第2章 肇国記念館と美術館――紀元2600年万博の展示計画

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

紀元2600年万博の展示計画

「第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景」で述べたとおり、紀元2600年万博の開催計画は、数回の修正を経て1937年10月に最終決定された。とりあえず、『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』(以下、『概要』と略記)に掲載されている会場計画の鳥瞰図と会場図面を参照しながら開催計画の概要をたどってみよう(1)。
 まず会場として想定されているのは、月島埋立地4号地と5号地、さらに6号地の一部と防波堤、当時すでに史跡に指定されていた第3台場公園で、総面積は約45万坪である。計画最大時の約330万平方メートル(約100万坪)からは半減したため、当初予定されていた飛行場やスカイライドはとりやめになった。また第2会場として、横浜市の山下町と山下公園の一角約9.9平方メートル(約3万坪)が確保された。
 次にブロックごとの計画をみていこう。4号地には勝鬨橋の正面に建国(肇国)記念館が立ち、向かって右に「主として精神文化」に関わる陳列館(パビリオン)が、左には主として経済に関わる陳列館が集まっている。この一帯は日本趣味を基調とするものとされ、中心に位置する肇国記念館前の広場は朱色の柱が立ち並ぶ回廊によって囲われていた。他方5号地は、産業に関わる展示や海外の展示が多くを占めることから、4号地とは対照的に洋風の「自由な近代的建築様式」が採用されることになった。またここでは、足元から水流を池に落とす噴水塔をランドマークにする計画だった。そして第2会場の横浜には、「開港都市の面目を発揮せしめる」ことを目的に、「水」に関係のある展示館を集めることになった。
 次に、陳列館の概要をみておこう。陳列館の出展計画は、1935年2月に発表された「日本万国博大博覧会」構想の時点で大まかな素案が固まっていたこともあり、その素案を敷地面積の縮小などに合わせて修正するかたちで決定された。主催者である博覧会協会の直営陳列館は以下のとおりである(2)。

東京会場
1  建国記念館  2  生活館
3  社会館    4  保健衛生館
5  教育館    6  美術館
7  文芸館    8  経済館
9  燃料館    10  海外発展館
11  鉱山館    12  土木建築館
13  通信交通館  14  観光館
15  科学発明館  16  印刷写真館
17  農業館    18  林業館
19  食料館    20  紡織館
21  蚕糸館    22  化学工業館
23  製作工業館  24  工芸館
25  航空館    26  機械館
27  電気館    28  外国館

横浜会場
1  海洋館     2  水産館
3  水族館

 開設が予定されていた陳列館は東京会場28、横浜会場3の総計31だが、会場計画によると、それ以外にも「世界大サーカス」のような大規模な催事や「万国大観」「野外音楽堂」「子供の国」「演芸館」「野外演芸館」「映画館」などの開設が計画されていたようだ。本章では、これらの陳列館のなかでも肇国記念館と美術館へと焦点を合わせていく。

肇国記念館

 4号埋立地の正面に陣取り、また『概要』でも真っ先に名を挙げられている建国記念館は、構想の初期段階から博覧会のシンボルとして位置づけられ、また博覧会終了後は別の場所に移築して「永久記念館」として残すことが想定されていた陳列館である。ホスト国の基幹施設という意味では、大阪万博や愛知万博での日本館に相当する。
 同館の建設にあたっては、特定の建築家に委ねるのではなく、懸賞付きの競技設計(ルビ:コンペティション)を実施して設計者を選出する方法が採用された。競技規定には「本館ハ本博覧会ノ主標トシテ紀元2600年ヲ記念スルニ足ルベキ重要建築物ナルヲ以テ其ノ建築様式ハ日本精神ウヲ象徴シタル荘厳雄大タルモノナルベシ(3)」という指標が示された。具体的には、「日本趣味」を基調として、勾配がある屋根を被せることをはじめ、総工費は150万円で、陳列室のほか便殿(天皇の休息所)、貴賓室、総裁室、委員会室、食堂、2,000人規模の集会ホール、絵画室、屋上展望所などを設けることが決定されたのである。このコンペには、1937年8月24日から11月1日の応募期間中に総計108通の応募が寄せられた。
 コンペの審査員を務めたのは、審査委員長の佐野利器(元東京帝国大学教授、清水建設副社長)をはじめ、武田五一(元京都帝国大学教授)、内田祥三(東京帝国大学教授)、佐藤功一(日本女子大学教授)、大熊喜邦(大蔵省)、長倉利隈(商工省)、長衣斐清香(東京市土木局長)といった面々である。1等賞には賞金3,000円、2等には1,500円、3等には800円が用意された。
 1937年11月11、12日の両日、佐野委員長を中心とする審査会が開催され、1等1人、2等1席1人、同2席1人、3等1席から4席4人、選外佳作6人の受賞者が決定された。広報も審査も周知徹底していたようで、入選作はどれも競技規定に忠実な意匠の作品だった。
 108通の応募のなかから、1等と2等1席に当選したのが高梨勝重である。審査結果を報じる「万博」の記事によると、高梨は東京麹町出身、早稲田高等工学校建築科(現・早稲田大学理工学部建築学科)を卒業後、建築事務所勤務を経て自らの事務所を構えた当時29歳の若手建築家だった(4)。1等に当選した高梨の作品は、切り妻屋根の母屋の中央後方にこれまた切り妻屋根の高い塔がそびえる左右対称の造形で、また正面入り口の真下には階段が、その両脇にはバリアフリーのような緩やかなスロープが取り付けられていた。高梨自身は、審査結果を報じる「万博」の記事で「日本建築様式創始時代の姿を留むる神殿造りの崇高雅典なる形式を構想の主眼とした(5)」と語っていて、また佐野も審査の選評で、高梨の案が「日本古来の神社の極簡素な、荘厳雄大な心持を基本にして出来た(6)」ことを絶賛している。
 佐野の選評を参考に、ほかの案もいくつか一瞥してみよう。3等1席となった佐藤重夫は戦後広島大学教授として原爆ドームの保存工法を研究した人物だが、彼の案も古代日本の建築からヒントを得た、左右対称の母屋の中央に塔がそびえる「奇抜で賑やか」なものだった。3等4席となった阿部庄吉は前年(1936年)に実施された朝鮮総督府始政25周年記念博物館のコンペ(佐野はここでも審査員を務めていた)で2等に入選した実績の持ち主で、低層の神社建築のような案は「難は少いが、迫力に乏しい」と評されるなど、無難な印象を与えたようだ。佳作となった山本延次は主に商店や百貨店を手掛けていた建築家で、神社と西洋の教会を融合させたような建物の正面に高いポールがそびえているのが特徴である。同じく佳作の望月長與は三鷹市の市章をデザインした人物で、その案は宝形屋根のホールの前に2つの塔がそびえているのが特徴だが、入選作品のなかで最も洋風の印象が強い。佐野は「日本味」と「雄大な気」に注目して6点の佳作をすくい上げたという(7)。
 入選作品決定後の1937年12月21日に開催された第7回計画委員会では、展示館の名が建国記念館から肇国記念館と改められ、1等に当選した高梨案から中央の塔を取り除いた意匠で建てられることが決定された。その後翌年にも2度の計画委員会が開催され、実施設計や模型による確認観覧がおこなわれ、神武天皇の即位をテーマとする壁画が描かれることが決定され、万博会場全体の地鎮祭もとりおこなわれたのだが、万博の開催が「延期」されたことに伴い、肇国記念館が月島の地に姿を現すことはなかった。

