎えられる。中央通りに歩を進めると、両側に各国の旗がはためくプロムナードが現れ、その先に目をやれば、東と西、「経済」と「芸術」をつなぐ巨大な「虹」が出現する。あるいは、地下鉄に乗り、会場の中央から出てきたとするなら、水面に映る巨大なアーチや緑豊かな公園が観衆を魅了したにちがいない。
 しかしながら、この架空の光景のうち、開催までに実現したのは、メインゲート付近の擬古典的な建築群にすぎない。会場全体の中核の担うこのゾーンは、20世紀の時代によみがえった古代ローマのフォルムのような様相を呈していただろう。それを実現させるために、各施設の設計コンクールで提出された建築案の検討や調整を図っていたのが、建築委員会だった。なかでも、当時の体制内の建築界で絶大な権威を誇ったマルチェッロ・ピアチェンティーニの意向が強くはたらいたのは、先に述べたとおりである。

[5]1930年代のイタリア・パヴィリオン
 すでにふれたとおり、ピアチェンティーニは、万博の準備にとりかかる前に、ローマ大学キャンパスの建設という一大事業を成し遂げていた。この経験が、万博会場の計画実施に生かされていたはずである。その意味で、ローマ大学都市は、ローマ万博の「前哨戦」と見なすことができる。それと関連して見逃せないのが、1937年のパリ万博でイタリア・パヴィリオンを設計したのが、ほかでもなくピアチェンティーニだったということである。
 このイタリア館は2つのユニットで構成されていた。1つは、屋上端部に計24体の彫刻像を並べた6階建ての方形のビルディングであり、それに付随するもう1つの建物は、セーヌ河に面したガラスのファザードを角柱の連なりが持ち上げてピロティを形成している。当時の絵はがきを見ると、あたかもローマ万博でいち早く実現した《文明館》と《レセプション会場兼会議場》を接合して横に並べたような形態をとっていることがわかる。さらに見逃せないのは、ガラスや鉄骨、あるいはピロティのような近代建築の造形言語が、石材でおおわれることなくそのまま剝き出しにされているということである。言い換えれば、1937年のパリでは、ローマ万博のように建築物が古代風に統一されていたわけではなかったのである。
 この特徴を、1930年代の博覧会に見られる歴代のイタリア・パヴィリオンとのつながりのなかで捉え直してみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。例えば1935年のブリュッセル万博。このときのイタリア館で目を引くのは、「リットリオ様式(Stile Littorio)」と称される、「権標(fasci)」を模した4本の巨大な柱からなるファザードである。これは32年の「ファシスト革命展」のファザードとまったく同じ形状だった。ファシズムの力強さや雄々しさを視覚的に印象づける鋼鉄の柱は、国家の近代性をたたえるシンボルと解されていたのである。一方、39年のニューヨーク万博では一転してまったく異なるパヴィリオンが実現した。両翼に神殿のようなアプローチを備えたコの字型の建物で、中央の階段状の塔から滝が流れ落ちる――見ようによってはかなりキッチュな様相を呈していた。ただ全体的な印象としては、あくまで「古代風」」であり、その内部ではパネルや擬人像、大型の壁画を並べ、新しい国家建設に向けて公共事業に邁進するイタリアの姿が紹介されていた。
 このように、イタリア・パヴィリオンの趨勢に目を向けてみるとき、建築による国家表象の力点が近代的なものから古代風のものへと変化していたことがわかる。その流れのなかで、先に見たパリ万博のパヴィリオンは、いわば過渡期の産物だった。その変化の最終地点が、ローマ万博の古代風建築たちだった。ファシズム史研究で知られるエミリオ・ジェンティーレが述べるように、「ファシズムを古代ローマ化したのは古代ローマではなく、ファシズムこそが古代ローマをファシズム化した」のだとすれば、ローマ万博ほどそのことをはっきり示す舞台はほかにないだろう。ただし、ニューヨーク万博のイタリア・パヴィリオンがそうだったように、彫刻像を含めた会場の造形作品たちは、ややもすれば安っぽい「まがいもの」のように映ってしまう。「壮大さ」や「記念碑性」というよりは、「ハリウッドの映画監督が想像したかのような古代ローマ」、すなわち撮影セットを眺めるような印象を観衆たちに与えたとも考えられるのだ(7) 。

