はじめに/第1回 爆笑問題以前

ラリー遠田(ライター、お笑い評論家。著書に『逆襲する山里亮太』〔双葉社〕など多数)

はじめに

「あけおめ! ことよろ! 片玉!」
「うるさい、もういいよ、余計なこと言うんじゃないよ」

 正月にテレビをつければ、紋付き袴をまとった爆笑問題の2人が漫才をやっている。ここ10年以上は変わらない当たり前の光景だ。大晦日の夜に見る『NHK紅白歌合戦』と同じように、正月三が日あたりのテレビで見る爆笑問題の漫才は、もはや日本の風物詩と化している。
 そんな爆笑問題とは、一言で言うと「近すぎて見えない芸人」である。あまりにも当然のようにテレビの世界に溶け込んでいて、なかなかその正体がつかめないようなところがある。レギュラー番組を多数抱えていて、芸能界では揺るぎない地位を確立しているように見える。
 だが、その立場はどこかおぼろげであいまいなのだ。経歴も、芸風も、立ち位置も、何もかもが独特で類がない。
 爆笑問題は長きにわたって幅広い世代の視聴者に愛されているし、人気も実績も十分すぎるほど備えている。笑いの道を志す者がほしいと思っているものをほとんどすべて手に入れた芸人のうちの一組と言ってもいいだろう。ただ、そんな爆笑問題とはいったい何なのかとあらためて問われると、途端に言葉に詰まってしまう。
 活字メディアに慣れ親しんでいる私のような人間にとって、爆笑問題は一見するといかにもとっつきやすく、わかりやすいような感じがする。爆笑問題や太田光名義で数多くの本を出版しているし、特に太田は文学や映画、芸能全般にも造詣が深く、いかにも活字系の人間の味方をしてくれるタイプの芸人のように見える。
 ただ、彼らのことを調べれば調べるほど、事態はそれほど単純ではないことが徐々に明らかになっていく。爆笑問題は実に得体が知れないコンビだ。何か考えているようで何も考えていない。普通じゃないようで普通。非常識なようで健全。何とも言いようがない奇妙なバランスでこのコンビは成り立っているのである。
 そもそも、本人たちがテレビやラジオや書籍のなかで折に触れて自分たちのことを語っているのに加えて、爆笑問題は何者なのかということに関する第三者からの評論や証言も数多く存在している。
 彼らの盟友である伊集院光が、太田と田中の関係を「何でも切れる刀とそれを収める鞘」に例えたことは有名な話だ。「爆笑問題論」として語るべきことのすべては、このワンフレーズに集約されていると言ってもいい。
 そんなわけで、私がこれから語ろうとしているのは、大上段から振りかざす「爆笑問題論」ではなく、一個人の目から見た「爆笑問題観」である。1979年生まれのテレビ・お笑い愛好家である私から見て、爆笑問題とはどういう存在なのか。そういう話をしていきたい。
 私が爆笑問題のことを知ったのは、1993年に始まった『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』(テレビ朝日、1993—94年)というお笑いネタ番組だ。勝ち抜き方式のこの番組で爆笑問題はストレートで10週勝ち抜きを果たし、初代チャンピオンになった。
 当時の彼らは時事ネタではない形の漫才を披露していた。速射砲のようにしゃべりまくり、発想がどんどん広がって途方もないところまで達するそのネタは衝撃的なほど面白かった。素人目に見ても、この人たちが途中で不合格になるはずはない、と確信できるぐらいの安定感があった。
 その後、『タモリのSuperボキャブラ天国』(フジテレビ、1994—96年)への出演を皮切りに、爆笑問題は静かに着実に仕事を増やしていった。そのあたりから、自分のなかで爆笑問題は当たり前の存在になっていた。言い換えれば、特別な存在ではなくなってしまった。
 何しろ、爆笑問題はいつも当たり前のようにテレビに出ていて、どれを見ても間違いなく面白いのだ。教養系の番組からエンタメ色が強い番組まで幅広くこなす器用さがあり、どこに出ても自分たちの型を崩さない。
 ただ、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ、1981—89年)、『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ、1988—97年)、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ、1991—97年)のような、のちのちまで語り継がれる作品性が高いお笑い系の番組には、彼らは関わったことがない。
 だから、爆笑問題を見て笑ったり感心したりすることはあっても、「ワクワク、ハラハラ、ドキドキ」という感覚にはならない。「ここでいま伝説が作られている!」というような興奮を覚えたりはしない。私が彼らにそれを感じたのは『GAHAHAキング』が最初で最後だった。
 そんな自分にとっての爆笑問題は「ずっと解き忘れていた宿題」のようなものだった。夏休みの終わりの日に大量の宿題を前に途方に暮れる生徒のような気持ちで本稿に向かっている。
 2011年、一度だけ彼らにインタビュー取材をしたことがある。そこで印象的だったのが、2人がそろって「芸人になりたいと思ったことがない」「自分たちが芸人だという意識がない」と語っていたことだ。
 お笑い業界に何度かのブームが訪れて、芸人がテレビに出ていることが当たり前になったいまの時代、お笑いや芸人に関する情報はあまりにもたくさんあふれている。そして、「芸人だからこうしないといけない」「芸人はこうあるべきだ」といった価値観も多くの人が共有するところとなっている。
 そんななかで、爆笑問題はいわゆる「芸人」らしくないところがあり、のびのびとしているように見える。そして、そのことが、彼らを当たり前の存在としてテレビに定着させた要因なのではないかと思う。
 私たちの日常に溶け込み、日本の風景の一部になっている爆笑問題とは何者なのか。あくまでも一個人の視点から考察を進めることにする。