肇国記念館での「国史」の展示

 では、施設の意匠こそ決定されたものの、実際に建てられることがなかった肇国記念館では何が展示される予定だったのだろうか。この万博で出品物を選定する役割を果たしていた組織が出品部類目録委員会である。出品部類目録委員会は、田澤義鋪貴族院議員を委員長とし、1937年4月30日に第1回が開催されて以来計6回の委員会を開催し、同年末には万博会場に設置される陳列館の名称に合わせるかたちで総計25部の出品部類が決定された。その内訳は以下のとおりである(8)。

第1部 国史      第2部 生活
第3部 政治及社会   第4部 保健衛生
第5部 教育及宗教   第6部 美術及工芸
第7部 文芸      第8部 学術
第9部 発明      第10部 出版、印刷及写真
第11部 通信      第12部 交通
第13部 経済      第14部 農業
第15部 林業及狩猟   第16部 水産業
第17部 鉱山及冶金   第18部 機械工業
第19部 蚕糸業     第20部 紡織工業
第21部 電気工業    第22部 化学工業
第23部 食料工業    第24部 製作工業
第25部 土木及建築

 このうち、肇国記念館が第1部の「国史」を対象にしていたことはいうまでもない。そもそも発案された頃から、同館は「建国以来我国ノ発展過程ヲ歴史的ニ絵画、遺物、関係参考品等(音楽、演劇ヲ含ム)ノ陳列ニ依テ現ハシ日本精神ノ作興ニ資スルト共ニ館自体ヲ我国最高文化ノ粋ヲ集メタル記念トス(9)」ことを目的にしていたのだから当然だ。とはいえ、計画が決定されてから間もなく万博の「延期」が決定されてしまったため、肇国記念館の展示計画は具体化されないまま消滅してしまった。
 肇国記念館ではどのような展示がおこなわれるはずだったのか、計画が具体化しなかった以上は類推するしかない。国家パビリオンでの歴史展示は万博の定番の一つといってよく、例えば大阪万博の日本館でも、縄文から現代に至る日本の歴史を概観する展示がおこなわれた。紀元2600年博であれば、当然1940年前後の時勢を反映した歴史展示がおこなわれていただろう。ここで思い起こしておきたいのが国史館構想である。「第1章 幻の紀元2600年万博」では、第2回の祝典評議会で紀元2600年万博を含む6つの奉祝行事が列挙された報告書が提出されたことについてふれたが、国史館もまたそのなかの1項目として挙げられていた。この国史館もまた実現されることはなかったのだが、同館の展示構想が、同時期に同じテーマでの展示を予定していた肇国記念館のそれと大いに重なり合っていることは容易に想像がつく。
 国史館は、もともとは麹町区内幸町(現・千代田区霞が関1丁目)に建設が予定されていた歴史博物館である。記紀神話に代表される「国体史観」を系統立てて展示しようとする、国立としては初の大規模な歴史博物館構想だった(10)。
 この国史館構想には、阪谷芳郎や牛塚虎太郎らも関与していた。万博実現に向けた彼らの尽力についてはすでにふれたが、2人はまた、系統立った国史の博物館建設も同様に紀元2600年の奉祝にふさわしい事業だと思っていたのである。そして、彼らに加えてもう1人名を挙げるべきキーパーソンが歴史学者の黒板勝美である。
 黒板は日本古代史と古文書学を専門とし、1905年に母校の東京帝国大学に着任して以来約30年間にわたって教鞭をとり、明治末期から昭和初期にかけて斯界の権威として君臨していた歴史学者である。35年春に東京帝国大学を定年退官した黒板は、同年11月に首相の諮問機関である紀元2600年祝典準備委員会委員に任命されるが、この任命は彼にとっても渡りに船だった。当時日本最大の博物館だった帝室博物館(現・東京国立博物館)が関東大震災からの復興後に美術館としての性格を強めたことに不満を抱いていた黒板は、それとは別種の歴史博物館を建てる必要をしばしば訴えていて、その実現に向けての拠点を欲していたからだ。黒板が考える国史館のあり方は、「単に日本の2600年間の歴史的なものを陳列いたす陳列場」ではなく「其の国史館を中心として日本精神の作興運動という意味に於て社会的な国民教育の上に一大貢献をさせたい(11)」という本人の言葉からも読み取れる。以後、祝典準備委員会は黒板の原案をもとに国史館の構想をまとめていく。
 1936年2月20日、祝典準備委員会の第7回幹事会で「国史館建設に関する件」が提案される。これは初めての具体的な建設計画だった。その計画案の文面では、「文化進歩の由来を明かにし、以て国民をして尊厳なる我が国体と優秀なる我が文化とを的確に認識せしめん」とナショナリズムが強調され、その一方で、「彼の帝室博物館が専ら東洋美術品を陳列して美術発達の迹を示し、科学博物館が天産物機械等を陳列して近代科学に関する知識の普及を図るに対し、夙に歴史博物館とも言ふべき施設の今日まで見る能はざりしは寔に遺憾とするところ」との記述は、黒板の認識ともほぼ重なり合っている。なお、この計画案には「日本万国大博覧会に於ける建国記念館を採り入れ計画するを適当なりと認む」という一文が記載されていたが、このようなかたちで明記された国史館と建国記念館の関係はあとあと議論を呼ぶことになる。