[6]不気味な都市――映画とモードの舞台
 この指摘を受けて、万博跡地「エウル」がたたえる独特の雰囲気にふれておいたほうがいいだろう。いまでは企業オフィスやマンションが立ち並ぶこの地区は、それでもなお、現実味を欠いたような、どこか不気味な空気を漂わせている。今回のミラノ万博との関連イベントとして企画展「ローマ万国博覧会 新しい都市――ファシズムから1960年代まで(Esposizione Universale di Roma: una città nuova dal fascismo agli anni 60)」(2015年3―6月)が開催されたが、そのカタログで各論者が共通して指摘するのも、まさしくそのことである。もちろん、ローマ万博という野心的なプロジェクトを抱いたファシズムの記憶を色濃く残す街区であるのはまちがいないが、それ以上に、形而上画家ジョルジョ・デ・キリコが描く都市に例えられるほど、「亡霊的」で「超現実的」な雰囲気がエウルには充満しているのである。そのことを敏感に察知していたのが、戦後に活躍したイタリアを代表する映画監督たちだろう。最もよく知られるのが、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1959年)だが、それ以外にも、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960年)や『夜』(1961年)、ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』(1970年)といった作品のロケ地となったのも、ほかならぬエウルだった。また、1950年代以後、女性向けモード雑誌のグラビア撮影の舞台となったのが、あとで詳しく紹介する《文明館》だった。かつてのファシズムの「帝都」は、ファインダー越しに眺められる被写体となり、写真―映画を介して戦後の観衆を魅了することになった。映像化されたエウルは、夢と現実が交錯すると同時に、都市に対する洗練されたイメージを大衆に提供したと言えるだろう。戦後に浮かびあがってきたこうした側面は、イデオロギーの浸透やプロパガンダを眼目とする政治的祝祭の場としてローマ万博を捉える視点からは取り逃がされてしまうだろう。では、ローマ万博ははたして、観衆たちに何を経験させ、どのような夢を与えようとしたのだろうか。

ローマ万博の空間――イタリア文明展

 結局中止されたとはいえ、ローマ万博の展示空間については、一部で実現に向けてかなり具体的な案が出されていた。なかでも注目してみたいのが、《文明館》の展示である。直近のニューヨーク万博を象徴するのが、天を突くような三角錐の塔「トライロン」と、巨大な白い球「ペリスフィア」だったとするなら、先に紹介した「帝国のアーチ」と《文明館》こそが、ローマ万博のシンボルとなるはずだったにちがいない(8)。ただ、前者が着工さえされなかった以上、後者は万博のシンボル・タワーであり、その記念碑とみなされていたはずだ。実際、このシンボルは他館よりも優先して準備が進められた。最も早く完成した建築物の一つで、建設工事が1938年6月に始まり、40年11月には落成式が挙行されている。あとで詳しく述べるが、ここで予定された展示は、万博の理念を集約的に示す目玉企画だった。そのため、「文明館」を分析することは、ローマ万博の展示の全貌とその特徴を理解することにつながると考えることができる。
 文明館に議論を移す前に、ひとまず予定されていた展示企画の全体像を確認しておこう。そこで参考になるのが、1941年1月に博覧会公社が発表した「組織編成図(Scheda di raggruppamento)」である。それによると、展示企画が10のセクションに分類され、全体で70から80前後の展示(mostra)が開かれる予定だったことわかる。それらを逐一列挙することは控えるが、この編成図が、図書館にある「図書分類区分表」を思い出させると言えば、少しイメージしやすくなるだろうか。農林水産業、近代と伝統産業、科学、教育、宗教、芸術など、およそ考えられる万物が漏れなく展示の対象となっていて、各展示は、「科学都市」「芸術都市」「展示都市」「共同組合経済都市」と名づけられた四つのゾーンに割り振られていた。