第1回 爆笑問題以前

太田光の少年時代

 太田光と田中裕二。この2人はどのようにして出会い、爆笑問題になったのか。太田の生い立ちからさかのぼって、「爆笑問題以前」の歴史を簡単にひもといてみたい。
 太田光は1965年、埼玉県で生まれた。父の三郎は彼に「light(光)」と「right(正しい)」の2つの意味を込めた「ライト」という名前をつけようとしていた。
 だが、当時コロムビア・トップ・ライトという漫才コンビが活躍していたため、母の瑠智子が「そんな漫才師みたいな名前はいやだ」と猛反対した。そこで、ライトを日本語に直して「光(ひかり)」という名前にした。そんな光が、のちに実際に漫才師になるのだから皮肉な巡り合わせである。
 三郎は建築家として設計の仕事に携わっていた。太田が幼い頃に住んでいた家も父親自身が設計を手がけたものだった。のちに三郎は建築会社を設立している。1976年には焼き肉店・叙々苑の1号店の設計を担当した。店内には、当時の焼き肉店としては珍しく、赤じゅうたんが敷き詰められていた。これも三郎のアイデアだった。また、書道家でもある三郎は「叙々苑」の書も自ら手がけていた。
 三郎は多才な人だった。若い頃には、太宰治に自作の小説を読んでもらったり、落語家の春風亭柳好に弟子入りしようとしたり、映画監督を目指したりしていた。文化的なことに対する関心が強く、物知りだった。
 母の瑠智子は、かつて劇団に所属して女優を志していた。芝居を見にいくのが大好きで、幼い頃の太田もよく連れていかれていた。太田が子どもの頃には、瑠智子が本の読み聞かせをしてくれた。女優を志していただけあって本を音読するのがうまく、太田はこれをきっかけにして物語の面白さに目覚めた。
 両親ともに文化的な素養があり、芸能に対する理解も深い。この家庭から太田のような人間が育っていったのは必然的なことだった。
 夫婦の関係にも特徴があった。三郎は気が弱く、瑠智子にだけは頭が上がらなかった。三郎は学徒出陣で戦争を経験していたが、「怖くて逃げ回っていた」と語るほど臆病なところがあった。車で家族旅行に出かけた際、目の前で殴り合いのけんかが始まったことがあった。けんかが終わったのを見届けてから、父は太田に「怖かったなぁ。ビクビクしちゃったよ」とこぼした。
 一方、母は気丈で口が達者だった。そのことで近所の人からも一目置かれていた。「ある団体」の人間が勧誘に訪れたとき、母は、こういう理由であなたの団体には入らない、と理詰めできっぱり反論してみせた。相手の勧誘員は圧倒されてしまい、「本当はあなたみたいな人にうちの団体に入ってほしい」という言葉を残した。
 太田光・光代夫妻が芸能界有数のおしどり夫婦であり、夫が妻に頭が上がらない関係であることは有名な話だ。しかも、夫は文化的な素養があって仕事はできるが、私生活ではおとなしくて弱気。妻は強気で頼もしく、口が達者。太田の両親と光・光代夫妻とでは、それぞれのパーソナリティーまでも不思議なほど似通っている。
 そんな両親のもとで、一人息子の太田はスクスクと育った。自分が考えた遊びを友達の間ではやらせたり、国語の時間の朗読でクラスメートを楽しませたり、学芸会では自分で脚本を書いたりしていた。小学生時代は恵まれた才能を生かして明るく元気に過ごしていた。