 この計画案は、その後準備委員会と文部省がそれぞれ個別に修正し、それぞれ「紀元記念国史館建設計画案」「国史館建設計画案」としてまとめられた。前者は、国史館を万博の一施設として開館し、万博終了後は財団法人に運営を委託することを計画し、「御歴代天皇の宸影・宸翰・御遺品」などの展示を予定していた。一方後者は、万博と奉祝会の共同経営とし、その解散後は文部省の所管とすることや、「皇室関係資料」「祭祀・信仰」「教育・思想」「学術」「政治・軍事」「社会事業」「産業・交通・土木」「外国関係」などの展示を計画するなど、前者と比べてより総合博物館的な性格の強いものになっていた。
 1936年7月1日、祝典準備委員会は祝典評議委員会に改組されるが、その特別委員会で問題視されたのが「国史館」の名称である。「建国記念館」とするのがいいのではとの意見に対し、黒板は「建国」という概念が古来から存在していたわけではないことを理由に強く反対し、国史館とすることを譲らなかった。結局名称の問題は決着を見ず、国史館という仮称によって建設計画を進めることになった。11月9日、「第1章 幻の紀元2600年万博」でもふれたように万博をはじめとする奉祝六大事業が決定し、国史館も正式に建設が決定されたのだが、黒板はそれからわずか2日後に脳溢血で倒れ、長い闘病生活の末現場に復帰することなく亡くなった。
 ここであらためて万博と国史館の関係に注目してみよう。万博と国史館の関係が初め明示されたのは先述の「国史館建設に関する件」だが、両者を一体と見なす考え方はそれ以前から存在していた。例えば、1935年10月14日の祝典準備委員会委では、牛塚が万博の主要展示館である建国記念館を大いに活用して、「国史の博物館」をそのなかに含めようという趣旨の発言をしている。欧米列強から博物館という思想が輸入されて間もなかった当時の日本では、帝室博物館が湯島博覧会を機に創建されたのをはじめとして、新たな博物館を創建するためには博覧会の開催が必須とされていた。牛塚の発言はこうした当時の常識に即したものだったが、黒板はこの発言への不快の念を隠さなかった。国史館が万博の一部門として従属させられることが不満だったことに加え、万博の主会場だった月島ではなく、宮城(皇居)付近か帝室博物館などがある上野公園への建設を望んでいたからである。建国記念館と国史館を一体化して進めようとする牛塚と、国史館単独での建設を求める黒板との溝はその後も埋まらず、結局この件は、両者の間に入った阪谷が、国史館と万博の建国記念館は別個に建てるが、万博終了後建国記念館を国史館に合併して一本化することと、内幸町の帝国議会議事堂跡地をその予定地とすることを提案し、一応の決着を見た。奉祝6大事業が正式決定したのは、その翌月のことだった。だが、1938年7月には万博の「延期」が決定したため、すでに建築意匠も決定していた肇国記念館の構想はその時点でストップしてしまう。
「万博」を参照するかぎり、肇国記念館の展示計画が発案時から深められた形跡は見当たらない。ただ国史館とのせめぎ合いなどから察するに、具体的に検討されていたとしたら、大いに紛糾していたことは必至だろう。だが一例として先の「紀元記念国史館建設計画案」を「国史館建設計画案」を比較すると、少なくとも万博という期間限定の催事の展示としては前者のほうがより現実的だったことは間違いない。一貫して肇国記念館と国史館の分離を主張していた黒板も、万博会場での「御歴代天皇の宸影・宸翰・御遺品」の展示であれば首肯していたのではないだろうか。
 その後の顛末にも少しだけふれておこう。肇国記念館の頓挫も影響してか、国史館構想は結局紀元2600年の奉祝イベントとしては実現しなかった。奉祝の大義名分を失ったこともあってか、その後関係者の熱意が急速に薄れ、戦局が悪化するなかいつしか立ち消えになったが、戦後しばらくたってから構想が再燃し、紆余曲折の末に1981年4月に千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館として開館する。同館の初代館長を務めた井上光貞は黒板の孫弟子にあたる歴史学者で、83年3月の一般公開直前に亡くなったことも、国史館構想の半ばで病に倒れた黒板との奇妙な因縁を感じさせる。「考古、歴史、民俗」の3分野を柱とする同館の展示方針は、国体史観の展示を目指していた国史館のそれとは全く異質だが、National Museum of Japanese Historyという館の英名は、紛れもなく同館が国史館の後継施設であることを示している。