これら四つの「都市」のなかで、万物が競演する「文明のオリンピック」が開催されるという趣向だった。展示企画が集合して一つの「都市」を形成する。その光景はまさしく「展示複合体(exhibitionary complex)」と呼ぶにふさわしいだろう。文化政策研究で知られるトニー・ベネットによると、「展示複合体が織りなす表象空間は、歴史、美術史、考古学、地質学、生物学、人類学など、新しい諸学問の配列関係によって形成される」のであり、「展覧会とそれに隣接する出し物が連動することで、ひとつの道筋を与える。会場のレトリックを形成する展示複合体と規律と知が、その道筋を通じて、広い範囲に社会的影響を及ぼすようになる(9)」のだ。
 まさしく「知の総合」とでもいうべきこうした展示構成のなかで、「文明展」は「展示都市(Città delle mostre varie)」の一角を占めていたが、数ある展示のなかで最も重要なプロジェクトだった。すでに述べたように、この建物自体が、万博閉幕後も恒久的な博物館として利用されることは、設計コンペの募集段階すでに決定していた。コンペの告知文には以下のように記されている。「本館は、その起源から現在に至るイタリア文明の総体を明快かつ包括的に表現し、際立たせるべきである。それは芸術、技術、歴史的出来事、法、さらには哲学、政治、宗教などの思想の総体となるだろう。その総体を表明することが、結果としてイタリアの真髄の統一性と継続性、さらにはそれがもたらす人類の進歩への絶えざる貢献となる(10)」
 この一節からもわかるように、《文明館》は、ローマ万博のメイン・パヴィリオンになることが期待されていた。その設計競技会では、建築史的観点からしていくつかの興味深い事実――より近代的な別案や選考委員たちの思惑や駆け引き、選考決定後の改変――があったのだが、このことに子細にふれる余裕はない。結果としてコンペを勝ち抜いたのは、ほとんど実績がなかったジョヴァンニ・グエッリーニ(Giovanni Guerrini 1887-1972)、エルネスト・ラ・パドゥーラ(Ernesto La Padula 1902-68)、マリオ・ロマーノ(Mario Romano)のチームだった。
《文明館》の外観を押さえておこう。小高い丘に立つこの建物は、万博会場全体を視野に収めるとともに、会場のどの地点からも仰ぎ見ることができるシンボル・タワーだった。その特徴は、何といっても強迫的とも言える反復性にある。やや縦長のキューブ型で、6つの階層すべてに形状も大きさも同一の9つのアーチが連続している。古代都市ローマの飛躍的な発展――公共施設の充実とその高層化――を支えたアーチ構造によって「古代ローマ以来絶えることなく伝承されていたイタリア性」を表現する。それとともに、「イタリアの真髄」の「総体性」や「統一性」を理念的に補強するべく、建物の上部には次のような銘が刻まれている――「詩人、芸術家、英雄、聖人、思想家、科学者、航海者、移動者たる人民」、と。ムッソリーニの演説からとられたこのフレーズと連続アーチは、建物の四方すべてで寸分たがわず反復されている。このある種異様な反復性には、設計者たちの次のような意図が込められていた。「整然と並ぶアーチは、イタリア文明に典型的な要素であり、古代ローマ以後、何世紀にもわたり――ゴシックの時代を経てなお――かたくなに遵守されてきた。そのために本館で、アーチが誇る永遠性の感覚は、純粋に構築的なかたちで残されているのである。つまり、ある特定の時代や様式を想起させてしまうようなどのようなアクセントもなく、アーチは透徹したリズムでどの面でも繰り返されることで、永遠なるものの本質が露わになるのだ(11)」。言い換えれば、同一モチーフの執拗な反復には、それが絶え間なく続くという「永遠性」を喚起させるという意図がはたらいているのだ。とはいえ、グエッリーニらの計画はそのまま実行に移されたわけではない。石積みによる高層化は、工期と予算の制約によって断念され、鉄筋コンクリート造りで、トラバーチンのパネルによって全体が被覆されることになった。また、先に紹介した銘文や1階の各アーチに並び立つ擬人像たちは、設計段階では設置予定がなかった。

[1]「イタリア文明展」の再構成