ビートたけしの衝撃

 そんな太田の人生の転機になったのは、中学2年生のときに『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送、1981—90年)を聴いたことだった。
 時は漫才ブーム、まっただなか。B&B、ザ・ぼんち、ツービートなど、若手の漫才師が次々にテレビに出てきて若者の間でスターになっていた。なかでも太田はツービートの漫才が大好きだった。
 1981年1月1日、太田がラジオ番組表を見ていると、『ビートたけしのオールナイトニッポン』という文字が目に留まった。自分が好きなツービートが、しかも自分が好きなたけしのほうが1人でラジオ番組を新たに始めるのだ、ということをこのときに知った。期待に胸を膨らませてラジオを聴いてみた。
「正月や モチで押し出す 二年グソ」
 たけしのその言葉から始まった新番組を聴いて、太田は「天地がひっくり返るほどの大混乱」に陥った。
 当時のたけしはすでにテレビの人気者だったが、ラジオではその持ち味を生かした毒舌マシンガントークを売りにしていた。「赤信号みんなで渡れば怖くない」「気を付けろブスが痴漢を待っている」に代表されるような攻撃的で挑発的なネタの数々。世の中のあらゆる偽善を笑い飛ばし、常識をひっくり返し、権威を否定する。その芸風は、純朴に育った太田少年のハートを打ちのめした。
 それまでの彼は、世の中で常識とされていることをそのまま受け入れるようなピュアな一面があった。萩本欽一がパーソナリティーを務めていた『24時間テレビ「愛は地球を救う」』(日本テレビ、1978年—)を見て感動して、素直に募金をしていたこともあった。
 だが、たけしに出会ったことで、その意識がガラリと変わってしまった。多感な時期にたけしという「毒」に触れたショックは大きかった。そして、たけしから学んだ物事の見方や考え方こそが、その後の太田を深い深い闇の奥へといざなうことになったのではないかと思う。
 というのも、その後の高校の3年間、太田には友達が1人もできなかったというのだ。内なる世界に閉じこもり、誰とも会話をすることなく、休み時間にはひたすら本を読んで過ごすようになった。中学までは友達もたくさんいて明るく楽しく生きていたのに、高校に入ってから急にそういう状況に陥った。
 入学式の日に誰とも話さず、その後にも自分からクラスメートに声をかけることができなかった。そして、声をかける機会を失ったまま、時間だけが流れていった。そうやって彼は1人になった。なぜそうなってしまったのか理由はよくわからない、と本人はのちに語っている。
 あえて推測するなら、たけしに出会い、価値観を大きく揺さぶられたことの影響は少なくないのではないか、と思う。
 当時の彼が悩んでいたのは、例えばこんなことだ。「自分もチャールズ・チャップリンのようにコメディー映画を撮ってみたい。しかし、それは自分が本当に心からやりたいことだと言えるのか? 他人に評価されたいからやりたいと思い込んでいるだけではないのか?」。いかにも青臭い、青春時代の問いである。