美術館の展示計画

 次に美術館の展示計画を見てみよう。万博で初めて「美術館」の設置が発案されたのは、肇国記念館と同様に1935年2月の「日本万国大博覧会」の会場計画案でだが、この時点では美術館は「絵画、彫刻、美術、工芸、写真、書、篆刻ヲ展示ス」ことになっていた。ところが2年後の4月30日に決定された出品部類では、美術館の展示対象は「美術及工芸」だけに減らされている。これは、会場計画の縮小に加え、写真、書、篆刻の展示が新たに建てられることになった「写真印刷館」へと移設されたためだろう。そのため、ここでの「美術」とは「絵画及彫刻」を指すものと考えられる。他方、当初の計画案にあった「建築館」がなくなっていることから、そこでの展示が予定されていた「建築様式、建築材料、家具並室内装飾用品等」の一部が、陶磁器、漆器、金工、染織などと合わせて「工芸」へと編入されたものと推測される。
 出品区分はおよそ以上のとおりとして、次に気になるのは美術館にはどのような作品が展示されるはずだったのか、ということだ。肝心の出品目録が存在しない以上、何を書いても憶測の域を出ないのだが、類推の手がかりがないわけではない。紀元2600年に相当する1940年には全国各地でさまざまな奉祝行事が開催されたが、そのなかには多くの美術展も含まれていた。万博もまた奉祝行事である以上、その美術展示がこれらの奉祝美術展と似通ったものになっただろうことは容易に想像がつく。多くの奉祝美術展のなかでも、真っ先に参照すべきなのが「紀元2600年奉祝美術展覧会(12)」である。

「紀元2600年奉祝美術展覧会」

「紀元2600年奉祝美術展覧会」は、1940年秋に2期にわたって東京府美術館(現・東京都美術館)で開催された美術展である。主催は文部省と紀元2600年奉祝会。10月1日から22日の前期には油彩、水彩、パステル、創作版画(これらの日本画以外の絵画は、とりあえず「洋画」と見なしうる)、彫塑が計989点、11月3日から24日の後期には日本画と美術工芸が計870点展示され、前後期合わせて30万人以上の観客を動員するなど、当時としては空前絶後の規模だった。出品作家に関しても、例えば日本画では当時日本画壇の3巨頭と目されていた横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂の3人がそろいぶみしたのをはじめ多くの作家が出品し、一方の洋画も当時洋画壇の頂点に位置していた梅原龍三郎、安井曾太郎、藤島武二らがそろって出品を果たした。当時の画壇では、毎年秋に開催される帝国美術院展覧会(以下、帝展と略記)を頂点とするヒエラルキーが形成されていたのだが、それをあえて休止して同じ会場で開催された同展には、有力団体の所属作家はもとより、多くの在野作家も出品していて、まさに画壇の総力を挙げた一大行事だった。
 だが画壇の総力を結集したこの展覧会には、実のところ「和高洋低」とでも呼ぶべき偏向が潜んでいた。そのことは、「日本画」と「それ以外」というかたちで分けられた絵画の出品区分1つとっても明らかである。そうした主催者の意図は観客にも伝わっていたようで、開催期間がほぼ同じにもかかわらず、後期の観客動員は前期の倍近くに達した。偏向していたのは作品に対する評価も同様だ。例えば横山大観は、同展に『日出處日本』という大作を出品している。墨一色で描かれた霊峰富士の隣に深紅の旭日を配したこの作品は、奉祝という展覧会の意図に即していたこともあって、同年の『日本美術年鑑』で「筆技を超へた大観の優作」「奉祝の誠意を吐露した作品(13)」と絶賛された。一方の洋画は、梅原や安井ら大家の作品こそ例外的に称賛されているものの、全体に対しては「未だ全面的に吾が国独自の様式を樹立するに至らず」と大いに辛口だ。開国からまだ100年も経過していないこの時期、輸入絵画である洋画が「独自の様式を樹立するに至らず」なのは当然なのだが(またそれをいうなら、日本画も明治期にアーネスト・フェノロサと岡倉天心によって創始された歴史の浅い様式なのだが、そのことは意図的に無視されている。また逆説的なことに、展覧会のあとに本格化した戦争で、「作戦記録画」として重宝されたのは洋画のほうだった)、その当然の前提があえて批判の対象にされたことは、奉祝という目的のために、日本独自の様式によってナショナリズムを表象することが何より優先されたことを物語っている。その意味で、同展で奉祝という意図に忠実な大観の作品が頂点に位置づけられ、その一方で海外の最新動向から影響を受けた前衛美術が一切排除されていたのは当然のことだったといえるだろう。