 この《文明館》の館内で開かれるはずだった「文明展」で、どのような空間が広がろうとしていたのか。この展示会は、一言で言えば、古代ローマからムッソリーニの時代にまで連綿と続くイタリア文明の豊かな伝統を、偉大な歴史上の人物たちの足跡を通じて紹介するというものだった。その展示の様子は、展示企画の構想、そこで実現すべき理念を示した公式文書、完成した姿を示唆するデッサンという三つの史料から再構成することができる。

「文明展」の構想
 まずは、「文明展」がどういう経緯を経て構想されたのかを確認しておこう。興味深いことに、この展示はそもそも、万博のために考案されたオリジナルの企画ではなく、数年前のある展示企画を焼き直したものだった。もとの企画とは、「イタリア文明展 アウグストゥスの時代からムッソリーニの時代まで(Mostra della civiltà italica dai tempi di Augusto ai tempi di Mussolini)」と題された展覧会で、ボンピアーニ出版社の創始者ヴァレンティーノ・ボンピアーニ(Valentino Bompiani 1898-1992)が政府に提案したプロジェクトだった。提案された1935年の段階では、この展覧会はローマ中心部での開催が予定されていたが、そのころローマ総督の任にあったボッタイが、万博事務局長のチーニに対して、ボンピアーニ案を万博会場で開催するよう進言したのである。以後、チーニやオッポといった事務局側の要人、それに「魔術的リアリズム」で知られる作家マッシモ・ボンテンペッリ(Massimo Bontempelli 1878-1960)が中心となって草案が徐々に固まっていくことになった。この経緯を追っていると、予想以上に早い段階で「文明展」の大枠が決まっていたこと、さらにはローマ万博が「ファシズム革命20周年展」を祝う国家行事として準備されていたことがわかる。ボンピアーニの企画案は、もとはと言えばこの革命展のために出されたものだったからだ(12)。

「文明展」の理念
 この準備段階をもう少し追跡してみよう。1938年1月、「文明展」の内容をさらに吟味するために、組織委員会が立ち上げられている。この委員会は、ローマ大学の教授陣やイタリア・アカデミー会員など、高名な学者たちで構成された。古代ローマ法を専門とするローマ大学総長ピエトロ・デ・フランチッシ(Pietro De Francisci 1883-1971)、ベネデット・クローチェと並ぶイタリア観念論の代表的哲学者ジョヴァニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentilie 1875-1944)、アカデミーからは美術批評家のウーゴ・オイエッティ(Ugo Ojetti 1871-1946)など、いずれも体制に協力的な立場をとった錚々たる顔ぶれである。彼らは38年から40年にかけて50回もの会合を開き、イタリア史全体を5つの時代――古代ローマ、中世、ルネサンス、16世紀から18世紀、19世紀からムッソリーニ――に分節し、それぞれの時代を代表する偉人にスポットを当てて展示空間を構成するというグランド・デザインを決定した(13)。この最終案は、「イタリア文明展 展示会規範(Mostra della civiltà italiana. Criteri fondamentali per la presentazione della mostra)」(以下、「最終案」と略記)として39年付で公開された。このことからひとまず確認できるのは、「文明展」がイタリア国内の知を結集して練り上げられた企画であり、学者側からすれば「時代ごとに、その細部にまで踏み込んだ新たな研究成果」を公にする機会になるはずだった、ということである。
 この「最終案」は、「本展は何よりもまず「総合性(sinteticità)」という条件に合致しなければならない」という一文から始まる。当然予想されるように、イタリア文明が誇る「美点」や「進歩」、それが全世界に及ぼす「有益な影響」をたたえ、展覧会が結果的に「人間性の高度な学校」となるべきだとし、大衆教化的な側面が強調されている。ただし、「最終案」としては意外とも思えるような指摘が含まれている。例えば次のような箇所である。