 感受性が鋭い人間は、このぐらいの年齢の時期にどうでもいいことに考えをめぐらせて、あれこれと思い悩んだりするものだ。それは繊細な人間だけがかかるはしかのようなものだろう。
 たけしという絶対的な存在に出会ったことで、それまで好きだったものや楽しいと思っていたことが素直に受け入れられなくなり、あらためて自分を見つめ直さなくてはいけない状況に陥った。そこで太田は自分の殻に閉じこもり、小説を読みあさり、思索にふけるようになったのではないか。
 たけしの毒が回ったのは太田だけではない。この時期、多くの若者がたけしという教祖に啓示を受けて、人生観が一変するような体験をしている。そのなかには、のちに弟子入り志願をしてたけし軍団に入ったり、芸人になったりする者もいた。太田もこの時点では、日本中によくいるたけしかぶれの若者の一人にすぎなかったのだ。
 ただ、そうやって孤立を深めながらも、太田は決して登校拒否はしなかった。学校にいかずに学校を否定するわけにはいかない、という信念のようなものがあったからだ。この独特の美意識のようなものが、太田の人生を貫く一つの柱になっている。太田はどんな状況からも逃げない。その場で責任を引き受けて、自分の頭で考えて、自分の力で行動する。ここに彼の正義がある。
 芸人になった太田は自らが書く文章で堂々と政治的な主張を繰り広げて、「芸人のくせに」とどれだけ揶揄されても、その筆を止めなかった。また、バラエティー番組ではどんなにスベってもおかまいなしで暴れて、しゃべり続けた。こういった芸人・太田光の行動や活動の根底には、高校時代から脈々と続く独特の美意識がある。
 それでも、ピンチはあった。高校2年生のとき、積もり積もった孤独感がピークに達して、精神的に極限まで追い詰められたのだ。自分の存在に意味が感じられなくなり、何を見ても感動できなくなり、何を食べても味がしなくなってしまった。
 そんなときに、ふと訪れた美術館でパブロ・ピカソの『泣く女』(1937年)を見た。衝撃が走った。その作品に込められた力が伝わってきて、一気に体中の感覚が戻ってきたのだ。複数の視点からの形を一枚の絵に収める「キュビズム」という手法で描かれたピカソのこの作品は、素人目にはその価値がわかりづらく、難解だと言われることも多い。だが、このときの太田は、これほど明白にわかりやすい絵はない、と感じていた。ピカソの圧倒的なまでの表現力によって、その絵に込められた思いがまっすぐに伝わってきたのだ。
「ああ! 何でもありなんだ」
 コメディー映画を撮りたいと思う自分もいれば、そのことで認められたいと思う自分もいる。どちらもあっていいし、どちらかを否定する必要はない。そういうふうに考えることができるようになって、肩の力が抜けた。
 その後も人と深く関わることはないまま高校生活が終わった。ただ、文化祭では一人芝居を披露するなど、表現者としての道がおぼろげながら見え始めていた。