ニューヨーク万博とサンフランシスコ万博

 もっとも、目的を同じくするとはいえ、奉祝美術展と万博の美術展示には1つ大きな違いがあることに注意しておかなければならないだろう。前者がもっぱら国内の観客向けであるのに対し、後者は行事の性質上どうしても海外の視線や反響を強く意識せざるをえないことである(14)。
 その意味で注目に値するのが、近い時期に開催された海外の万博での日本館の展示である。そのうち、1937年のパリ万博については寺本敬子の考察に譲るとして、ここでは1939年に開催されたニューヨーク万博とサンフランシスコ万博に注目してみたい(15)。「万博」や「博展」でもしばしば記事に取り上げられるなど、日本の関係者がアメリカの2つの万博に寄せる関心は高かった。日米関係は当時すでに相当悪化していたが、それでも多くの関係者は紀元2600年博を成功させるためにはやはりアメリカの参加が不可欠であり、そのためにはまず日本がアメリカの万博に参加する必要があると考えていたのだろう。またすでにふれたとおり、紀元2600年博の「延期」が決定されたあとも、日本政府はこの2つの万博への参加をとりやめることはなかった。あるいは、一部の関係者が月島で実現の機会を逸した展示をニューヨークとサンフランシスコで再現しようと意気込んでいたのかもしれない。
 山本佐恵は、多くの資料を駆使してこの2つの万博に参加した日本の足跡、特に美術展示に関して詳細に調べ上げた研究書を著している(16)。紙幅の制約もあってここではごく手短にしかふれられないが、以下、同書に依拠しながらこの2つの万博の美術展示を検討してみたい。
 ニューヨーク万博は1939年4月30日から10月31日にかけて、同市クイーンズ区フラッシングメドゥで開催され、翌年に再展示がおこなわれた博覧会で、会期中はゼネラル・モータースの企業パビリオン・フューチャラマが特に高い人気を博した。日本がこの万博への参加計画を提出したのは、すでに紀元2600年博の開催が危ぶまれていた38年5月のことだ。出品調査委員は正木直彦(元東京美術学校長)、川合玉堂、横山大観、岡田三郎助(東京美術学校教授)、津田信夫(同)の5人で、ほかに工芸部門の調査委員だった和田三造(同)も会合に出席していた。出品にあたっては、絵画には「文展入選作品中特に秀逸にして新傾向のもの」、工芸には「商工省主宰工芸展の入選作品其の他中亦特に秀逸にして新傾向のものを成るべくいわゆるサロン出品の方法により展示すること」という条件が設けられていて、実際に出品した画家も藤島武二、梅原龍三郎、中澤弘光、南薫造、石井柏亭、橋本関雪ら全員が帝国美術院会員によって占められていた。この顔ぶれを一瞥するだけで、文展を指標として「国家代表」にふさわしい作家が選出されるなど、国内の画壇のヒエラルキーがそのまま持ち込まれていることがわかる。また出品作全22点の内訳は日本画16点、洋画6点であり、翌年の再展示では日本画だけが出品されるなど、ここにも「日本」の表象を意識した「和高洋低」の傾向を見て取ることができる。
 ところが万博の開幕後には、日本館の展示作品に対する反響が乏しい半面、別の施設に展示されていた池上秀畝と八木岡春山の作品が高い評価を受けるという事態が発生した。池上と八木岡はともに帝国美術院の会員ではなく、当時の画壇では傍流に位置していた作家である。国内と国外の評価基準の違いの前に、万博を通じて官展や美術院の権威を高めようという画壇のもくろみははずれてしまったのである。
 一方の工芸は、国井喜太郎(商工省工芸指導所長)、秋月透(商工省陶磁器試験所長)、和田三造、宮下孝雄(東京高等工芸学校教授)らが審査員を務めた。選定条件は先に述べたが、実際にはそれ以外にも審査員が全国各地を回って探し出してきたものや、輸出用の工芸品を制作している企業や研究所からも出品されていた。とはいえ、出品作品70点の多くは一品制作の工芸品であり、「出品物は極力厳選主義に依ること」という原則は堅持された。この70点の出品作の大半は、同年のサンフランシスコ万博のそれと重複している。出品基準も審査員も同じなのだから無理もない。明治以来工芸品を主力輸出商品の1つに位置づけ、万博をそのプロモーションに活用してきた日本にとっては、量産が効かない一品制作の作品を展示の軸に据えたことは方針の転換でもあったが、政府は日本の文化水準の高さを示すことを優先したのである。
 日本館の造作にも注目してみよう。ホールの中央には漆塗りの大衝立と美術工芸品、日本画を配置する計画だった。これらはどれも★傍点:日本固有★のものであり、日本の伝統を表象しようとする意図が込められていた。その周囲には洋画や産業工芸品が並べられ、こちらには近代日本の優れた技術力を示すことが期待されていたことがわかる。
 美術工芸品を制作したのは村越道守、堆朱揚成、各務鑛三、松田権六、羽野禎三ら官展の常連作家であり、調査委員だった津田も自ら出品している。当時の日本にはすでにバウハウスなどのモダンデザインも紹介されていたのだが、こと万博では「国の粋」を追求することが最優先された。その最も象徴的な出品物が、高さ一丈一尺(3メートル30センチ)、奥行き五尺(1メートル50センチ)、幅四尺(1メートル20センチ)で、表面に日本を中心とする世界地図、裏面には尾形光琳を模したカキツバタが描かれ、中央に配置された日本漆工会出品の『漆塗大衝立』である。光琳は近代になって海外での評価が高まった絵師であり、「西欧に伍することのできる日本の画家の象徴」として取り上げられたのである。また「伝統文化の真価」を示すために、この衝立の制作には古来の技法を用いることが検討されたが、限られた制作時間で完成させるためには、近代的な技法にも依拠せざるをえなかったという。欧米では、白磁を「China」というのと同様に、漆器を「Japan」という――いまとなっては事実誤認だったことは明白だが、当時は多くの工芸関係者がこの流言を真実と思い込んでいたことも、この漆の衝立が中央に配置された大きな理由だったようだ。しかし、当時漆芸の原料の多くは輸入に頼っていて、「国の粋」としての要件を欠いていたのである。
 一方のサンフランシスコ万博は、1939年2月18日から10月29日にかけてサンフランシスコ湾内の人工島トレジャーアイランドで開催され、これまた翌年に再展示がおこなわれた博覧会である。同博の規模はニューヨーク万博よりも小さく、参加国も少なかったが、現地に多数の移民が在住するなどの事情もあってか、ニューヨーク万博とほぼ同規模のパビリオンを設けるなど、日本の同博に対する意気込みは並々ならぬものがあった。
 日本館のなかで最も大きな面積を占めていたのは観光部の展示だった。日米関係の悪化は承知のうえで、日本政府はこの万博を通じて観光客の誘致をはたらきかけたのである。ここには絵画は出品されず、翌年の再展示時にはじめて荒井寛方、田中青坪、池田遥邨、畠山錦成、松本姿水、不二木阿古らの日本画が展示された。ニューヨーク万博のときと同様、いずれも文展、帝展の常連作家ばかりであり、展示にあたっては「春」「夏」「秋」「冬」の四季に応じて分類された。美術工芸部に展示されたのは工芸だけで、絵画は展示の中心と考えられてなかったことがわかる。
 また美術品陳列館では、「日本古美術展覧会」が開催された。これは、ニューヨーク万博にはない新機軸であり、決して広くはない会場に414点の古美術品が展示された。そのなかには、台湾や朝鮮、アイヌや琉球の美術や民芸など、明らかに「古美術」の枠を超えるものだった。これらの展示を主導した国際文化振興会には柳宗悦や矢代幸雄が関わっていたことが判明しているが、彼らの意向がどの程度まで展示に反映されていたのかまでは明らかではない。
 ニューヨーク万博で、梅原は『霧島』と題する作品を出品している。京都出身の梅原がこれといって縁のない霧島を描いたのは、霧島の景観がかつて訪れたナポリのそれに似ていたことに感銘を受けたからとされるが、その神々しい景観描写は彼の地を舞台とする高千穂の天孫降臨伝説をも連想させる。また藤島の『朝陽』という作品も、万博出品にあたって『東海旭光』と改称され、「旭日昇天」のイメージが一層強調されている。梅原も藤島も翌年の紀元2600年奉祝美術展に出品を果たしていて、その前年に開催されたこの万博に参加した時点で、両者がすでに「奉祝」を念頭に置いていたとしても不思議ではないが、そうした展示に対する海外の観客の反応はなんとも冷淡なものだった。
 2つの万博でおこなわれた美術展示は、一言でいえば、国内画壇の頂点に位置する作家たちが、「日本」を表象する作品を出品することだった。国内の奉祝美術展の図式がそっくりそのまま輸出されたわけだが、それは画壇の影響力と奉祝の求心力がいずれも国内に限定されていることを示す結果となった。仮に紀元2600年博の美術展示が実現していたら、国内の観客と海外の観客の間にはどのような落差が生じていたのだろうか。