  本展は、かつてないほど多様な趣味、傾向、教養をもつ観衆の訪問を受けることになる。主催者の課題は、この観衆(外国人を含む)の想像力を刺激することである。彼らの大多数が望むのは、わが国の歴史の各時代を子細に注視することではなく、3,000年の歴史をもつイタリア文明という巨大な現象に対する造形的かつ視覚的な気分(sensazione)を抱くことだろう。(略)
 本展の主要な目的はそのため、教育することだけではない。むしろ来訪者の感受性や好奇心を刺激し、彼らの興味を強く掻き立てることである。わが国の文明の礎石たるローマは常に、多様かつ複合的な素材の永遠なる中心地となるだろう(14)。

 万博博覧会はその誕生以来、美術館とともに群衆を国民に編成し、彼らを教化するという役割を期待されてきた。だが、ローマ万博の中核となる「文明展」の照準を合わせるのは、「教育」ではなくむしろ観衆の「感受性」や「好奇心」など、感覚的次元だという。裏を返せば、展示物をつぶさに吟味し、歴史理解を深めようとする観衆の存在は構想の段階から想定されていなかったということになる。ローマ万博が思い描いた理想の観客像は、文字どおりその場の「気分」に浸りきることができる者だったのだ。
 では、その「気分」をどのような仕掛けを通じて生み出そうとしたのか。ひとまず手がかりになるのが、先の引用文のなかで「気分」が「造形的かつ視覚的なもの」だとされていることだ。そのこととの関連で重要なのが、文明展は「前もって定められた単一の表現手段」ではなく、五つのテーマそれぞれに適合する「多彩な表現法」に訴えるべきだという「最終案」の一節である。具体的な方法として提案されているのは、地図やジオラマ、ダイヤグラム、図表など、グラフィックな造形物をふんだんに活用すること、高名な作家や政治家、芸術家の名言を拡大して壁面を装飾すること、法典や出版物、記念碑、美術作品などの複製写真を積極的に用いること、などだった。一方、「最終案」は、美術作品の実物を会場内に持ち込むことは極力控えるよう促している。また、写真複製の使用を推奨しながらも、ダダイズムやシュルレアリスムなど、前衛芸術の領域で実験された「フォトモンタージュ」の手法は、ファシズムの時代に固有の「具体性」や「明瞭性」をそぐことになるとしている。フォトモンタージュに対するこの否定的見解に沿うならば、1932年のファシズム革命展の一室を飾った、ジュゼッペ・テッラーニ(Giuseppe Terragni 1904-43)の手になる「O室」のような前衛的な内部装飾は歓迎されなかったと考えられる(15)。

「文明展」の予想図
 会期が迫っていたこともあってか、ここまで検討してきた「最終案」は、展示構成に対してかなり突っ込んだ注文をつけていたことがわかる。では一連の要請を受けて、実際にどのような展示空間が設計されていたのだろうか。最終案の策定にも深く関与したオッポが監督役を務めて、今度は実行委員会が組織され、会場のプランニングが1939年から本格的に始まった。会場デザインは《文明館》を設計した3人の建築家が引き続き担当することになった。
 彼らは、《文明館》の内部構成について興味深い案を出していた。それは、建物の中央部にエレベーターを設け、観衆を最上階まで一気に運び上げ、傾斜床で下におりながら各階を巡覧するという仕組みである(16)。その螺旋状のルートは、さながら『神曲』で描かれるダンテの地獄巡りのようだったはずなのだ。この画期的な案は結局、階段による下階からの一般的な巡覧ルートに変更されたが、この時代、テッラーニが設計した「ダンテウム」を筆頭に、ダンテがいかに神話化され、文学だけでなく政治や建築といったさまざまな領域で着想の源になっていたかを物語っている(17)。
 では、肝心の展示空間は、どのように具体化されつつあったのか。それを知るてがかりとなる2種類の図面がある。1つは平面図やテーマ配置図であり、もう1つが、ラ・パドゥーラが中心になって制作した各部屋の完成予想図である(18)。
 前者のうち6階の配置図を参照してみよう。展示スペースは、(ほかの階でも同じだが)正方形の四辺をぐるりと囲むように設けられていて、中央に設置された階段からこの階に到達した観衆たちは左回りに各展示をたどっていく。この階では、ロビーから順に、「ペトラルカ」「ボッカッチョ」「フィレンツェの芸術と文学」「人文主義の教皇たち」「トスカーナ地方の絵画・彫刻・建築」「マキアヴェッリとグイッチャルディーニ」といったテーマ室を抜け、最後に「コロンブスの間」へと達する。つまりこの階は、14世紀から16世紀まで、各分野の傑出した才能とその文化的背景の両方を紹介しながら、通時的にルネサンス人文主義の栄光を上演しようとしていたのである。