田中裕二との出会い

 演劇と映画に興味があったので、日本大学芸術学部を受験することにした。実技試験は役者のオーディションのような形式で進められた。そこで太田は、3年間の鬱憤を晴らすかのようにはしゃぎ回った。歌って、騒いで、物真似をして、自分が明るく面白い人間であることをアピールすることだけに専念した。その結果、見事に合格を果たした。
 一方、同じ年にもう一人の男も日大芸術学部の門を叩いていた。田中裕二、のちに太田の相方となる人物だ。太田よりも1歳年上の田中は、中学の頃からラジオが大好きでアナウンサー志望だった。久米宏に憧れて、早稲田大学のアナウンス研究会に入ることを目指し、早稲田を受験しようとした。
 しかし、試験日を間違えてしまい、試験さえ受けられないまま浪人が決定した。その後、一浪した田中は日大芸術学部に入った。このときにはアナウンサーになりたいという夢も消えていて、何でもいいからテレビに出られればいいかな、というぐらいの気分になっていた。
 太田は、最初の授業の日、大学の中庭でサークル勧誘をする先輩たちをからかっていた。すると、小柄な男に声をかけられた。
「ねえ、アンタ受かったんだ! 受験のとき、目立ってたよね。演技コースでしょ? 俺もなんだ。もうガイダンス始まるよ、一緒に行こうよ」
 それが田中だった。気さくで親しみやすそうな人だな、というのが第一印象だった。お笑いや音楽などの趣味が合い、2人は意気投合して一緒に行動するようになった。英語の授業を抜け出したり、芝居の稽古をサボったり、いやなことややりたくないことがあると、そこから一緒に逃げることを繰り返していた。
 だが、太田は次第に不安を感じ始めた。田中は単なる明るくて気さくな人間ではなかった。変なところもたくさんあることが徐々にわかってきたのだ。
 田中が好きだと言っていた同級生の女性が、実は田中に好意を持っていたことが明らかになった。ところが、田中はそれを聞いても一切行動しようとしなかった。そのうちに彼女は別の男性と付き合うようになってしまった。なぜ彼女にアプローチにしなかったのか。田中にたずねると、意外な答えが返ってきた。自分のキャラクターに合わないからやめた、というのだ。田中いわく、自分はみんなのアイドル的な存在だ。そんな自分が特定の女性と付き合ったらみんなが悲しむはずだ。だから交際はしない、と。
 これだけではない。太田は、事あるごとに周囲の人間とぶつかり、そのことに悩み、自分の将来についてあれこれ思いをめぐらせていた。ところが、田中はいつまでたっても何も考えていないし、何も動こうとはしなかった。田中はそういう人間だったのだ。それでも、2人の付き合いはずっと続いた。
 あとから振り返ってみると、田中という「空っぽの人間」に出会ったことが、太田にとって最大の収穫だったと言える。太田は確固たる自分があるタイプの人間だ。自分の頭で考えて、行動する。
 一方、田中には「自分」がない。何も考えていない。やりたいことも目指すものも何もない。だからこそ、自分の未来を太田という才能に託すことができたのだろう。
 大学2年生のとき、一度だけ2人が芸人として活動を始めようとしたことがあった。大学の後輩に紹介されて、渋谷のショーパブで働くことになったのだ。そこでは、クレイジードッグスというグループが自分たちが考えたコントを観客に向けて披露していた。メンバーとしてそこに加わることになった。30分のショーを1日2回やるだけで1万円。毎日入れば月30万円稼げる破格の条件だと聞かされて、2人はこの話に飛びついた。太田はこの収入をあてにしてバイクを3年ローンで買い、田中は大学を辞めてしまった。
 実際にショーパブに出向いて見学してみると、そこでおこなわれていたコントは想像を絶するほど古臭く、空回りしているように見えた。太田と田中は、彼らを説得して、自分たちが考えたコントをやらせてもらえないかと交渉しようとした。
 ところが、その必要はなかった。クレイジードッグスのコントがあまりにも観客にウケていなかったため、太田と田中が加わる前にオーナーがショーをとりやめにして、クレイジードッグスはあっさり解散してしまったのだ。2人は一度も舞台に上がることがないまま、この話は立ち消えになってしまった。
 大学生活を続けるなかで、太田は「友達を作る」という自分のなかの最低限の目的は果たしたと感じていた。そこで、大学2年生のときに大学を辞める決意をした。「もう1年だけ通ってみて判断しろ」という父親の勧めで予定を1年延ばしたが、最終的にはあっさりと辞めてしまった。
 辞めてからも生活は学生時代とさほど変わらなかった。知り合いがやっている芝居を見にいったりしながらのんびりと過ごしていた。
 当時は小劇場ブームの時代。野田秀樹率いる夢の遊眠社、鴻上尚史率いる第三舞台などが人気を博していた。太田の周りにも劇団に入っている若者が大勢いた。太田は知り合いがやっている公演に出向き、内容がつまらないとボロクソに批判する、といういやがらせのような行為を繰り返していた。客席から大声でヤジを飛ばしたこともあったし、終演後にわざわざ楽屋まで行って文句を言うこともあった。
 そんなにいやなら見なければいいのに、という理屈は彼には通用しない。学校が嫌いでも登校拒否はしなかったというのと同じで、太田のなかには妙な正義感があった。実際に見ないで批判することはできない。自分の目で見てみて、つまらなければ容赦なく批判する。知り合いだからといってむやみに褒めたりお世辞を言ったりはしない。それが彼なりの正義だった。ただ、そういうときに批判された相手の反応は決まっていた。
「そういうお前は何をやりたいんだ?」
 これはこれでぐうの音も出ない正論だった。太田自身は、自分がやりたいことが見つけられずにブラブラしていたのだ。一度だけ劇団に入ってみたこともあったが、主宰者とそりが合わずにすぐに辞めてしまっていた。