日名子実三と八紘一宇の塔

 最後に、実現しなかった「美術館」への展示が夢想される作家の1人である日名子実三についていくばくかの検討を加えてみたい。今日実三の名は、もっぱら日本サッカー協会(JFA)のエンブレムに用いられている八咫烏を描いたデザイナーとして引き合いに出されるが、彼の本領はあくまで彫刻にあり、ここでも彫刻家としてのキャリアに注目していく。
 日名子実三(本名:実蔵)は1893年10月24日、大分県臼杵市に5人兄弟の末っ子として生まれた。若い頃から美術家を志し、慶應義塾大学理財科を中退して東京美術学校彫刻科に入学、合わせて同郷の彫刻家・朝倉文夫の私塾に住み込みの弟子として入門する。美術学校を首席で卒業し、朝倉塾でも塾頭に抜擢されるなど、実三は短期間で高い技量を身につけるが、朝倉が実三を帝展の特選に推さなかったことや、独断で彫塑団体の解散を発表したことなどが重なって両者の関係は急速に悪化し、実三は1925年に朝倉塾を退塾する。厳格な写実主義者で、塑像にこだわっていた朝倉に対して、実三は塑像だけでなくメダルや記念碑も手掛け、建築にも強い関心を示すなど、より広い視野からの制作を強く望んでいた。両者が決別に至ったのは、いくつかの行き違いに加え、彫刻観の違いが決定的な原因だったといえるだろう。
 朝倉と袂を分かった実三は、1926年に盟友の斉藤素厳らと構造社を結成、翌27年の第1回展には彫刻29点に加えメダル14点を出品、旺盛な創作意欲を発揮する。また同年11月から約1年間のヨーロッパ留学に出発、当時の最先端の動向を目の当たりにし、帰国後はより一層メダルと記念碑の制作に力を注ぐようになる。
 1932年のロサンゼルスオリンピックに際して美術委員に選出されるなど、実三はスポーツ界との縁が深く、スポーツ関連のメダルを多数制作した。これらのメダルは相撲の開祖とされる野見宿祢や『出雲風土記』の八束水臣津野臣などがモデルとされている。現在の実三の代名詞である日本サッカー協会(旧・蹴球協会)の八咫烏の図案もこの当時制作されたものだ。また八咫烏は、1939年に制作された『志那事変従軍記章』の図案としても用いられている。そもそも八咫烏は神武東征の際に熊野国から大和国への道案内を務めたとされる架空の動物である。その神話的なモチーフは実三の大いに好むところだった。
 同じく実三の好みのモチーフとして挙げておかなければならないのが金鵄である。金鵄は1934年に制作された『昭和6年乃至9年事変従軍記章』に用いられているほか、37年の『陸上競技会メダル』では、神武天皇の肩に止まる八咫烏に加え、飾板には金鵄も描かれるなど、2つの鳥がそろいぶみしている。金鵄もまた、神武東征での長髄彦との戦いで神武天皇の勝利に貢献したとされる架空の動物であり、古代日本をほうふつとさせる神話的なモチーフは多くの局面で用いられた。ここではなんといっても、紀元2600年万博の宣伝ポスターなどに数多く用いられた中山文孝の『赤色地富嶽金鳶図』に、富士山を背景に翼を大きく広げた金鵄の飛翔する姿が描かれていたことにふれておかなければならないだろう(17)。広田肇一は、実三が記紀神話に登場する武人などのモチーフを好んだのは、ヨーロッパ留学時に国家や英雄をテーマとした作品に数多く接し、自らの出自である「日本」を強く意識するようになった結果ではないかと推測している(18)。こうした「日本」の表象が、万博のテーマだった奉祝とも深く通底していることはいまさらいうまでもない。
 1932年に斉藤が構造社を退会すると、それに続くように実三も退会、一時期は朝倉が不在だった帝展に復帰するもののすぐに脱退し、35年には第3部会を設立し、以後はそこを活動の拠点にするようになる。それ以降の代表作は、なんといっても『八紘之基柱(ルビ:あめつちのもとはしら)』(通称:『八紘一宇の塔』)だろう。
 1938年10月13日、相川勝六宮崎県知事を会長とする紀元2600年宮崎奉祝会は五代記念行事を決定したが、その目玉に位置づけられたのが「神武天皇の聖蹟保存顕彰」「八紘一宇の御柱の建立」だった。相川は神武天皇が高千穂に降臨したとする宮崎の皇祖発祥神話に強い関心を抱いていて、その記念碑の建設を強く望んでいたのである。このことを知った実三は相川を訪ね、「これを引き受けられれば一代の名誉である。報酬はいらないから自分にやらせてほしい」と率先して自らを売り込み、了承を得た。武人の造形に長じていた実三はその手腕を見込まれて37年に陸軍省と満州国恩賞局の嘱託に就任し、また39年には『南京表忠塔』を南京に建てるなど、当時は軍部と密接な関係にあって「日本」を表象する作品をしばしば手掛けていた。「八紘一宇の御柱の建立」はそうした活動の集大成でもあったのである。相川は「日向の雄大な山容を仰ぎ、明媚な風向に接し、太古の響きを今に伝える波濤を聞き、県下到るところに残る聖蹟古墳を拝して、そこから自然に沸き起こる霊感をまとめて頂きたい」という要望を出し、それを受けた実三は椎葉村や高千穂峡など、皇祖発祥神話に関連する県内の名所史跡を回って作品の構想を固め、制作に着手した。