 他方、《文明館》のなかで観衆の感覚を刺激することはかなり困難だったと予想できる。問題は建物内部の空間構成そのものにあった。平面プランはほぼ正方形で、中央に階段やエレベーターなどの機能を集中させ、その周囲に展示スペースを設けていた。個室で空間が分節されていないため、幅約10メートルのギャラリーを一周するという、ある意味では伝統的な鑑賞スタイルが求められる。つまり、建築それ自体が幾何学的な形態をとっているため、最終案があらかじめ懸念を表明していた「単調さ(monotonia)」が勝ってしまうことになりかねないのである。それを打開するために、壁やパーテーションによって空間をゆるやかに分割したり、円塔状の仮設小部屋を四隅に設けるといった工夫が施されようとしていたようだ。
 もう一つ有力な手かがりを提供してくれるのは、完成予想を示す多数のパースである。それを見ると、地図やジオラマ、ダイヤグラム、図表、各時代を象徴する名言などを積極的に取り入れようとしていることがわかる。また、各階のテーマに応じて、作品の配置や壁の構成を変えることで、「多彩な表現法」を与えようとしている。その点では、「最終案」が提起した方法に忠実だったと言えるだろう。例えば、「先史時代の間」と題されたパースでは、天井を半筒ヴォールトでおおい、そこに壁画模様を描いてみせ、「教会の創設」の透視図では、巨大な十字架を中央に配し、ゆるやかに湾曲させた天井に拡大した文字をレタリングしている。別のパースでは、同じ大きさのパネルを一定間隔で掛けるという方法も提案している。さらに、複数の仮設の仕切り壁の端部を重ね合わせ、部屋を斜めに横切るようにジグザグに置くという仕掛けは、明らかに先にふれたテッラーニ「O室」を意識したものである。
 これら一連のイメージから、ラ・パドゥーラをはじめとする実行委員会のメンバーたちが、展示空間に多様な変化を与えることに苦心したことがわかる。そもそも《文明館》それ自体が、永遠性を喚起させることをねらいとして、同一モチーフの反復にこだわった抽象的な四角い箱だった。だからこそ、内部の展示空間は、その「対旋律」として、異なるリズムや印象を与えようとしたのである(19)。あまりに統一的で均質な空間は、観衆の感覚を次第に鈍化させ、万博という舞台の「気分」をそぐことになりかねないという懸念があったのではないだろうか。
 展示の未来予想図には、もう一つ、ある共通点を見いだすことができる。それは壁面や天井に高密度に展示物を設置する一方で、来訪者たちの通過の妨げになりうる立体的な展示物が極端に少ないということである。誇張して描かれた広いスペースに、わずかにガラスの陳列ケースが並べられている程度で、パースのなかで描かれた人々は、あたかもウィンドーショッピングを楽しんでいるかのようである。
 現代の消費文化の一面を切り取ったかのようなこの光景は、くしくも今年2016年はじめに再現されることになった。有名ファッションブランド、フェンディが《文明館》を本社ビルとして活用することが決まったのである。そのお披露目として、展覧会「新しいローマ――エウルとイタリア文明館(Una Roma Nuova: l’Eur e il Palazzo della civiltà taliana)」が開催された。この展覧会は、戦後映画やファッション雑誌の舞台を提供し、副都心として復興を遂げたエウルの姿を写真パネルで紹介するものだが、ローマ万博準備期間に制作された図面やポスター、模型、家具調度類なども多数展示された。無論、ファシズムという暗い過去の記憶を批判的に捉え直すという意図は稀薄ではあるものの、ローマ万博が観衆に与えようとした経験を読み解くヒントを与えてくれているように思えてならない。

[2]イメージから導き出される「万博体験」