「爆笑問題」デビュー

 23歳のとき、太田はテレビを見ていて、渋谷のラ・ママというライブハウスでお笑いライブがおこなわれているということを知った。そのライブは素人でも参加可能だという。出てみようかな、と思い立ち、同じように大学を辞めてブラブラしていた田中を誘った。そして、2人でラ・ママ新人コント大会のネタ見せに臨んだ。
 1988年3月、ネタ見せから1週間後にライブがおこなわれた。そこで爆笑問題は初めて人前で自分たちが作ったコントを披露した。進路指導室という設定で、先生役が太田、生徒役が田中。偏差値が15しかない底抜けのバカ学生である田中を、太田がひたすら口汚く罵倒するという内容だった。結果はまさかの大ウケだった。あとにも先にもあれほどウケたことはない、とのちに太田は振り返っている。
 このとき彼らが出たのは「コーラスライン」という新人の登竜門的なコーナー。観客はネタがつまらないと思ったらネタの途中で挙手をする。5人の手があがったらそこでネタは強制終了となる、という厳しいシステム。途中でネタを打ち切られる芸人も多いなかで、爆笑問題は文字どおりの「爆笑」を起こし、15分のコントを最後まで演じきった。
 爆笑問題が人前で演じた最初の作品は、なぜそんなにウケたのか。おそらく、その内容が図らずも彼らのそれまでの人生の集大成のようになっていたからだ。
 教師がバカな生徒をネチネチといびり倒すというネタの内容には、ビートたけしの影響がありありと感じられる。ただ、それだけではない。
 このコントでの太田と田中のキャラクターは、いまの私たちがテレビを通して目にしている2人に近いところがある。太田は田中のダメなところをチクチクと責め立てて笑いをとろうとするし、田中はそんな自分の欠点を気にするそぶりも見せない。だからこそ、2人の演技に不自然さがないし、太田の言葉には力がこもっている。
 教師役の太田が罵詈雑言を浴びせている本当の相手は、人間として欠陥だらけの田中裕二であり、やりたいことが見つからず悶々としていた過去の自分であり、それを認めてくれなかった世の中である。
 面白いネタを作るには芸歴は関係ない。自分たちに合ったものを見つけられるかどうかだ。太田のなかには、高校時代からずっとマグマのようにたまっていたドロドロした思いがあった。彼は、コントを作って演じることで、それを適切な形とやり方で表現することに成功したのだと思う。
 爆笑問題としての初舞台は大成功に終わり、その場にいた芸人や業界関係者の間にも衝撃が走った。2人はライブが終わってすぐに太田プロのマネージャーにスカウトされ、事務所に入ることが決まった。そして、その直後に『笑いの殿堂』(1988—89年)というフジテレビの深夜番組への出演依頼が舞い込んできた。
 初めて人前で演じた一本のコントで、所属事務所が確定して、テレビ出演まで決まってしまった。前代未聞の成り上がりである。
 こうして結成までの経緯をたどってみると気づくことがある。爆笑問題はなぜいつまでも青臭くて、学生臭いのか。それは、彼らが初舞台ですぐに評価され、テレビの世界に出ていったからだ。いわば、彼らは世に出る準備をする暇もなく、学生気分のままでプロの芸人になることに成功してしまったのだ。
 自分たちが「素人」であることを売りにしてスターダムにのし上がった芸人といえば、とんねるずが有名だ。とんねるずは爆笑問題よりもひと足先にテレビの世界で名をなしていた。彼らの芸から感じられるのは「運動部の高校生が部室で暴れている」という雰囲気だ。
 一方の爆笑問題には「文化系大学生の悪ノリ」という感じが漂っている。大学生なので運動部の高校生よりも落ち着きはある。根は真面目で純朴なのに、友達同士で盛り上がり、ちょっと調子に乗ってはしゃいでいるだけなのだ。その純粋培養された垢抜けない感じは、現在でも爆笑問題の2人の大きな魅力になっている。
 幸か不幸か、爆笑問題は下積みの苦労をすることなく、地下のライブ界から地上のテレビ界へと一気に上がっていった。
 爆笑問題の芸人としての歴史はここから始まった。金も地位も野心も持っていなかった2人の若者が、「テレビ」と「お笑い」という得体が知れない世界に一歩踏み出した瞬間だった。

参考文献
太田光『天下御免の向こう見ず』(幻冬舎文庫)、幻冬舎、2004年
太田光『ヒレハレ草』(幻冬舎文庫)、幻冬舎、2004年
太田光『三三七拍子』(幻冬舎文庫)、幻冬舎、2004年
太田光『爆笑問題太田光自伝』(小学館文庫)、小学館、2001年
太田光『今日も猫背で考え中』(講談社α文庫)、講談社、2016年
太田光文、田中裕二紙粘土『爆笑問題集』(Tokyo news mook)、東京ニュース通信社、2008年
新井泰道『叙々苑「焼肉革命」』(角川新書)、KADOKAWA、2016年

 

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