 それから約2年が経過した1940年11月25日、宮崎市の丘陵地帯の一角に高さ36.4メートルの巨大な柱が竣工した。この柱はあたかも尖ったひな壇のようであり、日本趣味と西洋風のモダニズムとが入り混じった形状はなんともいえず独特である。この塔は忠霊塔でも忠霊碑でもなく、あくまで「象徴」として建てられたもので、塔の正面には秩父宮から下賜された手跡(この手跡は現在も厳室に保管されている)をもとにした「八紘一宇」の縦文字が刻まれ、基柱の四隅には、高さ4.5メートルの信楽焼製の『荒御霊(武人)』『和御霊(商人)』『奇御霊(漁人)』『幸御霊(農人)』の陶像が配された。また基壇部には厳室(ルビ:いつむろ)が設けられた。入り口には神武天皇が東征に出発する様子をモチーフとしたレリーフの銅扉が取り付けられ、一方室内には『天孫降臨』『鵜戸の産屋』『国土奉還』『紀元元年』『明治維新』『紀元2600年』などの作品が石膏の原型の状態で収められるなど、紀元2600年の歴史が圧縮されている観がある(19)。延べ作業人員6万6,500人、総工費67万円を費やして建てられたおよそ比類のない威容は、まさに畢竟の大作と呼ぶにふさわしい。
 一方で、『八紘一宇の塔』は皇祖発祥神話だけでなく、アジア・太平洋戦争の負の記憶を現在に伝える記念碑でもある(20)。『八紘一宇の塔』の本体は鉄筋コンクリート製だが、その基壇や周囲には総計1,879個の石が用いられている。そのうち海外から送られてきた石は372個で、その大半は中国、朝鮮、台湾産だった。塔の建設当時、これらの海外産の石は「献石」と呼ばれていたが、送り主の大半は当時現地に出征していた日本軍の部隊であり、その実態は植民地や占領地からの「戦利品」にほかならなかった。またかつて塔の背面には「大日本帝国ハ神国ナリ」で始まり、「聖戦既24歳、皇威ノ及ブ所北ハ黒竜江畔ヨリ(略)北中南支ヲ連ネテ、遠ク南海ニ至ル」とその領土が記された「大日本国勢記」が刻まれた大理石の板が設置されていた。その文面に象徴される「八紘一宇ノ大理想」が敗戦によって根底から否定されてしまったことはいうまでもない。
 塔の建設当時八紘台と呼ばれていた周囲の丘陵地帯は戦後市民公園として造成され平和台と呼ばれるようになり、その名もいつの間にか「平和の塔」と改称され、現在も同じ場所にそびえている。もっとも、戦後間もない1946年1月には、GHQの圧力によって「八紘一宇」の縦文字をはじめ、「荒御霊」「定礎の辞」「大日本国勢記」「由来記」が取り外されたものの、このうち縦文字と「荒御霊」は1965年1月の復元工事によって往時の姿を取り戻したが、「美術工芸品としての塔の完全復元」という名目で実施されたこの工事は、黒木博知事が県議会の承認を得ないまま独断で強行したものだった。とはいえ、「大日本国勢記」に象徴される「八紘一宇ノ理想」と戦後民主主義的な平和の理念が到底相容れないものであることは誰の目にも明らかだ。いずれにせよ、戦後になって二転三転した塔の数奇な運命――とりわけ、一連のとりはずしと復元が、どれも民主的とはいえない決定によってなされたこと――には、先の大戦をめぐるさまざまな記憶の混乱が凝集されている観がある。
 その後の実三の動向にも少しだけふれておこう。実三は1941年には『八紘一宇の塔』の近くに『皇軍発祥之地』碑、翌42年には日向市美々津港に『日本海軍発祥之地』碑(この作品も一時期碑文の文字が消去されたものの、のちに復元された)を建立している。いうまでもなく、どれも皇祖発祥神話をテーマとした作品だ。ほかにも、中国大陸まで赴いて先述の『南京表忠塔』や『上海海軍陸戦隊表忠塔』などの記念碑を制作したが、これらの作品はもはや現存せず、また国内にあっても、物資が不足していた戦時中、金属供出によって失われてしまった実三の作品は少なくない。その後戦争激化に伴い実三は44年の秋に茅ヶ崎の別荘に疎開、翌45年4月25日に終戦を待つことなく脳溢血で死去する。享年51だった。
 1940年9月3日から15日、東京府美術館で第三部会の彫塑展が開催され、実三は同展に『八紘之基柱』『航空表忠塔』『上海海軍陸戦隊表忠塔』の3点を出品している。この3点はどれも当時制作中だった記念碑の模型で、特に竣工間近だった『八紘之基柱』の宣伝が大きな目的だったものと推測されるが、あえてこの時期に展覧会を開催したということは、その直後に開催された紀元2600年奉祝美術展に参加する意思がなかったことを物語るものといえる。東京から遠く離れた宮崎にあって制作に専念していたことに加え、袂を分かった朝倉の影響下にあった帝展からは徹底して距離を置いていたのだから無理もない。その帝展での序列が出品作家の選出基準だったことを思えば、仮に万博の美術展示が実現していたとしても、実三が参加を要請される可能性も、あるいは参加の要請に応諾する可能性もほとんどなかったことは間違いない。
 2016年の春、私は宮崎と大分を周遊し、以前からの念願だった『八紘一宇の塔』を初めて訪れた。近くで見たときにはさすがに表面の風化や腐食が目立ったが、遠くから見たときにはその威容に圧倒されるばかりだった。ほかにも、実三の出身地である臼杵に立ち寄ったり、1年前に開館したばかりの大分県立美術館の収蔵庫に眠る実三のメダルを数多く実見したりする機会も得た。もちろん多くの発見があったが、ここで万博研究の文脈と無関係に実三の作品について云々するのは控えよう。だが1点、金鵄や八咫烏、そして何より『八紘一宇の塔』の圧倒的な威容にうかがわれる実三の精神性は、奉祝の意図にこのうえなく即したものだったのではないか、万博の美術展示に最もふさわしいものだったのではないか、と感じたことだけは断っておきたい。当時の時勢に対応した造形作品として、それはよくも悪くも一つの極限的な到達点を示している。