 最後にあらためて文明展の「最終案」に立ち戻ろう。そこでは、万博全体を一冊の書物になぞらえて、文明展を、会場の「要約」ないしは「目次」と例えている(20)。この比喩にそってローマ万博、とりわけ大量に描かれた完成予想図たちを見ていると、あることに気づかされる。ラ・パドゥーラたちが描いたパースやデッサンは、会場のほかの施設や展示の完成予想図と不思議なほどよく似ているのだ。もちろんそれぞれの制作者は異なる。しかも、会場を古典様式で統一したピアチェンティーニでさえもが、イルミネーションで照らし出された幻想的な透視図を描いているのである。展示空間の完成予想図は、古代ローマを髣髴とさせる壮大で厳粛な雰囲気ではなく、楽しげな「気分」を助長するかのようなイメージに満たされている。その絵だけを見れば、人々の憧れを誘うスタイリッシュで洗練されたライフ・スタイルを提示しているようにも思えてくるのである。あるいは、1930年代に量産された「白い電話(telefoni bianchi)」と呼ばれるイタリア製メロドラマ映画の室内デザインを思い出させる(21)。フェンディによる企画展は、ローマ万博とモードや映画の世界で理想化された「生の形式」とのつながりを図らずも暗示してくれるのである。
 そうしたイメージの連鎖によって浮かび上がってくる「軽やかさ」は、帝国主義や集産主義といった重々しい政治的イデオロギーと対極をなしている。たしかに、ローマ万博は、地中海制覇の野望と、戦火における平和への訴えといった理念に支えられていた。だが、その万博が観衆に与えようとした一方で、観衆自身も望んでいたのは、古代ローマとムッソリーニのローマを重ね合わせた堂々たる威容ではなく、手に届きそうで届かない生の形式=ライフ・スタイルだったのかもしれない。
 19世紀に登場した公共美術館や万国博覧会は、美術作品であれ商品であれ、大量のモノを観衆の目に供するイベントだった。だが、その展示の本質をなすのは、大量の事物を目撃する者=観衆がその場に居合わせているということではないだろうか。冒頭でふれたミラノ万博の体験とは、人々が同じように並び、同じように――熟慮することなく――展示空間を通過し、その「気分」を味わう経験だった。トニー・ベネットが述べるように、それは「意識そのものではなく、個人の挙措を展示構成に合わせて調整する規律や訓練の効果(22)」を暗に含んでいるのである。
 してみればローマ万博が観衆に与えようとした経験とは、政治的イデオロギーをあからさまに刷り込まれるのでも、体制への賛美を一丸となって表明させるものでもなく、便利で快適な生活という夢を直感的に共有させるものではなかったか。その夢のなかに観衆が大挙してみずから進んでいく姿は、はたして大衆扇動なのか、あるいは戦後消費文化の先触れだったのだろうか。エウルは、この疑問にはっきりとした答えを示さないまま、いまもなお万博の夢を抱懐しているように思えてならない。この都市が感じさせる現実味を欠いた虚ろな「気分」はそうした夢の記憶に由来するのかもしれない。

注記:本章で考察対象とした図版や写真は、版権の都合もあって併載することができなかったが、かわりにウェブ検索を想定して、人名や歴史的事実など、固有名はできるかぎり原語で表記した。


(1)ローマ万博に関連する文献として以下の2点を挙げておく。田之倉稔『ファシストを演じた人びと』青土社、1990 年、鵜沢隆監修『ジュゼッペ・テラーニ――時代を駆けぬけた建築』(INAX叢書)、INAX出版、1998年。前者はイタリア・ファシズム文化の総論となっていて、その終章「イデオロギー都市とファシズムの終焉」にローマ万博についての考察が含まれる。後者は、ローマ万博の設計競技会で不遇のときを迎えていたジュゼッペ・テッラーニに関する論文集だが、万博前後のイタリア建築について詳しく知ることができる。また、近年邦訳された、ファシズム時代に焦点を合わせた建築論もあわせて紹介しておく。ジョルジョ・チゥッチ『建築家とファシズム――イタリアの建築と都市 1922―1944』鹿野正樹訳、鹿島出版会、2014年、パオロ・ニコローゾ『建築家ムッソリーニ――独裁者が夢見たファシズムの都市』桑木野幸司訳、白水社、2010年
(2)Eugenio Garin, “La città italiana nell’Esposizione del 1942”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, a cura di Tullio Gregory e Achille Tartaro, Marsilio, 1987, p. 4.