(1)『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』紀元2600年記念日本万国博覧会事務局、1938年、1―3ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔別巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、59―61ページ)。万博の会場計画に関しては、橋爪紳也『あったかもしれない日本――幻の都市建築史』(紀伊国屋書店、2005年)を合わせて参照した。
(2)前掲『紀元2600年日本万国博覧会概要』16―17ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、184―185ページ)
(3)日本万国博覧会『紀元2600年記念日本万国博覧会肇国記念館競技設計図集』洪洋社、1938年、ページ記載なし(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、230ページ)
(4)「万博」1937年12月号、日本万国博覧会協会、5ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第1巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、645ページ)。また高梨の遺族や関係者に取材した夫馬信一は、高梨の父も建築家だったことや、戦後は田中角栄との縁を通じて建築の仕事に携わっていたことなどを詳しく紹介している(夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』原書房、2016年、106―108ページ)。
(5)前掲「万博」1937年12月号、4ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』第1巻、644ページ)
(6)同誌4ページ(同書644ページ)
(7)同誌5ページ(同書645ページ)
(8)「紀元2600年記念日本万国博覧会ニ関スル方針要綱」27―34ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、117―124ページ)
(9)日本万国博覧会『紀元2600年記念日本万国大博覧会』日本万国博覧会協会、1935年、6ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻)
(10)金子淳『博物館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2001年、77ページ。以下、国史館構想の概要については同書に依拠する。
(11)第3回祝典準備委員会での発言。同書80ページ
(12)「紀元2600年奉祝美術展覧会」に関しては、山野英嗣「紀元2600年奉祝美術展覧会とその周辺」(津金澤聰廣/有山輝雄編著『戦時期日本のメディア・イベント』所収、世界思想社、1998年)と林洋子「紀元2600年奉祝美術展覧会――「帝展改組」と「東京美術学校改革」のはざまで」(「1926―1970 東京府美術館の時代」展図録所収、東京都現代美術館、2005年)に依拠した。ただしどちらの論考でも検討の対象は絵画に限られている。
(13)美術研究所編『日本美術年鑑』美術研究所、1940年
(14)林洋子は、藤田嗣治と紀元2600年万博との関係について興味深い視点を提示している。確かに、当時世界的な名声を確立していたほとんど唯一の日本人画家である藤田が万博に参加していたらという仮説は魅力的だが、本文で検討しているように、万博では何より「日本」を表象することが強く求められていたことをふまえれば、その可能性は極めて低かったといわなければならないだろう(林洋子「万国博覧会と藤田嗣治――1900年パリ、1937年パリ、そして1940年東京」、佐野真由子編『万国博覧会と人間の歴史』所収、思文閣出版、2015年)。
(15)両者の正式名称はNew York World’s FairとGolden Gate International Expositionであり、ともに国際博覧会協会(BIE)から正規の認証を受けた第一種認定博としての万国博覧会(Universal Exposition)ではないが、ここでは当時の慣例にならってどちらも万博と表記する。
(16)山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象』森話社、2012年
(17)中山文孝は1937年に実施されたポスター図案の懸賞で1等と3等1席に入選したが、その後の広報には、なぜか1等の『赤色地黒色古代甲冑人物図』ではなく、3等の金鳶(金鵄)の図案が用いられた。理由は明らかにされていないが、甲冑をまとった人物の後ろ姿が神武天皇をほうふつとさせることが問題視されたものと推測される。当の中山は、入選発表に際して「何れも御趣旨を重んじて出来得る限り日本的にということが念願でありました」と、2つの図案を同じ意図のもとに制作したことを語っている(「万博」1937年7月号、日本万国博覧会協会、10ページ〔前掲『近代日本博覧会資料集成』第1巻、536ページ〕)。
(18)広田肇一『日名子実三の世界――昭和初期彫刻の鬼才』思文閣出版、2008年、46ページ
(19)坂口英伸は、神話と科学が調和的に描かれたこれらのレリーフが保管された厳室をタイムカプセルになぞらえている(坂口英伸『モニュメントの20世紀――タイムカプセルが伝える〈記録〉と〈記憶〉』〔シリーズ近代美術のゆくえ〕、吉川弘文館、2015年、30ページ)。
(20)『八紘一宇の塔』の負の記憶に関しては、「八紘一宇」の塔を考える会編著『新編石の証言――「八紘一宇」の塔「平和の塔」の真実』(〔みやざき文庫〕、鉱脈社、2015年)を参照のこと。同書では、『八紘一宇の塔』を戦争遺産として認定し、平和台公園に歴史資料館を建設することを提唱している。

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