(3)Antonio Gramsci, Quaderni del carcere, a cura di Valentino Gerratana, Einaudi, 1975, p. 1131.
(4)Emilio Garroni e Pietro Montani, “L’Esposizione universale del 1942 e la «Città dell’arte» ” in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, p. 27.
(5)Claudio Parisi Presicce, “La visione classica, ma moderna, modernissima… che ispirò il piano urbanistico dell’ E42”, in Esposizione Universale Roma: Una città nuova dal fascismo agli anni 60, a cura di Vittorio Vidotti, De Luca, 2015, pp.11-12.
(6)ボッタイとローマ万博とのつながりは、体制末期の文化政策を考察するうえで、一筋縄ではいかない興味深い論点を含んでいるのだが、それについては、以下の拙論を参照。鯖江秀樹「ローマ万博の光と影――ジュゼッペ・ボッタイのまなざし」「ディアファネース――芸術と思想 京都大学大学院人間・環境学研究科岡田温司研究室紀要」第1号、京都大学大学院人間・環境学研究科岡田温司研究室、2014年、33―50ページ
(7)Emilio Gentile, Fascismo di pietra, Laterza, 2007, p. 258.
(8)海野弘『万国博覧会の二十世紀』(平凡社新書)、平凡社、2013年、149―170ページ
(9)Tony Bennett, The Birth of the Museum: history, theory, politics, Routledge, 1995, p. 75.
(10)引用は以下の展覧会カタログから。Paola Cagiano de Azevedo, “Il Palazzo della civiltà italiana”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 2, a cura di Maurizio Calvesi e Enrico Guidoni e Simonetta Lux, Marsilio, 1987, p. 354.
(11)Ibid.
(12)Anna Maria Sorge, “Mostra della civilità italiana”, in E 42. Utopia e scenario del Regime , vol. 1, p. 118.
(13) Ibid., pp. 118-119.
(14)“Mostra della civiltà italiana. Criteri fondamentali per la presentazione della mostra”, in Ibid., p. 158.
(15)ここでふれたテッラーニによる「O室」と1932年の革命展については拙著に詳しく紹介した。鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』水声社、2011年、83―92ページ
(16)Azevedo, op. cit. , pp. 354-355.
(17)「ダンテウム」計画については以下の文献を参照。Thomas L.Schumacher, Terragni’s Danteum: Architecture, Poetics, and Politics under Italian Fascism, Princeton Architectural Press, 1980.
(18)「文明展」のデッサンや下絵は、現在、「ブルーノ・フィリッポ・ラ・パドゥーラ文書館(Archivio B.F. La Padula)」に所蔵されている。本章で参照した平面図と主なデッサンは以下の文献による。Michele Vajuso, E42. La gestione di un progetto complesso, Palombi, 2007, Azevedo, op. cit. , pp. 353-360.
(19)Azevedo, op. cit. , p. 356.
(20)Sorge, op. cit. , p. 118.
(21)「白い電話」については以下の研究論文を参照。石田美紀「ファシスト政権期イタリア映画における「白」の視覚――「白い電話」と白い砂漠」「美学」第56巻第2号、 2005年、美学会、41―54ページ
(22)Bennett, op. cit. , pp. 218-219. なお、ベネットはここで、1988年に開催されたブリスベン国際レジャー博覧会を検討しているが、近代的な娯楽施設が地方都市住民の自己形成に与える作用を指摘する点で、ローマ万博の考察にとってもきわめて示唆的だった。

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